Chapter 4〜マイケル・ヘラパス


レパード号は貿易風を捉え、大西洋を赤道に向って快調に帆走していた。艦の日常がすっかり落ち着いた中、ミセス・ウォーガンはスティーブンと毎日艦尾楼を散歩していた。艦にはもう彼女にちょっかいを出す者はいなかった。艦長は彼女を見たり声を掛けたりすることを固く禁じていたし、何より、艦の皆は彼女はドクターのものだと思っていたからだった。誰もドクターと争いたくはなかった。

彼女はドクターの「private property(私有財産)」と思われているそうで…それってどうよ。レパード号の乗組員には昔からの仲間が多いので、ドクターは決して敵に回してはいけない人だというのは、みんなわかっているんだな。

ある晴れた波の穏やかな午後。艦長は少し離れたところから艦の状態をチェックし、ついでに水泳をするためにボートを出させた。新米水兵のマイケル・ヘラパスはマストの登り方を練習したいと思い、ベテラン水兵に頼んでロイヤル・ヤード(一番高い帆桁)まで連れて行ってもらった。彼はそこからの海の眺望に感動するが、そのとたんに手を滑らせて落ちる。帆にぶつかって弾んだので甲板への激突は免れたが、彼は真直ぐ海に落ちて行った。ジャックはすぐにボートから飛び込み、かなり深いところまで沈んでいた彼を引っ張りあげた。「みんな静まれ。プリングズ、この大騒ぎをやめさせろ。ドクターを呼べ。まったく、人が落ちるといつもこうだ…」

その時ドクターは、ミセス・ウォーガンと艦尾楼を散歩していた。ミセス・ウォーガンがこちらを見ているのに気づいて、ジャックは少年のように赤くなった−彼は全裸だったからだ。

この件は水兵たちの間でしばらく話のタネになったが、艦長が溺れる者を救ったこと自体は、当然のことのように思われていた。艦長が既に20数人を海から引っ張り上げているのは、海軍中に知れ渡っており、現にレパード号にもそのうち2人が乗艦していた。その1人、ボルトンという水兵はヘラパスに嫉妬を感じ、彼の悪口を言い散らしていた。

水兵たちはヘラパスの容態については心配していなかった。ドクター・マチュリンの手にかかればどんな患者でも助かる−というのも、彼らの間では当然のことと思われていた。何しろ、彼はただの軍医ではなく本物の医者で、プリンス・ビリーも治したのだから。


ボルトン水兵は元ポリクレスト号で、2巻9章で海に落ちたところをジャックに救出された水兵です。それ以来ジャックを慕ってついて回っているようですが、ジャックにとってはありがたいような、迷惑なような…彼はオーブリー艦長に救出されたことを「特権」のように思っているらしく、その特権を分かち合う人間が増えるのは癪なのです。

「プリンス・ビリー」というのはプリンス・ウィリアム、当時の国王の三男でクラレンス公爵とも呼ばれる人です。この人をスティーブンが診察した話は4巻1章に出てきます。

レパード号はベルデ岬諸島のポルト・プラヤに寄港する。ジャックはソフィーに手紙を書く。「航海は順調だ…スティーブンは前より落ち着いた感じだ。女囚の1人がダイアナに似ているって書いたけど、よく見るとあまり似ていない。スティーブンにはすぐ違いがわかったんだな。ダイアナほど背が高くないし、鋭い感じがしない。それによく笑うんだ。ダイアナが大笑いしているところなんて見た事がないからね…

…この機会に二等海尉のグラントとよく知り合おうと思って、一緒に上陸したんだが、余計にこじれてしまったみたいだ。彼とはうまくいっていない。彼は僕より10歳以上年上で、優秀な士官なんだが、自分の考えを通したがる。1つの艦に艦長は1人でいい。スティーブンも同意見だと思うけど、彼とは他の士官の話はできない。こういうことを話せるのは君だけなんだ。でも、ほとんどの乗組員はいい奴ばかりだから、こんなことを言うのは贅沢だけどね。難しい艦長たちを部下に持って艦隊司令官をやった後では、ほとんど骨休めのようなものだよ…

…キンバーに、出費は最小限に抑えるように言ってくれ。子供たちにキスを…」


178cmかどうかはともかくとして、ダイアナが「背が高い」というのは間違いなさそうですね。がっくし。

年上の部下というのは、何かと難しいものですね。それでも4巻の部下たち(クロンファートさん、コーベットさん…)よりはずっと楽だと。

スティーブンは日記を書いていた。「…グラントはJAを嫌っている。彼は海戦に遭遇したことがないようだ。ジャックが水泳のために服を脱いでいた時、士官候補生たちが彼の傷跡を尊敬の目で見ていた。グラントは口惜しそうに、『あんなの、ただの運だ。見せびらかす傷がないからと言って、勇気がないとは限らない。父親が将軍だったら、私もとっくに勅任艦長になっている』と言った。JAへの当てこすりだ。不当に昇進の機会を奪われたのは事実だろうが、彼には謙遜と言うものがない。彼の話を聞いていると、彼が自分でオーストラリアを発見したのかと思うほどだ…

ヘラパスの事は分かってきた。彼はミセス・ウォーガンへの愛のために密航したようだ。彼がウォーガンの部屋の前にひざまずいて、ドアごしに話をしているのを見た。明らかに、2人は長い知り合いだ…

僕がアイルランド人で、国の独立を願っていること、植民地政策に反対していることを知って、ウォーガンは僕を信用し始めている。このレパード号が以前にアメリカ艦チェサピーク号を襲った事件について話し、僕が怒りを感じていると言ったら、彼女は目を輝かせ、いまにも秘密を話しそうな顔をした。でも、焦らずゆっくり進めようと思う。彼女から引き出せる情報は上司の名前ぐらいだろうが、それでも充分価値がある。英国がこのままの態度を続けるのなら、アメリカとの開戦は避けられないだろうから。この件では、ヘラパスも利用できるかもしれない…」


スティーブンって、悪辣……いやいや、これも任務のためよね。

レパード号とチェサピーク号の一件についてもう少し解説:
1807年、レパード号のハンフリー艦長は、英国海軍からの脱走兵を捜せという指令を受け、アメリカ海軍のチェサピーク号を止め、艦の捜索を要求した。チェサピークの艦長はもちろんこれを拒否。しかし、その時英国とアメリカは交戦状態になかったので、チェサピークはまったく戦闘準備をしていなかった。そこへレパード号は不意打ちで砲を撃ち込み、降伏に追い込んで、アイルランド出身のアメリカ市民を含む水兵たちを連れ去った。この戦闘で数名のアメリカ兵が死んだ。この事件はアメリカ国民の怒りをかき立てた。

レパード号はポルト・プラヤを出航した。スティーブンは囚人の病室を回診する。3人に原因不明の微熱が続いていた。次に彼は水兵の病室でヘラパスを診察する。海に落ちた後遺症はなかったが、ロープで擦り剥けた手が治っていないのと、ひどい栄養不足が問題だった。ヘラパスは艦長にお礼を言いたいとスティーブンに相談し、スティーブンは彼の手紙を艦長に届けることを承諾した。

スティーブンとウォーガンがいつものように艦尾楼を歩いていると、艦長室の天窓からジャックの大声が聞こえた。彼は海兵隊長のムーア大尉を叱責しているようだった。「…女囚とはいかなる接触も禁ずると命令したはずだ。ところが、この命令に背いた士官がいる。君の部下の少尉が、兵器係を買収して彼女の部屋の鍵を作らせようとしたそうだ。あのいまいましい女を乗せて1ヶ月航海したら、このざまだ!これからまだ半年もあるんだぞ!」艦長は怒鳴った。

艦長は次にハワード少尉とバビントンを艦長室に呼びつけ、厳しい叱責を続けた。ジャックの大声は天窓から艦尾楼にまる聞こえだった。スティーブンは彼女の気をそらそうと、近くの島を指差して「ほら、あの煙。あれがファーゴ火山です」と言った。ウォーガンは「私たち、火山を見ただけじゃなくて、火山の爆発を聞いてしまいましたわね」と答えた。

後でスティーブンが艦長室へ行くと、ジャックは疲れた顔をしていた。「怒るのは疲れるよ。連中はミセス・ウォーガンに恋文を送っていたんだ。士官候補生たちときたら、彼女の部屋の障壁に穴を開けて、着替えを覗いていた。全員、けつを引っ叩いてやる。何もかも、あのくそ女のせいだ。いなくなったらどんなにすっきりするか。女なんか大嫌いだ。」「彼女のせいじゃないだろう。ジャック、僕は彼女に自由に近づけるようにしてほしい。」「スティーブン、君もか?」「誤解するな。」スティーブンは声を低くした。「実は、彼女の逮捕は諜報活動にかかわっているんだ。こういう事に関しては、なるべく黙っていた方がいいから、今まで話してなかったんだが…」

「『黙っている方がいい』か。そうなんだろうな」ジャックはスティーブンを信頼していたが、それでも何か釈然としない気持ちだった。彼は黙ってバイオリンを取り上げ、弾き始めた−その音色は、言葉より雄弁に彼の心を語っていた。「すまない、ジャック…好きでやっているわけではないんだ。」スティーブンがそう言うと、音楽の調子が変わり、曲は明るいピチカートで終わった。


ここのところ怒鳴ってばかりの艦長。人間噴火山になってます。女が嫌いだなんて言ってますが、彼の女嫌いは艦から一歩外に出たら完治するでしょう。

話すよりバイオリンを弾くほうが表現力豊かなジャック。でも、やっぱり分かりやすいのよね(笑)。

翌日、ジャックは士官集会室の午餐に招待された。昨日の叱責のせいで士官たちが沈んでいるのではと心配したが、意外に話が弾み、楽しい食事になった。しかしグラントが、赤道を通過する時の航路について艦長に異を唱えて譲らなかったので、気まずい雰囲気になった。「あなたは何度赤道を通過しました?」プリングズがグラントに聞いた。「二度だ。」「オーブリー艦長は20回以上通過していますよ。」プリングズは指摘した。その時、マーティンの使いがスティーブンを呼びに来た。

スティーブンが囚人の病室に降りると、マーティンは黙って患者を指差した。「何てことだ。」熱を出していた3人の患者は、体中を赤紫色の発疹に覆われていた。もう間違いない−監獄熱(発疹チフス)だ。

翌日の夜明けまでに、患者は3人とも死んだ。自室に戻りながら、スティーブンは艦の動きと音がぱたりと止むのを感じた。レパード号は、無風地帯に入ってしまったのだ。


発疹チフス:シラミによって媒介される。発熱、頭痛、悪寒、脱力感、手足の疼痛を伴って突然発症する。熱は39〜40度に急上昇する。発疹は発熱第5〜6日全身に拡がる。発疹は急速に暗紫色の点状出血斑となる。患者は明らかな急性症状を呈するが、発熱からおよそ2週間後に急速に解熱する。重症例の半数に精神神経症状が出現する。

発疹チフスは監獄で猛威を奮ったので、監獄熱(gaol fever)と呼ばれたそうです。絞首台より多くの人を殺したとか。シラミで感染するっていうのは、20世紀になるまでわかっていなかったようです。