Chapter 5〜監獄熱


無風地帯。そよりとも風の吹かぬ海の上、レパード号は身動きもとれぬまま、自らの汚物と空の樽に囲まれ、灼熱の太陽に照らされて立ち往生していた。暑さと病気と恐怖が、乗組員たちを打ちのめしていた。一度、鯨の群が通りかかったが、艦長はドクターを呼びにやることはしなかった。彼は病室にこもったままなのだ。

疫病の発生が明らかになると、スティーブンは乗組員をボートに避難させ、艦全体を硫黄で燻蒸消毒した。その後、艦首部分を隔離病室にして封印させ、患者とマーティンと共にそこにこもっていた。その努力も空しく、すでに14人の囚人が死に、水兵たちの間にも感染が広がっていた。

ようやく薬の効果が現れ、回復する患者も出ているにもかかわらず、病気を恐れるあまり、発病したとたんに生きる気力を失って死んでしまう水兵が続出していた。トム・プリングズも発病した。「トム、君がいつか提督旗を揚げることに百対一で賭けるよ。諦めちゃいけない。」スティーブンは言った。

彼が甲板に出てくるのは葬儀の時だけだった。彼は決してメインマストより艦尾方向には行かず、ジャックと10ヤードほど離れたまま言葉を交わした。やがて、助手のマーティンも発病した。


3巻でスティーブンが落ち込んでいた時、ジャックは「彼の気を紛らわすために疫病でも発生してくれないか」なんて罰当たりなことを考えたりしていましたが…発生してしまいました、疫病。たしかにスティーブンの気は紛れているようですが、それどころではないようで。

それにしても当時の航海って、たとえ戦争がなくたって、いろんな危険が一杯の大冒険なんだなあ、と実感します。3巻と4巻におけるこのあたりの航海が、すいすいと楽しそうだったのが嘘のようです。

マーティンが倒れたので、スティーブンは代わりにヘラパスを助手にする。彼はいい助手だった。患者の多さに、ついに薬箱は底をつき、気休めの偽薬を出している状態だった。それでも、スティーブンは必死の看護を続けていた。看護こそが、我々の戦いの半分を占めているのだ、と彼はヘラパスに言った。マーティンは疫病自体は乗り越えたにもかかわらず、弱った身体が肺炎を起こして死んだ。それは果てしない戦いに思えたが、カレンダーでは23日間しか過ぎていなかった。23日後、レパード号は再び風を捉えた。

スティーブンはあまりに疲労困憊していたので、艦が動き出した事を喜ぶ気にもなれなかった。彼は座ったまま眠り、目覚めると、艦は別世界になっていた。通気筒から新鮮な空気が流れ込み、艦は生き返っていた。

キリックが艦首に駆けて来て、コーヒーと堅パンを決められた場所に置き、また艦尾へ逃げ戻った。スティーブンが「艦長はどうしている」と声をかけると、「貿易風を捉まえたって言って、子供みたいに笑ってましたよ。」とキリックは答えた。

患者たちも元気を取り戻していた。その日、ついに新たな患者が途絶え、その後には死者は3人しか出なかった。しかし、スティーブンは慎重を期し、それから1週間待ってから隔離病室を開放した。

「ジャック、艦長室の寝台を借りていいかな?天窓の下で思い切り眠りたいんだ。身体中せっけんで洗ったから心配ないよ。疫病は終わった。」彼は艦長室の鏡をのぞきこんだ。やせ細った顔は3週間分の髭に覆われ、自分の顔とも思えない。「この髭、伸ばしたままにしておこうかな?ローマ皇帝は髭を伸ばしていた。」他の時なら、ジャックはローマ皇帝と海軍軍医は違うことを指摘しただろうが、今は黙っていた。スティーブンは彼に「ヘラパスを助手にしたい」と頼む。ジャックは軍医助手にするには、海軍の規約上まず士官候補生に任官しなければならないことを説明する。しかし気がつくとスティーブンは座ったまま眠り込んでいたので、彼は静かに部屋を出て行った。


髭の伸びたやつれたスティーブンの顔は「長さのないエル・グレコ」という感じだったそうです。スティーブンはそもそもの初めから痩せている上に、「ますます痩せた」とか「やつれた」とか書かれることはあっても、「前より太った」と書かれているのは記憶にないような。痩せる一方なのか?ジャックの方はと言えば、痩せたり太ったりしながらだんだん太ってゆくような。(<…うっ、心が痛い…)

しかしジャック…寝台で寝かせてあげなくていいのか?

スティーブンは結局、しばらく髭を剃らずに過ごすのですが、ミセス・ウォーガンを守っているつもりのバビントンの犬に「怪しいやつ」と吠えられたりしてます。

ジャックはヘラパスを呼び、彼は士官候補生に任官することを伝える。それに対して、ヘラパスは自分がアメリカ市民であることを告白する。外国人の場合は海尉にはなれないが、士官候補生になることには問題はない、とジャックは言った。「君は英国の敵と戦うことができるか?」とジャックが聞くと、ヘラパスは「それがアメリカ合衆国でなければ、全力で戦います」と答えた。

監獄熱による死者は、乗組員三百数十名のうち116人に上っていた。囚人は、女囚3人の他には3人しか生き残っていなかった。発病した者のうち、回復に向っているのは65人。働ける乗組員は約120人しかおらず、ジャックは当直の人員配置に頭を悩ませていた。

スティーブンは、薬が底をついた状態では回復期の65人についても責任が持てないと言い、最寄の港に寄港することを主張した。ジャックはブラジルのレシフェに寄港することを決心した。


さて、ずっと患者につききりだったスティーブンが、どうして監獄熱に感染しなかったのか?神のご加護、無敵の強運…でもいいんですが、彼は昔どこかの監獄で感染したことがあって、免疫を持っていた−という説もあります。

艦がレシフェに近づいているある日、スティーブンはヘラパスに「僕は忙しいので、代わりに女囚を運動させに連れて行ってくれ」と頼む。その日の艦尾楼からは、ミセス・ウォーガンの陽気な笑い声がいつもより頻繁に聞こえ、艦尾甲板で働く男たちも思わず笑みをもらした。

スティーブンはレシフェで上陸させる重症者のリストを作っていた。ジャックはその中にトム・プリングズが入っていなければいいと願った。これから先、副長がグラントでは…しかし願いは空しく、彼の名はリストの筆頭にあった。

スティーブンはウォーガンに、レシフェで郵便を出すので手紙を書いていいと言った。「さて、何が書いてあるかな」スティーブンがつぶやくと、ジャックは思わず顔をそむけた。戦争の手段だと分かっていても、彼は私信を盗み読みすることへの嫌悪感を隠せなかった。


トム・プリングズくん、やっとジャックの副長になったのに、航海半ばにして入院することになってしまいました…そして副長はグラントさんに。このグラントさん、再読していていちいち腹が立つんですよねー。とっても嫌なやつです。2巻のパーカーさんでさえ、これほど腹は立たなかったのに…

患者たちを上陸させるシーンで、ある水兵が命を助けてもらったのに、長い年月をかけて伸ばしたピグテイルを切られてしまったのでスティーブンに対して怒っているのがおかしかったです。(髪は男の水兵の命…)熱を冷ますために頭を剃りあげるっていうのも凄いですけど。

ミセス・ウォーガンの手紙を手にしたスティーブンは、それがダイアナ宛だったことにショックを受けた。形跡が残らぬように封を開く彼の手が震えた。もし、ダイアナの有罪を証明する手紙だったら…

しかし、手紙の内容は他愛のないものだった。彼女は友人との突然の別れを悲しみ、警官が来た時にうろたえてピストルを発射してしまったために、このような運命になった…と書いていた。「…航海の最初のうちは、疫病があったりして大変でしたが、今はましになりました。軍医と友達になったの。醜い小男で、自分でも気づいているらしく、髭で顔を隠しています。でも、何にでも慣れるもので、彼との会話は楽しみになっています。彼は独身で、おそらく傷心を抱えているのではないかと思います。学のある人によくあるように、常識のない人で、1年もかかる航海にハンカチを1枚も持ってきてないのよ。今、作ってあげているところです。彼に情が移っているみたいで、部屋にノックがあった時、来るのが彼じゃなくて牧師だったらがっかりしてしまいます。牧師は説教をしに来るのですが、下心がみえみえです。聖書と下心の組み合わせは、アメリカで見飽きているわ…」

彼は何度も読み返したが、暗号が隠されている様子はなかった。明らかに、艦長に手紙を検閲されるのを予想しているのだろう。もし知られたくない手紙があるなら、ヘラパスに頼むだろう。しかし彼は念のために写しを取り、サー・ジョセフに送る準備をした。

レパード号はレシフェに到着した。スティーブンは患者を上陸させ、薬を買いに行った。ヘラパスが上陸したいと言ったが、今回は乗組員の上陸は禁止されていた。「それでは、これをアメリカ領事館に届けてくれますか?」ヘラパスはスティーブンに手紙を預けた。

スティーブンはミセス・ウォーガンの手紙に隠された暗号を発見した。サー・ジョセフの下の暗号専門家が、送った写しから素晴らしい成果を引き出してくれるだろう…


ウォーガンさん、"ill-looking little man"は言い過ぎだろー。他に訳しようがないじゃないかー(泣)。しかし、ダイアナはこれを読んで何と思うんだろうか。いやその前に、スティーブンはこれ読んでどう思ったのかね。(そのへんのことは書いてないんですが。)あ、ついでに、この牧師はグラントさんと仲良しで、やっぱり嫌な奴です。

蛇足の蛇足:たぶん、ヘラパスに預けられた手紙と合わせてみたら暗号がわかったってことだと思います。

レシフェで、レパード号は英国海軍のニンフ号と会った。ニンフ号は喜望峰から急送便を持って本国に向っていたが、赤道近くでオランダの74門艦ワークザームハイド号と遭遇し、短い戦闘で損傷を負ったが、やっとのことで逃げて来たのだ。ワークザームハイドは性能のよい艦で、有能な艦長が乗っている−出くわさないように注意しろ、とニンフ号の艦長は言った。

オランダ艦の名前はWaakzaamheid。名前からして恐ろしげな…(いや、オランダ語独特のこのaを二つ重ねる綴りが、なんとなく禍々しい感じがするのですよね。「ワ〜〜クザ〜〜ムハイド」とでも読みたくなるかんじ。)「Alert(警戒)」というような意味らしいです。