Chapter 8〜氷山


ジャックはぼんやりと寝台に横たわっていた。ワークザームハイド号が波に呑まれる姿は、彼の心を不思議な悲しみで満たしていた。

スティーブンが怪我について説明した−頭に食い込んだのは、敵の弾が艦尾に命中して飛ばした破片だ。傷は残るが、後遺症はないだろう−「ネルソンと同じ傷だ」とスティーブンが言うと、ジャックはにっこりした。「脚の傷は大した事はない。」「脚?脚がどうしたって…何てこった、脚の感覚がない!」「落ち着け。切断しないでも大丈夫そうだ。」「君の首はどうしたんだ?怪我したのか?」「これはミセス・ウォーガンが編んでくれたマフラーだ。赤い色は温かさを強調するんだそうだ。」「お産はどうなった?」「帝王切開になった。大変だったよ。子供は女の子だ。ミセス・ウォーガンが見てくれている。」

そこへ「報告に行っていいか」とグラントが訊いてきた。スティーブンは「艦長は休息が必要だ。今、心を乱すのは良くない」と答えた。「彼は正気を失っているということですか?」「そんな事は言っていない」まるで、そう望んでいるようなグラントの態度に、スティーブンは腹を立てた。


どんな時でも−どんなにシリアスな状況でも、この2人の会話って楽しい。お互いを気遣う心がこもっている−けど、どっかずれているところが。

ジャックはいつも、海戦の後には憂鬱に沈んでいることが多いのですが(それをblue devilsと呼んでいる)、今回は特にひどいみたい。自ら望んだ戦闘ではなかった上に、相手が全員死んでしまったことがこたえているようです。

翌朝目覚めた時は、ジャックはしっかりしていたが、酷い頭痛と吐き気に苦しめられていることはわかった。スティーブンは、暖かい服を着てしかるべき介助をつければ、甲板に出てもいい。グラントの面会も許可する、と言った。「副長なら、起きてすぐ呼びつけたよ。おれの許可なく針路を変えるとは何事か、とね。あいつの声の大きいことときたら…」その時、氷山を発見したという報告が入った。

グラントさんは、優秀な船乗りなのに出世できなかったことについて、陰謀だとか良家の出身じゃないからとか色々理屈をつけているようだけど、私が思うに−「頭が痛い人と話すとき声を低くする気遣いもない人に、艦長になる資格はないよ。」

艦長のために時鐘は消音され、艦は静まり返っていた。艦長はすやすやと眠り続けた。

「甲板に出る時は、くれぐれも暖かくして下さい、近頃、あなたは顔色が良くない」スティーブンはミセス・ウォーガンに言った。「まあ、ご自分の顔色をご覧になったことがあって?」彼女は笑った。「あなたは赤ん坊の世話が上手だ。」「赤ちゃんは大好きですの。ドクター、ずっと前に、妊娠の可能性があるかどうかお訊きになりましたよね?今訊かれたら…答はイエスです。」スティーブンは彼女を診察し、まだ断定は出来ないが、体に気をつけるように言った。「あなたは何もお訊きにならないのね…何とお礼を言ったらいいか分かりませんわ。」感謝と信頼に溢れた彼女の目を見るに忍びず、彼は顔をそむけた。「艦長が死にかけているという噂は本当ですの?私、艦長のためにお祈りしますわ。」彼女は言った。


ドクターが何も訊かないのは、父親が誰か訊かなくてもよーく知っているせいでもあるんですが…まあ、そうでなくても彼は訊かないでしょう。医者としても、人間としても。諜報員としての人格だけはちょっと違うのだけど。

ミセス・ウォーガンが「ドクターはいい人」と思っているのは、騙されている面もあるけど、正しくもあるところが複雑…

翌朝目覚めた時には、ジャックの痛みはだいぶましになっていた。彼は甲板に上がり、正午の観測を監督した。行く手には氷山の群が見えていた。水兵たちは艦長の無事な姿を見て安心した。しかし、負傷した脚がよろけ、彼はばったりと倒れた。彼は立ち上がり、額から血を滴らせながら、苛々とグラントに命令した−「ボートを出して氷を集めろ。」

ワークザームハイド号から逃れるため、レパード号は大幅に東へ来てしまっていた。ジャックはこのまま喜望峰へは寄らず、偏西風に乗って真直ぐオーストラリアへ向うことにしていた。「水はどうするんだ?捨ててしまったのに」スティーブンが訊くと、ジャックは戦闘以来初めて笑顔を浮かべた。「真水なら、沢山浮いているじゃないか。」

スティーブンが望遠鏡で氷山を観察していると、霧が濃くなってきた。氷を集め終え、艦は霧の中を氷山から離れた。

スティーブンが下層甲板に下りようと梯子に足をかけたとたん、艦に衝撃が走り、彼は梯子の下まで放り出された。甲板に上がってみると、乗組員たちは右往左往し、霧の透き間に巨大な氷の壁が見えた。「帆を上げろ!ポンプにつけ!」艦長の大音声が氷に響くと、混乱は治まった。「舵、中央!」「舵が効きません」バビントンが答えた。「舵板が外れ落ちたようです。」


このへんのジャック、痛々しい…今までも海戦の度に怪我をしてきたジャックですが、今回は、怪我してるのにゆっくり寝ていることもできないのがツラい。せめて副長がプリングズなら、こんなに張りつめていなくてもいいだろうに。

舵板が外れた事より深刻な問題は、喫水線下に穴が開き、しかもその穴を発見できないことだった。レパード号は砲を捨て、せっかく積んだ氷を捨て、食糧を捨て、できる限りの手段で艦体を軽くした。一方で、乗員全員が総出で(スティーブンも参加して)ポンプを漕ぎ続けた。ジャックはフォザーリング・セイル(穴を塞ぐために舷側に降ろす帆布)を流し、破損箇所を探していた。夜も昼も、ポンプは休みなく漕がれたが、ビルジ・ウェル(あか水溜め)の水位は上がる一方だった。

たまに傷の手当てをする他は、ポンプを漕ぎ、眠り、漕いで、眠る−この繰り返しの中で、スティーブンは時間の感覚を失っていた。冷たい雨の中で延々と続く重労働に、乗員たちは驚くほどよく耐えていた。しかし、いつまでもつか…既に最下甲板は海水が満たしている。希望は消えかけていた。まだよく動けないジャックは、ボンデンの腕にすがって歩き回り、ポンプについた男たちを励まし、頭をしぼって穴を見つける方法を考え続けた。

スティーブンはジャックの怪我を手当てし、彼を寝かせた後、ボンデンに訊いた。「あとどれぐらいもつ?」「今日一日もつかどうか。副長はこの艦はもうすぐ沈む、艦長は正気じゃないって言って、すぐにでもボートを出す気です。艦長をよく知らないやつらが、副長を信じ始めてます。」


このフォザーリング(fother)について調べようと思ってぐぐってみたら、ヒットしたもののほとんどが「father(父)」の綴り間違いだったのには笑いました。「Sea of Words」(オブライアン専用の用語集)によると−fother:船の舷側沿いに帆布を降ろすことによって漏れ穴を塞ぐこと、波によって帆が穴に吸い込まれるような場所に降ろすこと

「艦長、ボートを出します。手は尽くしました。艦は沈みます。」グラントが言った。「私は艦を離れる気はない。まだ救えると思っている」ジャックは答えた。「しかし、もう水兵たちを従わせることはできません。ボートで喜望峰まで行くのは可能です。」ジャックは考えた−何を言っても、もうグラントを従わせることはできないだろう。「艦は必ず直る。直らなくても、私は艦を離れない。しかし、君は自分が正しいと思うことをしろ。ボートを出すことを許可する。充分な食糧を積んで行け。」ジャックは言った。

喜望峰まで1300マイルもある。しかし、彼らは行くだろう…もう何をしても止める事はできない。「スティーブン、もし行くのなら、どうか暖かい服を着て行ってくれ。」「君は行かないのか?」「おれは艦に残る。しかし、義理を感じることはない。好きなように選んでくれ」「なあ、これは僕自身じゃなく、書類のために訊くんだが…はっきり言って、どちらが良い方法だ?」「おれは艦の方だと思っている。しかし、ボートも生き残る可能性はある。もっと長い距離を行ったボートの例もあるし、グラントは優秀だ。」「それなら、写しの方をボートに預けよう。」スティーブンは急いで書類の写しをとった。ジャックはグラントに預けようと、海軍省とソフィーに手紙を書いた。その時、今までどこか距離を置いて見ていた残酷な現実が、苦痛が−彼の心に一気に押し寄せた。

艦は混乱状態だった。今まで耐えてきた水兵たちはついに爆発し、酒蔵を襲い、泥酔した。ボートで去る者、艦長への忠誠心と信頼から艦に残る者。別れは醜い混乱となり、ボートから落とされて溺れる者も続出した。ジャックはグラントと握手し、手紙を渡し、幸運を祈って別れた後、艦長室にこもった。

スティーブンは艦尾手摺でボートを見送った。あちこちのボートから「乗りませんか」と声が掛かったが、彼は首を振った。最後に何人かが気を変え、艦から飛び込んでボートへ泳いだ。最後に見えたのは、ボートに乗り込もうとする者たちと、それを突き落とそうとする者たちの影だった。


わざわざ書くのも野暮ですが、スティーブンは生き残る可能性がどうあろうと、ジャックのそばを離れる気はないんです。(ジャックは怪我してるし。)ただ、重要書類については「英国に届く可能性が高い方に原本を、低くても可能性があるならそっちに写しを」と思って、どちらの可能性が高いか訊いている。…別に、命より書類が大事というわけではなく、自分自身は「ジャックが残るなら残る」と、当たり前のように決めているので、訊く必要はないし、わざわざ言う必要もないというだけ。

もし私がレパードの乗員なら−ジャックに義理を感じていなくても、艦に残るなあ。殺気立った人間で満員のボートでサバイバルより、信頼できる人たちと一緒に沈んで行く方がまし。真っ先に死ぬタイプかな、私。というより、「ぼーっとしている間に、ボートは行っちゃった」というタイプかも。でも、何と言っても、私なら緊急事態には、なるべくジャックにくっついてますね。どんな状況でも何とかしてくれそうだし。

後から来た者を突き落としたりしているのに、スティーブンには「乗りませんか」と声をかけているのは、やっぱり「医者がいたら役に立つかも」と思っているんでしょうね。