Chapter 11-1〜手術と陸亀


決闘でキャニングは死に、スティーブンは重傷を負った。ジャックは胸に銃弾を受けた彼を艦に連れ帰る。弾は悪い位置に入っており、高熱を出している彼の容態は予断を許さなかった。ジャックはスティーブンの頼みで、彼の手紙を持ってダイアナを訪ねる。スティーブンの「ヨーロッパへ戻ろう。いつでも僕を頼りにしてくれていい」と言う手紙を読み、ダイアナは涙を流す。しかし、ダイアナがスティーブンに傷を負わせたと考えているジャックは彼女が許せなかった。ダイアナはジャックに、英国までサプライズ号に乗せてくれと頼むが、ジャックは断る。「…規則に反しているし、女性の乗る艦ではないし、修理に1ヵ月かかる。」「スティーブンに求婚されたの。看護婦の役をするわ。」「申し訳ありませんが、規則ですので。」「オーブリー、あなたが弱い男だって事はわかっていたわ。でも、偽善者だとは思わなかった。あなたも他の男と同じよ。男はみんな同じ−マチュリンだけは別−弱くて、嘘ばかりで、最後には怖気づくんだわ。」

ジャックとダイアナ。この二人も、複雑な関係ですね。2巻ではジャックはダイアナに夢中で、彼女のために親友とは決闘寸前になるわ、海軍でのキャリアを危うく台無しにしそうになるわ…だったのですが、それでもこの二人の間に「愛」があったのかどうかっていえば、それは怪しい…と、私は思います。

「かつて追い求めた女を憎むなんて、フラれた腹いせだろうか?」とジャックは自問しているし、ダイアナは彼が道徳的観点から自分を非難しているように感じて、偽善的だと怒っている。でも、そういうことではなくて、ジャックは単にスティーブンが心配でたまらなくて、それをダイアナに八つ当たりしているだけだと思うのですがね。

ジャックがダイアナをサプライズ号に乗せてあげてたら、どうなっていたのかな。ダイアナは実はひどい船酔い体質なので、看護婦役ができたかどうかはわかりませんが。船酔い体質なのに、何度も長い船旅をしている彼女。そのへんが勇敢だっていう所以でしょうか?

艦に戻ると、スティーブンは自分で弾の摘出手術をする準備をしていた。彼はジャックにダイアナを訪ねてくれた礼を言い、彼女が喪服を着ていたかどうか気にしていた。ジャックは他の医者を呼ぼうかと言うが、スティーブンは自分の手でやると主張した。ジャックは手術の手伝いを申し出る。「僕の腹を押さえる役をやってもらってもいいが…大丈夫か?」「何言ってるんだ、スティーブン…血や傷なんて、おれは子供の頃から見慣れてる。」

自分以外の医者の腕を頭から信用していないスティーブン。「自分で自分を手術」っていうと、私はかのブラック・ジャック先生((c)手塚治虫)を思い出しますが、彼の時代とは事情が違うものなあ。局部麻酔もない時代に…凄すぎ。全巻の中でも屈指の「忘れられないシーン」です。

スティーブンは前に吊るした鏡を見ながら、自分の胸を切開して銃弾を摘出する。血は見慣れているはずのジャックだが、手術のあまりの凄まじさに失神寸前になる。スティーブンは助手のマリスターに「艦長を診てくれ」と言う余裕があった。手術は成功し、スティーブンは意識を失う寸前にジャックに言った−「午餐会に遅れるぞ。」手術が行われた艦長室の外には乗組員がつめかけ、心配そうに見守っていた。「メインマストより艦尾方向は完全に静粛にさせろ。こそりとも音を立てるな。」「艦長も真っ蒼ですよ」「ああ、ボンデン、信じられん…彼は自分の手で胸を心臓まで開けて…心臓が動いているのを見ちまった。」「ええ、でも、ソフィー号の連中は驚きませんよ。あの掌砲長、憶えてるでしょう?大丈夫、きっとすぐ良くなりますよ。」

血みどろの戦闘に慣れているはずの歴戦の勇士が、手術室ではダメ…っていうのはありがちですが、それでも何か役に立ちたくてがんばっているジャックが健気です。スティーブンの手術した患者はみんな助かる、だからそれが本人でも大丈夫なはず…とボンデンは言っているわけです。

軍医助手のマリスターさんも有能な人です。思えばこの航海を始めた時、スティーブンはまだ体調が思わしくなかったから、サー・ジョセフが念のために有能な人を選んでくれたのかな。

午餐会に出席したジャックは、近くに座った紳士たちが決闘の噂をしているのを聞く。彼らはキャニングとダイアナの悪口を言っていたが、その中でスティーブンを侮辱する言葉を聞いたジャックは怒って彼らに詰め寄る。「それは私の友人のドクター・マチュリンの事でしょうか?あなた方が話題にされていた『あの女』とはまさか、ドクターと私が懇意にして頂いているレディの事ではないでしょうね?」彼らはあわてて謝罪した。

スティーブンのことはもちろんですが、ダイアナには自分も腹を立てていたのに、事情を知りもしない他人が悪口を言っているのは許せないジャック。ここで怒ったのがきっかけで、彼はダイアナを許す気分になったのだと思いますが…ダイアナがこの後で艦に乗せてくれるように頼んでいたらどうだったかなあ。このへん、運命を感じますが。

翌日、緩衝材を敷き詰めた艦尾甲板で、ジャックはダイアナが予想していたよりも優しく彼女を迎えた。その時はスティーブンが眠っていたので会えなかったが、三日後にようやく面会できる。「…かなり回復してたのですが、まだ熱が高くて…彼を興奮させたり怒らせたりしないようにして下さい。」ジャックは言った。

「マチュリン、やっと会えて嬉しいわ。でも、本当に大丈夫なの?」「僕は雄牛みたいに丈夫だよ。君の顔を見てすっかり良くなった。」「手紙をありがとう。あなたの言う通りにするわ。ラシントン号を予約したの。」「ラシントンは大きくて快適な船だけど、出来ればサプライズで一緒に帰りたかった。ジャックに頼む事は考えなかったのかい?」「思いつかなかったわ。私って馬鹿ね。長い目で見れば同じことよ…マデイラで会いましょう。オーブリーが面倒を見てくれるわ。彼はいい友達だけど、いい夫にもなれるかしら?駄目ね。あの人、女の事は何もわかっていないんだもの。スティーブン、疲れたみたいね。もう行くわ。指輪をありがとう。さようなら、あなた」ダイアナが彼にキスをした時、彼女の涙が彼の顔にこぼれ落ちた。


ジャックに艦に乗るのを断られたことを黙っているところは、ダイアナは偉いと思うのですが…もし言っていたら、スティーブンはどう反応したかな。

"Will he make as good a husband as he does a friend, I wonder? I doubt it; he knows nothing whatsoever about women."…これも名ゼリフ。私も同感、同感。ダイアナ鋭い。

サプライズ号はカルカッタを出港。スティーブンの熱は危険な領域に達し、譫妄状態のスティーブンは心の奥底をさらけ出したうわ言を言い続ける。ジャックは他の人間にそれを聞かせたくなかったので、夜も昼も一人で彼のそばにつききりだった。ジャックは不当に秘密を聞いている気がして罪悪感を感じ、スティーブンの情熱的な迷いに満ちた面に触れて不安になる。彼は時々水で身体を拭き、扇ぎ、意志に反して聞き続け、心配し、心を痛め、時に傷つき、退屈しながら、じっとベッドのそばに座っていた。やがてスティーブンのうわ言がラテン語の暗誦になったので、ジャックはほっとする。暗誦は赤道を越える頃まで延々と続き、それが終わったと思ったら、続いて茶がどうしたとかいうよく聞き取れない言葉が続いた。「…緑茶だ。まったく、このボロ船には熱病の治療法を知ってるやつはいないのか?さっきからずっと呼んでるのに」

スティーブン・マチュリン、うわ言をラテン語で言う男(笑)。ここでは『アエネーイス』(ローマの詩人ウェルギリウスの長編詩)を最初から最後まで暗誦してます…無意識で。(どういう潜在意識なんだろ)しかし、緑茶が熱に効くとは知らなかったなあ。

それにしても、スティーブンのプライバシーを他の人に聞かせたくない一心でつきっきりで看病するジャック、しつこいですが、ほんとにいいやつ。

意識を取り戻したスティーブンは回復に向うが、彼は患者としては最悪だった。乗組員たちは辛抱強く彼のワガママにつきあう。一番の被害者はホワイト牧師で、彼とチェスをつきあい、本気でやって勝ってしまったために水夫たちからは冷たい目で見られ、艦長からは叱責を受ける始末。(わざと負けようとするとスティーブンは余計に癇癪を起こすので、彼としてはどうしようもなかったのだが。)

やっぱり可哀想なホワイトさん(笑)。ちなみにスティーブンは意外にも、チェスはわりと下手で、腕はジャックと互角ぐらい。でもあまりにいい勝負で熱くなりすぎてしまうので、この二人はあまりチェスはやらないそうです。(トランプはスティーブンの方が圧倒的に上手いので、これもあまりやらないみたい。風が強くて弦楽器の合奏ができない時は、バックギャモンをやっているようです。)

こんな調子で航海は続いたが、そんなある日−スティーブンは生涯で最大の発見をした。インド洋に浮かぶ無人島で、海図によって経度の記述がばらばらな島。月観測で経度を決定しようとジャックたちは上陸した。彼らはスティーブンを運び、数時間かかる観測の間そこで待っていられるように砂浜に降ろす。

「スティーブン、素晴らしい観測が出来た!おれたちはこの島の位置を正確に…うわあ、何だこのでっかいものは?」「亀だよ。世界最大級の陸亀、新種だ。ジャック、こんなに嬉しいことはないよ…気分は最高だ。」「艦に乗せるつもりか?」「もちろんだ。この亀は君の名を不滅のものにするんだ。テストゥード・オーブリイと名付けたんだ。ナイルの英雄は忘れ去られても、オーブリー艦長は永久に生きるんだ、この亀の中に。…見ろよ、このきらきらした目!この亀のお陰で、僕はすっかり良くなった。すっかり回復したよ。」巨大な甲羅に腕を回しながら、彼は言った。


さて、ここでこちらをご覧下さい。やっと紹介できるわ。これはファンの考えたオーブリーのCoat-of-Arms(紋章)です。3巻のここまで読まないと意味がわからないのですが。左は「堕落したナマケモノ」右はこの「テストゥード・オーブリイ」、真ん中のごませんべいのようなものはオーブリーの好物、「スポテッド・ドッグ」です。この「紋章」、お気に入りなんですが、3巻11章まで来ないとネタバレになるので紹介できないのが辛いところ(笑)。

この「テストゥード・オーブリイ」のシーン、大好きです。すごく美しい。南の海の無人島で、ジャックは今までで最高の観測を成し遂げ、スティーブンは生涯最高の発見をする。ちなみにtestudo aubreiiはラテン語の学名で、訳すと「オーブリーの亀」です。

この巻を通じて、スティーブンはジャックにいろんなところで助けられっぱなし。その割りに感謝の気持ちが足りないような気もするのですが…でも、最大の発見に彼の名前をつけるっていうのは、スティーブンとしては最高の感謝の印なのかな。

「カメに名前をつけるより深き友情はなし」〜聖書の言葉より。(<ウソ)