Chapter 7-3〜暗く冷血な入江


その夜、月の出の前の暗闇に乗じて、ウースター号はフランス南岸に近づきます。マウアットとボンデンの率いるバージが海岸までスティーブンを送って行くことになっています。岸から見られないように、艦は一切の明かりを消しているので、甲板は真っ暗。バージに乗り込むスティーブンは誰かに手を引いてもらっています。乗り込む直前に、ジャックとスティーブンが手探りで握手するところが好き。

マウアットやボンデンがスティーブンに「雨が降りそうだから」と(半ば無理やり)コートを着せたり、ボートのへりを乗り越える時に手を引いたり、装備を首にかけてあげたり、いろいろ面倒見ているところも好き。

「『お仕事』で上陸するスティーブン、見送るジャック」というパターンは、今までには4巻と7巻に出てきましたが…その時と同じように今回も、心配で眠れずに甲板をうろうろ歩き回っているのだろうなあジャックは。

スティーブン、上陸する。

スティーブンを砂浜に送り届けたバージは、翌朝未明のランデブーを約束して帰って行きます。こうして、スティーブンは再びフランスの地に足を踏み入れたわけです。

しかし考えてみればあれですね、彼があんまり「行くのが当然」という感じでふるまっているので、つい気にしてなかったのですが…前回(7巻)フランスから逃げた時、どんなに危ない橋を渡ったかを考えると、単身フランス本土に(こんな片田舎にせよ)乗り込むなんて、無茶としか言いようがないですね。

さすがの彼も、「今度捕まったら、以前と違って相手を騙したり逃げたりできる可能性はまったくないだろう。確実に拷問され、殺されるだろう」と思い、海岸で時間待ちをしている時に、恐怖を感じて「このまま動きたくない」という気持ちがわいたりしています。まあ、そう思うだけで、時間が来たらちゃんと待ち合わせ場所に行くのですけど。

ここで彼は(引用)「この戦争の初め頃に役立った、自分は不死身だという感覚は、とっくの昔になくなってしまっていた…<中略>…それにあの頃はまだ結婚していなかったし、行動の動機は混じりけのない単純なものだった。それに、どちらにせよ、今よりも自分の命に執着がなかった。(The sense of personal invulnerability that helped at the beginning of the war had left him long ago...and in those days he was not married- his aim were single-hearted and in any case he cared less about his life.)」…と考えています。(「この戦争の初め」というのは1803年頃、2巻〜3巻あたり。)

=以下は、かなり独断の入った、しかもまとまりのない「スティーブン分析」になりますので、めんどくさい人は下から2番目のセクションあたりまで飛んで下さい(汗)=

ジャックとスティーブンは、普通に考えて二人とも並外れて勇敢な人間だと思うのですが、スティーブンの勇敢さはジャックのとは少し種類が違っている。少なくとも一部は、生命への執着の無さ、自分を大事に思っていない所から来ているのではないか…と、以前に書きました。(いや、「潜在的自殺願望」と書いたかも。それはちょっと言い過ぎでしたが。)

しかし、それはシリーズの最初の方の話で、7巻ぐらいから、彼は少しづつ変化してきているように思います。勇敢なのは変わりませんが、泳げもしないのに海にずんずん入ってゆくような「何を考えているんだ」的無茶さは、影をひそめているような気がします。

その理由は…ダイアナのこととか、後に結婚したこともあるけど、それだけではなく…ジャックのこともあるけど、それだけではなくて…えー、うまく言えないのですが…

軍医になってから、彼には大勢の「シップメイト」ができて、以前に比べて、より多くの人とより密接なつき合いをするようになった。その係わり合いを通じて、生への執着やら自分を大事に思う気持ちが少しづつ芽生えてきたのかなあ…と思います。(「正直に認めると、失って惜しいものがあまりに増えた」と日記に書いていたのは、何巻だったか…)

まあ、そう言いつつも、相変わらず時々、はたから見ればものすごく無茶な事をしてくれるのですけどね。

スティーブン、鳥でいっぱいの湿地を横切る。

今回のスティーブンの目的は、この片田舎で密かに開かれている、フランス政府の中の(反ナポレオン派)の集会と接触を持つこと。仲立ちをするエージェントとの待ち合わせ場所は、砂浜から湿地を横切ったところにあります。

彼はさまざまな種類の鳥が群れている湿地を、イノシシのつけた獣道を辿って横切ります。今の季節なら、珍しいbittern(サンカノゴイ、サギ科の鳥)が見られるかもしれない、とか考えながら。

こんな大変な状況でも、恐怖を感じていても、鳥のことは決して忘れないスティーブンでありました。

スティーブン、待ち合わせ相手と会う。

仲介役のフランス人エージェント・レクレール(Leclerc)はちゃんと時間どおり現れたのですが、彼は明らかにビビって、浮き足立っています。彼はこの任務には適任ではない−とスティーブンは感じるのですが、それは彼が臆病だとか頭が悪いとかいう理由ではなく、都会人だから。都会人というのは、夜にこういう場所に来ると、落ち着かなくなってしまいがちだから。

スティーブンは、勇敢さは個人の変わらぬ資質ではなく、体調や状況に左右されるものと考えています。(「便秘は勇敢さを損なう」という、真偽の程はともかく、ちょっと忘れられない説もありました。)勇気というものをモラル的にとらえるのではなく、自然現象のように科学的に分析しているところが彼らしい。

レクレールとスティーブン、銃声を聞く。

レクレールとスティーブンが集会が行われている小屋へ向おうとしたその時、湿原に2発の銃声が鳴り響き、閃光が見えます。レクレールは飛び上がり、「裏切られた!我々は売られた!」と叫んで、ほうほうの体で逃げてしまいました。

スティーブンが土手道から湿原に降り、そこに隠れてしばらく様子を伺います。レクレールは戻ってくる様子はなく、肝心の、集会していたフランス人たちは、銃声を聞いて解散してしまったようです。

最初に感じていた恐怖はいつの間にか消えうせ、計画が台無しになった怒りだけを感じながら、スティーブンがそこに立っていると、撃ち合の一方と思われる男が、灯りを持って道を歩いて来ます。男はスティーブンの隠れているすぐ近くまで来て、立ち止まったかと思うと、突然座り込みました。

彼はスティーブンには気づかず、ダーク・ランタン(遮光器つきランタン)を開けて自分の泥まみれの足を調べています。どうやら撃たれたらしく、泥を拭くと足は血まみれでした。ランタンの光に男の顔が浮かび、驚いたことに、それはスティーブンのよく知っている顔で…

…それはグレアム教授でした。