Chapter 8-2〜ウェザー・ゲージ


サプライズ号現れる。フランス艦隊が港を出た

封鎖任務の日々はこうして過ぎていたのですが、ある荒天の日、沿岸艦隊からすっ飛んできたサプライズ号のもたらしたニュースによって状況は一変します。

長らくツーロン港に閉じこもっていたフランス艦隊が、港を出たのです。戦列艦17隻、フリゲート5隻の大艦隊。英国封鎖艦隊が追いつけば、必ず海戦に−それも、決定的な大海戦になることは確実です。ソーントン提督が死ぬほど恋焦がれていたA great decisive fleet action

待ちに待ったニュースに、封鎖艦隊全体が色めき立っています。一番テンション高いのはおそらくソーントン提督でしょうが、もちろんジャックも。「決定的な海戦になれば、地中海は一掃されて、おれたちはアメリカへ行けるし、提督は家に帰れる。」(※)

※ジャックは本当は新造艦をもらってアメリカへ赴任するはずだったのですが(もちろんスティーブンも一緒に)、陸でのゴタゴタのために、ボロ艦で地中海の封鎖艦隊という「合間仕事」(parenthesis)を引き受けざるを得なくなっていたのでした。


一方、スティーブンはといえば、そんな個人的なことではなくもっと大きな期待を抱いています。「この時点で決定的な海戦に勝利すれば、戦争が終わるだろう。」しかし、それでも彼は、海戦になればたくさん出るに違いない死傷者のことを考えて憂鬱になっているのですが。

艦隊、西へ向かう。

ソーントン提督はフランス艦隊が大西洋へ(つまりジブラルタル海峡へ)向かっていると考え、彼らのコースを予測して封鎖艦隊を西へ向かわせます。

ここで、艦隊のペースがそれほど速くないことを不思議に思ったスティーブンは、「フランス艦隊が通りそうなコースがわかっているなら、先回りして待ち伏せしていた方が確実なんじゃないか?」とジャックに訊ねるのですが、ジャックは「今の風(東から西)だと、先回りするとウェザー・ゲージを失ってしまう」と答えます。

このウエザー・ゲージ(風上の有利な位置)ですが、映画でもスティーブンが「What is weather gage?」と訊いて艦長や副長たちを呆れさせていましたね。原作のスティーブンなら、あんな風にずばりとは訊かないで、「君はよくそのウエザー・ゲージってやつを口にするが、意味をはっきり確認しておきたいから、悪いけどもう一度説明してくれないかな?」みたいに言うと思うのですが。ほら、プライド高いから。

もっとも、スティーブンはこのシーンで夕日の照らす艦首方向を指して思い切り「我々は東へ向かっているようだが」とか言ったりしていますが。まあ、これは言いまちがっただけでしょうけど(笑)。

ジャック、スティーブンにWeather gage(風上の位置)について説明する。

ここでジャックは、海戦においてウェザー・ゲージを持っている側がなぜ有利なのか、スティーブンに説明してくれます。スティーブンがいるおかげで、私のような覚えが悪い読者も、わかりやすい解説を何度も聞けてありがたい。ここのジャックの説明をまとめておくと、風上の位置に立った方が有利な理由は

(1) 自分の選んだタイミングで敵に向かって行ける。つまり、戦闘をコントロールできる。
(2) 砲撃が始まると、煙は風下に流れるので敵は視界がきかなくなる。
(3) 風上に立った側は敵の戦列(隊形)を崩すことができる。

…ということのようです。まあ、私もスティーブンと同じく、ちゃんと理解できているかどうかは心もとないのですが。「時々どうも、君はわれわれを動かしているものは風だけだということを理解していないんじゃないかという気がするんだが」とジャックは言っていますが、私も時々、自分はそれがピンときていないんじゃないかという気がします。

だってねえ、風でしか動かない、あんなにでっかいものをこしらえて、それに乗って世界の反対側まで行ったり、それで国の運命がかかった戦闘をやったりするのって、考えてみればものすごい大胆というか…いやすごいと思う昔のイギリス人って。それとも、「風ってすごいんだな」と言うべきなのか。あるいは、風を利用する技術がすごいというか。

風がなくても動く船が発明されて何百年経っても、帆船に惹かれる人が多いのは、見た目が綺麗だってことだけじゃなくて、そういう、いろんな意味での「すごさ」に惹かれるせいじゃないかと、ふと思ったりしました。私自身は帆船そのものにはあまり興味がないので、よくわかりませんが。

ジャック、ウースター号の状態を心配する。

とは言え、イギリス人は帆船を動かす技術には長けているけれど、帆船を作る技術はフランスやスペインの方が上だそうです。特にジャックが指揮するウースター号は、イギリス製帆船の中でも最悪例だったりします。

艦隊が西へ向かう間に風は強くなり、波は高くなります。(元々、荒天だからこそフランス艦隊も港を出たわけですが。)

普段はウースターに無理をさせないようにしているジャックですが、今は緊急事態ゆえ無理をして帆を張っています。彼はホーザー(大綱、係留や引き船用の太いロープ)をマストヘッドにつけるという、見かけは悪いけど効果的な「奥の手」を繰り出してマストを支えているのですが、船体そのもののユルさはどうにもならず。(しまいには船体そのものをカイコみたいに綱でぐるぐる巻きにするしかないだろう、とジャックは考えたりしてます。)ひっきりなしのポンプ作業にも関わらず、ビルジウェル(あか水溜め)の水位はどんどん高くなり、下部甲板は水浸し。ところで、ポンプとビルジウェルも、映画のおかげでやっと具体的イメージが分かりました。ありがたいことです。

この「マストヘッドにホーザーをつけてマストを支える」というのは、さすがにあまりイメージが沸きませんが。これは5巻にも出てきましたが、見かけが悪いのであまり使われない手のようですね。見かけより実をとる艦長のジャックはよく使うのですが、ホーザーのほつれのことでサプライズ号にからかわれたりしています。ロープがほつれている(端止めがされていない)部分のことを「アイリッシュ・ペナント」と呼ぶそうで、それを聞いたスティーブンが「アイルランドの船にはあんなものはないぞ」と怒ったり、まあいろいろあるのですが…このあたりは追求しているとキリがない気がするので省略。

艦の状態の悪いのはウースター号だけではありません。長い間オーバーホールせずに海に出っ放しの封鎖艦隊の各艦はそれぞれに傷みがひどく、嵐がひどくなるにつれ"I am overpressed with sail"(当艦は帆の圧力に耐えられず)という信号旗を出す艦が続出します。この"I am.."とか、"lay me alongside..."(…に艦を横付けにしてくれ)とか、自艦のことを"I"とか"Me"の一人称代名詞で呼ぶことがあって、艦長と艦が一体化しているのを表しているようで面白いです。

スティーブン、鯨の夢から覚める。

翌朝、スティーブンは顔にかかった海水で目を覚まします。と言っても外で寝ていたわけではなく、ちゃんと下部甲板の自分のキャビンで寝ていたのですが、それでも舷側から海水がびゅんびゅん飛んでくるというヒドイ状態。こうなると、浮いているんだか沈みかけているんだかわからないですな。しかもものすごい揺れ方をしていて、船がクジラの背中に乗って海中にダイブしているみたいです。そのせいでクジラの夢を見るっていうのがスティーブンらしいですけど。

艦尾甲板に上がってみると、彼以外の士官全員と士官候補生全員がもうそこにいて(というか、艦中で寝ていたのは彼だけだったのですが)、なにやら深刻な表情をしています。艦尾甲板の風上側でプリングズと何か話し込んでいる、忙しそうな艦長のじゃまをしては悪いと思い、彼はこっそり反対側の士官候補生の後ろにすべりこもうとするのですが、そのとき艦が突然(彼には)予想のつかない揺れ方をしたので、彼は艦尾甲板を斜めに横切って転がり、艦長の足元に投げ出され…あわわ。

艦長は「おはようドクター。帽子を忘れているぞ」と防水帽を持ってこさせて、頭に乗せてあげたり、プリングズがあご紐を留めてあげたり、手を引いて手摺りまで連れて行ったり、すっかり子供扱い。どうも、波が高くなればなるほど、艦上でのスティーブンの立場は弱くなるようです。

フランス艦隊を捕捉する。Weather gageを失っている

それはともかく。なぜ全員が深刻な顔をしていたかというと、英国艦隊はフランス艦隊を発見したからです…風上に。フランス艦隊はソーントン提督が予想した通りのコースを取っていたのですが、夜の間に風向きが逆転したのです。今や、風は敵からこちらに吹き、刻一刻と強くなっています。敵はそのウェザー・ゲージを利して、戦闘を回避してツーロン港に戻ろうとしていました。

もちろん英国艦隊は必死で追っているのですが、なにしろ相手は港から出てきたばかりのぴっかぴか。傷みのひどい英国艦隊はじりじりと離されてゆきます。どうしても戦闘に持ち込みたいソーントン提督は、何とか敵の足を止められないかと、艦隊のうち足の速い艦だけを先に行かせて攻撃させるという危険な賭けに出ます。

ミッチェル提督のサン・ジョセフ号、サプライズ号などが、ウースター号や旗艦オーシャン号などを後に残して飛んでゆくのですが…ここでさらに風向きが変わり、英国側にとってもろに逆風となります。マストや帆を持ってゆかれる艦が続出し、じりじり引き離される先行隊。一番快速のサプライズ号でも、少し離れた所から砲撃するのがやっと。まあ追いつけたところで、サプライズ一隻では、敵にめちゃめちゃに叩かれるだけなんですけど…

艦隊全体に失望が重くのしかかる中、ソーントン提督はついに諦めてサプライズたちを呼び戻します。この巻3度目の「海戦未遂」。(1度目と2度目はウースター号単独でしたが。)プリングズはさぞがっかりしているでしょうが、一番がっかりしているのはソーントン提督でしょう。

ウースター号、限界に達する

さて、この長い追跡の間、ジャックは「艦の一部になったように」艦尾甲板の定位置にじっと立っているのですが、彼女が限界に近づいていることを、それこそ自分の体のように、ひしひしと感じています。

それでも、戦闘になるならその時はなんとしてでも遅れをとりたくないと、ぎりぎりまで帆を畳まずにがんばってきたのですが…サプライズ号たちがフランス艦隊から離されてゆくのを見たジャックは、大きな失望とともに「戦闘にはならないだろう」ということを確信し、旗艦に向かって信号旗を揚げるのでした…"I am overpressed with sail"と。