Maximus' Story
Chapter 11 - 15


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第11章 AD166年

ゲルマニアでの日々は速く過ぎていった。ローマ軍の威圧的存在感は部族民を川の向こう岸に押し留めてはいたが、戦争は早晩、不可避と思われ、警戒と訓練は続く4年間に渡って不断に継続されていた。ゲルマンの部族の中には、東部戦線に兵力を取られて手薄になっている南部へ進軍し、イタリアを脅かす物さえあらわれていた。

166年までに、マキシマスは戦争のあらゆる分野に並優れた技術を持つ、ハンサムな20歳の若者に成長していた。彼は同年代の全ての若者の中で、あらゆる分野で抜きんでていた。彼は実戦の経験こそなかったものの、多くの模擬戦闘に参加し、彼の武器扱いの巧みさはダリウスをして息を呑ませるほどであった。マキシマスに次ぐのはクイントスで、この2人は人生のあらゆる面において激しく競い合っていた。

しかし、クイントスにはひとつだけマキシマスの上に立っている点があった。彼はローマ上流家庭の生まれなのだ。それは最終的には、彼がマキシマスの上官になることを意味していた。しかし今の時点では、マキシマスにはクイントスの生まれつきの権利にまさる有利な点があった。ひとりの百人隊長との深い友情である。彼は、通常は士官兵舎の外には出ない極秘情報も、マキシマスには話していた。

ある夜、マキシマスとダリウスはダリウスのテントでサイコロで遊び、ワインを飲みながらくつろいだ時間をすごしていた。百人隊長は彼に最新情報を伝えた。「東部の戦争は終ったらしいよ、マキシマス。軍はローマに戻ったらしい。」

「それは吉報ですね。」マキシマスはルシアスのことを考えて言った。彼はよく、ルシアスのことを思い出していた。彼はどんなに恐ろしい思いをしたことだろう。

「それが、吉報じゃないんだ。全然、いい知らせじゃない。」

マキシマスはけげんそうに眉をよせた。真面目なブルー・グリーンの瞳は、疑問の色を映していた。「どういう意味ですか?」

ダリウスは若者の方を見た。マキシマスの容貌のよさはオイルランプの薄暗い光の中でも明らかだった。ランプの光は、彼の黒褐色のウェーブのかかった前髪の影を落としていた。彼はその前髪を、始終、頭を振ったり手でかきあげたりして額から払いのけていた。近隣の村の若い女たちの多くは彼に魅力を感じているらしく、彼がその気になれば、自由時間を全て、喜んでやってくる女達と過ごすことも簡単だろう。あの髪は切らせないといかん、とダリウスは思った。戦争になれば、長い髪は危険だし、なにより清潔を保つのが難しい。清潔は、軍では最も重要な事のひとつだった。彼はため息をついて、マキシマスの顎と首を覆っている黒い髭を見た。髭を伸ばす気はないようなのに、剃るのも嫌いときているので、彼はいつも少しだけだらしない感じがした−女達は、そのへんに魅力を感じているにちがいない、とダリウスは思った。マキシマスは今夜は革の鎧を身につけていて、広い肩と筋肉質の腕が目立っていた。全体的に見て、人目を引く姿だ。

「お前はなんで髭を剃らんのだ?」

「は?なんの話です?東部戦線の状況について話していたんじゃありませんでしたっけ?」

ダリウスは首を振り、手をのばしてマキシマスの額の巻毛を払いのけた。「我々がゲルマニアにいることに感謝しろ。ローマから離れたところにな。」

マキシマスは警戒した。「なぜです?」

「帰還兵がローマに疫病を持ち込んだんだ。何千という人が死んでいる。ひどい死に方だそうだ、その疫病は。内側から、人間を食っちまうんだ。唯一の救いは、すぐに死ねるってことかな。東部軍は疫病のせいで兵力不足になっている。ローマ市の上流階級の家にまで広がっているそうだ。」

「皇帝陛下たちは?」

「今のところ、おふたりはご無事のようだが、ご家族のことまではわからん。」

やわらかい茶色の巻毛に縁取られた緑の瞳の愛らしい幼い顔が、ふいにマキシマスの心に浮かんできた。ルッシラ。彼女のことはもう長いこと忘れていた。今頃は、どんな姿になっているだろう。今はいくつだろう−18?多分、もう結婚して子供もいるのだろう。ローマの女性は15ぐらいで結婚することが多い。彼は声に出さずに、彼女の無事を祈った。

「みんな、ローマから避難していらしい。もちろん、その金のある連中がね。」

「どこへ避難してるんですか?」

「郊外の丘陵地帯に行っている人たちもいる。しかし、そこにまで疫病が広がるだろうと予想して、もっと遠くへ行っている人たちも多い。どうも、北方の冷たい空気の方が病気を防ぐのに有効だと思っているらしくて、こっちの方へ向って来ている。」ダリウスはサイコロを投げてマキシマスを見上げた。「マルクス・アウレリウスとルシアス・ヴァレスが家族を連れてここへ向っているという噂がある。都が安全になるまで我々の警護の元に過ごすつもりらしい。」

「この隊に?」

「まあね。お前の番だ。」

「でも、戦争になったらどうするんです?」

「戦争になっても、戦闘が行われるのは川の向う岸だろう。皇族一家はこちら岸で安全に過ごせる。まあ、快適にとはいかんがね。マキシマス、お前の番だぞ。」

「それなら…」

「そんなことはわからん。」

「まだ質問してませんけど。」

「ルッシラがここに来るか、だろ?知らん。」

ダリウスはにやにや笑った。「サイコロを振っていただけますかな?」

マキシマスはサイコロを振ったが、心は明らかに別のところにあった。

「彼女は皇族だぞ、マキシマス。」ダリウスがサイコロを受け取りながら言った。

「わかってますよ。」

ダリウスはテーブル越しに手をのばして若い兵士の耳を軽くつかんだ。マキシマスは彼をにらみつけた。「おい、ちゃんと聞いてるのか?お前は女ならよりどりみどりだがね、彼女は無理だ。聞いてるか?」

「聞いてますよ。」しかし、マキシマスの顔にはすこしづつ笑みがひろがり、やがて遠慮なく笑い出した。

ダリウスはあきれて首をふった。「いいから、サイコロを振れ!」

 

第12章 再会

北部ヨーロッパの暗く深い森を抜けて、奇妙な行列がのろのろと進んでいった。それぞれ同色の6頭の馬をつけた、厳重に警備された8つの馬車には、マルクス・アウレリウスとルシアス・ヴァレスの親族たちと、ローマの元老院議員たちが乗っていた。皇帝の近衛隊が行列を四方から取り囲み、どんな攻撃に対してもすぐに防御できるようにかまえていた。しかし、ローマからの長旅は何事もなく、退屈だった。特に、たえずぐずぐずと愚痴りつづける弟と、愚痴と小言を言い続ける母親と同じ馬車に押し込められたルッシラにとっては。

皇帝一家にとって、つらい4年間だった。スペインへの旅以来、子供たちは父親であるマルクス・アウレリウスにほとんど会うことが出来なかった。彼は政治に忙しく、時間があるときには子供たちと過ごすかわりにストア派哲学の本を読んだり、それについての自分の思索を書き記したりして過ごしていた。彼の無関心さはコモドゥスにはとりわけこたえた。彼は父親をたいへん尊敬していて、父に認めてもらうことを強く望んでいるのだ。しかし、彼の子供っぽさは父親をいらだたせるばかりのようだった。

ふたりの母親、アニア・ガレリア・フォースティナも、夫にほとんど会えなかったので、自分で他に興味の対象をみつけることにした。彼女は大アリーナの剣闘試合が大好きで、特に何人かのお気に入りの剣闘士たちに熱い視線をそそいでいた。そんな母親をルッシラは恥ずかしく思い、父親は頭を悩ませていた。彼は何回も、剣闘試合を禁止すると脅したが、アニアはその度に、自分は単なる気晴らしに見ているにすぎない、と夫を説得していた。コモドゥスも剣闘が大好きで、母子はよく、死の光景を見つめながら興奮のうちに1日を過ごすのであった。

ルッシラも好奇心にかられて1度だけ一緒に行ったことがあったが、すっかり気分が悪くなり、その後は弟がどんなにせがんでも2度と行こうとはしなかった。彼は、自分が皇帝になったら強制的に、貴賓席の自分の隣に座らせる、と脅した。いつものように、ルッシラは彼を無視した。

彼女はため息をついた。でこぼこ道に馬車はがたがた揺れ続け、明かりもすぐに消えてしまうので、本を読むことも不可能だった。彼女は退屈しのぎに、父が連れて行ってくれた前回の旅を想い出していた。あの時も、果てしなく長い旅に思えたものだったが、今回とは比べ物にならない。彼女は、今回もスペインへ向っているのだったらよかったのに、と思った。そこで会った大きな灰色の犬を連れた魅力的な少年のことを、彼女はよく憶えていた。彼と一緒にすごすのなら、悪くない。マキシマス。あんなに若い人にしては、立派な名前だ。

馬車が突然大きく揺れ、ルッシラはクッションの上に、コモドゥスは床に倒れ込んだ。少年が悪態をつきながら起き上がり、この馬車が止ったら、御者を殺してやる、と言うのを聞いてルッシラは笑いをかみ殺した。彼は短い剣を抜いてこけおどしに振り回していた。心配になったルッシラは揺れの中でうとうとしている母に向って言った。「お母様、やめさせて。怪我をするか、誰かに怪我をさせてしまうわ。」

アニアは片目を開けて息子を見た。彼女のまだ美しい顔に微笑みが広がり、手を伸ばして豊かな胸にコモドゥスを抱き寄せると、キスの雨を降らせながら言った。「ハンサムなちっちゃいグラディエーターちゃんね、コモドゥス?ママの勇敢な、ちっちゃいグラディエーターちゃん!」

ルッシラは黙ってその光景を眺めていたが、やがて顔をそむけてクッションに顔を埋めた。いつまでこれに耐えられるだろう?

3日後、馬車はついに、大きな、強固な要塞のような基地に到着した。彼女はほっとして馬車を降り、涼しい、新鮮な空気を吸い込んだ。それから、助けをかりて自分の美しい白い雌馬、ヴィーナスに乗った。ルッシラは身につけている青いケープと毛皮のマフラーを手で整えた。コモドゥスも馬に乗ったが、アニアは屋根付きの輿の方を選んだ。彼女は輿のカーテンを引いて、この野蛮な地の恐ろしい風景を閉めだそうとしていた。都で生まれ育った彼女は、このようなことは経験したことがなかった。

ルッシラは身体を後ろに傾けて頭を振り、美しい巻毛を背中に垂らした。彼女は上を向いて、大きな木の枝の間から青空を見上げ、喜びに声を出して笑った。大きな鳥たちが、邪魔をされたことに不満の声を上げながら木から木へと飛び回っていた。まだ肌寒い晩春の風さえも、牢獄のような馬車から開放された彼女の喜びに水を差すことはなかった。近衛隊の士官たちに囲まれて、彼女は巨大な黄金の鷲をかかげた基地の正門へと向った。喇叭の音が、皇帝一家と、その後に続く元老院議員たちの到着を告げた。正門の内側には、大勢の兵士たちが「気をつけ」の姿勢で列を作っていた。彼女は、頭を垂れた兵士たちを見下ろし、うなずきかけながら通り過ぎていった。

近衛隊が彼女を将軍のところへ導いた。銀色の狼の毛皮を肩にかけ、立派な鎧を身につけているので、将軍だということはすぐにわかった。彼女の心臓がとびあがった。あの将軍は知っている。スペインの連隊の司令官と同じ人だ。では、これは同じ連隊なのだろうか、ここはゲルマニアなのに?彼女はすばやく将軍−たしか、パトロクルスという名だった−のまわりの兵士たちに目を走らせた。マキシマスが今どんな姿になっているかもわからないし、まだこの連隊にいるかどうかもわからないが…彼女は将軍の後ろに大きな灰色の犬をみつけて息をのんだ。その犬は鼻面に白い毛がまじり、前より太ってずっと年老いてみえたが、ハーキュリースにまちがいなかった。

そして、彼女は犬の横に立っている男に目を移した。彼は頭を垂れ、不動の姿勢で立っていたが、たしかに見覚えがある。彼女の心臓がは早鐘を打っていた。短く刈り込んだ髪は、彼女が覚えている長いウェーブのかかった髪とは違っていたが、あれはマキシマスだ。まちがいない。

彼女は馬を降りるのを助けるために差し伸べられた手にも、パトロクルス将軍の形式ばった挨拶にも、ほとんど注意をはらっていなかった。彼女は適当な返事をつぶやくと、犬のほうに注意を向けた。「ハーキュリース!あなたを憶えていてよ!」彼女は脚をかるく叩いて言った。「こちらへいらっしゃい!」

犬は隣に立っている兵士を、許可を求めるように茶色い目で見上げた。ハーキュリースは、彼がうなずいたのを見てからなんとか立ち上がり、ルッシラの方へ舌を出してよろよろと歩いていった。ルッシラは笑ってこの犬の挨拶を受けてから、立ち上がって兵士の方を真直ぐ見た。「わたくしの知っているハーキュリースより、随分人懐っこくなったのね、マキシマス。あなたが魔法をかけたのかしら?」

ルッシラは若い兵士の驚きにうたれた目が、やがて喜びに輝くのを満足の思いで眺めていた。彼はもう一度真剣極まりない態度で頭を下げたが、唇には微笑みが浮かんでいた。「姫君。」

将軍は他の賓客に挨拶するのに忙しかったので、ルッシラはまっすぐに彼の方へ歩いてきて、1mほど離れたところに立った。「マキシマス。」

彼は頭を上げた。彼の表情は真面目そのものだったが、目は愉快そうに少しだけ細められていた。「姫君、何なりとお申しつけ下さい。」

その深い、うっとりするような声にルッシラの背筋はぞくぞくした。彼女は彼の声をもっと聴きたかった。「ハーキュリースは、いったいどうしたの?」

「腰に関節炎があって、湿気が多いと痛むんです。」彼は手を伸ばして犬の耳を掻いてやった。「長旅でお疲れになられたでしょう。御気分はいかがですか?」マキシマスは礼儀正しく言った。

「大丈夫よ。」彼女は彼を見つめながらぼんやりと答えた。彼女は女性にしてはとても長身だったが、彼も同じ位の背で、ほとんど目を合わせて話すことができた。彼は誇り高い兵士らしい、背筋を伸ばした姿勢で立っていた。灰色の鋼鉄の鎧の下の肩はとても広かった。短く刈り込んだ髪は、とても似合っている、と彼女は思った。彼の力強い首がすっかり見えるし、きれいに切り揃えた髭とも合っていた。その髭は顎を覆っていて、記憶にある顎の真ん中にある深いくぼみはかくれていた。彼の顔はよく日焼けしていて、ブルー・グリーンの瞳は、数年前に彼女を夢中にさせたあの悲しい光を今もたたえていた。年月を経て、マキシマスはますます素敵になった、とルッシラは思った。本当に素敵になった。

マキシマスも彼女について、同じ事を思っていた。彼女が彼を観察していた間、彼の方も彼女を見つめていた。彼女の背の高さは彼を驚かせた−彼女は多くの兵士よりも上背があった。しかし、身体はほっそりとしていて、その長い細い首はあまりにデリケートで、彼女の頭の重みにも耐えられないように見えた。彼女は豊かな巻毛を結わずに純金のヘアバンドで後に流していた。肌は純粋なクリームのようで、彼はその頬を指でなでてみたい衝動にかられた。唇には薔薇色の紅がさしてあった。深い緑の瞳が、彼を真剣に見つめていた。彼は思わずため息をついてしまい、彼女がどう思うだろうか心配したが、彼女がにっこりし、やがて笑い出したのを見てほっとした。彼は、ためらいなく微笑み返した。

「もしかしたら、避難生活というのもそう悪くはないかもしれないわね、マキシマス。」彼女は、彼だけに聞こえるように小さい声で言った。「本当に、悪くないわ。」彼女は長い指を重い鎧のすぐ下の腕に巻きつけた。指を握り締めてその固い筋肉を感じたい衝動と戦いながら、彼女は彼を紹介しようと母親の方を振り向いた。母は、ルッシラが見たこともないほどひどい顔をしていた。

「お母様、この人は、数年前にコモドゥスとわたくしがお父様とスペインに行った時に会った人よ。名前はマキシマスよ。」彼女は彼に、もの問いたげな視線を向けた。

「マキシマス・デシマス・メリディアスと申します、皇后陛下。」マキシマスは名乗って、もう一度頭を下げた。ルッシラの美しさは母親譲りであったが、母親の方はあまりいい歳のとり方をしていなかった。彼女は太っていて、贅沢な服もそれを隠し切れていなかった。ルッシラは紹介を続けた。「コモドゥス、マキシマスを憶えてる?」

「憶えてないよ」少年は頭を垂れて挨拶するマキシマスに無礼な冷笑を浴びせた。

マキシマスは思い切ってルッシラにささやいた。「彼は変わってませんね。」

ルッシラは彼を驚いて見つめ、やがて頭をそらして笑った。笑いがおさまると、彼の耳に口を近づけて小さい声で言った。「母に聞こえるところで、そんなこと言ってはだめよ。母はあの子は完璧だと思ってるの。ムチ打ちの刑にされてよ。あるいはもっとひどいこと。」

彼女は、母親についてそんなに軽率な事を言うつもりはなかったのに、と言いたげに目を伏せた。「わたくしはどこに泊まるのかしら、マキシマス?」

「士官兵舎です、姫君。そこなら安全ですし、姫君のお部屋も用意してあります。よろしければご案内致します。」

「何から安全なの?」兵士たちの前を通りすぎながら、ルッシラの手はまだマキシマスの腕をつかんだままだった。

「色々なものからです。」

「ゲルマンの部族から?」

「そうです。」

「野生動物から?」

「もちろんです。」

彼女は彼を横目でちらりと見た。「ハンサムな兵士から?」

彼の大きな手が彼女の手を包み込んだ。「そうお望みなら。」

「どうかしらね。それはよくわからないわ。」

ふたりがダリウスの前を通る時、マキシマスは彼の顎に手を伸ばしてぽかんと開いている口を閉じさせた。4人の近衛兵を引きつれて歩いて行くふたりを、百人隊長は驚いて見つめていた。近衛兵たちは、ひとりのローマ軍兵士に、ヨーロッパの蛮族を全部合わせたよりももっと困らされることになるんじゃないか、と彼は思った。

少年の瞳が、ふたりが歩み去るのを見つめていた。そう、彼はマキシマスを憶えていた。

彼のことは、よく憶えていた。

 

第13章 散歩

マキシマスはそれから2日の間まったくルッシラに会うことができず、2日後にやっと姿を見た時も、ほんの一瞬だった。彼女と他の皇族たちは、元老院議員たちと共に士官兵舎におしこめられて、将軍とその側近達のもてなしを受けていた。

マキシマスは作れる限りの口実を作ってはそのテントの近くへ来て、流れるような褐色の巻毛の美しい女性を目で探していた。一瞬でも垣間見る事ができると、心臓がとびあがった。彼は自分の想像力が彼女の美しさを誇張しているのではないかと思い始めていたが、つかの間に見える姿はやはり美しかった。彼女と話がしたくてたまらなかったが、いくら考えても、士官兵舎に入って行くもっともらしい言い訳を思いつくことができなかった。

ダリウスは助けにならなかった。彼はつまらない用事でマキシマスを基地の隅々へと追いやるのに喜びを見出しているようだった。誰でも出来るような用事なのに、ダリウスはマキシマスでなくてはと言い張った。自分が外に締め出されているのにうんざりしているように、ルッシラも中に押し込められているのに飽き飽きしているのではないかだろうか。

その通りだった。彼女の部屋はできるかぎり贅沢にしつらえてあったが、比較的狭かった。食事や他の客を訪問するのにテントからテントへ歩いて行く時、彼女はマキシマスを探してすばやく柵の向こうをのぞきこんだ。彼はいなかった。もう、わたくしのことを忘れてしまったのかしら?いったい、何をしているのかしら?もちろん、戦闘訓練の音や命令の声は聞こえてくるけれど、他の時間は?たとえば夜は?彼女は、彼と一緒に火のそばに座ってただ話がしたかった。彼の素敵な深い声を聴いていたかった。

彼女はいらいらして、ベッドに横になって目を閉じた。紗のカーテンがそよ風に揺れていた。他にすることもなく、彼女は基地中にあふれる男達があげる無数の音をぼんやりと聞いていた。彼女はその中のひとりの側にいたかった。やがて彼女はぼんやりと、眠りと覚醒の間をさまよいだした。

彼の忍耐はついに限界に達した。マキシマスは士官兵舎の入口に近づき、たちまち重武装の衛兵に止められた。彼は声を大きくして、ただ犬のハーキュリースを探しているだけなんです、週に何回かは散歩に連れていくことになっているんで、と説明した。

ルッシラはぱっと目をあげて、枕から頭を上げた。こんなにたちどころに眠りから呼び覚ましたのは、一体誰の声だろう?彼女は耳を澄ませた。もう一度その声が聞こえ、彼女は脚をベッドからさっと降ろしてスリッパを探った。彼女は片手でケープの前をかきあわせ、テントの外へと飛び出し、立ち止まった。あたりを見回しながらマキシマスの声のする方を探していると、小さな口笛と「ハーキュリース」と呼ぶ声が聞こえた。兵舎の入り口に目をやると、マキシマスはかがんで、犬の首輪を直してやっていた。

「マキシマス」彼女はよびかけた。

彼は立ちあがって一礼した。「こんばんは、姫君。ハーキュリースに基地の中を散歩させようとしてるところなんです。一緒にいらっしゃいますか?」

衛兵の一人が答えかけた。「姫君はそのような…」

「おさがりなさい!」ルッシラは怒って衛兵を叱りつけた。「なんのつもりです、私に代わって勝手に答えるなど!身のほどをわきまえなさい、衛兵。主人はわたくしなのですよ!」

衛兵は真っ赤になって謝罪の言葉をつぶやき、深深と頭を垂れた。

ルッシラは怒りをおさめてマキシマスの方をふりむいた。「あなたとハーキュリースと、是非ご一緒したいわ、マキシマス。行くのは基地の中だけなの?」

「そうです、姫君。」

ルッシラは衛兵たちに向かって言った。「それなら、あなたがたはついて来る必要はありません。マキシマスがいれば護衛は充分です。よろしくて?」

ふたりの護衛は、怒りに唇を固くひきしめたままうなずき、犬を連れた若い兵士を睨みつけた。ひとりが思い切って言った。「姫君、彼は武器も持っていません。」

「マキシマス、」ルッシラは彼に直接言った。「わたくしが靴を履き替えている間に剣を取りに行ってはどうかしら。後でここで会いましょう。」

彼は頭を下げて、顔がゆるみだす前に急いで背を向けた。怒っている衛兵達に笑顔を見られるのは得策ではない。彼は自分のテントに帰って、懐剣と剣の鞘を身につけ、鞘に剣を納めた。

「マキシマス、」戸口から声がかかった。

若い兵士はふりむきもしなかった。「ダリウスさん、何です?」

「気をつけろ。」

「気をつけてます。ルッシラ姫と基地の中を歩くだけなのに、この重武装ですよ。」

ダリウスはため息をついた。「そういうことを言ってるんじゃない。」

しかしマキシマスには、それ以上友人の忠告に耳を貸している暇はなかった。マキシマスは彼の横をすりぬけて、陽気に口笛を吹きながら駆け足で出ていった。

数分後、彼は世界一の美女に腕を貸し、足元に老犬を従えてゆっくりと兵舎を後にした。テントの列を通り抜ける時、他の兵士達の羨望の視線に、彼は顎をこころもち高く上げていた。

「ここでは何もかも、とてもきちんとしてるのね。」ルッシラが周りを見ながら言った。

「そうでなくてはならないんです。軍隊というのは、必要とあらば数分で戦闘態勢に入ったり、数分で基地を撤収して行軍を始めなければなりませんから。それには、すべての物があるべき場所にあって、すべての兵士がするべきことをしなければなりません。」

ルッシラはマキシマスの頼もしい横顔を見た。「それで、あなたは何をするの?スペインで会ってから、何をしていたの?」

「いろいろな事です、姫ぎ…」

「マキシマス、ふたりだけの時には、どうかルッシラと呼んで。」

「ルッシラ。」その名前は、彼の舌の上に心地よく響いた。「私の最初の重要な仕事は旗手でした。18のときで、18は旗手としては最年少なんです。」

ルッシラがわからないようなので、マキシマスは説明した。「旗手というのは、戦闘で軍旗を持つ役のことです。とても重要な役なんです。旗手は連隊全部の先頭をきって戦いに向かいますし、軍旗が奪われたら取り戻すために戦死する者が出るぐらいですから。軍旗は大切なローマの象徴なんです。」

「よくわかったわ。どのぐらいの間旗手を?」

「長くはありませんでした。その後の昇進が早かったので。伍長から曹長になって、今は軍曹です。次の階級は百人隊長で、これは大きな昇進です。私と友人のクイントスは、次期の百人隊長候補に挙がっています。そして、百人隊長の中で細かく階級が分かれていて、その一番上まで昇進したら、私の昇進はそこまでです。」

「なぜなの?」ルッシラは不思議に思って聞いた。

「それは、副司令や将軍になるには、ローマの上流階級の生まれでなくてはならないからです。私はローマ市民権を認められて、だからこそこの連隊にいられるんですけど、帝国の辺境の生まれでは軍の上級将校になる資格がないんです。」

ルッシラはとまどって眉を寄せた。「でも、トラヤヌス帝は?彼はスペインの生まれで、皇帝に指名される前は軍人として成功していたのではなかったかしら?」

今度はマキシマスが眉を寄せた。「おそらく、必要とあれば障害を取り除く手はあるんでしょう。」

「戦闘に行ったことはあるの?」

「まだですが、もうすぐだと思います。お父上はいつここに?」

「一週間後ぐらいかしら。父は途中にいる連隊を視察しながら来ているから。家族はまっすぐここに来たの。」

「陛下がいらしたら、御前で模擬戦闘をするので、訓練中なんです。パトロクルス将軍は、陛下に満足して頂けるようにと必死ですよ。」

「あなたも参加するの?」

「もちろんです。」

ルッシラは彼の腕を握っている手に力をこめた。「危険ではないの?」

「怪我をする危険はありますよ。本当は味方同士とはいえ、闘いになると本気になりますからね。」

「あなたは何をするの?」

「ダリウス隊長は私とクイントスに試合をさせると言ってます。実力が同じぐらいだから、いい勝負になりますよ。」

「どちらが勝つかは、問題ではないんでしょう?」ルッシラは希望をこめて聞いた。

「大問題ですよ。プライドの問題ですから−兵士自身と、その上官である百人隊長のプライドの問題です。」彼はルッシラの心配を察して話題を変えた。「それでは、スペインで会って以来あなたが何をしていたか教えて下さい。」

ルッシラはため息をついた。「たいしたことはしてないわ。」

マキシマスは足を止めて彼女を見た。「どういう意味です?」

「わたくしが、派手で面白おかしい生活をしていると思っているんでしょうね。」彼がうなずくと、彼女は鋭く笑った。「まるで逆よ。わたくしは、同年代の女性達よりずっと、籠の鳥みたいな生活をしているの。退屈で死にそうよ。ここに来たのは、スペインへの旅以来初めての冒険なのよ。」

「しかし、いろいろな方々に会うでしょう?」

「父親ぐらいの歳の政治家たちにね。」マキシマスはその口調に苦々しさを感じ取った。「それからその退屈な家族たち。本当に面白い人たちはローマの街にいるのに、そういう人たちとつきあうのは許されていないのよ。だからこそ、あなたがこんなに気に入ったのかしら。」彼女は少し照れたように言った。「あなたは本当に生きている人間って気がするの。きっとあなたには、本物の家族がいたのでしょうね。そして、あなたの身分じゃなくて、あなた自身を好きになってくれる本物の友達がいるのだわ。きっとあなたは、いろいろな意味で、わたくしより人生をよく知っているのでしょうね、マキシマス。」

後からくんくんと鳴く声が聞こえ、ふたりは足を止めて同時に振返った。ふたりは突然座り込んでしまった犬を見下ろした。マキシマスはかがみこんで犬をやさしくなでてやった。「いつのまにこんなに遠くまで来ていたんだろう。こいつは、もうこれ以上歩けないんじゃないかな。」彼はルッシラを見上げた。「少し座りませんか?」

「もちろんよくてよ。どこに?」

マキシマスは立ちあがって右側のテントの後を指差した。「空き地の隅に切り株が作ってあります。」

「あなたについてゆくわ。」

マキシマスは後にぴったりとついてくるルッシラを連れて2つのテントの間を歩いていった。しかし、ふたりはまた必死の吠え声に呼び止められた。ハーキュリースは動きたくないし、友達が行ってしまうのもいやなようだった。マキシマスは犬に静かにしろと命令したが、犬はいう事をきかなかった。ルッシラは笑った。ふたりが戻って来て犬の側に立つまで、吠え声はやまなかった。

「頑固なやつめ。」兵士はうなるように言った。

「体が痛むのよ。マキシマス、かついでやったらどう?」ルッシラは冗談で言ったのだが、マキシマスは犬をかかえて立たせ、片膝をついて犬の腹の下に頭をつっこんで、驚いてじっとしているハーキュリースを広い肩の上にかつぎあげ、両手で犬の前足と後ろ足をつかんだ。

ルッシラは大喜びで手をたたいた。ふたりを見ていた近くの兵士たちも喝采した。

マキシマスはわざと真面目くさった態度で一礼すると、基地の真ん中にある広い空き地の方へ向かっていった。ハーキュリースは大きな毛皮のケープのようだったが、このケープは尻尾を振っていた。彼は犬を地面に降ろすとルッシラに切り株に座るようにすすめ、自分は彼女の足元の草の上に腰をおろした。「羊を追っかけて行ったりしないだけましですね。」マキシマスが、草を噛んでいる犬を見て言った。

「ここが模擬戦闘をするところ?」

「はい。ここです。」

「弟が大喜びするわ。あの子、誰かが怪我したり死んだりするような事が好きなのよ。興奮するらしいの。参加したいって言うかもしれないわ。いっぱしの戦士のつもりなのよ。」

「殿下はそういうことには、まだお若すぎるのではないですか?」

「そうよ、でもいつも見ているの。母が剣闘試合に連れてゆくの。ふたりして、一日中人が死ぬのをみて楽しんでるのよ。それに母ときたら…」

「何ですか?」

ルッシラは首を振った。「何でもないわ。」彼女は基地の塀越しに見える高い木の枝を眺めた。「基地の外には何があるの?」

「そちらの方向は、ドナウ川です。広くて深い、とても冷たい川です。」

「見てみたいわ。」

「お連れする許可は下りないと思いますよ。敵が、川のすぐ向う岸にいるんです。夜、怒鳴りあってるのが時々聞こえるほどです。」

「マキシマス、わたくし、ほんとうに行きたいのよ。」

「近衛隊を一個小隊連れて行けば、あるいは。」

「いいえ。あなたとふたりだけで。」

「それは無理ですよ、ルッシラ。」

「あなたと一緒なら、安全ではないのかしら?」

マキシマスはためらった。「もちろん。でも、門を出られませんよ。そんなことは考えないほうがいい。」

ルッシラは少しの間黙っていたが、やがてとてもやさしい声でいった。「わたくし、あなたと背は同じぐらいあるわ。肩幅はないけど、とにかく背は高いでしょう。兜をつけて髪をたくしこんで隠せば、きっと…」

「とんでもない。」

「なぜなの?ねえ、マキシマス、わたくしも少しは楽しみたいのよ。皇帝の娘であるってことがどんなに辛いか、わからないでしょう?」

「もし捕まったら、僕は不名誉除隊になりますよ。身体に皮膚が全然残ってないような状態で追い出されることになる。」

「捕まったりしないわよ。」

マキシマスは遠くの木を見つめて黙っていた。彼の手は、犬のふかふかした毛皮をぼんやりとなでていた。ルッシラは、彼が黙っているのは迷い始めているからだと思い、口説き始めた。「あなたの身やあなたの仕事を危なくするようなまねはしないわ、マキシマス。わかるでしょう?絶対に捕まったりしないわよ。すぐに帰ってくればいいんだし。」

マキシマスの表情は固いままだった。

ルッシラはためらいがちに手を伸ばして、指の先で彼のうなじにかかる髪を撫でた。その指が軽く触れただけでマキシマスは雷にうたれたように感じ、手足が痺れて地面に釘付けになった。彼女の指は彼の肌を探るように髪をかきあげて、それから首のほうへと降りていった。彼の頭は無意識のうちに、彼女の愛撫を誘うように前に傾けられていた。彼は目を閉じていた。彼女の指はもう一度彼の髪をさぐり、耳の後の繊細な肌をたどっていった。彼は少し体を震わせた。

ルッシラは軽く触れただけの手が引き起こした反応に驚いた。彼女は自分の手の柔らかい感触が、このタフな兵士の心をとろけさせることができるのを知ってうれしくなった。ルッシラの指は探検を続けていた。彼女はマキシマスの首に5本の指をあて、そのままうなじから肩へとその固い筋肉をやさしく撫でていって、重い鎧に邪魔されてそこで止った。彼女は彼が目を閉じているのに気づいて、身をのりだして耳に口を近づけ、囁いた。「どうして鎧なんか着けているの?」

マキシマスは眠たげな、低い声で言った。「あなたから身を守るためらしいな。」ルッシラはほほえんで、彼の耳の下の繊細な肌にすばやくキスをして、それから体を起こした。手はまだ彼の首にあてたままだった。彼女は彼の肌の感触が好きだった−岩を覆っている柔らかな絹。こんな風に男性に触れるのは初めてで、ルッシラは夢中になっていた。そして、この人こそが彼女が触れたい男なのだ。

マキシマスは深いため息をついて、けだるさを振り払うように首を振った。しかし、彼はすでに議論に負けたことを悟っていた。ルッシラの親指はまだ彼の耳の下で魔法をかけていた。彼は地元の女たちとは沢山つきあってきたが、このようなことを経験したことはなかった。地元の女たちとのつきあいは即物的で、肌の触れ合いは最小限にとどまっていた。子供の頃の母親とのふれあい以来、こんな優しさを経験したことがなかった。そして、彼は優しさに飢えていた。自分が優しさに飢えているなんて、彼は考えたこともなかった。

地面に座ったまま、彼は彼女のほうに顔を向け、じっと目を見つめた。ルッシラは彼の首の前に手を触れて掌に彼の鼓動を感じていた。彼女の指はごわごわした髭を探り、顎まで上がっていって、顎の上の長めで、いくぶん柔らかい髭をもてあそんだ。長い間、ふたりとも何も言わなかった。やがてマキシマスが沈黙を破った。「唯一の手は、僕が友達を連れて士官兵舎に入って、その友達の鎧であなたがそいつに変装して、ふたりで出ていく事だろうな。」

ルッシラはにやりとした。「頭がいいのね、兵隊さん。」彼女は指の先を彼の唇にあてた。

「問題は、こんなとんでもない計画に協力してくれる馬鹿な友達をどうやってみつけるかだな。」彼はつとめて軽い調子で言うと、ルッシラの手を掴んで、指の先にはじから一本づつキスしていった。

「あなたなら簡単にみつけられるわね。」ルッシラは息を殺して言った。

マキシマスはもう一度首を振った。彼は自分の正気を疑い始めていた。彼はルッシラの手を彼女の膝に戻して言った。「わかった。明日の夜、日没後すぐに。用意しておいて。」

「ありがとう、マキシマス。とても楽しみだわ。」

大きな犬をもう一度肩にかついだマキシマスとルッシラは将軍の兵舎の方へ戻り、門のところで別れを告げた。背を向ける前に、彼女は彼に微笑みとウインクを送った。ふたりが共犯者になった印に。

 

第14章 基地の外で

ルッシラは気が狂いそうだった。もう日が暮れかけてきたのに、コモドゥスが彼女のベッドに寝そべったままなのだ。彼はもう何時間もねばっていた。最初のうち、ルッシラは自分同様退屈している弟に同情していた。彼女は弟にローマの戦史物語や、父が到着したら行なわれる模擬戦闘のことを話して、退屈をまぎらわせてやっていた。しかし、もう帰ってもらわないと困る。

「コモドゥス、ねえ、私は疲れたからもう寝たいわ。」

彼はベッドの端に寄って空いたところをぽんと叩いて言った。「姉上、ここに横になったら?」

弟はいつもルッシラにぴったりとくっついていたがった。まだ14歳とはいえ、それはルッシラをひどく不安にさせた。彼女は無理に笑顔を浮かべて言った。「ねえコモドゥス、もう部屋へ帰ったら?私はもう休むから。」

コモドゥスはベッドの上に放り出してあったやわらかいローブをいじりながら言った。「じゃあ、姉上、お休みのキスをして。明日の朝はぼくと一緒にすごすって約束してよ。」その口調はいつもの、傷つけられたという非難の調子が混じっていた。「昨日は午後中マキシマスと一緒にいて、ぼくをひとりにしたじゃないか。」

「わかっているわ。明日はマキシマスに、私たちふたりと一緒にすごしてもらうようにするわ。それでいい?」

「遠乗りに行ける?」

「わからない。聞いてみるわね。」

コモドゥスはたちどころに疑り深い目になって見上げた。「聞いてみるって、いつ会うのさ?」

「手紙を持って行かせるわ。ほら、お願いだから…もう寝たいのよ。」

コモドゥスは動こうとせずに、姉のほうに顔を向けた。「夜にひとりでいるのはいやなんだ。」

「それはわかっているけど、あなたを愛してる人達がまわりにたくさんいるじゃないの、コモドゥス。怖がることなんてないのよ。」

少年はとうとうベッドから脚を降ろした。ルッシラは安堵のため息を押さえた。「おやすみのキスをして」と彼は言って、自分よりゆうに10cmは背の高い姉のそばまで来た。いつものように、彼女は彼の頬に両手を当てて頭の上に軽く唇をつけた。

「さあ、行って。」

コモドゥスはいやいやながら戸口の方へ向かった。ルッシラは息を止めていた。彼はふりかえって「明日のこと、忘れないでよ。」と言った。

彼女は微笑んだ。「忘れないわよ。おやすみ、コモドゥス。」

彼は出ていった。ルッシラは大きく息をつき、そのとき初めて自分が息を止めていたことに気がついた。これで後は、マキシマスが友達を連れてやって来るのを待つだけだ。絶対に来る。彼が約束したのだから。もう一度会うのが待ちきれない気持ちだった。

この冒険におけるマキシマスの役割は簡単ではなかった。彼は背が高くて痩せている若い兵士を見つけ出し、この芝居に一役買ってくれるように説得した。彼には、万一見つかったらどういうことになるか、包み隠さず説明した。しかしマキシマスは、彼−ペトロニウスが、これからすることの危険性をちゃんと理解しているのか、ちょっとしたいたずら位に思っているのではないか、と少し不安だった。この少年はマキシマスを崇拝していて、彼のためなら何でもやりそうだった。

ふたりとも茶色のウールのチュニックと脚絆を着て、その上に鋼鉄の鎧を着けた。マキシマスは兜を手に持ち、ペトロニウスはかぶっていた。その兜は顎と頬を覆っていて、顔はほとんど見えなかった。「ペトロニウス、にやにやするな。」とマキシマスは命令した。若い兵士はあわてて真面目な表情をとりつくろった。ふたりとも武装していなかったが、マキシマスは基地の裏門のすぐ外に2本の剣を隠していた。いつものように、彼はブーツの中に鞘に入った懐剣を隠し持っていた。

マキシマスは腕の下に、彼の隊の模擬戦闘の詳細な計画書の入った革の袋を抱えていた。ダリウスが将軍に届けておくようにマキシマスに頼んでいたものだ。今夜届けても、悪いことはない。

日没後すぐ、2人の兵士は士官兵舎の入り口までやって来た。ペトロニウスはマキシマスの命令通り少し頭を下げたまま、マキシマスに話すのをまかせて黙っていた。予想通り入り口で止められたが、マキシマスが用向きを告げると通された。マキシマスは将軍のテントに向った。ペトロニウスはマキシマスについて入り、その後急ぎ足でルッシラを探しに行った。

マキシマスは、今夜ばかりは将軍に引き止められたくなかったので、助手に書類を渡した。彼は途中で会った兵士たちとゆっくり挨拶をかわしながらルッシラの部屋の方向へと歩いていった。すると、意外なほど早く相棒が現れて、彼の隣を歩き出した。マキシマスは漂ってきた甘い香りに一瞬凍りつき、近衛兵がこれに気付きませんように、と祈った。マキシマスはルッシラの方へ手を伸ばして、少し待つように合図した。士官兵舎を出る兵隊達で門が混雑して来ると、彼はルッシラについて来るよう手招きした。ふたりは人ごみに紛れて、止められることもなく士官兵舎を後にした。そのあとようやく、マキシマスはルッシラをちらりと盗み見た。ペトロニウスの鎧が彼女にぴったり合っているのを見て、マキシマスは唇が震えるのを感じた。彼は兜の下にちらりと見えるクリームのようになめらかな肌をのぞき見た。髪は完全に隠れていて、よっぽど近くに来て見ない限り、若い男の兵士にしか見えなかった。

マキシマスは小さい声で「黙ってついて来て。」と言った。彼はルッシラをすぐ後ろに従えて裏門へ向った。彼女はぴったりとくっついて来ていたので、鎧を通して彼女の体温さえ感じられるような気がした。マキシマスは門番の兵士たちに挨拶した。思っていたとおり、何も質問はされなかった。外に出ると、彼は流れるように滑らかな動作で2本の剣を身につけ、川へと続く歩きなれた道に向って行った。

マキシマスはルッシラが重い鉄の鎧に慣れていないのを察して、少し歩調をゆるめた。彼女の手が自分の手に触れるのを感じて、彼は囁いた。「こんばんは、姫君。」

「こんばんは、サー。」ルッシラが笑いを含んだ声で答えた。「簡単だったわね。」

「まあね。でも戻ってくるときはこんなに簡単じゃないよ。」

「それはその時になったら考えましょう、マキシマス。この兜、脱いでもいいかしら?」

「まだ駄目だ。基地の壁のところからから完全に見えなくなって、今夜他に外に出ている人がいないのを確認してからでないと。」彼は少しずつ狭くなり始めた道をたどっていった。肩の高さまである雑草が道の両側に、明るい月光の下びっしりと広がっていた。マキシマスはだしぬけにルッシラの手を握りしめ、左側のひどく狭い道に導いた。そんな道があることすら、ルッシラにはわからなかった。ひとりしか通れないほど狭い道で、背の高いイグサや雑草にほとんど覆い隠されていた。草は、ふたりの鎧や脚にからみついてきた。

マキシマスには彼女が荒い息をしているのが聞こえたが、見晴しのよい所に出るまで止まらなかった。やがてルッシラの目の前が突然開け、気がつくと、さざなみの上に満月を映した広い水面の前に立っていた。

その光景の美しさに息をのんでいると、マキシマスは彼女の兜を取って地面に放り出し、両手を彼女の頭をつかんで、巻毛が背中に流れ落ちるまで指で髪を梳いた。そしてその手を離さずに彼女の顔を自分のほうに引き寄せて、やさしく唇をかさねた。「なぜだかわからないけど…」彼は囁いた。「その鎧を着ているあなたは、いつもよりもっときれいだ。」

彼女はこの言葉に微笑みを浮かべ、彼に凭れかかった。しかし、鎧と鎧がぶつかった感触は柱にでも凭れているようだった。マキシマスはやさしい声笑って言った。「ついておいで。」

そこからほんの数歩で、川の上に枝を伸ばした高い木に囲まれた川辺に出た。1本の木の根元に、大きく滑らかな岩があった。ルッシラが川を眺めている間に、マキシマスはすばやく彼女の鎧を外し、自分の鎧も脱いで、注意深く岩の横に置いた。彼女は彼の腕に飛び込んだ。彼女の胸は彼の胸におしあてられた。彼は片腕を彼女の腰にまわし、片腕は背中から頭のうしろにまわした。手で彼女の頭を支えたまま、彼は唇で彼女の唇をゆっくりとおし分け、やさしくくちづけをした。何度もやさしく唇を重ねるうちに、マキシマスは彼女が震えているのを感じた。彼は彼女の顔を肩に押し当ててしっかりと抱きしめた。「どうしたの、かわいいひと(スゥイート)?」

「わたくし、キスされたのは初めてなの。」彼女はくぐもった声で言った。「そんな勇気のある男の人はいなかったの。」

「いけなかった?」

ルッシラは顔を上げ、彼の陰りをおびた瞳を見つめて言った。「ちがうのよ。」彼女はほほえんだ。「あなたがキスしてくれればいいと思っていたわ。ただ、こんなに素敵だとは思っていなくて。」彼女は手の甲で彼の頬をゆっくりと撫でた。「世界が今ここで止ればいいのに。わたくしたち、ずっとここにいられればいいのに。ふたりきりで。」彼女は彼にもたれかかって、キスを誘うように唇をひらいた。

かわりに、マキシマスは彼女の手をとって大きな樫の木の下の平らな岩のところへ連れて行った。彼は木の根元にもたれて、膝をひろげて座った。彼女はよろこんで彼の膝の間に座り、背中を彼の厚い胸にすり寄せ、頭を肩にもたせかけた。マキシマスは腕を彼女の胸の下にまわした。彼女はその上に、自分の腕を重ねた。

ふたりはしばらく黙りこみ、夜の音を聴いていた。川面のさざ波、遠くで鳴いているふくろう、遥か頭上で枝をふるわせる風。

ルッシラは彼に顔を向けた。「わたくしを『かわいいひと』って呼んだわね。」

「ああ。」

「なぜなの?」

マキシマスは肩をすくめた。「あなたはかわいいから。」

「わたくしを、かわいいって言う人はほとんどいないわ。みんな、わたくしのことは短気でしたたかだと思っているのよ。」

「この間、あなたが衛兵たちをあしらうのは見ていたけれどね、正直に言って、かえって気に入ったよ。あなたはああいうけじめをつけられる強さを持っている人だ。でも、僕にとっては、あなたはかわいいとしか思えない。」

「あなたといる時は別の自分になったみたいなの、マキシマス。わたくしはずっとひとりぼっちなの。あなたといるとき以外は。ずっと一緒にいてくれる?」

「ああ。」

「約束する?」

「約束するよ。」マキシマスは彼女の鼻の先にキスをすると、もう一度キスをしようと指を彼女の顎の下にあてて顔を持ち上げた。彼女は身体をねじって胸を彼の胸におしつけ、ためらいなく口を開いて彼を驚かせた。今度は、マキシマスは舌で彼女の舌の先をなで、彼女が息をのみながらも身を引かなかったのに満足した。彼はキスを深めてゆき、ふたりの舌はからみあっていた。彼は彼女の舌をやさしく自分の口に迎え入れた。ルッシラは敏感に反応し、くちづけは激しく情熱的になっていった。

彼が離れようとすると、ルッシラは両手で彼の顔をつかんでキスを続けさせた。彼の舌が彼女の口に入ってゆくと同時に、その手は背中を上へと辿ってゆき、横から彼女の胸へと達した。柔らかなチュニックの布越しに、親指が固い乳首をなぞっていた。マキシマスが固い岩の上を身動きすると、ルッシラはうめき声をあげた。彼の頭は、これはいきすぎだと警告を発していたが、身体はそれを聞くのを拒否していた。

唇を離さぬまま、ルッシラの手は狂ったように彼のチュニックの裾を探り、その下に手をさし入れて指で背中のなめらかな肌をたどった。彼女の爪が肌にくいこむと、彼は身震いした。彼は唇を離して息をついだ。彼女の唇は彼の首のほうへ降りてゆき、彼の手は胸から降りていって彼女のチュニックの裾をもてあそんでいた。

突然、マキシマスは凍りついた。彼は一瞬目を瞬かせたが、兵士の頭脳に警告を送るにはそれで充分だった。「ルッシラ、ちょっと待って!」彼は厳しい声でささやいた。「お客さんらしい。」

ルッシラは驚いて彼の腕の中で振り返り、彼の視線を追って川の方を見た。暗闇の中で、水の上を何かがすごいスピードで動いていた。「何なの?」

「筏(いかだ)だ。」マキシマスは既に服を直し始めていたが、その暗い影から決して目を離さなかった。「4人か、もしかしたら5人いる。部族民だ。たぶん、こちらを探りに来ているんだ。奇襲には人数が少なすぎるが、斥候かもしれない。この木の下にいれば、こっちは見えないはずだし、まさか人がいるとは思っていないだろうが、見つかったら大変なことになる。ルッシラ、あなたを基地までつれて帰る暇はないようだ。」マキシマスはこんな所に彼女を連れてきた自分の愚かさを呪った。「急いで鎧をつけて、この岩の陰に隠れてじっとしていて。何があっても声をたてるんじゃない。いいか、何が起こってもだ。」

「助けを呼びにゆくの?」

「その時間はない。援軍を連れて戻る頃には、あいつらは森に消えてしまって2度とみつけられなくなる。目を離さないようにしなければならないんだ。さあ、いいか、声をたてるなよ。」マキシマスはルッシラを少し乱暴におしやって頭から鎧をかぶせてしっかりと着せ、巻毛が背中に落ちたままなのもかまわずに兜をかぶせた。

彼女が岩陰に隠れる間に、マキシマスは鎧を身につけ、2本の剣を無造作に右手に握っていた。どうやら、ついに本物の戦闘を経験することになったらしい。よりにもよってこんな夜に。

 

第15章 攻撃

マキシマスは2本の剣を片手で掴んで樫の一番下の、若葉の茂った大きな枝に飛びついた。そして、川辺と川面がよく見渡せるところまですばやく登っていった。何をするか決める前に、敵をよく見ておく必要があった。

音を立てずに近づいてくる筏には、4人の男が乗っていた。それぞれ剣を持っていたが、盾はなかった。どうやら、静かにすばやく森を抜け、そして基地の塀を登るために、重武装は避けたらしい。マキシマスには、彼らはとてつもない大男に見えた。マキシマスの背の少なくとも3倍はありそうだ。不意打ちをしない限り、マキシマスに勝ち目はないだろう。不意打ちなら、少なくとも2人は殺せる。

かなりのスピードで近づいてくる筏を見ながら、マキシマスはどの男がリーダーなのか見極めようとした。リーダーを最初に襲うつもりだったからである。リーダーを殺せば、他の3人は混乱するだろう。2人が筏を漕ぎ、ひとりは座っていて、あとのひとりが他の男たちに手で合図していた。あの男だ。

マキシマスは安定した枝を選び、腹ばいになって少しずつ枝の先の方まで移動し、手を枝から離した。彼は1本の剣を右手で構え、筏が射程距離に入ってくるまで待った。

部族民たちは、飛んでくる剣の音に気づくのが遅すぎた。彼らが頭を上げた時には、回転するきらめく金属の塊が立っていた男の心臓に深くくいこんでいた。声の出ない叫びに大きく口を開けて、彼は水しぶきを上げて筏から転がり落ちた。

他の3人は剣を抜いてぱっと立ち上がったが、敵の姿は見えなかった。マキシマスの耳に大声で言い争そう声が聞こえた。おそらく、上陸して戦うべきか、引き返すべきか争っているのだろう。彼らにとって不運なことに、男たちは選択を誤った。

彼らは狂ったように岸に向って漕ぎ、まだ腰の深さまである水に飛び込んだ。筏を後ろに引きずって岸に上げ、背中合わせに、水を滴らせながら、剣を抜いて立った。3人はマキシマスを目と耳と鼻を使って探していた。マキシマスはほとんど微笑みそうになった。彼らにはマキシマスのにおいは届かないだろうが、彼らのにおいはマキシマスに届いていた。マキシマスは次の犠牲者を、ほとんど余裕をもって選んだ。彼は1番の大男ではなかったが、このローマ兵の次の行動に都合の良い位置に立っていた。マキシマスは音を立てずにブーツから懐剣を抜き、全力をこめて投げおろした。彼から一番近いところにいた男が首を懐剣に刺されて、ばったりと倒れた。

最後に残った剣を手に、マキシマスは飛び降り、地面を転がって身をかがめた。喉からうなり声がもれていた。残る2人の部族民はすばやく彼の方を振り向いた。ひとりは、ローマ兵が単独だと気づくと笑いを浮かべた。マキシマスはこの男に狙いを定めた。彼は剣を振り上げ、男の首めがけて振り下ろしたが、相手はすばやく剣を避けた。金属と金属がぶつかりあった。

マキシマスは稲妻のような速さで、今度は剣を振り上げたが、これもかわされた。ひとりと闘いながら、彼はもうひとりから目を離さないようにしていた。もうひとりは、彼を挟み撃ちにできる位置に回り込もうとしていた。マキシマスは重い剣を振り回しながら、ふたりを常に視界に入れるように動きつづけていた。ふたりは熟練の戦士らしく、どちらかがミスをしない限りマキシマスに勝ち目はなさそうだった。

砂の上で足場を安定させるのは難しかった。マキシマスは、2人を相手に身体ごと剣を振り回していた。今や彼は防戦にまわり、敵が優位に立っていた。彼は低くうなりつづけていた。彼は敵が集中力を失うのを待っていたが、彼らはしぶとかった。剣を手から手へと投げながら、彼は力をためた。マキシマスは、敵が彼を川の方へ追いやって動きを鈍らせようとしているのに気づいていた。彼は一か八かで、ひとりに向い、体を低く構えて突撃した。彼が剣を突き出すと、男は苦痛の叫びを上げて剣を落とし、脚をかかえてうずくまった。

マキシマスは腹ばいになって、負傷した男の剣を掴み、もう一人の男が砂の上に剣をたたきこむ一瞬前に転がって避けた。一瞬後には彼は両手に剣を持って立っていた。彼は脅すように2本の剣を前に後ろに振りまわした。男の顔に初めて不安の表情が浮かんだのを見て、マキシマスは突撃した。男は後向きに川の中へ追いやられて行った。怯えた男がよろめくと、マキシマスは彼に飛びかかって首に剣を突き刺した。刃を抜くと血が吹き出した。死んだ男は、目を見開いたままゆっくりと膝をつき、前に倒れて顔を川の黒い水に沈めた。

「マキシマス!うしろ!」

彼が振り向くと、傷を負った男が恐ろしい叫び声をあげて彼に飛びかかった。マキシマスは水の中の死体の上に仰向けに倒され、剣を1本手放してしまった。剣はすぐに水に沈んでいった。顎に拳が飛んできて目の前に火花が散ったが、彼はもう1本の剣をしっかりと握りしめ、柄を男の顎に叩き込んだ。男は後ろによろめき、マキシマスに立ち直る暇を与えたが、ちゃんと立ち上がる前にもう一度攻撃された。ふたりは水しぶきをあげて川に倒れ込んだ。マキシマスはまだ剣を持っていたが、水の中ではかえって不利に思えたので、剣を捨てて拳を敵の鼻に叩き込んだ。1回、2回。骨が砕ける音が聞こえ、ふたりの体に血が飛び散った。

マキシマスは足にしがみついている血塗れの男を蹴りとばし、彼の背中に飛び乗って前向きに水の中へと倒した。マキシマスは男の首に手を当てて全体重をかけ、もがいている男がぐったりとして、泡が水面に浮いてこなくなるまで押さえつけていた。

彼は疲れきっていた。彼は水に腰までつかり、水面を見つめながら立っていた。後からルッシラが彼の名を呼ぶのが聞こえ、彼はゆっくりと振り向いて、岸に向って歩きはじめた。彼女はすぐに彼を固く抱きしめて体中に手を走らせて怪我をしていないか探った。

「大丈夫、怪我はしてない。」

この言葉に安心して、ルッシラはすすり泣き始めた。マキシマスは彼女をやさしく濡れた身体に抱きよせた。冷たい鎧が二人の間を阻んでいた。ルッシラにとって、ここで起こった事を見ているのは、実際に闘うのと同じくらい辛かっただろう、と彼は察した。しかし−彼は、今夜人を殺したのだ。彼は人を殺した。

彼は、人を殺したのだ。

訓練の時には、彼は時々、自分は実際に人間に対してこういうことを出来るのだろうか、と自問していた。しかし、マキシマスは今夜、ハードルを越えた。自分は必要なら、人を殺すことが出来る。今や彼には、それがはっきりとわかっていた。

ルッシラは静かに涙を流していた。「こんなに恐ろしいことは初めてよ。こんなにすごいことも…マキシマス、あなたって凄いのね。」

「でも今は、寒いしくたくただよ。あなたを基地に連れて帰ってこの事を報告しないと。今夜は南風でよかった。でなけりゃ、基地の半分の人が戦闘の音を聞いて集まって来ているところだ。」

ルッシラは袖でやさしく彼の顔の血を拭き取り、唇にキスをした。そして、彼の剣をもって帰り道の方へ歩いて行った。

「ちょっと待って。兜の下に髪を入れて。君はペトロニウスだ。憶えてる?」マキシマスは笑った。「かわいそうなやつ。いったいどこにいっちゃったんだろう、と思ってるんだろうな。」

ルッシラが髪を整えている間にマキシマスは言った。「この事を門番に報告したら大騒ぎになる。君はその隙に門を入って出来るだけすぐにペトロニウスと交代してくれ。彼に何が起こったかかいつまんで説明して、すぐに僕の所へ来て指示を受けるように、それまで何も言うな、と言ってくれ。わかった?」

「了解しました、サー。」ルッシラは従順に頭を下げた。

「ふざけるなよ」マキシマスはつぶやいて、後れ毛を兜の下に押し込んだ。彼は彼女にすばやくキスをして、手を引いて来た道を戻って行った。門では全てマキシマスの言った通りになり、ルッシラは真っ直ぐ自分のテントに向った。心を完全に虜にしてしまった若い兵士への愛に興奮して、彼女の心臓は早鐘を打っていた。

 

第16 〜 20章