Maximus' Story
Chapter 21 - 25


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第21章 真実

翌日、木の間から夕日の射す頃、部隊の兵士は再び集合して皇帝たちを迎えた。

百人隊長となったマキシマスはふたりの偉大な人物の臨席する会合に出席を許され、この名誉を喜んで受け入れた。士官兵舎の大きなテントは、各階級の上級将校たちで混み合っていた。コモドゥスもそこにいたが、彼は不機嫌な顔でマキシマスと目を合わせるのを避けていた。百人隊長の方は、静かに入り口の側に立ち、その青い瞳に殺意をこめて睨みつけていた。マルクス・アウレリウスの方が、この若い兵士の視線に気づいた。視線の主が誰かを思い出した皇帝の顔に笑みが広がり、彼はマキシマスにうなずきかけて挨拶を送った。驚いたマキシマスは、彼独特のかすかな微笑みを返して、笑みが顔いっぱいに広がるのを頭を下げて隠した。マルクス・アウレリウスはくすくすと笑った。彼は、この若者のことを本当に好もしく思っていた。

マルクス・アウレリウス帝が会合を仕切っていた。ローマからは、疫病に関する最新情報が届いていた。何千人もの市民にむごたらしい死をもたらした疫病は、ようやく収まり始めているそうだ。マキシマスはいつものように、友人のルシアスの事を考えた。彼はどんなに恐ろしい思いをしただろう。続いて、現在の平和は長くは続きそうはない、という情報がもたらされた。東部前線は安泰になったが、今度は北部が不安定になっており、ドナウ沿岸の連隊は戦闘準備を整えなければならない。若き百人隊長は、恐怖のまじった興奮で胃がひきしまるのを感じた。自分は本物の戦争に部下を率いていくことができるだろうか?彼の物思いはルシアス・ヴァレスの重大発表によって中断された。数日中に、ふたりの皇帝と精鋭部隊が川の向う岸にキャンプしているゲルマン人部族に、先制奇襲攻撃を行う。マキシマスはまだ将校になったばかりなので、その精鋭部隊に選ばれる望みはなさそうだ、と思っていた。

会合が終ると、両皇帝は将校達と懇談に入った。マルクス・アウレリウスは入り口の側に立ったままのマキシマスの方へまっすぐ歩いて来た。「君だと思ったよ、マキシマス。前に会った時はまだほんの子供だったのに、今や百人隊長か。君の歳で百人隊長になるとは、ほとんど聞いた事もない。心からお祝いを言うよ。」マルクスは若者の肩をつかみ、敬意の印にワインのグラスを上げた。

「ありがとうございます。」彼は頭を下げながら、コモドゥスがふたりを見つめているのに気づいた。彼は、百人隊長と自分の父親がいかにも親しげにしているのを見て、蒼白な顔を口惜しげにゆがめていた。それを見て、マキシマスは満足の笑みを浮べた。

「明日の模擬試合には、君も参加するのだろう?」マルクスが聞いた。

「はい。」

「まあ、君は先日の活躍の後では力を示す必要もなかろうが、君の試合を見るのを楽しみにしているよ。」

「ありがとうございます。」

マルクス・アウレリウスは彼の肩をたたいて、次の将校の方へ行った。マキシマスは、ルシアス・ヴァレスと初めて顔を合わせた。彼はマルクス・アウレリウスよりだいたい10歳ぐらい年下だろう、とマキシマスは思った。ということは、30代の半ばぐらいだろうか。皇帝であると同時に軍の司令官でもある彼は、いつも鎧を完全装備で身につけ、威圧的な姿をしていた。若白髪の、がっしりとした背の低い男で、背はマキシマスの鼻の辺りまでしかなかったが、彼の体格の悪さを勇気のなさと間違える人間はいなかった。彼はカシウス将軍と共に東部の異教徒達への攻撃を率い、大勝利を収めたのだ。彼は未婚で、基地には彼の年老いた母と30歳ぐらいの妹が先に着いていたが、マキシマスはどちらの女性も見かけた憶えはなかった。

「君がマキシマスだね?」

「はい、そうです。」マキシマスは頭を下げた。

「蛮族が攻撃してきたとき、君がたまたま基地の外にいて、本当によかったよ。」

「あれは攻撃というわけでは…」

「君が止めてくれなかったら、攻撃になっていた。本当に、君のような人間がいて、ローマは幸運だよ、マキシマス。まさに、君のような人間がいるからこそ、ローマは無敵の強さを誇っていられるんだ。」

「ありがとうございます。」若き百人隊長は、帝国を支配している2人の人物の両方からこれほどの注目をあびて、ほとんど圧倒されていた。

「それに、君には個人的にもお礼をしなければならないね。基地の中の人々を命懸けで守ってくれたのだから。特に私の家族と、それに、婚約者をね。」

「婚約者とおっしゃいますと?」マキシマスは礼儀正しく聞いた。

「ああ、」ルシアス・ヴァレスはくすくすと笑った。「ルッシラだよ。もうすぐ結婚する。運のいい男だろう、私は?」

マキシマスの頭から足の先までを衝撃が貫いた。彼は心臓をわし掴みにされたように感じ、息ができなくなった。やっとのことで弱々しくうなずき、手で喉をつかんで息をついだ。

「君、大丈夫か?いまにも倒れそうな顔だぞ。」ルシアス・ヴァレスは心から心配して言った。

「大丈夫です」マキシマスはささやくような声で言った。「失礼します、陛下、外の空気を…」彼は御前を下がる許しも待たずに、出口の方へふらふらと歩いて行った。将校達のいぶかしげな視線を気にもとめず、14歳の皇位継承者の暗い顔に、勝利の笑みが広がっているのには気づいてもいなかった。

外へ出るやいなや、マキシマスは身体を折り曲げて、焼けつくような肺に冷たい空気を深く吸い込んだ。誰かの手が背中に置かれ、誰かの声が彼の名を呼んだが、彼は振り払って基地の裏門まで真っ直ぐ走って行った。彼は門番の前を駆け抜け、夜の闇の中へと飛び込んだ。彼は川岸に出るまで走りつづけた。ほんの数日前、ルッシラと親密な時を過ごした川岸。彼女はその時にも、自分がもうすぐ皇帝と結婚することを承知していたのだ。最初から、彼女は彼を騙していた。遊びだったのだ。愛に目が眩んで、それがわからなかった。

胸の痛みに耐えかねて、彼は膝をついた。再び身体を折り曲げて、冷たい湿った砂に額を押し当てた。悲しみは、火の塊になって彼の心臓を灰になるまで焼き尽くすかのようだった。彼は地面にあおむけに転がった。涙は出ず、ただ体中が痛んでいた。彼の怒りは、苦痛の叫びとなって辺りの静けさをついてひろがり、怯えた梟が鳴きながら夜の闇の中に飛び立って行った。

 

第22章 模擬試合

マキシマスは彼の素晴らしい栗毛馬の上に、彫像のように無表情に座っていた。広場の隅で、マキシマスの隊の部下達は彼のまわりに集まっていた。羊たちは追い払われ、皇帝たち、元老議員たちとその家族を迎えるために、絹で贅沢に飾られた木製の観覧席が作られていた。

マキシマスは彼らの方を見もしなかった。

ルッシラは観覧席で父親と婚約者の間に座って、馬上の男からどうしても目を離せずにいた。彼女の表情はその男と同じぐらい固く無表情だった。彼女の視線は彼を追い続けていた−彼が部下を引連れて観覧席の前を行進していった時も、馬から降りて剣と盾を取り、草のはえた競技場の真ん中へと歩いて行った時も。もうひとりの兵士が近づいて来て、彼の前に立った。

「クイントス、」マキシマスは挨拶した。

「マキシマス、久しぶり。昇進おめでとう。」クイントスは心をこめて言った。「当然の昇進だな。」クイントスはもうとっくに、どんな分野においてもこの友人の上に立つことはできないと自覚していたが、せめて出来る限り追いついてゆきたいと努力していた。しかし、マキシマスが百人隊長になったことで、また大きく差をつけられてしまった。

マキシマスは堅苦しい微笑みを、なんとか浮べた。「ありがとう、クイントス。久しぶりだな。」

「陛下たちのご機嫌を取ったら、あとで一杯どうだ?つもる話でもしようぜ。」

マキシマスはうなずいた。ふたりは握手をかわして、数歩離れたところに立ち、集まったお歴々に剣の腕を披露する準備を整えた。

マキシマスは落ち着いて見えたが、その表情にはクイントスを落着かない気分にさせた何かがあった。彼の目には、それまでに見たことのないような冷酷さが見てとられ、不安をかきたてた。

戦闘開始の合図と同時にマキシマスは動いた。マキシマスが容赦なく剣を振り下ろす直前に、クイントスはかろうじて盾をあげた。観客は息を呑んだ。クイントスはよろめいたが、なんとか体勢を立て直した。次の猛烈な一撃を避けようとして、彼は膝をついた。クイントスは気づいた−これは、ただの試合ではないと。興奮に恐怖が入りこんできた。彼は剣を上げて次の攻撃を防いだ。鉄と鉄がぶつかり、火花が散った。観客は歓声をあげた。第6隊の兵士たちの若き上官をたたえる歓声は、とりわけ大きかった。

闘技者たちは、競技場の中で激しい攻防を繰り広げながら、うなり声を上げ、腕も折れよと剣を振っていた。観覧席では、コモドゥスが立ち上がり、興奮に手を握りしめていた。彼の視線はマキシマスに釘付けになっていた。その男はまさに目を奪う姿をしていた。輝く鎧、簡素なチュニックの下のむき出しの腕と脚の筋肉は、汗で光っていた。剣と剣がぶつかりあい、ダンスの様な攻防が続いた。もう姉の愛情を争う相手ではなくなった男を、コモドゥスはふたたび戦士として尊敬できるようになっていた。

試合は人々が予想していたより遥かに暴力的になっていた。マキシマスは止まらなかった。競技場のすぐ横で見ていたダリウスは、だんだん心配になってきていた。マキシマスは我を忘れ、どちらかが死ぬまで闘うつもりのように見えた。怒りが彼にエネルギーを与えていた。クイントスは驚くほどうまく持ちこたえていたが、立続けの攻撃に、明らかに力を失い始めていた。ダリウスは競技場に入って行き、邪魔をするなという怒鳴り声を無視して叫んだ。「マキシマス、マキシマス!充分だ!もう充分だ!落ち着け!」

マキシマスには彼の声が聞こえなかったか、聞こえても無視していた。彼はふたたび、クイントスの盾に猛烈な一撃を叩き込んだ。今や誰が見ても、クイントスは危険な状況に陥っていた。

観覧席で、ルッシラは手をねじっていた。マキシマスがなぜ悪鬼のごとく闘っているのか、彼女にはよくわかっていた。彼女の前で、コモドゥスは興奮して立ったり座ったりしていた。コモドゥスの隣には母親が座ってマキシマスを目で追っていた。その目つきを見て、ルッシラは胃を締めつけられるように感じた。彼女の婚約者、ルシアス・ヴァレスは、マルクス・アウレリウスにマキシマスは獣のようだ、と言った−賞賛の意味をこめて−ふたりの皇帝は笑い声をあげた。ルッシラは身震いして、競技場の戦士の中に彼女を抱きしめてキスをした優しい男を見つけようとしていた。

急に、スタンドの全員が一斉に立ち上がり、彼女の視界をふさいだ。彼女は恐ろしさをこらえて立ち上がり、マキシマスが剣を落として地面に倒れて顔を押さえてもがいているクイントスの方へ走ってゆくのを見た。

「今の見た?お母様、今の見た?マキシマスは顔にもろに斬りつけたよ。たぶん殺したんだ。」アニアは黙って微笑んだ。

ダリウスがマキシマスより前にクイントスの所へ着き、顔から手をどけさせて目の間の深い傷から血がほとばしっているのを見た。ダリウスは自分のチュニックの布を引き裂いて傷にしっかり押し当て、蒼白な顔でたたずんでいるマキシマスを見上げた。「見かけほどひどくはない。顔の傷は血が出るものなんだ。」彼の口調は厳しくなった。「マキシマス、どうしてこんなに追いつめたんだ。殺すところだったぞ。殺す気だったのか?」

マキシマスは黙って首を振った。

草の上からクイントスが言った。「おれは大丈夫だよ、マキシマス。手を貸してくれないか?」

マキシマスは膝をついてクイントスの片腕を肩にまわした。ダリウスがもう片方の腕をとった。三人はマキシマスの隊の部下たちの歓声の中をゆっくりと退場したが、彼は恥ずかしくて部下たちの方を見ることができなかった。「クイントス、悪かった」彼はささやいた。

「これでますます男前が上がったよ。村の女たちはお前のかわりにおれを追いかけ出すぞ。」

3人の男たちが退場すると、マルクス・アウレリウスは側近に向って言った。「マキシマスに試合が終ったら私に会いに来るように伝えなさい。話がある。」

彼は、遠くを行く三人の男を蒼白な顔で黙って見つめている娘をちらりと見てから、既に競技場に出ている次の組に注意を戻した。


その夜、マキシマスはマルクス・アウレリウスのテントを訪れた。マルクスは彼を暖かく迎えて言った。「ここに到着して以来、君の名前を聞いてばかりだよ、マキシマス。将軍からも、議員たちからも、息子と娘からも。君はみんなに強烈な印象を残すようだね。今日は、私もその一人になったようだ。」

マキシマスは居心地悪そうに身じろぎした。「そのことについては、お詫びしなければなりません。」

「本当かね?なぜだ?」

「私は試合をめちゃくちゃにしてしまいました。ただの模擬試合で、誰も怪我をするはずではなかったのに…」

「戦闘となれば、興奮するのが当然だよ、マキシマス。たとえ、本物の戦闘でなくてもね。この間の部族民たちがどんな目にあったかおおよそわかった気がするよ。」皇帝は笑い声をあげた。「気の毒に思うほどだ。」

マキシマスは賞賛を受け入れる気にはなれなかった。「クイントスは友人なんです。必要もないのに、怪我をさせてしまいました。」

「こっちへ来て座りなさい、マキシマス」マルクスは革の椅子を手しめして座るようすすめた。若い兵士は感謝して座った。

「君には闘志というものがある。それは君が考えているほどありふれたものではない。ローマの兵士には貴重なものだ。」マルクスは微笑んだ。「君は若いのにたいへんな技を持っている。君が学ばなければならないのは、君の怒りをふさわしい相手に、ふさわしい方法でぶつけられるように制御することだ。君が腹を立てていた相手はクイントスではなかった。彼はたまたま、君が剣を向けた先にいただけなんだろう?」

マキシマスは床を見つめたままうなずいた。

「この数日君が耐えてきたような思いをしたら、私でも邪魔をする奴は誰でも首を叩き落としてやろうという気になっただろうな。」

マキシマスはいぶかしげに目を上げた。

「私が着いてすぐ、娘がやって来てね。娘はひどくとり乱していて、君を愛してしまったと告白した。犬の事やらなにやらも聞いたよ。」マルクスは深いため息をついた。「娘がなぜ君に恋したのかはよくわかる、マキシマス。こんな状況でなければ、私は君たちの恋を認めて、君を息子に迎える事を誇りと思っただろう。それほど嬉しいことはなかっただろう。しかし、ルッシラは皇帝の娘だ。娘には、君と同様ローマに対する義務を負っているんだ。ルッシラの義務は、皇帝と結婚してふたりの皇帝の血をひく未来の皇帝を産む事だ。そのために、2年前にルシアス・ヴァレス皇帝と婚約したんだ。18になるまでは結婚させないでくれと言われたので待っていたんだが、もう18になったし、すぐに式を挙げさせる。ローマにはしばらく帰れそうもないので、ここゲルマニアで挙げる事になるだろう。ルシアス帝はすぐにでも正式に結婚したがっているんだ。」

マルクスは身を乗り出してマキシマスの顔を真っ直ぐに見た。「娘は婚約の事は何も言わずに君と愛を語って、一緒になる可能性があると君に思わせたと言っていた。君の気持ちをもてあそぶつもりはなかったんだと思うよ、マキシマス。娘は本気で、自分で選んだ男との結婚を私が許すかもしれないと思っていたらしい。しかし、それは無理だ。わかってくれるね?」

「はい、わかります。」

「しかし、それでも、頭ではわかっていることが心では納得できないものだろう。私が君の年頃だった頃の事を覚えているよ、マキシマス。真剣な恋なら、失恋の痛みもひどい。誰でも経験のあることだ。ただ私は、こんなに大事に思っている若者を傷つけたのが自分の娘だというのを残念に思っている。」

マキシマスは息を呑み込んだ。「ありがとうございます。」彼は小さい声で言った。

「ルッシラの言った通りだな。君はコモドゥスのよいお手本になっただろう。あの子は君のような、頭が良くて誇りと勇気を持っている男を手本にすべきなんだろう。このことでも、残念なことをしたよ。」マルクスは椅子から立ち上がって歩き回り始めた。「私の家族は君にはいろいろ申し訳ない事をしているようだね。私はその埋め合わせに、できる限りのことをしたい。まず、息子と娘と妻は明日ここを発たせて、あまり遠くない所の別の連隊に滞在させることにする。ルシアス・ヴァレスが送っていって、彼は一人で戻ってくる。」

マキシマスの喉に、苦い怒りがこみ上げて来たが、彼はそれを呑み込んだ。

「それから、マキシマス、君に結婚の許可を与えよう。いつかふさわしい女性を愛したら、結婚するといい。今はまだ、再び愛することがあるとは思えないかもしれないが、きっとまたそういう時が来る。ローマ軍でその特権を持っている人間はほとんどいないが、君にはその許可を与えよう。最後に、重要な事だが、君を養子にしたいと請願してきた元老院議員がいてね、私は書類に署名した。君はもう、元老院階級の一員で、その特権をすべて行使できる身だ。」

なにもかもが一度におしよせて、マキシマスはそれぞれの事柄の重要さが把握しきれなかった。「その議員は何という名前ですか?」

「マルクス・ルシニウス・マルセラスだが、君は自分の名前を変えたくないという事だから、変えなくてよろしい。今夜彼に会う事になっているが、彼とも彼の家族とも、そう望まないなら、それ以上の関係をもたなくてもよろしい。養子縁組といっても、本当に形式上だけのことだからね。」

「何と申し上げていいか…」

マルクスはマキシマスの前に立ち、彼も立ち上がった。皇帝の微笑みはあまりに優しく、気遣わしげで、マキシマスは爪を掌にくいこませて涙を堪えていた。マルクスは両手で若い兵士の肩を掴んでやさしく言った。「君はもう、娘には会わないほうがいいだろう、マキシマス。出発まで、部屋を出させないようにする。あの子のことは忘れたまえ、サン。」

マキシマスはみじめな気持ちでうなずいた。

「ルシアス・ヴァレス帝は数日で戻って来る。そうしたら、川の向うに遠征隊を送り込む準備を始める。蛮族どもに、反乱は必ず鎮圧する事を思い知らせてやらなければならない。君にその遠征隊の一員になってほしい、マキシマス。」

百人隊長は口をぽかんと開けた。「光栄です、サー。」

マルクスは笑った。「今日見せてくれた君の力と技を、今度はゲルマン人に直接向けてくれ。」マキシマスは微笑みを返した。「結構。それでは、君の養父に会って、その後は寝ることだ。ふたりとも、少し眠った方がいいようだ。」

その夜、マキシマスがようやく皇帝のテントを後にした時、彼は右も左も見ずにまっすぐ士官兵舎の門に向った。マルクス・アウレリウスのおかげで、将来の展望が見えてきた。自分に何ができるのか、何を成し遂げたいと思っているのかがわかってきた。彼の行く手を塞ぐものは何もない−誰もいない。

彼の背筋を伸ばした力強い後姿を、涙をためた緑の瞳が見送っていた。ルッシラは夜中ずっと、マキシマスを一目でも見ようと、自分のテントの入り口のそばに隠れていた。彼が自分を許してくれているという印がかけらでもほしかった。しかし、今、はっきりとわかった−彼は許してはいないと。彼女はベッドに倒れこんだ。彼女はこれからの自分が送る人生と、今まで夢見ていた人生とを考えて、苦い涙を流した。

 

第23章 奇襲攻撃

マキシマスは身震いした。冷たい春の雨が彼の頭に降り注ぎ、岸辺を足首まである泥地に変えていた。しのつく雨の中、鎧で完全装備させられている馬は、嫌そうに首を振っていた。マキシマスは手を伸ばして馬の首をやさしく叩いた。しかしその動きによって彼自身の首が雨にさらされ、冷たい水が鎧の下に流れ込んだ。下着が湿っぽくなり、不快に肌にはりついた。

マキシマスは連隊から選ばれた百人のうちの一人だった。その精鋭部隊は、暁とともにドナウ川を渡り、対岸の部族軍に奇襲攻撃をかけるのだ。ローマ軍は敵軍に対し圧倒的少数だったが、必要な時には連隊をあげた総攻撃を行なえる体制が整えられていた。この攻撃の目的は、北岸にローマ軍の安全な足場を築くことだった。他のフェリックス連隊も、援軍が必要な事態に備えて準備を整えていた。

あたりはまだ暗かった。午前5時頃であろうか。悪天候のせいで今日の夜明けは遅くなりそうだが、おそらくその悪天候こそが彼らの命を守ってくれるのだ。凍てついた北風はローマ軍側の物音が対岸へと流れてゆくのを防ぎ、低く垂れ込めた灰色の雲と川面から立ち上る霧が、対岸に立てられた物見台から彼らの姿を隠してくれる。

ダリウスがマキシマスの隣に、反対側にはクイントスがいた。三人の前にはルシアス・ヴァレス皇帝とパトロクルス将軍。彼らの後には約90名の兵士が続いていた。全員が、卓越した戦闘能力によって選ばれた兵士たちだ。全員が、マキシマス同様寒さに震え、神経を尖らせていたが、物音をたてる者はいなかった。聞こえてくる音は、馬たちのたてる神経質な鳴き声だけだった。

マキシマスは東の方を見て、空が白み始めているのに気づいた。もうすぐ、重い筏を森の隠し場所から川へと引き出せという合図が来るだろう。彼は心の中で武器をチェックした−2本の剣と盾は、腰にしっかりくくりつけてあった。部隊の半数以上は射手だった。彼らが徒歩で攻撃の先頭をきり、殺せるだけの部族民を殺して敵基地を混乱に陥れ、そこへ騎兵隊が突撃する作戦になっていた。

優秀な斥候兵達の働きのおかげで、ローマ軍は敵基地の構造も敵軍の勢力も完全に掌握していた。任務は単純明快だった−攻撃し、殺し、安全な川まで帰還すること。川の対岸では、マルクス・アウレリウスの率いる射手隊が、川を越えて何百という矢を生き残りの部族民に射かけ、撃退するべく待ち構えていた。

すでにマキシマスには、周囲の僅かな明かりで陸地と川の境が見えるようになっていた。彼は耳をすまして前進の指令を待った。指令は数分待たぬうちに来た。いくつもの重い筏が進水し、ルシアス・ヴァレスとパトロクルス将軍は先頭の筏に乗りこんだ。彼らの馬は、ついて泳ぐよう後ろにつながれていた。マキシマス、クイントス、ダリウスの三人は他の四人の兵士と共に次の筏に乗った。ブーツに冷たい水が流れ込むと、マキシマスは身震いした。彼はすぐに櫂をとり、広い川へと漕ぎ出した。クイントスも筏を漕ぎ、ダリウスは後ろを泳いでいる馬たちの手綱を取っていた。その水音は、強い雨音にかき消されていた。

彼らは蛮族の基地より上流に上陸し、攻撃に備えて集結した。兵士たちは全員、身体を震わせていた。それは氷のような川を渡ってきたためばかりではなかった。マキシマスは深呼吸して息を整え、側で馬に乗ったダリウスとクイントスを見た。「力と名誉を」彼は静かな、自信に満ちた声で言った。ふたりは驚いて彼を見た。

ダリウスは微笑んだ、「力と名誉を、マキシマス。」彼は手を伸ばして、友の肩を握りしめた。

「そうだな。力と名誉を」クイントスはとても真剣にそう答えて、同じようにした。

全ての目がルシアス・ヴァレスに集まり、合図を待った。早朝の篝火の煙が森の上に立ち上っていた。普通の状況であれば心をそそられるような匂いだが、それは部族民たちがすでに活動しているという兆であった。ルシアス・ヴァレスは腕を差し上げた。彼がその腕を下ろすと同時に、50人の射手が徒歩で基地に向かい、森の中に突撃した。射手隊はすぐに騎兵隊の視界から消えた。しかしすぐに驚きの声に続いて、まだ目覚めたばかりだった部族民たちの悲鳴が聞こた。射手隊は使命を果したのだ。ルシアス・ヴァレスはふたたび腕をかざした。マキシマスは全身の筋肉が緊張するのを感じた。剣が振り下ろされた。パトロクルス将軍率いる騎兵隊は剣を抜き、基地に向かって暗い森の中へと突撃していった。

マキシマスは将軍のすぐ後ろに現れた。彼は剣を振り下ろし、不運な部族民の男の首に容赦ない一撃を叩き込んだ。男の首は空中を回転し、泥の中に着地して転がっていった。剣をふたたび高く振り上げると、死んだ男の血が彼の鎧と顔に降り注いだ。マキシマスはさらに、慌てふためいて逃げる2人の男をすばやくかたづけた。もはや手を上げるぐらいしか防御の手段をのない人間に剣を振り下ろすことは、マキシマスをなぜか落ちつかない気持ちにさせた。彼の力強い腕と鋭い剣は、ナイフでパンを切るように人間の首を斬り落とすことができた。

部族民たちがようやく武器を取り、反撃の準備を始めるのを見て、若き百人隊長は安堵に近いものを感じた。マキシマスは馬に拍車をかけて、将軍のすぐ後ろについて突進した。将軍は雄叫びを上げながら2人の敵を刺し殺した。マキシマスは将軍に負けじと剣を振るい続けた。このふたりのローマ戦士を見て、部族民たちは森の奥に逃げ込んでいった。

「マキシマス!」将軍は叫び、若い兵士の後ろを剣で指した。マキシマスは間一髪で振り向いて反撃を防ぎ、ゲルマン人兵士を斬り裂いた。雨足は衰えず、地面は泥と血の沼地と化していた。馬脚は滑り始め、歩兵たちは足を滑らせ、べとべとした泥の中に膝をついた。マキシマスは腕で目にかかる滴を拭い、すばやく周りを見まわして状況を把握した。地面は死体でいっぱいだった。ほとんどは長髪の部族民だったが、ローマ兵も少なくとも十数人倒れていた。マキシマスには、それが誰と誰なのかはわからなかった。

遠くの戦闘の音はようやくおさまりかけていた。マキシマスは、川岸まで退却せよ、というルシアス・ヴァレスの号令を聞いた。彼と将軍は集合地点から最も遠いところにいた。マキシマスは鞍の上で振りかえり、パトロクルスに命令が聞こえたかどうか確かめようとした。将軍を見て、彼の身体に衝撃が走った。将軍は地面に倒れ、泥で滑って倒れた馬の下敷きになっていた。ローマ軍の司令官が倒れたのを見て、森に逃げ込んでいた部族民の何人かが戻り、彼に忍び寄っていた。起き上がろうともがく馬の首に矢が射込まれ、馬の頭は泥に沈んだ。マキシマスは必死で馬を駆り立て、動けない将軍と部族民たちの間に入った。彼は数本の矢を盾で受けとめた。彼は大声で応援を呼んだが、周りには誰もいなかった。重い雨のカーテンが彼の声をかき消していた。

 

第24章 奇襲攻撃(続)

マキシマスは目を細め、敵の人数を見定めようとした。少なくとも12人−と、彼は思った−いくらなんでも、彼一人で闘うには多過ぎる。部隊の誰かがふたりがいないのに気づいて戻ってきてくれるまで、なんとか生き残り、将軍を守れるよう全力をつくさなければならない。

空を切る矢の鋭い音に気づいてマキシマスはのけぞった。矢が鎧の胸をかすめて飛んだ。彼は後ろによろめき、馬は驚いて前脚を上げた。 彼は馬の背を掴もうとしたが、雨に濡れた毛皮に手が滑って背中から泥の中に落ちた。剣と盾は手に握りしめたままだった。彼は泥に着地すると同時に回転し、次の矢が来る直前に立ち上がった。彼は盾を上げて矢を防いだ。ゲルマン兵たちは新たな矢を次いだ。マキシマスは後向きに這って馬の死体につまずき、動けない将軍の上に倒れこんだ。彼の盾に、続けさまに矢が射こまれた。この盾は、あと何本の矢を持ちこたえることができるだろう。

「お怪我は?」マキシマスは心配そうに聞いた。

「傷ついたのは主にプライドだな、マキシマス」パトロクルスは顔をしかめた。「しかし、脚の感覚がないし、馬の下にはさまれて動かせないようだ。」

「盾はどうなさいました?」

「馬の下だ。剣はどこかへいってしまった。落ちた時に失くしたらしい。」将軍の声は緊張していた。

マキシマスは泥の中で身体を低くして、死んだ馬の体を盾がわりにして矢を避けた。しかし、部族民たちがすぐにまた攻撃してくることはわかっていた。パトロクルスは腰まで馬体の下にはさまれ、泥の中に深く沈んでいた。ひとりで馬を持ち上げて将軍を助け出すのは無理だろう。彼は体をねじって背中を馬に押しつけた。何か固いものが足に触れた。それは将軍の泥にまみれた剣だった。マキシマスは剣をつかみ、落とせるだけの汚れを落として、あとは雨にさらして洗った。その時、彼は原始的な武器を持ったゲルマン人剣士が木から木へと走り回っているのに気づいた。一方に矢、一方に剣。いったいどうやって、この窮地を脱出したらいいのか?

マキシマスは自分の盾で将軍を守り、ばかなことはするな、という彼の忠告を無視した。「マキシマス、私はもう助からん。君はまだ生き残るチャンスがある。行きたまえ。」

「いいえ。」

「マキシマス、指揮官はまだ私だぞ!」

「もちろんです。しかし、あなたは今決断を下せる状態ではありません。今は私が決断しますから、私を信じて下さい。」

パトロクルスは若き兵士の決然とした表情を見上げた。まったく、怖ろしいような表情だった。彼は顎を引き締め、鋼鉄のように冷たく蒼い目を細めていた。将軍は黙って頷いた。この絶望的状況下で、マキシマス以上に頼りになる兵士はいないだろう、とパトロクルスは思った。

彼が側を離れたら、パトロクルスすぐに攻撃されるだろう。若き百人隊長は動かずに、剣を持ったゲルマン兵が攻撃してくるのを待った。背後の兵士たちには、いったい何本矢を残しているのだろうか。将軍は盾を持たず、兜もとうに泥に落ちていて、非常に無防備になっていた。しかし、敵の射手たちは豪雨の中で標的をしぼるのに苦労しだしていた。次の一斉射撃の何本かは馬の死体に当たったが、残りは外れて森に飛び込み、泥の中に沈んだ。その狙いの不正確さを見て、マキシマスは、敵はじきに味方に当たることをおそれて矢をあきらめ、剣で襲ってくるだろう、と思った。時間の問題だ。

森から野蛮な、甲高い叫び声が聞こえ、マキシマスのうなじの毛が逆立った。彼は両手に剣を持ってすばやく立ち上がった。6人の男が下生えの中から現れ、彼に突進した。ひとりが顔から泥につっこむと同時に、マキシマスは左の太腿の後に衝撃を感じ、あやうく前に倒れそうになった。見下ろすと、矢の先が脚の前に突き出していた。彼は一瞬、なぜ痛くないんだろう、と考えた。

頭上に振りかざされた剣が首に向かって下りてくるのに、彼はすんでの所で気づいた。彼は左手の剣を激しく振った。剣と剣がぶつかり、ゲルマン兵の武器は空中を飛んで泥の中に着地した。武器を失った男に、彼は右手の剣を容赦なく突き刺し、内臓をえぐった。彼は死体をもうひとりに向って蹴りつけ、ふたりを同時に倒した。彼はすばやく跳躍してまだ息のある男に飛びかかり、一振りで首をはねた。

脚には激痛が走りはじめていたが、マキシマスには痛がっている余裕はなかった。残った4人のゲルマン兵が彼を取り囲んでいた。背後から鋭い音が聞こえ、マキシマスはすばやく地面に伏せた。彼を狙った矢は、一番近くに立っていた剣士の心臓に突き刺さった。男はばったりと倒れ、マキシマスは残る3人と向きあった。一人が射手たちに大声で命令した。マキシマスは、それが矢を射るのをやめろ、という命令であればいいが、と思った。

マキシマスは3人の敵にすばやく目を走らせた。彼らは、この脚の矢傷から血を迸らせ、泥に塗れたローマの鬼神をどう片付けたらいいか迷っているようだった。マキシマスは唇を歪めて唸り、威嚇の言葉を怒鳴った。敵には彼が何を言っているのかはわからないだろうが、彼の深く低い声にこめられた脅迫は間違いなく伝わるだろう。彼の狙い通り、左側の男の目にわずかな動揺が走った。マキシマスは稲妻のようなスピードで右手の剣を投げた。一瞬後、剣は敵の首に突き刺さり、敵は目を見開いたまま地面に崩れ落ちた。

マキシマスは残った剣を右手に放った。その時、激しいめまいの波が彼を襲った。見下ろすと、脚は血で赤く染まっていた。激痛は腰からふくらはぎの辺りまで広がっていた。彼の様子を見て、残る二人のゲルマン人は喜んだ。このローマ人はもうふらふらだ。こいつが倒れるまで待って、それから馬の下の男をかたづければいい。

「マキシマス、マキシマス、しっかりしろ。もちこたえてくれ」地面に倒れているパトロクルスが言った。彼の声は弱々しかった。

「イエス、サー」とマキシマスは答えた。彼の声も弱っていた。

マキシマスは前に数歩踏み出したが、白熱の痛みが全身を貫いた。二人のゲルマン兵の笑い声がぼんやりと聞こえた。彼は無理をして低い声をあげ続け、二人を睨みつけた。敵の余裕の笑いが突然恐怖に変わったのを見てマキシマスは驚いた。彼らはゆっくり後ずさりしたかと思うと、きびすを返して森に逃げ込んだ。マキシマスはめまいに襲われて膝をついた。彼が地面に沈むと同時に十数本の矢が2人の部族民をうち倒した。薄れてゆく意識の中で、マキシマスは振りかえってダリウスの蒼白な、心配そうな顔を見上げた。「遅かったじゃないですか」疲れ果てた百人隊長は、ゆっくりと泥の中に崩れ落ち、優しい暗黒の中に沈みこんだ。

 

第25章 賞賛

「マキシマス、これを飲め」ダリウスは怪我人の肩を支えながら言った。

マキシマスはありがたくワイン飲み、二つめのフラスクを受け取って、それも飲み干した。霞んだ目で見廻すとそこは彼のテントだった。どうやって帰ってきたのかは、まるで憶えていなかった。「どうやって…」

「喋るな」ダリウスが命令した。「すぐ、軍医たちが来る。その矢を抜く前に、お前を酔っ払わせておかないといかん。」

「将軍は…」

「喋るなと言っただろう!」ダリウスは怒った声を出そうとしたが、うまくいかなかった。「脚と腰の骨が折れている。療養のためにローマに戻られることになるだろう。」ダリウスは考え深げにマキシマスを見た。「将軍からお前のしたことを聞いたよ。大したもんだ。まったく、大したもんだ。」

「一体どこに…」

「おれたちはどこにいたかって?」ダリウスが口をはさんだ。「ほら、もう一杯飲め。おれたちはドナウを半分ぐらい渡ったところで、射手たちが生き残りの敵をかたずけているところだった。お前と将軍がどの筏にも乗ってないのに気づいたんだ。お前の馬はついてきていたが、お前はいなかった。将軍も将軍の馬も見えなかった。矢を止めさせて筏を戻してお前たちを捜しに行くのに、少し時間がかかった。」ダリウスはぶっきらぼうに言った。「お前が生きてるのはわかっていた。お前は殺しても死なんからな。もっと飲め。」

マキシマスは4つめのフラスクを取り、甘い赤い液体を飲み干した。ありがたいことに、下半身の激痛はようやくやわらぎはじめていた。

「出血がひどかったんだ、マキシマス。もし矢がもうちょっと右にずれていたら…治療の後、すこし休まないと…」ダリウスの声が遠のき、マキシマスはふらついて頭を先輩百人隊長の肩にもたせかけた。ダリウスは彼をやさしくベッドに寝かせ、軍医に入るように合図した。軍医たちは、なにやら恐ろしげな道具を持って入ってきた。ダリウスは、矢の除去は眠っている男よりも、よっぽど自分にとって辛いものになるのではないか、と思った。

マキシマスはゆっくりと意識をとりもどしかけていたが、突然彼の脳に、体からはげしい痛みの信号が戻ってきた。少なくとも、今度は苦痛は脚にとどまっていて、全身を痛めつけることはなかった。彼は何かわけのわからないことをつぶやいたらしい。ダリウスが側に来て、冷たい手を彼の額にあてた。

「マキシマス、動くなよ。矢を抜いて傷を洗ったが、時間がかかったんだ。矢が脚の中で割れてたし、泥まみれになってた。熱が高いが、軍医はすぐ下がるだろうと言っている。お前は絶対安静で、おれ以外には会わせないように言われている。皇帝たちでもだ。おふたりは、お前と話がしたいらしいが。」

マキシマスはうなずいて目を閉じ、ふたたび意識を失った。


翌朝遅く目覚めた時には喉が渇いて腹もすいていた。軍医に言わせると、良い兆候だそうだ。その次の日には、彼は起き上がって退屈だと文句を言い始めた。ダリウスはしばらく気晴らしにゲームにつきあっていたが、マキシマスは何もしないでじっとしているのに慣れていなかった。あまりに文句が多いのでダリウスはついに怒りだした。「わかってるのか?お前、ひでえ格好をしてるぞ。」ダリウスは大げさに鼻にしわをよせて言った。「においの方もひどい。」

「そりゃどうも。ダリウス、風呂に入りたいんだけど。」

「その脚を濡らしちゃいけないんだろ。」

「この脚以外は濡らしてもいいんでしょう?」

「テントから出すなと言われている。」

「じゃあ、湯を持ってきて下さいよ。ちゃんと、熱い湯にして下さいよ。」マキシマスは眉をあげてダリウスを見た。ダリウスが動かないので、マキシマスは彼を肘でつついた。

「お前ときたら、だんだん嫌な奴になってくるな。」ダリウスは本気でないしるしに、マキシマスの髪を手でくしゃくしゃにした。彼は手を離して、その汚さにむかついたふりをした。「げっ」彼は言った。「お前の髪、泥が張り付いてるぞ。他に何がついてるかわかったもんじゃないな。湯を取ってくるよ。」

数時間後、マキシマスはさっぱりして、清潔な服に着替えてテントを出た。彼は腕のの下に杖をつき、ダリウスに付き添われていた。彼は痛そうに脚をひきずりながら、基地を横切っていった。基地中の誰も彼もが彼を呼びとめてお祝いを言いたがったので、進むのにはえらく時間がかかった。とりわけ、彼の隊の部下達は、若き隊長に一層の畏敬の念を抱くようになっていた。

彼はようやく厩舎にたどり着き、満足げに飼葉を食んでいる彼の馬を見つけた。「裏切り者め」彼はそう言いながら、馬の鼻面をやさしくなでた。「おれを助けにくるより、うちに帰って寝たかったのか?」茶色の雄馬は、お返しに彼の手に鼻面をこすりつけた。

「隊長?」

マキシマスは、振り向いて後に立っていた若い兵士を見た−彼が入隊した時の年頃の少年だった。

「フラビウス、何だ?」

「皇帝陛下たちが、隊長にテントに来て欲しいとおっしゃってます。」

マキシマスは基地を見渡して、小高い位置にあるテントを見た。「今すぐにか?」

「はい、そうです。」

「すぐに行くが、時間がかかる、と伝えてくれ。」

フラビウスは笑みをうかべ、飛ぶように帰って行った。


「マキシマス、入りたまえ」マルクス・アウレリウスは、ルシアス・ヴァレスと共有している居心地のよい兵舎へ彼を手招きした。皇帝は若者がひどく足を引き摺っているのに気づいて、彼に励ますような笑顔を向けた。今やお気に入りとなったこの若者の姿を見ると、笑顔は自然に浮かんでくるのだ。「いいんだよ、頭なんて下げなくて。我々の方が君に頭を下げなくては。座りたまえ。ここに座って、話をしようじゃないか。」

マキシマスは柔らかい椅子に座りこみ、皇帝に照れたような微笑みを返した。「ありがとうございます。」

ルシアス・ヴァレスが暗がりから現れ、若い百人隊長の椅子に近づいた。マキシマスがなんとか立ち上がろうと苦労していると、ルシアスは彼の肩に手を当てて言った。「マキシマス、どうか座っていてくれ。君に謝らなければならない。」

謝る?

ルシアスは続けた。「パトロクルスがいないことには、私が気づかなければならなかったのに、気づいたのは君だった。そして君は、多勢に無勢でしかも負傷していたのに彼の命を救うために残った。言葉には尽くせないほど、勇敢な行動だ。」

「誰でも同じ事をしたでしょう。たまたま私が将軍の側にいただけです。」

「いや、マキシマス、それは違うよ。君はためらわずに勇敢な行動をとる。自分がそうだから、他の人間もそうだろうと思っている。しかし、それは大間違いだ。私は帝国中の軍を指揮している人間だ。勇敢な人間もたくさん見てきた。しかし、君のような人間は見たことがない−君の若さで、勇気と知性を両方持っている人間はね。君はまだ20歳だろう?」

「そうです。もうすぐ21になりますが」

ルシアス・ヴァレスはその言葉にほほえんだ。「どっちにしろ、20歳ぐらいってことだ。マキシマス、君は私の部下の中でも特に優秀な将軍のひとりを救った。その働きは、当然、報いられるべきだ。」

マキシマスは何と言ったらいいかわからなかった。彼はマルクス・アウレリウスの方を見た。マルクスが賞賛の言葉を続けた。「君は私が兵士に求める美徳の全て体現している。規律、忍耐、素晴らしい責任感、肉体的精神的な苦痛に耐える力、無私の精神。全てが自然にそなわっている。」

「マキシマス、」若い兵士はルシアス・ヴァレスに注意を戻した。「君のように若い兵士がこんなに速く昇進するのは異例のことだが、マルクスも私も、君が百人隊長の各階級をひとつひとつ辿ってゆくのを待っているのは意味がないと思っているんだ。今この時をもって、君を百人隊長の最上級に昇進させる。もちろん、それにともなって給金も昇給する。次の階級は副司令だ。たしか、22歳未満で副司令になった前例はない筈だ。だから、それには1、2年待ってもらわなくてはならないが−それ以上遅くなることはまずないだろう。」

マキシマスは驚いた。彼は口を開けたまま、ふたりの皇帝の顔を見比べた。何と言ったらいいのか、まるで言葉が浮かんでこなかった。

マルクスは頭をのけぞらせて笑った。「礼にはおよばないよ、マキシマス。君はこの名誉を受けて当然だ。これは贈り物じゃない−君が自分で得たものだ。パトロクルスが復帰できるまで−復帰できれば、だが−今の副指令の一人が一時的に将軍に昇進する。マルクスはマキシマスの方へ身をのりだして声を落として言った。「知っていると思うが、副指令だからといって、君のように戦闘に長けているとは限らない。結局、副指令の主な仕事は軍におけるローマの権威を保つことだからな。」マルクスはルシアスの方をちらりと見て、マキシマスに視線を戻した。「新将軍の相談役として、君を大いに頼りにしている。新将軍には、君の言うことを聞くようによく言っておく。」

マキシマスは師の顔を黙って見つめて、彼の言葉の重要さをかみしめていた。脚の痛みは耐えがたいほどだった。

「疲れているようだね。」ルシアスは言った。「傷が痛むだろうから、今夜は長くは引き止めないよ。しかし、帰る前に、パトロクルス将軍が君に会いたがっていてね。将軍は明日、厳重な護衛つきでローマに帰って、療養することになっている。私の后と、母と妹も一緒にローマに帰る。アニア皇后とコモドゥス殿下も一緒だ。」

「后…?」マキシマスは言ったとたんに後悔した。

「そうだよ。ルッシラと結婚することは言っていたよね?フェリックス第三連隊に送って行った時に、ごく簡素に式をあげたんだ。望んでいたような結婚式じゃなかったが、マルクスが、婚約期間をこれ以上引き伸ばすのはよくないって言ってね。」

マキシマスは急に、本当に疲れを感じだした。「おめでとうございます。」

「ありがとう、マキシマス。君にもいつか、ルッシラのように美しく魅力的な妻がみつかるといいね。」

マキシマスは床をみつめたまま何も言わなかった。

ルシアスは傷を負った若者に手をさしのべた。マキシマスは一瞬ためらったのち、ルシアスに助け起こされるにまかせた。マルクスも立ちあがって、若者の肩をたたいた。

同情の仕草だ、とマキシマスは思った。

ルシアスは歩きながら話を続けた。「私はフェリックス第三連隊に留まって北岸占領の準備をする。それはこの第七連隊で行う予定だったが、将軍は新任だし、最高の兵士が負傷しているとあっては、この連隊にはもうすこし猶予を与えた方がいいようだからね。」

マキシマスはマルクス・アウレリウスがすぐ後にいるのを痛いほど意識していた。皇帝の手はまだマキシマスの肩に置かれていた。彼は脚を引き摺りながら将軍の兵舎の寝室まで歩いていった。絶対安静のパトロクルスはベッドに仰向けに横たわっていた。脚は太腿から足の先まで包帯を巻かれ、クッションで支えられていた。マキシマスが近づいて手を握ろうとすると、彼は目を開いた。将軍は何も言わずに、弱々しくマキシマスの指を握った。

「光栄です、将軍。」マキシマスは、尊敬する男の声にならない感謝の言葉に答えて言った。将軍は目を閉じた。マルクス・アウレリウスは百人隊長に合図し、ふたりは部屋を出た。

「では、帰って休むといい」マルクスが言った。「できる限り早く、回復してもらわなくちゃならん。」

マキシマスは出口の方へと脚を引き摺っていった。神々は彼に、次にはどんなことを用意しているのだろうか。

 

第26 〜 30章