Maximus' Story
Chapters 26 - 30


第 26 〜 30 章

第1 〜 5章

第21 〜 25章

第31 〜 35章

Slide Shows homepage スライド・ショーのホームページ

Story Homepage オリジナル英語版ホームページ

Kumiko's Russell Crowe Page(翻訳者のページ)

第26章 A.D.172年

26歳の副指令の顔には疲労が刻まれていた。彼は愛馬にまたがり、川の対岸の、ヴァンドボーナに近い敵の基地を見つめていた。ゲルマニアでの戦争は5年にわたっていつ果てるともなく続き、フェリックス連隊は多くの兵士を失った。彼はあまりに疲れていたので、あたりの風景の美しさには気づいていなかった。彼の部下たちも疲れきっていた−敵も疲れきっていた。それでも、戦争は泥沼化し、延々と続いていた。

ダリウスはマキシマスの横で手綱を引き、目に手をかざしてゲルマニア軍を見た。彼は友人の方を見ずに言った。「攻撃してくると思うか?」

「おそらく。」マキシマスは厳しい声で言った。

「いつだと思う?」

「すぐだろうな。」

「なら、どうして先手をとらない?」

マキシマスは深いため息をついた。「クローディアスが、動きたがらないんだ。」

ダリウスは振りかえってマキシマスの方を見た。彼は苛立ちを含んだ声で言った。「マキシマス、将軍はどうしてお前の言うことを聞かないんだ?この連隊を本当は誰が指揮しているのか、知らん者はいないだろう。」

「おれは先制攻撃をすべきだと言っているんだが、将軍は聞き入れないんだ。どうやら将軍は、今の平穏状態が続くと馬鹿みたいに思いこんでいるらしい。どうしても説得できないんだ。」

「お前が攻撃命令を出せば兵は従う。わかってるんだろう?」

マキシマスは友人の方を見た。「ダリウス、従わない兵も多勢いる。」

「例えば?」

「百人隊長のクイントスがいる。奴にとっちゃ、将軍の命令を上回るのは皇帝の命令だけだ。馬鹿げた命令だとよくわかっていても上官の命令には従うだろう。そういう奴なんだ。」

「そういう兵はほとんどいないだろう。」

「けっこういるよ。」

「マキシマス、他の連隊でも例のあることだぞ。部下の本当の忠誠を集めている将校が、無能な上官を放り出す事ぐらい…」

マキシマスはほんの一瞬だけ、悲しげな微笑みを浮かべてみせた。「それはそれは、ご支持ありがとう。今夜もう一度、行動を起こすようにクローディアス将軍を説得してみるよ。なんでためらってるのかさっぱりわからないが。おれはフェリックス第七連隊の兵士同士を戦わせるようなことをするつもりはない。」

「奴は臆病者なんだよ。それに、戦術ってものをまるでわかってない。将軍が命令を下すと、部下は従う前にお前の顔を見て許可を仰いでいる。わかってるんだろう?」

「わかってる。時々、それで困ってるんだ。クローディアスは臆病者じゃない。ただ、状況がわかってないだけなんだ。将軍は、自分のローマでの政治家としての未来の方が、連隊の未来よりも気になっているんだ。自分の未来も連隊の未来次第だって事はよくわかっていないらしい。」

「クローディアスが命令を下しても、お前が反対だと思ったら、誰も従わんよ。」ダリウスは言い張った。

「クイントスは従うよ。クイントスは間違っているとわかっていても、命令には従う男なんだ。ダリウス、知ってるだろう?彼のような兵士は、他にもいる。服従の方が簡単なんだ。自分で判断することよりね。」マキシマスは頭痛がする時のようにこめかみをさすった。

ダリウスは鼻を鳴らした。「皇帝たちはいつ戻ってくるんだ?早いところ、クローディアスを将軍にした大間違いに気づいてくれないと困るぞ。」

「わからない」マキシマスはため息をついて、話題を変えた。「きれいな景色だ。あの山を見ろよ、ダリウス。」マキシマスは目を上げて遠くの雪を頂いた山を眺めた。山々は黄金の光に包まれていた。その光はふたりが立っている肌寒い谷間には届いていなかった。

「まあね。しかし、おれたちの首を胴体から離そうと手ぐすね引いている連中が隠れているかと思うと、あんまり綺麗には見えないなあ。」

マキシマスは笑い声をあげ、馬を廻した。「ダリウス、わかったよ。もう一度だけ説得してみる。」


マキシマスは予告なしで将軍のテントに入ってゆき、いつものように、ローマの政治状況の話を遮った。クローディアスと他の2人の副指令は、邪魔が入ったことに苛立って顔を上げた。「マキシマス、一体何だ?」

「クローディアス、ゲルマニア軍は攻撃準備を整えてます。もう間違いありません。先制攻撃をしないと、大変な事になります。もし…」

「マキシマス、君の意見が欲しいときにはそう言うよ。」

マキシマスは怒りが胃の中で沸騰しつつあるのを感じた。「クローディアス、命令を下す時はいつも私の顔を見てるくせに、このことに関しては私の意見を無視するのはなぜなんです?」

将軍はぱっと立ちあがり、怒りで紅潮した顔をマキシマスに向けた。彼が持っていたゴブレットからワインがこぼれた。「そんなことはない!私はいつも自分で決めている!」

「おふたりとも、落ちついて…」ジョニヴァス副指令が口を挟んだ。

マキシマスは彼を無視した。「それは結構。だが、将軍、あなたが手をこまねいているために兵が一人でも命を落としたら、あなたの判断能力の著しい欠如について、皇帝に詳しく報告を送ります。」彼は二人の副指令を睨みつけた。二人とも、前線のテントのきめの粗い布よりも、元老院のぴかぴかの大理石の上に足を乗せていたいと思っている輩だ。

ジョニヴァスがふたたび口を挟んだ。「マキシマスの言う通りかもしれませんよ、クローディアス。衛兵の数を二倍に増やして、念のため、百人隊長に基地の周囲の見廻りをさせたらいかがでしょう?」

「夜に基地の外になんて、誰も出しません。」マキシマスが宣言した。

「決めるのは私だよ、マキシマス。君じゃない。」クローディアスは怒って言った。「私は適切な対策だと思う。すぐにこの命令を伝えたまえ!」

「ご自分でどうぞ」マキシマスは唸るように言い放ち、足音荒くテントから出て行った。

 

第27章 夢

どうやってここに帰ってきたのだろう?あたりは春。珊瑚色の蔓薔薇が戸口を縁取っていた。枝いっぱいにヴェルヴェットの花が咲き誇り、芳香があたりの空気を甘く変えていた。門から連なる背の高いポプラの木々はやさしい風にそよぎ、深青色の空に漂う白い雲が、その優雅な姿に影を投げかけていた。

美しい日だった。美しい光景、美しい香り。

マキシマスは自分の手を見た。戦いの年月によって傷つけられていない、子供の手。爪を噛んだあとがある。母はいつも、爪を噛むのを止めさせようとしていた。身体も、幼く細かった。少年の身体だ。彼はお気に入りの茶色のチュニックを着て、春の香りのする緑の草を素足で踏んでいた。

台所から弟の笑い声と、つられて笑っている母の柔らかい声が聞こえた。

彼はその光景を、驚嘆のうちに見まわした。果樹には傷ひとつない、完璧な果実がたわわに実り、鳥たちは枝から枝へと飛びながら完璧なハーモニーで唄っていた。マキシマスは全てのあまりの完璧さに、茫然としていた。

彼の目は台所の窓にひきつけられた。そこには父親が立って、彼を手招きしていた。父のハンサムな顔には微笑みが浮かんでいた。マキシマスは行こうとしたが、動けなかった。父は、ふたたび手招きした。マキシマスが自分の足を見下ろすと、足首までが真っ黒な泥に埋まっていた。どうしてここに泥なんか?彼は父の方を見て助けを求めようとした。その時、窓は突然、巨大な火の玉となって爆発した。火の玉はまるで生き物のように、屋根に飛び上がり、家の壁を走り回った。マキシマスは叫んだが、彼の口からは何の音も出てこなかった。

彼は台所の窓を見ていた。父はまだ微笑みを浮べて彼を手招きしつづけていた。しかし、父の身体はすでに紅蓮の炎に焼き尽くされていた。マキシマスは父に向って必死で手を差し伸べた。突然、父の顔は蝋でできた人形のように溶けはじめた。笑顔を浮べたままの顔は崩れ、目は真っ黒な炭と化した。家は完全に燃え尽きているのに、窓の内にはまだ人影が立っていた。恐ろしいことに、それはもう父親ではなかった−それなのに、見覚えのある姿なのだ。確かに知っている…しかし…違う。あれはダリウスだ。ダリウスが窓の中に立っている。恐怖に目を見開き、声にならない叫びを上げて。彼の手はマキシマスの方に差し伸べられていた−必死で救いを求めて。マキシマスは彼の名を叫んだが、声は出なかった。彼は友の方へと手を伸ばしたが、脚は動かなかった。ダリウスは家と共に溶けていった。

少年はがっくりと手を落とした。何もできなかった。僕は無力だ。役立たずだ。誰も救うことができない…誰も。

マキシマスはベッドの上で身を起こし、目を見開いて暗闇を見つめた。火事など起きていなかった。家もなく、父親もいない。彼はゲルマニアの自分のテントのベッドに独りでいた。マキシマスはその夢のリアルさに身震いした。

ダリウスだった。ダリウスがあそこにいた。どうしてダリウスがスペインに?

マキシマスはだしぬけにベッドから起き上がり大急ぎでチュニックとブーツを身につけた。彼は基地を横切って走り、月光に光る露に濡れた草に足を滑らせて膝をついた。「ダリウス!」彼はダリウスのテントに向って叫んだ。「ダリウス!」

「マキシマス!待てよ!一体何だってんだ?」クイントスが彼の肩をつかんで引き戻した。

「ダリウスはどこだ?」マキシマスはクイントスの手を振り払ってテントに飛び込んだが、一瞬後に飛び出して来た。「ダリウスはどこなんだ?」彼は取り乱していた。

「ダリウスさんなら、たぶん基地の外を見廻りに…」

マキシマスはみなまで聞かず、きびすを返して門の方へ走り出した。クイントスが彼を追いかけて行った。門衛を押しのけて、ふたりは高い堤防に沿って走った。マキシマスは何かを探して、クイントスは友人の正気を心配して。しかし、恐怖がマキシマスの足をより速く動かし、彼は百人隊長を引き離して角を曲がって行った。

クイントスはその恐ろしい苦痛の叫びを、生涯忘れることはできないだろう。

彼はマキシマスが膝をつき、両手に顔を埋めているのを見た。彼のチュニックの裾は血に染まっていた。ダリウスは命のない目を見開き、月を見上げていた。彼の首は耳から耳まで切り裂かれていた。


マキシマスはダリウスの死後しばらくの間の事をよく憶えていなかった。後で聞いた話によると、彼の叫び声に連隊中が彼の側に集まってきたということだ。彼は冷静に兵を組織し、ゲルマニア基地に総攻撃を敢行し、部族民たちを全滅させたという。彼はひとりで百人以上の敵を斬り殺したという。しかしそれは、この夜生まれた戦士マキシマスの伝説のひとつかもしれない。その伝説は、帝国の北境沿いの連隊から連隊へと、火のように広がっていった。

 

第28章 故郷

マキシマスは崩れた桃色の石の壁の上に座っていた。それは、かつて彼の家だったものの数少ない名残りのひとつだった。故郷への長い旅の間に髪は伸び、髭も長くなっていた。やさしく暖かい風がウェーブのかかった前髪を額からかき上げ、空を見上げている厳しい顔に陽光が降り注ぎ、暖かさで包みこんだ。

道中、彼はほとんど眠っていなかった。今でも毎晩、夜中に何度も目を覚ましていた。夜毎に襲う悪夢が彼の眠りを妨げていた。あの出来事を忘れることなどできるのだろうか?ダリウスの死がもたらした恐ろしい苦痛が癒えてゆくことはあるのだろうか?友人の喪に服し、疲れた心を癒すために休暇をとりたいと、彼はクローディアスに懇願した。しかし、動揺している将軍は彼の願いを拒否した。将軍はこの副指令が自分から離れることを怖れているのだ−今や連隊全体が公然と忠誠を誓っているこの男が。業を煮やしたマキシマスは、クローディアスに行き先と理由だけを告げ、有無を言わさず去った。彼はクイントスに訳を説明した。クイントスは、マキシマスが必ず戻ってくると兵士たちを納得させると約束してくれた。マキシマスはマルクス・アウレリウスに長い手紙を書き、なぜこのような極端な手段をとるのかを説明した。皇帝はわかってくれるはずだ。

しかし、入隊して初めての帰郷は、期待していたような慰めをもたらしてはくれなかった。彼はまったく何も感じなかった。過去との繋がりを実感することができないのだ。石のかたまりは単なる石のかたまりで、自分の家の名残りには見えなかった。あたりの丘も、眼下の谷に広がるトルヒヨの村も、見覚えがあるどころかまるで異国の風景のようだった。

マキシマスは、ここは自分の居場所ではないと感じた。世界中のどこにも、居場所がないように感じた。

彼は立ち上がって雑草に覆われた坂を眺めた。見たところ、この家の所有権を主張した人は誰もいなかったようだ。おそらくこの家は、家族の唯一の生き残りである彼のものなのだろう。敷地には草や蔦のからんだ木が好き勝手に生い茂っていた。少年の頃の記憶にある整然とした農地の面影はなかった。

彼は腰に手をあてて崩れた壁の周囲を歩き、その南側に出た。光輝くようなピンクの花々が、彼の目に飛込んできた。それは、夢に鮮明に現れた蔓薔薇だった。どうやってあの火事の中を生き残り、蘇ったのだろうか−しかも、記憶にあるよりずっと生き生きとしている。自分もこんなふうに蘇ることがあるだろうか−あれだけの辛い経験の後で?

彼は手に花を集めて匂いをかいだ。その時、頭の中で何かが音を立てた−古い記憶。彼の寝室は玄関のすぐ上にあって、夜には薔薇の芳香が漂ってきたものだった。匂い。少しづつ、彼は記憶の糸をたぐりよせた。彼は地面に手と膝をついて壁に沿って這っていった。母は家の横にミントを植えていた。ミントも、火事を生きのびてはいないだろうか?ミントを見つけた時には手はすっかりすりむけていたが、彼は指に濃緑の葉を擦りつけて鼻に近づけた。その清冽な香りは母の香りだった。ミント。記憶が戻ってきていた。

しかし、父はどこに?マキシマスは立ちあがってあたりを見まわした。父はどんな匂いだっただろうか?彼はかつて野菜畑だったところを歩いていった。家族の食卓を彩っていた食物は、ほとんど父がここで育てたものだった。マキシマスはかがみこんで土をひとつかみすくいあげ、掌にこすりつけて鼻に近づけた。そうだ、一日畑仕事をして帰ってきた時、父はこんな土の匂いを発散させていたものだった。涙がこみあげ、マキシマスは何度も目を瞬かせた。彼は絆を感じはじめていた−過去と、家族と、そして−この地に。

彼はひらりと壁を飛び越えてかつて家の中だったところに入った。子供の頃は、もっと広く感じたものだが。石の床の破片の他には、何も残っていないはずだ。家族を失ったすぐ後に、彼はこの焼け跡を隅々まで這い回り、父母と弟の生きていた形見のかけらを拾い集めたのだから。出てゆこうとした瞬間、何か白いものが目に留まった。かがみこんで拾い上げると、それは長く曲がった動物の歯だった。それは長い間そこに転がっていたらしく、陽にさらされて黄ばんでいた。突然、心臓が早鐘を打ち出した。彼は服の下から、ずっと皮紐で首から下げている蜥蜴の歯を引っ張り出した。これは、その片割れだった。弟は二つ持っていた。マキシマスは火事の後、片方しか見つけられなかったのだ。太陽と雨が、長い時間をかけて見える所に動かしてくれたのだろうか。マキシマスは石の上に座って、その歯を何度も何度も指の間で回していた。彼は頭を垂れて、固く目を閉じた。やがて、胸に抑え切れない鳴咽がこみあげ、肩をふるわせた。

故郷に帰って来たのだ。

 

第29章 オリヴィア

マキシマスは頑固な茨を力をこめて引っ張った。彼は裸の背中を陽にさらし、汗が胸をつたい落ちていた。彼は根こそぎにした茨を裂いて、高くなる一方のごみの山の上にに放り出した。首から下げた皮紐の先には、ふたつの歯が揺れていた。

彼は掌を腰にあてて身体を後ろにそらし、伸びをした。背骨が音を立てた。彼は身体をほぐすために、手を握り合わせて空に向かってつきあげ、腰に手をあてて上半身を左右に回した。

彼はふと、動きを止めた。

門の横にそびえ立っている背の高いポプラの木の陰から、大きな黒い瞳が彼を見つめていた。彼がゆっくりと手を下ろすと、その瞳は消え、土の上を走る静かな足音が聞こえた。「おい!」マキシマスは叫んだが、見えたのはウェーブのかかった長い豊かな黒髪がゆらゆらとなびいている後ろ姿だけだった。彼女は坂を駆け下り、森の中へ消えて行った。

彼女はどのぐらいそのにいたのだろう?いったい誰なんだろう?マキシマスは近所の人々を思い出そうとしたが、ほとんど記憶がなかった。それに、顔は見えなかったが、彼を見つめていたあの女性が若いのはわかった。彼がここにいた頃にはまだほんの子供だっただろう。独りだと思っていた時に、実は誰かに観察されていたというのは、ちょっと落ちつかない感じだった。彼は指で髪をかきあげて、家のまわりをかたづける仕事に戻った。

その夜、マキシマスは満天の星の下で夢も見ずにぐっすりと眠った。この数ヶ月間で初めてのことだった。

翌朝、彼は夜明とともに起きて小川まで水浴びをしに行った。膝丈のズボンを脱ごうとして、彼はちょっとためらってまわりを見まわした。彼女がここいるなんてことがあるだろうか?マキシマスはこの考えを笑い飛ばした。彼はズボンを脱ぎ捨てて足でそのへんに放り出し、水に飛び込んだ。冷たい水が火照った肌を冷やし、彼は一瞬、息を止めた。彼は澄みきった水で顔をすすぎ、髪を洗った。岸に上がると、彼は犬のように身体を振って水を飛ばした。ズボンをはきながら彼はこっそりまわりを見まわした。誰もいなかった。

彼はさっぱりして仕事に戻ったが、腹がすいていた。この数日、彼はそのあたりで見つけた野菜や木の実ぐらいしか食べていなかった。彼は栄養のある軍の配給食に慣れていたので、これではとても足りなかった。すでにズボンがゆるく感じられはじめていた。早く作物を植えられるように、畑地をかたづける仕事に精を出さなければならないだろう。それでも、収穫できるまでには時間がかかるだろうから、やはりそれまでの食料を買いにトルヒヨの村に行かなくてはならないだろう。

彼は崩れた壁の所に戻り、腰をおろしてブーツを履きはじめた。ブーツはこの気候には暑すぎるので、サンダルも買わなければならないだろう。彼はブーツを脱いで放り出した。やはりどうしても村まで行ってこないと。立ちあがりながら、彼の目は背の高いポプラの木に引きつけられたが、見返してくる黒い瞳はなかった。

しかし、彼女はここに来ていたのだ。それもすぐ近くに。壁の反対側に、紐で結わえた包みがあり、その横にワインのフラスクが置いてあった。彼はその包みを見つける前から、あたりに漂う焼きたてのパンの匂いに気づいていた。彼は布の包みを破った。チーズだ。チーズと、オリーブと、果物。飢えていた彼はまだ湯気をたてているパンを裂いてがつがつと口に押し込み、食べながら辺りを見まわした。流れるような黒髪の内気な少女への密かな感謝の印として、彼はワインのフラスクを上げた。それから毎朝、小川から帰って来ると包みが彼を待っていた。

一週間後には、マキシマスは間に合わせの寝床として木で小屋を作りあげていた。今までは天気に恵まれていたが、そのうち雨が降るだろうから、準備しておかなくてはならない。寝床が出来、食事の心配もないとなると、肝心な仕事に集中することができる。桃色石の家の再建に。

それまで、彼の馬は石の壁の周りに茂った甘い雑草を食む他はすることもなく、休暇の日々を幸せに過ごしてきた。しかし、そろそろアルゴスにも働いてもらわなくてはならないだろう。マキシマスは馬に鞍をつけて、足馴らしに草だらけの坂を乗って行った。坂を降りきったところで、彼はあの女性を見つけた。彼女は道の少し離れたところを、手にバスケットを持って歩いていた。彼女は彼に気づいて立ち止まった。どうするか迷っているようだ。彼女がおびえて逃げるといけないので、マキシマスはアルゴスの手綱を引いた。馬は不満の声をあげた。マキシマスは馬の首をやさしく叩いたが、目はその若い女性を見つめたままだった。

彼女は彼を見て、それから自分の後ろを見た。どうするか考えているようだ。彼女はひとりで来ているようだ。どのぐらい遠くから食べ物を届に来てくれていたのかは見当もつかなかった。彼は微笑みかけたが、彼女は挨拶を返してはこなかった。この距離からでも、彼女の目が心配そうに見開かれているのがわかった。無理もない。兵士の中には、無防備な女性に乱暴を働く輩もいるのを、彼はよく知っていた。警戒して当然なのだ。しかしマキシマスは、彼女には自分を怖がってほしくなかった。

彼は少し手綱を緩めて、馬を彼女の方にゆっくりと進めた。彼女が背を向けようとすると、彼はまた手綱を引いた。「こんにちは」彼は彼女に聞こえるだけの声で、しかし怒鳴らないように気をつけて言った。彼は自分の深く低い声が人を怖がらせることもあるとよく自覚していた。彼はもういちど微笑みかけた。彼女は唇を噛んでいた。

彼は突然、彼女が警戒している理由に思い当たった−彼はほとんど裸なのだ。裸の胸は陽に焼けてブロンズ色になっていた。短いズボンの下の脚も、裸足の足さえも。アルゴスも裸だった。鞍は小屋に置いてきてしまっていた。これ以上近づかない方がいいだろう。「君が食べ物を持ってきてくれていたの?」

彼女はうなずいた。

「ほんとうにありがとう。おかげで飢え死にしないですんだよ。」

彼女は遠慮のない目つきで彼を頭から足まで眺めまわした。彼女の愛らしい瞳は、あなたはとても飢え死にしそうには見えないけど、とでも言いたげだった。

マキシマスは笑った。ひょっとしたら、彼女のことをまるで誤解していたのかもしれない。

「それは僕に?」彼はバスケットを指して言った。

「そうよ」彼女は答えた。その声はヴェルヴェットのように豊かだった。

「僕が受け取った方がいいのかな。それとも、君が持って来る?」

「道に置いてゆくわ。」

「僕は何もしないよ。怖がることはない。」

彼女はこの人、馬鹿じゃないのか、という顔で彼を見た。「怖くなんかないわよ。あなたの馬が気に入らないだけ。」

「ああ、そうか。大きい馬だからね。」マキシマスは馬を降りた。アルゴスはすぐに道の端に行って黄色い歯で背の高い草を引っこ抜きはじめた。マキシマスはゆっくりと彼女の方へ歩いていって、できるだけやさしい声で言った。「近所の人だね。どこに住んでるの?」

「あの丘の向こうよ。」彼女は頭で方角を示した。「マキシマス。」

彼は眉を上げた。「僕の名前を?」

「当たり前よ。あなた、子供の頃兄さんとよく遊んでたじゃないの。みんな、あなたはどうしちゃったのかって思っていたのよ。」

「兄さんって?」

「私には兄弟が4人いるけど、あなたの知ってるのはタイタスよ。」

「タイタス…ああ、憶えているよ。君の名前は?」

「オリヴィアよ。」

「綺麗な名前だね。君に似合ってる。」

彼女は長い黒髪を肩の後に投げて、少し首をかしげて言った。「ありがとう。」

マキシマスは彼女の顔立ちがはっきり見えるところまで近づいていた。彼女は大きな黒い瞳をきらきらと輝かせ、厚めの唇をちょっとゆがめていた。彼はほとんど手を伸ばせば届くところまで近づいて、そこで止まって彼女を見つめた。彼女は美しかった。「どうして食べ物を持ってきてくれていたの?」

「だって、何か食べないとお腹がすくでしょう?」彼女は笑った。その笑い声の豊かな響きに、マキシマスは背筋がぞくぞくするのを感じた。「うちはこの季節、食べ物が余ってるの。近所の人におすそわけしないわけにはいかないわ。」

「それじゃ、お礼を言って。君の…旦那さんに。」

「父に感謝して。私、独身だから。」

彼は黙って彼女を見つめた。

「何考えてるかわかってるわよ。」

「そうかな?」

「この年で結婚してないなんておかしいって思ってるでしょう。何か欠陥があるに違いないって。」彼女は少し言い訳がましい声で言った。

「そんなことは考えてなかった。本当に。」

「何回も求婚はされたのよ…」

「それはもちろん…」

「でも父は金持ちだし、物分りがよくて、無理に結婚させたりはしないでいてくれたの。あなたも独身ね。兵士だもの。」

「どうして僕が兵士だと?」マキシマスはこの言葉が口から出たとたんに、自分が馬鹿に思えた。彼は彼女が理由を数え上げるのをいちいちうなずきながら聞いていた。

「まずその刺青でしょ、それに馬。兵士でなければ、誰があんな馬に乗ってるっていうの?それから、この前着てたチュニックとブーツ。それに、川のそばの石の影に隠してる鎧。それから…」

「馬鹿なことを聞いたよ。」

彼女はまったく同感、と言うように眉を上げた。「それからもちろん、武器ね。あの感じのわるい剣と盾。」

マキシマスは微笑んだ。「戻って一緒に食べない?」マキシマスはバスケットを指した。

「それは駄目。」

「ああ、そう。」彼は無意識に一歩さがり、笑顔をひっこめた。

「そうじゃないの。これ、あなたの分だけしかないのよ。でも、今夜うちに来ない?食事に招待するわ。」

「ありがとう。喜んで行かせていただくよ。」彼は真面目な顔で言って、軽く頭を下げた。

彼女はにっこりしてバスケットを手渡し、背を向けて帰り道をたどりはじめた。彼はすらりとして背の高い後姿が、軽く腰を揺らしながら歩み去るのを見つめていた。「あ、それからマキシマス…」彼女は振り向いて、肩越しに言った。

「なに?」

「今夜はちゃんと服を着て来てね。」

ふたりは声をあわせて笑った。彼は静かにたたずんだまま、彼女が丘を越えて視界から消えるまで見送っていた。

 

第30章 晩餐

マキシマスは荷物をほどいて持っている服をすべて引っぱり出し、地面にぶちまけた。まったく、みじめなもんだ、と彼は思った。軍服以外には何もない。赤茶色のウールのチュニックとズボン、幅広の革のベルト。短いズボン、金属製の鎧、飾りつきの革の鎧、ブーツ…文民の隣人家庭を訪問するのには、まるでふさわしくない。彼はチュニックとズボンを着てベルトをつけた。チュニックの裾は太股の辺りで、兵士にふさわしい長さだ。しかし、暑すぎる。彼はズボンを脱いだ。これでは、簡素すぎる。彼は飾りつきの革の鎧に目をやった。肩と腰のところに金縁の垂れ飾りがついている。これが似合うのはわかっていたが…突然、マキシマスは笑い出した。生まれてこのかた、何を着ようかなんて考えたことさえなかった。いつも、服の選択は簡単だった。清潔な下着を選び、チュニックを着て、寒ければズボンを履き、雨ならケープをはおり、戦闘に行く時は金属の鎧をつけ、そうでない時は革の鎧。彼は悩んだ末に短いチュニックと革の鎧とブーツを選び、身につけた。腕と脚はむきだしだった。こんなものでいいだろう。

髪はひどいことになっているだろう。この数週間、水で洗って指でなでつけるぐらいしかしていない。手で顔をなでただけで、いつもはきちんと刈り込んでいる髭が今は伸び放題になっているのがわかった。彼は鏡になるようなものを捜したが、すぐに諦めて小川に向った。小川のさざ波の上に映った姿は、心配していたとおりだった。髪はぼさぼさで、顔じゅう髭だらけ。オリヴィアが彼を初めて見た時警戒していたのも無理はない。ゲルマニアの部族民そっくりになりつつある!トルヒヨで床屋を捜さなくては。しかし、今はその時間はない。彼は冷たい水で手を濡らして髪と髭をなでつけた。これで少しはましになるといいのだが。

少し後、マキシマスは馬に乗って坂を降り、オリヴィアと逢った埃っぽい道を辿り、丘を越えて行った。すると、大きな鉄の蝶番のついた幅の広い木の門のある、高い石の塀にぶつかった。そこから向うの景色は、塀に阻まれて見えなくなっていた。マキシマスはアルゴスを戻らせ、方向を変えて、ギャロップで優雅に門を飛び越えた。道はもうひとつの丘をまわりこんで続き、先は見えなくなっていた。オリヴィアは食物を届けに、ずいぶん長い距離を歩いて来てくれていたらしい。少しの間馬を駆け足で進めた後、彼はスピードを落して林に近づいた。木々の上に、赤いタイルの屋根が見えていた。またオリヴィアを怖がらせたくなかったので、彼は馬を降りて家からすこし離れたところの木に繋いだ。マキシマスはその家の大きさに驚いた。彼の家とはまるで違う。三階建てで、圧倒されるような大きさだった。簡素な外観は砦を思わせた。家の側には蔓薔薇と大きな鉢に植えられた花をつけた低木があり、家の厳めしさを和らげていた。彼女の父親の職業が何にせよ、成功している人に違いない。遠くに、住居のような建物が沢山見えた。家々はすべて、彼の家と同じ桃色の石でできていた。

マキシマスは歩きながら、あたりの匂いに気づいた。馬だ。なじみのある匂いが漂っていた。彼は家を眺めるのをやめて周りを見まわした。道の両側には石の塀があり、丘の向うへうねうねと続いていた。さまざまな色の立派な馬たちが牧場に放牧されていた。馬はみな、彼の馬同様に大きく、力強かった。彼は塀の方へ歩いて行って腕を組んで冷たい石の上にのせ、美しい駿馬たちを眺めた。いままでに軍で見たどの馬と比べても、まったく遜色ないほどだ。マキシマスはその中でも特に美しい雄馬を振り向かせようと、舌を鳴らしながら手を伸ばした。馬は冷淡にちらりと見ただけで、長いたてがみを風になびかせてそっぽを向いた。

「おいで、アルジェント」マキシマスの後ろから、ヴェルヴェットのような声が聞こえた。オリヴィアが飼葉をのせた手を伸ばして塀に近づいてきた。馬は彼女の方に寄って来て、柔らかい唇で掌から注意深く飼葉を拾い上げた。彼女はにっこりして、鼻面をやさしくなでた。マキシマスは不思議そうな顔をして彼女の方を見た。「馬が怖いとか言ってたのは嘘だったんだね。」

オリヴィアはアルジェントを見つめたままで言った。「いいえ…からかってただけよ。」彼女は横目でマキシマスを見てにやりとした。「うちの家族は軍用馬を育てているの。この子は偉い将軍の馬になるのよ。弟のスカルトもね。この子たちは、うちで今迄育てた中でも最高の馬なのよ。」

マキシマスは馬のしっかり筋肉のついた首をなでてうなずいた。

「あなたの老いぼれ馬よりずっといいでしょ?」オリヴィアはちょっとふざけた口調で言った。

マキシマスは笑った。「あいつに聞こえるところでそんなこと言うなよ。たしかに、アルゴスは老いぼれてきてるけど、ずっとよく働いてくれているんだから…まあ、たいていは。」

オリヴィアはマキシマスの方に向き直って、彼の服装を遠慮なく眺めまわした。「いい服を選んだわね、兵隊さん。」

「選ぶほどのものは持ってないんだよ。」

「でも、似合ってるわ。家に案内するわね。タイタスが早く会いたがっているの。ほかの家族も、みんな会いたがってるわ。」

「ほかの家族って?」

「タイタスの奥さんのオーガスタと、子供が三人。二番目の兄さんのユーセビウスと奥さんのフローラ。二人子供がいて、三人めももうすぐよ。それと、うるさい弟のペルシウス。16歳よ。父の名前はマルクス。もうひとりの兄さんは家族をつれて引越しちゃったの。」

ふたりは家に向って歩き出した。オリヴィアは背中で手を組んで歩調をゆるめ、彼の少し後ろを歩くようにした。マキシマスにはすでに、この女性がそういう風に男をたてるタイプではないことは分かっていた−おそらく、彼の姿をよく見たいだけなのだ。彼は急に立ち止まり、彼女の肘をつかんで自分の横に引っぱって来た。

オリヴィアは深くて低い声で笑った。「ねえ、あなたの家の壁の一番高いところに立つと、小川がよく見えるのよ。」

マキシマスは赤くなり、顔をそむけて馬の方を見た。

オリヴィアは秘密めかして声をおとした。「たいしたことじゃないわ。私は見慣れてるから。男きょうだいが四人もいれば…でしょ?」彼女は視線を彼の腰のあたりに、そしてもっと下に落した。「でも、たしかに…」

「それで、夕食には何をごちそうしてくれるのかな?」マキシマスはとっさに思いつける唯一の質問を口にした。

オリビアは彼の二の腕に指をまきつけた。「えーと…鶏と仔羊よ、たぶん。」

「『たぶん』?」

オリヴィアは話を続けた。「私、そういうことにはあんまり関心がないの。たぶん、甘やかされているのね。奴隷たちが料理も掃除も全部やってくれるから…私は、馬の繁殖を手伝って、帳簿をつけているの。」

「読み書きができるの?」

「父が教えてくれたの。」

家に着くと、オリヴィアはマキシマスの先に立って玄関を入って行った。家の外観は砦を思わせたが、中は豪華だった。マキシマスは精巧な馬のモザイクのある大広間の床に立った。歩いている馬、跳ねている馬、ジャンプしている馬…天井には天窓があり、そこから明るい光が射していた。床の真ん中に浅い窪みがあり、雨水がそこに溜まるようになっていた。彫刻をほどこした木のドアのあるたくさんの部屋が広間を囲んでいて、開け放たれたドアからは中庭が見えた。庭には噴水やベンチや大理石の彫像があり、花をつけた低木がその周りを囲んでいた。

「母が生きていたころは、父はよくローマへ行っていたの。そこでこういう家を見て、いつかお金ができたら、自分でも絶対持ちたいと思ったんですって。兄さんたちは敷地内の他の家に家族と住んでるの。でも、今日はみんなここに来てるわ。」

「マキシマス!マキシマス、死んだと思ってたよ。すごいじゃないか、軍人になったのか!」タイタスはマキシマスの腕をつかんで、心底嬉しそうな顔で言った。「この前会った時より毛深くなったみたいだけど、たしかにお前だ。」

「タイタス、また会えて嬉しいよ。お前も少し変わったな。」マキシマスはふざけて、彼の突き出た腹をつっついた。

「ああ…いい暮らしの代償ってやつだ。来いよ、家族に会ってくれ。」タイタスは彼の家族を紹介し、マキシマスを大広間の奥へと引張っていった。中庭のそばで二人は、革のシート付きの複雑な彫刻をほどこした木の椅子に腰をおろした。手にワインのゴブレットが押しこまれ、二人の男はすぐに少年時代の思い出話に花を咲かせた。弟たち、特に16歳のペルシウスは二人の話を熱心に聞いていた。オリヴィアは二人の義姉がマキシマスの方を好ましげにちらちら見ているのに気づいて微笑んだ。

「タイタス、子供の頃、お前の家ってこんなにでかかったっけ?」

「お前のうちとあんまり変わらない小屋だったよ、マキシマス。今、あの家は厩のひとつになってる。」タイタスはくすくす笑った。「北方と東方の戦争はおまえらには災難だろうけど、うちにとっては飯の種でね。うちは、帝国中でも一番優秀な軍馬を育ててるんだ。皇帝陛下たちも、うちの馬にお乗りなんだ。毎年、何ダースって馬を、近衛隊用にローマへ送り出しているよ。お前も、うちの馬に乗ってるかもしれない。」

マキシマスは笑った。「それはないな。」

「じゃあ、これからは乗るんだな。」

晩餐の用意ができたという声で、会話は中断された。食堂も装飾的なモザイクの床と田園風景の壁画のある壁で飾られていた。部屋の中央に大きな正方形のテーブルがあり、三方に長いカウチが置いてあった。マキシマスは途惑ったが、ありがたいことにオリヴィアが彼の腕を取って一番近くのカウチに導いてくれた。彼女は端に座って、マキシマスに隣に座るように手招きした。家長のマルクスは反対側に座った。他の家族もそれぞれ腰をおろし、すっかりくつろいだ様子になった。マキシマスは軍での習慣通り、背筋を伸ばして座っていた。彼は隣でオリヴィアが同じように座ってくれているのを見て感謝した。

全員が席につくと、マルクスが食卓の会話を仕切った。豪華な食事が振舞われた−ローストチキンと仔羊、あらゆる種類の温野菜、オリーブ、ピクルス、パン、チーズ。次から次へとワインのボトルが開けられた。「ペルシウス、マキシマスにパンをまわしてあげなさい。マキシマス、君の階級は?」マルクスが聞いた。

「副司令です。フェリックス第七連隊の将軍の相談役です。」

「私は兵士の経験はないが、軍のことはよく知っている。スペイン人が、どうして副司令になれたんだね?」

「ローマ市民権を認められたんです。それで、マルクス・アウレリウスが…」

「皇帝が?」

「はい。皇帝が、百人隊長より上の階級にも昇進できるように貴族の家庭と養子縁組をしてくれたんです。」

「マルクス・アウレリウス帝と知り合いなのかね?」

「そうです。何度もお会いしています。」

マルクスは考え深げにうなずいた。彼は目を細めてマキシマスを値踏みしていた。「皇帝は君を買っていらっしゃるんだね。」

「私も皇帝を尊敬しています。本当に、皇帝は私が知っている中で最高の人物です。」

「ほら、マキシマス、もっと仔羊をどうだ?ピクルスは?」タイタスが勧めた。

「もういいよ、満腹だ。ありがとう、タイタス。こういう食事には慣れてないんだ。」

「軍隊ではいい食事は出ないのかしら?」フローラが聞いた。

「いい食事ですけど、簡単なものですから。こんな美味しい食事はほんとうに久しぶりですよ。今夜はお招きいただいてありがとうございました。」

ペルシウスが甲高い声で言った。「オリヴィアってば、この一週間、あなたの事ばかり話していたんだよ。ずっとそわそわしてて…痛っ!」タイタスが彼の腹に肘鉄を食わせた。

マキシマスはオリヴィアの方を見ずにいられなかった。彼女は弟を睨みつけた。彼女はひるむことなく、マキシマスの方を振り向いてまっすぐ目を合わせた。

マルクスがふたたび会話の主導権を握った。「君の基地はどこだね、マキシマス?」

「ゲルマニアです。」彼はこの家の家長の方を振り向いて言った。「もう長年、そこで任務についています。」

「君は退役まではまだまだ間があるんだろう?」

「はい、軍に戻らなくてはなりません。今は休暇を取っているだけです。」彼はすこし残念そうな声で言った。「家の再建を始めたいと思ってるんです。今は、敷地を片付けているところですが。いつか、戻ってきたいと…」

話題が変わってしまったのが面白くないペルシウスが口をはさんだ。「マキシマス、沢山人を殺したの?」

マキシマスは少年を見て、長い間ためらっていた。食器のたてる音が止まり、全員がマキシマスの答えを待っていた。彼は答える前にオリヴィアをちらりと見た。彼女は心配そうに見つめていた。彼はゆっくりと答えた。「ああ、殺さなければならない時には、殺したよ。」

「パパ、マキシマスがスカルトはいい馬だって。」オリヴィアはマキシマスの様子が急に変わったのを感じて急いで話題を変えた。

マルクスはこのような軍の重要人物に馬を認められて喜んだ。「気に入ったかね?」

「はい。あれほど良い馬は見たことがないぐらいです。」

「マルクス・アウレリウス帝もうちの馬にお乗りなんだよ。」

奴隷たちが果物と甘いパンを盛った深皿を運んで来る間、馬についての話題が続き、マキシマスのワイングラスは再び満たされた。一時間ほど後、マルクスは晩餐の終りを宣言した。「オリヴィア、マキシマスに敷地を案内してあげたらどうだ?もう日は暮れているが、今夜は月が明るいようだし。」

「ぼくも行くよ!」ペルシウスが言った。

「お前はいいよ。オリヴィアだけで大丈夫だろう。」マルクスは末っ子に意味ありげな視線を送った。

ペルシウスは面白くなかった。「姉さんじゃあ、マキシマスに繁殖小屋も見せてあげないんじゃないの?」彼は不満そうに言った。

「見せるに決まってるわ」フローラはこっそりオーガスタに囁いた。二人の女はくすくすと笑った。

マキシマスは玄関のドアを押さえてオリヴィアを通した。彼女は輝くような微笑を浮かべて彼の側を通って行った。彼は手をもちあげて指を彼女の長い髪の間にすべらせた。豊かな黒髪は、優美な曲線を描いている背中にふわりと落ちた。薔薇の甘い香りが漂い、マキシマスは突然、その髪に顔を埋めたい衝動を感じた。

 

第31 〜 35章