Maximus' Story
Chapters 31 - 35


第 31 〜 35 章

第1 〜 5章

第26 〜 30章

第36 〜 40章

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第31章 ハーキュリース二世

オリヴィアは家の裏側へ続く小道をゆっくりと歩いていった。歩きながら、彼女は農場の経営について説明した。「雄馬はあっち、雌馬はこっちに飼っているの。雄馬の何頭かは、他の馬と離しておかなくちゃいけないから、厩の後ろの囲いにいるの。仔馬のいる雌馬と、妊娠初期の雌馬はあの厩。見たい?」

マキシマスがうなずいたので、オリヴィアは重いドアを開いてすぐ内側に置いてあったランタンを取った。彼女は他の三個のランタンに注意深く灯を点して、藁から離れた石の棚に置いた。「一番恐いのは火事なのよ」彼女は言った。中はまだ暗かったが、マキシマスの眼はすぐに慣れた。彼は馬の声のする方へと歩いて行った。眠そうな仔馬たちを連れた美しい雌馬たちが囲いの中に立っていた。マキシマスは一頭の馬の耳の後ろをやさしく掻いてやりながら、すぐ側にぐらぐらする脚で立っている生まれたての仔馬を眺めた。

「その子はまだ生まれてニ、三日しか経ってないのよ。父親はアルジェントだから、素晴らしい馬になるわ。」ランプの柔らかい光が、感心した様子で馬たちを眺めているマキシマスの顔を照らし出した。その穏やかな瞳と、馬を撫でているやさしい手に、オリヴィアは心を打たれた。二人は厩の中を、一番端の囲いまで歩いて行った。「犬は好き?」オリヴィアが聞いた。

「大好きだよ。基地で何年も飼っていた。将軍の犬だったけど、実際は僕が飼ってたんだ。」

「もういないの?」

「死んだんだ。」

「かわいそうに」彼女は言った。それから、にっこりと笑って、「私も犬は好きよ。ほら、これを見て。」と言った。彼女が囲いの戸を開けると、眠そうな様子の仔犬が石の床によちよちと出てきて、驚いたように一声吠えた。その声にきょうだい犬たちが目を覚まし、たちまち囲いはよたよたと歩きまわる灰色と黒の仔犬たちでいっぱいになった。

マキシマスは笑い声をあげ、かがんで最初に出てきた仔犬を抱き上げた。「いいかい?」彼は囲いを指して言った。

「もちろんよ。なでられるの好きみたいなの。」

彼は藁の上に歩いて行って、仔犬を踏まないように気をつけて腰をおろした。彼はたちまち仔犬だらけになった。仔犬たちは、鎧の革の飾りを噛んだり、ブーツに鋭い歯を立てたり、顔の方へ登ろうと腕を引っ掻いたりした。二匹が肩までたどり着き、耳と首を温かい舌でなめ始めた。彼は心底嬉しそうに笑った。

オリヴィアはもうひとつランタンに灯を点して、マキシマスに仔犬たちがよく見えるように高くかかげた。彼は母犬をちらりと見た。母犬は彼には気づかずにすやすや眠っていた。母犬は真っ黒で、暗い中ではよく見えなかった。突然、マキシマスは声をあげて、耳たぶに食らいついた仔犬を肩から掴みあげた。彼はじたばたともがいている仔犬をしげしげと眺めて言った。「狼の仔みたいだな!」

「この子の母親は一週間ぐらいいなくなっていて、帰って来た時には妊娠していたのよ。父親は狼じゃないかしら。だって時々夜に、母犬に呼びかけてる狼の遠吠えが聞こえて、母犬も吠え返しているもの。一緒にいられないなんて、本当に悲しいわね。」オリヴィアはマキシマスのそばにかがんで、彼が抱き上げている灰色の仔犬を眺めた。「この子は特にパパ似ね。」

「いい犬になるだろうな。」

「副指令って、犬を飼っていいの?」

「ああ、もちろん…」そう言いながら、オリヴィアの言いたいことに気づいた。

「じゃあ…この子、飼う気ある?」

「本当にいいの?」

「もちろんよ。この子たち全部をこの農場で飼うわけにいかないし、父親が狼なんていう子をもらいたがる人はあんまりいないでしょうし。」

マキシマスは仔犬を胸に抱いて、「ありがとう」と言い、オリヴィアに微笑みかけた。「いつごろ母犬から離せると思う?」

「一週間ぐらいね。名前を考える時間はたっぷりあるわ。」

「ハーキュリース。こいつの名前は、ハーキュリースだ。」

前に飼っていた犬の名前は、聞かなくてもわかった。オリヴィアは彼のすぐそばに座った。二人は何も言わずに、仔犬たちを寝つくまでなでていた。それから、みんなを母犬のそばに戻して囲いを出た。

ドアに向かって歩きながら、オリヴィアはやさしい手が髪をなでるのを感じた。彼女は立ち止まったが、振り返らなかった。マキシマスの唇が耳に触れ、彼女は震えた。

「髪に藁がついてる」彼は囁いて、彼女の豊かな髪にゆっくりと指を通していった。オリヴィアは目を閉じ、背中や腕や肩に触れる彼の指先の感触を味わっていた。「ほら、」彼はとても深い、静かな声で言った。「全部取れたよ。」オリヴィアはまだじっとしていた。マキシマスは腕を彼女の腰に回して髪に顔を埋め、彼女の薔薇の香りを深く吸いこんだ。彼女は彼の身体に背中を凭せかけた。胸に、かつて感じたことのない不思議な痛みがあった。心臓がどきどきしているのが、彼にもわかるだろうか?首筋に唇が触れるのを感じた。彼女は残念そうにため息をついて彼から身体を離し、振りかえった。

「ごめん」彼は囁いた。「こんなことをしてはいけなかった。」

オリヴィアは息をはずませていた。「もうここを出ましょう。」彼女は手を伸ばして、ドアの横のランタンを消そうとした。

その時、窓辺に並んでいるものがマキシマスの目を引いた。「待って」彼は彼女の手を止めた。「これは何?」

「彫刻よ。ほとんど、馬と犬。」

マキシマスはひとつ手に取ってみた。「すごい。この馬の均整なんて、完璧じゃないか。誰が彫ったの?」

「私よ。」

「全部君が?」彼は驚いた。「よく時間があったね。」

「ひとつ仕上げるのに何ヵ月もかかることもあるのよ。ニ、三日で出来ることもあるけど。馬の世話が忙しいかどうかで違うの。ほとんどは、あなたの家で彫ったのよ。」

「僕の家で?」

「そうなの。この農場は人が多いから、あなたの家を避難場所にしていたの。独りになりたい時にね。あそこは静かだし、ゆっくり考えごとができるから。」

マキシマスは窓辺にもたれて彼女の話を聞いていた。彼女の顔に月の光がやわらかに射していた。

「あなたがあそこにいるのを見た時はびっくりしたわ。あなただってことはわかったんだけど、私だけの場所に踏み込まれたみたいで腹が立ったの。自分の場所だと、勝手に思ってただけなんだけど。」

「玄関のところの蔓薔薇…あれは君が?」

彼女はうなずいた。「火でほとんど枯れてしまっていたけど、また咲きたそうにしていたから、雑草を抜いたり水をやったりして…ここ数年は、花が咲くようになったから、私の使う石鹸の香りづけに使っているのよ。」

「君の髪は、薔薇の香りがする。」マキシマスはためらいがちに指を伸ばして彼女の頬をなでた。「あそこは今でも君の家だよ。いつでも来たい時に来るといい。僕が一緒でもかまわなければね。」

彼女は彼の顔をしげしげと見た。「その毛皮の下はどんな顔なのかしら?」

マキシマスは笑った。「平凡な顔だよ。」

「そうは思えないわ。」彼女はふざけて彼の髭を引っぱった。「次は鋏と剃刀を持って行くわ。兄弟の散髪は私がしてるのよ。」

「次っていつ?」

「いつがいい?」

「じゃあ明日。」

「いいわよ。」

「君のお父さんは、君がひとりで僕のところへ来るのを気にしないかな?」

「どうして気にするの?」

マキシマスはしばらく黙っていた。「さあ…わからない。」

「あなたのことは信用してると思うわよ、兵隊さん。それに、あなたのことは気に入ったみたい−とてもね。」オリヴィアは突然笑い出した。「夕食の時、パパはあなたのことを、これから育てる雄馬かなにかみたいに値踏みしてたわよ。」

「本当に?それで、お眼鏡にかなったと思う?」

「そうねえ、もしあなたが雄馬なら、ここじゃ忙しくてしょうがないんじゃない?」彼女は大胆に、マキシマスの革の鎧に胸が触れるほど近づいた。「でもね、この雌馬は、あなたが他の雌馬を追っかけたりしたら承知しないわよ。」

マキシマスは彼女を腕の中に引き寄せて唇を彼女の唇にゆっくりと寄せた。彼はキスを深めてゆき、彼女も情熱的に応えた。二人の舌はやさしく触れ合った。

オリヴィアが彼から身を離したとたん、ペルシウスがドアから飛び込んで来た。

「やっぱり!まだこんなところにいたんだ。やっぱり繁殖小屋を見せてあげてないじゃないか!マキシマス、おいでよ、ぼくが案内してあげるから。」

マキシマスにやりと笑ってオリヴィアにウインクを送り、彼女の弟を追いかけてドアを出て行った。

オリヴィアは額を冷たいガラスにもたせかけて、彼が夜の闇に溶けこむのを見つめていた。彼女にはもう、はっきりとわかっていた−彼こそが、自分が結婚する男なのだと。

彼にも、それがわかっているだろうか。

 

第32章 再建

翌朝、マキシマスはかつて彼の家の一部だった石の壁にすわり、オリヴィアに剃刀で髪と髭を切ってもらっていた。ペルシウスはマキシマスのぶ厚い金属の鎧を着けて、剣を振り回し、あたりの木の小枝を切り落としまくっていた。「あんなものを振りまわしていて大丈夫かしら?」オリヴィアが聞いた。

「大丈夫じゃないだろうな」と、マキシマスは答えた。その朝家にオリヴィアが来た時、ペルシウスが側にくっついて来たのを見て、彼はずいぶん落胆した。

オリヴィアは肩をすくめて言った。「パパがどうしても連れてけって。」

「利口な人だ。」マキシマスはこっそりつぶやいた。

「何か言った?」オリヴィアが聞いた。

マキシマスは後ろに手を伸ばして彼女の手をつかみ、自分の唇へもっていった。「二人きりになれないかな?」

「どうやって?」

「わからない。」マキシマスは沈んだ声で言って、彼女の手を離した。

「今朝父は、さかりのついた雌馬と元気な雄馬について講義してくれたわ。」オリヴィアは笑った。

「夕べのあとじゃ信じられないかもしれないけど、へんなことをする気はないよ。」

オリヴィアはしばらく黙って仕事を続けた。彼女がマキシマスの前に来ると、胸がちょうど目の前に来た。彼はうめいた。もしかしたら、ペルシウスが一緒に来たのはいいことだったのかもしれない。

「あなたはいつ戻らなきゃならいの、マキシマス?」

「わからない。夏中いたいと思っていたけど、もっと早く呼び戻されるかもしれない。」

「兵士って、軍隊の外にはたいした人生はないのね。」

「恋人や家族のいる兵士もたくさんいるよ。連隊はあまり動きまわらないから、地元の女性と出会って子供を持つ人もいる。」

「でも、結婚はしてないのよね。兵士は結婚してはいけないんでしょう。馬鹿げた規則だと思うわ。」

「理由はあるんだよ。」

「どんな理由?」

「戦うことに心を集中できるとか。退役したら、正式に結婚して子供も嫡出扱いになるけど、それまではだめなんだ。」

「ローマ軍の兵士は全員独身だっていうこと?」マキシマスはオリヴィアが腹を立てているのを感じていた。髪をつかむ彼女の手に力が入っていた。

「結婚している人もいるよ。いろんな理由で、結婚の特別許可をもらう兵士もいるんだ。」マキシマスはゆっくりと言った。彼は少し考えたが、本当の事を言うことにした。「実はおれも、マルクス・アウレリウスにその許可をもらってる。」

彼女は手を止めた。「何ですって?結婚していいの?どうして?」

「いつか話すよ。」

オリヴィアは剃刀を壁の上に置いて彼の顔をつかんだ。「今、話して。」

「じゃあ座って。」

「いやよ。話して。」

マキシマスはため息をついた。「何年も前、おれはマルクス・アウレリウスの娘に恋をしたんだ。」彼はそこで言葉を切った。

オリヴィアはこの言葉をよく考えてから言った。「彼女もあなたを愛していたの?」

「ああ。彼女はその時にはもう、ルシアス・ヴァレス皇帝と婚約していたんだ。でも、おれは知らなかった。彼女はそのことを黙っていたんだ。彼女の嘘に気づいた時、おれはひどく動揺していた。マルクス・アウレリウスがその埋め合わせに、好きな人と結婚していいという許可をくれたんだ。書類も持っている。」

「彼女、何て名前?」

「気になる?」

オリヴィアはまだ兵隊ごっこをしている弟をちらりと見てから、マキシマスの膝の上に座った。「いいえ。でも教えて。」

「ルッシラだよ。」

「美人だった?」

「ああ。でも君ほどじゃない。」

「まだ愛してる?」

「いや。もう何年も前に忘れたよ。今愛してるのは、ルッシラじゃないんだ。」

オリヴィアはマキシマスの額に唇を押しつけて目を閉じた。「今、誰か愛してるの?」

「ああ。流れるような黒髪の美しい人が、毎晩夢に出てくるんだ。」

「へんねえ。私の夢には兵隊さんが現れるのよ。」

マキシマスは彼女に腕をまわして固く抱きしめた。「オリヴィア、おれは君に何もあげられない。家さえないんだ。」

「あなたがいれば充分よ。」

「君はいい暮らしに慣れている。おれも金はあるけど、家らしい家はないし、安全も、必要な時側にいてあげられる保証さえないんだ。」

「そういうことを全部保証してくれた人はたくさんいたけど、私はその人たちとは結婚したくなかったのよ。」

「掘っ建て小屋暮らしだよ。」

オリヴィアは涙を流して笑った。彼女は振り返って木の小屋を見た。「たしかにそうね。でも、二人分の広さは充分ありそうじゃない?」

「まともな家が出来るまでは、君のお父さんに結婚の許可をもらいには行けないよ。」マキシマスは囁いた。

二人は身体を寄せかけたが、邪魔が入った。ペルシウスがウサギを仕留めて、自慢げにかかげて見せに来たのだ。腕にウサギの血がたれていた。「ねえ、見て…」

「あっちへ行け!」恋人たちは声を合わせて怒鳴り、びっくりしたペルシウスは小川の方へ逃げて行った。

「マキシマス、聞いて。」オリヴィアは膝をついて彼の手をとった。「父の屋敷に、あなたなしでもう一日だって住むぐらいなら、あなたと一緒に掘っ建て小屋で暮らしたいわ。愛してるのよ、わからない?女が本当に愛している人と結婚できるチャンスがどのぐらいあると思う?」

「おれも愛してるよ。」

「それなら…」

「駄目だ。せめてまともな家ができるまでは。大きくなくてもいいけど、安全でなければ。」

「頑固なのねえ」オリヴィアは立ち上がり、腰に手をあてた。「じゃあ、しょうがないわね。わかったわ。」彼女は振りかえって弟に向かって叫んだ。「ペルシウス!来なさい!帰るわよ!」

「もう帰るの?」マキシマスは聞いたが、彼女は返事もしなかった。

ペルシウスはぶかぶかの鎧をしぶしぶ脱いで姉を追いかけて行った。「じゃあね、マキシマス!」と彼は叫んだ。

マキシマスは手を振り、腰に手を落して二人が去ってゆくのを見ていた。


翌朝早く、マキシマスは彼の家に進軍してきた軍隊の音で叩き起こされた。いや、軍隊ではなさそうだ…しかし、間違いなく大勢の男だ。彼は朝日に目を瞬かせながら外に出て、短くなっているのを忘れて髪をかき上げた。彼は驚いて目をこすった。オリヴィアの家の農夫と男の奴隷が何百人も、それぞれ道具をかかえてやって来ていた。彼女の兄弟と、父親も来ている−全員が素晴らしい駿馬に乗って。男たちの後ろには、何十人という女たちがオリヴィアに率いられて、全員に充分なだけの食べ物を運んできている。

びっくりしているマキシマスに、タイタスが声をかけた。「どこから始める?」

彼の頭はまだ目覚めきっていなかった。「始めるって何を?」

「お前の家の再建だよ、もちろん。オリヴィアが、お前が今すぐ新しい家をほしがっているっていうんで、手伝いに来たんだ。」

マキシマスはオリヴィアの方を見たが、彼女はそっぽを向いてバスケットをいじり出した。

「えーっと、じゃあとりあえず家を再建したい。後で建て増しすればいいし…」

「他には?人手は充分あるぞ。」

「じゃあ、庭を片付けないと…」

「了解!お前は座って見てればいいよ、兵隊さん。」

一日中、全員がタイタスの指示の元に働いた。タイタスは時々、マキシマスに希望を聞きに来た。日暮れまでには、彼の家はふたたび、ほとんど火事の前と同じ姿で建っていた。畑地は片付けられ、作物を植えるばかりになっていた。マキシマスはこれほどの恩に、どうやって報いたらいいのかわからなかった。

オリヴィアが家に帰る準備をしながら言った。「明日私の家に来てね、兵隊さん。」

マキシマスはにやりとした。「必ず行くよ。」

 

第33章 結婚式

マキシマスとオリヴィアはその一週間後に結婚した。

花嫁は伝統的な白いウールのチュニックを身に纏い、六つの大きな輪に結って野の花の花輪を編みこんだ黒髪を背中に落としていた。半透明の真紅のヴェールが、花輪を優雅に覆い、彼女の動きに合わせて揺れていた。足にはサフラン色の靴を履き、手には野の花の小さなブーケを持っていた。マキシマスはワインレッドのチュニックとズボン、ブーツ、革の胸当てと長いケープの礼服を身につけていた。

花の香りに満たされた屋敷の中庭で、オーガスタが花嫁と花婿をひき合わせ、ふたりの手をとって重ねた。ふたりはお互いを愛し、お互いに忠実であることを誓い、左手の薬指にはめた指輪を交換した。神々と婚姻の女神への祈りが奉げられ、マルクスとマキシマスは結婚の契約書に署名した。タイタスとユーセビウスが証人になった。

「これで君は、私の息子だ。」マルクスは笑った。「もう、うちの家族の一員だよ!」この家の家長は、この若者をとても好きになっていた。そして、ひとり娘が本当に愛している男と結婚できたことを心から喜んだ。本当に、めったにないことだ。それに、マルクス・アウレリウスを直接知っているような、軍の重要人物を義理の息子に持つのも、もちろん悪くない。何という喜ばしい日であろうか。

マキシマスはオリヴィアが彼の指にはめてくれた指輪を、感心して眺めた。銀製で、ローマの紋章の鷲が刻印してあった。「あなたのために特別に作らせたのよ。」彼女は言った。「鷲があなたにふさわしいと思って。」

彼女の指輪は純金で、中心に大きなエメラルドが嵌めてあった。マキシマスは満足のゆく指輪を探してメリディアまで行き、ついでにそこで家具も買った。彼の家はまだいたって簡素だったが、花嫁に見せても恥ずかしくないだけのものになっていた。家には、木彫りのヘッドボードのついたゆったりとした心地よいベッドがあった。四本の柱にカーテンがつるしてあって、暖かさとプライバシーが保てるようになっていた。彼は椅子やテーブル、絨毯や台所用品なども買った。マキシマスは結婚式の一週間後には家の建て増しを始められるように手配していた。今ある建物は台所と広間になり、食堂と寝室をいくつか、それに洗面所を増築する予定だった。彼の家は、花嫁が育った屋敷のように豪華にはなることはないだろうが、彼女はきっと気に入るだろう。

新郎新婦と招待客たちは披露宴の席についた。その宴たるや、マキシマスの想像を遥かに超えていた。羊と豚がまるごと焼かれれ、野菜や砂糖菓子の皿を載せたテーブルはその重さできしむほどだった。海岸から、新鮮な魚まで運び込まれていた−これほどの贅沢は、聞いた事すらない−そして、ワインは飲み放題だった。

その夜遅く、屋敷での宴が果てた後、マキシマスは先に家に帰って花嫁の到着を待とうと馬の方へ歩いていった。しかし、アルゴスの代りにそこにいたのはアルジェントだった。マキシマスは驚いて立ち止まった。

「その馬は君のものだ、息子よ。」マルクスが現れて、マキシマスの横を歩きながら言った。「帝国一の駿馬に乗るのに、君以上にふさわしい人間は思いつかんよ。アルゴスの面倒は見てやるよ。ほら、もう牧場で引退生活を楽しんでいるだろう?雌馬の友達でもできるかもしれん。」

「こんなにまでしていただいて、何と言ったらいいか…すばらしい贈り物です。今迄にしていただいた事だけでも、充分すぎるほどですのに。」

「いいんだよ。娘を幸せにしてやってくれ、マキシマス。望のはそれだけだ。君が軍に戻らなければならない時には、我々が娘の面倒は見るから。」

「ありがとうございます、サー。」

「マルクスと呼んでくれ。」

「マルクス、ありがとうございます。」

マキシマスはアルジェントに、話しかけながらゆっくりと近づいた。彼は馬の鼻面と額をなでて、耳の後ろを掻いてやった。馬が彼に鼻をこすりつけてくると、彼は嬉しそうに笑った。鞍をつかんで乗ろうとした時、きゃんきゃんという声に気づいて彼は動きを止めた。その声は鞍にしっかりと結びつけてある革の袋から聞こえていた。その袋はごそごそと動き出し、大きな耳と黒い鼻をしたふわふわした灰色の顔が飛び出し、つづいて大きな前足が出てきた。マキシマスは笑って、ハーキュリースを袋から出してやった。仔犬はお礼に彼の顔をなめまわした。

「よりによってこんな夜になんで犬なんかと思ったが、オリヴィアがどうしてもと言ってね。」

マキシマスは微笑んだ。彼はもぞもぞと動いている犬をマルクスに持ってもらってアルジェントに乗りこみ、仔犬を脇にしっかり抱えてゆるい駆け足で家へと向った。

すこし後、兄弟たちの担ぐ花で飾られた輿に乗って、オリヴィアが到着した。色鮮やかな服で横笛を奏でる楽士たちや、松明をかかげて結婚の歌を歌っている祝い客たちに、彼女は囲まれていた。彼女は花輪を抱えて優雅に輿を降り、花輪をドアの横の柱に掛けた。マキシマスは彼女をさっと抱き上げて足でドアを閉め、集まった人々に宴の終りをはっきりと告げた。人々は、意味ありげな微笑みを浮かべて散って行った。

マキシマスはオリヴィアの足を石の床に降ろしたが、彼女は彼の首に抱きついたまま、キスをするまで離れなかった。彼は手を彼女の腰に当てて少し離れたところに立たせ、小さなランプと水の入ったボウルを差し出した。それは彼女がこの家の女主人になったことを象徴するものだった。彼女は彼の贈り物とちらりと見ただけで興味を失った。今、興味のある贈り物は一つしかない。マキシマスがランプを消すために背を向けたとたんに、彼女は彼へと身を投げ出した。彼はぎりぎりで振り向いて彼女を胸に受けとめたが、その勢いで二人とも椅子の上に倒れこみ、椅子はひっくり返って二人は絨毯の上に投げ出された。二人ははじけるように笑った。彼の方が下になっていたので、革の鎧が衝撃をやわらげていた。

二人は再び唇をあわせた。彼女は口を開いて彼を完全に受け入れた。彼女の手は鎧のバックルを不器用にいじりまわしていた。とうとう彼女は、いらいらして彼の腰を叩いて言った。「これってどうやって脱がせればいいのよ?」

彼は笑いながら、「ケープを最初に取らなきゃ」と言い、転がって彼女の上になった。彼は膝をついて頭からケープを脱ぎ、革のストラップをすばやく外して鎧を床の上に放り出した。「これでいいかな?」

「はいはい、でもそこで止めないでよ、旦那様!」

にっこりと彼女を見下ろしながら、彼はベルトを外して鎧の上に放り出した。彼女は彼のチュニックの裾をつかんで彼の頭の上まで引っぱりあげて脱がせた。オリヴィアは彼のズボンの腰のあたりを掴んで自分の体をずりあげて、腕を彼の背中にまわした。彼女は、わざととてもゆっくりと、彼の胸に柔らかなキスを広げてゆき、舌で彼の肌を辿った。マキシマスは彼女の髪に指を通してヴェールと花輪を外し、彼女の頭を後ろにそらせて激しくくちづけした。彼女を抱きかかえ、唇を重ねたまま、彼は立ち上がった。彼の指はすばやく彼女の織物のベルトをさぐりあてて床に落した。たちまちハーキュリースがそれをみつけておもちゃにしだした。仔犬はベルトを口にくわえて部屋中を引きずり回し、うなり声を上げながら首を振った。オリヴィアは白いチュニックを床のマキシマスの赤いチュニックの上に放り出した。薄い麻の下着以外は裸になって、彼女は彼に身体を押しつけた。彼女は彼の欲望をはっきり感じ取っていた。しかし、マキシマスはもういちどだけ彼女から身を離した。麻の下着が、床の白いチュニックの上に飛んでいった。

突然彼女は、自分が新しい家の中で裸でいることを意識した。彼女はペルシウスがのぞいていることを半ば覚悟しながら窓に視線を走らせた。しかし、二人の情熱は窓をすっかり曇らせてしまっていた。プライバシーは保証されているようだ。

マキシマスは手と目で彼女の曲線を辿り、身体のふくらみやへこみにひとつひとつ触れていった。「君はとても綺麗だ」彼はため息をついた。彼は唐突に動きを止めた。足を見下ろすと、ハーキュリースがブーツの紐に噛みついていた。前のおもちゃに飽きたらしい。マキシマスはくすくす笑い、かがんで仔犬の口を開けさせて足から外した。彼はすばやく体を起こして、オリヴィアをさっと抱き上げた。オリヴィアは息を呑んだ。「ベッドの方が快適だよ」彼は囁いた。「それに、ハーキュリースが何をおもちゃにしだすか心配しなくてもいいし。」オリヴィアは笑い声をあげた。マキシマスは彼女を抱いたまま寝室に運んで行った。彼女が手でドアを閉めた。

ハーキュリースは突然ひとりぼっちにされてしまったことに気づき、座りこんで寝室のドアを見つめた。仔犬は、くんくんと鼻を鳴らした。ドアは開かなかった。きゃんきゃんと鳴いてみた。それでも、ドアは閉まったままだった。甲高い声で吠えてみた。それでもだめだった。最後にはとうとう諦めて主人のケープの上に丸くなり、遊び友達が戻ってきてくれるまで寝ていようと決めた。


翌朝、オーガスタとフローラはバスケットいっぱいの食べ物とワインを新婚夫婦のドアの外に置いていった。その翌朝も、同じように食べ物を持ってきたが、前のバスケットには手をつけた形跡がなかった。ふたりはくすくす笑いながらバスケットを取り替えた。その翌朝、ふたりがやって来ると、前日のバスケットはなくなっていて、哀れな顔をした灰色の仔犬が外につながれていた。

窓はまだ曇っていた。

 

第34章 マキシマス将軍

マキシマスは妻の腰に腕をまわして立っていた。わずかに丸みをおびたお腹とふくらんだ胸をした妻は、マキシマスの目には前にも増して美しく映った。結婚式から4ヵ月、家は完成し、作物は植えられていた。この女性、この家、そして子供。マキシマスは人生で真に望んでいたものを全て手に入れたと思った。彼は完全に満たされていた。

マキシマスは奴隷を買うことを拒否していた。非常に優れた人間が、たまたま戦争に敗けた側にいたために奴隷として売られてしまうことをよく知っていたからだ。代わりに彼は村の男を何人か野良仕事に、村の女を掃除婦として雇った。それから住みこみの料理人を雇った。マキシマスはオリヴィアに、嫌な仕事には指一本あげさせたくなかった。わがままかもしれないが、彼女には時間とエネルギーの全てを、自分にささげてほしかった。

毎朝家を出る時に、彼はかがみこんで土を一握りすくいあげ、掌にこすりつけて匂いをかいだ。人生において本当に大切なことが何かを忘れないために。彼の家は大きく、簡素で、部屋がたくさんあった。彼とオリヴィアの望んでいる多勢の子供たちの部屋だ。

ふたりの横には、ハーキュリースが座っていた。大きな耳と太い脚をしたこの犬は、すくすくと育っていたが、まだまだ成長途中だった。いずれは相当な大きさになりそうなこの犬は、すでにマキシマスに絶対の忠誠を誓っていた。毎日、マキシマスがアルジェントを運動させる時には、ハーキュリースは馬の足元をついて走っていた。マキシマスは犬が馬に踏まれたり蹴られたりすることがないのに感心していた。

この生活のたったひとつの傷は、手の空いている時などに時々襲ってくる罪悪感だった。彼はもう何ヵ月も軍を離れていた。最初の予定よりもずっと長くなっている。帰りたい気持ちはまったくなかったが、もし自分がゲルマニアで必要とされていたら、マルクス・アウレリウスがこの長い不在をどう思うか考え、罪悪感に悩まされていた。彼はふたつの場所にいなければならない−しかし、いたいのはここ、妻のそばだった。オリヴィアを心配させたくなかったので、彼は自分の迷いを口には出さなかった。その日−彼の人生を再び変えた日が訪れるまで。

その時、オリヴィアは家の二階にいて、窓から近衛隊が近づいて来るのを見た。

「マキシマス!」彼女は叫んだ。彼女の声は丘に響き渡った。

彼は全速力で家に駆け戻った。オリヴィアはドアのところで彼の腕に飛び込み、ふるえる指で門に続く道の方をさした。数十人の近衛兵が礼装を身につけ、ローマの黄金の鷲の紋章を掲げて近づいて来るのを見て、マキシマスは心臓に冷たいものが押し寄せるのを感じた。

彼は妻を置いて彼らに挨拶しに行った。

「将軍」百人隊長はそう言って、マキシマスに少し頭を下げた。

マキシマスは少し途惑って彼を見た。「人違いでは?」

「マキシマス・デシマス・メリディアスさんでよね?」

「そうだが。」

「それでは、確かにあなたです。」近衛兵は馬を降り、マキシマスに小さな包みを差し出した。「皇帝陛下からのお手紙です、将軍。」

マキシマスは皇帝の印章のついた封を切り、手紙をゆっくりと読みながらオリヴィアの方へ歩いていった。彼女は少し離れたところにいたが、その距離からでも、夫の顔から血の気が引くのがはっきりわかった。彼は土の上に膝をついた。彼女は夫の側へと走って行った。

「何なの?マキシマス、何なの?」オリヴィアは怯えていた。

マキシマスは妻を見上げた。「ルシアス・ヴァレスが死んだ。皇帝が亡くなった。」

それが悪い知らせなのはわかったが、なぜ夫がこんなに衝撃を受けているのかオリヴィアにはわからなかった。彼女は彼のそばにかがんで、夫を近衛兵たちの視線からかばうように肩に腕をまわした。「他に何か?」彼女はやさしい声で聞いた。

「軍に戻れという命令だ−フェリックス第三連隊の将軍として。マルクス帝は、即刻戻るように望んでおられる。」

オリヴィアはめまいの波に襲われ、倒れないようにマキシマスにしがみついた。彼は妻を腕に抱いて立ちあがり、家の中に運びこんで椅子に座らせた。彼は妻の前にかがみこんで言った。「それだけじゃない。皇帝が亡くなったので、マルクス・アウレリウス帝はおれを北部軍全体の総司令官に任命された。」

オリヴィアは涙を含んだ声で言った。「断れないの?」

「できない。」彼はオリヴィアを抱き寄せて顔を彼女の髪に埋めた。「すまない…」彼は囁いた。「すまない。」

オリヴィアは彼の髪をなで、涙を流しながらなんとか微笑みを浮かべようとした。「まあ、私の旦那様はとっても偉い人なのね。」ドアの方で音がして彼女は目を上げた。近衛隊の百人隊長が床に置かれた大きな包みの横に立っていた。「何ですか?」彼女は鋭い声で聞いた。マキシマスは顔を上げた。

「申し訳ありませんが、将軍、この包みも皇帝からです。」

マキシマスは彼に向かって言った。「フェリックス第三連隊は今どこにいる?」

「ヴァンドボーナです、将軍。将軍をお待ちしております。」

マキシマスはぞっとした。それは、二度と見たくないと思っていた地だった。彼はドアまで歩いていって包みを中に引きずりこんだ。「失礼をしたね、隊長。君たちの馬を厩に連れていって、面倒をみてもらってくれ。君の部下たちのために食事を用意させる。近くの家に泊まってもらわなくてはならないかもしれない。ここだけでは部屋が足りないかもしれないのでね。」

近衛兵は感情のない目でマキシマスを見た。「即刻帰還するように、という命令のはずですが…将軍。」

マキシマスは不運な近衛兵の方を振り向いて睨みつけた。その目つきはオリヴィアの血を凍らせた。「3日要る」彼は非常に低い、唸るような声でそう言って、ゆっくりとその男の方へ歩み寄った。「3日後に出発する。わかったか?」

近衛兵は動かなかったが、将軍と目を合わせることができなかった。「わかりました、将軍。3日後ですね。」

「それでは、私の命令通りに馬を厩へ連れて行きたまえ。君の部下たちの滞在の手配をする。」

「イエス、サー」近衛兵はケープを翻して去った。マキシマスの氷のような視線から早く逃れたかった。

オリヴィアはマキシマスが召使たちに次々と命令するのを呆然と眺めていた。「カシウス、妻の実家に行って、二十人以上の客を三日間泊めなくてはならないので助けがいると言ってくれ。マルクスとタイタスには、すぐに来て欲しいと伝えろ。」

カシウスは驚きに目を丸くしてうなずき、主人の望みをかなえるために走って行った。

マキシマスは皇帝からの大きな包みに注意を向けた。それは非常に重く、彼はうなり声を上げながら持ち上げて広間まで運んだ。オリヴィアは彼のすぐ後ろをついて行った。彼は包みを、何か嫌な物でも入っているかのようにしばらく眺めていた。オリヴィアは彼の手にナイフを渡してやさしく言った。「何が入っているのかしら?」

マキシマスはすばやくロープを切って布を外した。盾と剣が転がり出た。続いて、金属の鎧と豪華な狼の毛皮が現れた。それを見たハーキュリースはとても低い声でうなり、首の毛を逆立てた。

「ハーキュリース、静かにしろ。」マキシマスの命令に犬は頭を前足にのせて、「伏せ」の姿勢になった。しかし犬の茶色の目はまだ狼の毛皮を見つめていた。

ひどく動揺していたにもかかわらず、オリヴィアはその素晴らしさに息を呑まずにはいられなかった。彼女はふたりの気を少しでも引きたてようと、こう言った。「そうね、あなたは軍で一番ハンサムな将軍になるわ。」しかし、彼女の気持ちはまたすぐに沈み込み、目から涙が溢れた。マキシマスは嘆きのあまり倒れこんだ妻を、すんでのところで抱きとめた。



その夜、マキシマスはマルクスとタイタスに状況を説明した。二人は彼が行ってしまうことに動揺してはいたが、家族の一員が北部軍総司令官になったことは非常に誇らしく感じていた。二人は床に置かれたままの鎧を、畏敬の念を持って眺めた。ハーキュリースは、まだ鎧の横で番をしていた。

マルクスは義理の息子をなんとか安心させようとした。「何も心配することはないよ、マキシマス。我々が何もかも、ちゃんと面倒をみるから。オリヴィアも大丈夫だよ。お産の時にはオーガスタとフローラがついている。」

「その時には戻って来るつもりです」マキシマスははっきりと言った。マルクスは疑い深く眉を上げた。「たとえ何があろうとも、戻ってきます。約束します。子供の生まれる時には、必ず帰ります。」

「信じているよ、マキシマス。戻ってくると信じている。」タイタスは友人の決意のこもった声を聞いて言った。「まったく、お前を止められる軍隊があったら見てみたいもんだ!」タイタスは笑ったが、マキシマスの顔は真剣なままだった。

彼は言った。「2、3日でしなくてはならないことがたくさんあります。助けがいります。」

「なんでも言ってくれ」ふたりは言った。「手伝いに来たんだから。」



オリヴィアは嘆きのあまり、ほとんど寝室から出なかった。不在時の準備を着々と進めているマキシマスを見るのは辛かった−たとえ、自分のためにやってくれているのだとわかっていても。子供の生まれる時には帰って来ると約束してくれたが、その約束は守れないかもしれないのもわかっていた。もう既に、彼女の世界は淋しく、うつろになりかけていた−夫の性格が、変わってしまったのを感じて。それは、ほとんど誰も気づかないようなわずかな変化ではあったが。笑うことが少なくなり、人に命令することが多くなっていた。夜には、何時間も考えに沈んで火を見つめていた。初めて会った時、彼の顔にあった皺がふたたび現れて、夜には寝返りをうつようになっていた。彼女はできるかぎり夫を慰めようとはしていたが、彼を失うという自分自身の重荷に耐えかねていたので、彼を助ける余裕はあまりなかった。

とうとう、彼女の恐れていた日がやって来た。

近衛兵たちは門の前に集まり、いらいらと出発を待っていた。オリヴィアは家の外の階段に立って彼らを見ていた。彼女はマキシマスの足音に振り返った。彼は別人のようだった。彼は新しい階級の礼装を身につけていた。見覚えがあるのは、ワインレッドのチュニックだけだった。真新しい豪華な鎧には、真ん中に狼の頭の飾りがついていた。前で結んだ長いケープが肩を覆っていた。両方の肩には、鎖で止めた素晴らしい狼の毛皮が掛けられ、膝の辺りまで垂れていた。髪は短く刈ってあり、髭もきちんと整えてあった。彼は優雅な飾りのついたアティック式の兜を脇に抱えていた。

この上ないほど、立派な姿だった。

マキシマスは妻の手をつかんで家の中へと引き入れ、最高の笑顔を浮べてみせた。「週に二度は手紙を書くよ。約束する。手紙を待っていてくれ。おれのことは心配しないで。大丈夫だから」彼は外を指して言った。「あれだけの衛兵がついているんだから、安全だよ。」

オリヴィアはうなずいた。夫が最後に見る自分の顔は、泣いている顔にはしないと決めていた。しかし、喉に何か固いものがこみあげて、言葉が出てこなかった。彼女は何も言わずに、小さな革の袋を彼の手に押しつけた。

「これは何だい?」

彼女は彼の顔を見た。必死で押さえている涙が、彼女の目を満たしていた。「私を忘れないで」彼女は囁いた。

マキシマスは袋の紐をほどいて中の物を取り出した。それは、すこしふくらんだお腹をした女の、小さな木彫り像だった。女の片手は、前に差し伸べられていた。「おれのために彫ってくれたのか?」

オリヴィアはうなずいた。涙が溢れだし、頬をつたい落ちた。マキシマスの目も、涙でうるんでいた。

「大切にするよ。」彼は震える声で言った。彼は妻に軽くくちづけをして、外の光の中に踏み出した。彼は将軍にふさわしい威厳を保とうと努力していた。彼は故郷の丘を見まわし、土の上に足を降ろした。彼はかがみこんで土を一握りすくい上げ、掌にこすりつけて鼻に近づけた。忘れたくなかった−自分が本当は何者であるかを。それからしっかりした足取りでアルジェントの方へ歩いていった。アルジェントの後ろに、そっくりな馬がもう一頭つながれているのを見て、彼は驚いた。マルクスが横に立ってほほえんでいた。

「スカルトだよ。アルジェントの弟だ。将軍なら、馬はニ頭必要だろう。一頭が脚を折ったりした時のために…受けとっていただければ、光栄に存じます。北部軍総司令官、マキシマス将軍。」マルクスは非常に真剣な態度で頭を下げた。

マキシマスは腰に手を当てて義理の父が頭を上げるまで待った。「ありがとうございます、マルクス。でも、もう二度と、私に頭を下げたりしないで下さい。それから、私の名前は、ただのマキシマスです。」彼は微笑んだ。「感謝します。素晴らしい馬だ。」二人の男は短く、固く抱き合った。マキシマスは義父の耳元で言った。「マルクス、妻を頼みます。」

「大丈夫だよ、息子よ。安心したまえ。」

マキシマスはアルジェントに乗り、足元を見下ろしてハーキュリースがついて来ているのを確認した。彼は馬を駆って近衛隊の先頭に出て、腰に結びつけた革の袋を軽くたたいて確認し、彼を見送りに来てくれた多勢の人々に手を振った。妻と目が合うと、彼はほほえんでウインクを送った。

オリヴィアは輝くようなほほえみを返し、そこに立ったまま、夫が黒服の衛兵たちと共に丘を越えて消えるまで見送った。彼女は馬の立てる土埃が完全に見えなくなるまで、そこに立ちつくしていた。それから自分のお腹を、中の子供を励ますように軽くたたいて言った。「かならず戻って来るわよ。パパは戻ってくるからね。」

 

第35章 フェリックス第三連隊

マキシマスがついに帰って来た。皇帝はフェリックス第三連隊の兵士たちの歓声で、それに気づいた。それはとても微かな−遠くの声から始まった。マルクス帝は新将軍の動きを、耳だけで追うことができた。その男をとりまく声の位置で。彼は満足の笑みを浮かべた。正しい選択をしたという確信があった。

巡察隊がマキシマスを最初に見つけたとき、彼はまだ基地から何マイルも離れた所にいた。マキシマスが本当にゲルマニアに帰って来たという噂は炎のように広がった。彼が門をくぐった時には、兵士たちが彼を囲み、アルジェントは怯えて前足を跳ね上げた。彼をただ見つめる者、手を差し伸べる者。数え切れないほどの兵士たちが大声で歓声を上げ、彼の名を呼んだ。兵士たちは敬意を表して剣を挙げた。マキシマスもほほえんで、剣を挙げて挨拶を返した。

マキシマスは群集の見知らぬ顔を見渡して、奇妙に場違いな感じがした。しかし、彼の鋭い青い目はその中によく知っている顔を見つけ出した。彼の顔に大きな笑みが広がった。「クイントス!」と、彼は叫んだ。「ここで何をしてる?」

「将軍!」クイントスはまわりの群集を肘で押しのけて進み、アルジェントの馬勒を掴んだ。彼は暖かい歓迎の笑みを浮かべて言った。「皇帝はここにお前のの知った顔が一人ぐらいはいたほうがいいとお考えになったようだ。それで、おれがフェリックス第七連隊から異動になって、副指令に昇進したんだ。」

マキシマスは身をのりだして旧友の手を握りしめた。「迷惑でなければいいが。クイントス、お前がここにいてくれて本当にありがたいよ。」彼は声を低くして、友人の耳に口を近づけて言った。「おれにはこれから、いろいろ助けが必要になるだろうから。」

「そんなことはないと思うがな、マキシマス、おれにできることはするよ。」クイントスは士官兵舎の門を指して言った。「皇帝がお待ちだ。」

マキシマスは群集をかきわけて馬を進めた。クイントスはアルジェントのために道を作ってやった。ようやくマルクス帝の前に着くと、マキシマスは馬を降りて片膝をついた。後の兵士たちは静まりかえった。マルクスはやさしく微笑んで彼を立ち上がらせ、固く抱きしめ、それから一歩下がってこのお気に入りの兵士をしげしげと眺めた。彼はうなずいて片目をつぶった。「その狼の毛皮、君に似合うと思っていたよ。」

マキシマスは師の顔を見て少し心配になっていた。マクルスはこの前に見た時よりずっと年老いて見えた。髪に白いものが混じり、顔の皺は深くなっていた。数ヶ月しか経っていないとは信じられない。「ルシアス・ヴァレス陛下の事はお悔やみ申し上げます。突然の事で、たいへんな衝撃を受けました。」

「我々もだよ。ずっと元気だったのに、突然床に倒れて、次の瞬間には死んでいた。医者は心臓発作だと言っている。苦しまずに死んだようだ。」

マキシマスは少しためらってから、ゆっくりと言った。「お会いできて嬉しい、と申し上げても、失礼には当たりませんでしょうか?」

「失礼なものか。そう言ってくれて嬉しいよ。私も、君に会えて嬉しいよ、マキシマス。」マルクスは二人をとりまいて見つめている兵士達を見て言った。「皆、君を英雄として迎えている。」

「私は英雄にふさわしいようなことは何もしていません。」

「そんなことはない。充分しているよ。」マルクスはアルジェントを指して言った。「いい馬だね。将軍にふさわしい。」

「妻の父親からの贈り物です。」

皇帝の顔は雲間から射す太陽のように輝いた。「結婚したのか?」

「はい。私はこの…休暇…を利用しまして…妻をみつけました。」マキシマスは、自分が許しを得ずに軍を離れた事を皇帝がどう思っているかまだ不安だった。

「こんなに嬉しいことはないよ。本当だ。休暇を有効に使ったようだね。さあ、中に入ってくれ。話し合うことがいろいろある。」突然軍を離れた件はもう不問に付されたようだ。

マキシマスは皇帝についてテントに入った。もっとも、皇帝の居室に「テント」という呼び方は到底ふさわしくなかったが。その部屋は、椅子や寝椅子、テーブル、彫像、胸像、武具、厚いカーテンと敷物などで豪華にしつらえてあり、とても快適であった。マルクスの大きな机の後には帝国の大きな地図が掛けられ、数十個のランプが部屋を隅々まで柔らかく照らしていた。

マルクスはマキシマスを座らせて自分も腰を降ろした。皇帝は食事と酒をもってくるように従者に命令し、仕事の話に入った。皇帝はこの数ヶ月の出来事を説明した。フェリックス第三連隊将軍の戦死、ルシアス・ヴァレスの死が全軍に与えた衝撃。フェリックス第三連隊基地の対岸における部族軍の台頭−それは、ドナウ川沿岸全体に広がっていた。

「クローディアス将軍の後任は?」

「同じ連隊の、ファビウスという名の副指令だ。知っていると思うが」マキシマスはうなずいた。「強力なリーダーになれそうか?」マキシマスは首を振った。「私もそう思う。良いリーダーが不足しているようだな。マキシマス、君の役割はますます重要になる。君は将軍の中の将軍だ、マキシマス。君はこの基地を拠点にすることになるが、広範囲を動き回ってもらわなければならない。基地を回って、すべてが適切に機能しているかどうか確認するためと、必要なら戦闘を統率するためにね。君には全幅の信頼を置いている。君の能力を信じている。この老皇帝は、君が来てくれて本当に安心したよ。」

「ありがとうございます。ご期待にそうよう努力します。」

「君が私を失望させたことはない。君がまだ子供の頃からね。」マルクスは暖かい微笑みを浮かべた。「疲れただろう。」

「こんなに疲れていたとは、今はじめて気づきました。」

「来たまえ、君の部屋に案内する。私の部屋のすぐ近くだ。快適に過ごせるようにしてある。」

マルクスは先にたって士官兵舎を横切り、もうひとつの大きなテントの入口を開いて、マキシマスに入るよう手招きした。「マキシマス、君付きの従者になるキケロだ。彼は負傷兵で、将軍に仕える役に選ばれた。」キケロの負傷は顔を横切る深い傷からも明らかだった。

「キケロか!」マキシマスは手を伸ばして従者の手をしっかり握り締めた。

「光栄です、将軍。」彼は軽快な口調で答えた。

「君の仕事については、君の方が私に教えてくれ、キケロ。私は軍では従者というものを持ったことがないのでね。いつも自分のことは自分でやっていたから。」マキシマスは微笑んだ。

「将軍は軍の統率だけに集中なさってください。日常生活の方は私がすべてお世話します。私の仕事の方が楽ですね。」三人とも笑い声をあげた。

「それでは、ゆっくり休みたまえ、マキシマス。明日の朝一番でまた会おう。」マキシマスはうなずいた。マルクスは背を向けて去りかけたが、立ち止まって言った。「ああ…それからマキシマス…」

「はい?」

「君が来てくれたので、私はやっと安心して眠れるよ。」

 

第36 〜 40章