Maximus' Story
Chapters 36 - 40


第 36 〜 40 章

第1 〜 5章

第31 〜 35章

第41 〜 45章

Slide Shows homepage スライド・ショーのホームページ

Story Homepage オリジナル英語版ホームページ

Kumiko's Russell Crowe Page(翻訳者のページ)

第36章 改革

フェリックス第三連隊での最初の数日間は、マキシマスにとって非常に忙しいものになった。彼は連隊を閲兵し、部下の副指令たち、百人隊長たちに会見し、彼らの事を出来るだけ知ろうと努力した。マルクスはマキシマスに重要な決定を急がせることは避け、そのかわりに彼の指揮下に入る他の連隊を訪問するように勧めた。そこで、将軍は二ヵ月かけてドナウ沿岸を旅し、各連隊の司令官に会い、戦略を打合せ、彼の権限を確立していった。

マキシマスはまた、北部軍15連隊に所属する約7万5千人の兵士たちのモラルにも責任を持つことになった。彼は兵士たちの軍務に対する責任を社会的生活とバランスのとれたものにしようとした。彼は各基地に書庫を設置し、読み書きの学習を促進した。読み書きができず、学ぶ事を希望する者には指導者を任命した。公共の浴場がなかった基地には即座に設置された。兵士たちはそこで充分リラックスし、休養する時間を持つことができるようになった。娯楽と体調維持のため、スポーツ競技が推奨された。マキシマスは兵士たちの衣服と寝具が常に清潔に保たれるように、また食事の質と量が充分に確保されるように厳命した。彼は基地に出入りする娼婦たちのことは黙認したが、兵士たちに性病に関する知識が充分浸透しているかどうか気をつけた。医療施設全般は改善された。兵士たちには充分な休暇を与え、家族に会いに行くことは推奨された。古くなった武器は交換され、日々の訓練や演習はより厳しいものになった。マキシマスは各連隊の戦闘演習を観察し、それぞれの連隊の将軍に関して厳しい報告書を作成した。彼は将校たちに、部下を公平に扱い、彼らを脅すことなしに命令に服従させる方法を教えた。そして彼は、特別扱いを求めて賄賂をやりとりする習慣をできる限り止めさせた。彼は仕事に対する評価のシステムを確立し、よい仕事をした兵士には名誉を与えた。

マキシマスの軍の良い点をより改善し、欠点は是正した。彼は全ての基地を、来た時より良い所にして帰っていった。彼は自分の指揮下の兵士たちには、絶対の服従と忠誠をはっきりと要求した。彼はそれを得た−加えて、絶対の敬愛も。彼はとりわけ、フェリックス第七連隊への帰還を楽しんだ。そこで彼は英雄として迎えられ、旧友たちとのひとときを過ごした。

彼がようやくフェリックス第三連隊に帰って来ると、マルクスは冗談まじりに、マキシマスのおかげで帝国は予算がかかってしかたがない、と愚痴を言った。この投資の見返りが大きいといいが。マキシマスは、それは保証する、と答えた。

新将軍は次の日を休養にあて、妻に手紙を書いた。旅の間にも、彼は手紙を書くという妻との約束を忘れていなかった。彼は長い手紙に自分の新しい仕事を詳細に書き綴った。彼女は自分は元気で、農場は順調に運営されていると返事をよこした。ふたりはお互いに会いたくてたまらなかった。

平穏はわずか数日で破られたが、マキシマスもローマ軍も準備万端だった。戦端はヴァンドボーナの西、ローリアカムで起こった。彼は即座に、その基地に馬を走らせた。各連隊にはそれぞれ約5千5百人の兵士がいたが、ゲルマニア部族民はその5倍はいるようで、多くの戦死者を出しても果てしなく代りが現れた。しかし部族民たちには強力な兵器もなく、高度な訓練も受けていなければろくな食事さえ食べていない状態で、小規模の戦闘のほとんどはローマ軍の勝利ですぐにけりがついた。しかし、小規模の戦闘に勝利し続けても国境線の安定には到底つながらない。マルクスもマキシマスもそれはよく分かっていた。全軍を挙げての戦争が、いずれは不可避であろう。

季節の変化に最初に気づいたのは、マキシマスの鋭い嗅覚だった。それは甘い腐食の匂い−枯れて地面に落ちる木の葉の匂いだった。草や木の葉は緑から茶や黄、黄金や深紅に色を変えていった。すぐに木の枝はむき出しになり、空気は雪を含んで冷たくなってきた。季節の変化は地元民であるゲルマニア軍に有利に働いた。ローマ兵の多くはマキシマス同様に南方の出身だった。マキシマスは訓練の方法を北方の地勢に合わせたものに変えた。また、長い暗い冬の間、ローマ兵が凍えることのないように充分に手を打った。

季節の変化はマキシマスに、新年の頃−厳冬のさなか−に生まれるはずの子供のことを絶えず思い出させた。マキシマスはどうしてもスペインに帰るつもりだった。そのためには、道路が通行可能なうちに出発しなければならない。彼はマルクスに、ふたたび軍を離れるつもりであることをまだ告げていなかった。

「マキシマス、入りたまえ。私に用かね?まあ、座りたまえ。」マルクスが言った。「また予算のかかる話じゃなければいいが。」皇帝は微笑んだ。

「いいえ、個人的な事です。陛下、私の妻にもうすぐ子供が生まれます。私は妻にその前に家に帰ると約束しています。雪が深くなってしまうとそれは難しくなりますので、できればその前に…」

「スペインに帰る許しが欲しいのか?」

「そうです。」

「その資格があると?」

マキシマスはためらった。「はい…そう思います。」

「なぜだね?」

マキシマスは自分の手を見つめて皇帝が何を言わせたがっているのか考えた。「私がいなくても、軍はしばらくの間はちゃんと機能するでしょう。もし、大きな戦闘があったとしても…この季節には、それはあまり考えられませんが。」

「なぜ君なしでも機能すると?」

「ちゃんと訓練されていますし…」

「訓練したのは誰だね?」

「私です。」皇帝は何が言いたいのだろう?

「そうだ、君だ。マキシマス、君を司令官に任命して以来、北部軍は史上最強だ。それに士気も最高だ。君がしたことだ。マキシマス、ローマにとっての自分の重要性を、君はちゃんと理解しているのかね?君がいかにローマに貢献しているか。ローマは、君なしではやってゆけない。」

マキシマスの心は沈んだ。マルクスは行かせてくれないようだ。彼は足元の絨毯を見つめていた。「わかりました。」

「いや、君は誤解している。君がいい仕事をしたので、軍は君なしでもやっていけるようになっている−少しの間だけならね。奥さんの元へ帰りたまえ。子供を腕に抱くまでは、戻ってこないように。」

マキシマスはあわてて立ちあがり、ワインのゴブレットを倒してしまった。「ありがとうございます!」

「衛兵を6人、護衛につける−いや、命令だ。」マルクスはマキシマスが断ろうとするのを遮って言った。「ローマは君を失うわけにはいんのだ。それでは、出発の準備をしたまえ。1週間以内には出発したいのだろう?」

「はい。ありがとうございます、陛下。」

「君がいなくなると淋しいよ、マキシマス。」

「私もです、陛下。」

「『マルクス』だ。」

「は?」

「マルクス。一度だけ、マルクスと呼んでくれ、マキシマス。」

「マルクス。ありがとう…マルクス。」

二人は固い抱擁を交わし、マキシマスは去った。

 

第37章 嵐

3日後、マキシマスは6人の近衛兵を伴って出発した。他の時季ならアルプス越えを試みたかもしれないが、今回は迂回して丘陵を辿る方を選んだ。道のりは長くなるが、より容易な道だ。故郷に帰るまでには越えなければならない山脈がいくつもあり、旅は1ヵ月に及ぶかもしれない。彼はマルクスの許しを得るとすぐに急使を送ったので、オリヴィアは彼の到着の1週間程前には知らせを受ける事ができるだろう。

キケロはマキシマスの旅支度を手伝った。彼は主人に栄養のある食物と暖かい衣類をたっぷりと持たせた。羊毛のチュニックやズボン、フードつきのケープ、夜くるまって寝るための毛皮、ブーツの中に詰める羊毛の靴下。彼は自分は主人について行くべきだとしきりにほのめかしたが、マキシマスは聞き入れなかった。必要以上の人間を連れて行くことはない。

アルジェントにも防寒用の厚い毛布が用意された。ハーキュリースはいつものように馬について来ることになっていたが、マキシマスは特別に大きな革の袋を用意し、犬が疲れた時には肩に背負ったり、アルジェントの背中に置いたりして運んでやれるようにした。

その朝、灰色の空に時折小雪が混じる天気の中、一行は出発した。その日はかなりの距離を進むことができ、その夜と次の夜は連隊の基地に泊まることができた。しかし、国境線から離れると基地はなくなった。次の週一杯は寒くはあったがよい天気で、行程は順調であった。毎朝、地面は厚い霜に覆われ足元は滑りやすくなっており、歩みは遅くならざるを得なかった。しかし、途中の小さな村々で彼らは旅篭を見つけることができ、そこで夜を過ごした。

ハーキュリースが一緒に寝たがったおかげで、夜は暖かく過ごすことができた。犬はいつも、彼の足元に丸くなって寝ていたが、時には彼の腹のあたりに背中をこすりつけてきた。マキシマスが仰向けに寝ていると、ハーキュリースは大きな頭を主人の胸にのせて顔に寝息を吹きかけてきた。ハーキュリースと寝るのは楽しかったが、時々、いびきが大きすぎるときにはやさしくゆり起こしてやらなくてはならなかった。

その後2日間、一行は山を登り、2日目の夜には高地の狩猟小屋に落ち着いた。彼らが床に就くとすぐに雨が降り出し、一晩中降り続けた。雨は激しく、狭い小屋は太鼓の中にいるような音に満たされた。マキシマスはほとんど眠れなかった。彼は翌朝早く起き、凍てつくような寒さの中、急いで服を着込んだ。ドアを開けて暗闇に足を踏み出すと、足が滑り、倒れて強く背中を打った。彼の背中は滑り、かなりの距離を滑り落ちた後低木の枝を掴んでようやく止まることができた。何か鋭い、固いものが降ってきて彼は頭を伏せた。彼はハーキュリースが怯えた鳴き声をあげながら彼の方へ滑り落ちてくるのを聞き、すぐ横を滑り落ちてゆく寸前に手を伸ばして後ろ脚をつかんだ。マキシマスは慎重に立ちあがろうとしたがまた滑って倒れた。彼は手袋をはずして地面に触れてみた。地面は岩のように固かった。…氷のように固かった。

「将軍?」近衛兵のリーダーのリシニウスが戸口にいた。

「出てくるな!昨夜、アイス・ストームがあったらしい。外を歩くのは無理だ。」

「大丈夫ですか?」

「この枝につかまっていればな。今は暗すぎて自分の正確な位置がわからない。しばらくじっとしているよ。」

「犬の声がしましたが…」

「つかまえた。大丈夫だ。」

ドアの所で別の声がした。「どうしたんですか?」

「なにもかも氷で覆われている。」リシニウスが答えた。

「氷?昨夜はひどい雨だと思っていましたが、雹だったんですね。」

マキシマスはもう一度大声で言った。「出てくるな。ひょっとしたら、崖の縁にいるかもしれない。自分の位置がわかるまで動かないことにする。」それから半時間ほど、彼はそこに座ってハーキュリースをなでてやりながら頭上の枝が氷の重みでみしみしと音を立てて折れるのを聞いていた。彼は小屋の裏に繋いであるアルジェントと他の馬たちのことを考えた。彼の馬には耳から尻尾まで分厚い毛布をかけてあるが、昨夜の嵐はあまりにひどかった。氷を含んだ風が来て、マキシマスは頭を伏せた。風は彼の周りの地面を粉々に砕いて吹き抜けていった。

薄桃色の曙光さし、あたりの景色を照らし出した。それは、マキシマスが見たこともなければ、想像すらしたことのない光景だった。すべての木の枝が小枝にいたるまで、すべての低木や草、すべての岩、そして小屋全体が厚い氷に覆われていた。世界は輝くダイヤモンドを満たした宝石箱に変わっていた。マキシマスは驚嘆の念に打たれてしばらく背中を木にもたせかけたまま見つめていた。常緑樹は氷の重さで折れ曲がり、多くの枝が完全に折れてしまっていた。

「将軍、そちらへロープを投げます。」

マキシマスはうなずいてロープを腰に結び付けた。近衛兵たちが彼を引張り上げる間、彼はハーキュリースをしっかり抱えていた。下には密集した低木の繁みがあったので転落する危険はなかったが、助けがなければ小屋まで戻るのは困難だっただろう。安全な小屋の中に着くと、彼はすぐに小屋の裏に繋いである馬たちのことを考えた。どうやって小屋の裏まで行けばいいのか?近衛隊のリーダー、リシニウスは手斧でドアの外の氷を叩き割ってなんとか外に出られるようにした。彼はさらに氷を割りながら道を作っていった。この分では、馬のところまで辿り着くのに何時間もかかるだろう。氷の厚さ少なくとも5cmはあり、弱々しい太陽の光は当分この氷を溶かしそうになかった。

マキシマスは自分とリシニウスが両手に懐剣を持ってピック代わりにし、四つんばいで這って行くことにした。その後をだいぶ遅れて、5人の衛兵が手斧で氷を割りながら続く。小屋の周りの坂を滑り落ちるのを避けるために常にどちらかの懐剣を氷に刺していなければならないので、2人は非常にゆっくりと進んだ。一度、リシニウスの両膝が滑り、氷の上に腹ばいに倒れこんで3m以上滑り落ちた。彼はやっとのことで懐剣を氷に刺し、体勢を立て直した。

マキシマスが最初に馬のところへ着いた。馬たちはできるだけ小屋にぴったりと身体を寄せてひどい雹を避けていたが、それでも氷に覆われていた。外側の2頭は震えていた。馬たちの身体の下の地面は氷が張っていなかったので、マキシマスはすぐ側に立つことができた。彼は一番近くにいた馬から氷に覆われた毛布を取った。毛布はかちかちに凍っていて、外しても馬の背の形のままだった。マキシマスが手で絞ると、ばりばりと音を立てて氷が散った。彼は毛布からクリスタルの氷を振るい落として馬に掛けなおした。

リシニウスが追いついて来たのでマキシマスは彼に指示した。「とりあえず、毛布を全部外して氷を振るい落としてから掛けなおしてやれ。身体をこすって、血行を戻してやらないと。そのあと、飼葉をやってくれ。」彼は頭上の常緑樹の枝を見た。この枝が雨から馬を守ってくれると思っていたのだが。「この辺りの氷を割ったら、一旦馬を動かして上の木の枝から氷を叩き落とさないと。落ちてきて馬に怪我をさせてしまう。」ふたりの男はやさしい声を出して怯えた馬たちを落ちつかせながら働いた。やがて、他の兵士たちが追いついてきた。

アルジェントは小屋の一番近くにいて、その分助かっていたが、それでも尻尾は長い氷柱になり、耳は霜で覆われていた。マキシマスは充分時間をかけて若い雄馬をなでて落ちつかせ、怪我をしていないか調べた。馬の世話が終るころには午後になっており、彼らは空腹で倒れそうだった。彼らは慎重に小屋まで戻り、食事を取った。

「あまり食べ過ぎるな」マキシマスが注意した。「もっと寒くなるかもしれない…わかるか?ここを出発できるだけ氷が溶けるまで何日かかるかわかったもんじゃない。」彼はドアの近くに立って壮絶に美しい光景を眺め、この旅は何日遅れることになるだろう、と考えていた。

 

第38章 帰郷

窮屈な小屋で6人の兵士とともに一週間以上を過ごした後、マキシマスは行動にうつる時だと決心した。状況は変わっていなかった。春までここに閉じ込められることになりかねない。彼は毎日、小屋の戸口に座ってハーキュリースをなでながら辺りの地形を憶えこみ、近衛兵たちを置いて行く準備をした。彼らは皇帝からマキシマスを守るように命令を受けているので、彼が何を言ってもそれを許すとは思えなかった。場合によっては、力ずくでも引きとめられるかもしれない。それなら、撒くしかない。彼は山を降りるのに少なくとも4日はかかるとふんでいた。降りて行けば氷はなくなるのではないか。4日。家につくのは予定よりまる2週間遅れることになる。オリヴィアはどんなに心配するだろう。

その午後、近衛兵たちが馬の世話をしている時に、彼はちょうど5日分の荷物を袋につめた。食料は少なめにおさえたが、防寒具を省略するわけにはいかなかった。彼は持っている衣服を全て詰めこんだ。その夕方、彼は荷物とアルジェントとハーキュリースの食料を小屋の裏に隠し、その夜必要なものだけを出しておいた。この一週間、マキシマスは毎日、小屋の下の地面の凍っていない部分から少しづつ土を掘リ出していた。その跡の空洞に、彼は間に合わせの布袋につめたさまざまな装備をかなりの量隠していた。

その夜、彼は6人が深い寝息を立て始めるまで待って毛皮を巻き上げ、つま先立ちでドアに向かった。ハーキュリースがぴったり後についてきた。犬が眠気覚ましに身体を振ると、首輪と歯が音を立てて、マキシマスは身体をすくませた。

「将軍?」リシニウスの声がした。

「寝てろ」マキシマスは小声で言った。「こいつを外に連れていかなくてはならないらしい。すぐ戻る。」ドアがわずかに音を立てて開いた。彼は外に出て、ドアをしっかりと閉めた。外は完全な闇夜だった。ハーキュリースは小屋の裏へ急ぐマキシマスにぴったりとくっついて来た。彼は荷物を取り出して、驚いている馬に結びつけ、土をつめた袋をひとつ、しっかりと自分の腰に結わえつけた。彼はじたばたと暴れるハーキュリースを革の袋に押し込み、その袋もしっかり馬に固定した。彼はアルジェントの轡を取って闇を見つめた。こんなことをするなんて、無茶だろうか?ずっと遅れて家に帰るほうがいいだろうか…崖から滑り落ちて生きて戻れない危険を冒すより?あの陰気な小屋でもう1日でも過ごすことを考えると、彼の心は決まった。行こう。

マキシマスは小屋を回りこんだ。地面が斜めになるのを感じると、彼は腰につけた袋に手を突っ込んで、土を前方に大きく広げるように撒いた。それから足を氷の上に乗せてみて、土によって足場がかなり安定するのを確認した。彼は一歩一歩慎重に歩を進め、ゆっくりと坂を降りていった。彼はアルジェントをなだめてその後をついて来させた。今は岩や草木のぼんやりとした形しか見えなかったが、彼は小屋から見える範囲の道や木の位置をすっかり覚え込んでいた。彼は氷に覆われた低木の近くを通るようにした。最悪の場合でも、馬が滑り落ちるのを防げるからだ。彼は自分のことよりもアルジェントのことを心配していた。馬の前脚というのは、ちょっとしたことで折れてしまうものなのだ。

マキシマスは忍耐強く、ゆっくりと進んだ。2時間かけてやっと、少し安心できるぐらい小屋から離れることが出来た。しかし、ドアが開いてリシニウスが彼を呼ぶ声がした時、彼はまだその声が聞こえる位置にいた。「将軍?将軍、どちらです?大丈夫ですか?」沈黙。彼の声は狼狽の色を帯びていた。「将軍?」彼は叫んだ。「ご無事ですか?」ハーキュリースが小さい声を出したが、マキシマスがあごをつかんで黙らせた。

よく聞き取れないくぐもった声がマキシマスの耳まで届いた。「どうした?」

「将軍がいらっしゃらない。」

「いないって、どういうことだ?」

「出発されたようだ。」

「一体何だってそんなことを?」

「将軍に何かあったら、皇帝陛下は我々の首を刎ねさせるだろうな。」

「まだ遠くへは行かれていない筈だ。」

「何を言っているんだ?追いかけるのか?外は真っ暗で何も見えないぞ。」

「夜明けと共に出発する。」

「この氷の上を?」

「将軍は出発したんだ。どうやったのかわからないが…崖の下に彼の死体をみつけたりすることのないように祈ってろ。」

ドアは軋んだ音をたてて閉まった。マキシマスは彼らが自分を油断させようとしているのではない事を確認するために、一分ほどじっとしていた。そして、滑りやすい坂を再びゆっくりと辿り始めた。骨の折れる、大変な歩みだった。東の空が明るみ始める時までには、彼は小屋からかなり南の位置まで進むことができ、肩の緊張がすこし緩むのを感じた。彼は土を撒き、氷の張った地面に慎重に歩を進め続けた。その夜は、ハーキュリースと一緒に毛皮にくるまり、途切れ途切れの眠りを取った。狼の遠吠えを聞いた犬が遠吠えを返そうとするのを止めながら。

翌日も、前日と同じように彼は着実に山を降りていった。3日目までには足を下ろすと氷が割れるようになり、歩みはずっと安全になった。4日目には、木の影になっている所以外には氷はなくなり、ずっと速く進めるようになった。昼頃には、彼はアルジェントに乗ってゆるい坂を降りながら、目前に続く草の生えた道を眺めていた。自由を得たという素晴らしい感覚が彼の心を満たした。オリヴィアのところへ向っているのだ。



オリヴィアはベンチに座って道を眺めていた。この2週間、彼女は毎日そこに座って夫の姿を見つけようとしていた。食事の時も家に戻ろうとしないので、召使いたちがそこまで食事を運んできた。義理の姉たちは、マキシマスの無事を心配する彼女の気を少しでもそらそうと、本を読んであげたりしていた。オリヴィアは中の赤ん坊を慰めようとするかのように、ずっと自分の大きなお腹を撫でつづけていた。彼女は赤ん坊がお腹を力強く蹴るのを低い位置に感じていた。フローラとオーガスタによると、誕生が近づいている確かな兆候だそうだ。タイタスはその時にはすぐに産婆の所へ馬を駆って行けるように身構えていた。オリヴィアは腰の痛みをまぎらわすために不快そうに身じろぎしたが、道から目を離さなかった。冷たい風が足元を吹き抜け、彼女は厚い羊毛のショールをお腹をかばうように掛け直した。

突然、オリヴィアは腰痛も忘れて背筋をぴんと伸ばした。遠くに土煙が見える。フローラは彼女の視線の先を見て言った。「オリヴィア、期待しすぎちゃだめよ。あの旅人はひとりのようだし。マキシマスならきっと大勢部下を連れているわ。」オリヴィアは彼を連れに来た近衛兵たちのことを思い出してあきらめた。それでも、視線は地平線に釘付けになったままだった。

フローラの言った通り、連れのいない旅人の姿が丘の頂上に現れた。まだ遠すぎて、誰かを見きわめることはできなかった。馬に乗った男が近づくにつれ、馬の黒い姿や男の後になびいているケープがだんだんはっきり見えて来た。オリヴィアは彼の胸に輝く鎧を見て立ち上がった。ショールが肩から落ちた。小さな影が、馬の足元を走っているのが見えた。オリヴィアは叫んだ。「マキシマス!あれはマキシマスよ!」臨月の身でありながら、彼女は階段を駆け降りて道を走って行った。

マキシマスは馬をフルスピードで飛ばして門をくぐり、だしぬけに強く手綱を引いた。アルジェントは驚いて前脚を上げた。マキシマスはアルジェントの背中を後に滑り降り、馬を余計に混乱させた。彼が地面に立つやいなや、オリヴィアが腕の中に飛込んで来た。彼女は夫を力の限り抱きしめて、彼の名を何度も何度も囁いた。ふたりは長い間、そうやって立っていた。抱きしめあい、キスを交わし、愛の言葉を囁きあいながら。マキシマスはやさしく妻の大きなお腹を撫で、赤ん坊が蹴っているのを感じた。

ようやく、オリヴィアは涙を流しながら笑い声をあげてみせた。「マキシマス、あなたったら!ひどい恰好よ!大変な旅だったようね。」

「その通りだよ。高地でアイス・ストームに遭ったし、低地では雨と泥だ。もうくたくただし、飢え死にしそうだし…それにこの恰好だ。君に泥をくっつけてしまったみたいだね。とにかく、間に合わないんじゃないかと心配で心配で…」

オリヴィアは涙を流しながら笑った。「ちょうど、間に合ったわ。私達の赤ちゃんはもうすぐ生まれるのよ。さあ、家に入って。熱いお風呂を用意させるから。」オリヴィアは周りを見回して言った。「ひとりなの?」

「出発した時はひとりじゃなかったんだが。6人の怒れる近衛兵が、いずれやって来るよ。来たら、邪魔にならないように君のお父さんのところに泊まってもらおう。」マキシマスは妻の額にキスをして、彼女のうなじに顔を埋めながら、彼女の腕をさすった。「身体が冷えてる。家に入ろう。」



その後まもなく、マキシマスは大理石の風呂に身体を沈め、その横で妻がクッションの上に膝をついて彼の髪に石鹸をすりこんでいた。「その髭ときたら、」彼女は言った。「初めて逢った時よりひどいわね。」

オリヴィアの指が頭から首、肩へとマッサージしてゆく感触を味わいながら、マキシマスは「うーむ」と唸るのが精一杯だった。突然、彼女の指が止った。マキシマスは一瞬で陶酔から醒め、彼女の驚きに見開かれた目を見て、その視線を辿った。彼女の膝の下を見ると、どろりとした液体が床に広がっていた。



「マキシマス、落ちつけ。大丈夫だから。」タイタスが言った。

「気軽に言うな」マキシマスは広間をうろうろと歩き回りながら唸るような声で言った。オリヴィアのうめき声や叫び声が聞こえるたびに、彼は立ち止まって身を震わせた。「女がこんなに苦しまなきゃならないなんて、おかしいじゃないか。」

「そりゃそうだけど、これは変えようのないことだから、どうしようもないだろう?」

また、オリヴィアの叫び声が聞こえた。「おれが行って慰めてやれないかな?」マキシマスはそう言って寝室の方へ向った。

タイタスが彼の腕をつかんで引き止めた。「産婆の邪魔になるだけだって。中には女がたくさんいるから、大丈夫だよ。おい、チェッカーでもやらないか?」

マキシマスは狂人でも見るような目で友人を見て、また歩き回り始めた。うろうろ、うろうろと彼は歩き続けた。何時間も経った。「一体いつまでかかるんだ、タイタス?」マキシマスは怒った声で言った。

「まだそんなに経ってないよ。まだまだ長くかかるかもしれない。」

「何時間も経ってるぞ。」

「何時間もかかるもんなんだよ。」

オリヴィアの父親が正面玄関から入って来て、ふたりとも振り返った。「まだかい?」彼は聞いた。

マキシマスはみじめな気分で首を振って椅子に腰を降ろし、額に手をついてうなだれた。

マルクスが彼をからかった。「君を見てると、初めての子供だってことがすぐわかるな。二度めからはだんだん楽になるもんだよ。」

「誰が楽になるんです?」マキシマスは言った。彼が義理の父親にくってかかろうとした時、血も凍るような叫び声が聞こえて彼の心臓は喉元まで飛び上がった。彼は耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。マキシマスの手は震え出した。彼は寝室のドアを見つめた。生まれてこのかた、こんなに怖い思いをしたのは初めてだった。

家中がしんと静まりかえって、次に聞こえる音を待ちわびていた。

突然、弱々しい、甲高い泣き声が皆の耳に飛込んできた。泣き声はだんだん力強くなり、やがて大声になった。マキシマスは広間をダッシュして寝室に飛び込み、産婆に睨みつけられた。「あんたはまだ入ってきちゃだめだよ」産婆は言った。

「オリヴィア?」

「私は大丈夫よ、マキシマス。」彼女の声は弱々しかった。「男の子よ。」

その言葉を聞いて彼は大きな泣き声の方を振り向いた。産婆は泣いている赤ん坊を彼の手の中へ押し込んだ。彼はしわしわの小さな顔と濃い黒い髪を見つめ、自分の子供だと宣言するように高く抱き上げた。それから胸に抱きしめて妻のそばに行った。目に涙が光っていた。「ありがとう、オリヴィア。ありがとう。」

マキシマスは赤ん坊を妻の腕の中に置いた。彼女は息子の顔を初めてしげしげと眺めて言った。「あなたそっくりよ。」

「いや、君そっくりだよ。きれいな黒い瞳だ。ママそっくりじゃないか。」

ドアのところに顔が二つ現れた。「いいかい?」タイタスが聞いた。

マキシマスは赤ん坊を抱き上げて誇らしげに義父の方へと歩いて言った。「あなたの孫ですよ、マルクス。」

マルクスは唇をすぼめて赤ん坊を優しくあやすような声をたてた。「ぼうや、お前のパパが誰か知ってるかい?名高い将軍なんだよ。すごいだろう?」

マキシマスは言った。「名前はマルクスにします。マルクス・デシマス・メリディアス。」

マルクスは眉を寄せた。「君の名前をつけなくていいのか、マキシマス?」

「オリヴィアと私で決めたんです。私にとって大切な二人の方から名前をいただくことにしました。」父親の深い声を聞いているうちに赤ん坊は泣き止み、マキシマスの指をつかんだ。

産婆がせかせかと歩いて来て彼の腕から赤ん坊を取りあげた。「いろいろやらなきゃならないことがあるんだよ。外に出ておくれ。」彼が出て行こうとしないので、産婆は彼を睨みつけた。彼はオリヴィアのところまで歩いて行って、彼女の唇にキスをした。彼女は安心して、と言うように彼の手を握りしめた。彼はしぶしぶ、タイタスとマルクスについてドアから出ていった。

男たちが出てゆくとドアはバタンと閉められ、女たちは赤ん坊と母親の世話を続けた。

 

第39章 マルクス坊や

オリヴィアがゆっくりと目を覚ますと、夫がすでにシンプルなチュニックを身につけて、ベッドの彼女のそばに腰掛けていた。彼は妻と生まれたばかりの息子を見つめて優しい微笑みを浮べた。マルクスは母親の腕の中で身じろぎした。目を覚ましかけているところだ。マキシマスは息子が手を握ったりひらいたりするのを見ながらにっこりした。赤ん坊の半分寝ている顔はだんだん赤くなり、おなかがすいたと泣き出す直前の表情になった。

オリヴィアが息子を胸に抱くと、赤ん坊はすぐに、母の胸にむさぼるように吸いついた。マキシマスはその手を小指でくすぐり、小さな指が彼の指を握りかえすのを感じて喜びに満たされた。彼は親指で小さな手を撫でながら身を乗り出してオリヴィアにキスをした。まず髪に、それから額、鼻、唇に。「おはよう。」彼は言った。オリヴィアはほほえみを返した。彼女の顔は輝いていた。マキシマスは空いている方の手を床の方へ伸ばし、置いてあった包みを探った。それは四角い小さな箱で、美しい紙で包まれていた。「プレゼントだ」彼はオリヴィアに箱を手渡しながら言った。

オリヴィアは赤ん坊を肘の辺りに抱えたままゆっくりと箱を開けた。彼女は夫とすごす一日一日を出来る限り引きのばすかのように、すべてをゆっくりとやっていた。箱の蓋を開けて、彼女は息を呑んだ。箱の中には、幅のある金の腕輪とループ型の耳飾りが入っていた。「まあ、マキシマス、なんて綺麗なの。」彼女は腕輪を手首にはめて、腕を光にかざした。日光が貴金属に反射してきらきらと光った。「こんなに綺麗な物、もらったのは初めてよ。」

「本当はもっといいものをあげたいんだ。でも、してあげたいだけのことをする時間が無くて…君には、純金とダイアモンドとルビーとエメラルドと…」

オリヴィアは笑って遮った。「そんなものいらないわ。欲しいのは、あなたとこの子だけ。」

マキシマスの顔が曇った。

「いつ出発しなければならないの?」彼女は聞いた。

マキシマスは視線をそらして窓から遠くの丘を眺めた。「明日だ。昨日、近衛兵たちが着いて、すぐ出発すると言っている。」

「あなたの方が上官なんじゃないの?」

マキシマスは笑った。「それはそうなんだけど。彼らはマルクス・アウレリウス帝からおれを守るように命令を受けてるんだ。それに、山で出し抜いた件もあるし、機嫌をそこねてしまったみたいでね。」彼は真剣な表情になって言った。「この季節では、いくら急いでも北部前線に戻るのに1ヵ月はかかる。それも、天気に恵まれたらの話だ。それ以上、前線を離れているわけにはいかないんだ。」

オリヴィアは勇気を奮い起こして微笑んだ。「わかるわ。あなたはローマにとって大事な人だから、私が独占するわけにはいかないのよね。それは、あなたと結婚した時からわかっているのよ、マキシマス。」

「本当は、何より君とマルクスと一緒にいたい。この子が育ってゆくのを、そばで見ていたい。それは信じてくれ。」

「信じているわよ。あなたが行ってしまうのは悲しいけれど、それよりも私はあなたの事が心配なの。」マルクスがそわそわしだしたので、彼女は息子をもう一方の乳房に移した。「今夜一晩は一緒ね。」

「ああ、でも農場のことでちょっと用事があって今から出かけてくる。夕方には帰るよ。」マキシマスはもう一度妻にキスをして、息子の頭を抱きしめ、それから出て行った。

オリヴィアの胸は冷たい不安で凍りついた。



その夜、ふたりともあまり眠らなかった。ふたりお互いに腕をまわして横たわり、間に息子をはさんで抱きあった。マキシマスは息子のすべてを憶え込もうとしていた。その小さな体、赤ん坊らしい匂い、喉を鳴らす声、泣き声さえも。長年の戦闘で固くなったマキシマスの手には、息子の肌はあまりになめらかで繊細だった。妻と息子への愛が彼の胸に湧き上がった。そのあまりの強さに、マキシマスは驚き、また怯えた。このふたりなしで、どうやって生きてゆけばいいのだろう?一瞬、彼はふたりを連れて行くことを考えたが、すぐにその考えを退けた。利己的な考えだ。

まるで彼の心を読んだかのように、オリヴィアが言った。「ゲルマニアってどんなところ?」オリヴィアはマキシマスの声を聞いていたかった。彼の深い、優しい声に慰められて、心配を忘れてしまいたかった。彼がいない時、顔を思い出すことはできても、彼の胸から響くこの豊かな声を思い出すのは難しかった。

「そうだね…暗いところだ。特にこの季節には。日がとても短くて、夜が長くて、寒くて暗い。基地の中は機能的だからいいが、まわりの村は…基地の回りには、兵士に物を売る農民や職人の小さい村ができるんだが、彼らの家は…あばら屋だ。他に言いようがないんだ。子供たちは放っておかれて、汚いままぼろをまとっている。本当に貧しいんだ。ひどい臭いだし、家畜なんかほとんど飢え死にしかけている。我々の方の岸でさえ、そうなんだ。川の向う岸がどんな様子か、想像もつかない。」

「近くに家族がいる兵士もいるの?」

マキシマスは慎重に考えてから答えた。「多勢いるけど、それは地元の女と結婚した兵士たちで…あそこで生まれ育って、環境に慣れている女たちだ。夫について南から来た家族は、たいていすぐ帰ってしまう。本当にみじめな生活だから」マキシマスは頭に手をついて柔らかな夜の光に浮かんだ妻の横顔を見つめた。「女には本当に辛い暮らしだ。それに、危険なんだ。敵がすぐ向う岸にいるんだから。」マキシマスはしばらく黙っていた。「戦に負けた側の女や子供に、勝った方の兵士はそれはひどいことをするんだ。もし、大きな戦闘で負けたりしたら…」彼は声を途切らせた。「オリヴィア、おれには耐えられない…家族の安全を気にかけながらでは、ちゃんと仕事ができない。おまえたちがここで、愛する人たちの側にいて、おれの留守にもちゃんと守られているって安心できなければ…」

オリヴィアは彼の方へ顔を向けて言った。「たとえなにがあっても、あなたが望むなら私はついてゆくわ。それは憶えていてね。」

「わかってる。でも、ここにいてほしいんだ。このスペインに。マルクスもここでなら、安全に健やかに育てるだろうし…いとこたちと遊んだり、馬の乗り方とか、作物の育て方とかを覚えたり。そのうちに、弟や妹たちとも一緒に遊べるようになるといいね。」

「私たちはいつでもここにいるわ、マキシマス。あなたを待っているわ。あなたがいつ帰って来てもね。」オリヴィアは微笑んだ。「マルクスに弟や妹を作ってあげるつもりなら、早く帰ってきてね。」

「そうするよ。すぐに帰る。」自分がこの言葉をどんなに大きく裏切ることになるか、マキシマスは知らなかった。



翌朝、オリヴィアは家の前の階段に立ち、赤ん坊を腕に抱いていた。彼女は愛する夫が、重武装の衛兵6人を連れて去ってゆくのを見つめていた。彼女は夫からもらった腕輪と耳飾りをつけ、しっかり背筋をのばし、顔を上げていた。涙はなかったが、喉のあたりが痛んでいた。その朝息子を腕に抱いた時、マキシマスは涙を流した。彼女はただでさえ辛い出発を、夫にとってこれ以上辛いものにしたくなかった。彼女は馬上の男たちが道を去ってゆくのを見つめていた。彼らの姿がだんだん小さくなってついに丘の向うに消えるまで目を離さずに見ていた。それから彼女は道に背を向けて家に戻った。とうとう、抑えていた涙が頬に流れ落ちた。



マキシマスは近衛兵たちを率いて、今度は丘陵も避けて谷を辿って行った。衛兵たちがマキシマスにまだ腹を立てているのは、彼らの態度からも明らかだった。しかし、彼らが黙り込んでいるのはかえってありがたいぐらいだった。マキシマスはまるで喋る気になれなかった。彼は指示や命令を与える時にしか口をきかなかった。天気はなんとか持ちこたえ、行程は順調に進んだ。マキシマスは衛兵たちを、体力の限界ぎりぎりまで急がせた。毎晩、彼は力を使い果たし、心身ともに疲れきって寝具に倒れ込んだ。少しでも眠るには、そうするしかなかった。

出発から二週間後、一行は村のそばで馬を休ませるのによさそうな納屋を見つけた。その納屋は旅篭より清潔に思えたので、兵士たちもそこで寝ることに決め、囲いの中で毛皮にくるまった。マキシマスはハーキュリースと一緒に横になった。スペインを発ってから初めて、彼は荷物をひっくり返して革の小さい巾着袋を探し出した。結婚の後、オリヴィアが彼のために作ってくれた木彫りの像が入っている袋だ。毛皮にくるまってから、彼は革袋を開けてオリヴィアの像を引っぱり出した。袋の中で指が別の何かに触れた。彼はもうひとつ、もっと小さな木彫り像を取り出し、石の壁の高窓から射す月光にかざした。子供の像。幼い男の子だ。マキシマスは息を呑み込んだ。彼は急いでハーキュリースの毛皮に顔を埋め、喉にこみ上げる鳴咽を押え込んだ。

 

第40章 防備

マキシマスがフェリックス第三連隊に帰って来た時、マルクス・アウレリウスは既に去った後だった。キケロの説明によると、皇帝が北部戦線の対策に忙殺されている間に部族民がイタリアに侵攻したのだという。また、東国境も再び不安定になっていて、皇帝は出発せざるを得なかった。「陛下は、北部軍は有能な司令官がいるので安心して出発できると、将軍に伝えてほしいと仰っていました。」キケロが付け加えた。「皇帝陛下からのお手紙です。」

手紙の内容は、キケロの言った事を詳しく説明しているに過ぎなかった。皇帝は司令官であるマキシマスを信頼していると強調していた。マキシマスはすぐに返事を書き、皇帝の名を息子につけたことを書いた。彼はまた、他の連隊に将軍が戻ったこと、すぐにまた訪問することを書き送った。その午後即座に、急使たちが手紙を持って出発して行った。マキシマスは、今度は本格的に総司令官の地位についた。生死に関わる決断が、全て彼の手に委ねられた。

マキシマスはドナウ沿岸の各連隊は既に訪れていたが、今回の巡回はライン川の西岸にも範囲を広げた。延べ4000キロに及ぶ道のりだ。そのルートには一応、昔からの道路網があったが、マキシマスは兵士たち道にを整備させた。軍の移動を−ついでに、彼自身の移動も−容易にするために。要所には、頑丈な木の柵や、木の物見塔や砦が築かれていたが、夜に川を渡ってきたゲルマニア兵によく焼き落とされていた。そこでマキシマスは木のものを取り壊し、代わりに石で物見塔や砦を築いた。新しい石の建築物は道に沿って一定の間隔で作られた。

マキシマスはほとんど絶え間なく旅をしているように感じ出した。彼は馬に充分な休養を与えるために、2頭の両方を交代で使うようにした。彼の旅はガリアを越え、海峡を越えてブリタニアにまで及んだ。彼はロンディニウムで連隊を視察し、帝国の北の果て、トリモンティウムまで旅を続けた。そこでは、2週間続けて雨が降りつづけていた。ブリタニアの湿気と霧は彼を骨まで凍えさせた。彼は故郷の太陽を恋しく思った。そして、妻と息子が安全で暖かい地にいることを心から感謝した。

ゲルマニア同様に、彼は北の国々の人々の生活状態に驚かされた。人々は起きている間中ずっと、なんとか露命をつなぐのに必死になっていて、ほとんど楽しみというものを知らないように思えた。外を歩けば彼は、その馬や服に現れた富と力に惹かれて来た娼婦たちに、ほとんどひっきりなしにつきまとわれた。物乞いは彼の後ろに列をなし、その中には食べ物や小銭をせがむ、襤褸をまとった幼い子供たちも混じっていた。マキシマスは兵士たちに、これらの人々も帝国の一員であり、十分な食料や住居を与えられるべきなのだ、と言った。

彼はクローセンタムからブリタニアを発ち、コリアラムからガリアに上陸した。そして岸を辿ってライン川沿岸まで来た。ヴァンドボーナへの帰り道に、彼はもう一度全ての砦と基地を訪れ、訓練と演習を視察した。また、道路や物見塔などの建築物を検証した。彼の旅は全部でまる1年近くかかった。旅が終る頃には、彼は北国境はかつてないほど強固になったと確信が持てるようになっていた。ふたたび冬が近づき、春の敵地への攻撃計画を立てる時期になっていた。反帝国勢力の勃興を抑え、部族民をライン・ドナウの向うへ追い返し、できるだけ長く平和を保つために。

翌年1月、マキシマスは北部軍各連隊の全将軍をライン川とドナウ川の中間地点−安全を確保するため、国境から充分離れた地点−に集めた。2週間に渡って、将軍たちは戦略を練り、政策を話し合い、晩餐会やチェスを通じて親睦を深めた。ほとんどの将軍はマキシマスより年上だったにもかかわらず、出席者全員が彼が皇帝によって直々に抜擢されたのを知っていて、そのことで最初から一目置いていた。会合の終る頃には、彼らはマキシマスの人間性と能力を尊敬するようになり、マルクス・アウレリウスが彼を選んだ理由を深く理解した。マキシマスは頭が良く、機知に富んでいて、戦術のあらゆる側面を理解していた。彼はまた礼儀正しく、思慮に富み、全員の意見に耳を傾けた。しかし、誰が総司令官であるのかは誰の目にも疑う余地はなかった。それは、皇帝の意向とは全く関係がなかった。マキシマスは黙っていても注目を集める人間だった。彼には際立った存在感と、静かだが断固とした威厳が備わっていた。彼が口を開けば、人は黙って耳を傾けた。彼は極めて温厚な印象だったが、怒らせると恐ろしい人間だということも、将軍たちは知っていた。戦士としての彼は伝説的存在だった。しかし何よりも、彼は単に、ものすごく仕事が出来た。マキシマスはローマから送り込まれてきた上流階級のごますり男ではなかった。この男は軍で育ち、軍のなりたちを掌を指すように知っていた。彼は兵士たちの生活と心情を理解していた。彼自身、兵士たちの一員なのだ。

主な論点のうち、マキシマスが将軍たちと意見が分かれたのは実は一点だけだった。それは、奴隷制の問題だった。将軍達の多くは、部族民をできるだけ沢山捕虜にして奴隷としてローマに送るだけのために攻撃をしたがった。どちらにしても、ローマは奴隷の安定した供給を必要としているのだから、と将軍たちは主張した。それがなければ、ローマは機能しないし、頑強で健康な戦士なら、最高の奴隷ではないか?

マキシマスは、敗軍の兵が奴隷になるということを考えるだけでひどく嫌な気持ちがした。彼らのどこが、ローマ兵と違うというのだろう?彼らも、自分たちの生活と家族の命を守るために戦っているのだ。戦いに敗れれば、奴隷になって当然だというのか?それなら、不運にも部族民軍の捕虜になったローマ兵は、彼らの奴隷になるのが当然ということになるのではないか?将軍たちはこの考えを笑い飛ばした。ローマの兵士が、蛮族の奴隷になる?考えるのも馬鹿馬鹿しい。彼らは自分の部下である兵士たちの能力に自信を持っており、マキシマスもそれに反対するつもりはなかった。しかし、彼は奴隷を捕まえる目的のみで行なう攻撃には頑固に反対した。それでも、戦闘で捕虜になった部族民を奴隷としてローマに送ることは認めざるを得なかった。そのこと自体が、彼を暗い気持ちにさせた。それがこの帝国のなりたちの一部なのだ。

マキシマスは一瞬のうちに完全に自由を失うのがどんな気持ちか想像してみようとした。自分の意志を奪われ、行動を束縛され、身体さえ自分の物ではない。家族を失い、財産を失い、名前を失い…誰かの所有物になり、売り飛ばそうが、あるいは気が向けば殺そうが所有者の自由になる。どうしても想像がつかなかった。しかし、それは運が悪ければ誰の身にも起こりうることなのだ。

彼自身の身にも。

 

第41 〜 45章