Maximus' Story
Chapters 56 - 60


第 56 〜 60 章

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第56章 包囲(続)

マキシマスは身をかがめて、右手の指で冷たい、湿った土をすくった。羊毛のケープが地面についていた。彼の部下たちは辛抱強く見守っていた。この奇妙な儀式は、全ての準備が整い、戦いが今まさに始まろうとしているという合図なのだ。彼は考え深げに土を掌に擦りつけた。すぐそばにハーキュリースが座り、興奮に身をふるわせていた。彼は手を鼻のところまでもって行って匂いをかぎ、芳しい香水でも味わうように一瞬目を閉じた。それから立ち上がって、泥だらけの掌をズボンで拭った。高価なワインレッドの布地に泥がこびりつくのにもまるでかまわずに。助手が彼がアルジェントに乗るのに手を貸した。彼は少しの間じっと座って丘のふもとに集まった百人隊を見渡した。連隊はいつもの規則正しい縦列隊形ではなく、群集のように不規則な形で集まっていた。

「気をつけて進め」マキシマスは将校たちに言った。「私の命令には、言葉通りに従え」将校たちはうなずいた。マキシマスは全員に聞こえるように声を上げた。凍てついた空気の中、その声はクリスタルのようにはっきりと響き渡った。「力と名誉を!」彼が言ったのは、それだけだった。しかしその言葉は、兵士たちに多くの事を語っていた。彼の部下以外にも、何百人もの−もしかしたら、何千人もの−男達が、彼の声を聞いている。マキシマスはそれをはっきり意識していた。彼らは砦の壁の上の、防御された隠れ場所にいる筈だ。言葉の意味は分からなくても、その声にこめられた意図は伝わっているだろう。

兵士たちが位置につくと、マキシマスはもう一度砦を見た。その砦が大急ぎで建てられたのは明らかで、ローマの技師や職人たちの間では冗談の種になっている。しかし、それは牡牛のように頑丈だった。でこぼこした、不規則な形も牡牛に似ていた。15メートル近い高さの壁がそびえ立ち、小さな村がすっぽり入る程の広さを囲い込んでいた。目に見える入口は低い、厚い木のドアが一つだけだった。そのドアは潅木にほとんど隠れていて、内側に重い閂がかけられていた。砦はその壁を形作る大きな岩の間に木を挟みこんで、巧みにカモフラージュされていた。しかし、そこが弱点でもあった。木は燃える。

敵であるローマ軍同様に、部族民軍の兵士たちも常に木を濡らしておくために休みなく働いていた。マキシマスは砦の壁の下を流れる小川を堰き止めるよう命令した。しかし、彼らはもう別の水の供給源を得たようだ。天候はますます悪くなっていた。昼間の間、灰色の空からは霙がしとしとと降り続けていたが、夜の間にべたついた雪に変わった。ローマ軍は、中秋の青空の元で攻撃を行なうチャンスを逃したのだ。

マキシマスは包囲攻撃を指揮したことはなかった。これは、通常の戦闘で部下の隊列を率いて敵に向かって行くのとはまるで違う経験だった。常に複数の戦略が要求される一方、後で後悔する可能性のある性急な決断を下す必要はなかった。寒さと湿気はひどくなっていたが、彼の兵士たちは暖かい軍服を着て充分な食事を摂っていた。彼らの興奮は高まっていたが、入念に計画され、慎重に進められる戦闘にも充分対応できる兵士たちであった。この闘いは、それこそ何週間続くかわからないのだ。

もし部族民軍が降伏すれば、この対決はすぐに終るのだが、敵をよく知るマキシマスにはそれは起こりそうもないことはよくわかっていた。しかし、彼は行動に移る前に多くの血を流すことなくこれを終らせる選択を彼らに与えるつもりだった。彼はクイントスに向かって静かに言った。「私の合図でバリスタを発射しろ。2番と4番と6番だ。」

「焼き討ちをかけるのか?」クイントスが訊いた。「バリスタ3機ではほとんどダメージを与えられないぞ。全部のバリスタを同時に発射した方が効果的だ。」

「いや、」マキシマスは答えた。「焼き討ちではない。聴くためだ。」

その意味が理解できなかったクイントスはためらい、マキシマスが彼の顔を見てうながすまで命令を伝達しようとしなかった。数分の内に、敵の矢の射程距離の遥か外に置かれたバリスタに火弾が装填され、全員が発射の命令を待った。マキシマスがうなずき、射手が下にいる兵士たちの頭上を越えて火矢を放った。ほとんど同時に、巨大な兵器が弾を砦の壁を越えて放った。炎に包まれた弾は厚い石の壁の奥に消えていった。一瞬後、中から怒鳴り声や悲鳴が聞こえてきた。中の住人たちは炎を消そうとやっきになっていた。

「恐れていた通りだ」マキシマスは壁の向う側の騒ぎを聴きながら言った。「中に女たちがいる。おそらく、子供も。」

「いるのは勝手だろう」クイントスが言った。

「そうとは思えん」将軍は厳しい声で答えた。

「マキシマス、それでは敵の思う壺だぞ。奴らがもしあの女たちを無理矢理砦の中に留めているとしたら、それはまさに焼き討ちされるのを避けるためだ。奴らの術中にはまることになるぞ。」

「お前には良心はないのか、クイントス?」マキシマスは怒りを抑えた、固い声で言った。「女子供を焼き殺す命令を平気でできるのか?」

「戦争では、よくあることだ。」

「おれが指揮する戦争では起こらない。」

「あれを引っ張り出せば、味方の命が余計に危険にさらされることになるんだぞ」クイントスも腹を立てていた。

「味方の防御は強固だ。失う危険があるのは心だけだ。」マキシマスは急に口調をやわらげ、微笑んで言った。「なあ、おれが頑固なのはよく知ってるだろう?これだけはゆずれないよ。」彼はすこし笑った。「どっちにしても、時間はたっぷりあるし、他にすることもないだろう?」

クイントスは対立を避けようとするマキシマスの意図を無視して言った。「これが我々の目を何ヵ月もここに引きつけておくための囮で、その隙に部族軍が沿岸の別の場所を攻撃するつもりだとしたら?」

「沿岸一帯には他の連隊が駐屯している。攻撃されても対処できるし、もし手に余るようならおれに知らせてくるだろう。我々の基地も、近くに多くの連隊が駐屯している。奇襲攻撃を受けることはない。急ぐ必要はない。」

「しかし…」

「クイントス、この話はこれで終りだ。」

副指令は砦に注意を戻した。いくつもの煙の帯が、中から立ち上っていた。彼は身体をこわばらせていた。マキシマスの決断に不満なのは明らかだった。自分が連隊の指揮を執っていた時には何週間も決断できずに待っていた彼が、即時の総攻撃を主張しているという皮肉には気づいていなかった。しかし、彼がひとつだけはっきり理解していることがあった。将軍は自分が正しいと思った行動に関しては、誰が何と言おうと決して揺らぐことはない。

煙と騒音がようやく止むと、マキシマスは再び命令を下した。「少し忙しくしていてもらおう。1、3、5番バリスタを発射しろ。」今度は、クイントスは即座に命令を伝達した。すぐに、さらなる火弾が壁を越えて撃ち込まれ、先程の攻撃では弾を受けなかった所からも新たな炎が上がり始めた。再び甲高い悲鳴が上がった。

突然、厚い壁の土台に近い所で何かが動いた。それに気づいた兵士たちが武器を構え、あれを見て下さい、と指差しながら将軍に向って叫んだ。

「一体何だ?」クイントスが訊いた。

「わからん、あれは…」日は照っていないにもかかわらず、マキシマスは目の上に手をかざした。「あれは…人間のようだ。女だ。何か持ってる…子供だ。クイントス、あの女は森へ逃げようとしている。」二人の男は顔を見合わせた。「どうやって外に出たんだ?」マキシマスは考えを声に出して言った。「あの女を撃たないように言え。逃がしてやれ。」

遠くから見ると、その女は茶色の服と髪のかたまりがもがいているように見えた。服は煙をあびて黒くなり、泥に汚れていた。胸に抱きしめている子供は一歳にもならない赤ん坊だった。女は見るからに怯えた様子で後ろをちらちらと振り返っていた。マキシマスにはすぐその理由がわかった。女は部族の男に追いかけられているのだ。男は壁にぴったりとついていたが、手を伸ばして女の足首を掴み、引き倒した。女は悲鳴を上げた。男が女を引き摺り戻そうとするのを見て、マキシマスは急いで、側に立っていた最も優秀な射手に命令を下した。彼は「男を撃て」とだけ言った。

射手は武器をあげて矢を放った。一瞬後、部族民の男は致命傷を負って地面に倒れた。ローマ兵たちから歓声が上がり、女は子供を抱いて森に逃げ込んだ。

「あの女はどうやって外に出たんだ?」マキシマスはまた言った。「クイントス、技師長のジョニヴァスと話がしたい。連れて来てくれ。」マキシマスは少し膝をほぐしたくなって馬を降りた。彼は両手を後ろに組んで、考えに沈んだまま、副官たちを後に残して丘の尾根伝いに歩いて行った。

「お呼びですか、将軍?」

マキシマスは彼の影に反応してぱっと振り向いた。「ああ、ジョニヴァス。今のを見たか?」

「はい、将軍。」

「あの女はどうやって外に出たんだ?あの木の扉しか出口はないと思っていたが。」

「見る限りでは他の出口はないようですが、部下にもう一度確認させます。厄介なのは、あまり近づくと敵が撃ってきますので」ジョニヴァスは40代の、背が低くがっちりしたレスラーのような体格の男だったが、ローマから来た熟練の技師だった。彼は公共建築物を建てるのに飽きて、戦争関係の建築技術に興味を持ち、今はこの仕事に要求される決断力や即興性にその能力を遺憾なく発揮していた。「壁の下に、潅木に隠した出口があるのかもしれません。あの女の様子から見て、岩の下を這ってきたようでしたからね。」

「こんなに大きな壁に土台がないなんてことがありえるのか?石が地面に置いてあるだけだと?」

「ありえます。あの壁はかなり短時間で作られていましたから、考えられます。」

「それでは、壁を倒すこともできるんじゃないか。」

「壁がどのぐらい厚いかによります。厚さは、砦を上から見てみないとわかりません。おそらく、まず溝を掘ってそこに石を敷いて、所々に隙間を残し、それをうまく隠しておいたのでしょう。あの女はその隙間から出てきたのかもしれません。」

「はっきりさせなくては、ジョニヴァス。それが分かれば、いろいろ対策を考えられる。できる限り調べてくれ。しかし、必要以上の危険を冒す必要はない。」

「はい、将軍。すぐに。」技師は背を向けて去りかけたが、立ち止って言った。「ところで将軍、あなたがお戻りになって本当によかったです。」

「ありがとう、ジョニヴァス。」

「こんな事を申し上げるのは分に外れるかもしれませんが、あなたがずっといらっしゃるといいのですが。あなたがお留守の時は、指導力が…その…弱まるような気がしますので。」

「わかっているよ、ジョニヴァス。」マキシマスは技師とその部下たちに微笑みかけ、ジョニヴァスの手を握った。彼は斥候の任務に赴き、マキシマスはまわりのよく見渡せる丘の頂上で待っている馬のところへ戻った。砦の火は再びおさまって、中は静まりかえっていた。

クイントスが彼の方を振り向いて言った。「またバリスタを装填させるか?」

「いや、やめておこう。もう充分ダメージは与えたし、これ以上やると中に残っている女子供を皆殺しにしかねん。」

「じゃあ、どうするんだ?」

マキシマスはクイントスに笑顔を向けた。「今日はこれで終りだ。少し考える時間をくれ。どっちにしろ暗くなってきたし、寒くなってきた。部下たちに夕食をとらせないと。」マキシマスは手綱を引き、アルジェントはそれに答えて尻尾を振り、飼葉とマッサージの待つ基地に戻れることを感じて足取り軽く歩き出した。



キケロはマキシマスが鎧を外すのを手伝った。将軍は疲れきった様子で目をこすった。目を開けると、従者が温かい香辛料入りワインのゴブレットと小包を差し出していた。

「スペインからお手紙です、将軍。使者は二週間以内に届ければ追加料金を貰える約束だと申しております。緊急のお手紙のようです。」

マキシマスの手が震え出した。彼はちらちらと揺れるランタンの光の方へ顔を向けて羊皮紙を束ねた糸をほどいた。緊急?マルクスか。マルクスに何かあったのか?包み紙が足元に落ち、マキシマスは妻の筆跡の手紙にすばやく目を走らせた。彼は急に目を閉じて頭を後ろに倒し、手紙を握りしめて胸に押し当てた。

キケロはどうしていいかわからず、手を差し伸べてためらいがちに「将軍?」と訊いた。

「使者に約束の二倍払ってやれ、キケロ。いや…三倍だ。」マキシマスの顔に大きな笑みが広がり、疲れは吹き飛んでしまった。「また父親になるんだ、キケロ。妻に赤ん坊ができた。」

 

第57章 準備

クイントスが妙な顔をして彼を見るまで、マキシマスは自分が鼻歌を唄っていたのに気づいていなかった。

「マキシマス、大丈夫か?」

「きわめて順調だよ、クイントス」彼はそう答えて、鎧の胸当ての心臓の上あたりに少し手を触れた。その下には、妻の手紙が隠してあった。「やっと雨が止んだな。日が照ってくるかもしれん」マキシマスは目を細めて空を見上げた。「少しは暖かくなるかな?」

「ああ、おそらく」クイントスはマキシマスをじろじろと見続けていたが、マキシマスはちょっと笑っただけで秘密を口にしようとはしなかった。彼は眼下の戦場を注意深く見ていた。

ローマ兵たちは、砦の西側にある大きな樫の木に視線を向けないように気をつけていた。もうすぐ、身の軽い若い兵士がその木に登り、その枝から砦の壁の厚さを調べる事になっているのだ。加えて、砦の内側の構造や−その中にいる住人たちを。将軍の合図で、若者は登り始める。それとまったく同時に、バリスタと投石機が石の壁に弾を矢継ぎ早に撃ち込む。砦の壁を揺るがすと共に、部族民軍の目を、葉の落ちた樫の高枝の上にいる若者からそらすために。この攻撃は兵たちにとってほとんど遊びに近かった。的当ての練習のようなもので、味方が負傷する危険もほとんどない。バリスタは敵の矢の射程外に置かれ、投石機を操作する兵たちは頑丈な木の屋根に守られている。敵の攻撃にさらされるのは、弾を装填して発射するほんの数秒だけだった。砦の壁の上に姿を現すという致命的な過ちを犯した敵を即座に片付けようと、何百人もの射手が弓を構えていた。

すべての準備が整った時、マキシマスは一度だけうなずいた。射手長が矢を放ち、眼下で戦闘の火蓋が切られた。数秒のうちに、石の壁に石の弾が撃ち込まれる音が辺りを満たし、地を震わせた。至る所に矢が飛び交っていた。それは敵兵を殺すためというより、示威行為だった。若い兵士が地上に戻り、バリスタのこちら側の安全な場所に走り込むまで砲撃は続いた。マキシマスがもう一度うなずくと、すぐに武器の音は止んだ。重い石の弾をひっきりなしに装填していた操作役の兵士たちは肩で息をしていた。

突然の静けさは無気味なほどだった。ローマ軍の兵器から放たれたの灰色の石のかけらが、半分崩れて石の山になった砦の壁を転がり落ちていた。動いているのものといえば、そのぐらいだった。砦に出口があったにしろ、それはもうすっかり塞がれているようだった。少なくとも、こちら側では。土煙がおさまると、技師からの報告を待つ間、マキシマスは目を細めて砦の壁を観察した。壁は確かにかなりの損傷を被ったが、崩れた石の内側にはさらに石が積み上げてあり、砦は相変わらずしっかり立っていた。技師の言葉を聞くまでもなく、この方法では砦を陥落させることはできないのはわかった。彼は下にいる兵士たちを見た。負傷者が少数いたが、死者はいなかった。部族軍側には十数人の死者が出たようだ。損傷した死体は、粉々になった岩の山の下にほとんど埋まってしまっていた。

「ジョニヴァスと相談する間、兵たちを休ませろ」マキシマスはクイントスに言った。

「次は何をする?」副司令は訊いた。

「木の上から何が見えたかによる」マキシマスはそう言って、彼の元へと走ってきた技師の方へスカルトの頭を向けた。

「どうだった?」マキシマスが訊いた。

「将軍、壁の厚さは全方向において少なくとも3メートルはあります。それに、要所では内側に石を積み上げて補強してあります。中の小屋は屋根が木なのでかなり焼けていますが、壁は焼け残っていて、動物の皮で屋根を付け直しているようです。」

「中には何人ぐらいいる?」

「砦は人で一杯です、将軍。何人かは判断しにくいのですが、とにかく砦の中には、相当大勢いるのは確かです。」

「子供も?」

「はい、将軍。沢山おりました。赤ん坊から青年まで」

「食糧の供給は?」

「穀物の倉庫があるようです。倉庫のいくつかは燃えたようですが、鶏、山羊、羊、牛もいました。牛はこの砦を築くのに使われたのでしょうが、食糧にもなります。」

「武器は?」

「いたるところに。」

マキシマスはうなずき、ため息をついて鬱蒼とした森の、3つの攻撃塔の土台が隠してある所を見つめた。彼はジョニヴァスとクイントスの両方に向って言った。「あれを引っ張り出して作り始めろ。やはり、壁を越えて行かなければならないようだ。敵には戦死者が沢山出るだろうが−我々も無事ではすむまい。しかし、他に道はない。」マキシマスは再びジョニヴァスを見て言った。「木に登ってくれた若者に礼を言ってくれ。とても勇敢だったし、いい仕事をした。彼の名前は?」

「ジョニヴァスです、将軍。」技師は微笑んで答えた。

「君の息子か?」マキシマスは驚いた。あの若い兵士は背が高く、ずんぐりした体格のジョニヴァスとは似ていない。

「はい、私の息子です。」

「自慢の息子だな。」

「息子と一緒にローマ軍で働くほど素晴らしい事はありません。将軍もいつか、その喜びを味わう日が来ますよ。子供というのは、あっと言う間に成長しますからね。」

彼はマキシマスを元気づけようとそう言ったのだが、逆効果だった。マルクス?いつ蛮族の矢が飛んできて死をもたらすかもしれない場所にマルクスが?彼は胸が痛むのを感じ、深い息をついて突然心を締め付けた暗い予感を振り払おうとした。彼はだんだんに晴れつつある空を見上げてそっと言った。「神々がお許しになるなら、マルクスが戦争を知る事のありませんように。」

「何だって?」ジョニヴァスが攻撃塔の建築準備にかかるために立ち去るのを見ながら、クイントスが訊いた。

マキシマスは少しの間、旧友をじっと見つめた。「お前は一人者だな、クイントス。」

「そんなことは前から知ってるだろう」話が突然自分の事になったので、クイントスは警戒していた。

「この戦闘が終ったら、自分の時間を持つことを考えたらどうだ?ローマに帰ってこい。お前の身分にふさわしい女性を見つけて…」

「軍隊がおれの人生だ」クイントスが遮って言った。

「わかってる。おれだってそうだ。しかし、家族は大切だ。一生、兵士でいるわけじゃない。クイントス、男には戦争以外のものも必要だ−それに、いつも男とばかりつるんでいるわけにもいかん。」マキシマスは笑った。

「おれには野心もあるんだ、マキシマス。それにおれは、将軍というのは軍にいるべきだと思う。」クイントスは思い切って言った。「いつも家族の元へ逃げ帰っているようでは…」

「クイントス、そこでやめておけ」突然怒りを感じたマキシマスは、押し殺したような声で言った。

副司令は苛々とめ息をついた。「マキシマス、家族をここに連れてくる事を考えたか?」

「いや」マキシマスは間髪を入れずに答えた。

「何故?ここに家族を連れて来ている兵士も大勢いる。そうすれば、いつでも会えるだろう。」

マキシマスは周りの荒廃した風景を見回した。「二人はスペインの暖かい太陽に慣れているから、こんなところでは弱って死んでしまうだろう。ここは不衛生だし、病気も多い」彼は副司令の方を見て言った。「それに、マルクスはまだ幼くて、おれがやっている仕事が理解できないだろう。」一瞬後、彼の表情はやわらいだ。「スペインにいたとき、市を見物に行ったんだ。昔なじみの連中がおれをマキシマス将軍だと気づいて、大勢の人に囲まれてしまったんだが、マルクスの心配している事といったら人形劇を見逃すことだけだったよ。まだ、マルクスにはこういう生活をさせたくない。父親が殺される心配をしたり、自分や母親の安全を心配したりするには、息子は幼なすぎる。」

「この世のほとんどの人間は、そういう生活をしているんだぞ。」

マキシマスは、攻撃塔を空き地に引き出す準備のために切り株を払っている兵士たちを見ていた。森の中では、兵士たちがこれからの建築に必要な何百本という木を切り倒し始めていた。斧が木に叩きつけられる音が響いていた。「わかってる。」彼は答えた。「でも、おれは自分の子供たちを死や破壊から守ることができる…そうするつもりだ。」

クイントスも切り株を払っている兵士たちを見ていた。その顔にゆっくりと理解が広がった。「子供たち?」

マキシマスは笑いを浮べた。その声には、抑え切れない誇らしさがこもっていた。「そうだ。春の終わり頃までに、もう一人子供が生まれる。」

「そうか、それはおめでとう」クイントスはそう言って手を差し伸べた。

マキシマスはその手をしっかりと握った。「ありがとう、クイントス。それから、自分の時間を持てといったのは本気だぞ。お前がその気なら、いつでも休暇を許可する。」

クイントスはうなずいて、兵士たちに注意を戻した。彼はただの副司令として家族の元へ戻ることはできない。それでは不充分だ。ローマに顔を見せる前に、どうしても将軍にならなければ。マキシマスにはわからないのだ−ローマの上流家庭の息子であるのが、どういうことか。成功、そして地位。それが全てだ。他のことは−自分の家族さえも−それに比べれば、どうでもいいことだ。

「あとは部下にまかせて、基地にもどるとするか」マキシマスが言った。「塔が完成するまで何週間もかかる。今の所は、我らが有能な百人隊長たちにまかせよう。」



その夜、マキシマスは妻に長い手紙を書いた。彼は妻に、どんなに恋しく思っているかを書き、働きすぎないように釘をさした。オリヴィアがマルクスとこれから生まれる子供の世話に専念し、他の事には指一本動かさなくてもいいように、もっと召使いを雇って欲しいと頼む手紙を、彼は既にタイタスに送っていた。今度は娘が欲しい、とマキシマスは妻に書いた。しかし、もうひとり息子が生まれても、自分はローマ帝国中で一番の果報者になるだろう、とも書いた。彼は砦の攻撃の事を具体的にならないように気をつけて書き、他の人には(タイタスにも)絶対話さないように注意した。

妻からの手紙は、農場とその住民(人間も、人間以外も)の近況が微に入り細に入り書き連ねられた長いものだった。しかし、マキシマスが一番喜んだのは彼女の描いた息子の絵だった。絵の才能のある妻は、息子の姿と性格を完璧に捉えていた。その絵を見て、マキシマスには息子がこの数ヶ月間でさらに成長したのがわかった。マキシマスは伸びをし、オイルランタンの煙が入った目をこすった。ハーキュリースは足元に、マキシマスの足に頭をのせて寝そべっていた。マキシマスは身をかがめて犬の耳をなでてやった。犬はお返しに大きなあくびをした。今夜のような夜は長く、暗い。彼はこの静けさが大嫌いだった。今頃、この基地の兵士たちはサイコロ遊びなどのゲームをしているのだろう。あるいは、ただ座って今日の出来事について語り合っているのか。マキシマスが彼らの一員であり、夜をダリウスと過ごしていた日々は、ついこの間の事のように思える。ダリウス…旧友であり、師であった彼のことを、長い間忘れていた。しかし、ダリウスはきっと何もかも見ているのだろう。あの百人隊長が、彼を誇りに思ってくれていますように。彼はそう願った。

彼の心に残っている実の父親の記憶は、ずっと曖昧だった。マキシマスは鵞ペンを置いた。彼はハーキュリースの頭をそっと足からどけ、木の箪笥の上に置かれた磨きぬいた金属板の前に行った。彼はそこに映った自分の影を見つめた。鋭い青い眼、濃い黒髪−両方とも、父から受け継いだものだ。しかし、鏡に映ったこの男ほど疲れて蒼白い顔をした父は記憶になかった。スペインから戻ってからの数ヶ月で、彼の顔は血色が悪くなり、目の周りにはまた皺が出来ていた。若い頃のハンサムな顔は、強い意志を秘めた厳しい顔立ちにとってかわり、それはそれでまた魅力的だった。彼は額の細かい皺に手を触れた。それから口の横に触れ、不精髭が生えているのを感じた。同年代の他の兵士たちに比べると彼の顔は、ずっと闘いの先頭を切ってきたにもかかわらず、驚くほど傷がなかった。彼は頭を少し傾け、父の面影を探し続けた。しかし、ほとんど見つからなかった。父はずっと素朴な男だった。家族の幸せだけを心配していた。一国家全体の幸福まで気に病む必要はなかった。父は息子を誇りに思ってくれているだろうか?彼の心に、唐突にそんな疑問が浮かんだ。彼はひざまずき、何年もしていなかったことを始めた。彼は父の祝福を求め、家族を守って欲しいと頼んだ−彼が自分で守ってやれない間。

 

第58章 襲撃

12月半ばには、攻撃塔はほぼ完成に近づいていた。塔の一つは25メートル近い高さに聳え立っていた。砦の北壁を塔より高くしようという部族民軍の決意を挫くため、職人たちは塔を上へ上へと伸ばすことに全精力を傾けていた。その競争は、ほとんど滑稽なほどだった−しかし、再び戦闘が始まれば、この競争に勝った方が大幅に有利になるのだ。工事の遅れに苛立ったマキシマスは、石の壁に新たに加えられた、ずっともろい部分をバリスタで崩すよう命令した。部下たちはこの命令に的確に答え、砦の中に岩を撃ち戻した。うっかり近くにいた人間たちをも容赦なく巻き込みながら。

あたりはますます冷え込み、地面は雪で覆われていた。兵士たちは血行を保つために足踏みをし、手をこすりあわせ、非番になった時は焚火の周りにかがみこんだ。兵たちの体力と士気を保つため、マキシマスは任務の交替を早くし、全員の食事の量を増やした。

毎日、彼はニ頭の馬のどちらかに乗って丘の上にいた。しかしついに彼も、手足の指先の感覚がなくなりつつあるのを感じた。息は口を出るとすぐに凍りつき、黒い髭の上で白い霜となった。兵士たちはそれを見て悪気のない冗談を飛ばしあった。彼は頭を保温するために兜をかぶり、毛皮も身につけていた。彼や部下たちでさえ凍えているのだから、砦の中に閉じ込められている人々のことは想像するに余りある−特に、子供たちのことは。

明るい満月の夜には、その日の作業が終了した後、マキシマスは丘の頂上の彼の定位置まで雪の上を歩いて行って耳を澄ませた。あたりは静まりかえっていた。聞こえる音といえば塔の木の柱を吹き抜ける寒風の音だけだった。塔は月光の中に巨大な怪物のように立っていた。蛮族軍の焼き討ちに備えて塔の番をしている兵士たちが敬礼した。彼は挨拶を返し、耳を澄ませて待った。やがて、聞こえてきた−寒さか、飢えか、あるいは恐怖に泣いている子供たちの声。兵士たちにも、あの泣き声は聞こえているのだろう。彼は部下たちが、彼自身と同様に自分の子供を思い出し、闘う相手は子供たちではなく、その父親たちであるのを忘れないでいてくれるといいが、と思った。

マキシマスは基地へ向かって、自分の足跡を辿りながら雪を踏みしめて行った。目の前に長い青い影が落ちていた。月光がちらちらと降る雪のかけらに光っていた。彼は立ち止まり、ケープをなびかせて降り返った。彼は空高く輝く幾千もの星を眺めた。凍てついた夜。暖かい塒(ねぐら)を持たぬ者に死をもたらす恐ろしい力を秘めながら、それは壮絶に美しかった。しかし、自然の脅威などものの数ではないだろう。明日、人間が人間の上に−邪魔をするもの、全ての上に−振るう暴力に比べれば。



遠い丘に朝の太陽が顔を出し、凍てついた景色をピンクと金色に変える頃には、兵士たちは盾と剣を手に位置についていた。砦の壁から顔を出す勇気のある敵兵がいたら、その朝完成したものを見て恐怖に震えたであろう。巨大な主攻撃塔が完成し、何頭もの鎧をつけた馬が繋がれ、すぐにでも動かせるようになっていた。馬たちは落ち着きなく前足で雪を掻いていた。塔を位置につけたら跳ね橋を降ろし、武装した兵が砦の壁の上に渡る。塔に残る兵は、周りを囲む厚い木の防御壁で身を守りつつ援護する。塔は三方が囲われていた。中には階段と傾斜路があり、壁の上に素早く援軍を送れるようになっていた。塔の後には別の隊がすぐに駆け登れるよう準備を整えていた。長い、防護壁のついた差し掛け小屋がいくつも壁の土台に掛けられ、さらに数百人の兵士が壁に登れるようになっていた。壁の上から、塔から駆出して来るローマ兵を狙う敵兵に矢を射掛けるためだ。それら全ての背後には、何機もの巨大なバリスタが控え、砦の中に火弾を撃ち込む準備を整えていた。そしてバリスタの前には大きなクロスボウが並んでいた。クロスボウは長い矢を連続して射ることができ、その狙いは極めて正確だ。

そばにはさらに二つの塔が、必要とあらば数日で使えるように準備されていた。そしてさらに数百名の兵士が将軍の命令で戦闘に加わることができるよう備えていた。

マキシマスは丘のふもと、バリスタのすぐ前でスカルトにまたがっていた。喇叭手が側に控え、部下を率いた百人隊長たちに将軍の命令を伝えられるように構えていた。彼はどんなに、塔の上から先頭を切って橋を渡りたいと思っていただろう。しかし、それが愚かなことだということはよくわかっていた。彼は戦闘全体をよく見渡せるように距離を保ち、臨機応変に戦術を決めてゆかなければならない。

ローマの紋章、黄金の鷲がマキシマスの後ろで寒風に吹かれて音を立てていた。それは兵士たちの力と決意を呼び起こしていた。聞こえるのはその音のみ。ローマ軍もゲルマニア軍も、奇妙な静けさの中、喇叭手の合図を待った。マキシマスは戦場を見渡し、全ての準備が整ったのを確認した。彼は喇叭手にうなずいた。凍てついた空気を、短い喇叭の音が響き渡った。巨大な車輪のついた巨大な塔は、雪の積もった地面をゆっくりと音を立てて進みはじめた。そのすぐ後に武装した兵士たちが続いた。戦闘がいよいよ始まる時になって、マキシマスは奇妙に緊張がほぐれるのを感じた。彼にとって−全ての兵士たちにとっても−辛いのは待つことなのだ。

大きな木の車輪がぎしぎしと音を立て、馬たちは力をふりしぼり、その巨大な、奇妙な建物は少しづつゴールに近づいて行った。馬と馬を引く兵に矢が雨あられと降り注いだが、金属の鎧にはね返るだけだった。ローマ軍の射手たちはずっと効果的に矢を返した。射殺された敵兵たちは壁から砦の内側に落ちて見えなくなった。

塔がようやく位置につくと、再び喇叭の音が命令を伝達した。耳を聾するような音と共に、跳ね橋が降ろされた。盾と剣を持った数百人のローマ兵が、雄叫びを上げながら、一瞬のためらいもなく塔から駆け出した。地上にいた兵士たちは傾斜路と階段を駆け登り、壁の上へと続いた。鋼鉄と鋼鉄のぶつかり合う耳に馴染んだ音があたりを満たした。部族民軍は、彼らの砦を侵略者たちから必死で守ろうとしていた。矢は恐ろしい程の正確さをもって、盾を貫き人間の肉体に突き刺さった。どちらの軍にも、矢を受けて壁から落ち、下の岩に墜落死する兵士が出た。苦痛の叫びがあたりを満たした。斬り落とされた首が、血の跡を残して石の壁を転がり落ちた。その側に、首のない死体がどさりと落ちた。

この戦闘は、両軍に犠牲が大きいことはわかっていた。出来る限り早く終らせなければならない。彼は再び命令を下した。ふたたび、喇叭が鳴り響いた。今度は巨大なバリスタが大きな火弾を、砦に向けて容赦なく次々に放ち始めた。マキシマスは部族民兵が二小隊、壁の上を逃げて行くのを見て、短く命令を下した。数分の内に、クロスボウが彼らを引き裂き、ばらばらの肉と骨と血が砦の内側に撒き散らされた。

ローマ兵は次々に橋を駆けぬけた。迎え討つ敵兵はどんどん少なくなり、やがていなくなった。塔の上の兵士たちは武器を放り上げて、勝利の雄叫びを上げた。「油断するなと伝えろ」マキシマスは喇叭手に叫んだ。喇叭の音が響き渡り、塔の上の兵士たちは戸惑った。それでも、兵士たちは将軍の命令には疑いをはさまずに従った方がよいことをよく知っていたので、再び武器を構えた。どう見ても既に完勝なのだが。マキシマスの所からは、ここから見えるものが見えないからだろう、と彼らは思った。砦の中には死体が三重、四重に積み重なり、動くものは何もない。将軍の位置からは、これが見えないのだろう。

クイントスが馬を飛ばして来た。「マキシマス、どうした?壁の上の兵たちは勝ったと言っているぞ。」

「早すぎる。この砦の防衛戦がこんなにすぐに終るはずがない。」

「敵はほとんど死んだ。生きてる連中もみんな投降したぞ。」クイントスは、雪の上でひざまずき、首の後ろに手を組んでいる部族民兵の列を指して言った。

「何かおかしい」マキシマスは言い張った。「警戒を緩めるな。歩兵隊に、位置を離れるなと言え。」聞こえるのは負傷兵たちのうめき声だけだった。「歩兵隊の近くにいろ」彼はクイントスに言って、スカルトに合図した。砦の敵軍の射程距離内を、彼は用心深くゆっくりと馬を進めた。彼は恰好の標的になっているだろう。それはわかっていた。しかし、将軍が護衛なしで姿を現すことで、蛮族軍に残存勢力があるならば彼らを動かすことができるだろう。塔の上の兵士たちは、英雄として死ぬ決意をした敵兵から将軍を守ろうと、あらゆる方向に武器を構えていた。マキシマスはゆっくりと馬を進めた。彼の眼と耳はどんな変化も見逃さぬよう警戒を強めていた。壁の上の兵士の何人かが気を抜いて武器を下ろしていた。それを見た彼は、位置を離れるなと怒鳴った。

数分たっても、あたりは静まりかえっていた。結局のところ、警戒しすぎていたのではなかったのか?塔に着くと彼は、重い鎧を着けているにもかかわらず階段をいっぺんに三段づつ駆け登った。ブーツが木の階段に大きな音を立て、頂上に着いた時には息が切れていた。彼はもう一度、油断するなと命令した。地上では、クイントスが命令通り歩兵隊を位置につけているのが見えた。

砦の中のひどい破壊の跡を見下ろしているマキシマスの所に、一人の百人隊長が来た。死体が死体の上に積み重なっていた。ゲルマニア人の死体も、ローマ人の死体も。血が雪を真っ赤に染めていた。「将軍、やりましたね!」百人隊長が言った。

「残りの奴らはどこにいる?」マキシマスは言った。

「残り、とおっしゃいますと?」

「あれで全員ではないはずだ。中にはずいぶん死体があるが、あれで全員のはずがない。斥候は、砦の中は人で一杯だと言っていた。奴らはどこに消えたんだ?」

百人隊長が答えにつまっている間、マキシマスは南西の角まで壁の上を歩いて行った。百人隊長と射手たちがぴったり後につづいた。彼はもう一度地上の歩兵隊を見て、それから森に眼をやった。太陽が顔を出し、雪で覆われた枝に隠れて日の射さぬ地面に、深青の影を投げかけていた。あたりは静まり返っていた。しかし、彼が背を向けたとたん、一群の鳥が不機嫌な鳴き声をあげながら、一斉にぱっと飛び立った。マキシマスは振り返り、もう一度森をよく見た。その時、森の奥深くから一本の矢が放たれ、彼の右耳をかすめてすぐ後ろに立っていた兵士の胸に深く突き刺さった。突然、森は爆発したようになった。少なくとも千人の蛮族兵が、弓や剣や槍を高く掲げて飛び出して来た。雪をかけた毛皮をかぶって隠れていたのだ。

マキシマスは撃て!と叫んだ。壁の上の兵士たちは一斉に矢を放った。何人もの蛮族兵が、森の影から出もしないうちに倒れた。しかし、ほとんどは雄叫びを上げながらまっすぐ塔へと走っていった。

クイントスはあわてて歩兵隊を突撃させたが、何百人もの敵兵が塔に辿りつく方が早かった。「橋だ!」マキシマスは叫んだ。「火をつけろ!砦を奪い返す気だ!」兵士たちは急いで命令に従った。マキシマスは倒れた兵の弓矢をつかんだ。部族民兵たちは階段を駆け登ったり、塔の外側を這い登ったりして上を目指して来た。彼は狙いをつける間もなく次々に矢を放った。外れるより命中する矢のほうが多かった。しかし、跳ね橋は燃えていなかった。使われている木がまだ新しく水分が多い上に、雪で濡れているからだ。

「橋を渡ってくる奴は殺せ」彼は叫び、下にいるクイントスに「塔を乗っ取らせるな!」と怒鳴った。ゲルマニア軍は歩兵隊との戦闘にも準備万端だったが、彼らの本当の狙いは攻撃塔と砦−それに、マキシマス将軍なのだ。

何十人もの部族民兵が塔の上に辿りつき、攻撃を仕掛けようとしていた。頭から足まで厚い毛皮を纏った男たちが次々に加わった。あの毛皮のお陰で、一晩中雪をかぶって隠れていられたのか、とマキシマスは思った。彼らの武器は弓矢と粗末な盾、剣だけだった。壁の上のローマ軍は数でこそ劣勢だったが、装備も技術もずっと優っていた。

マキシマスは部下を壁の上に集めた。「下の戦闘に勝つまで、奴らを止めておけ。その時までには、塔の中に何百人も入ってくるだろう。中に閉じ込めるんだ。戦闘に決着がつくまで、ここに釘付けにしておいて、後で上と下から挟み討ちにする。わかったか?盾で身を守れ。一人でも失うわけにゆかない。」兵士たちはうなずき、マキシマスは血に染まった地面に転がる死体を見下ろした−毛皮を着た死体の方が、鎧を着けた死体よりずっと多い。「長くはかからない」彼は言った。

部族民兵が橋に足を踏み入れようとする度に、矢が雨あられと降り注いだ。「必要以上の矢を使うな。矢が尽きるとまずい」マキシマスは警告した。彼の盾に何本もの矢が突き刺ささった。

再び、動くものが彼の目をとらえた−今度は砦の中で。ひとりの敵兵が致命傷を負いながらも、震える腕で弓を引き、彼に向ってまっすぐ矢を放った。マキシマスはさっと振り向いて矢を射た。矢は男の咽喉に命中したが、その間マキシマスの正面はがら空きになった。塔の上の敵兵たちは、自分たちの幸運が信じられなかった−ローマ軍の指揮官が、これほど無防備になるとは。五本の矢が次々に放たれた。一本はマキシマスの鎧の胸当てをかすめ、二本は盾で受けとめた。しかし、あとの二本が命中した。マキシマスは後ろ向きに倒れて、壁から砦の中へと落ちて行った。身体には矢が突き刺さり、血しぶきが宙を飛んで後にいた部下の鎧にはねかえった。兵士たちは恐怖に打たれ、自分たちの指揮官が落ちてゆくのを呆然と見つめていた。

 

第59章 砦の中

マキシマスはなんとか目を開けようともがいていた。細く開いた目蓋の隙間から光が射し込むと同時に、激痛が襲いかかった。彼の身体はこわばり、息ができなくなった。彼はじっと横たわったまま、心に押し寄せた恐慌をなんとか押さえつけた。怪我はどのぐらいひどいのだろうか?骨は折れているか?矢はどこに刺さっている?彼は身体を一箇所づつゆっくりと動かし、自分がどこを負傷しているのか把握しようとした。そのことに心を集中させるため、目は閉じたままだった。左脚を激痛が走った。折れているのか、矢が刺さっているのか−あるいはその両方か?右腕も同様の状態だった。背中と首もずきずきと痛み、頭は割れるように痛かったが、多分そこは打撲傷を負っているだけだろう、と彼は思った。

意識がはっきりしてくるにつれ、遠くにくぐもった戦闘音が聞こえ、必死に叫んでいる兵士の声が聞こえた。「将軍!将軍?将軍、ご無事ですか?」

マキシマスはうめき声を上げた。しかし、彼を心配する兵は高い壁の上にいるので、その声は到底届かないだろう

「今、助けに参ります!」

マキシマスは歯を食いしばり、左肘をついて無理に身体を起した。「だめだ」その声はしゃがれ、ほとんど聞こえなかった。彼は深く息を吸って、もう一度「だめだ!」と叫んだ。頭を思いきり殴られたような痛みが走った。「だめだ!持ち場を離れるな。壁を死守しろ!」

「しかし…」

「命令だ!敵に壁を乗っ取らせるな!」

「イエス、サー!」百人隊長は叫んだ。心配そうな表情を浮かべたまま、彼は背を向けた。

マキシマスは顎を胸に落とし、苦痛を閉めだそうとするかのように目を閉じた。なんとか目を開いた時、彼は自分がまだ生きている理由を悟った。落下の衝撃は死体にやわらげられていたのだ−五人か六人、積み重なった死体の山に。ローマ人の死体、ゲルマン人の死体。死に顔に恐怖の叫びを凍りつかせた死体。マキシマスは身震いして身体を横向きにした。そのはずみで矢が脚にさらに深く突き刺さり、彼はうめき声をあげた。彼は死体の山から降りて雪の上に足をついたが、脚が萎えてがっくりと膝を落とした。彼はそのままじっとして深く息をつき、咽喉にこみ上げる吐き気と腕と脚の焼けつくような痛みをこらえた。彼は霞んだ目でまわりを見まわした。彼の軍は確かに、徹底的に任務を遂行したようだ。いたるところ、人間と動物の死体だらけだった。ほとんどの死体はひどく損傷していた。動くものは何もなかった。彼の命を狙った男は最後の生存者だったようだ。マキシマスはよろめきながら立ちあがり、左の太腿から突き出ている矢を両手で曲げ、皮膚から10センチ位の所で折った。彼は近くの死体の服から布を破り取り、どくどく流れて出てている血を止めるために傷の上をきつく縛った。前腕に刺さった矢は片手では折ることができなかったので、一瞬引き抜くことを考えたが、そうすると傷が余計にひどくなることはわかっていた。彼は歯を使って傷の上を布で縛り、腕の肉から突き出ている矢はそのままにしておいた。

マキシマスは巨大な石の壁に目をやった。壁はとても厚かったので、外で続いている戦闘の音はほとんど聞こえなかった。砦の中の静けさは不気味なほどだった。ローマ兵が壁の上から顔を出した。マキシマスは自分がまだ生きているという印に、兵に左手を上げてみせた。

「将軍、今ロープを投げます!」

「やめろ!一人でも兵力を割くわけにいかない。壁を守れ!敵に砦を乗っ取らせるな!」マキシマスは頭上の部下に弱々しい微笑みを何とか浮べてみせた。「それに、どっちにしろ登れない。他の出口を探す。」

兵はうなずいて、再び姿を消した。

マキシマスは死体の中を武器を探しまわり、血塗れのローマ軍の剣を見つけた。手になじんだその重さは心強かった。砦の中には、生き残っている者は一人もいないようだったが。それでも、砦は広く、敵が隠れられるような半壊した建物があちこちに残っていた。

ここを出なければ。彼は赤ん坊をつれた女のことを思い出し、彼女が出てきた東側の壁に沿って、石の壁に手を当てて足を引き摺って歩きながらその土台を調べた。よくない。壁際はすっかり雪で覆われ、出口があるとしても完全に隠れてしまっている。

彼は身震いした。腕と脚には焼けつくような熱さが広がっていたが、身体は冷えきっていた。雲が太陽を覆い隠し、雪が降り始めていた。マキシマスは砦の北端に向かい、雪に隠れた障害物につまずいてはよろめきながら歩いて行った。昨夜、千人近い部族民兵が、ローマ軍の衛兵にまったく気づかれずにここを這い出たのだ。後ろの壁には、森へと続く出口が沢山あるに違いない。

次第に暗くなってゆく中、マキシマスは痛む脚を引き摺って壁を伝って行きつ戻りつした。しかし、目につくような出口は見あたらなかった。おそらく、砦の中に残った男たちが出口に重い石を転がして塞いだのだろう。その男たちはもう全員が死んでいる。しかし、女と子供たちはどうしたのだろう?どこにいるのだろう?避難したのか?

マキシマスは南側の壁の方を振り向いた。彼は砦の外側に細い煙が上がっているのに気づき、驚いて身を起こした。炎のにおいがする。何が燃えているのだろう?戦闘は終ったのか?彼は立ち上る煙を眺めた。しかし、彼の気づいたにおいは破壊の炎の恐ろしいにおいではなかった。もっと暖かい火の匂い、生活の匂いだ。その心ひかれる匂いと迫ってくる暗闇、がちがちと鳴っている歯、それに腕と脚の激痛が彼にはっきりと知らせていた。すぐに避難所を見つけなければ、生きて朝を迎えることはできないだろう。

彼はその匂いを追って両側に半壊した家が続いている小道を辿り、壊れていない小さな家をみつけた。それは砦の中で、無傷で残ってい数少ない家のひとつだった。彼はその入り口まで足を引き摺って行って耳をすませた。彼はがちがち鳴る歯を食いしばり、感覚のなくなった指に剣を握りしめていた。ドアの下から黄色い光が洩れていた。彼はドアの割れ目に目を当てた。二人の女が火のそばにしゃがんでいた。一人が、シチューのような匂いのする鍋をかきまぜていた。マキシマスは身体の位置を少し動かした。女たちの右側、火のそばに、二人の子供たちが毛皮をかぶり、抱き合って眠っていた。砦に残っているのは、この家族だけなのだろうか?もしそうなら、なぜまだここにいるのだろう?

マキシマスはドアを破って入っていって、食べ物と火を分けてほしいと頼みたい衝動を感じたが、そうはせずにますます深くなる雪の中によろめき出た。彼はローマの鎧を纏い、ローマの武器を持ち、ローマ人の血を流している。怯えさせるだけだろう。雪はますます激しくなっていた。雪は彼の首に落ちて溶け、鎧の中に滴って羊毛のチュニックと下着を濡らしていた。彼は凍えていた。彼は手に息を吹きかけて暖めようとした。今夜の避難所を探しに行かなくては。しかし、彼はこの暖かい黄金の光と心なごむ匂いから離れたくなかった。その左隣の家は暗く、ほとんど壊れていないようだった。彼は剣をドアの隙間に突っ込み、ゆっくりとこじ開けた。木の蝶番が悲しげな音を立てて軋み、彼は凍りついた。彼は先程の家に素早く目を走らせた。聞かれただろうか?マキシマスは数分待ってから再びドアを引き、何とかすり抜けられるだけの隙間を開けた。中は真っ暗闇で、部屋中外と同じぐらい凍てついていた。ここでは、一晩凍死せずに生きのびることはできないだろう。

再び外に出ると、彼の目は砦の南側の壁の上に立上るオレンジ色の炎に引きつけられた。何か、とても大きな物が燃えている。攻撃塔に違いない。一体どういう事だ?彼はそちらに気をとられていて足元に黄色い光が射したのにも、雪の上を背後に忍び寄る影にも気づかなかった。彼が振り返ったのは、純粋に本能からだった。しかし一瞬後、頭に石が振り下ろされ、目の前は暗闇になった。



ゆっくりと目覚めかけた彼が最初に気づいたのは頭の中の耐え難い激痛だった。それから、まだ続いている腕と太腿の痛み。その次に、彼の脳は自分の身体がすっかり暖まっている事と、近くで囁き声がする事に気づいた。彼は頭を声のする方へ向けて目蓋を開き、苦痛のうめき声をあげた。ようやく目の焦点が合うと、彼の顔を珍しそうにのぞき込んでいる、きれいな青い目をした金髪の子供とまっすぐ見つめ合っていた。女の子だ。彼はなにか言おうとして口を開けたが、出てきたのはうめき声だけだった。だしぬけに、子供は彼の視界から消え、かわいい顔の代わりに怒りにゆがんだ、ずっと年取った顔が現れた。女の子の祖母だろうか?老婆の顔には深い皺が刻まれ、髪は灰色で汚らしかった。老婆は怒った口調で、わからない言葉で彼を叱りつけた。その顔になんとか焦点を合わせようとしていると、頭の下に手が差し込まれて頭を持ち上げ、粗末なカップが唇に押し付けられた。彼の戦士としての本能が誰も信じるなと告げていた。彼は頑固に口を開けるのを拒んだ。彼女が手を放したので、頭は地面に強くぶつかった。目の前に、文字通り星が踊った。彼はこみ上げた吐き気を押さえつけるために息を呑みこんだ。

女の手が彼の頬を叩いて注意を引いた。今度は若い女の顔が目の前にあった。少女の母親にちがいない。女はせいぜい18ぐらいで、同じような金髪に青い目をしていた。彼女はカップを自分の口に持っていって一口飲んだ後、持ち上げて見せ、わかった?と言うように眉を上げた。彼はうなずいた。彼女は後にまわって彼が飲む間頭を支えていた。彼女は手を放したが、頭は今度は毛皮の枕の上に落ちた。

「ありがとう」彼はしゃがれ声で言った。少女がくすくす笑った。マキシマスはお返しになんとか笑顔を浮かべ、少女の肩越しに、毛皮の下でまだ眠っている子供の方を見た。子供の姿はふかふかした茶色の毛皮にほとんど隠れていたので、マキシマスには男の子か女の子かもわからなかったが、くしゃくしゃの短い巻き毛から男の子のように思えた。子供はもじもじと身動きを始め、やがて泣き出した。母親が飛んで行って、髪をなで、やさしく囁きかけてあやし始めた。泣き声はだんだん小さくなった。母親は子供を抱き上げて膝の上に乗せ、やさしく揺らした。彼女は子供の上掛けを直した。その時、男の子の脚が一瞬見え、マキシマスは息を呑んだ。子供の片脚はつけ根しか残っていなかった。その脚は血だらけのぼろ布でしっかり巻いてあった。

年寄りの方がマキシマスに怒りを向け、彼を殴ろうとするように手を上げた。彼は本能的に手を動かして身を守ろうとしたが、手は少ししか動かなかった。今まで頭が朦朧としていたのと他の事に気をとられていたせいで、彼は自分が拘束されていることに気づいていなかった。手首は細く裂いた布で縛り合わされ、腰にぴったりとまわされたロープにしっかりと結びつけられていた。彼は傷を負っていない方の脚を動かそうとしたが、足首も縛り合わされていた。どうやら囚われの身のようだ。

若い母親が年配の女に厳しい口調で何か言った。女は拳を下ろして怒りの矛先を火に向け、棒で乱暴に掻き立てた。この女たちは、おれが誰だか知っているのだろうか、と彼は考えた。彼女たちの家を壊し、仲間の男たちを殺し−そして、子供にひどい傷を負わせたのは彼だということを知っているのだろうか?彼の軍服は普通の兵士のものではない。それはきっと知っているだろう。なぜ、チャンスがあった時に殺さなかった?身代金でも要求するつもりか?マキシマスは自分の考えを笑い飛ばした。この家族にローマの金など何の役に立つ?

あの男の子。だから、仲間と一緒に避難しなかったのか?あの子供の怪我がひどくて動かせなかったから?自分の怪我が取るに足らないものに思えてきて、彼は痛みをこらえて無理に頭を持ち上げ、自分の身体を見下ろした。腕からはもう矢は突き出していなかった。松脂のような匂いが漂っていた。傷は縛ってあった。若い女は彼の疑問に答えるかのように何か言ったが、彼は黙って顔を見ているしかなかった。彼女は天を仰ぎ、「ばかなやつ」とでも言うように首を振った。それから、眠っている男の子を毛皮の布団にやさしく横たえ、包み込んだ。彼女は年嵩の女に何か言って子供の世話を交替し、火にかけてある鍋の所に行ってお玉でシチューをすくい、椀に注いだ。マキシマスの腹が鳴り、彼女はかすかに笑みを浮かべた。

彼女はもう一度彼の頭を支え、湯気をたてている肉をスプーンで彼の口に運んだ。椀はからっぽになった。それが何の肉なのかマキシマスにはよくわからなかったが、腹はいっぱいになった。彼女は彼に毛皮を掛けて、椀を雪を解かした水で洗いに行った。彼女は洗い物をしながらあくびをした。マキシマスは彼女をじっと見つめ、どうやってこんなにひどい状況の元で家族を支えているのか、想像してみようとした。彼女の夫は、砦の外で死体となって雪の上に横たわっているのだろうか?彼女の兄弟も、ひょっとしたら父親も?

「ありがとう」マキシマスは囁いた。彼女は振り向いて彼の顔を見た。その目には憎悪も恐怖もなかった−ただ、諦めだけが浮かんでいた。彼が助けを必要としているので、面倒を見ているだけ−そんな、単純な事のように思えた。

 

第60章 トンネル

「マキシマス将軍!」遠くで声がした。

「将軍?」今度は別の声。

「マキシマス将軍、どちらですか!」

「将軍!」

マキシマスは急に目を覚まし、朦朧としたままなんとか身体を起そうともがいた。息を整えようとしていると、彼の口と鼻に手が押しつけられた。もう一方の手がその上に加わった。彼は押さえつけられながら何とか息をしようともがいた。外の声が遠くなり、やがて聞こえなくなるまで、彼の顔は押さえつけられていた。彼は窒息しそうになった。手は唐突にどけられ、マキシマスは焼けつくような肺になんとか空気を送り込んだ。彼は自分を捕らえている女を新たな尊敬の目で見直した。彼が子供達の居場所をばらしてしまう前に、彼女は確実に彼の口を塞いだのだ。

金髪の女は、ドアの割れ目から射す早朝の淡い光の中で彼をしげしげと眺めた。彼がただのローマ兵ではないことが、これでわかったのだろう。一兵卒を、わざわざ探しに来たりはしない。「マキシマス」彼女は言った。

彼はうなずいた。

「ショウグン」彼女は言った。

マキシマスはためらったが、もう一度うなずいた。意味がわかっているのだろうか?

女は彼を注意深く観察した。彼の着ている戦士の服、身体の戦士の傷と、子供たちを見る時の彼の目の優しさの間にある矛盾に、彼女は気づいた。しかし、彼を解放する気はないようだった。

部下たちは何故、彼が気づいたこの家の焚火の匂いに気づかなかったのだろう?マキシマスはようやく、この小屋に充満している煙のにおいが外から来ているのに気づいた。

「ショウグン、マキシマス」女は彼の剣を手に持って彼の目を真直ぐ見つめた。彼女の言いたい事ははっきりとわかった。へたなまねをすれば、殺す。彼女なら間違いなく、ためらいもなくやるだろう。

彼はわかった、という印にうなずき、両手を上げられるところまで上げて縛られた手首を見せ、訴えるように彼女を見た。彼女は少しの間考えた後、身を乗り出して両手を体に縛り付けているロープを切った。しかし、両手はまだ縛ったままにしておいた。このささやかな親切に感謝しつつ、マキシマスは身体を起こして拳で目をこすり、眠気を覚ました。焚火のたてるぱちぱちという小さい音以外は、小屋は静まりかえっていた。マキシマスは眠っている子供たちを見て、また母親の方を見た。彼は自分を指差し、それから彼女の息子を指差した。彼女は疑わしげに目を細めた。彼はもう一度同じ仕草をし、今度は先に男の子を指差し−そして指を一本上げた。彼女はうなずいた。彼にも息子が一人いる、ということが分かったのだ。彼女は自分の娘を指差して眉を上げた。マキシマスは残念そうに首を振った。女はにっこりした。二人とも親であるという事が、絆のようなものを感じさせていた−他には何の共通点もないのに。

マキシマスは自分の足とドアを指差して、外に出たいと訴えた。彼女は彼の目の前に剣をかざして、誰がこの場を仕切っているのかをはっきりさせた。彼はうなずいた。彼女は危険を充分承知の上で、剣の鋭い切っ先で足首を縛っているロープを切った。夜の間に負傷した脚がひどく硬直してしまっていたので、彼は痛みにひるみつつゆっくりと膝をついた。やっとの思いで足を地面に着けて立ちあがりながら、どんなに苦しくても、自分はまだ両脚がちゃんとついているだけ幸運だ、と思った。

女はかがみこんで、寝ている間彼を暖めていたくしゃくしゃの毛皮を拾い上げ、彼の肩に掛けた。彼はそれを首にしっかりかき合せた。みすぼらしい毛皮だったが、彼が普段着けている優雅な銀色の狼の毛皮より、よっぽどありがたかった。若い母親は同じような毛皮を痩せた身体に巻きつけ、寝ている子供達をちらりと確認してから、ドアを押し開けてマキシマスに先に出るように手招きした。

外の空気は煙で満たされていた。灰色の煤がそこらじゅうに漂い、朝の陽光を霞ませていた。マキシマスは南側の壁を見つめていた。その向うからは、まだ煙が立ち上っていた。あたりは静まり返っていた。戦闘の音はまったくしない。一体、何が起こったのか?なぜ、壁に誰もいない?砦の外側の支配権を握っているのはどちらの側なのだろう?あの兵士たちは、本当に傷を負った将軍を探し出そうとしていたのか?それとも、背中を弓矢で狙われて探すよう強制されていたのか?一刻も早く、出来るだけ密かに砦を脱出して、何があったのかつきとめなければ、とマキシマスは思った。

マキシマスは用を足した後、おそらく彼と同じような事を考えながら煙を見つめていた若い女に声をかけた。彼は自分を指差し、それから北側の壁を指差した。彼女は彼の指の動きを目で追い、それから彼の目をじっと見た。

言葉が通じないのはよくわかっていたが、マキシマスは考えを声に出してみた。「ここを出て、軍に帰らなきゃならないんだ。何が起こったのかわからない。つきとめなければ。」

彼女は彼を見つめていた。

彼はいらいらと縛られた両手を上げた。「約束する、軍医をよこして君の息子の手当てをさせる。食料と服も持ってこさせる−好きなところへ行けるように、馬も用意させよう。」彼は壁の土台を指差し、それから自分を指差した。「頼む、出口がどこにあるのか教えてくれ。」

彼女は彼の手を取って剣の先を結び目の下に入れ、さっと動かして切った。そして剣の向きを替えて、束の方をマキシマスに差し出した。彼女は彼の目をじっと見つめていた。彼はうなずいて、この明確な信頼の印を受け入れた。

彼女は深々とため息をつき、ついてくるように手招きした。吹き溜まった深い雪に膝まで埋まりながら、彼女は彼を北壁まで連れて行き、西の端に近い所までためらいなく真直ぐ歩いて行った。そこで立ち止まり、壁の基部に腰の辺りまで積もった重い、湿った雪を指差し、手で掘るような仕草をしてみせた。

「ああ、わかった。ありがとう。」

彼女は彼を長いことじっと見ていたが、やがて背を向けて歩き出した。

「待って!」

彼女は立ち止まり、けげんそうな顔をして振り向いた。

マキシマスは自分を指差して「マキシマス」と言った。それから彼女を指差し、訊ねるように手を広げた。

「ヘルガ」彼女は言った。その声はかわいらしく、音楽のようだった。

「ヘルガ」

彼女はうなずき、再び背を向けた。

「ありがとう、ヘルガ。」

最後の言葉が聞こえていたとしても、彼女はそんなそぶりは見せずに崩れた建物の向うに消え、子供達のもとに戻って行った。

マキシマスはすぐに仕事にかかった。その建物の木のドアから板を一枚はがしてそれを間に合わせのシャベルにし、腕と脚が疼くのもかまわずに掘り始めた。彼は働き続け、鎧の下に汗がにじみはじめた。それでも、手と足は凍え、ずきずきと痛んでいた。彼は汚い言葉でゲルマニアをののしった。彼は雪を呪い、破片が手に突き刺さってくる板を呪い、岩を呪い、知っている汚い言葉を全て使ってののしった。兵士として育った彼は、汚い言葉なら山のように知っていた。

数時間悪態をつきながら掘り続け、壁の基部を2.5メートル位片付けた。彼は板を放り出して膝をつき、かがみこんで壁に顔を近づけ、表面を手でなぞって注意深く調べた。見たところ、壁に穴はなさそうだった。マキシマスは座りこんだ。ヘルガは間違えたのか−あるいは、わざと?

「マキシマス」

マキシマスは驚いて、半分雪に埋まっていた剣を掴んで振り向いた。

ヘルガはやさしい微笑みを浮かべ、湯気の立っている椀を差し出した。

彼はそれを無視して、壁の方を指しながら訴えた。「ヘルガ、通路の入口はどこなんだ?」

彼女はマキシマスの腰ぐらいの高さにある丸い石を指差した。

マキシマスは首を振った。「そんなはずはない。この石は…」

彼女はまたあの「ばかなやつ」という表情を浮かべて何かつぶやき、椀を雪の上に置いた。彼女は彼の横に飛び降りて丸い石を軽く叩き、押す仕草をしてみせた。彼は疑いながらも、その石に肩を当て、凍った地面に足場を見つけるのに苦労しながら全体重をかけて押した。石がわずかに動くのを感じた。石は回り始め、驚いたことに後向きに倒れた。石の反対側は平らだった−その石は、表側の半分しかなかったのだ。その石のあった所には、人間がひとりやっと這って行けるぐらいの穴が開いていた。彼は驚いてかがみこみ、穴を覗き込んだ。しかし、日の光が届いているのは1メートルぐらいで、その向うは暗闇だった。穴の向う側からも日光は射していなかった。マキシマスは壁の外側にも雪が積もっているはずだという事に思い当たった。外まで掘って行かなくてはならない。それも今度は、狭い、暗いトンネルの中で岩に囲まれてうつぶせになったままで。そして掘る道具といえば剣と、すでに感覚のなくなっている両手だけなのだ。

彼は穴の横で地面に座りこみ、壁にもたれて手で頭をかかえこんだ。刺さったままの折れた矢の破片が、腕と脚を容赦なく痛めつけていた。足は完全に感覚がなくなっていた。優しい手が髪に触れるのを感じて、彼はヘルガを見上げた。その顔にははっきりと落胆が現れていた。「君もここに閉じ込められてるってわけだ」彼は優しく言った。「息子の怪我のせいで残らなきゃならなかったんだね。それで、君も出て行けなくなった。」

マキシマスは頭上に聳え立つ壁を見上げた。壁の上から助けてもらわない限り、この壁を越えて行くのは不可能だ。下をくぐって行かなくてはならない。ヘルガが椀を彼の手に押しこみ、おそらく「食べなさい」という意味の言葉を言った。そして駆け足で去っていった。

彼が椀の底から肉をこすり取っている頃には、彼女はくすぶっている炭を入れたバケツを片手に、薪の束を片手に持って戻ってきた。彼女はバケツをマキシマスの足元に置いて手馴れた様子で火をおこした。マキシマスはブーツが炎につきそうになるまで脚を伸ばし、腰を曲げて手を伸ばして真っ白になった指を火で暖めた。彼はしばらくそのままじっとしていた。身体がほぐれ、暖まってくると少し眠気を感じた。

ヘルガは厚い羊毛のスカートの中をごそごそと探り、長い羊皮の紐を引っぱり出した。彼女は彼の右手を取り、腕に刺さったままの矢に触れないよう気をつけてゆっくりと持ち上げて、手に羊毛の布を当ててその上から皮紐を巻きつけた。それからもう一方の手も同じようにして、ブーツを脱がせて足にも羊皮を巻きつけた。それから、彼がブーツを履くのを手伝った。

マキシマスは感謝の印にうなずいてみせ、笑顔を浮かべた。

ヘルガは石の穴の暗い入り口をせかせかとした仕草で指差した。マキシマスは笑って、「厳しいね、親方。」と言った。しかし、これからやらなければならない事を考えると笑顔はすぐに消えた。彼は雪を後ろに投げながら掘り進めなければならない。前と後ろに雪が詰まってこの暗いトンネルの中に埋葬されてしまう危険も充分にある。彼は身震いした。「ヘルガ」彼は言った。「おれが後ろに投げる雪を外に出していってくれないか。わかるかい?この穴から雪をかき出して、外に積み上げていってほしいんだ。」

彼女は戸惑ったように首を振った。

「わかった。見ていて」マキシマスはトンネルの中へと這って行き、尖った石が膝に食い込んだので一瞬たじろいだ。三歩も進まない内に、光は完全に消えうせた。トンネルは広さも高さも不規則で、手探りで進みながら何度も固い岩に頭をぶつけた。トンネルは所々非常に狭くなっていて、彼は腹をぴったり地面につけて滑って行かなければならなかった。彼は恐怖に身体がすくみそうになるのを必死で押さえていた。彼は湿った雪の中に顔を突っ込んで、ようやくトンネルの端まで来たのに気づいた。口から雪を吐き出しながら、彼は身体をすべらせて1メートル程戻り、自分の位置をつかもうとした。彼は腰に結びつけた剣を探り、両手で雪に突き刺した。自分がどのぐらいの量の雪を掘り出しているのか、よくわからなかった。膝の辺りに雪が溜まっているのを感じて、彼は手を止めた。彼は雪を身体の後へと押し、足で蹴った。そして雪を蹴りながら後向きに這い戻って行った。後にわずかな光が見えると、彼はヘルガの名を呼んだ。

「マキシマス?」彼女がトンネルの入口にかがみこむと、光はまた消えうせた。

彼はもう一度彼女を呼び、雪を思いきり強く蹴った。彼女の所まで届くといいが。彼女が雪をすくい上げる音が聞こえた。彼女がトンネルから離れると、また微かな光が射した。彼は残りの雪を蹴った。彼女はまた同じように雪をかき出した。わかってくれたようだ。しかし、この調子では何時間も−何日も−かかるかもしれない。壁の外側に吹き溜まっている雪がどのぐらい深いかによって。

マキシマスは心を戦闘体勢に切り替えた。苦痛と恐怖を抑えつけ、力と忍耐を呼び起こした。彼は這い、堀り、蹴り、押し、また這い進み、堀り、雪を蹴って押した。一度止まると動けなくなりそうで、休むことなく進み続けた。彼は何度も何度も、同じ動きを繰返した。どれ程の時間が経ったかわからなかった。数十分か、数時間か、数日か。この狭い、暗い、墓穴のようなトンネルで彼の頭は時間の感覚を失っていた。

剣が空をかいているのに気づくのに数分かかった。冷たい、新鮮な空気が燃えるように熱い顔に触れるまで、彼は終点に到達したのに気づかなかった−いや、本当に終点なのか?なぜこんなに暗いのだろう?太陽はどこだ?彼は剣を放り出して両手で掘り出し、身体を引っ張り出せる大きさまで穴を広げた。彼は雪の上にうつぶせに倒れこんだ。それからあおむけになり、巨木の葉の落ちた枝の向うの満天の星空を見上げた。苦痛と安堵感の両方で、彼の目は霞んでいた。

 

第61 〜 65章