Maximus' Story
Chapters 66 - 70


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第66章 セプティミウス

クイントスの留守中、マキシマスはホラティウスというベテランの副司令を副官に指名した。ホラティウスはフェリックス第三連隊をヴァンドボーナに帰還させ、そこで冬を過ごすことになった。その間、マキシマスはドナウ・ライン両岸の各連隊を視察するため西へ向った。冬季に戦争が始まる可能性は極めて低いとはいえ、部族民軍が奇襲攻撃を仕掛けて来る事は充分考えられる。彼は全ての連隊を準備万端にしておきたかった。

羊毛と毛皮にくるまり、衛兵を一個小隊引き連れて、マキシマスは連隊から連隊へと訪ね歩き、各基地に約一週間づつ滞在した。彼は沿岸の道が通行可能で、必要とあらば軍を即時集結させられるという事を確認しながら進んだ。将軍たちは皆、砦の包囲攻撃の事を聞き及んでいて、その話をしたがった。マキシマスが死んだという噂が誤りであることを確認して、彼らは安心した。マキシマス本人が基地の門から現れると、衛兵やほかの兵士たち、将校たちの顔に安堵が広がった。このことはマキシマスに都合がよかった。彼は各連隊の将校たちと戦略を話し合い、指揮下の将軍たちが効率的に任務を果しているのを確認していった。

マキシマスの第二目的はライン−ドナウ間の防備を強化することだった。数年前に掘が作られていたが、さらに全域に石の壁を張り巡らすよう命令した。一定の距離をおいて監視塔が設けられ、常時巡回が行なわれた。

部族軍が奇襲攻撃に成功すれば、他の部族に対して一気に優位に立てるだけでなく、戦利品もたっぷりと手に入れる事が出来た。一方ローマ軍にとっては、奇襲を許せば多くの兵を失うばかりでなく、北方における自軍の足場を危うくしかねない。ローマ軍は、弱みを見せる事すら許されないのだ。部族がいつものように冬中お互いを攻撃し合っていてくれればいいが、とマキシマスは思った。しかし、ひとたび帝国軍が奇襲攻撃を受ければ、マキシマスは即座に、自ら騎兵中隊を率いて報復攻撃に出なければならない。不要な荷物をうち捨て、攻撃の間だけをもたせるぎりぎりの装備のみを持って。マキシマスも気づいていたが、様々な意味において、ローマ軍も部族間抗争に加わっている勢力の一つであると言えた。但し、兵力と戦闘能力において並外れた勢力ではあったが。彼は冬が平和に過ぎる事を祈った。

マキシマスの旅にはもうひとつ目的があった。部族民の言葉を話せるベテランの百人隊長を探していたのだ。マルクル・アウレリウスの要請で部族民の会議に出席できる兵士が求められていた。皇帝はそうやって春に予想される戦闘をなんとか抑えようとしているようだ。しかし、過去にそのような会議に出席した兵士が時として生きて戻れなかった事を、マキシマスはよく知っていた。彼らは馬に縛り付けられて戻ってきた−首のない姿で。

マキシマスにとって、冬は意外に忙しい時季であった。

目的をほとんど果した後、彼はコローニャ付近に駐屯しているゲルマニカ第二連隊のソリヌス将軍の元で、数日くつろいだ時を過ごすことができた。二日目の夜、二人が4杯目のワインを楽しんでいるとソリヌスの従者が入って来て言った。

「失礼致します、アフリカ部隊の兵士が、お時間があればマキシマス将軍にお会いしたいと申しまして来ておりますが。」

マキシマスは霞んだ目をしたソリヌスをけげんそうに見た。「アフリカ部隊の兵士は一人も知らんが…君は?」ソリヌスが首を振ると、マキシマスは言った。「とにかく、話を聞いてみるか。」彼は従者にうなずいた。「通せ。」

従者は頭を下げ、テントを出て行った。入れ替わりに一人の副司令が入ってきた。アフリカの焼けつく日差しの下で長時間過ごしているために顔は日焼けし、茶色の髪には金色の筋が入っていた。彼は将軍たちに頭を下げた。「失礼します、私はセプティミウス・セヴェルスと申します。アフリカ駐屯のアウグスタ第三連隊所属です。」

マキシマスは立ち上がって手を差し出した。「極寒の地へようこそ、セプティミウス。私が北部軍総司令官、フェリックス連隊のマキシマス将軍だ。こちらはゲルマニカ第二連隊のソリヌス将軍。こんな時季にどうして、南国を太陽を離れてこんな所まで来た?」

セプティミウスは一瞬言葉を失い、マキシマスを見つめた。「あの…あの、私は今休暇中なんです。」

「休暇をここで過ごすことにしたのか?」マキシマスは座るように合図した。「君の訛りはアフリカ育ちのようだが。」

「さすがに鋭いですね、将軍。私はレプティス・マグナの生まれです。カルタゴの近くの。」

「それで、何故こんな奥地まで?」彼が従者にワインを注いでもらうのを見ながらマキシマスが訊いた。

「将軍にお会いしたかったのです。」

「私に?」マキシマスは驚いて言った。「どうして私の事を知っている?」

「将軍のお噂は世界中に広まっていますよ。指揮官としても戦士としても。あなたがカシウスの魔手からローマ帝国を救った話は存じております。包囲攻撃の話も、あなたが死の淵から生還した話も。あなたの伝説は大きくなるばかりです。」

ソリヌスはふざけてマキシマスの脚を蹴った。「聞いたか、マキシマス?君は伝説だ!」彼は少し酔っていて、この副司令が彼の上官を持ち上げるのを大喜びで聞いていた。

しかしマキシマスは少し不快だった。「私は伝説なんていうものじゃない。ローマに奉仕するために自分の出来る事をしているだけだ。」

「そうかもしれません。しかし、あなたのお出来になる事は並外れているんです。」

ソリヌスはげっぷをし、ふらつく脚で立ち上がった。「もしよければ、将軍…セプティミウス…もう寝ることにするよ。」従者が彼を支えた。「将軍、また明日。」

「そうだな、また明日会おう。」マキシマスは笑いを噛み殺した。「あまり朝早く起こさないでくれるとありがたいんだが、ソリヌス。」

「ああ、そうだな…わかった。明日は寝坊してかまわないよ、将軍。お休みなさい。」

「おやすみ、将軍。」マキシマスは顔がほころぶのを抑えて客に注意を戻した。「こんな気候の中をこんな遠くまで、私に会うだけのためにわざわざ来たのか?」

「はい…それが最大の目的でした。私は帝国のあちこちを見て回っているんです。出来る限り広い範囲を見て、それぞれの地域特有の問題を理解したかったのです。」

「君の身分証を見せてくれないか?衛兵がしっかり調べただろうが、注意するに越した事はないからね。」副司令はすぐに書類を出し、マキシマスはよく調べてから満足の笑みと共に返した。「それで、どこを回って来たんだ、セプティミウス?」

「ズッカバールからイスパニアに渡りまして、ガリアを通ってこちらに参りました。イタリアも訪問しました。マケドニアと極東を通ってアフリカに戻りたいと思ってます。それから、アエギプトスに大ピラミッドを見に行きます。」

「ずいぶん欲張ったもんだな。私より広い範囲を見ることになる。私はアフリカにもアエギプトスにも行った事がないんだ。」

「いつか私の連隊にいらして下さい。いつでも歓迎致します。」

マキシマスは笑った。「辺境から辺境へ、だな。ありがとう。」

「あなたはイスパニア出身でいらっしゃいますよね?」

「そうだ。」

「今もイスパニアにお住まいで?…もちろん、こちらにおいでの時は別として?」

「ああ。エメリタ・オーガスタの近くに農場を持っている。妻と息子もそこにいる。近いうちに帰郷したいと思っている。それから、ここの国境問題が解決したら引退して、帰って農業をやりたい。」

「解決することがあるでしょうか?」

マキシマスは肩をすくめた。「そう祈るしかないね。」

「もう少しお時間を頂いてよろしければ、この連隊の現状についてお教え頂けませんか?」

マキシマスは目の前の若い男を見つめた。セプティミウス・セヴェルスは彼より5、6歳年下のようだ−25歳位だろう。同じような体格で、二人とも辺境出身だったが、似ているのはそこまでだった。セプティミウスは非常に野心的な男のように思えた。一方マキシマスは皇帝に奉仕することと、家族の元に戻る事しか頭になかった。彼はワインをもう一口飲んで訊ねた。「どうやって私を見つけたんだ、セプティミウス?ここのところ、あちこち動き回っていたんだが。」

「存じております。将軍の居場所を見つけるのに何週間もかかりました。いくつかの基地では、ほんの数日違いでお会いできませんでした。ガリカ第16連隊では、わずか数時間違いでした。」

「しつこい男だな」マキシマスはにっこりした。

セプティミウスは笑顔を返した。「よく言われます。」彼は椅子の上でちょっと身じろぎし、こう言った。「少し個人的な事をお訊ききしてもよろしいでしょうか?」

さっきから訊いているじゃないか。マキシマスはいいと言う合図に手を広げた。

「実は、あなたの事はなんとなく巨人みたいに思っていたんです。背は2メートル以上で、肩幅なんてこの部屋の幅ぐらいある…」彼は腕を大きく広げて笑った。「あなたが普通の人なんで安心しました。不死身でもない普通の人間が不滅の業績をあげることが出来る…私のような人間にも、あなたの偉大さに近づく可能性があると、希望が持てます。」

マキシマスは顔が赤らむのを感じてひどく落着かなくなった。彼は自分の事から話をそらそうとして言った。「それでは君は、偉大な業績をあげたいと思っているのか、セプティミウス?」

彼はきっぱりと答えた。「はい、そうです。」

「そうか。君の今している事は役に立ちそうだな。とても現実的なやり方で夢を追求していると思う。」マキシマスは少しの間、ワインのゴブレットを見つめて深紅の液体を揺らし、こう訊いた。「それで、この地方の政治状況の何が知りたい?」

しかしセプティミウスは個人的な質問をまだ終えていなかった。「あなたの部下はあなたを崇拝していますね。喜んで命を捧げる程に。どうやってこれほどの忠誠を得たのですか?」

マキシマスは瞬きし、顔を横に向けて答えをじっくりと考えた。「それはよく訊かれるんだが、正直言ってよくわからない。言えるのは、私が部下の事を考えて行動しているという事だけだ。私は兵士ひとりひとりを人間として見ている。兵器の一部だとは思っていない。」マキシマスはゴブレットをテーブルに置き、膝にひじをついて拳に顎を乗せた。彼は考えに沈んでいるように見えた。セプティミウスは彼をじっくりと観察していた。「私は自分ではやらない事を、決して部下にやらせない。つきつめて言えばそういう事かな。」彼は客の方を見た。「みんなもその事をわかっている。」

少しの間、二人の男は黙って見つめ合っていた。マキシマスは椅子の背にもたれて頭の後で手を組み、脚を伸ばして足首を交叉させた。「さて、この地方の生活について知りたい事は?」

「何もかもです…」突然、セプティミウスは将軍に長い時間をとらせている事に気づいて目を伏せた。

「それではまず、我々がこの地域に進駐していることに強く反対している部族の事から始めようか。そういう部族の動きを把握しておくのは非常に難しいんだ。とても流動的なんでね。族長は始終変る。その時々で、人気を集めたり強気に出たりした男が次から次へと族長になる。部族間の同盟関係もころころ変る。ある時数百人程度だった部族が、次の週には10倍の兵力を持って現れたりする。」

「あなたはそれを全て把握しているんですか?」

「そのように努力している。把握出来なければ−あるいは間違えたら−自軍に危険が降りかかる事になる。ドナウ対岸の山地は、おおむね四大部族が支配している−サルマティア族、マルコマンニ族、クアド族、イアジーグ族だ。頭のいい、意志の強い連中で、決してなめてはいけない。我々を自分たちの生活に対する脅威と見ていて、奴隷にされるのを怖れている−無理もない話だ。ローマ帝国がそういう目的で侵略を行う事もよくあったからな。」マキシマスは立ち上がり、背中で手を組んでゆっくりと歩き回り始めた。その姿は講義中の教師そのものだった。「知っての通り、ダキア族を東に追いやって帝国をこんな北方まで広げたのはトラヤヌス帝だ。ダキア王国は高度な文明を持っていた。ローマ人は彼らが野蛮人だったと考えたがるが、とんでもない。彼らは強い政府を持ち、貿易や商業を確立していた。優秀な商人や技師もいて、文字も持っていた。今ローマ軍が使っている、雪や氷の上を歩く時靴底につける鉄のスパイクの様な単純な物ですら、彼らから学んだ物なんだ。」

「トラヤヌス帝の戦績は、ローマの大コロンナ(記念塔)に刻まれています。」

「そうらしいな。」

「ご覧になった事はないんですか?」

「ローマには行った事がないんだ。ここで皇帝に命じられた仕事をするのに忙しくて…それに、少しでも暇ができると真っ直ぐ故郷に帰っている。」

「是非いつかご覧になって下さい。素晴らしいですよ。とても高くて、上から下まで見るには近くの建物の窓から見るしかないんです。とても色鮮やかで、兵士の像の一体一体が小さなブロンズの剣まで持っているんです。戦闘の物語が帯状に刻まれて、塔を何周もしているんです。」彼は言葉を切った。彼はマキシマスがテーブルにもたれて腕を組み、彼の顔を興味深そうに見つめているのに気づいた。「すみません、続けて下さい。」

「え?」

「ダキア族の話でしたが…?」

「ああ。つまり、敵が単なる野蛮人で、ローマ帝国の威光で救ってやるのだ、などと考えてはならんという事だ。そんなに単純な事ではない。」

「まるで尊敬しているように聞こえますが。」

「侮ってはいない。敵を侮るのは愚かな事だ、セプティミウス。」

副司令はうなずいた。尊敬する人物の一言一言を心に刻みつけているようだった。「マルクス・アウレリウス陛下は、部族民の領地へさらなる進攻をなさるおつもりでしょうか?」マキシマスが急に背筋を伸ばし、青い瞳を細めて恐ろしい目つきになったのを見て、セプティミウスは訊いてはいけない事を訊いてしまった事に気づいた。彼の低い声はさらに低くなり、ほとんど唸り声のようになった。

「それは極秘事項だ、セプティミウス。皇帝陛下のご計画を口外することは許されていない。」

「も…もちろんです、将軍」副司令はあわてて言った。将軍が怒ると、瞬く間に思わず逃げたくなるほど恐ろしくなることに驚いて、セプティミウスは深く息をついた。しかしマキシマスがすぐに友好的な態度に戻ったのでほっとした。

「好奇心もほどほどにしておけよ、セプティミウス。」マキシマスは軽い調子で言った。

「はい、将軍。出過ぎた事をお訊きして申し訳ございません。」

マキシマスは謝罪を受け入れた印にうなずいて言った。「とにかく、今持っている領地を手放すことはない。」彼は会見はこれで終わりだという合図にドアまで歩いて行き、もう一度手を差し伸べた。セプティミウスは喜んでその手を握りしめた。「明日また来たまえ。沿岸の連隊の基地ならどこにでも入れるように紹介状を用意しておく。帰るまでこの地方をよく見て学ぶといい。但し、もし攻撃を受けたら、即座に兵士として戦闘に加わってもらう。」

「光栄です!ありがとうございます、将軍。私などのためにこんなに時間を割いていただいてありがとうございます。あなたは想像していた通りの方でした。この事を仲間に話すのが待ちきれない…」

マキシマスが口の端で笑って少し頭を振ったのを見て、彼は賢明にもそこで口を閉じ、急いでテントを出た。とうとう彼のヒーローに会えた事で、セプティミウスは興奮していた。彼はまったく期待通りの人だった。いや、期待以上だった!

 

第67章 AD 175年 早春

フェリックス第三連隊と行動を別にしてから二ヶ月後、ヴァンドボーナへの道を辿りながら、彼は予定していた任務を全て達成できたことに満足していた。彼の指揮下の連隊は全て、部族軍の奇襲攻撃にも対応できる準備を整えていた。それでも、彼は兵士たちに基地や監視塔や壁など、ライン・ドナウ沿岸の防備を強化し続けるよう命令していた。

春の気配も彼の心を浮き立たせていた。泥の酸味を帯びた匂いや、高枝に点々と並ぶ紫の小さい固い蕾たち。枝越しに見える空は灰色より青であることが多くなり、柔らかい黄金の光が兵士たちの顔に小枝の影の縞模様を落としていた。道端を覆う茶色い枯葉の毛布の隙間から、細い茎に支えられた黄色や青の花が顔を出していた。木陰に残る雪溜りは日に日に小さくなっていた。雪解け水は水溜まりになり、また小川となって道端を流れ、夜には凍りついて、朝の太陽にまた流れ出すのだった。リスたちが高枝の上から兵士たちを叱りつけ、マキシマスは森の中で雌鹿が水玉模様の小鹿を連れているのを見つけた。彼は隊を止めさせて鹿が逃げて行くまでゆっくり眺めた。衛兵たちが少しにやにやしているのも気にしなかった。

マキシマスは春が好きだった。春は誕生の季節だった−仔羊や仔山羊、仔牛や仔馬…そして、彼自身の赤ん坊。彼はふたり目の子供の誕生を待つ妻の姿を思い描いて微笑んだ。あまり身体がつらくないといいのだが。彼は息子が生まれた時の事を昨日の事のように憶えていた。今度も妻の元へ帰って、赤ん坊を自分の子と宣言して名付けを行う儀式を自分でできたらどんなにいいだろう。しかし今回はマキシマスの頼みで、彼に代わって義父がその栄誉を担うことになっていた。赤ん坊をこの腕に抱くまで、どのぐらい待たなくてはならないのかもわからない。

マキシマスは妻の手紙を読むのが待ちきれなかった。沿岸の旅に出る前に、彼はオリヴィアに手紙を書き、帰って来るまでしばらく手紙を受け取れない事を言っておいた。それでも、こちらからは滞在先の連隊から毎週手紙を送っていた。早く時間を見つけて、スペインからの最新ニュースをゆっくり読みたい。せめて二通ぐらいは届いているといいのだが。

基地の正門が見えるところまで来た。彼は門がさらに一層増築されて四層構造になり、両側に頑丈な石の監視塔が出来ているのを見て満足した。堂々とした門が加わり、今や基地というより砦のように見えた。彼は馬を進めながら防備を確認していいった−「ユリ」と呼ばれる内側に槍衾のついた隠し掘や、飛び越えようとする人や馬のはらわたを抉るような角度に棘が埋められた深いV字型の掘。外壁は高く、固い石で出来ていて四隅に監視塔を備えていた。基地の守りは万全のようだ。

門衛たちが将軍を歓声で迎えた。将軍は陽気に手を振り、笑顔を返した。この基地に戻れて、マキシマスは嬉しかった。マキシマスが門を抜けて馬を降りると、百人隊長や副司令がまわりに集まって来てあたたかく歓迎した。ひとりひとりと握手を交わしながら歩いていると、いきなり後から何かが膝に激しくぶつかって来て、彼はもう少しで倒れるところだった。兵士のひとりに支えられて振り向くと、彼の顔を毛皮と温かい大きな舌が襲ってきた。「ハーキュ…」彼は言いかけたが、口を開いたとたんに口の中に犬の舌が入った。マキシマスは顔をしかめ、犬の首筋を掴んで引き離し、膝の間に押えつけた。「げっ!」彼は唾を吐き出し、手の甲で口を拭った。まわりの兵士たちから、少々大き過ぎる笑い声が上がった。「すっかり治ったみたいだな!なんだ、ずいぶん太ったじゃないか!」マキシマスはしゃがんで犬の身体をよく調べた。犬は彼の顔をなめ回し、前足でじゃれついた。「うーん、あばらがどこにあるかもわからん。相当、運動しなきゃならないようだな、ハーキュリース。」彼は立ち上がってわざとらしく眉をひそめ、声を低くして言った。「おれが外で一生懸命働いている間に、お前らもぶくぶく太ってたんじゃないだろうな?」

「いいえ、将軍」ひとりの百人隊長が思い切って答えた。「我々も一生懸命働いておりました。」

「そのようだな。門を見たよ。強固で、立派だ。よくやった。」

兵士たちはにやにやしながら目配せを交わし合った。「お疲れですか、将軍?」ひとりの兵士が訊いた。

「ファビウス、それほど疲れてはいないよ。しかし一風呂浴びたいな。その後で将校会議をする。」マキシマスは自分のテントに向った。ハーキュリースと兵士の一団がすぐ後ろにくっついて来た。彼は振り返り、手を腰に当てて彼らを見た。「おれに何か言っておくことでもあるのか?」

「あー、いいえ、そんなことはないんですが」唯一、真面目な顔を保っている百人隊長が言った。他の兵士たちは笑顔を抑えることができないようだった。

いったいどういうことだろう?マキシマスが角を曲がると、士官兵舎が見えてきて、彼は思わず立ち止まって呆然とした。彼は周りを見回してそこが正しい場所だということを確認し、彼のテントのあった位置を見つめた。テントはなくなっていた。代わりに、スレート屋根のついた頑丈そうな灰色の石の建物が建っていた。ジョニヴァスが満面の笑みを浮べてドアにもたれていた。

「お帰りなさい、将軍」技師は腹がつかえるほど深々と頭を下げ、マキシマスに向ってどうぞお入り下さい、と言うように手を差し伸べた。

「ジョニヴァス、これは一体何なんだ?」

「家ですよ。門を建て直した後、石が余ったんです。我々は建築意欲に燃えてたんで、ついでにこれを作ることにしました。」

マキシマスはドアに立って中を見た。「家だって?」彼は途惑った様子で言った。

「あなたの家ですよ、将軍。お入り下さい!」ジョニヴァスは嬉しそうに彼の腕を引っ張った。「簡単なものですが、とても快適ですよ。すぐにおわかりになります」技師はマキシマスを日陰になっているアトリウムに案内した。兵士たちは自分たちの贈り物に対する将軍の反応を見たくて、ドアのあたりに群がって背伸びをしていた。

彼はドアを入った所に、言葉を失って立ち尽くしていた。ハーキュリースが隣に座り、長い尻尾で床を掃いていた。

将軍が黙っているのにもかまわず、ジョニヴァスは続けた。「ローマ式住宅の長所を全て取り入れております。中庭だってあるんですよ−見ての通り、小さいものですが。ご覧になりませんか?」

マキシマスは陽だまりに足を踏み入れ、しゃがんで丁寧に植えられた草花を見た。旅の間に目を楽しませてくれたものと同じ、優美な野の花だった。美しい彫刻を施した石のベンチとテーブルが日向に置かれ、雨水を集める小さな池に映っていた。マキシマスは花を指にはさんで、ジョニヴァスの方を振りかえる前に気持ちを落ち着かせる時間をかせいだ。立ち上がった時、目は乾いていたが、少しかすれた声に感激があらわれていた。「君が作ったのか?」

「私が設計しました。作ったのは、あそこにいる連中です。」彼は入口の方を指した。将軍の反応を見ようと押し合いへし合いしている兵士たちで、入口は光も入らないほど混み合っていた。

マキシマスは彼らの方を見る前に息を呑みこみ、小さい声で言った。「すごいな、驚いたよ。本当にすごい。」

ジョニヴァスは兵士たちに親指を上げて見せ、兵士たちは笑いながらお互いの背中を叩いて祝福し合った。

マキシマスは兵士たちの方へ行こうとしたが、またジョニヴァスが腕をつかんで止めた。「まだあるんです。アトリウムの床に触ってみて下さい。」

「床?」

「そうです。触って下さい。」

マキシマスは膝をついてモザイクの床に手を当てた。「温かい!」彼は驚いてジョニヴァスを見上げた。

「温めてあるんです。主な部屋は全部−地下から。将軍の寝室の下に暖房炉がありまして、床下の空間を伝って家中に熱が広がるようになっています。もう寒い思いをすることはありませんよ。残念なのは、去年の秋のうちにこれができなかった事です。そうすれば、冬中暖かく過ごせましたのに。もう、ベッドを温めるのに湯たんぽを使う必要はありません。来て下さい、仕組みをご説明します。」

マキシマスは急な階段をついて降りようとしたハーキュリースに、「ここにいろ」と命令した。ジョニヴァスは自分の技術を見せびらかすのが嬉しくてにこにこしていた。「床は石の支柱で支えてあります−わかりますか?」マキシマスがよく見えるように、ジョニヴァスは松明を高くかかげた。「ここに暖房炉があります。燃料は薪です。ここは木が豊富ですからね。床を温めるには時間がかかりますが、一旦温かくなれば長時間もちます。」彼はマキシマスの額に汗が吹き出しているのに気づいた。「すみません、将軍、ここは暑くて…すぐ済みますので。この火で温められた空気が床の下を通って、壁の中のタイル張りの送風管を抜けて屋根庇の下から外に出るようになってます。ハイポコーストと言うんですが、高級な家にしかついていないんですよ。毎日夕方になったら火をいれてあげます。そうすれば、この家は夜じゅう暖かくて、朝になったら冷ませば昼にかまどの中みたいに暑くなることもありません。将軍、こちらへどうぞ。」

地下はあまりに暑かったので、マキシマスは袖で目から汗を拭いながら技師の後をついて急いで階段を上った。

「それでは将軍、寝室へご案内します。将軍の寝室と客間がひとつ、皇帝陛下のようなお客がいらした時のために。それから小さいのはキケロの寝室です。お側にいられるように。」

二人はまた中庭に出て列柱廊を歩き、重い木のドアを押して寝室に入った。壁の上の方に並んでいる鉄格子の嵌った窓から光が入る事を見せるため、ジョニヴァスはドアを閉めた。夜には保温のために鎧戸を閉めることもでき、夏には熱を逃がすために開けておくこともできた。

マキシマスは部屋を見回した。その部屋は以前のテントよりずっと広かったが、彼のベッドやソファ、トランク、机と椅子、戸棚から敷物に至るまで全てが運び込まれ、テントにあった時の配置通り正確に並べられていた。これは間違いなく、キケロのおかげだろう。そのキケロは今、客人たちに背を向け、大きな戸棚の中の布の山を相手に奮闘していた。

「キケロ、家が出来るなんて、お前は知ってたのか?」

「将軍、お帰りなさいませ。いいえ、知りませんでした。みんながテントを畳みにくるまで。将軍のお荷物を整理して運び出すのも大急ぎでやらなくてはならなかったのです。」彼はジョニヴァスを横目で睨んだ。ジョニヴァスは知らん顔をしていた。

「面倒をかけてすまなかったな、キケロ。」マキシマスは言った。「でも、この温かい床っていうのはお前にもありがたいんじゃないのか?」

「はい、その点はたしかによろしいのですが、ハーキュリースはもう将軍のベッドの横には寝てくれないと思いますよ。昨夜ここに寝てみたんですが、ハーキュリースを将軍の部屋に入れて慣れさせようとしたんです。そうしたら、夜中にくんくん鳴く声とドアを引っ掻く音が聞こえまして。開けてやったらとたんに、中庭まで一直線に飛んで行って、池に飛びこんで水をほとんど全部飲んでしまったのです。それから朝まで、そこで寝ていました。」

マキシマスは犬を見て、既に喘ぎ始めているのに気づき、また外に出してやった。マキシマスは技師に肩をすくめて言った。「あいつはこんな贅沢には慣れていないんだ。」彼は言いにくそうに言った。「正直に言うと、おれもなんとなく落ち着かない。部下たちがテントで凍えている時におれだけここで暖かくしているというのは…ちょっと気が咎めるんだ、わかるだろう?」

「将軍、あなたは他の兵士とは違います。特別な方なんですから、特別扱いを受けて当然ですよ。ご安心下さい、この家を作るべきか否かは、将校たちとも兵士たちともよく話し合ったんです。答えは圧倒的に『イエス』でした。これを建てた兵士たちは自分の時間を割いて進んで参加したんですよ。あれを描いた兵士も。」

マキシマスはジョニヴァスの指さした先を見た。翼を広げた黄金の鷲の素晴らしい絵が寝室のドアの上に描かれていた。

「ポリビウスっていう若いのが描いたんです。」ジョニヴァスが説明した。「絵具も全部自分で調合したんですよ。それがよっぽど自慢のようです。壁がまだ乾き切らないうちに描いたんで、長いこと持ちますよ。他の漆喰壁にも、彼が絵を描いて差し上げます。何を描くかは将軍が決めて下さい。」

しかしジョニヴァスにはまだ驚かすことがあった。彼は寝室に二つあるドアのもう一方を開けて誇らしげに言った。「そして、こちらは将軍専用の風呂場です。ここも暖かくて快適ですよ。」

「ジョニヴァス、何と礼を言っていいかわからないよ。」

「この家を最初に見た時のあなたの顔を見られただけで充分ですよ。ここを『第二の我が家』と思って、静かなくつろいだ時を過ごしていただければ幸いです。」

マキシマスは部屋をゆっくりと一周し、目を輝かせてジョニヴァスとキケロの方を振り返った。「この温かい床を我々だけで楽しんでいるのはもったいないんじゃないか?ジョニヴァス、料理人に特別料理を用意させてくれ。宴会をやるぞ。全員を招待する−いっぺんに来られると困るが。せめてもの礼だ。」

ジョニヴァスは大喜びで言った。「それは素晴らしい!ここを建てた連中も、他の兵士たちに見せたくてしょうがないんですよ。」

「建築に係わった兵は全員紹介してくれよ。一人一人に礼を言いたい。」

「もちろんです、将軍。」ジョニヴァスは喜色満面でそう答え、厨房に向かった。

マキシマスは彼の背中に向かって「料理人に、ワインをケチるなって言っとけよ!」と叫んでからベッドに座り、口笛でハーキュリースを呼んだ。すぐに大きな犬が戸口から顔をのぞかせたが、部屋に入りたくはないようだった。

「ハーキュリース、こっちへ来い。」マキシマスは自分の足の間を指差した。犬は尻尾を脚にはさんで急ぎ足でやって来た。

マキシマスは微笑んで、犬の耳の後を掻いてやった。彼はキケロの方を見て、責めるように言った。「お前が甘やかして太らせたんだろう。」

「私がですって?とんでもない!」従者は急き込んで言った。「申し上げておきますが、将軍、その犬は勝手に太ったんですよ。」

マキシマスは眉を上げて説明を求めた。

「こいつの脚は何週間も前に治っていたのに、テントを歩き回って同情を引いては食べ物をもらっていたんです。ある日こいつを見張っていたら、何をしたと思います?それまで普通に歩いていたのに、テントの戸口の所まで来ると、くんくん鳴きながら脚を引き摺りだしたんです。すると、兵士たちは怪我をしたかわいそうなワンちゃんに食べ物をやりに集まって来るんです。そうやってテントからテントへ渡り歩いていたんですよ。みんなに食べ物をやらないように言ったら、お前は冷たいって言われました!」

マキシマスは笑ってハーキュリースの顎をつかんだ。犬はご主人の顔から目をそらした。「ハーキュリース、今日からダイエットだぞ。兵士のテントには立ち入り禁止だ。」彼は犬の毛皮をくしゃくしゃとなでて、また涼しい所へ出してやった。

「キケロ、手紙は来ているか?」

「はい。今回は少ないですが。」キケロは二通の手紙をマキシマスに渡した。

「オリヴィアに留守にするって言ってあったんだ。」マキシマスはスペインからの手紙の一通が妻の筆跡でないのに気づいて眉を寄せた。「しばらく手紙を受取れないって。」

キケロはドアへ向かった。「お読みになる間に、私は…」

マキシマスはキケロの言葉を聞いていなかった。彼は義兄のタイタスからの手紙を走り読みしていた。読みながら、彼はゆっくりとベッドに沈み込んだ。脚が氷のように冷たくなり、手が激しく震えてほとんど文字が読めなかった。



一時間ほど後、キケロがマキシマスの部屋のドアをノックした。返事がなかったので、彼は両腕一杯に洗濯物を抱えたまま肩でドアを押して入り、戸棚の方へ行った。蝋燭を何本か灯すと、彼は鼻歌を唄いながらマキシマスの服を畳んで種類別に重ねていった。仕事を終えて振り返った時、彼は心臓が止るほど驚き、胸に手を当てた。マキシマスは部屋にいたのだ。キケロが出て行く前と同じ場所に座って両手に顔を埋め、身体をゆっくりと前後に揺らしていた。

「マキシマス?」キケロはそっと声をかけた。彼をおどかしてしまうのではないかと思った。

マキシマスは身体を揺らしつづけていた。その足元には、くしゃくしゃになったパピルスが散らばっていた。「マキシマス…ご気分でも悪いのですか?」

マキシマスはうなずきかけ、それから首を振った。顔は手に埋めたままだった。

キケロはドアへ急いだ。「軍医を呼んで参ります。」

「だめだ…やめてくれ!」マキシマスは懇願するように言った。キケロは振り返り、ゆっくりと近くに行った。マキシマスがようやく顔を上げると、キケロは息を呑みこんだ。頬に涙の跡があり、目は赤くはれていた。見間違いではない。将軍は泣いていたのだ。

マキシマスは震える息を吸って、ささやくように言った。「赤ん坊は死んだ。キケロ、おれの娘は死んだ。」

 

第68章 悲嘆

マルシアヌスは皮張りの椅子に座ってマキシマスが歩き回るのを見ていた。彼はせめて少しでも慰めようとそこに来ていた。

「なぜだ、マルシアヌス?どうしてこんなことになった?どうして死んだんだ?」

「マキシマス、手紙によると君の娘さんは予定日より何週間も早く生まれた…」

「でも、タイタスはどこも悪いところはないように見えたって言っているぞ。五体満足だったと。」

「外見にはそうだったかもしれんが、肺がちゃんと成長していなかったのかもしれない。心臓の方かもしれない。手紙によると、生まれて何時間かは生きていたらしい。しかし、母親の胎内を出てひとりで生きる力はなかったんだろう。」

「それなら、どうしてそんなに早く生まれたんだ?」悲しみと苛立ちと怒りが入り混じった感情にかられて、マキシマスは樫材の机に拳を叩きつけた。

「わからん。残念だが、そういうことはよくあるんだ。今はこんなことを言っても慰めにならないことはわかっているが…本当に、よく起こることなんだ。誰も悪くない。マキシマス、君もオリヴィアも理解しなくちゃいけない…誰のせいでもなく、ただそうなってしまったんだ。」

マキシマスはパピルスの一枚を掴んで友人に向かって突き出した。しかし、マルシアヌスの目は将軍の苦しげな顔を見つめたままだった。「二通目の手紙だ。オリヴィアからだ。娘が死んだ数日後に書いている。マルシアヌス、妻は自分を責めているんだ。自分が何か軽率な事をしたから、早産したんだと思ってる。おれに申し訳ないって言っている。見てくれ…手紙に涙の跡がある。」

「それなら、手紙を書いてそんなことはないって言ってやれ。」

「もちろん、そんなことはないさ」マキシマスは苦しそうに言った。「それでも、妻は自分を責めてしまうんだ。息子は妹に何が起きたのかもわかっていない。」

「誰にだって理解し難いことだ。ましてや子供なら…こんなことは慰めにはならないだろうがね、マキシマス、私も子供を二人亡くしている。二人とも男の子だった。その時は、世界が終ったみたいに感じるもんだ。しかし、世界は続くし日は上り続ける。自分も生き続けている。」

マキシマスは足を止めて友人を見た。「それは気の毒に、マルシアヌス。何があったんだ?」

「上の子は死産だった。下の子は君の娘と同じような状況だったが、数ヶ月生きた。」

「死んだ時、君はそばにいたのか?」

「ああ、どちらの時もね。私は医者だが、それでも救えなかった。君も娘さんのことは救えなかっただろう。自分を責めてはいけない。」

「義父がマキシマをおれの娘として宣言する時間もなかったんだ。あまりに突然のことで…おれがそばにいたら、せめてそれだけはできただろう。娘はおれの娘だと認められることさえなく死んだんだ。」

「そんなのはただの儀式だよ、マキシマス。」マルシアヌスはマキシマスが少年の頃から知っていたので、彼が娘を失った悲しみを我が事のように感じていた。「マキシマ。誰が名前を?」

「オリヴィアだ。名なしのまま死なせたくなかったんだそうだ。娘は農場の、おれのお気に入りの場所に埋葬された。木の下に…農場の正門を入ったところにある、大きなポプラの木だ。」

「マキシマス、生まれたばかりの赤ん坊が死ぬのは、たいがいの場合何かの病気を持っているからなんだ。もし生き延びたとしても、おそらく苦しんだだろう。そんな思いはさせたくないだろう?」マルシアヌスは立ち上がり、マキシマスの肩をつかんで立ち止まらせた。「なあ、オリヴィアのところへ行ったらどうだ?今は二人とも、お互いが必要なんじゃないか?」

「マルシアヌス、それはできない。」

「何故?」

「皇帝陛下が全軍に休暇を禁止されている。」

「君には例外を認めて下さるよ。」

「これまでにも、おれには例外が認められすぎなんだ。基地で自分の家を持っているやつが他にいるか?だめだ。休暇は取れない。」

「傷病休暇の診断書を書くよ。」

「いや、いい。」マキシマスはマルシアヌスの手を振り払った。「心配してくれるのはありがたいが、おれは大丈夫だ。オリヴィアも。今は休暇を取るわけにいかない。秋になって、また落ち着いてきたら取れるかもしれないが。」マキシマスは寝室の閉じたドアを見て深いため息をついた。「部下たちは知っているのか?」

「ああ。宴会が中止になったんで、みんな理由を知りたがった。で、ちゃんと教えた方がいいと思って。詳しいことは言ってない。マキシマス、同じ経験をした者として言わせてくれ。ゆっくり時間をかけて悲しんでいいんだ。子供を失ったことから、無理に早く立ち直ろうとしてはいけない。」

マキシマスはうなずいた。「わかってはくれないだろうな。」

「誰が?」

「部下たちだ。死んだのは女の子供なのになぜこんなに嘆くのかと思うだろう。」

「そうかもしれない。女の子供を持つ余裕のある兵士はほとんどいないからな。」

「君は?」

「私にはわかる。マキシマス、失った子に代えられるものなど何もないが、君はまだ若い。もっともっと子供ができるよ…元気な息子たち、娘たちが。そしてその子供たちには孫たちが生まれる。何十人も。君は愛する子供や孫に囲まれて、よぼよぼの爺さんになって死ぬよ。」

ほんの一瞬、マキシマスの顔に微笑が浮かんだが、すぐに消えて悲しみがとってかわった。その悲しみにはいくらか希望が混じっていた。「そうかな?」

「もちろん。さて、少し一人になりたいだろうから私は帰るよ。みんなにも、君が誰かに会いたくなるまで邪魔をしないように言っておく。しかし言っておくが、数日たっても君の顔が見えなければ、引っ張り出しにくるからな。一人きりにならなきゃ悲しむことも出来ないわけではあるまいに、君はそうする傾向があるからな。」

マキシマスは一瞬目を丸くして、それから顔をしかめた。「そういう事を言われたのは君が二人目だ。」

「本当にそうだからな。」

彼は意味もなく手を振って言った。「そんなつもりはないんだが。」

「わかってる。君はそういうやつなんだが、時々考えすぎるようだ。」マルシアヌスは暖かく微笑みかけてドアに向かった。彼の目は枠の上に描かれた黄金の鷲に引きつけられた。今夜、将軍を見守ってくれ。彼はローマの栄光と力の象徴に心の中でそう言った。「ハーキュリースを部屋に入れてやろうか?」

マキシマスはかがんで床に手を当てた。「いいよ。床が温まってるから、どうせすぐ出て行くだろう。」

「何かあればいつでも呼んでくれ。居場所はわかるね。おやすみ、マキシマス。」

「ありがとう、マルシアヌス。」

マキシマスは長い間、そこにじっと立っていた。それからようやく机まで行ってインクとパピルスを取った。この目で見たこともない子供を失っただけで、なぜこんなに、急に世界が空っぽになったように感じるのだろう?この痛みを妻に伝えて、同時に妻を慰める言葉なんて、どうやったら見つけることが出来るのか。

ドアの外側を爪で引っ掻く音がした。マキシマスがドアを開けるとハーキュリースが座って、きらきら光る茶色い目で見上げていた。

「入りたいのか?言っておくが、ここは暖かいぞ。」

ハーキュリースは堂々とした足取りで部屋に入ってきた。犬の爪がセメントの床でかちかち音を立て、マキシマスの机の横の敷物に乗ると静かになった。マキシマスが手紙を書くために腰を下ろすと、大きな犬はご主人の膝に顎を乗せた。マキシマスが何時間もかけて、生まれてから一番辛い手紙を書く間、ハーキュリースはぴくりとも動かずにそこにいた。

 

第69章 クイントスの帰還

マキシマスは基地を見下ろす丘でアルジェントにまたがり、ドナウ対岸の森を見つめていた。何度も手綱を引っ張った末に、馬は意志を通して頭を下げ、おいしい春の若草を食みだしていた。黄色い蝶々が馬の鼻の辺りをひらひらと漂い、馬は邪魔そうに鼻を鳴らした。耳の回りをうるさい春の蝿が飛び交い、馬は時々たてがみを振って追い払おうとしていた。

大きなマルハナバチがマキシマスの方へふらふらと飛んできた。なんとも不格好な虫がいとも優雅な線を描いて飛ぶのに見惚れて、マキシマスはその虫が近くに来すぎて目の焦点が合わなくなるまで見つめていた。それから、虫を避けて頭を下げた。ハーキュリースは草の中で腹ばいになっていた。その頭の上で揺れている黄色い花に向って、ハチは急降下した。犬はハチに噛み付こうとしたが、ハチは難を逃れてふらふらと飛んでいった。ハーキュリースは諦めて元の体勢に戻った。犬は真剣な顔で新しいウサギの穴を見つめ、幸運に見放された若いウサギが顔を出すのを辛抱強く待っていた。

マキシマスは顔の前で苛々と手を振り、馬よりも刺しやすい獲物を求めてやって来た蚊や蝿を追い払おうとした。一匹が耳の後の柔らかい肌にとまり、彼は首をぴしゃりと叩いた。マキシマスは刺されたところを掻いて、日差しを浴びて火照ってた首をなでた。春は喜びももたらしてくれるが、同時にいろいろやっかいな事も我慢しなくてはならない。

馬上の男はすっかりくつろいでいるように見えた。眠そうにさえ見えた。しかし、彼の目と頭は対岸の深い森に焦点を合わせていた。今や森には若葉がびっしりと茂り、中で何があっても見ることは出来ない。今のところ、世はすべて事もなく思えた。しかし、斥候がもたらした情報によると、二大部族−マルコマンニ族とクアド族−が頻繁に会合をしているようなのだ。同盟を結んだのかもしれない。よくない兆候だ。

「ここだと思った。」

馴染みのある声に、マキシマスは鞍の上で振り返った。

「日向ぼっこで居眠りしか?蛮族どもがこんな所を見つけたら大喜びだな。衛兵が見てくれているからいいようなものの」クイントスはにやにやしながら自分の馬を将軍の馬の横につけた。

マキシマスは副官の手を握りしめた。「クイントス、よく帰ったな。調子はどうだ?」

「上々だ。帰ってこれて嬉しいよ。」彼は川の向うを見た。「異状なしだな。結構なことだ。」

「長くはもつまい。来いよ、日陰に座ろう。お前の旅の話を聞きたい。」マキシマスは馬を降り、樫の若木の横に二つ並んでいる大きな岩の方へ歩いて行った。「元気そうだな。」

「元気だよ。」クイントスはそう答えてキンポウゲの上に腰を下ろし、大きな岩にもたれた。彼は草を引きぬいて端の柔らかいところを噛んだ。マキシマスは隣の平らな岩に座り、片膝を立ててその上に右腕を乗せた。ハーキュリースはウサギの穴で運試しを続けていた。

「ローマから何かニュースは?」クイントスが黙ったままなので、マキシマスが訊いた。

「政治関係は退屈そのものだ。おれがこっちへ出発する少し前に、カルパルニウス・ピソとサルヴィウス・ユリアヌスが執政官に選ばれた。大きなニュースといえば、1ヵ月前に皇后陛下が亡くなった。」

「アニア・ガレリア・ファウスティナ様が?そういえば、具合がよくないとコモドゥスが言っていたな。」マキシマスは皇后には一度しか会ったことがなく、特に印象に残っているわけではなかった。しかし彼女は皇帝の妻であり、マルクス・アウレリウスが悲しんでいるだろうと思うとマキシマスの心は痛んだ。「陛下はローマに?」

「おれがローマを出た時には、皇族は全員いらっしゃった。ローマは公式服喪期間だった。」

「お会いしたのか?」

「いや。しかし父の話では、コモドゥスはひどく取り乱していて、ルッシラ姫が弟と父親の両方を慰めていたそうだ。」

「ということは、マルクス陛下はしばらくこちらへはいらっしゃらないだろうな。ゲルマニア軍がいい子にしていることを祈ろう。」マキシマスは、クイントスにはもうお馴染みの唐突さでをがらりと表情を変え、個人的な事に話を移した。「それでお前は?」彼はにっこりした。「旅はどうだった?」

「順調だったよ。」

マキシマスは眉を上げた。「結婚は…?」思い切って訊いてみた。

「ご命令通りに。」

「何だって!」マキシマスは大声で笑い出した。一瞬、ハーキュリースはご主人の声に反応して狩りを止めた。「クイントス、まったくお前ってやつは忠実なる軍人だな。」彼は友人の肩を肘でつついて言った。「嫁さんの名前は?」

「アントニアだ。」

「アントニアか」マキシマスは繰返した。「どこで逢った?」

「結婚式で。」

「ああ、見合い結婚か。それはロマンティックなことだな。」

クイントスは肩をすくめた。「おれはお前ほど家庭的なタイプじゃないんだ。それで…今回はどっちだった?また息子か?」

マキシマスは顔をそむけて、遠い紫の山脈を見つめた。「娘だった。」

マキシマスの厳しい表情に驚いて、クイントスは訊いた。「女だったのが気に入らないのか?」

「生まれてすぐ死んだんだ。」

クイントスは悲しい場面に慣れていなかったので、何と言って慰めていいのかわからなかった。「気の毒に。」思いついた言葉はそれだけだった。

マキシマスはうなずいた。

二人はしばらく黙って座っていた。クイントスはひどく落ち着かなかった。「そういうことはよくあるそうだ…赤ん坊が死ぬのは。それに、その目で子供を見たわけじゃないし…」

「見たよ。想像でね。母親そっくりで、黒い巻き毛をして、色白で、可愛い笑顔と鈴を転がすような声をしていた。」

「マキシマス、あまり考え過ぎるな。運命だったんだよ。」

「なあクイントス、最近みんながそう言うんで、よく考えてみたんだが、わからないんだ。生き延びられない運命だったのなら、そもそもどうして授かったんだ?」

「娘を失うことが運命だったのかもしれない。」

「どうしてだ?」マキシマスは拘った。

「もっと強い人間になるためとか…より深く人生を知るためとか…マキシマス…」クイントスは憤慨したように言った。「難しい事を訊くな。」

沈黙。

クイントスはマキシマスの固い表情を見て、何とか明るい話をしようとした。「お前の新居を見たよ。お前ももう歳だなあ。床暖房に、室内の風呂に…こんなに甘やかされてたんじゃ、ジョニヴァスみたいに出腹になるのも時間の問題だな。」

マキシマスの唇がゆるんだ。「妬いてるのか?」

「その通り。」

「そうか、じゃあ木枯らしの夜にはうちへチェスでもやりに来いよ。…後で暗い、寒いテントに追い帰してやるから一晩中震えているといい。」

「それはご親切に。」

「たしかに、基地の中でこんなに安全に感じたのは初めてだ。万一、部族軍が基地の門を突破しても、おれを捕らえるには時間がかかるだろうな。専用の小型の砦があるようなものだ。」

話を仕事に戻す糸口を探していたクイントスは、この機会をとらえて言った。「部族軍がひと騒ぎ起しそうだってことか?」

マキシマスはうなずいた。「静かすぎる。川の向う岸でもこちら岸でも、騒ぎの起こる気配すらない。この季節にこんなに静かなのはおかしいだろう?斥候の話では、大きな部族が同盟を結ぼうとしているようだ。同盟が成立したら、我々には困ったことになる。」

「それなら、兵士たちを準備させておかないと。毎日、演習をやろう。」クイントスは話が個人的な事から離れたのでほっとした。おれたちは軍人だ。軍人は個人的な事をぐずぐずと考えたりはしないものだ。

「そうだな。油断は大敵だ。」

「おれがやろうか?」

マキシマスはもう一度うなずいた。「お前が帰ってきたから、おれは安心してここを離れられる。また沿岸の基地と砦を回って、他の連隊もここと同様に準備万端かどうかチェックして来ることにする。」

クイントスは再び連隊の指揮を任されて喜んだ。今度は失敗しない。

二人は立ちあがって馬に乗り、これからの計画を話し合いながら基地に戻って行った。ハーキュリースは、今日のウサギ狩りが不調だった欲求不満を振り払うように、馬を追い越して走って行った。

 

第70章 コローニャ

9月初旬までには、四千キロに及ぶ沿岸の道はマキシマスにとってすっかり馴染んだものになり、眠っていても辿れるほどだった−時々、本当に眠っていたかもしれない。田園風景の美しさに心を動かされることもとうになくなっていた。彼は衛兵を先導させ、真直ぐ前を見つめたまま思索にふけっていた。今やひとりでゆっくり考え事のできる時間は他になかった。軍事戦略を話し合ったり、何千もの兵の命のかかった決断を下したりする必要のないこのわずかな自分の時間を、彼は大事にしていた。春は流れ去って暑い夏が訪れたが、マキシマスはほとんど気づかなかった。季節のうつろいに心を寄せる余裕もないまま、夏は涼しい秋に変わっていった。

例年最も不安定になるこの時季に三ヵ月に渡って平和が続いたので、兵士たちは差し迫った危険を感じられなくなっていた。彼らの気持ちを任務に集中させておくことは、日に日に難しくなってきていた。毎日毎日訓練を繰返すのは時間の無駄と考える兵士が多くなっていた。しかしマキシマスは、平和な期間が長いほどその後の攻撃はいつにも増して激しくなる、と説いた。不従順のかどで所属連隊の将軍に罰せられる兵士もかなりいたが、幸いフェリックス第三連隊にはひとりもいなかった。クイントスが良い仕事をして、兵士たちを巧みに任務に集中させておいたからである。マキシマスがその所属基地に帰ることはほとんどなかった−ヴァンドボーナは単に、道中に立ち寄って休養する場所になっていた。

基地に近づくと、付近の村の家々から出るかまどの煙の匂いがした。彼は頭を回して首と肩の凝りをほぐした。自分のベッドや持ち物が恋しかった。家族の木像はもちろんいつも持ち歩いていたが、他の物はなくしたり傷つけたりするのを怖れて置いてきていた。オリヴィアの手紙と絵は箱に大切にしまってあった。また新しい手紙が届いているといいのだが。

マキシマスと衛兵たちが村を通りかかると、村人たちが親しげに声をかけてきた。彼は手を上げて答えた。彼らの生活はローマ軍基地に完全に依存していた。マキシマス将軍は村の工芸品や農産物に必ず公正な代価が支払われようにしてくれていた。彼が通りかかると、村の娼婦たちはスカートの裾をちょっぴり高く持ち上げ、薄物の上から乳首が見えるように胸を突き出してみせた。が、マキシマスはいつものように無視した。娼婦たちは誰が最初に彼をものにするかで賭けをしていたが、今のところ誰も賭け金を手にしていなかった。女たちは諦めて、代わりに行列の中に馴染みの顔を見つけて通りすがりに名前を呼びはじめた。呼ばれた衛兵たちは将軍の前でとんだ恥をかかされた。

後で基地の門が閉まると、マキシマスは全身の緊張がほぐれるのを感じた。彼は馬を降り、スカルトの手綱を馬番に渡した。彼は部下たちの挨拶に答えたが、無駄話はせずにまっすぐ家に向かった。しかし、家に足を踏み入れようとしたとたん、門が大きく軋んで再び開かれる音がした。彼は立ち止まって門の方を振り返り、手を目にかざしてよく見た。馬に乗った男が一人、ひどく取り乱した様子で、狂ったようなスピードで基地へと駆けこんで来た。馬は泡を吹き、息も絶え絶えに喘いでいた。

その男はふらふらの馬から滑り降り、一番近くにいた兵士の肩を掴んだ。話を伝えようと焦るあまり、兵士の肩を揺さぶらんばかりの勢いだった。話を聞いた兵士は目を大きく見開いた。マキシマスは彼が走って来るのを家の前で待っていた。

「将軍!」

「どうした?」

「あの男…コローニャから来たんです。基地が奇襲を受けて、ほとんど全滅したと言っています。」

マキシマスは警戒した。「ゲルマニカ第二連隊の兵なのか?」

「そう申しております、将軍。将軍とお話したいと言っております。」

「数分後に連れて来い。厳重に護衛しろ。正体はわからないんだからな。」

「了解しました。」

しかし、マキシマスがアトリウムに足を踏み入れぬうちに、門からの必死の叫び声に止められた。「将軍!将軍!早く来て下さい!コローニャが…コローニャが襲われました!」急使は取り乱し、その声はかすれていた。「全滅です…みんな死にました…」彼はマキシマスの方へ行こうとしたが衛兵に止められた。

「クイントスはどこにいる?」マキシマスは兵士に訊いた。

「外です。巡察隊についています。」

「探して、すぐに来いと伝えろ。」

「わかりました。」マキシマスが背を向けようとすると、兵が呼び止めた。「将軍…?」

「何だ?」

「お気をつけて。罠かもしれません。」彼はすぐに、偉大な将軍に出過ぎた忠告をしてしまったことに気付いて恥ずかしさに目を伏せた。

「ありがとう、クローディアス。気をつけるよ。」マキシマスはにっこりして兵士を行かせた。背を向けてアトリウムに足を踏み入れると彼の笑顔は消えた。彼は疲労を振り払うように目をこすった。



「名前は?」

「パウルスと申します、将軍。」

「パウルス、君はコローニャ駐屯のゲルマニカ第二連隊の兵士なのか?」

若者はうなずいた。彼は血走った目を上げ、マキシマス将軍の落ち着いた目を真直ぐ見つめた。「そうでした。ほとんど残っていません。殺されました。皆殺しにされました。」彼は自分の椅子の両脇に気をつけの姿勢で立っている二人の武装した衛兵を見上げた。彼の顎はぶるぶると震えていた。

「いつ奇襲を受けた?」

「二週間ほど前です。夜でした。」

「どの部族だ?」

「マルコマンニ族です。何千という大軍で…こちらの連隊全部合わせたよりも…それも、夜中寝ているところを襲われたんです。丸腰の人間を皆殺しに…」最後の言葉は押し殺した嗚咽になった。

マキシマスがキケロにうなずくと、彼は取り乱している男に冷たい水で薄めたワインを渡した。彼は一息に飲み干した。

マキシマスは立ち上がり、手を後に組んで歩き回り始めた。「将軍はどうなった?」

「死にました。ソリヌス将軍は殺されました。私の言うことを鵜呑みに出来ないのはわかります。でも、私は一ヵ月前にコローニャで将軍を拝見しました。将軍は北壁を高くして、巡察隊を増強するよう命令されました。三日間ほど滞在なさいましたよね?その前に、アフリカから兵士があなたを訪ねて来ていました。ご記憶でしょうか?」

マキシマスはため息をつき、首をさすった。頭痛がひどくなりつつあった。「こことコローニャの間にはたくさん基地があるが…途中で警告して来たか?」

「はい。コローニャへ兵を派遣してくれています。しかし、ノニウス将軍から、あなたに会えるまで走り続けろ、と言われました。」

「パウルス、君の判断は正しかった。朝になったら、私は騎兵隊を連れてコローニャへ発つ。ここを無防備にしてゆくわけにはいかない。」マキシマスは短い髪を指でかきあげた。「途中の他の基地が奇襲を受けていなければいいが」

「マキシマス?何かあったのか?」クイントスが戸口に立っていた。

マキシマスは疲れた目で副官を見た。「クイントス、始まったぞ。」



基地が見える所に着く前から、焼けた肉の腐敗臭が鼻をついた。後の衛兵は吐きそうになっていたが、将軍は咳き込み、息を呑み込んで進んだ。ギャロップで角を曲がって基地の門に続く道に出ると、彼はアルジェントの手綱を引いて急停止した。門は完全に破壊されており、基地の惨状がはっきり見えた。これほど凄まじいとは思っていなかった。焼け焦げた壁の中、基地はほとんど消え失せていた−燃え尽きた炭の山に変わり果てていた。先に到着していた兵士たちは布で鼻と口を覆い、ゲルマニカ第二連隊の兵士たちの亡骸を燃やしていた。彼らの頭のまわりには白い灰が渦巻いていた。マキシマスの姿を認めると、彼らはうなずいて挨拶し、また憂鬱な作業に戻った。

第十五プリミゲニア連隊の副官が進み出て言った。「まったく、ひどい状況です、将軍。戦死者は基地の中だけで少なくとも三千、森の中にさらに千人ほど…逃げようとしたところを斬り殺されています。はらわたを抉られ、頭を割られ…ひどいもんです。」

「生存者は?」マキシマスは馬上から被害状況を見渡しながら訊いた。

「数名です。しかし、話をするのを拒んでいます。」

「何故?」

「恥じているようです。他の兵と共に死ななかったことを恥じているのではないかと…」

「私と部下はこの上の丘に野営地を設ける。夕刻に、話の出来る生存者をよこせ。これから見てまわる。」敵は基地内の兵士をほぼ皆殺しに出来るほどの完全な不意打ちに成功している。一体どうやったのか?マキシマスはまず、それを早急に突きとめなければならなかった。このような事が再び起きてはならない。

彼は焼け落ちた石の壁の土台近くの地面をつつきまわした。泥と灰が舞い上がったが、梯子に結びつけたロープの残骸を見つけた。おそらく、これを使って壁をよじ登ったのだろう。更に調査を進めると、基地の周りの尖杭のついた掘を渡るのに使われたと思われる厚板の切れ端が見つかった。しかし、こんなものをたくさん設置するには時間がかかったに違いない。衛兵が兵士たちに侵入を警告する時間は充分にあったはずだ。明らかに、衛兵はその前に殺されていたのだ。しかし、どうやって?その時間には30人近い衛兵が見張りについていたはずだ。

生存者と話をしなければ。



マキシマスは微笑んで、震えている兵士に前に置いた椅子をすすめた。「君の名前は?」

「リシニウスと申します」男は震える声で言った。彼は椅子に掛けて居心地悪そうに背を丸め、腕で胸を抱え込んでいた。

「リシニウス、君はどこの出身だ?」

「スペインです。将軍と同じです。」リシニウスは初めて目を上げ、同じ辺境出身者として同情を求めるような顔をした。

「本当か?スペインのどこだ?」

「ビルビリスです。」

「ああ…何度も通った。いい所だ。」

リシニウスはすすり泣きながらうなずいた。

「リシニウス、故郷に帰りたいだろう…こんな目に遭った後だ、長期休暇を取るといい。」

「そんな資格は…」

「リシニウス、君は悪い事をしたわけじゃない」マキシマスが口を挟んだ。「幸運だっただけだ。」

兵士の頬を涙がつたい始めた。彼はほとんど聞き取れないような声を咽喉から絞り出した。「隠れたんです。」

マキシマスはため息をついた。「まあ、通常なら誉められた行動じゃないが、この場合は仕方がないだろう。不意打ちで、しかも多勢に不勢だったようだからな。」

「その通りです。」

「とにかく、ここで何が起きたのかはっきりと知りたい。他の基地が同じ目に遭う危険がないようにしたいんだ。それには、君の助けが必要だ。わかるか?」

兵士はうなずいた。

「何があったのか話せるか?君が憶えている限りの事を、できる限り詳しく。」

「夜中に目が覚めました…外は真っ暗で…衛兵が怒鳴り始めました。我々は、寝間着のまま駆け出しました…私と、他に数百名…将軍のテントが燃えていたんです。衛兵たちが怒鳴り合いながら指差していました。それで、我々は水を汲みに走って、なんとか火を消そうとしました。とにかく、ひどく混乱していて…」

「将軍の姿を見たか?」

「いいえ。出て来られませんでした。風が強かったので、火は瞬く間に広がって、兵士はみんなテントから駆け出して来ました。」

「武器を持たずに、だな。」

「はい。武器で火は消せませんから。」

マキシマスはうなずいた。「火事の間、衛兵が見張りに残ったかどうかわかるか?」

「残った者もいたと思います。しかし、我々の方に来た者もかなりおりました…将軍のテントだったので…お助けしないわけにはまいりません。」

「そうだな。リシニウス、私は責任を追及しているのではない。当夜の状況を知りたいだけだ。兵士が火を消そうとしている隙に部族軍が壁を乗り越えて来たと考えて間違いないか?」

「はい。それも至る所から。四方八方から、雄叫びをあげながら襲って来ました。恐ろしい武器を持っていて、兵を次々に切り捨ててゆきました。勝ち目はありませんでした。」

「敵の様子を憶えているか…服装は?武器は?」

「とても長い髪をしていました。頭の上で結んで、尻尾の様に垂らしている者もおりましたが、ほとんどはざんばらにしていました。上官の何人かはは兜をかぶっていました。高い、棘のついたやつです。長袖のチュニックを着ていたと思います。ケープをつけた者もいました…ごく粗末なものです。」

「武器は?」

「盾は木製で…楕円形のものと、ほとんどは長方形のもの…深皿形のものも。斧や剣を持っていました。槍も、弓矢も。」

「鎧を着けていたか?」

「着けていなかったようです。私が見た限りでは。」

マキシマスはこの情報をじっくり考えた。「略奪は?」

「何もかも奪って行きました。武器、服、鎧、馬、馬車、家畜、食物…何もかもです。我々の武器を我々に向けてきました。兵士を無理矢理テントに押しこんで火をつけ、生きたまま焼き殺しました。斬り倒されてはらわたを引きずり出された者も…本当にひどい…」リシニウスは泣き出した。

マキシマスは立ち上がって兵士の肩に手を乗せた。「リシニウス、君のおかげで必要な情報が得られた。君の準備が出来次第、帰郷するといい。さあ、少し休みたまえ。私の部下と一緒にいるといい。」

リシニウスはすすり泣き、袖で鼻を拭いながらテントを後にした。入れ替わりにキケロが手紙を持って入って来た。「急使がこれを持って参りました。皇帝陛下の封緘です。」従者は闇に溶け込むように消えた。マキシマスは封緘を開き、髭の伸びた顎を無意識に撫でながら皇帝の信書を読んだ。

「キケロ。」

「はい?」従者は揺れる光の中に姿を現した。

「陛下は両川の中間地点に駐屯している第二十一ラパックス連隊にいらっしゃる。この虐殺について報告をお聞きになりたいそうだ。明日朝一番にそちらへ出発する。お前はここにいていい。」キケロは旅の準備をしに行った。マキシマスはしばらく手紙を手にテントの壁を見つめていた。その目には、白い帆布の代わりに、緑の瞳と栗色の巻き毛の美しい姿が浮かんでいた。

ルッシラが父親について来ている。ルッシラがゲルマニアにいる。


第71 〜 75章