Maximus' Story
Chapters 71 - 75


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第71章 苦い再会

「マキシマス、マキシマス、久しぶりだな」マルクス・アウレリウスは将軍の右手を両手で握りしめて言った。「会えて本当に嬉しいよ。」

「私もです、陛下。お元気そうでなによりです。」これは嘘だった。マキシマスが前に会った時に比べ、皇帝はずいぶん年老いて見えた。顔の皺は深くなり、髪は薄く、ほぼ完全に白くなり、顔のまわりで揺れていた。彼は前より小さく見えた。少し腰が曲がって、動きもぎこちなかった。皇帝が年老いてゆくのを見るのはマキシマスには辛かった。「こんな事情でなければお目にかかれないのが残念です。」

「マキシマス、まあ座ってくれ。奇襲の事を聞いたのは娘とガリアにいた時だ。ルッシラは帰らせようとしたんだが、知っての通り頑固な子でな。どうしても帰らんと言って、この基地までついて来た。妻が死んで以来、娘はまるで子守みたいに私にくっついてくるんだ。」

「皇后陛下のご逝去、お悔やみ申し上げます。」

「ああ、ありがとう。病が重かったから、あまり長く苦しまなくてよかった。」

マキシマスはうなずいた。

「それで、ローマ一の偉大なる将軍は元気かな?」

「は…私は…元気です、陛下、このようなひどい事がなければ、もっと元気なのですが」マキシマスはまだ、自分に対して「偉大」と言う言葉が使われると落ち着かない気分になった。

マルクスはうなずいた。従者が二人にワインを注いだ。マキシマスは豪華な金のゴブレットから一口すすり、贅沢なテントの暗い片隅を見やった。彼女はいない。

「さぞ空腹だろう。食事にして、今夜はゆっくり休むといい。明日、コローニャへ出発する。どのぐらいかかる?」

「二日ほどです、陛下。」マキシマスはためらった。「姫君はお連れにならない方がよろしいかと。腐臭がひどいですし、病気が発生するおそれもあります。」

「心配ない。娘は来ないよ。」マルクスはにっこりした。「必要な時には、ちゃんと言うことを聞かせる。たとえ相手があの子でも。」

マキシマスは一瞬だけ笑みを浮かべた。安心したのか落胆したのかよくわからなかった。

「さて、それではコローニャの悲劇の事を聞こうか。」

マキシマスは自分の見た事、リシニウスから聞いたことを伝えた。「ソリヌス将軍のテントには故意に火が放たれたものと見ています。衛兵を混乱させ、兵士たちを兵舎からおびき出すために」

マルクスは顔をしかめた。「故意に?」

「はい。私は…」

「お父様?」

二人の男はテントの入口の方を振り返った。

「ルッシラ、入りなさい。マキシマスが来ている。会いたかっただろう」

マキシマスは立ち上がって入口の方を向き、頭を下げた。彼女の目を見るのはなるべく先に延ばしたかった。

「そんなに固苦しくしなくていいのよ、マキシマス。それとも、マキシマス将軍とお呼びしなければいけないのかしら?」ルッシラは入ったところで立ち止まって言った。

「姫君、何とでもお気に召すようにお呼び下さい。」マキシマスはようやく顔を上げた。ああ…彼女は美しい。どんなに美しいか忘れていた。髪は小さな宝石を散りばめた金のヘアバンドでたくし上げられ、栗色のカールが背中と肩に流れ落ちていた。しみひとつないクリームのような肌に濃緑の瞳が輝き、唇は淡い薔薇色で彩られていた。彼女は相変わらずすらりとしていた。上等の羊毛のストーラの襞を押えるために身体に巻いた青い絹のリボンが、女らしい曲線を引きたてていた。

「そうね、あなたはどこをとっても立派な将軍そのものね。でも、わたくしとしてはあなたをお友達だと思いたいわ、マキシマス。」

「そう思って頂いて結構です、姫君。」

テントの端と端に立ったまま見つめあっている二人を眺め、マルクスは微笑んだ。

鎧とケープと毛皮を身に着けたマキシマスは本当に立派に見えた。ルッシラは彼が何千もの兵を率いて戦闘に赴くところを思い描くことができた。その力強い腕で優しく抱かれることを、彼女はいつも思い描いていたのだが。「今まで直接礼を言う機会がありませんでしたけど、カシウスの件ではあんなにすぐに動いてくれてありがとう。父を陥れようとした男からあんなに見事にローマを守ってくれて。あなたのような人がついていてくれると思うと、本当に心強いわ。」

「光栄です、姫君。それが私の勤めです。」マキシマスは再び頭を下げ、顔を上げずに皇帝の方を意味ありげにちらりと見た。

マルクスはその意味を汲んで口をはさんだ。「マキシマスはコローニャの奇襲について報告していたんだ。状況に不審な点があるらしい。」

「お父様、わたくしも聞いていてよろしいかしら?」

「かまわんよ。私の隣に座りなさい。マキシマス、座って報告を続けてくれないかな?」

「はい、陛下。」彼女を避ける方法はないようだ。彼女は父親のすぐ側に座ったので、皇帝を見るといやでも彼女が目に入った。彼はマルクスから目を離さないようにしていたが、金色のランプの光にきらきらと煌いている娘の方へと視線はさまよった。

マキシマスは自分が何を話していたのか思い出せなかった。

マルクスは慌てている将軍を見て好ましげに微笑み、助け舟を出した。「誰かがソリヌスのテントに火をつけたと考えているんだろう?どうしてだ?」

マキシマスは咳払いした。「ゲルマニア軍が壁を乗り越えようとしていた時に、たまたまソリヌス将軍のテントが火事になったとは思えません。敵は火事の混乱に乗じたのです。」

マルクスはうなずいた。「続けたまえ。」

「木の上から壁越しに火矢を放つことも可能ですが、夜の攻撃ではそれはあまり考えられません。私は、味方の兵が放火したものと考えています。ソリヌス将軍はすでに殺されていたとも考えられます。」

「裏切者がいると?」ルッシラはショックを受けていた。

マキシマスは彼女をまっすぐ見て言った。「はい。」

「でも、そんな事までして、見返りは何なの?」彼女は訊いた。

「略奪品の分け前がたっぷりもらえるのかもしれませんし、部族の中で軍では望めないような高い地位を約束されているのかもしれません。」マキシマスは肩をすくめた。「有り得ることです。北部軍ではどの連隊にも、斥候として働くゲルマニアの言葉を話せる兵士がおります。そのうちの一人が、他人にはあずかり知らぬ理由で裏切者になったのかもしれません。しかし、敵がその男を生かしておいたとは限りません。おそらく他の兵と共に殺されたのでしょう。」

マキシマスが自分の考えを説明する間、ルッシラは彼を見つめていた。彼はもう大人の男だった。十年以上前、最後に会った時に比べてずっと厳しい表情をしていた。もう一度彼のいたずらっぽい微笑みが見たい。彼が深い声で笑い、青い目を細めるのを見たい。運命が二人の道を引き裂く前の彼が懐かしい。二人がそれぞれに違う形で、ローマへの義務を負わされてしまう前の。二人が若い愛を誓い合った頃の彼に会いたい。

もう一度現実のマキシマスに会えば、ずっと彼に対して抱いてきた幻想は消えてくれるだろう、とルッシラは思っていた。夢の中で作り上げた理想の男ではないとわかってがっかりするだろうと。しかし、彼を見ていると心臓の鼓動が速くなるのを感じた。父親と話をする彼、大きな手を振りながら説明している彼。間違いない、まだ彼を愛している。ローマ帝国北部軍総司令官として、その広い肩に大きな責任を負っている彼は以前よりさらに魅力的に思えた。彼には圧倒されるような存在感があった。部屋を満たすほどの。

ルッシラは父を見た。父もマキシマスを愛している。それは将軍を見る父の目でわかった。父がこんなに愛情のこもった目をコモドゥスに向けた事は一度も、一度もなかった。考えに沈んでいたルッシラの耳に『罰する』という言葉が飛込んで来て、彼女ははっとした。「何ですって?」彼女は訊いた。混乱していた。

「疲れているのかい?」父親が心配して訊ねた。

「いいえ、いいえ。今、マキシマスに何て言ったの?」

「このような事をしたゲルマニア人は厳しく罰しなければならない、と言ったんだ。マキシマスが敵陣に奇襲攻撃をかけてくれる事になった。目指す部族に罰を与える。」

ルッシラは背中をひどく殴られたように感じて息が出来なくなった。敵陣?「お父様、それは本当に必要な事なの?」父親への言葉だったが、目はマキシマスに向けていた。「危険すぎるのではなくて?」彼女は心配そうな目を父親に向けた。「一緒に行くんじゃないでしょうね?」

マルクスは笑った。「ルッシラや、我々の話をよく聞いてなかったみたいだな。こんな老体がくっついて行ったら、何があっても責任は持てないとマキシマスにはっきり言われたよ。私は基地に残る。」

それはルッシラの聞きたい事の半分でしかなかった。「お父様、ローマ軍で一番大切な将軍の命を危険にさらす価値があることなの?その奇襲攻撃はそこまで重要なのかしら?」

「非常に重要だ。そして、この攻撃を指揮できるのはマキシマスしかいない。これは問答無用だ。ルッシラ、食事の用意が出来たかどうか見て来てくれないか。」

彼女は辛そうな目をマキシマスに向けた。彼は興味深そうに彼女を見ていた。彼は心が読めるのだろうか?わたくしの気持ちに気づいているのだろうか?彼女はさっと立ち上がった。これ以上心を覗かれる前に、絹と羊毛と金のドレスを翻し、彼女はテントを出ていった。

二人の男は少しの間、それぞれの考えに沈んで黙っていた。マキシマスはゴブレットの赤い液体を前に後に揺らしながら見つめていた。

マルクスは彼の落ち着かない様子を眺めて言った。「あの子はまだ君の事が好きだ。」彼は思い切って口に出した。「それに…勘違いかもしれないが…君も同じようにあの子の事を思っている。」

マキシマスは動きをぴたりと止めてマルクスを真直ぐ見つめた。「陛下…私は結婚しております。」

マルクスは苛々と手を振った。「ああ、わかっとる。しかしいつから、結婚すれば男の心から、他の女がきれいに消え去るようになった?愛していた女なら尚のことだ。…あるいは、まだ愛している女なら…」

マキシマスは頑固に沈黙を守った。視線はワインに戻し、口は固く引き結んでいた。

マルクスはため息をついて、誰よりも義理の息子に欲しかった若い男を見つめた。昔、マキシマスに結婚の許可を与えたことを後悔したのはこれが初めてではなかった。「君の結婚はまだうまくいっているのか?」

「はい。」マキシマスは妻や息子…それに、亡くなった娘のことを詳しく話す気はなかった。

マルクスは立ち上がり、微笑んでマキシマスの肩に手を置いた。「わかった、わかった。これ以上、君の嫌がる話をしつこく続けるつもりはないよ。さあ、食事にしよう。少しくつろいで、他の話をしようじゃないか。」

 

しかし、晩餐の席でマキシマスは、食事中肘が触れるほどルッシラの近くに座らされたので、到底くつろいだ気持ちにはなれなかった。彼は疲れていると言訳して早々に退席し、士官兵舎を横切って自分のテントに向かった。

「マキシマス?」背後の闇から囁き声がした。

彼は聞こえない振りをして歩き続けた。

「マキシマス!」ルッシラは今度ははっきり聞こえる声で言った。

彼は立ち止まったが、振り返らなかった。

「来て。お願い」

服従しなければならないのだろうか?彼女はローマ皇帝の娘だ。だから、彼女には服従しなければならないのだろうか?彼は動かなかった。

「相変わらず頑固なのね」ルッシラはそう言いながら彼の目の前に来て、胸が触れるほど近くに立った。「わたくしはただ、奇襲攻撃に参加しないように父を説得してくれた事にお礼を言いたかっただけよ。」

「姫君、もう陛下にはご無理です。ぎりぎりの装備で、夜をついて行軍しなければなりません。困難で、危険な任務です。」

「でも、本当に必要なことなの?ローマの栄光のために命を賭けなくてはいけないの?」

「そうです。」

彼の深い声を聞いて彼女は背中がぞくぞくした。ルッシラは彼の右手に手を伸ばした。彼は避けようとしたが、彼女はその手首を掴んで引き寄せ、握り締めようとした指を無理矢理開かせて、親指で彼の掌、指先、手の甲と撫でていった。彼女は彼の手から力が抜け、呼吸が乱れるのを感じて満足した。「あんなに昔のことなのに、まだ恨んでいるの、マキシマス?」

「恨んでなどおりません、姫君。」

「ルッシラと呼んで、昔みたいに。」

彼は手を引っ込めようとしたが、彼女はもう一方の手で彼の手首をがっちりと掴んで引き戻し、愛撫を続けた。彼はとうとう彼女の親指をつかんで止めさせた。

彼女はくすくす笑った。「マキシマス、わたくしをルッシラと呼びなさい。」

彼は拒否した。

「お願い。」

彼は黙ったままだった。

彼女は苛立ちのあまり抑えがきかなくなっていた。「これは命令よ。」ああ、望んでいたのはこんなことではなかった。彼女は彼に近づいたが、彼は一歩下がり、腕を強く引いて彼女の手を振り払った。

ルッシラ」彼はそれだけ言って背を向けた。

「マキシマス、ここでわたくしと話をしないつもりなら、近衛隊にあなたをテントから引き摺り出させて、わたくしと謁見させるわよ。わたくしはやると言ったらやるわ。知っているでしょう?必要なら、あなたを鎖で繋いででも。」

そうだ、あなたはそういう人だ。彼は背筋を伸ばして彼女の方を振り返り、無理に冷静な礼儀正しい声を出してみせた。「姫君、それほど緊急に話し合いたい議題とは一体何でしょうか?」彼はルッシラの侍女が三人、テントの入口のカーテンに隠れてくすくす笑っているのに気づいた。さぞ面白い見せ物だろう。せいぜい楽しむといい、と彼は思った。

「わたくしは…カシウスの件で手紙を出した時、すぐ行動してくれたことに感謝を…」

マキシマスは顎を上げ、たっぷり皮肉をこめて言った。「そのお礼ならもう伺いました。」

彼女は無視して続けた。「それに、弟のことで相談があるの。」

「コモドゥス?今度はどうなさったのです、あなたの弟君は?」

ルッシラはケープの下で腕をさすった。「マキシマス、ここは寒いわ。中に入らない?」彼女は甘えた声で言った。

「お断りします。」彼は小声で、しかしきっぱりと言い、首を振ってその言葉を強調した。

「母が死んで、コモドゥスは想像以上に取り乱しているわ。ずっとふさぎ込んでいるか、でなければ奴隷たちに八つ当たりしているの。マキシマス、怖いのよ…あの子、気がおかしくなりかけているんじゃないかと思うの。あの子は危ない状態になってる…なのに父は読書や執筆や戦争に夢中で気づいていないわ。ここに来たのは…ひとつには弟からしばらく離れたかったからなの。あの…あの子は…」彼女は息を飲みこんだ。

そのうち沈んだ声は言葉よりも多くを語っていた。関わるまいと思いながらも、マキシマスは彼女が心配になってきた。「お父上にその事を話されましたか?」彼は優しく訊いた。

「ええ。でも父は心配していないようなの。根拠のない心配だと笑われたわ。」

「私にどうしろと?」

「父はあなたの言うことなら聞くわ。今言ったことを、あなたが父に話してくれれば、きっと耳を貸してくれるわ。」

「しかし、陛下は私が最近コモドゥスに会っていないことをご存知です。直接見たわけではない人間の意見を信用されるでしょうか?」

ルッシラは彼に近づいて、鎧の肩飾りのすぐ下の腕を掴んだ。「それなら、ローマに来て自分の目で見て。」

マキシマスは笑みを浮かべた。ラパックス連隊に来て以来、彼女に見せた初めての笑顔だった。しかしそれは、彼女が恋焦がれていたやさしい笑顔ではなく、皮肉な嘲笑だった。「ルッシラ、私にはここでやらなければならないことが沢山あります。ローマへなど行っている暇はありません。」

「奇襲は他の人にやらせて、わたくしとローマへ来て。」彼は彼女の親指がじらすような手つきで二の腕を愛撫するのを感じた。

そういうことか。全部、ローマへ来させるための策略だったのだ。「あなたの話がまるっきりの出鱈目でないと、どうしてわかります?」

彼女は腕を握っている指に力をこめた。爪が肌に食い込んだ。「わたくしのことなど二度と信じないという訳?」

青い瞳が、緑の瞳を睨みつけた。「そうだ。」

これでたじろぐかと思いきや、ルッシラはさらに身体をすりよせて彼の口に口を寄せて囁いた。「やらなければならないことをしただけよ。」彼女は唇を寄せたが、彼がさっと顔をそむけたので、キスは柔らかい髭の中に消えた。ルッシラはひるまずに真鍮の鎧に胸を押しつけ、彼の腕をぎゅっと掴んだまま頬と耳に舌を這わせた。鋭い爪が食い込み、彼はじっと動かずにいた。その腕がどんなに強いかはわかっていた−その気になれば簡単に振り払えるはずだ−しかし、彼も彼女と同じように燃え上がる感情に呑み込まれて動けないように見えた。彼はゆっくりと振り返り、唇を寄せた。彼は彼女の髪を掴んだ。最初は痛いほど強く、それから優しく巻き毛を撫で上げ、頭に辿り着いて指で地肌をかき上げた。キスも手と同じように、はじめは強く、舌で唇を愛撫する時は優しく、そして彼女の開かれた口の奥深くへと激しさを増していった。彼は彼女のケープの下に腕を廻してその腰を自分の腰にしっかりと押しつけた。どんなに彼女を欲しがっているか、はっきり伝わった。ルッシラはうめき声を上げた。何年も秘めていた思いが股間に溢れ出し、脚を濡らしていた。彼女は彼の髪をまさぐり、首をつかみ、背中が鎧に包まれているのに苛立った。彼女は片手で首の後を手が届く限り撫で下ろし、もう一方の手はケープの下を撫で上げて腰の辺りの火照った肌に辿り着いた。

マキシマスは自分の身体で彼女を覆い隠し、太い柱に押しつけた。「あなたがおれに求めているのはこれか?」彼は腹立たしげに言った。 「ローマに来て欲しいのは、これのためなのか?」彼の手は乳房を探り当て、薄い布の上から固くなった乳首を指先で弄び、首に顔をこすりつけた。

ルッシラは喘いだ。彼が何を言っているのかほとんどわからなかった。「いいえ…ええ…」

彼はもう一度口を彼女の口に押し当てて両手で彼女の尻を掴んだ。彼は彼女の脚を蹴ってひらかせ、身体を彼女の身体に痛いほど強く押しつけた。「以前にもそう言ったことがあったな、憶えているか?」

彼女は鎧の横の留金を必死で手探りしていた。彼の全身が自分の身体に押しつけられるのを感じたくてたまらなかった。

彼は彼女を強く柱に押しつけた。「憶えているか?」彼は怒りをこめて訊いた。

「いいえ…いいえ…」彼女は留金をゆるめ、鎧の下に片手を差し入れて早鐘を打っている心臓の上に指を広げた。その時、近衛兵たちが4、5メートルも離れていないところを大声で喋りながら歩いてくるのに気づいて、二人ははっとした。しかし、彼らはルッシラのかわいい侍女たちに目を奪われていたので、燃え上がっている様子の男女には気づいていなかった。

マキシマスは自分の身体から彼女の手を引き剥がし、片手で両方の手首を掴んで頭の上で柱に押えつけた。「愛人が欲しいなら、誰でも好きな男を選べ。だが、おれはだめだ。」マキシマスは唸るような低い声でそう言って、急に手を離した。彼女は倒れそうになった。彼女は柱にすがりつき、くるりと背を向けて去って行く彼を見ていた。ケープが蝙蝠の翼のように翻り、身体に一瞬巻きついてから背中に戻った。

「でも、わたくしの欲しいのはあなただけなの」彼女はぽつりとそう言った。侍女が皇女をとり囲み、近衛兵たちはわけがわからないという様子で、女たちと大股で去ってゆく将軍をきょろきょろと見比べていた。

 

翌朝早く、ルッシラはみじめな気持ちで冷たい霧雨に打たれていた。雨が涙を隠してくれるのはありがたかった。マキシマスと父親は馬に乗り、コローニャへ出発しようとしていた。喇叭手が出立を告げ、重い門が開いた。彼女は黄金の鷲の徽章と、紫と金の皇帝旗が消えて行くのを見ていた。黒衣の近衛隊が皇帝の横に馬をつけた。父親は馬上で振り返り、娘に手を振った。マキシマスは馬をスタートさせ、彼女の方をちらりと振り返った。目には後悔があふれていた。彼は厳しい顔のまま、すぐに前を向いた。彼が門から去ってゆくのを、彼女の人生から再び去って行くのをルッシラは見つめていた。

ルッシラはまもなくローマへ出発した。故郷への長旅の間彼女を暖めてくれたのは、黒い駿馬に乗った将軍の幻だけだった。

 

第72章 洞窟

マキシマスは剣を握りしめてびっしりと絡み合った藪の後に身をかがめて立っていた。彼は軽い鎧を着けていた。将軍の身分を示す物はなにもない。しかし、彼に続く二百人の男たちには、誰が指揮をとっているのか一点の疑いもなかった。

一月半ば、空気は凍てついていた。地面は凍りついていたが、雪はほとんど降っていない。足跡が残らず、奇襲攻撃には理想的な天気だ。川を渡り、敵の陣地に侵入して三日になる。昼には山中の洞窟で眠り、夜間にだけ移動していた。彼らはいくつもの村の側を通り過ぎていた。探しているのはマルコマンニ族の戦士の村のみで、罪のない人々を傷つけるつもりはなかった。川を渡る前から、将軍はこの点をはっきりさせていた。目的はローマ軍兵士を殺した者たちに復讐することであり、その家族や他の部族にではない。このような作戦では、どうしても罪のないものが何人かは巻き込まれるだろう。それはマキシマスもわかっていた。しかし、彼は復讐の手段として無差別の殺戮や強姦を行なうことは厳重に禁じた。そうしたことは長い間行なわれてきたのだが。この命令に逆らった兵士は即座に、厳重に罰せられるだろう。

マキシマスは藪の隙間から眼下の谷間にある村を見た。どこをとっても普通の村に見えた。夕方で、村人は焚火のまわりを歩き回り、日常の雑事をこなしていた。みすぼらしい毛皮を重ね着をした子供たちが木の家の周りを走りまわり、母親たちの叱る声が聞こえた。

「何人ぐらいいると思う?」マキシマスは第十五プリミゲニア連隊の副官、ユリウスに訊いた。

「えーっと…せいぜい、三、四百人という所でしょうか。ほとんどは家の中いるようですから、よくわかりませんね。男はあまりいないようです。」

マキシマスはうなずいた。「男は老人しかいない。兵隊は今、留守にしているらしいな。帰るまで待つとしよう。」

「確かにここでしょうか?」

マキシマスはもう一度うなずいた。「村の北側に集会所がある。戸口の上を見てみろ。」

ユリウスは息を呑んだ。「ゲルマニカ第二の鷲章旗です!」

「そうだ。記念に飾っておくにはぴったりの品だ。確かに、この村だ。」彼は後を振り返り、人ひとりいないように見える丘を見た。「一度に数名づつ洞窟に戻るように皆に伝えろ。それから、ジョニヴァスを呼んでこい。」

技師の息子はすぐに現れた。将軍の役に立てることに興奮していた。「ジョニヴァス、頼みたいことがある。私はこれから部下を連れて洞窟に戻る。君は他の三人の斥候と共に村の近くに潜んで、兵隊たちが戻ってきたら知らせてくれ。長くかかるかもしれないから、じっくり落ち着いて待て。…それから、くれぐれも用心しろ。何があっても見つかってはいけない。捕まっても助けに行けないかもしれない。」

「はい、将軍、了解しました。」

「よし、これを着て行け。」マキシマスは黒い毛皮を自分の肩から外し、若者の肩をつつんだ。

「なくても大丈夫です。」

「いや、必要だ。君は長い間外にいなくてはならないし、だんだん冷え込んでくる。おれより君の方が毛皮が必要だ。おれは洞窟の中、暖かい火のそばで寝そべっていられるんだからな。」マキシマスは少年のぼさぼさの髪を愛情をこめてくしゃくしゃとなで、音もなく闇に溶け込んで行った。

 

洞窟の中ではほとんど会話は交わされなかった。全員、あちこちの連隊からその優れた能力を買われて集められた兵士たちだった。マキシマスが個人的に知っている兵士はほとんどいなかった。奇襲攻撃を行なう直前にミーティングをする予定だった。それまでの時間、ほとんどの兵士は眠っていた。大きないびきが洞窟の壁に反響していた。

マキシマスは小さな焚火を見つめていた。火花が渦を巻いて立ち上っては消え、また別の火花が続いた。彼は固い地面の上でなんとか楽な姿勢を見つけようとしたが、やがて諦めた。この洞窟の固いじめじめした床に寝れば、背中が痛くなるのは避けられないだろう。彼は横向きに寝て腕に頭を乗せ、心をさまようにまかせた。たちまち、栗色の髪に緑の瞳の魅惑的な女が心に忍び込んできた。靄がかかったような曖昧な姿が目の前をひらひらと動き回り、手招きしていた。マキシマスは激しくまばたきして幻想を追い払おうとしたが、ルッシラは彼を苦しめ続けた。

数週間前のあの夜の、彼女への態度。彼は自分に嫌気がさしていた。たしかに、誘惑してきたのは彼女の方だが、彼の方も強く拒否したとは言えない−彼女にあそこまでさせたのは自分だ。彼も共犯者だ。そうではないと、自分をごまかすことはできなかった。ローマへ連れて行こうとする彼女の企みに苛立ちながらも、彼女と愛し合おうとしていた。10年前、彼女は近衛隊に入って秘密の恋人になって欲しいと彼に懇願した。彼女はまだその望みを捨てていないように思えた。彼が軍で高い地位につき−しかも、結婚しているにもかかわらず。

マキシマスは起き上がり、棒で焚火をつついた。暗闇の中で火花が踊った。もし、あの近衛兵たちが通りかからなければ、二人はどこまでいっていただろう?欲望の命じるままに、士官兵舎の真ん中で柱にもたれたまま彼女を抱いただろうか?それとも理性が勝ったか?考えてもわからなかった。ひどく落着かない気分だった。彼に道徳の壁を突き破らせ、行きたくない所まで誘い込むことができるのはこの世でルッシラだけだろう。

マキシマスは膝を抱えて身体を暖めようとした。彼の目は取り憑かれたように炎を見つめていた。彼女に手紙を書いて、許しを乞うべきだろうか?彼がしたことに対して−あるいは、しなかったことに対して?彼女に言うべきだろうか−あの時、コローニャに発つ皇帝を放り出して馬を回し、彼女の腕の中へ駆け戻るところだったということを?白状すべきなのか−彼女に逢って以来、毎晩彼女の夢を見て目覚めると−嵐のように激しく残酷な、満たされぬ欲情とともに。

もしかしたら、この戦闘が一段落したらローマへ行くべきなのかもしれない。彼はローマを見たことがない。ローマ軍の将軍としては、むしろ行くのが当然なのかもしれない。それに、彼女はそこにいる…彼を待って…

ひとりの女を愛しているのに、これほど強く他の女を欲するなんてことが有り得るだろうか?いや、もっと悪いかもしれない。マルクスが言った通り、自分はまだルッシラに、肉体的な欲望以上の気持ちを持っているのだろうか?

10年前のあの時ルッシラの願いを聞き入れていたら、彼の人生は今ごろどうなっていただろう?オリヴィアを愛しているにもかかわらず、マキシマスは時々それを考えてみていた。ローマで幸せに暮らしていただろうか?それとも、彼女は彼に飽きてしまっただろうか?あるいは、彼が彼女に飽きたか?都会暮らしが性に合うとはとても思えなかった−たとえ、それがローマでも。しかし、本当はわからないのだ−都会に住んだことはないのだから。

一体どうして、遠い昔に決断してしまったことを今更考えたりしているのだろう?マキシマスは火の向うの暗闇を見つめた。生まれてから、これほどの孤独を感じたのは初めてだった。まるで、地上に生き残った最後の人間のようだ。暗闇と孤独の中で永遠に生きるよう呪いをかけられているようだ。彼は自分の人生のあらゆる面に深く根を下ろしている不満を思った。自分は将軍だ。だから何だ?将軍になったことが、どんな喜びをもたらしてくれたというのだろう?結婚もしている…しかし、家族は遥か遠いところにいる…一番そばにいて欲しい時にはいてくれない。マルクス・アウレリウスは彼を息子のように愛してくれている。しかし、本当の父親はいない。友人は多いが親友はほとんどいない。将軍という地位が他の兵との間を隔てていた。それはその職務−彼らの生死を決める決断を下すという職務のせいだ。

多くの人の尊敬を集めているが、それがなぜなのか、自分ではいまだによくわからなかった。詐欺をしているような気分だ。本当は身分低い、田舎の農夫に過ぎないのに…

マキシマスはさっと立ち上がり、洞窟の湿った、冷たい壁を手探りしながら入口へ向かった。あれこれ不満を数えているうちに考えが危険な領域に近づき、頭を冷やす必要があった。外に出ると、彼はでこぼこした岩にもたれて深く息をつき、感情を落ち着かせようとした。吐く息が白い小さな雲になり、消えてはまた別の雲が現れた。彼は新月を見上げ、オリヴィアも同じ月を見ているだろうかと考えた…ルッシラも?

あの村の男たち、女たちも同じ月を見ているだろうか。彼がこれから命を奪おうとしている人々も。

しばらくここを離れて、どこかへ行きたくてたまらなかった。ローマでもいい…

「将軍!連中が帰ってきました!」

マキシマスははっとしてジョニヴァスの方を振り返った。少年は将軍の悲しげな顔に驚いて立ち止まった。マキシマスは急いで表情を変えたが、その微笑は目までは届いていなかった。「よくやった。何人ぐらいいそうだ?」

「かなりの人数です。五百人以上かもしれません。」ジョニヴァスはけげんそうに将軍を見た。「将軍、ご気分でも?」

「大丈夫だ。連中は武器を持っているか?」

「がっちり武装しています。ローマ軍の剣と盾もありました。」

マキシマスはジョニヴァスの肩をたたいた。「よくやった。」彼はこの少年が気に入っていた−いや、もう少年とは言えない。20歳ぐらいだろう。「これからミーティングをする。君は少し眠るといい。」

「将軍、私も行かせて下さい。」

マキシマスは首を振った。「このような任務に参加するには君は経験不足だ。それに、君のような有能な斥候を失うわけにはいかない。いいから休め。」

マキシマスは独り立って闇を見つめ、枯れ枝を吹き抜ける風の音を聴いていた。冬の夜、聞こえるのはその音だけだった。その寂しい音は間もなく始まる血みどろの闘いを告げているようだった。

 

第73章 闘いの後

マキシマスは自分の腕をつたい落ちる血を見ていた。彼は前腕に負ったいくつもの裂傷から流れ落ちる赤い小川を目で追った。血は手をつたい、指を這って、足元に横たわる男の生命のない顔にぽたぽたと落ちていた。彼の血はその男の血と混ざり合い、土の床にしみこんで深紅に染めた。

屋根の低い木の家の内でも外でも、悲鳴が上がっていた。マキシマスはその声も聞こえない様子でその場に立ち尽くし、マルコマンニの族長との決闘で失った体力を回復しようとしていた。彼は族長の寝込みを襲った。マキシマスは敵より小柄だったが、不意打ちをかけただけ有利だった。スピードと剣の腕も優っていた。男は藁の寝床の下に隠した斧を取り、マキシマスの頭めがけて思い切り振った。その隙に彼の妻は叫び声を上げて助けを呼んだ。しかし、その時には他の兵も自分の命を守るのに精一杯で、族長を助けに行くことは出来なかった。血の飛び散った壁と、やはり深紅に染まった二人の将の服が闘いの凄まじさを物語っていた。まだ立っている方の男は肩で息をしていた。

族長の妻はマキシマスに向かってヒステリックな叫び声を上げ、二人の子供を背中に庇うようにして部屋の隅にうずくまった。彼女は手に顔を埋めてすすり泣いた。それから顔を上げ、ローマの戦士に命乞いをするように震える手を差し伸べた。マキシマスは両手を上げてこれ以上何もするつもりはないことを示した。彼は足元の、もう何も見ていない目をちらりと見下ろし、死体をまたいで行った。床に倒れて死んでいたのは自分の方だったかもしれないのだ。マキシマスは族長の妻に最後の一瞥をくれた後、ドアを開けて夜気の中へ出ていった。

地面はマルコマンニ族の戦士の死体に覆い尽されていた。ローマ兵が村中を歩き回り、死んだふりをしている者を見つけ出そうと死体をつつきまわし、致命傷を負っている者にはとどめを差していた。集会所は外からドアを塞がれ、二人の兵が見張りに立っていた。中から女たちと子供たちの泣き声が聞こえた。あちこちの家から小さな炎が上がり、寒風に煽られて急速に勢いを増していた。雪がちらちら舞い出していたが、それでは火は消えそうにはなかった。

マキシマスは近くにいる兵士たちに「火を消せ!」と命令した。

「は?この村は焼き払うのだと思っておりましたが…」

「いや。女子供と年寄りたちには雨露しのぐ家と食べ物が要るだろう。村はこのままにして行く。」

「でも将軍、こいつらは我々の基地を全滅させたんですよ!」

「我々の基地には女子供はいなかった。さあ、命令どおりにしろ。」

多くの兵が信じられないという様子で顔を見合わせた後、しぶしぶ土を蹴って炎に掛け始めた。ユリウスがマキシマスに近づいて来た。

「将軍、兵士たちは不満のようです」彼は小さい声で言った。

「かまわん。ユリウス、あの集会所の中にいるのが自分の家族なら考えも変わるだろう。男がいなくなって、この時季に生きて行くだけでも大変だろう。」

ユリウスはうなずき、虐殺の跡を見回して言った。「大成功でしたね。」

「そうだな。敵の戦死者は何人だ?」

「539人まで数えました。」

「味方の戦死者は?」

「今のところ、46人です…いないも同然ですね。」

「『今のところ』というのは?」

「3名が行方不明です。」

「重傷者は?」

「数名。将軍も軍医が必要かとお見受けしますが。」

「ほとんどは自分の血じゃない。兵士以外の死者は?」

「20名あまりです。味方を援護しようとした老人が数名、武器を取った女が11人、男の子供は4人、女の子がひとり。」

マキシマスは手の甲で目をこすった。顔についた血が余計に広がった。「ユリウス、これから見て回る。その間に火が消えたことを確認してくれ。そうしたら引き上げる。この虐殺のことが知れ渡る前に向う岸に戻らないと。」

「はい、将軍。」

マキシマスの立っている所からはほとんど村中を見渡すことができた。彼は小屋の後側へ回って、味方の負傷兵が見過ごされていないかどうか確認することにした。部下を全員−戦死者も含めて−確認してからでなければ出発するつもりはなかった。剣を手に持ったまま、彼は瓦礫や枯葉をつつきまわし、崩れた家から板切れを拾い上げて怯えた羊や山羊を追い払いながら納屋を調べた。

村を半分ぐらい調べたところで、彼は行方不明の兵士たちを発見した。三人は自分たちのしていることに夢中で、将軍に気づかなかった。彼らは十二歳ぐらいの亜麻色の髪の少女を地面に組み敷いていた。二人が少女の腕と脚を大きく広げておさえつけ、もう一人が彼女を荒々しくレイプしていた。仲間たちが野卑な言葉で彼をけしかけていた。怯えきった子供はとうに抵抗する力を失い、苦痛に目をぎゅっと閉じ、声にならない叫びに口を開いて横たわっていた。

少女はローマ将軍の剣が自分の左側の男の首に弧を描いて振り下ろされたのを見なかった。その首が地面に跳ねて転がり、同時に胴体が、首に空いた穴から血を吹き上げながら後ろに倒れたのも見なかった。右側の男が手を顔の前に上げたのも、将軍の剣が再び飛んできて彼の首と手を同時に飛ばしたのも、彼女は見ていなかった。

少女は自分を襲っていた男が膝をついて起き上がったのも見てなかった。彼の顔からもペニスからも血の気がさっと引き、目は声にならない哀願の表情で処刑者を見つめていた。その男の悲鳴を聞いて少女はやっと目を開けた。彼の背中に剣が刺さった瞬間、悲鳴はだしぬけに止んだ。剣が背骨を砕く胸の悪くなるような音が聞こえ、彼はこと切れて後ろ向きに倒れた。ズボンを足首のあたりまで下ろしたままで。

マキシマスは血塗れの剣を放り出し、膝をついて怯えた子供に腕を伸ばし、抱き寄せた。彼は少女を守るように抱いて優しい声で囁きかけた。言葉が通じないのはわかっていたが、その声の調子でもう大丈夫だということを感じてくれればいいと思った。彼は少女の細い、裸の脚を出来るだけ覆って立ち上がり、彼女を胸に抱き寄せた。

彼は集会所の方向に一歩踏み出したところで足を止めた。小屋の横にユリウスが立っていた。蒼白な顔をして、マキシマスと地面の死体を見比べていた。

マキシマスは何も言わなかった。自分の行動を言訳けするつもりはなかった。誰にも。

「あ、あの…その、戦死者と負傷者は全員集め終えました。死体を残していって、村の女たちに切り刻んだりさせたくありませんから。」

マキシマスはうなずいた。

ユリウスはたった今目撃した処刑にひどく動揺していた。彼は地面の上の死体に視線を戻した。

「こいつらは放っておけ」マキシマスは低い声で言った。

「しかし…」

「こいつらの死体は女たちの好きなようにさせるといい。こいつらにローマ人と呼ばれる資格はない。」

「はい、将軍。」

少女はしくしく泣き始めた。マキシマスは彼女を抱き寄せた。「女を一人連れて来い。早く!」

ユリウスは急ぐあまり少しよろめきながら、その凄惨な光景に背を向けて去った。彼はすぐに、二人の兵士に腕をつかまれた女を連れて戻って来た。彼女は首のない死体を見てぎょっとしたが、その死体がローマ人のものであるのに気づいて、恐怖は混乱に変わった。彼女はマキシマスとその腕の中の子供を見た。彼は少女を女の方へ突き出した。彼女の目がわかった、と言うように光るのを見て、彼はほっとした。女は腕を広げて子供を抱き寄せ、マキシマスに一度だけうなずいてみせてから急ぎ足で去っていった。少女の長い金髪が後にゆらゆらとなびいていた。

だんだん激しくなってきた雪がすぐに二人の姿をかき消した。マキシマスはおし黙ったまま、二人が消えた空っぽの、真っ暗な場所を長い間じっと見つめていた。

「将軍…?」とうとう、副官が声をかけた。

「ユリウス、部下たちを連れて南進しろ。出来るだけ早く川を渡れ。」

「将軍はどうなさるのですか?」

「後からすぐ行く。行け。」

ユリウスは彼を残して行くことをためらった。「将軍…」

「行け」マキシマスはもう一度、静かに言った。

独りになったマキシマスはチュニックの下に手を差し込み、いつも心臓の近くに身につけている二つの小さな像を取り出した。どうしても今、これを手に取りたかった。彼は二つの彫像を順番に唇に持って行き、くちづけした。

マキシマスは最後のローマ兵が村を去るまで待ち、それから集会所の入り口の前の二段の階段を登った。彼は爪立ちになって、ゲルマニカ第二連隊の鷲章旗をその不名誉な場所からもぎ取った。灰色の木の柄が裂け、黄金の鷲が彼の手に飛込んで来た。彼はドアの閂を外し、背を向けて村の門の方へゆっくり歩いていった。剣は腰につけたままで、右手に鷲章を掴んでいた。左手の中には二つの小さな人形を大事に握っていた。

ドアが軋みを上げて開き、女たちが顔をのぞかせた。雪が激しく降り、曙光を覆い隠していた。女たちは去ってゆく後姿を見て、せわしなく言葉を交わした。何人かの女は、ひとりきりのローマ人に向って脅しと侮辱の言葉を叫びながら、なんとか武器になりそうな物をつかんで出てゆこうとした。しかし、一人の女が仲間をかき分けて前に出てきて、ローマの将軍の姿を認めた。彼女は怒れる女たちの前に手を広げ、鋭い口調で仲間を止めた。彼女は声に出さずに、マキシマスに早く行けと促した。しかし、彼はそのゆったりとした歩調を変えようとはしなかった。それどころか、彼は立ち止まって振り返った。刺すような青い瞳の視線は女たちの中にひとり見知った顔を見つけた。彼は少しだけうなずいた。彼女は挨拶を返した。彼は黄金の鷲を頭上に高く掲げて背を向けた。そして、まるで幽霊の様に、渦巻く白い雪の中に溶けて行った。

 

第74章 ヴァンドボーナ

マキシマスはヴァンドボーナ基地の門をくぐり、部下たちの暖かい歓迎を受けた。

「お帰りなさいませ、将軍」ひとりの兵が大声で言った。「やっとお帰りになられて嬉しいです。何ヵ月にもなりますね。」

「帰って来られて嬉しいよ」マキシマスは心から言った。彼は友人たちの嬉しそうな顔を見回しながら、またすぐに出発するつもりだという事をどう言おうか、と考えていた。ここには手紙を受けとって、自分のベッドで数夜眠るために寄っただけで、すぐまた出陣しなければならない。他の砦を視察し、他の連隊を率いてまた戦闘に赴かなければならない。そして、この戦争がなんとか一段落したらスペインに帰りたかった。妻と息子の顔を見る必要があった。

彼は馬上から手を伸ばし、差し伸べられた手を順番に握りしめていった。ゲルマニア軍基地への奇襲に始まった西ゲルマニア戦線での連戦連勝の知らせは、ヴァンドボーナにも届いていた。彼の部下たちは誇らしさでいっぱいだった。彼は北部軍全軍の司令官でもあるが、この連隊の者にとっては「我らが将軍」なのだ。

彼は馬を降りて手綱を待ち構えている兵に渡し、寄り道はせずに真直ぐ家へと向かった。ハーキュリースが足元をついて来た。彼は歩きながら基地を見回し、全てがきちんと機能している様子に満足した。クイントスはいい仕事をしているようだ。

マキシマスは遠くに子供の姿を認めて歩調をゆるめた。小さい男の子のようだ。兵士たちとボールを蹴って遊んでいる。通常では考えられないことだ。基地内は子供にとって安全な場所ではなく、兵士たちが家族を連れて来ることは許されていない。クイントスがこの点で基準をゆるめたのでなければいいが、とマキシマスは思った。この問題には後で対処することにして、彼は家の方へ歩き続けた。しかし、ハーキュリースは立ち止まり、好奇心に耳をぴんと立てて子供を見つめた。「ハーキュリース、あの子と遊びたいのか?怖がって逃げてしまうんじゃないかな?」大きな犬は少しだけためらってからご主人の後をついて歩き出したが、またすぐに邪魔が入った。技師のジョニヴァスが士官兵舎の入口に立っていた。彼は膝を叩いて犬を呼んだ。

マキシマスはジョニヴァスに向かってにやりとした。「いつからハーキュリースとそんなに仲良くなった?」

「このワンちゃんのことはずっと気に入っていましたよ」ジョニヴァスはマキシマスについて行こうとする犬の首輪をつかんで止めた。「お帰りになられて嬉しいです。息子がたいへんお世話になったそうで」マキシマスは手を振っただけで歩き出した。

彼は毛皮をベッドの上に放り出し、ケープの紐を解きながら恋焦がれていた寝床を見下ろした−めったに帰れない、自分の寝床だ。しかし、部屋の様子が何か違う。彼は手を止めた。おかしな匂いがする。彼は目を上げた。既にランタンが一つ灯っていたが、彼は急いであと二つに火を入れ、部屋を明るくした。

彼は一瞬、ベッドの後の壁を呆然と見つめた。彼はためらいがちに手を伸ばして鮮やかに彩られた壁を指先でなぞった。それは彼の故郷だった。スペインの我が家の、道の方から見た姿だった。丘の上に立つ彼の家、家を囲む熟れた果樹と、刈り入れるばかりになった穀物の畑。遠くの丘で遊ぶ子馬たち。敷地を囲む石の壁、家へ続く道の両側に並ぶ背の高いポプラの木々。門の脇には、ひときわ大きなポプラが誇らしげに聳え立ち、その根元を美しい野の花が囲んでいた。娘が埋葬されている場所だ。紺碧の空、本物と見まごうばかりの白い雲。風景の隅々までが黄金の陽光に包まれていた。壁画は壁いっぱいを覆っていた。

これはどういうことだろう?どうしてポリビウスが彼の故郷の風景を知っているのだろう−マキシマスの私物をあさってオリヴィアの絵を見つけたのでなければ?そんなに大胆な事をするだろうか?

マキシマスは混乱し、苛立ちながら振り向いてドアの方へ向かったが、左側の壁を見て立ち止まった。彼は驚きのあまりぽかんと口をあけた。壁一杯に黒い駿馬に乗った彼自身の姿が等身大で描かれていた。絵は部分的に未完成だった。その軍服は細かいところまで正確に描かれていた。鎧も、大きく波をうっているケープも、毛皮も完璧だった。そして彼の姿は気持ちが悪いほどそっくりだった。絵の中の彼の姿は王者のように誇り高く、しかしその瞳と唇に微かに浮かんだ笑みには、将軍の鎧の下にひそむ生身の男が描き出されていた。彼の後にゲルマニアの風景が広がっていた。ドナウ川の青、山脈の紫、森の緑。

「一方の壁にはあなたのいる所、もう一方には帰るべき所を描くのがいいと思ったの。」入り口から声がした。

マキシマスは咽喉のあたりで息がつまるのを感じた。手足から血が引き、身体が震えた。視界が霞んでフレスコ画の中の自分がぼやけて見えた。

「マキシマス?」オリヴィアは彼に駆け寄った。彼は震える腕で彼女を抱きとめ、その髪に顔を埋めて手放しで泣いた。彼の妻は優しい言葉をそっとつぶやき、彼の頬、耳、首とキスをしていった。彼女の目もうるんでいた。

マキシマスはかすれた声で囁いた。「どうして会いたいのがわかったんだ?」

「私も同じぐらい会いたかったからよ。ああ、マキシマス、本当にさびしかったわ。」

キケロが微笑んで寝室のドアをそっと閉めたのには二人とも気づいていなかった。ハーキュリースがオリヴィアに飛びつこうとしたのを止められて不満の声をあげたのも聞いていなかった。

「いつ…」マキシマスが言いかけた。

「もう36日もここにいるの。あなたが戦争に行っている間、病気になるぐらい心配していたのよ。」オリヴィアは彼の顔に両手をあてて唇で涙を拭った。「『来るべきじゃなかった』なんて言ったら承知しないから。」

「来るべきじゃなかった。でもそれは言わないことにする。」マキシマスは妻を固く抱きしめた。極度の疲労と、ゲルマニアで妻に会えた驚きで手が震えるのをなんとか抑えようとしていた。「祈りが通じたらしいな」マキシマスは彼女の顔を見つめて言った。「君は綺麗だ。」

「あなたはひどい恰好。それに馬のにおいがするわ。」オリヴィアはからかった。「お風呂の絵も描かなきゃだめかしら?」そう言いながらも、彼女は夫の腕の中から出て行くそぶりも見せなかった。

「兵士と遊んでいた子はマルクスだったのか。気がつかなかった。ずいぶん大きくなったな。」

「次の誕生日には5歳になるのよ。もう赤ちゃんじゃないわ。」

「そうだな。可愛い盛りを見逃してしまったようだ。」

「これからその埋め合わせをすればいいわ。あなたに会えるんで、すごく喜んでいるのよ。」

「今度はおれのことを憶えているかな?」

「マキシマス、私が壁にあなたの絵を描いている時、ちょっとでも間違うとあの子は文句を言うのよ。あの子はあなたのこと、本当によく憶えているわ。」

「今は誰が面倒を見ているんだ?」

「ペルシウス叔父さんよ。私が説得してついて来てもらったの。弟はずいぶん心配していたけど、ついて来なければ私だけで行ってしまうだろうからって」

マキシマスは何も言わずにうなずき、彼女の髪に頬を寄せて目を閉じた。彼は深いため息をついた。「頼みがあるんだ。」

「何でも言って。」

「農場の壁画に、君とマルクスを描いてくれないか?あの大きなポプラの木のそばに。」

「もちろんよ」オリヴィアは囁き、彼の頬をなでた。「気に入った?」

「とても言葉にならないほどだよ。素晴らしい。」マキシマスは彼女を、息がつまるほどぎゅっと抱きしめた。

ようやく息ができるようになると、オリヴィアは言った。「あなたは大変だったみたいね。」

彼女の夫はため息をついて囁いた。「そうだな。時々、おれはただの人間じゃなくて神様か何かだと思われているような気がする。」

「神様みたいな人ってこと?」オリヴィアは訊いた。

「家族に会えればそれでいいっていうような、ただの男なのにな。」

「家族はここにいるわよ。あなたがいてほしいだけここにいるわ。」

「それは無理だよ。」

オリヴィアは首をかしげた。「どのぐらいいてほしいの?」

「永遠に。」

彼は彼女がくすくす笑い出したのをキスで止めた。それは永遠に続くような激しいキスだった。

 

マキシマスは子供とボール蹴りをしている兵士たちの方へ歩きながら口に指を当てた。ちょっとの間だけ、こっそり息子を見ていたいという合図だ。息子はずいぶん成長していた−もうこの前会った時のようなよちよち歩きの幼児ではなく、逞しい小さな少年だった。走ったりジャンプしたり蹴ったりする動作も、滑らかで力強かった。

兵士たちがボールを蹴りそこなった時につぶやく言葉がいつもより上品なのに気づいて、彼はにやりとした。将軍の息子と美しい黒髪の奥方に敬意を表しているらしい。彼が帰るのを待ち焦がれている間に、二人は基地の兵士のほとんど全員をすっかり魅了してしまっていた。

ペルシウスがマルクスにボールを蹴ったが、わざと外して子供の後へそれるようにした。ボールははねて、マキシマスの足元に転がった。彼はブーツの足でボールを止めた。マルクスはボールを目で追って、戻ってくるボールを受けようと振り返った。後ろにいる男が蹴り返してこないので、彼はびっくりした。少年はその足のついている身体をゆっくりと見上げた−長いケープと毛皮、飾りのついた真鍮の鎧、ワインレッドのチュニック。男が背をかがめたので、見覚えのある髭面が視界に入ってきた。

「パパ?」マルクスはそれが本当に父親なのか、夢と憧れが人の姿の幻になって現れただけなのか、よくわからないようだった。

マキシマスはうなずいてにっこりした。そして手を広げ、ためらうことなく駆け寄って来た息子を抱きしめた。

将軍が息子を胸に抱き寄せたとたん、何人かの兵が急に背を向けて鼻をかんだ。彼の大きな手は少年の頭をほとんど覆い隠していた。少しの間黙って抱き合った後、マキシマスは指で目許を拭って息子をひょいと肩に乗せ、義弟に手を差し出した。「ペルシウス」

若者の顔に安堵が広がった。「また会えて嬉しいよ、マキシマス。それに、怒ってなくて本当によかった。」

「本当は怒らなきゃいけないんだけどな。妻と息子には危険すぎる旅だ。でも、正直言って嬉しかった。たぶん、君には想像がつかないぐらいにね。連れて来てくれてありがとう。」

「ま、僕がついて来なけりゃ、オリヴィアは一人でも行ってしまっただろうからね。」

「そうだな。」オリヴィアの頑固な性格は二人ともよく知っていた。

「本当のことを言うと、タイタスたちには何も言わないで来ちゃったんだ。ここに着いてすぐ手紙を出したんだけど、返事が来て…ものすごく怒ってる。」

「おれがタイタスに手紙を書いて、何も心配はいらないって言っておくよ。」

「助かるよ。」ペルシウスは腰に手を当てて基地を見回した。「いい所だね。みんなすごく親切だ。将軍と親戚だといろいろ得なこともあるみたいだね。」

マキシマスは笑った。「そのようだな。」久しぶりに笑うのはとてもいい気分だった。彼は息子を見上げた。マルクスは父親の額に顎をのせて、彼を見下ろしてにっこりした。周りの兵士たちは、少年が笑うと父親そっくりになることに気づかずにはいられなかった。他のところは、母親似なのだが。「さあ、マルクス、ママを探しに行こう」マキシマスは息子の足首をしっかり握って、オリヴィアが待っている士官兵舎の方へ向かった。

「パパのお馬はどこにいるの?」

「厩にいるよ。」

「見に行っていい?」

「今すぐかい?」

マルクスはうなずいた。

「長くてたいへんな旅から帰ったばかりで、とっても疲れているんだよ。」

「ママが壁にお馬の絵を描いたんだよ。」

「ああ、見たよ。」

「お馬に乗ってるパパの絵も描いたんだよ。」

「それも見た。ママは本当に絵が上手だな。なあ?」

マルクスはうなずいた。マキシマスが厩へ向かってゆっくりと大股で歩いて行く間、息子と父親はお喋りを続けていた。

士官兵舎の入口で、キケロはオリヴィアの隣に立った。「ほらね」キケロは彼女に言った。「申し上げましたでしょう?心配なさることはありませんって。」

オリヴィアは微笑んで従者の方を見た。「マルクスがマキシマスについて行くのをためらったりしたら、どうしようかと思ったわ。」彼女は大きなため息をついた。「キケロ、お風呂の用意をしましょう。今夜、馬のにおいのする人と一緒に寝るのはいやよ。」

 

第75章 風呂

マルクスはパパの羽根飾りのついた兜を頭にのせて、なんとかバランスとろうと四苦八苦していたが、ついにあきらめた。小さな子供には重過ぎる代物だった。兜は大きな音を立ててモザイクの床に落ちた。

「マルクス、何をしているの?」母親が浴室から声をかけた。

「べつに」頼りない答えが返ってきた。

オリヴィアとマキシマスは顔を見合わせた。オリヴィアは天を仰いで立ち上がり、湯舟の中でくつろいでいる夫の側を離れた。彼女はストーラで手を拭きながら、息子がどんないたずらをしているのか調べに寝室へ向かった。

マキシマスはワインを一口すすり、妻の笑い声が聞こえて来ると満ち足りた微笑みを浮かべた。彼女は息子を連れてすぐに戻って来た。息子はマキシマスのケープと重い灰色の狼の毛皮をまとっていた。長いワインレッドのケープは後で床の上に広がり、毛皮は濡れたタイルの上をずるずると引きずられていた。マルクスのすぐ後をハーキュリースがついて来た。犬は何度もケープを踏みつけ、その度に衣装は子供の細い肩から落っこちそうになっていた。

「床が濡れているわ。汚さないようにしなさい」オリヴィアが叱った。

「かまわないよ。ケープも毛皮もどうせもうぼろぼろなんだ。雨だろうと雪だろうと着ているし、戦闘にも着て行くからね。状況によっては、くるまって寝ることもあるんだ。あれ以上汚れることはないよ。」息子が自分の想像した将軍の仕草を真似て頭を真直ぐにし、膝を高く上げて湯舟の周りを行進するのを見てマキシマスは微笑んだ。

「パパの剣はどこにあるの?」

「剣?剣はおもちゃじゃないよ。危ないからね。」

「でも、将軍は剣を持ってなくちゃ。」

オリヴィアが指に力をこめて肩と首をマッサージしてくれている間、マキシマスは子供を愛情をこめて見つめた。彼は深いため息をついて目を閉じた。「わかったよ。マルクス、明日、お前が着られるような軍服を何か考えてあげよう。」

「ほんとに?」マルクスは大喜びで言った。

「約束だ」妻が彼の筋肉のこわばった部分を見つけ、そこに指で強く押してほぐし始めた。マキシマスはまたため息をついた。彼女がとりわけ柔らかい場所を見つけると、彼は小さなうめき声を上げた。

「痛い?」彼女は心配して訊いた。

「いや…いい気持ちだ。」

オリヴィアは夫の頬にキスをして耳を舌でくすぐった。「この前見た時に比べて、傷はそれほど増えていないわね。」

「見えないだけかもしれない」

オリヴィアがその言葉の意味をはかりかねて途惑っていると、マルクスの可愛い声が聞こえてきた。

「パパ、ほら、見て!」マルクスはクッションを見つけてきて膝の間にはさみ、馬に乗っているようにして浴室を駆け回ろうとした。子供はクッションとケープと毛皮を同時に押えようと苦労していた。ハーキュリースに乗ろうとはしていないだけよかった−まだ今のところは。

「マルクス、明日、馬に乗りに行くか?」マキシマスは息子に言った。

「行く!行く!」

「スカルトに乗って基地を一周しようか。どうだ?」

「イエーイ!」マルクスは叫び、ギャロップで寝室に戻って行った。

「自慢のパパなのよ」オリヴィアがマキシマスの髪に石鹸をすり込み、頭皮をマッサージしながら言った。「ここに来る途中で兵士を見かけると、あの子は皆に聞こえるようにぼくのパパは将軍だって言っていたのよ。あなたのようになりたがっているみたいなの。」

「あの子には、わくわくするような楽しい生活に思えるんだろうな。」マキシマスは手を伸ばして妻の長い、絹糸のような髪を撫でた。

「そうね。」

「現実は違う。厳しい、恐ろしい、孤独な生活だ。あの子は兵士にはさせたくない。」

「マキシマス、あの子の夢を壊さないであげてね。ここのあなたの生活がどんな風か、これから時間が経てば嫌でもわかってくるでしょう。」

「本当にわかったらぞっとするだろうな。君も。」

「マキシマス、せめてあと何年かは、夢を見させてあげて。あの子、夜はあなたの夢を見て眠っているのよ。素敵な黒い馬に乗って素敵な軍服を着て、多勢の素敵な兵隊を率いてゆく男の夢を。」

「オリヴィア、あの子には本当のおれを見て欲しいんだ。おとぎ話の中の男じゃなく」

「ちゃんと見ているわよ。農場ではいつもあの子にあなたのものを見せているのよ。あなたの植えた普通の木や、あなたの作った普通の荷車、あなたの眠る普通のベッド、普通の服。あの子は、そのあなたはよく知っているの。でも、ここのあなたのことはわからないのよ。」オリヴィアは浴室の壁の方に手をやってその向うに広がる基地を示した。「将軍としてのパパは、あの子には理解できていないの。わからないから、ここの生活について無害なおとぎ話をこしらえて、あなたに長いこと会えない時の怖い気持ちをおさえようとしているのよ。 わかった?」

マキシマスはゆっくりとうなずいた。

「夢を見させてあげて。本当のことを知ったら…夜、眠れなくなって泣いたりするわ。」

マキシマスは振り向いて妻の顔を見た。彼女の目がうるんでいた。「君みたいに?」

「そう、私みたいに。将軍であるのがどんなことか、わかったようなふりをするつもりはないけど…蛮族との血みどろの戦をしたりとか、人を殺したり、部下に危険な任務を命じたり…私はただ、毎晩祈るだけ。あなたがそういったすべてのことに負けないで、いつか身体も心も元気で戻って来てくれて、ずっと家にいて家族と一緒の暮しを始めてくれることを…」

「今すぐでも始めたいんだ。でも、まだ無理だ。」マキシマスは妻の両手にくちづけした。「オリヴィア、そんな思いをさせてすまない。」

「マキシマス、あなたがどういう人かは結婚したときからわかっていたわ。それがどういうことかもよくわかった上で、あなたを愛する条件として受け入れたのよ。辛いけど、耐えられなくはないわ。どんなに苦しくても、あなたには充分その価値があるもの。さあ、目をつぶって。石鹸をすすぐから。」

髪も体もすっかりきれいになって、マキシマスは湯舟に体を沈めた。オリヴィアは彼の肩に腕をまわして、力強い腕の下に手を入れた。 彼女は夫の首をちょっと噛んで、「お湯が冷めかけてるわ」とつぶやいた。

マキシマスは目を閉じ、背中に押し当てられた柔らかな胸の感触を楽しんだ。「平気だよ。冷たい川で体を洗うよりずっとましだ。」

彼女は頬を夫の頬に押し当てた。「私が一番怖いのはね…」

「何?」

「あなたが将軍の生活にすっかり慣れてしまって、農場の生活が退屈になってしまうことなの。ここでの目の回るような忙しさや大きな責任に比べたら、農夫なんてつまらなく思えるんじゃないかと思って…」

マキシマスは否定しようとしたが、彼女は続けた。

「あなたが家に帰りたがっていることはわかっているわ、マキシマス。でも、何年か経ったらまたうずうずしてくるんじゃないかしら?あなたはいつも、人の生死にかかわるような決断をしているわ。いつ穀物の刈り入れをしようか、オリーブをいつ摘もうかなんていう事じゃなく。あなたは何万という人に尊敬されている…何百万かも…家族だけじゃなく。あなたのつきあっている人は、皇帝とか、他の偉い人たち…田舎の商人や農民じゃないわ。常に緊張や危険にさらされる生活をしていると、知らず知らずのうちに、それを求めるようになってしまうんじゃないかしら。緊張も危険もまったくない生活に満足できるかどうか…スペインの家は今のあなたにとってはいい避難所だけど、他にどこにも行くところがなくなったらどう感じるかしら?」

マキシマスは長い間黙っていた。それから言った。「おれの奥さんは頭がいいんだな。確かに、ここにいるとスペインが恋しいんだが、スペインにしばらくいると逆に基地や部下たちが恋しくなってくるんだ。おれっていう男は、いつもないものねだりをしてしまうように出来ているのかな?」

オリヴィアは彼の頭を横に向けさせてその唇にやさしくキスをした。「子供をいっぱい作れば解決ね。他のことに手も頭もまわらなくなるぐらいたくさん。」

「大賛成だ」マキシマスはささやいた。「ところで、マルクスは今夜どこに寝るんだ?」

「客間の方にでペルシウスと寝るわ。ここに来てからずっと、私はあなたのベッドで、マルクスはペルシウスと寝ているのよ。あなたが帰ってくるまでに慣れさせようと思って。今夜は二人きりよ。」彼女は彼の下唇をくわえて軽く噛んだ。「ハーキュリースもそっちで寝るといいわ。」

マキシマスはキスを返した。「本当に、頭がいい。マルクスと言えば…寝室の方、やけに静かじゃないか?」

オリヴィアはあわてて立ち上がり、寝室へ飛んで行った。マキシマスは湯舟から上がって、楽しそうに鼻歌を唄いながら腰にタオルを巻き、もう一枚タオルを取って髪を拭いた。彼は隣の部屋から聞こえる妻の声を聞いて笑った。

「マルクス、もう、何をしてるのよ?パパのものには触っちゃだめって言ったでしょ…」

マキシマスは足を拭きながら声を上げて笑い、妻といたずらな息子の待つ寝室へ入って行った。

 

第76 〜 80章