Maximus' Story
Chapters 76 - 80


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第76章 二人の夜

寝室の鎧戸の隙間には星がきらきらと光っていた。しかし、ベッドの上の夫婦はまるで気づいていなかった。オリヴィアとマキシマスは情熱のおもむくまま、その夜三度目に、探るような指と舌の始めたことを終らせようとしていた。今度はオリヴィアが彼の上にまたがり、脚を両側に降ろして、彼の手の導くままに腰でゆっくりと官能的な環を描いた。情熱の高まりにつれて加速をつけて上下に動いている彼の胸を、彼女の長い髪が掃いていた。彼は広げた手で彼女の脇を撫で上げて大きな乳房をつかみ、欲望に固くなった薔薇色の乳首を親指で愛撫した。二人とも長い禁欲の後で、一緒の時間は一層甘く、世界に二つとない宝石のように貴重なものに思えた。

彼は彼女の髪に指を絡ませてその唇を自分の唇に引き寄せた。二人の舌がからみあい、彼女の胸は彼の胸に押しつけられた。彼は一緒に寝返りをうとうとしたが、その夜二回目に、二人は一緒に狭いベッドから落っこちて横の織物の絨毯に着地した。マキシマスが肩と腰で落下の衝撃を受け止めた。「このベッドめ」彼はうなり、オリヴィアを下にして肘と膝をついた。

彼女は長い脚を彼の腰にまわして息をついた。「これ、誰かと愛し合うようには出来ていないみたいね。安心したわ。」

マキシマスはペースを落としてなんとか情熱を長く持続させようとしたが、二人とも抑制の効く段階を越えていた。「何も心配いらないって。無料で提供されるものに首を振るんで、部下たちはおれは頭がおかしいと思っているよ。」

「私のハンサムな旦那様は女性にもてるのかしら?」

「軍服のせいだろう」オリヴィアの身体が自分の体を急に締めつけたのを感じて、マキシマスはうめいた。オリヴィアの笑い声は途中で熱っぽい叫び声に変り、彼女は彼の肩を強く噛んだ。声はうまく押さえられたが、それで夫はコントロールを失った。彼女は彼の尻を掴んで自分の中へと押しつけた。彼はうめき、狂ったように腰を動かし、それから腕が限界にきて倒れ込んだ。全体重を彼女にぶつけないようにするのが精一杯だった。オリヴィアは彼を抱きしめ、彼が息が整える間、湿り気をおびた髪と汗まみれの首筋をやさしく撫でていた。それから彼の身体の下から這い出て、疲れきった夫を温かい床の上に倒れ込ませてあげた。彼は頬を敷物に押し当てて目を閉じた。

彼女も疲れきっていたが、身体を起こしてベッドにもたれ、彼の裸の身体を見つめた。女の心と、画家の目をもって。彼は美しい。彼女は彼の背中の曲線やくぼみを目で辿った。彼女の視線は、広い肩からくびれたウエストまでのすべての筋肉の曲線に沿ってリズミカルに上下した。背骨が彼の固い、丸い尻の間に消えている場所が彼女のお気に入りだった。それから背中の両側にある二つの深いくぼみも。彼女は髪を片手で束ねて頭を下げ、両方のくぼみににそっと唇をあてた。夫は動かなかった。彼女は次に彼の脚を観察した−真っ直ぐな、力強い脚。大理石の彫刻のギリシア青年の脚にも負けないぐらい完璧だ。彼女は両方の膝の裏にキスをした。彼の腕は脚と同じぐらい完璧だった。長年、剣を振り盾をかざしてきた腕は筋肉で固く引き締まり、恐ろしいほどに強くなっている。彼女はそこに残っている自分の歯の跡の上にキスをした。

オヴィリアは背後に手を伸ばしてベッドから毛布を取り、彼に身体をすりよせて二人の上に毛布をかけた。彼女の指は彼の背中にでたらめな絵を描いていた。彼は振り向いて彼女の顔を見た。彼女はその眠そうな目を見て微笑んだ。「寝てるのかと思った。」

「ほとんど寝ていたけど、次はどこにキスするつもりなのか気になって起きてた。」

オリヴィアは笑った。「愛してるわ。」

「おれも愛してる。」

オリヴィアはその低い、深い声の響きにうっとりした。「来なければよかったのにと思ってる?」彼女はからかうように言った。

マキシマスはしばらく間をおいてから答えた。「いや、まだ…」彼はそう言った。

オリヴィアはその答えに驚いた。「まだってどういう事?そのうち私に飽きてしまうってこと?」

「まさか。そうじゃなくて、気になってるのは、ゲルマン部族のローマ領地への攻撃が激しくなっている事なんだ。手当たりしだい攻撃してるようだが、攻撃のパターンが見えてきて、確かに東へ向っているみたいなんだ。」

「こっちの方へ?」

「そうだ。数ヶ月内に、ヴァンドボーナが攻撃される可能性もある。もっと早いかもしれない。」

オリヴィアは身震いした。「私たちは大丈夫なんでしょ?」

「大丈夫だと言い切れる人はいない。」マキシマスは仰向けになって彼女を腕に抱き寄せた。「オリヴィア、おれはいろいろ酷い事を見てきた。自分でもいろいろ酷い事をした−皇帝の名の下に、ローマの栄光のために。自分が間違ったことをしたと思っているわけじゃない。おれにそういうことをさせた皇帝が悪いと思っているわけでもない。ただ、あまりにも大勢の罪のない人たちが死んでいるんだ。現在の占領地を防衛するのは大事だと、おれも思う。でもマルクス・アウレリウス陛下のお望みはもっと大きいようなんだ。国境線が安定したら、陛下はさらに北進することを考えておられる。宝石や鉱物資源の豊富な土地に目をつけておられる。そのために、あと何人死ねばいいんだろう?ローマの家族が父親や夫や、兄弟を失う価値のあることなんだろうか?ゲルマンの女性が、包囲攻撃で受けた傷で死んだ罪もない小さな息子を埋葬することになっても、それは正しいことなんだろうか?」

オリヴィアは片肘をついて起き上がり、夫の顔を見下ろした。「ああ、マキシマス、私はあなたの肩の重荷を軽くしてあげたいのよ。ここに来ることで、重荷をますます重くするつもりはなかったの。」

「君がここに来たことで、重荷は軽くなったけど、また別の重荷が出来たかな。」

「そう…じゃあ結局、重さは同じってことね。」

マキシマスは微笑んだが、すぐに真顔になって言った。「ここにはあまりいられないんだ。多分、ゲルマニア軍は次にカストラ・レジーナ方面を襲うつもりだ。おれはそこに行く。基地と村が近い所は特に危ないんだ。」

「わかったわ。」彼女はまた横になって頭を彼の肩にもたせかけた。

「本当に?本当にわかっているか?おれが今戦闘をしているんだと、知っている方がどれだけ辛いか−おれがいなくなる時は、必ず戦争に行ってるんだとはっきりわかるんだぞ?遠く離れたスペインにいれば、おれは安全だと思いこむのも簡単だ。ここでは、そうじゃないってわかってしまう。」

オリヴィアは答えなかった。

「どうして床が温かいのか知ってるか?」マキシマスが訊いた。

オリヴィアは急に話が変わったのに途惑った。「ええ。技師長のジョニヴァスさんが仕組みを見せてくれたわ。とても優秀な人ね。」

「ああ、そうだな。でもジョニヴァスは、自分が知らないうちにこの基地で唯一の安全な避難所を作ってしまったことには気づいていないらしい。これから火を消させるつもりだ−だから、この次ベッドから落ちた時は床は冷たいぞ。」マキシマスはちょっと笑った。「それから、地下室に保存食と水と毛布を備えさせる。危険の兆しが見えたらすぐに、君とマルクスは地下にもぐって、おれかおれの部下が迎えに来るまでそこにいてほしい。クイントスに指示を与えておくから、言われたら何も聞かずに従ってほしい。君とマルクスの命がかかっているかもしれない。」

「ペルシウスは?」

「まだわからない。君たちについていてもらうかもしれないけど、他の事をしてもらうかもしれない。まだ決めていないんだ。」

「弟は兵士じゃないわ。何の訓練も受けていないのよ。」

「わかってる。でも、彼は馬に詳しいから、その面で役に立ってくれるかもしれない。」マキシマスは妻の頭の上にキスをした。「君かマルクスに何かあったらおれの命も終ったも同然だ。子供を失うのがどんなに辛いか、実際に経験するまでわかってなかった。もう二度と耐えられそうにない。もちろん、愛する妻を失うのにも耐えられない。」

オリヴィアは顔を上げて夫の目をのぞき込んだ。「まだマキシマのことを考える?」

「忘れたことはないよ。」

「私もよ。もっと子供を作ろうって言うのは簡単だけど、あの子の代わりにはならないわ。」

「そうだな。あの子のことはずっと悲しむだろう。」

オリヴィアは彼の顔を愛撫した。指で額をなぞり、頬を辿って髭を優しく撫でた。「たいがいの男は気にしないものよ、つまり…女の子が死んでも。まして、会った事もない子なら。」

「おれは『たいがいの男』なんかじゃない。」

「そうね…その通りだわ。」オリヴィアはもう一度、頭を彼の肩にこすりつけた。しばらく後、彼女は囁いた。「私は世界で一番幸せな女ね。」

彼は答えなかった。オリヴィアは彼の息が深く、ゆったりしたリズムになっているのに気づいた。彼はようやく眠りに落ちていた。

 

マキシマスは身動きした。身体から発せられる快感の信号がようやく脳に到達したが、完全に覚醒させるまでには至らなかった。彼は目を閉じたままで頭を左に、そして右に、動かした。彼の腕は妻を捕まえようと動いたが、空をつかんで胸に落ちた。彼は眠りの方へと漂いかけたが、再び身動きして小さなうめき声を上げた。彼の頭は五感からの信号を正しく判断するほどには目覚めていなかった。ようやく、まぶたがぴくぴくと動き出し、脚の位置を変えようとしたが何かが邪魔をして動かなかった。彼の口からうめき声が洩れ、突然、温かい手と、唇と濡れた舌の感触にはっきりと気づいた。オリヴィアが彼の下半身を探り、愛撫していた。長い旅の後で3度も愛し合ったせいで、彼は疲れきっていた。ごく本能的な反応をする以上のエネルギーは残っていなかった。彼の手は妻の方へと伸びたが、途中で脇に落ちてしまった。彼は唇を開いてなんとか肺に空気を送り込もうとした。息が速くなり、一息一息が悦びのため息に変わった。足の指が曲がり、脚はぴくぴく動き、太股は燃え上がるようだった。ため息は深まり、咽喉からうめきが洩れた。尻の筋肉が無意識に収縮し、腰が床から浮いた。彼は自分の下に手が差し込まれ、しっかりと支えながら彼の情熱をかきたてようとしているのを感じた。彼は彼女の方へ手を差し伸べようとしたが、腕が言う事をきかず、代わりに脇から頭上に上がって絨毯をつかみ、くしゃくしゃに丸めてしまった。彼は頭を後に振った。首の腱が緊張に固くなった。彼の身体はもはや彼のものではなく、その腰のあたりにいる女の意のままだった。その女は身体と心の欲求を解放するように、彼をやさしく促した。長い満足のうめきは苦痛の声にも似ていた。マキシマスは消耗しきって床の上に沈んだ。息は荒く、手足は震えていた。彼は疲労困憊していた。もし今、部族軍がヴァンドボーナを攻撃することに決めたら、敵の将軍が赤ん坊にように無力なのを発見するだろう。彼は完全に無防備だった。感覚が落ち着くにつれ鼓動はゆっくりになり、とりとめのない意識は闇に溶けてゆき、彼はほとんど気を失うように、夢も見ない深い眠りに落ちていった。

オリヴィアはしばらく夫の顔をやさしく撫でていた。彼が安らかに眠っていることを確認すると、毛布を掛け直した。彼女は彼の少しだけ開いた唇に優しくキスをして、囁いた。「軍服のせいなんかじゃないわ。絶対に…軍服なんかじゃないわ。」そして、彼女は夫の隣に横になって一緒に眠りに落ちた。

 

第77章 案内

マキシマスは目をぎゅっと閉じ、不快なまぶしい光を遮ろうと手をかざした。誰が目にランタンの光なんか当ててるんだ?彼は寝返りを打って片目を細く開け、こんなに朝早く起こしに来たキケロを叱りつけようとした。鎧戸の隙間から漏れる明るい陽光は寝室を満たし、床に寝ている夫婦を照らしていた。その光の角度からもうすっかり昼なのに気づいてマキシマスはうろたえた。

「くそっ!」彼はつぶやき、寝ている妻を抱き上げてそっとベッドに寝かせた。彼女はほとんど身動きもしなかった。彼は寝過ごしてクイントスと将校たちとのミーティングをすっぽかし、軍服と馬のことでマルクスとしていた約束を破ってしまった。彼は服をかきまわしてきれいなチュニックを見つけ、急いで着ながら手で髪を整えた。ブーツの紐を結んでいる最中にドアの向うでペルシウスと話している息子の声が聞こえた。

「でも、パパはどこにいるの?」

「まだ寝てるんだ。マルクス、パパが起きたら馬に乗せてくれるよ。」

「いつ起きるの?」

「もうすぐだよ。」

「さっきもそう言ったじゃない。早くパパにこれを見せたいのに…」マキシマスはドアを開け、二人をびっくりさせた。彼は照れくさそうにチュニックの皺を伸ばし、義弟が嬉しそうににやにやしているのを無視した。キケロが寝室のドアの脇に立っていた。彼もにこにこしていた。マキシマスはいつもは夜明けに起きる。到底考えられない失態だった。

ペルシウスが先制攻撃を仕掛けて来た。「おはようマキシマス、今朝はまた気楽な恰好で…いや、失礼、こんにちは、マキシマス。」

「パパ、見て、見て!」マキシマスはペルシウスを無視して、しゃがんで息子の服を見た。それは将軍の軍服を真似たもので、急ごしらえにしては実によく出来ていた。鎧は薄い板をマキシマスの鎧そっくりに彩色してあり、リボンで結んであった。ケープの布には見覚えがあった。先日破れたので捨てた彼のケープだ。キケロが取っておいたのだろう。靴職人がマルクスのために、急いでブーツを縫ってくれたらしい。小さな木の剣が、腰にまわしたロープに揺れていた。肩には何とも判別し難い動物の、ぼろぼろの毛皮が掛かっていた。ハーキュリースは鼻をすりつけてくんくん嗅いでいたが、マキシマス同様何の毛皮かわからないようだった。

「どこからこれを?」マキシマスが訊いた。これほど早くこれだけのものを集めた人にすっかり感心していた。

「キケロだよ!」マルクスが大きな声で言った。「ペルシウス叔父さんも手伝ってくれたけど。」

「ま、パパが起きるまでこの子の相手をしてやらなくちゃならなかったからね。なにしろパパは…」ペルシウスは数える振りをした。「…7時間も寝過ごしていらしたから。」

「パパは軍服を着ないの?」マルクスは、パパが普通の茶色のチュニックを着ていることにがっかりしたように言った。

「すぐ着るよ、マルクス。パパはとても疲れていたんで、ちょっと寝坊をしたから…」

「ちょっとじゃないだろ」ペルシウスがくすくす笑った。

マキシマスは義弟をとっておきの「将軍の目つき」で睨みつけた。しかし、いつもは完全無欠な義兄の鎧に初めてほころびを見つけて大喜びしている若者は、一向平気な顔をしていた。「マルクス、馬に乗りに行こうって約束したよな。すぐに乗せてやるから。その前にちょっと部下と話をしなくちゃならないんだ。その前に、すぐに。」彼は繰返し、息子がわかってくれるといいが、と思った。息子は下を向いた。マキシマスは助けを求めてペルシウスの方を見たが、若者は「自分でなんとかしろ」とでも言うように首を振っただけだった。

「わかったよ…ほら、クイントスを見つけるまで肩車してやるから」

「クイントスって目の間に傷のある人かい?」ペルシウスが何気なく訊いた。

「そうだが?」

「とっくに行っちゃったよ。」

「何だって?」

「5時間ぐらい前に来たんだけど、キケロが兄さんを起したくないって追い帰しちゃったんだ。4回ぐらい来たけど、とうとう時間の無駄だって気づいて、夜になったらまた来るって言って帰ったよ…もし、夜までに兄さんが起きたらって。」

マキシマスは憤懣やる方ない、という様子で髭をこすった。「マルクス、パパはこれから軍服を着るから、ペルシウス叔父さんと一緒にいてくれ。ママはまだ寝てるから起すんじゃないぞ。ここにいるんだぞ、いいね?すぐに戻るからね。」マキシマスはペルシウスを見た。「もうちょっとだけ、面倒を見てやってくれ」ペルシウスが協力を拒もうとすると、彼はこう言った。「これは命令だ。」

ペルシウスは慇懃無礼に頭を下げて子供の手を取った。「おいでマルクス。パパは後から厩に来るから、スカルトに鞍をつけていようね!」

マキシマスは二人を見送ってからドアにもたれているキケロの方を見た。「ありがとう、キケロ、マルクスに軍服を作ってやってくれて…それと、おれを寝かせてくれて。しかし、このささやかな贅沢のおかげてとんでもないことになりそうな気がするよ。」

 

「将軍、ようやくお顔が拝見できて嬉しいです!救援隊を組織しようかと思っていたところでしたよ。」

「将軍、お疲れのようですね。昨夜の任務はさぞ大変だったんでしょうね?」

スカルトに乗ってゆっくり基地を回りながら、マキシマスは部下たちの悪気のない冷やかしを無視しようとした。マルクスはマキシマスの小型バージョン、といった様子で、誇らしげにパパの脚の間に座っていた。彼は将軍の礼装が部下たちを少しは遠慮させるかもしれないとほのかな望みを抱いていたが、そんな望みはすぐに捨てた。普段のマキシマスは、することなすことあまりに完璧なので、部下たちは将軍でもごく人間的な欲望に屈することもある−自分たちのように−ということを知って安心したような気分だった。そして、彼らはこのめったにない状況をたっぷり楽しむつもりだった。もう二度とはないチャンスかもしれないのだから。

将軍は息子に基地に関するあらゆることを易しい言葉で説明し、全部の質問に答えた。その間に部下たちから次々と、気の利いた冗談や秘密めかしたウインクやにやにや笑いが飛んできた。彼は諦めたような笑顔でうなずいて受け流した。やがてマキシマスは少し離れた所を歩いているクイントスを見つけ、スカルトを早足にさせて追いついた。

「これはこれは、マキシマス将軍」クイントスが言った。「それに、マルクス将軍。」クイントスは少年に敬礼を送った。マルクスはくすくす笑い、パパに敬礼を返すやり方を教えてもらった。「まだ日のあるうちに顔が見られてよかった。」

「やめてくれよ、お前まで」

「おや…この午後はよっぽど部下どもにからかわれたらしいな。」クイントスは「午後」を強調して言った。

「この一時間というものの、おんなじような冗談を何度も何度も聞かされて参ってる。どいつもこいつも、そういう気の利いた事を思いつくのは自分だけだと思っているらしい。」

「まあ…」クイントスはマキシマスの膝に近づいて、マルクスが横を向いている隙に口に手を当てて囁いた。「みんな、お前がごぶさたで気の毒だと思っていたんだ。昨夜はようやく…というところだからな。」

マキシマスは馬上の高みから睨みつけて言った。「分かりきった事を説明してくれてありがとう。」

クイントスはにやにやした。「まだミーティングをやるつもりか?」

「ああ。重要な情報がある。夕食後すぐ士官兵舎に将校を集合させてくれ。」

「わかった。」

「基地の状態は最高だな、クイントス。兵士の体調も士気も上々だ。いい仕事をしたな。」

「ありがとう」副官は答えた。この言葉は本当に嬉しかった。

マキシマスはスカルトの向きを変えて基地の門へと向かった。

「マキシマス?」クイントスが後から声をかけた。

彼は馬を止めて肩越しに振り向いた。「何だ?」

「部下たちがからかうのはお前のことが好きだからだよ。嫌いなら放っておくさ。褒められていると思うんだな。」

マキシマスはちょっと考えてから、微笑んでうなずいた。「ありがとう、クイントス。」彼はスカルトを再びスタートさせ、息子に門と衛兵の大切さを説明し始めた。マルクスはパパの一言一言に熱心に耳を傾けていた。門衛たちが彼の姿を見て、満面に笑みを浮かべて集まってきた。マキシマスはため息をついて、もう一度冗談の猛攻撃を受ける覚悟を決めた。

 

マキシマスは部屋に入りながら、副指令たち、百人隊長たちの顔を見ると片手を上げて静粛を求めた。「諸君、私は今日一日で、生まれてこの方の数十年間を全部合わせたよりずっとたくさんのからかいを受けた。そこでだ。もしまだからかい足りないんなら、今すぐ済ませてくれ。そうしたら仕事にかかれるからな。」彼は部下ひとりひとりの顔を見下ろした。にやにや笑いは引いていった。

「結構」マキシマスはそういって腰を下ろし、ミーティングを始める用意をした。「さて、ローマ軍や近隣の村への攻撃はますます頻繁に、しかも激しくなってきている。今のところ、戦闘にはすべて勝っているが戦死者も多く出ている。将校の死者も多い。敵はまず将校を狙ってくるからだ。リーダーを殺すことによって軍を弱体化することが敵の狙いだ。」ざわめきが部屋中に広がり、マキシマスはそれが静まるのを待った。「攻撃のパターンが読めてきた。敵は孤立した基地を避け、この基地のように村が隣接している基地を攻撃している。夜間に村を攻撃し、兵士がローマ市民を守るために基地から出て来ると、ゲルマニア軍が兵士と基地の間に入る。敵はローマ軍の軍服と武器を多数略奪している。部族軍は着実に東進している。おそらく、カストラ・レジーナが次の標的ではないかと思う。明後日、私はそちらへ向かうつもりだ。

「マキシマス、百人隊長を連れて行くか?」

「いや。応援が要らないわけではないが、この基地を弱体化するわけにはいかない。ヴァンドボーナは敵の最終目標だと見ている。最大の基地だし、最も豊かな村が隣接している。私の留守中、城壁の衛兵の数は二倍にして、一隊は川沿いを巡察すること。やっかいなのは、この川は長く、敵はどこからでも渡れるということだ。全員、常時警戒体勢を崩すな。攻撃は数週間の内に来るかもしれない。何ヵ月も来ないかもしれない。」マキシマスはクイントスの方を見た。「おれの家の暖房炉の火を落として冷まして、妻と息子が地下で二週間ぐらい過ごしても大丈夫なように、必要な装備を全部運び込んでくれ。危険の兆しが見えたらすぐに、二人はそこに入れて、何もかも完全に安全になるまで出さないでほしい。」

クイントスはうなずいた。「二人の面倒は見るよ、マキシマス。そのことなら何の心配もいらない。」

「その作業は、キケロを残して監督させる。」マキシマスはクイントスにそう言ってから、再び全員に向かって言った。「我々の基地は今までにないほど戦闘準備万端になっている。諸君の努力のおかげで基地の状態は最高だ。私もかなり安心して出発できる。カストラ・レジーナまではたった1日半の距離だから、毎日使者をよこすことにする。質問は?」

部下たちは首を振ったが、ひとりが声を上げた。「将軍、ひとつだけ…」

「コラティヌス、何だ?」マキシマスは百人隊長のひとりの名を呼んだ。

「質問というより、提案ですが。あの、これからは奥方様とは別々にお休みになられた方がよろしいかと。攻撃を受けた時に寝ぼけていらっしゃるようでは困りますから…」

石の壁が男たちの笑い声で揺れんばかりだった。

「そういう事を言わんではいられんのか、まったく」マキシマスはそう言ってから、男たちと声を合わせて笑った。

 

数時間後、マキシマスが妻の待つ寝室に戻ろうとすると、ドアに張り紙がとめてあるのに気づいた。そこにはペルシウスの大きな汚い字で、「午後まで起すな マキシマス将軍の命令による」と書いてあった。

マキシマスは大きなため息をついて張り紙をドアから引き剥がしてくしゃくしゃに丸め、「キケロ!」と大声で呼んだ。

キケロがドアから顔を出した。「将軍、何かご用でしょうか?」

「ああ。明日の夜明けに、おれを必ずベッドから引っ張り出してくれ。どんなに疲れていても、どんなに抵抗しても。わかったか?」

「了解しました。」キケロは最後にちょっとだけにやりと笑った。「素敵な夜をお過ごし下さい、マキシマス。」

 

第78章 ローマからの手紙

マキシマスが旅立って8日が過ぎたが、オリヴィアはまだ落着かなかった。何をして時間を過ごしたらいいのかわからなかった。基地での彼女の行動範囲はほとんど士官兵舎の中だけに限られていて、出来ることも限られていた。彼女はマルクスとゲームをした。しかし子供はママといるより、オリヴィアよりずっと自由に基地の中を歩き回れるペルシウス叔父さんについて行きたがった。彼女は何かを始めては途中で止めて他の事を始めたりと、落ち着かない時をすごした。ちゃんと終らせたことはほとんど何もなかった。キケロがやって来て、マキシマスの服に修繕が必要なものがないか探そうとすると、彼女はそれは自分の仕事だと主張した。静かに座って夫のことを考えながら出来る仕事が見つかってよかった。夫の羊毛のチュニックやケープ、麻の下着に触れながら、彼の肌に触れたものに触れるだけでも心が安らぐのを感じた。

翌日は天気が良かったので、彼女はなんとかエネルギーと気力をかき集めて未完成の壁画に取り組むことにした。マキシマスが帰ってくるまでに完成させたい。彼女は絵具を混ぜて、農場の壁画に自分とマルクスの姿を丁寧に描き加えた。夫のリクエスト通り、大きなポプラの木の横に立たせた。それが済むと、マキシマス将軍の大きな肖像画に集中した。彼女は大きな誇りを持って自分の絵を見つめた−絵の腕に対する誇りではなく、夫に対する誇りを持って。彼女はこの絵を永遠に残したかった。未来の兵士たちがこの絵を見て、軍服にひそむ偉大な男の姿を感じ取ってくれればいい。

ある夜、一日中絵を描いていた後、彼女はマルクスを寝かせてキケロに見ているように頼み、家を出て士官兵舎を散歩した。その日は季節はずれの暖かさで、寝室は風通しが悪かった。彼女は髪を首からかき上げ、夜風に当たって身体を冷まそうとした。彼女は髪を指で梳きながら新月を眺め、夫も同じ月を見ているだろうか、と考えた。夜の空気は気持ちがよかったので、オリヴィアは石の家のドアのそばに腰を下ろし、脚を伸ばしてあくびをした。マキシマスのいない基地は寂しい場所だった。基地の中で士官兵舎の占める面積は比較的狭い。それは将軍の家と、高級将校のテントが並んでいるだけの場所で、彼女はたちまち飽きてしまった。彼女は大きな農場に暮らし、どこでも好きな所へ行く自由に慣れていた。行動を制限されるのに疲れてきていた。誰かと話したくてたまらなかった。

基地に出入りする女たちは、とても将軍の妻がつきあえるような類の女ではなかったし、将校たちは彼女をうやうやしく敬遠していた。兵士たちは彼女を「奥方様」と呼び、彼女が通りかかるといつも礼儀正しく頭を下げた。しかし、立ち止まって話しかけてくる者はいなかった。マキシマスの一番親しい友人、クイントスでさえ、距離を置いていた。彼女は何度か彼とお喋りをしようとしたが、全然だめだった。彼は無口で内気に見え、彼女が近くにいると落着かないようだった。

彼のテントはマキシマスの家の真向かいだった。オリヴィアは家の前の階段に座り、彼のテントを眺めていた。帆布の向うでランプの光がちらちらするのが見えた。

クイントス。彼はマキシマスの親友だ。なのに、オリヴィアは彼のことをほとんど何も知らない。夫との会話の記憶を辿って、彼が最近結婚したこと、去年の冬は故郷のローマで過ごしたことを思い出した。しかし、彼女が知っているのはそのぐらいだった。

ランプの光の前を誰かが通り、テントの壁に長い影が映った。オリヴィアはぼんやりと、クイントスが中にいるのかしら、それとも部屋を片付けている従者かしら、と考えた。
答えはすぐにわかった。マキシマスの副官がドアを開いて現れ、服を手探りしていた。オリヴィアは目を細めて暗がりを見つめた。最初、彼が何をしているのかわからなかったが、すぐに砂利の上に放尿している音がはっきり聞こえた。彼は少しふらついていて、テントの端を汚してしまったようだった。

くぐもった悪態が聞こえた。

酔っ払っているのかしら?オリヴィアが急に笑い声を上げたので、クイントスは驚いたあまり途中で止め、振り向いて呆然と彼女を見つめた。チュニックをたくし上げたままで、口をぽかんと開けていた。間違いない…酔っている。「クイントス、気にしないで」彼女は言った。「私には男きょうだいが4人もいるから、男の人が何をしてもたいがいの事では驚かないわ。」彼女は笑った。

彼の頭は麻痺したようになっていて、その言葉を理解するのにしばらくかかった。その間に彼女は彼にゆっくりと近づいた。彼はあわてて服を直し、テントをつかんで身体を支え、頭を下げた。「失礼をお許しください、奥様」彼はおぼつかない口調で言った。「おいでなのをすっかり忘れていました。」

「そうね」オリヴィアは答えた。「私がいることは、みんな忘れているみたい。」彼女は星を見上げてため息をついた。「クイントス、私、退屈でたまらないの。今夜はいい夜じゃない?お願いだから、来て私とお喋りしてくれない?あなたもこの階段に座るといいわ。」

「申し訳ありません、奥様…」彼は背後に手を伸ばしてテントの支柱をつかもうとしたが、手は空をつかみ、少しよろめいた。「しかし、私は…」

オリヴィアはちょっとした脅迫を試みることにした。「クイントス、驚いたわ。あなたがそんな風に…ふらふらしているなんて。この基地は警戒態勢を取っているはずじゃなかった?あなたは責任者でしょ。」『マキシマスに言うわよ』という脅迫こそ口にしなかったが、代わりに意味ありげな目つきで彼を見た。

クイントスは一瞬だけ彼女と目を合わせ、どうしたらいいか考えているようだった。彼の表情を暗雲がよぎった。「マキシマスならこんな事は絶対にしないんでしょうね。」それは独り言だった。その声にははっきりと分かるほどの苦々しさがこもっていた。

オリヴィアはその口調に驚いた。「クイントス?何かあったの?あなた、何かでマキシマスに腹を立てているの?」答えはなかった。「クイントス?」

彼女は彼の頑固さに呆れてため息をつき、別の手を試してみることにした。「ねえ、あなたのこと、話してくれる?マキシマスとあなたは親しいのに、私たちがお互いのことを全然知らないのは変よ。彼はあなたのことよく話しているのよ。」彼女は微笑んだ。「誉めているのよ!」クイントスが眉をしかめるのを見て、オリヴィアはあわてて付け加えた。「去年の冬にローマへ帰って結婚したそうね。奥さんのことを話して。お名前は?」

その言葉に気を楽にするどころか、クイントスはますます暗い表情になった。「名前はアントニアでした。」彼は感情のない声で言った。

「『でした』?」オリヴィアは眉を寄せ、首を傾げた。

クイントスは砂利をブーツで蹴って地面に浅い溝を作った。それから背を向けてテントの中へと消えた。オリヴィアは憤懣やるかたない、という様子で一声うなり、背を向けて帰ろうとしたが、彼はドアから出てきた。片手に一通の手紙を、片手にワインの瓶を持っていた。彼は頭をのけぞらせて酒を咽喉に流し込んだ。

「クイントス、何があったの?」オリヴィアは一歩踏み出した。視線は手紙に釘付けになっていた。「悪い知らせ?」

「妻は死にました。1ヶ月前に。今日わかったんです。」

オリヴィアは息を呑んだ。彼女はためらいがちに一歩踏み出し、彼の方へ手を伸ばした。しかし彼はテントへ引っ込んでしまった。彼女はひるまずに彼について中へ入った。その行動が誤解されるかもしれないという事は気にもかけなかった。彼女はドアを入った所で立ち止まった。

テントの中はめちゃめちゃだった。箪笥の引き出しは床に投げ出され、そこら中に服が散らばっていた。沢山の手紙が狭い寝床の上に積み上げられていた。封蝋のかけらが白いシーツに散らばり、血が飛び散っているように見えた。

オリヴィアは部屋を見回し、それからクイントスの方を見た。何と言ったらいいのかわからなかった。「クイントス、かわいそうに」彼女は言いにくそうにいった。自分の言葉など慰めにもならないことは痛いほどわかっていた。「辛いでしょうね…伴侶をなくすなんて…」

クイントスは肩をすくめ、もう一口ワインを飲んだ。その表情は測りがたかった。

オリヴィアはこの反応の混乱した。ショック状態なのだろうか?何も感じないほど酔っているのだろうか?彼女は寝床の上の手紙を少し片付けて、端にクイントスを座らせようとした。「ねえ、話して…」

クイントスは手紙を見つめて、口を開いた。「我々は結婚し、彼女は妊娠しました。私はここへ帰って来て、彼女は赤ん坊を産みました。そして死にました。」正気を失ったような笑いが、一瞬彼の顔に浮かんだ。そしてすぐに消えた。「これ以上話す事はありませんよ。」

「彼女は…アントニアは…お産の時に死んだの?」

クイントスはうなずき、ワインの瓶を見つめたままその縁を指でなぞった。「切開しなければならなかったんです。」

「赤ちゃんを救うために?」

「女の子でした。」

オリヴィアは自分の手を見つめた。「かわいそうに、クイントス。まだ結婚したばかりだったのに、辛いでしょうね。」

「同情なさることはありませんよ、奥様。私は平気です。妻とは結婚式で逢ったんです。」彼は囁くような、小さい声になった。「彼女のことは、ほとんど知ってもいなかったんです。」クイントスはオリヴィアを真っ直ぐ見つめて、再びしっかりした声になって言った。「普通はそういうものですよ。愛のために結婚する人なんていません−マキシマスは別でしょうがね、もちろん」口調に苦々しさが戻ってきた。

オリヴィアは彼がワインの瓶を飲み干すのを気遣わしげに見ていた。彼はベッドの下を探って瓶をもう一本取り出し、コルクを歯で開けた。

「でも、あなたには子供が…」

「女の子です。」彼は表情を固くした。「マキシマスには息子がいる、もちろん」

オリヴィアの息が震えた。その瞬間、マキシマの想い出が心に蘇ってきた。娘の小さな、可愛い指…やわらかな顎の形。鈴を転がすような可愛い笑い声…その声は、想像の中でしか聞くことが出来なかったのだ。子供が女の子だったのにがっかりしているクイントスに、彼女は侮辱されたように感じた。どうしてそんな事が言えるのだろう?彼はマキシマスが娘を失ったことを知っているのに−そのことをまだ悲しんでいることも。どうしてそんなに冷たいことが言えるのだろう?「あなたの娘さんは生きてるわ、クイントス」彼女は暗い声で言って立ち上がった。

「奥様、お座り下さい。」

「いいえ。もう話したくないわ。」

「お願いします…」

オリヴィアは歩き続けた。テントの入り口を開きながらなんとか涙をこらえようとしていた。

「奥様…」外に出て行く彼女の背中に向って声がした。彼女は聞かないようにして急いで階段に向った。「おれが殺したんです。」彼はかすれた声で囁いた。

オリヴィアはとうとう振り返った。クイントスが戸口に立って彼女を見つめているのに気づいて彼女は驚いた。彼は焦燥し切った、憑かれたような顔で立っていた。まるで、堤防が崩れて感情が一気に流れ出たようだった。彼は孤独なのだ。オリヴィアはそう気づいてはっとした。怯えているのだ。罪の意識に苦しんでいるのだ。

彼の言葉はまだ心に痛かったが、オリヴィア無理に怒りを忘れることにしてテントに戻った。彼女は身体を固くしたままドアの近くの椅子に座り、彼が堰を切ったように話し出すのを聞いていた。

「17歳でした」クイントスは手で手紙をひねりながら言った。「美人でした。いつかクララは…赤ん坊の名前ですが、もちろん…」彼はオリヴィアの目を見て言った。「いつかクララは母親のことを聞くでしょう。でも、おれに答えられるのはそれだけです。17歳で…おれの子供を産むためにベッドの上で血を流して死んだと。」クイントスは瓶を持ち上げかけたが、口に持ってゆく前に手を止め、床にどしんと腰を下ろした。そして瓶を置いてベッドに散らばっている手紙の一通を手に取った。オリヴィアは手紙を改めてよく見て、宛名の筆跡が全て同じなのに気づいた。全部、同じ人からの手紙なのだ。

「愛していなかった」彼は誰かを責めるように言った。「多分、愛さなければいけなかったんだろうな…わからないんだ、オリヴィア。マキシマスは…」彼の表情には、今は皮肉の代わりに混乱が浮かんでいた。「マキシマスは全部簡単に手に入れてる…力と…名誉と…愛…」

「それは違うわ。」オリヴィアはそっと言った。また、マキシマのことを考えていた。「彼も苦しい思いをしているのよ。」

「愛か。おれには意味もわからない…信頼?男同士の信頼とどう違う?人生の伴侶?おれは家にいたこともないのに。セックス?」彼は苦い笑い声をあげた。「そんなものなら娼婦で充分だ。」彼はまた手紙を見た。「彼女はおれを愛していると言った…」

その瞬間、オリヴィアは手紙が全てアントニアからのものなのに気づいた。封を切ってあるのはほんの数通に過ぎなかった。

「読んだ事はないんです」クイントスは彼女の考えを読んでいるように言った。「今夜初めて読んだんです。おれは…忙しくて。」彼は深く息をついてオリヴィアの目を見た。初めて、彼女は彼の鋼鉄のような目の奥に涙を見たような気がした。

「なぜだ?」その言葉には悲しみと同時に怒りがこもっていた。

「なぜって…?」オリヴィアが訊いた。

「なぜおれを愛したりする?頼んだ憶えはない」涙が彼の頬をつたい落ちた。彼は急いで拭い、虫を潰したふりをしてごまかそうとした。「愛して欲しいなんて思っていなかった。どうして、もっと単純に…普通に…」

「幸せになりたいと思うのは普通のことよ」オリヴィアはとても優しい声で言った。彼女はマキシマスにひっきりなしに送り続けている自分の手紙の事を考えた。それに、絵も。彼が読んでもくれなかったらなんて、考えただけで悲しすぎる。彼女は会った事もない、可哀相な死んだ娘に同情を感じはじめていた。「まして、まだそんなに若い娘なら。」クイントスの顔が罪悪感にゆがんだ。彼の目はオリヴィアに慰めを求めていた。彼女はぼんやりと、二人が幸せになれる望みはあったんだろうか、と考えていた。私とマキシマスはなんて幸運なんだろう。幸せはめったに手に入らず、手に入ってもすぐ消えてしまう儚いものだ。

「彼女はきっとあなたのことが好きだったのよ。」長い沈黙の後でオリヴィアが言った。彼の表情がほんの少しだけやわらいだ。「それに、あなたも…彼女のことは…気に入っていたんでしょう?」

「彼女と寝るのは好きだった」クイントスは感情を殺した声で言った。「そのせいで死んだんだ。」

「誰のせいでもないわ、クイントス。実際、よく起こることなのよ。彼女の結婚したのがあなたでなかったとしても…」

「でも、おれだった」彼は小さい声で言った。「おれだった…」彼はまた空を見つめた。その目はガラスのようで、床に転がっているワインの瓶と同じ色だった。

オリヴィアは話が終ったのを悟った。クイントスは明日になったらこのことを憶えていないかもしれない。多分、その方がいいのだろう。オリヴィアは音を立てないように動いてワインの瓶に栓をし、小さなランプを消した。「寝た方がいいわ、クイントス」彼女はそっと言った。彼女は彼の肩に手を当てて、寝床に入るようにやさしく言った。

彼は素直に言う事を聞いた。オリヴィアは安堵のため息をついてドアに向った。

「17歳だった」彼の囁き声が闇の中で奇妙に響いた。「死んだ。」

 

第79章 回想

マキシマスは手に持った手紙を何度もひっくり返して、一体誰からだろう、と考えていた。それはヴァンドボーナ経由で来たローマからの手紙で、いつもの軍事関係の信書と毎日来るオリヴィアからの手紙の山に紛れて、危うく見逃すところだった。まだ宵の口で、キケロがテントの中を歩き回ってランタンを灯し、質素な兵舎を将軍のためにできるだけ快適にしようと努力しているところだった。マキシマスの望みを言われる前に察知する名人である彼は、手紙がよく読めるように机の向うからランタンをすべらせた。マキシマスは腰を下ろした。顔には好奇心が浮かんでいた。将軍は目を上げずに手を伸ばした。キケロはその手に薬味入りワインのゴブレットを握らせた。

「将軍、大丈夫ですか?」

マキシマスは驚いてキケロを見た。「ああ。どうしてそんなことを?」

「その手紙を睨みつけていらっしゃるから。」

将軍の表情がやわらぎ、微笑が浮かんだ。「睨んでいるつもりはなかったんだが。ただ、ローマからおれに個人的な手紙をくれるような人には心当たりがないんだ。見たことのない封緘だ。」

「開けてみるしかないんじゃないですか?」キケロは手紙を見て鋭く指摘した。「他にご用はありませんか?」

「いや。キケロ、ありがとう」マキシマスは手紙に気をとられていた。「先に手紙を読んで、食事はその後にする。」キケロは静かにテントを出て行った。マキシマスは封蝋の下に親指の爪を差し込んで封印を破り、ブーツの足を机の上に乗せて椅子の背に深くもたれた。いつもの彼らしからぬ、気楽な姿勢だった。彼は大きなあくびをして、疲れた時の癖で片手で短い髪をかき上げた。今か今かと攻撃を待っているのは神経のすり減ることだった。敵の次なる目標がカストラ・レジーナだと思った自分の勘は正しかったのだろうか、と思い始めていた。

気を紛らわそうと、マキシマスはパピルスを広げて光にかざした。読むうちに、口の端にかすかな、懐かしそうなほほえみが浮かんだ。

ジュリア・セルヴィリアより、北部軍総司令官マキシマス・デシマス・メリディアス将軍様へ。ご無沙汰しております!

何よりもまず、あなたの健康と安全をお祈りします。神々があなたを危険から守り、たくさんの任務を遂行なさる力を与えて下さいますように。

長い、何事もない旅の後、私はローマに到着しました。皇帝陛下の軍隊がついてくれていたおかげで道中には何の危険もありませんでした。あなたと別れてすぐ後に悪天候に見舞われ、旅は少し遅れましたが、私も他の女たちも元気で都に着きました。

二年ぶりのローマは私の記憶とは違っていました。ますます、活気に満ちて美しい場所になっていました。皇帝陛下は私たちに充分すぎるほどのお金を下さいました。陛下に神々の祝福と長寿を。私は静かな所に部屋を見つけて落ち着きました。他の女たちはフォーラムの近くに住みたがったのですが、私はもっと騒がしくない所に住みたかったのです。そのために、私たちはあまり会わなくなりました。一人でいるのは生まれて初めてで最初は少し変な感じでしたが、寂しくはありませんでした。神々に誓いまして本当ですが、私は一人になりたかったのです。自由民としての最初の一年間は何事もない静かな生活で、私はそれが気に入っていました。

最初の一年間は、近所の市場に必要なものを買いに行くのと、お風呂に行く以外はほとんど部屋から出ず、一人で過ごしました。芝居やゲームなどを見に行くより、勉強をしている方が落ち着きました。私はずっと本を読んでみたかったのですが、マキシマス将軍もご存知の通り私が訓練を受けたのは別のことで、ちゃんと教育を受けていなかったので読めなかったのです。教師にギリシア人の奴隷を買うのは嫌でした。私が生まれてからずっと耐えてきた、慈悲深い神々が我々を巡り合わせて下さらなければ今も耐えなければならなかった苦しみを、他の人に与えることは出来ないと思ったのです。

代わりに教育のある自由民の男性、アポリナリウスをお金で雇って教えてもらうことにしました。それから、心が落ち着いてくると、私と私の部屋の面倒をみてもらうためにメイドも雇いました。そのメイドが、私の生活がふたたび変るきっかけ作ってくれました。彼女とその夫は近所のアパートの管理人でした。そのアパートの持ち主は金持ちの造船業者で、ほとんどの時間を造船所か、帝国中のあちこちの港で過ごしていました。その人は、名前はマリウス・セルヴィリウス・ティブルスといって、その後すぐローマに帰って来ました。メイドのニシアと市場に行った時、偶然会いました。彼は三ヶ月ほど都で過ごし、すぐに私に求愛を始めました。そんなに長く造船所を放っておいてローマにいてはいけなかったみたいです。とうとう戻らなくてはならなくなって、その直前に私に求婚しました。私は自分が結婚するなど考えたこともありませんでした。でも、マキシマス将軍、あなたは私が落ち込んでいた時にいつか私にも特別な人が現れると言って下さいましたよね。その時は私にはとても信じられませんでしたが、結局あなたの方が正しかったのですね。

マリウス・セルヴィリウス・ティブルスには正直にすべてを話そうと思いました。奴隷として生まれたこと、ある偉大なローマの将軍と皇帝陛下のお慈悲によって最近自由になったばかりであるということ。将軍と皇帝に神々の祝福がありますように。マリウス・セルヴィリウス・ティブルスはそれでも私を受け入れてくれました。その後すぐ、私は彼の妻となり、彼の家に引っ越して彼の屋敷の女主人になりました。 結婚の贈り物として夫は奴隷を持ちたくないという私の願いを聞き入れ、家の奴隷を全て自由にして、造船所だけで奴隷を雇うようにしてくれました。

アポリナリウスの授業のおかげで、私は妻としての新たな勤めを果す事が出来ています。夫にふさわしい妻になれると思います。今は夫の地所と屋敷を切り回すのにほとんどの時間を取られておりますが、それでも暇を見つけては本を読んだり、文を書いたり、アポリナリウスが辛抱強く教えてくれたいろいろな素晴らしいことを楽しんでおります。おそらく、いつか、私は旅をすることになると思います。前回の旅の想い出は楽しいものではありませんでしたが。

マキシマス将軍、私たちが出逢った時に比べまして、私の人生は変りました。あの時は夢にも思わなかった暮らしをしております。あなたと逢わなければ望めなかった暮らしです。私が自由になれましたのも、生きていますのも、あなたのおかげです。神々が私に代わってこのご恩を返して下さいますように。私には一生かかってもお返しできないご恩ですから。毎日あなたのことをお祈りしております。神々があなたに健康と長い幸せな人生を下さいますように。

ヴァンドボーナ 北部軍総司令官マキシマス・デシマス・メリディアス将軍様 フェリックス第三連隊基地気付

 

マキシマスは手紙を読み返して、膝に手を置いた。ランプの光にわずかに照らされた顔には奇妙に入り混じった感情が浮かんでいた。彼は考え深げに髭をこすり、ジュリアの姿を記憶から呼び出した。目の前に立っているようにはっきりと思い出すことが出来た。背が高く痩せていたが、身体つきは女らしく、長い豊かな赤みがかった金髪と白い肌に、引き込まれるような青い瞳をしていた。目の覚めるような美人だった。

彼女が自由を得てから半年ほど後、マキシマスはローマの役人を通じてジュリアの行方を問い合わせてみた。彼女のことが心配だった。生まれて初めて一人で世間に出て、どういう暮らしをしているのだろう、と思っていた。身体を売るようなはめになっていなければいいが、と心から案じていた。そのためにもっと経済的援助や励ましが必要なら、喜んで与えるつもりだった。しかし、彼女は消えてしまった…役人も彼女を見つけられなかった…この手紙で、やっとその訳がわかった。

ジュリアは美しいだけでなく、頭の良い、勇敢な女性だった。彼女を結婚する気にさせたのはどんな男だろう、とマキシマスは考えた。見合い結婚ではないようだから、好きで結婚したのだろう。ジュリアの手紙には、彼のことは金持ちだということ以外何も書いてなかった…ひょっとしたら、それが動機なのかもしれない。

まあ、多分金持ちの上に若くてハンサムなのだろう…

マキシマスはその手紙を放り出し、ほかの手紙に没頭して胃のあたりに湧き起こってきた妙な感情を抑えようとした。ジュリアをローマへと送り出した時、もう彼女には二度と会えないだろうと思っていた。それでも、出来ればいつかまた会いたいと思っていた。二人とも結婚した今となっては、もうその可能性はないだろう。

彼は落ち着かず、立ち上がって机に背を向けた。彼はしばらくの間他の手紙を何度も並べ替えていたが読む気にはなれず、とうとう机に放り出してまたジュリアの手紙を手に取った。どうしてこの手紙をよこしたのだろう?手紙はきちんとした礼儀にのっとって書かれており、彼を肩書き付きで呼んでいた。それでも、その言葉には親しさが滲み出ていて、彼は何度も黒海のほとりで彼女と過ごした短い時間を思い出した。二人が共犯者として分かち合った陰謀と…親密な時間。

 

「将軍?パーティを楽しんでいらっしゃらないの?」

マキシマスが振り向くと、さきほど白髪の副指令に抱かれていた赤毛の美女が立っていた。彼は「ああ」とだけ答えて背を向けた。

彼女は驚くほどの力で彼の腕をつかんで引きとめ、鎧に胸を押しつけてきた。彼女は手を彼の首のうしろに廻し、唇をそっと耳にあてて言った。「あなたに伝言があるんです、将軍。」彼女は身体を引いて、彼の驚いた顔を見つめた。珊瑚色に塗った唇と睫毛の濃い輝く青い瞳には微笑みが浮かんでいた。彼女はしみ一つない純粋なクリームのような肌をしていた。赤みがかった豊かな金髪は波をうって腰の下までを覆っていた。彼女のチュニックは白い絹で、ランプの光にきらきらと光る金糸の房がついていた。その服は金糸の織物のベルトで細い腰にぴったりとはりつき、胸は大きく開いて大きな乳房の上半分は露出していた。柔らかい布地は丸い尻にまとわりつき、前に開いたスリットから長い美しい脚が見えていた。マキシマスは思わず、じろじろと眺めた。

その女はマキシマスよりほんの数インチ背が低いだけだったので、彼の視線をほとんど真直ぐに見返した。彼女は少しハスキーな声で囁いた。「こっちにきてお座りになって、将軍。何も食べていらっしゃらないでしょう。」彼女は微笑んだ。「その後で、二人きりになれるところへ行きましょうね。」

彼は動こうとしなかった。「君の名前は?」

「ジュリアよ。」

「ジュリア」マキシマスは理由のわからぬまま、その名を繰返した。

 

手紙には子供の事は何も書いてなかった。子供はいるのだろうか?マキシマスはパピルスを顔に近づけて匂いをかいだ。なぜそんな事をしたんだろう?

 

「将軍、その革の鎧は暑すぎるし着心地が悪いでしょう?あたしが脱がせてあげましょうか?」彼は従順に腕を上げた。彼女は器用に、素早くバックルを外した。鎧はテーブルの側の床の上に置かれた。「この方がいいわ。」ジュリアは一歩下がって彼を眺めた。マキシマスは薄い羊毛のシンプルなワインレッドのチュニック姿になった。チュニックは膝上までの丈で、袖はなく、彼の広い肩はほとんど出ていた。その上に、幅の広い革のベルトを締めていた。筋肉質の脚にはふくらはぎまでの編み上げブーツの他は何も着けていなかった。「将軍、ここはとても暑いでしょ?サンダルの方が快適じゃないかしら。1足お持ちして…」

「大丈夫、ブーツには慣れているから」

「お望みの通りに。」ジュリアは部屋中の女たちが、他の男にサービスしながらも彼女をうらやましそうに見ているのを充分意識していた。他の女に手を出させるつもりはまったくなかった。マキシマスが腰をおろすと、彼女は自分の体で他の女たちの視線から彼を隠した。

マキシマスは寝椅子にねそべって女に食べさせてもらいながら自分が馬鹿になったように感じたが、芝居に協力しないで彼女を危険にさらすつもりはなかった。食べ物を少しづつ選んでは口に運んでもらいながら、彼は彼女の髪をいじり、彼女が手をひっこめる前にその指にキスをした。彼は彼女の腕の絹のような肌に手を滑らせた。彼女は体を震わせ、にっこりした。

マキシマスは食べ物を一口呑み込んで聞いた。「君はどこの出身?」

彼女は皿と彼の口の間で手を止めた。「ローマ生まれよ。」

「君は奴隷なのか?」

彼女はうなずいた。

「何があった?」

「生まれつきの奴隷なんです。両親のことも知らないし。」彼女は身をのりだしてキスをした。じっくりと長いキスだった。彼女は「あなたは質問ばかりするのね。」と囁いて、座り直した。

「君はいくつだ?」彼は質問を続けた。

「よくわからないわ。18くらいだと思うけど」

マキシマスはワインをすすりながら彼女を見つめた。彼女は今までに見た中で、いや、想像した中でも、一番美しい女性だと断言できる。この女性がカシウスや彼女を欲しがる他の将校たちの玩具だと思うと、彼は気分が悪くなってきた。年若い彼女が今までの短い人生の中でやらされてきたであろうことを考え、彼は重いため息をついた。

ジュリアは苛立っていた。「あたしと一緒では楽しくないの?」彼女は彼のチュニックの下の太腿に手を滑らせ、彼がその手首をつかんで止めると、「お願いよ、将軍。様子がおかしいのに気づかれるわ」とせっぱつまった声で囁いた。「あたし、いつもは男を喜ばせるのが上手なのよ。」

彼は手をゆるめたが、離さないで言った。「おれは結婚しているんだ」彼は急いで言った。

「ここにいる男の半分は結婚しているわ。カシウスにも奥さんがいるわよ。」彼女は懇願するような目で彼を見た。

彼はまたため息をついた。「おいで、」そう言って、彼は彼女の体を自分の体の上に引き寄せた。彼女の脚は彼の腰の両側に置かれ、胸は彼の胸に押しつけられていた。彼の片手は彼女の背中を愛撫し、そして尻へと下がっていった。彼女が彼の首に顔をつけると、彼は耳元で囁いた。「ジュリア、君の命を危険にさらすつもりはない。しかし、わかってほしい。私は妻を裏切ることはしないと約束したし、その約束を守るつもりだ。それがどんなに難しくても、どんなに君が欲しくても。じゃあ、さっさとキスして、あっちの部屋に移ろう。少しは話ができるだろう。」彼は顔を横に向けて彼女の口をキスでふさぎ、開いた口に舌をすべりこませていった。ジュリアは世界がぐるぐる回り始めるのを感じた。彼が離れようとしても、彼女は口をくっつけたまま放そうとしなかった。この人は燃えている。それはわかっていた。でも、彼女自身も燃え上がっていた。そのことは、彼女にとってショックだった。ようやく彼の口から舌をひっこめると、彼女はやさしく彼の閉じたまぶたの上にキスをした。彼はなんとか息を整えようとしていた。

「マキシマス、」彼女はささやいた。

彼はぱっと目を開き、「名前でよばないでくれ」とうめくように言った。

何て深い、素敵な声だろう。「なぜだめなの?」

「それは…その…親しすぎるから…」

「マキシマス、あたしはあなたの上に寝ているのよ。あなたとあたしの間にはほとんどなんにもないわ。それなのに、名前を呼ぶのは親しすぎるって言うの?」彼女は笑って、もう一度キスをした。

これには何と答えていいのか、まったく言葉が浮かんでこなかった。彼女はその沈黙に乗じて彼の胸に顔をすりよせた。彼の心臓が自分のと同じぐらい大きく打っているのを聞いて、彼女は嬉しくなった。彼は力強い腕をまわして彼女を固く抱きしめた。

「マキシマス、」彼女は彼の胸にため息を吹きかけた。「あなたにぴったりの名前だわ。強い名前ね。」彼女は少しの間じっと横たわっていたが、やがて身体を起して彼の顔をのぞきこみ、指で彼の豊かな髪をくしゃくしゃにした。「でも、優しい名前。」彼女は、とても信じられない、という気持ちをにじませて言った。「あたしに優しくしてくれる男はめったにいないのよ、マキシマス。いままで、抱きしめてくれた人なんていなかったわ。」

マキシマスは怒った声で、「カシウスには必ずたっぷり報いを受けさせてやる。君の分も。」と言い、ジュリアを驚かせた。そしてマキシマスはジュリアを横に転がし、寝椅子から落ちる前に片腕で膝を、片腕で腕をつかまえた。彼はジュリアを、空気でできているかのように軽々と抱き上げて、胸に抱き寄せた。そして、邪魔になるものは何でも踏みつけるか蹴飛ばすかしながら、カーテンで仕切られた小部屋に向かった。

 

マキシマスはテントの壁の帆布をぼんやりと見つめていた。ジュリアの想い出が一気に心に溢れ出してきた。彼女を抱いた腕の感触や声や匂いまで蘇ってくるようだった。

 

「シーッ」マキシマスはカーテンの微かな動きと床に射した僅かな光に気づいた。隣室にいるのがだれにせよ、こちらの様子を妙に思いはじめたか、あるいはじれったくなったようだ。光は消えた。「ジュリア、このまま静かにしているわけにはいかないようだ。何か音か声を立てないと。その…情熱的なやつを。」

このような危険な状態にもかかわらず、ジュリアは彼をちょっとからかってみずにはいられなかった。「あら、それなら、やっぱりあたしを抱いて下さるしかないんじゃないかしら、マキシマス?」

「だめだ。言っただろう…」

「はいはい、わかってます。からかっただけよ。心配しないで、演技するから。しょっちゅうやってるし。得意技よ。」ジュリアは頭を彼の肩に凭せかけて目を閉じ、だんだん息を荒くしていった。

「それをやりながら、話を聞いていられるか?」

彼女はうなずいて、荒い呼吸の合間に息を詰まらせる音をはさみ込んだ。

マキシマスは続けた。「マルセラスに伝えてくれ。おれは、マルクス・アウレリウス帝がここに到着されるまでカシウスを足止めしておくつもりだったが、いついらっしゃるか見当がつかない。カシウスを殺すのが、唯一の賢明な方法のようだ。」

ジュリアはうなずいて、喉の奥からかすれたうめき声を出してみせた。

マキシマス自身の呼吸も速くなっていた。ジュリアはそれに気づいて、満足そうににっこりした。「ああ、将軍」彼女はつぶやいた。「お願い、今のをもう一度…」彼女は自分の腰を彼にくっつけた。彼は彼女の尻をつかんで押さえたが、炎にでも触れたようにぱっと手を離した。ジュリアは彼の首の粗い髭にそっと唇を当てて、また息を荒くしていった。演技ではなく、本当に情熱がかき立てられているのが、自分でもよくわかっていた。マキシマスに身をもたせかけていると、想像するのはたやすかった。彼の力強い腕があたしを抱き上げて、腰の上に降ろし、そして…

「ジュリア、マルセラスに計画を進めるように言ってくれ。必要な助けは与えると。しかしそれには、実行の時におれが近くにいる必要がある。彼が−カシウスの部下のひとりが、手を下すということが重要なんだ。他の部下たちに…ジュリア?ジュリア?聞いているのか?」マキシマスはあわてて囁きかけた。

「ええ…」彼女は夢見るような声で言って、腰をまた押付けてきた。マキシマスは彼女が我を忘れてしまっているのに気づいた。彼女は激しく燃え上がっていた。集中力を失っているのではないかと心配になり、マキシマスは彼女を軽く揺さぶった。「ジュリア、聞いてくれ。おれには衛兵がぴったりついている。衛兵から逃れるのは難しいが、クローディアスの助けがあれば、夜に抜け出せるかもしれない。」マキシマスはもう一度カーテンを見た。カーテンは誰かが寄りかかって息を弾ませているように、速いリズムで内に外に揺れていた。ジュリアの演技は、彼女自身−と、マキシマス−以外の人間をも刺激しているようだ。

マキシマスは深呼吸して、なんとか感情をコントロールしようとした。そして、素早い滑らかな動きでさっとジュリアを抱き上げ、寝椅子に横たえた。木の脚が微かに軋んだ。マキシマスは寝椅子の横に立ってジュリアの顔をのぞきこみ、片足で立ってもう一方の膝をジュリアの開いた太股の間に置いた。彼女は手を伸ばして彼を引き寄せようとしたが、彼は首を振って彼女の手をつかみ、引き離した。ほんのわずか触れられただけで、彼女は背中をのけぞらせて痙攣し、彼の名を叫んだ。一瞬後、反対側のカーテンから深いうめき声が聞こえてきた。マキシマスは苛立って歯ぎしりした。三人のうちで、楽しんでいないのはおれだけか。

 

あの夜のジュリア…女性に対して、あれほど強い欲求を感じたことは今迄になかった。妻に対してさえも…ルッシラにも。彼はジュリアの運命に心を痛めた。しかし結局、彼も彼女を利用しただけなのだ。他の男たちと同じように。目的と利用のしかたが違っていただけで。マキシマスは手につかんだままの手紙を見つめた。返事を出すべきだろうか?彼女はおれからどんな言葉を聞きたいのだろう?どんなことを言うべきなのだろうか?おれは彼女に何を言いたいのだろう?

 

ジュリアは重いため息をついた。マキシマスは、その目が涙で光っているのに気づいた。彼女はためらいがちに言った。「あなたがあたしにしてくれたこと…あれは全部、仕事のため?」

マキシマスは答えなかった。正直に言って、自分でもどうなのかわからなかったからだ。「ジュリア、いつかいい人が見つかるよ。特別な人が。」

「マキシマス、私は奴隷なのよ。」彼女は苦しげに言った。涙で喉がつまっていた。

「カシウスがいなくなれば君は自由だ。君も、他の女性も当然、解放される。」

「でも、あなたは一人しかいないわ。そして、他の女性のものなんだわ。」

 

マキシマスは机に向って新しいパピルスを取り、鵞ペンをインクに浸けて書き始めた。
北部軍総司令官、マキシマス・デシマス・メリディアス将軍よりジュリア・セルヴィリア様へ返信
書出しを書いただけで、マキシマスは次に何を書いたらいいのかまったくわからなくなってしまった。彼はまたテントの壁を見つめた。心は黒海のほとりへと戻って行った。

 

ジュリアはローマまで乗ってゆく馬の上から、マキシマスを見下ろした。「また会えるかしら?」彼女は聞いた。

「いや」マキシマスは短く答えたが、その声は静かで優しかった。

彼女は微笑みかけた。「そうでしょうね。」

彼は微笑みかえした。「これから君は新しい人生を始めるんだ。忙しくなるよ。」彼は彼女の足に手を触れて言った。「本当に馬車じゃなくていいのか?」

彼女は首を振った。朝焼と同じ色をした金髪がゆらゆらと揺れた。「この方がいいわ。馬車って、閉じ込められてる感じがするから。もう閉じ込められるのはたくさんよ。」

マキシマスはよくわかる、と言うようにうなずいた。

ジュリアはためらってから言った。「心配はいらないわ、マキシマス。ローマの偉大な将軍と知り合いだなんて、あたし誰にも言わないから。」

彼は眉を寄せた。「どうしておれがそんな事を心配するんだ?」

ジュリアは基地の門の外を見つめて言った。「あなたに恥をかかせたくないの。」

「ジュリア」マキシマスは彼女の足を揺さぶった。「ジュリア、こっちを見て。」

ジュリアはためらいがちに振り返った。その目には涙が光っていた。

「君のような女性と知り合えた事を、おれは誇りに思う。君は強くて、賢い女性だ。カシウスが君にしたことは、君のせいじゃない。抵抗していたら、殺されていただろうからね。そうだろう?」

彼女はうなずいて息を整え、また遠くを見る目になった。「あなたが長く幸せな人生を送れますように、マキシマス。」

「将軍?」

「マキシマス将軍?」

「将軍!」

マキシマスははっとしてキケロの方を振り返った。「何だ?」彼はぼんやりと訊いた。心が現在に戻るのを拒んでいた。

「将軍、たった今斥候が戻って来ました。敵軍が東8キロの地点で川を渡り、こちらへ向っています!」

マキシマスは鵞ペンを取り落とした。机とジュリアの手紙にインクが飛び散った。彼はすぐに立ち上がった。軍服に着替えようと急ぐあまり膝を机にぶつけ、インク壷をひっくり返してしまった。書き始めたばかりの手紙に黒い染みが広がり、綴りかけた短い言葉は残らず消えてしまった。数分後、彼は剣を手にテントのドアを開いた。一陣の涼しい夜風が狭いテントを吹き抜けた。風はジュリアの手紙を机から持ち上げて部屋の暗い片隅へ飛ばした。手紙はテントの壁と床の間の、布の折り目の裏にしっかりと張りつき、深い影の中にほとんど見えなくなってしまった。

 

第80章 地下室

「副官殿!聞いて下さい!」使者が士官兵舎に駆け込みながら叫んだ。彼は砂利に足を取られて倒れかけ、地面に手をついて体を支えた。 そのすぐ後を恐い顔をした4人の衛兵が追って来ていた。昼食のテーブルについたばかりだったクイントスと3人の副司令がすぐに騒ぎに気づいた。オリヴィアとペルシウスも気づいてドアから駆け出して来た。オリヴィアは子供を抱えていた。心臓が咽喉のあたりまで飛び上がっていた。マキシマスからの伝言に違いない−でなければ、マキシマスに何かあったのだ。

「パパが帰って来たの?」昼寝のベッドから引っ張り出されたマルクスが眠そうな声で訊いた。

オリヴィアは息子の湿った髪を額からかき上げて言った。「まだよ。シーッ、大事な話だから、聞かなくちゃ。」

使者は一切の形式と礼儀作法を無視して、クイントスの腕をつかんで強引に注意を引き、息を切らしながら知らせを伝えた。「マキシマス将軍から直接の命令です。カストラ・レジーナへの攻撃は予想よりずっと小規模でした。将軍はこれは囮で、六千以上の大軍がこちらへ向ったのではないかと考えておられます。もうこちら岸に渡ったのではないかと…即座に村人を東の洞窟に避難させるようにとおっしゃいました。騎兵隊が誘導するようにと。騎兵隊は馬を全部連れて、基地から出るようにという命令です。村の南の十字路で将軍と落ち合うように。 それから、テントは全て畳んで岩の下に隠すように。敵が壁越しに矢で火を放てないようにするためです。木製のものはすべて濡らしておくように。診療所の装備はすべて将軍の家に運び込むようにという命令です。」 男は喘ぐように息を継いだが、クイントスの腕をつかんだ手はゆるめなかった。「騎兵隊以外の兵は全員壁に上がるようにという命令です。何があっても、敵を基地に入れてはならないと。将軍は二連隊の援軍を連れて、こちらへ向っておられます。ヴァンドボーナへは南から入られます。敵軍を挟み撃ちにするおつもりです。」彼は紙のように蒼白な顔のオリヴィアを見た。「奥様とご子息様は即座に避難所に入られるようにというご命令です。」疲れきった使者はようやく手を放し、肩で息をしながら退いた。

クイントスはマキシマスの命令を聞いていた副司令たちにうなずいて合図した。彼らは百人隊長たちに命令を伝達し、部下たちに戦闘準備させるために駆け足で散って行った。彼はオリヴィアの方を向いた。「奥様…」彼は言いかけたが、マキシマスの妻が口を挟んだ。

「クイントス、あなたはいろいろする事があるでしょう。心配しないで、マルクスと私は今すぐマキシマスの命令通りにするから。あなたは村の方へ行って。」彼女は返事も待たずに、ペルシウスの脇をすり抜けて寝室へ向った。マルクスは、使者の言葉はわからないながらもまわりの緊張を感じて怯えていた。オリヴィアはなんとか息子を宥めようとしていた。彼女は息子をベッドに寝かせ、部屋をばたばたと歩き回りながらやさしい声で話しかけた。「マルクス、パパが見せてくれた隠れ家を覚えてる?」

子供はためらいがちにうなずき、母親が二人の服を用意しているのを見ながら口に指を突っ込んだ。ペルシウスが毛布を手に部屋に入って来た。

「毛布はもう沢山入れてあるでしょう」彼女は弟に、少し苛立った声で言った。

「もっと必要かもしれない。マルクスのおもちゃも取ってくる。」

「ペルシウス、自分の着替えも持って来なくちゃだめよ」

彼は姉の顔を真っ直ぐ見つめ、反抗的に顎を上げて言った。「僕は入らない。」

「ペルシウス…」

「オリヴィア、僕は外に残った方が役に立つ。時々、姉さんたちの様子を見にくるから。」

「ペルシウス、あなたは戦争の訓練なんて受けてないでしょ?」

「ああ。でも、マキシマスの命令で診療所をこの家に移すことになってる。その手伝いぐらいは出来るよ。何か役に立ちたいんだ。」オリヴィアは胃がぎゅっと掴まれたように痛むのを感じた。この冒険にペルシウスを引っ張り込んだのは自分だ。そのせいで今、彼は危険な目に遭うことになっている…怪我をするかもしれない。あるいはもっと悪いことが起こるかもしれない。しかし、弟の顔には固い決意が浮かんでいた。止めることはできないだろう。オリヴィアは渋々うなずいた。

マルクスはべたべたの指を口から出して、「ペルシウスおじさんと一緒にいたいよ」と言った。子供の声はしっかりしていたが、泣き出しそうな気配もわずかにあった。

オリヴィアは息子の前にしゃがみこんだ。大きな黒い目に怯えが浮かんでいるのがはっきりわかった。自分の腕がふるえているのがわかってしまうといけないので、息子には手を触れないで言った。「マルクス、パパが隠れ家に入りなさいって。言うことをきかないとだめよ。そこにいれば危なくないし…」

「危ないって、どうして?」大きな目がうるみ出し、口がへの字に曲がりかけていた。

オリヴィアは子供をこれ以上怯えさせずに危険を説明するにはどう言ったらいいのかわからなかった−すでに、兵士たちがアトリウムに医療設備を運び込んでいる音が聞こえて来ていた−しかし、ちょうどその時を選んでジョニヴァスが入り口に現れた。

「おや、おや」彼はにこにこ笑いながら言った。彼は腰に手を当て、首を傾げて、きらきら光る目でマルクスを見た。「おじさんのひみつの隠れ家、坊やに見せてあげたっけ?」

マルクスはそっけなくうなずいた。今は技師のおふざけに付き合うような気分ではなかった。

「いやいや、その隠れ家じゃなくて。おじさんの作ったもうひとつの隠れ家だよ、マルクス。ああ、そっちも地下室にあるんだ。でも、おじさんしか知らないところにあるんだ。」彼は部屋に入って子供の方に歩いて来た。「時々ね、神様がそこに面白いものを置いといて下さるんだよ。見たいかい?」

「どんなもの?」子供は興味をそそられたようだ。オリヴィアは感謝をこめてジョニヴァスの肩に触れ、仕事に戻った。

ジョニヴァスは将軍の息子に前にしゃがんだ。「いろんなものさ。光る石を見つけたこともあるよ!」

マルクスは光る石には興味がないようだった。

「すごく立派な剣を見つけたこともある。神様がおじさんに下さったんだ。」

「剣?パパの剣みたいなやつ?」剣の方がずっといい。

ジョニヴァスはうなずいた。「でもね、一番素敵だったのはね…」

「なあに?」

「仔猫だよ。灰色と白の縞の…おじさんに下さったんだ。」

「仔猫?」マルクスの顔がぱっと輝いた。面白くなってきた。

「そうだよ。それにね、この間、神様にもう一匹仔猫を下さいってお願いしたんだ−坊やにね。でも、暇がなくてまだ見に行ってないから、下さったかどうか分からないんだ。一緒に行って見てみるかい?」

マルクスはにっこりしてうなずき、行っていいでしょう?と言うように母親の顔を見た。

オリヴィアは心からほっとして微笑んだ。「マルクス、ジョニヴァスおじさんと一緒に行っていいわよ。ママも後から行くからね。」

ジョニヴァスは子供をひょいと抱き上げ、オリヴィアにウインクを送ってキケロの寝室へ向った。隠し扉はキケロのベッドの下にあるのだ。

 

重い木の隠し扉が大きな音を立てて閉じられ、オリヴィアは闇の中に閉じ込められた。彼女は急な階段の途中に立ち尽くしたまま、ペルシウスがキケロのベッドを元の位置に戻す嫌な音に身を竦ませた。まるで生きながら埋葬されたようだった。ヴァンドボーナは攻撃に持ち堪えられるだろうか?もう夫には会えないのだろうか?彼女は階段にがっくりと腰を下ろし、目をこすった。夫に会いにゲルマニアへ行こうと思いついた時には、こんなことになるとは予想していなかった。夫の生活が危険に満ちていることは分かっているつもりだった。しかし、何も分かっていなかった。何一つとして、理解していなかった。こんなことは想像もしていなかった。

「奥様?」ジョニヴァスが階段の下から優しく声をかけた。

オリヴィアは目を開け、薄暗さに目が慣れて周りがはっきり見えるのに気づいた。自分が馬鹿の弱虫になったように思えて、彼女は目を拭って立ち上がった。

「怖がられるのは当然ですよ、奥様。皆怖がっているんです。ベテランの兵士でさえ、戦闘の前には怖くて胃が痛くなるんです。」

「マキシマスも?」彼女は小さい声で言った。

「ええ、もちろん。でも将軍はそれをお見せになりません。部下たちはそんな将軍を見て勇気を奮い起こすんです。」ジョニヴァスは手を差し伸べてオリヴィアが最後の数段を降りるのを助けた。「お座りになって下さい。ここは将軍の奥様にふさわしい場所にしようと時間をかけて準備しましたから、けっこう快適にお過ごしになれると思いますよ。」

「ありがとう、ジョニヴァス。」

「あなた方についているようにマキシマスに頼まれたんです。」

「ごめんなさいね。外で他の方たちと働きたいでしょうに…」

「いいえ、奥様。こういう時にマキシマスの心を少しでも軽くすることが出来るなら、それほど大事な仕事はありませんよ。」ジョニヴァスは微笑んでオリヴィアに糖蜜入りのワインを注いだ。「お留守の間、ご主人に代わりましてあなた方の護衛とお世話を致します。」

二人はしばらく黙って座り、マルクスがみゅうみゅう鳴く灰色と白の縞の仔猫を撫でるのを見ていた。暖炉には小さな火がぱちぱちと音を立てながら部屋を暖め、片隅をやわらかな光で照らしていた。その静けさは不気味なほどだった−床が厚いので地上からの音は入って来なかった。

「ジョニヴァス…私たち、マキシマスの無事な顔をまた見られるわよね?」

「奥様、それはわかりません。」

「あなたに家族の面倒を見て欲しいって言ったのは、もし…」オリヴィアの声は途中で途切れた。

「そうです、奥様。」ジョニヴァスは地下室を見回した。「ここはあまりいい場所とは言えませんが、少なくとも暖かくて安全です。食料も水も充分あります。ご主人はあなた方の安全を確保されました。しかし、残念ながら、ご自分の安全を確保なさるわけにはいきません。これは理解なさらなければなりません。彼は戦士なんです。」

「そんなことは分かってるわ。」

「しかし…ここにマキシマスを訪ねて来る事をお決めになった時に、こんなことが起こると予想されましたか?」

彼女はみじめな気持ちで首を振った。

「そうでしょうね。そんな危険なことを予想していたら、子供を連れてくる母親はいません。」ジョニヴァスは優しく言った。「あなたの弟さんのような若い男性には、マキシマスの人生はわくわくするような冒険に見えることがあるようです。とんでもないことです。彼の仕事は帝国中でもっとも難しい仕事で、マルクス・アウレリウス陛下は賢明にも、その仕事にあなたのご主人をお選びになった。残念ながら、その仕事のために、将軍には気を抜く事はほとんど許されていません。判断を誤る事は絶対に許されないのです。」

「私たちはここに来るべきじゃなかったって事?彼の気が散るから?」

「いいえ、奥様、とんでもありません。あなた方がいらしてから、将軍はとても元気になられました。以前とは比べ物にならないぐらいです。ただ、あなたはこれから、マキシマスが数年に一度しかスペインのあなたの元へ帰れない理由を、その目でご覧になる覚悟をなさらなければなりません。」

オリヴィアは深呼吸した。「マキシマスは大丈夫よ。きっと無事で帰ってくるわ。」オリヴィアは自分に言い聞かせるように言った。

ジョニヴァスは慎重に言葉を選んだ。「奥様、将軍の軍服がなぜ暗赤色なのかご存知ですか?」

「それは…ローマ軍では、司令官の服の色は赤と決まっているから…」

「そうです。その理由は、服が赤いと将軍が血を流していても部下にはわからず、部下の士気をそぐことがないからです。将軍が血を流して死にかけていても、軍服がそれを隠すのです。」

「ジョニヴァス…私の夫が血を流すなんていう話をして、それで慰めているつもりなの?」

「奥様、ご主人と部下たちがこれからどんなことをするのか、あなたに分かって欲しいのです。大事なことです。」ジョニヴァスは彼の将軍の妻の美しい顔を見つめた。「マキシマスが戦闘の前にいつも、土を手に擦り付けて匂いをかぐのをご存知ですか?」

「今でも?初めて逢った時に、農場でそうしているのを見たわ。久しぶりに軍から故郷に帰って来た時に…」

「理由をご存知ですか?」

「それは、農夫だから…」

「そうです。でも、もっと深い理由があるのです。以前、理由を訊ねてみました。将軍は少しきまり悪がっていらっしゃいましたが、ワインの杯をかなり重ねた後に何とか聞き出しました。将軍は、自分の血を吸い、亡骸を包むことになるかもしれない土の感触と匂いを知っておきたい、とおっしゃいました。戦闘の前には、いつもその儀式をなさいます。死ぬかもしれないことを意識なさっているのです。」

オリヴィアは衝撃のあまり涙も出なかった。涙は咽喉のあたりにつかえていた。「あなたの…息子さんも…外にいるんでしょう?」

「はい。息子は兵士です。」

「それなら、私の気持ちも分かるでしょう?」

「分かります。だから、一緒に愛する者たちの無事を祈りましょう。一緒に無事を祈ることなら出来ます。」

 

第81 〜 85章