Maximus' Story
Chapters 86 - 90


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第86章 祭壇

マキシマスは自室の祭壇の前に額を掌で支えて座っていた。薄暗い部屋の中で、そこだけがほのかに明るかった。何十本もの蝋燭がまたたき、彼の髪を黄色い光で照らしていたが、その顔は影に沈んでいた。彼の唇は声もなく動いていた。彼は知っている全ての神々、女神、そして先祖の霊に息子の命を助けて欲しいと祈っていた。

その光は、彼の肩にやさしく置かれた手を照らし、後に立っている女性の美しい黒い瞳に反射していた。疲労と心痛にやつれた顔の中で、瞳だけが光を宿していた。オリヴィアも息子のために祈っていたが、彼女は密かに、夫のためにも祈りを捧げていた。夫は息子を失う恐怖に打ちのめされてしまったようだった。突然ドアが開き、部屋に光が射した。オリヴィアは夫の頭の上にやさしくキスをして、クイントスを迎えた。彼は部屋に入ると夫婦の邪魔をしてしまうような気がしてドアの所でためらっていた。先日の戦闘以来、クイントスは将軍と話をする機会を持てずにいた。マキシマスは息子が起きている間はずっと側につきっきりで、子供が寝ている時には祭壇で祈っていた。将軍は食事に手をつけようとせず、彼自身の容態の方が悪化しそうになっていた。子供は少しづつ快方に向かっているにもかかわらず。彼はほとんど椅子に座ったままだった。寝る時さえそこで寝ていた。そして、アトリウムと寝室の間を車輪付きの台に乗せられて往復していた。移動する時の揺れを最小限にするためにジョニヴァスが大急ぎで作ったものだ。キケロもやつれ切っていた。彼は将軍の側を離れようとせず、今も横に座って、祈りを捧げている彼を心配そうにじっと見守っていた。横のテーブルの上には、食事の皿が手をつけられぬまま放置されていた。

「あいつがこんな風になるのを見たのは初めてです」クイントスがオリヴィアにささやいた。

「私もよ」オリヴィアが言った。「怖いわ。マルクスとしか話をしようとしないの。それ以外は、まるで…まるで…自分の世界に閉じこもっているみたい。マルシアヌスの話では、薬の影響じゃないかって。人によっては、阿片は後で強い悲しみの感情を引き出すことがあるのですって。薬の副作用とマルクスの病気が重なって絶望的になってしまったのかしら。本当にあの人らしくないわ。」

クイントスはうなずいた。「どんなに激しい戦いの時でも、マキシマスはいつも気力を高く保っていて、それが部下たちの士気を支えていたんです。こんなに落ち込んでいるところを見るのは初めてです。」

「私もあの人を心の支えにしてきたのよ。」オリヴィアは頭を垂れ、背を丸めている夫を見た。「もしかしたら、私たちみんな、あの人に頼りすぎだったのかも…もしかしたら…部下をたくさん失って、自分も傷ついて、それに息子の病気…一度に耐えられる限界を越えたのかもしれない。少し時間が必要なだけかも…」

「彼も人間だってことを、つい忘れてしまうんだな」オリヴィアとクイントスが振り向くと、いつの間にかジョニヴァスが後に立っていた。「すみません、奥様、耳に入ってしまいまして。」彼は椅子に座っている男を見つめた。「私が話してもよろしいでしょうか?」

「いいけど、ジョニヴァス、」オリヴィアは言った。「私たちが話してもだめだったのよ。あなたが話しても同じだと思うわ。みんなが説得しようとしたけれど、何も答えてくれないのよ。」

しかし、ジョニヴァスは寝室には入らずに背を向けて家を出て行った。彼は間もなく、よい香りのする焼きたてのパンやチーズ、初夏の果物を満載した皿を手に戻って来た。彼はマキシマスの方へ真直ぐ歩いて行った。その間ずっと、マキシマスは身じろぎもしていなかった。ジョニヴァスはキケロの方をちらりと見て、将軍のすぐ側に椅子を持って来た。マキシマスの唇は一瞬動きを止めたが、ジョニヴァスが椅子に腰を下ろすのを無視してすぐにまた祈り始めた。パンの香りに気づいたとしても、そのようなそぶりはまったく見せなかった。

ジョニヴァスは祈っている男の肩に軽く手を置いた。「マキシマス、マキシマス。君の祈りはもう神々に届いているよ。そろそろ地上に目を向けたらどうだ。ほら…食事を持って来た。もうずいぶん長いこと、何も食べていないだろう。みんな君の事を心配している。」

マキシマスは彼を無視した。

ジョニヴァスは諦めなかった。「マキシマス、私には君の気持ちがよくわかる。しかし、自分を痛めつけても息子のためにはならん。あの子のためにも、元気にならなくては。食べないと身体がもたんぞ。」ジョニヴァスはチーズを差し出した。「ほら、頼むから食べてくれ。」

マキシマスは祈り続けていた。まるで、神々と自分の他は誰もいないかのように。

ジョニヴァスはチーズを掴んだままの手を膝に落とし、深いため息をついた。「マキシマス」彼はもう一度やってみた。「もう君に出来ることはない。神々はもう君の祈りを聞いたよ。とっくにお願いした事を繰返してどうする?もう他に頼むことはないだろう?」

マキシマスがかすれた声で言った言葉に部屋にいた全員がショックを受けた。「息子の代わりにおれを殺してくれとお願いした。」

「何だって?」ジョニヴァスは自分の耳が信じられなかった。

オリヴィアは息を呑んだ。ほとんど泣いているような声だった。キケロはよろめきながら立ち上がった。彼はマキシマスの方へ手を差し伸べたが、その手をどうしてよいかわからないままがっくりと落とした。彼は陸に上げられたばかりの魚のように口をぱくぱくさせた。その表情には苦悩がはっきりと表れていた。

マキシマスは唇をなめ、下を向いたまま言った。「もう二度と、子供を失うのには耐えられない。また子供を失うぐらいなら、死んだほうがましだ。神々に、代わりにおれを死なせて欲しいとお願いした。」

ジョニヴァスは黙ってマキシマスを見つめていた。彼は口をだんだん固く引き結び、目を細めた。彼は唐突に立ち上がり、食べ物を盛った金属の皿を力強い腕で思い切り壁に投げつけた。皿は床にぶつかって大きな音を立て、激しく回転しながら食べ物をそこらじゅうに撒き散らした。突然の大きな物音にマキシマスは思わずひるみ、本能的に腕で頭を庇った。彼はよろめきながら椅子から立ち上がり、未知の敵に対する時のように身体を低くして構えた。ジョニヴァスは今空になったばかりの椅子を掴み、部屋の反対側に放り投げた。椅子は床を滑ってベッドに衝突した。彼は車輪付きの台を思い切り蹴りつけた。台も椅子と同じ方向に飛んでいった。マキシマスは苦しげによろめいた。ジョニヴァスは彼に近づき、身体が触れるほどの所に立った。キケロは将軍の隣に立った。ジョニヴァスが何をするつもりなのかわからず、緊張していた。

オリヴィアは怪我をしている夫を助けに行こうとしたが、クイントスが引き止めた。「奥さん、ジョニヴァスは彼を傷つけたりしませんよ。様子を見ましょう。」

ジョニヴァスとマキシマスは顔をつき合わせて立っていた。背の高い方の男は痛む脚を庇い、少し背をかがめていた。彼は息をするのも苦しそうだったが、口は頑固に引き結ばれていた。「これは一体何のつもりだ?」マキシマスは技師に怒鳴った。

「殺してくださいとは、何てことを言うんだ!」ジョニヴァスは吐き出すように言った。

「おれの命だ。どうしようと勝手だろう」マキシマスはぞっとするような冷たい声で言った。

「『おれの』命だと!私のたったひとりの息子がその命を救うために死んだんだぞ!それをわかって言っているのか?」

マキシマスは何度も目を瞬いた。固く引き結んでいた口が少し緩んだ。

「私の息子のことなどどうでもいいのか?息子が命をかけて守ったものを、簡単に捨ててしまえるほどに!」悲しみと怒りの涙がジョニヴァスの目に光っていた。

マキシマスは首を振った。「とんでもない…ジョニヴァス、もちろんそんなつもりは…」

「だったら証明しろ。マキシマス、君は生きる義務がある。私に対して。たとえ君の子供に何があろうとだ。人間は子供を失っても生きてゆける。私がその証拠だ。私も死にたかった。しかし、私には他にも生きて行く理由がある。君もその理由のひとつだ。…自分のことばかり考えるな。」

マキシマスは殴られでもしたように後によろめき、混乱した表情を浮かべた。「自分のことばかり…?」

ジョニヴァスは黙って、顎を上げて彼の将軍を軽蔑の目で見つめた。

マキシマスはジョニヴァスの肩越しに妻を見た。彼女は手を口に押し当て、目を大きく見開いて立っていた。クイントスが彼女の隣に、冷静な、真剣な顔で彫像のようにじっと立っていた。将軍はゆっくりと技師に目を戻した。彼はまだ将軍を厳しい目で睨みつけていた。マキシマスは頭の中の霧を払うように首を振り、祭壇を見て、それからキケロを見た。そしてジョニヴァスに視線を戻した。彼は振り向き、痛そうに脚を引きずりながらベッドの方へ向かった。

ジョニヴァスは祭壇の後へ行って鎧戸に手を伸ばして開いた。夕日が部屋に射した。黄金の光がオリヴィアの描いた誇り高い夫の肖像を照らし出した。意気揚揚と駆ける黒い駿馬に乗り、真鍮の鎧と毛皮を纏った、ローマ最高の将軍の輝ける姿。

マキシマスは立ち止まって光の中の自分の姿を見つめた。

「その男が誰かわかるか、マキシマス?」ジョニヴァスが彼の耳元で、厳しい声で囁いた。「それは私の息子が命がけで守った男だ。ローマ軍の兵士なら誰でも、彼のためなら喜んでその命を投げ出す、そういう男だ。君はただの人間ではないんだ。神々に選ばれた人間だ。君は本当に特別な男だからだ。君の命は家族のものだが、君はローマの僕でもあるんだ、マキシマス。どちらか一方を捨てて、一方のために勝手に命を差し出すことは許されない。神々もそんな願いには耳をお貸しにならないよ。勝手にそんな願い事をする権利はない。」

マキシマスは日がゆっくりと翳るまで自分の肖像を黙って見つめていた。見つめるうちに、絵の中の男の魂が、永遠の命を持たないその似姿へと乗り移ったようだった。マキシマスはゆっくりと背筋を伸ばし、頭を上げた。「悪かった…ジョニヴァス。君の言う通りだ。おれには生きる義務がある…君の息子や…他の多勢の父親の息子たちに対して。自分の息子に何があっても。おれは…自分ほど苦しんでいる人間はこの世にいないみたいに思っていた。」マキシマスはゆっくりと振り返った。彼は目に涙をためている妻を見て、それからその頭越しにアトリウムを見た。「この基地の中にさえ、他にも息子と同じぐらい苦しんでいる子供たちがいて、同じ思いをしている父親たちがいるのに…母親たちも…」マキシマスは目を閉じた。「悪かった。おれは自分の義務を忘れていた。期待を裏切っていた。」

「すぐに諦めるなんて、あなたらしくありませんよ」ジョニヴァスは優しく言った。「あなたは戦士なんですから。最近、将軍の様子は変でしたよ。あなたらしくなかった。」

マキシマスはうなずいて目を開けた。「最近ずっと、自分が自分でないような気分だったんだ。」彼は技師の腕をつかんだ。

キケロは、緊張のあまり耳にくっつきそうな程いからせていた肩から、なんとか力を抜こうとしていた。彼は何か、いつもやり慣れたことをする必要を感じ、部屋を歩き回ってランタンをつけた。オリヴィアは夫を抱きしめた。

「脚、まだ痛む?」オリヴィアが訊いた。彼はほとんど左脚だけに体重をかけ、右足をだらりと下げていた。

「ああ。」彼は正直に答えた。「でも、もう薬はいいよ。」

「椅子を取ってくるわ。」離れようとした妻を、マキシマスは抱き止めた。「いいよ。要らない。歩くから。杖が要るかもしれないが、おれは歩く。マルクスに…部下たちにも…おれがちゃんと歩いているところを見て欲しいんだ。」

ジョニヴァスはマキシマスに微笑みかけた。「杖を探して来ますよ。いいのが見つからなかったら…私が作りますよ。将軍にふさわしいやつをね!」部屋を出る時、彼はクイントスとマルシアヌスとすれ違った。軍医は少し前にそこに来て、マキシマスの変貌を見守っていた。

軍医は長い灰色の髪を後に払った。疲れた顔にゆっくりと微笑が広がった。「マキシマス、歩けるようになったのか。ちょうどよかった。マルクスが目を覚まして君に会いたがってる…」

オリヴィアは夫の腕を取って自分の細い肩にまわし、彼を支えてアトリウムまで歩こうとした。

マルシアヌスは腕を組み、夫婦の方を見てにっこりした。「…それに、熱は下がったよ。」

オリヴィアは喜びの声を上げ、夫の腕をすり抜けて全速力でアトリウムへ走っていった。マキシマスはバランスを失って倒れそうになり、クイントスとキケロがあわてて手を差し伸べた。二人は両側からマキシマスの腕をつかんで支えた。三人はほっと息をついた。

「おいマキシマス、奥さんはどっちが大事かちゃんと決めているようだな。」クイントスが言った。

マキシマスは二人を立ち止まらせ、真剣な顔で訊いた。「おれ、そんなにひどかったか?そんなにオリヴィアを無視していたかな?」

キケロは真剣な顔でうなずいた。「その通りです。奥様はお辛かったと思いますよ。この埋め合わせには、よっぽどのことをして差し上げないといけませんよ。」

三人はまたアトリウムへ向かって進み始めた。「それで、どうすればいいと思う、キケロ?」マキシマスが訊いた。

「えーっと…ローマへ休暇旅行はいかがですか?」

「ローマ?」マキシマスはあまり気乗りしない様子で言った。

「宝石はどうだ?」クイントスが提案した。「今時分は、ヴァンドボーナの市で金製品や宝石が売っているぞ。」

「それもいいかな」マキシマスは考えにふけりながら脚を引きずって行った。「しかし、一番喜ぶことは何だと思う?」

「何だ?」クイントスとキケロが異口同音に訊いた。

「スペインに帰ることだよ。」

「将軍がご一緒ならね。」キケロが言った。

「そうだな、それも何とかなるだろう」マキシマスが言った。「きっと、何とかするよ。」

 

第87章 スペイン

緑なすスペインの丘と秋の陽射が、マキシマスとその家族を暖かい抱擁で迎えた。やっと…やっと、故郷に帰って来たのだ。高い丘の上に立つ我が家が遠くに見えると、彼の心は舞い上がった。我が家を囲む穀物畑は収穫の時を迎え、果樹は熟した実で重くなっていた。彼はアルジェントのスピードを上げ、妻と眠っている息子の乗った馬車を後に残して駆けて行った。

マキシマスの傷が完全に癒え、マルクスが充分回復するまで待たなければならなかったので、スペインへの出発は何ヵ月も遅れた。幸い、ヴァンドボーナの激戦の後、ゲルマニアの夏は珍しく平穏だった。マキシマスは空いた時間を利用して、比較的安全に家族を基地の回りの村や田園に案内することができた。それでも、いつも武装した兵士を多勢引きつれていた。マルクスは村の子供たちと友達になり、基地や村で毎日一緒に遊んだ。マキシマスは怪我をした脚を、元通りの強さを回復するまで毎日運動させた。オリヴィアは毎晩、日に日に小さくなってゆく傷に軟膏をすりこみ、その後時間をかけてたっぷりと愛し合った。

そしてついに、帰って来たのだ。馬車の中のオリヴィアには夫の姿は見えなかったので、馬車が家の前で止まるまでいないのに気づかなかった。召使たちがドアから飛び出し、作男・作女たちは畑から走って来て主人の一家に挨拶した。オリヴィアは涙を浮かべた使用人たちに次々に抱擁を受けた。彼らはマルクスを高く抱き上げて、しばらく見ない間に大きくおなりになって、と口々に言った。

友人たちに心をこめて挨拶しながら、オリヴィアの目は夫を探していた。故郷に帰った来れた喜びに包まれながらも、何かがおかしいような気がした。マキシマスはどこにいるのだろう?皆が、マキシマスはどこにいるのか訊ねた。彼女は答えの代わりに肩をすくめた。キケロが門から続く道の、背の高いポプラの木の方を指差した。彼はひとりで、その根元に跪いていた。

マキシマスが家に続く階段を上って来た時にはすっかり日は翳っていた。風呂上りのオリヴィアが道で彼を迎えた。

「娘と話をしたかったんだ」彼はささやいた。

「わかるわ、あなた」オリヴィアは言った。二人は腕を組んで我が家に続く階段を上って行った。

 

「あーあ…疲れたな。」マキシマスは伸びをしながらそう言って、あくびをした。「年中ここに住んでるんじゃなくてよかったかもしれないな、キケロ。おれは豚みたいに太って、怠け者になっちまう。」

「そんなことはないでしょう」キケロは微笑んで言った。実際、マキシマスはこの上なく健康的に、くつろいで見えた。故郷にいる時はいつもそうしているように、髪と髭を長目に伸ばしていた。一日中畑で働いているために、顔は日に焼け、身体はますます逞しくなっていた。彼は簡素なチュニックとサンダルを身につけ、地元の農民と言っても通る姿をしていた。しかし、そうでないことは皆が知っていた。よい暮しに慣れて鈍ってきているのは、どちらかというとキケロの方だった。マキシマスは彼の仕事を免除し、家族の一員として扱っていた。

家や農地の手入れをしたり、息子と遊んだりする他に、マキシマスは時々地元の市に出掛け、作物を売っては日用品を買っていた。エメリタ・オーガスタの住民たちは、彼のような有名人がこんな所に現れるのにだんだん慣れて来た。しかし、彼を見ると立ち止まって、人の姿を借りた神か何かのようにじろじろと眺めた。

だんだん日が短く、夜は涼しくなってきてた。家族は焚火の前に座って一日の出来事を話し合いながら静かな夕べを過ごしていた。一家はよくオリヴィアの実家を訪ね、夜遅くまでお喋りやゲームを楽しんだ。マルクスは多勢のいとこ達と遊び、ペルシウスは自分のゲルマニアでの冒険について大げさに尾ひれをつけて話した。時々、マキシマスは呆れて眉を上げた。兄たちと父親は、夫に会うために黙って危険な旅に出てしまったオリヴィアをようやく許してくれた。が、もう二度とこんな事はしないで欲しいと厳しく言った。あんな事はもう二度とありません、とマキシマスは保証した。妻はゲルマニアで、もう一生分の辛い思いをしたのだから。

 

冬が近づき、空気はかなり冷たくなっていた。夜は長くなっていた。マキシマスとオリヴィアは長い夜を、毛布の下で抱き合い、話し合い、笑い合い、愛し合って過ごした。二人とも、あるひとつの事にだけは触れようとしなかった。マキシマスがゲルマニアに発たねばならない日が迫っているという事を、口に出すのを怖れていた。その日が来たら、彼はこの世でもっとも愛する者たちと長い間離れて過ごさなくてはならないのだ。マルクス・アウレリウスは一月の初めまで家族の元で過ごす許可をくれていた。十二月も終わりに近づいていた。

ある朝、マキシマスが目覚めると、妻は暖炉の前に座って炎をじっと見つめていた。彼は目をこすって眠気を覚ました。「オリヴィア?」

彼女は振り向いてマキシマスの顔を見た。「マキシマス…ジュリアって誰?」

彼は妻の手にある破れたくしゃくしゃの手紙を見下ろし、彼女の顔に目を戻した。彼はベッドの上で身体を起こして毛布を腰のところまで落し、何も身につけていない胸と腕を出した。「それ、どこにあったんだ?」彼は穏やかに訊いた。

「ゲルマニアで、兵士がテントを広げて干していた時にこれが貼り付いているのを見つけたの。それで、私の所に持ってきて、あなたに渡してくれって。だから…ほら、渡すわ。」

マキシマスは妻の機嫌を直そうと、にっこりして「ずいぶん長いことかかったんだな。」と言った。まるで効かなかった。オリヴィアはむっつりしたまま背を向けてまた炎の方を見た。彼はため息をついた。「彼女は昔、おれがカシウスを殺した時手助けしてくれた若い女奴隷だよ。彼女のことは話しただろう?覚えてないのか?」マキシマスは妻を真直ぐ見て言った。

「よく手紙を寄越すの?」

「いや、その一通だけだ。彼女がその後どうしたのか、その手紙が来るまで知らなかった。」マキシマスは腕を組んだ。「読んだのか?」

「いいえ。」

「読んだ方がいいかもしれない。いいから読めよ。実際、その方がおれも気が楽だ。何も隠すような事はないんだから。」オリヴィアは動かなかった。「ほら、読めよ」彼は言った。

彼女はすこしためらってからパピルスを広げ、火にかざして読みはじめた。読み終えると、手紙を膝に置いて夫の方を見て言った。「これはラブレターだわ。」

マキシマスはぽかんと口を開けた。「ラブレターだって?何を言っているんだ?ただの礼状だよ。単に、今は落ち着いて幸せに暮らしているって−幸せな結婚をしたって、おれに知らせたかっただけだろう。」

「ラブレターよ」オリヴィアは言い張った。「よく読めば、彼女のあなたへの気持ちがはっきり読み取れるわ。」

マキシマスは絶望的に両手を挙げた。

「美人だった?」

「ああ。でも君ほどじゃない。」

「彼女と寝たの?」オリヴィアはちょっと震える声で言った。

「とんでもない!オリヴィア、おれは君に生涯貞節の誓いを立てたんだ。そしてそれを守ってる。頼むから、浮気してるなんて思わないでくれよ。おれは君と結婚して以来、ただの一度も他の女とは寝てない。」マキシマスは裸のままベッドから出て彼女を抱き寄せた。「今朝は何か変だぞ。どうしたんだい?」

オリヴィアは涙をこらえて彼にしがみついた。彼は妻の髪をやさしくなでた。「わからない…私、あなたを失うのが怖くてたまらないの。最近、いろんなことを考えてしまうのよ。離れている時間が長いから…」

「ああ、わかってる。おれも辛いんだ。でも少なくとも、ゲルマニアが夜も昼も美女の腕に抱かれて過ごすことができるような、ロマンティックなところじゃないってことはわかっただろう?おれの生活がどんなふうか、もう見当がついただろう。」

「今度は、あなたが病気で高熱を出して死ぬんじゃないかって心配してしまうわ。」

マキシマスは笑った。「ばかだな…そんな事を考えるなんて。おれは毎日毎日、兵隊を訓練したり、道路を作らせたり、斥候やスパイや使者やらと情報交換したり、起こりもしない戦争に備えて作戦を練ったりして過ごしているんだ。それを考えろよ。たいがいは、おれの生活は退屈そのものなんだ。見ただろう?実際の話、空いた時間はほとんど君に手紙を書くか、マルクス・アウレリウス陛下に報告書を書いて過ごしている。ジュリアが何でわざわざおれに手紙を寄越す気になったのか、全然わからない。」

「返事を書くの?」オリヴィアは顔を夫の胸に埋めたまま、くぐもった声で言った。

「いや」彼の妻の手から手紙を取って暖炉に放り込んだ。手紙は煙を上げて丸まり、燃え尽きて灰になった。マキシマスは妻をひょいと抱き上げてベッドへ運び、そこでそのまま昼まで二人きりの至福の時を過ごした。

 

3日後−177年、1月3日。マキシマスはアルジェントにまたがり、自分の農場を静かに見回していた。木の一本一本、花の一輪一輪、石の一つ一つまでを残らず頭に刻み込もうとするかのように。これから何ヶ月も−もしかしたら、何年も−離れていても、いつでもはっきりと思い出せるように。

オリヴィアとマルクスは玄関に立っていた。別れは長く、辛かった。オリヴィアは息子を腕に抱き、もう一方の手をケープの下で腹に当てていた。彼女は唇が震えないように口をしっかりと閉じていた。少年は勇気を振りしぼり、涙を堪えようとしていた。しかし、静かな涙がその頬をつたい落ちた。彼は小さな拳を胸に押し当てた。息子に敬礼を返すマキシマスの目が霞んだ。これ以上ここにいたら心弱くなり、馬を降りて永遠にここに残ってしまうだろう。彼はアルジェントの向きを変え、駆け足で去って行った。

 

第88章 選択

「またお目にかかれまして光栄にです、陛下。」皇帝の贅沢なテントの入口に気をつけの姿勢で立ったまま、マキシマスが言った。皇帝はゲルマニア・プリマのボーナに滞在中だった。

「おおマキシマス…入り給え、入り給え」マルクスはそう言ってお気に入りの将軍を暖かく抱擁し、嬉しげに背中を叩いた。マキシマスの肩をしっかりとつかみながら、皇帝の皺の寄った顔はほころんだ。それから、少し離れて彼をよく見た。「元気そうだな、マキシマス。脚はもう完全にいいのか?」

「はい、もう完全に回復しました。しばらくスペインで過ごしたのが良かった様です。休暇を認めて下さったこと、改めてお礼申し上げます。

「これでまたしばらくは休暇は上げられそうにないんだ。」マルクスが背を向けた時、マキシマスは皇帝が猫背になっているのに気づいた。彼はひどく弱々しくみえた−単に疲れているだけなのだろうか?「座り給え、マキシマス」マルクスは座り心地のよい椅子を指して言った。「鎧は脱ぎたまえ。ここでは必要あるまい。食事はしたか?」

「いえ、しばらく何も食べておりません。」マキシマスは正直に答えた。ケープと毛皮と鎧を外して椅子の横に置きながら、腹が鳴るのを感じた。彼は伸びをして胸を掻きたい衝動をこらえた。

召使が影から姿を現した。手にした盆には、泡立つ琥珀色の液体を満たした背の高いゴブレットが二つ載っていた。「マキシマス、ビールは好きかね?実は、ゲルマニアで長く過ごしたせいか、すっかりビール好きになってしまってね。」

マキシマスは微笑んだ。「私もです。ワインに飽きた時には良い気分転換になりますが、慣れるのには時間がかかりました…ちょっと苦くて。スペインにはこういう物はありませんから。」彼は盆からゴブレットを取り、皇帝を称えるようにさし上げた。「帝国の平和に。」

マルクスもゴブレットを上げ、一息に飲み干した。飲み終った時には息を切らしていた。マキシマスは気づかぬ振りをしようとしたが、唇がほころぶのを抑えられなかった。しかし、笑みが顔じゅうに広がっていたのには、マルクスが眉を上げ、にやにやしながらこう言うまで気づかなかった。「ああ、マキシマス、君といると楽しくてね。心から寛いで、好きなことを言って好きなようにふるまえる。」

「そう言って頂けて光栄です。私も陛下との時間を楽しませて頂いております。あまりお会いできないのが残念です。」

「その通りだ。もっとビールを飲むかね?」

「いただきます。」ゴブレットはすぐに満たされた。今度は二人とも一気飲みはせず、醸造酒の味をゆっくり楽しんだ。「陛下はローマへ帰っていらしたんですね?」

「そうだ。いろいろと用があってね。あまり楽しい用事じゃなかった。またしても、増税しなければならなかった。今や全部の前線で戦争をやっているので、その費用を賄うためにな。彼は間を置き、注意深く言った。 「マキシマス、ムーア人が南イスパニアを侵略した。知っていたか?」

「何ですって!知りませんでした」マキシマスは動揺して背を伸ばした。「陛下、イスパニアに駐屯しているのは何連隊ですか?あまりいないのではないですか?」

「マキシマス、落ちつきたまえ。侵略は鎮圧するよ。イスパニア常駐の連隊は一つきりだが、もうイタリアとガリアから三連隊派遣した。侵略軍は大した規模ではないし、すぐに鎮圧出来る。君の家の近くには行っていないよ。」

マキシマスは首筋をこすり、ゴブレットを取って一気に飲み干した。すぐにかわりが注がれた。

将軍が何とか落ち着きを取り戻すと、マルクスは続けた。「増税だけでは足りなくてね。私個人の財産を競売にかけたよ。皆にはもっと大きな犠牲を強いているのだから、せめてそのぐらいはしないとと思ってな。宝石を売った。娘達には気に入っている物だけ残させて、あとは売ってしまった。宮殿の部屋がいくつか空っぽになってしまったよ。」

「お気の毒です。」

「まあ…我々すべてが、国のために犠牲を払わなくてはならんのだよ、マキシマス。ローマ市民としての義務だ。徴兵の人数もどんどん増やしている。兵隊を増やせば、軍服も装備も食事も必要だ。そもそも、兵士になれる男がいなくなってしまう心配まで始めているんだ。 最近は剣闘士まで正規の兵として入隊させている。剣闘士の中には、最近まで兵士だった不運な男も多い。かつての敵のために戦うことになるがね。」

「ひとつ、うかがってもよろしいでしょうか?」

「もちろん。」

「今お聞きした事を考えて、まだドナウ対岸の地を併合したいとお望みですか?」

「いい質問だが、まだはっきり答えることはできない。あの土地は資源が豊富でローマの国庫を潤してくれそうだが、手に入れるための代価も高そうだ。」

「財政的な代価だけでなく、人命の犠牲もです、陛下。」

マルクスはうなずいた。「そうだ。わかっている。私も君同様、同胞の死を見たくはない。しかし、帝国を強くあらしめるためには必要な犠牲なんだ。」彼はマキシマスの目を真直ぐ見つめた。「言ったように、我々全員が、犠牲を払わなくてはならない。」皇帝はビールを飲み干し、もう一杯受取った。マキシマスはもう充分だと言って断った。「ローマに帰ったのは7年ぶりだった。信じられんだろう?最近はローマに行くとよそ者になったみたいに感じるよ、マキシマス。私が即位してからローマはずいぶん変わった。その変化を間近で見ていなかったから、驚くことばかりだ。ローマの最新流行を知っているか?」

それは質問ではなかったが、マキシマスは律義に首を振った。

「占星術だよ。星占いだ。」

「星占い?」

「そうだ…星が人間の運命を決めると信じて、配置を読むことだ。今やローマ中の人間が自分の星を占ってもらっている。占いに従って生活を変えるほどだ。」マルクスは濃い白い眉の下からマキシマスを見つめた。「ローマに住んでいたら、君もそうすると思うか?」

「星占いをしてもらうか、ですか?いいえ、陛下。そのような事はしないでしょう。私は、人間の運命は自分の行動で決まると信じる方です。星が決めるのではなく。もちろん、人生にはいろいろ予想外の事が起きますが、それにどう対応するかによって未来は決まるのだと思います。」 マキシマスは座り直した。「しかし…実は、私は時々予兆を見ることがあります。特に、戦闘の前ですが…しかし、それはこれから起こり得る事の徴候であって、未来を覗く窓などではないと思いますが。」彼はにっこりした。「おおかた、神々の示す予兆などではなく、単なる私の想像の産物でしょう。神経のせいですね。」

マルクスは笑った。「そうだな…私も君と同意見だ。人間の運命は自分自身が決める。しかし、他にローマで何が流行っていると思う?」

マキシマスはまた、礼儀正しく首を振った。

「誰も彼もが群れをなしてギリシアに押し寄せ、シビラの巫女詣でをしているんだ。」マルクスは呆れたように手を振った。「もちろん、シビラの巫女は大昔からいるが、今や巫女詣でが『流行の先端』なんだよ。元老議員まで行っている。巫女が恍惚状態になると、神々の秘密を明かしてくれると信じているらしい。政治問題まで相談している。例えば、未来の皇帝は誰になるかとか…そして、ご託宣を本に書きとめている。考えてもみたまえ!次の皇帝を決めるのは星でも神々でもない、私だ!」

「もちろんです、陛下。」マキシマスはうなずきながら言った。

「ああ、食事が来たようだ。ここは居心地がいいから、このまま食事にしよう。」マルクスはマキシマスに向ってにっこりして、二人の側にある小さいテーブルに食事を置くように召使いたちに命令した。「さて、」マルクスはパンを割きながら続けた。「次の皇帝を指名するのは私だという事には君も賛成だね?」

「はい、それは陛下の権利であり、義務です。」

「まさにその通り。その事については、最近よく考えているんだ。」マルクスはワインを一口啜った。「私はもう老人だからな、マキシマス。」

本当に、今のマルクスはとても年老いて見えた。将軍は目を伏せた。急に、食事が喉を通らなくなった。パンが喉につまりそうになり、ワインで流し込んだ。マルクスは彼をじっと見つめ、それからソファにもたれた。

「マキシマス、さっきも言ったが、数ヶ月前、私は久しぶりにローマへ帰った。ひとつには、長い間放っておいた家族の問題があって、もうこれ以上先延ばしに出来なくなったからだ。」彼はもう一口ワインを飲んだ。「帝位を乗っ取ろうとしたカシウスの陰謀からひとつ学んだ。後継者を指名しておかないと、私が死んだらこの国は大混乱に陥るという事だ。皇帝候補たちが後釜を狙って、私の死体も冷えぬ内に争い出すだろうからな。数年前にそうならなかったのは、ひとえに君のお陰だ。」

マキシマスは食べながら、反逆者の将軍と、自分が関わった彼の最期を思い出していた。あの将軍と同じぐらい野心的で手段を選ばない人間が、何十人も現れた可能性もあったのだろう。

「そうなれば帝国中が内戦状態に突入だ。皇帝候補が争って支持者をかき集め、将軍たちが権力を握ろうとローマに攻め込む。まったく、考えただけでもぞっとする!」小食な皇帝はもう食事を終えてしまい、ソファにもたれた。彼は目蓋の垂れた目で、食べ物を見つめて考え込んでいる将軍を見た。「私が死んだという噂が広まった時、ローマは恐慌状態になったんだ。元老院は瞬く間に、それぞれ別の皇帝候補をかついだ派閥に割れたよ。」マルクスは深いため息をついて顔をなでた。マキシマスはちらりと皇帝を見て、また視線を落とした。「あんな事は二度と起してはならん。それを避けるには、私が生きている内に後継者を指名するしかない。そのために、私はローマで娘たちの結婚を決めて来た。」

マルクスの狙い通り、この言葉にマキシマスはっと顔を上げた。背中に不快な冷たい感覚が走り、マキシマスはわずかに身震いした。マルクスが彼の反応を見ていたのに気づいて、彼はまた目を伏せた。一体何の話がしたいのだろう?

皇帝は続けた。「娘のひとりは、もちろん、もうクローディアス・セヴェルスと結婚している。下の二人は、アンティスティウス・アドヴェンタス将軍家のバラスと、スーラ・マメルティヌスと婚約させた。三人とも、何も出来ん無能な男だ。未来の皇帝を悩ませる事はあるまい。」マルクスは言葉を切った。部屋は静まり返り、聞こえるのは寒風がテントの屋根を揺らして吹き抜ける音だけになった。皇帝がルッシラの事を訊かれるのを待っているのに、マキシマスは気づいていた。しかし、訊かなかった。

マルクスはようやく口を開いた。「ルッシラだが、あの子の結婚は特に重要だ。道は二つに一つだ。他の娘のように取るに足りない男と結婚させて、完全に影響力を絶ってしまうか…それとも、もう一度皇后にするつもりで相手を慎重に選び、私が死んだらその夫を皇帝にするか。」マルクスはゴフレットをテーブルに置いてゆっくり立ち上がり、痛みをほぐすように手を腰に当てた。彼はローブを引き摺ってマキシマスの椅子の後に立った。将軍は遠くの壁を見つめていた。突然、重荷が肩にのしかかってきたようだった。

マルクスは長い間を置いて、マキシマスの耳に口を近づけてほとんど囁くように言った。首の後の毛が逆立った。「もちろん、この件に関してはルッシラにも自分の意見というものがある。弟を皇帝にしないためなら喜んで何でもするだろう。彼女は自分も幸せになり、国の為にもなり−私も喜ぶ結婚を提案してくれたよ。しかし、件の男がこの提案に同意してくれなければ、他には道はひとつしかない。聞きたいかね、マキシマス?」

返事を待たずに、マルクスはマキシマスの椅子の背から手を離して前に戻った。「そのひとつとは、息子のコモドゥスを後継者に指名し、ルッシラは無能なシリア人のロウディウス・ポンペイアヌスと結婚させることだ。」

マキシマスは震える息を吸い込んだ。「コモドゥス殿下はお若すぎます。」

「まさにその通りだ、マキシマス。最善の策でないのは分かっておる。それに、若いというのは多くの理由の一つに過ぎん。私は親子の情に目を眩まされてはおらん。しかし、帝国を内戦から守るためとあらば、息子を後継者に指名する。まず、共同統治帝に任命する。私がルシアス・ヴァルスと共同統治をしたように。私が死んだら、単独帝として統治を続ければいいだけだ。継承に伴う混乱もなくてすむ。」

マキシマスは動揺していた。コモドゥスが皇帝に?「はあ…そうすれば、殿下は父親の在任中に生まれた最初の皇帝になられますね。」マキシマスは他に言う事を思いつかなかった。

マルクスは微笑んだ。「歴史に詳しいな。そうだ。コモドゥスはローマ帝国の第17代皇帝となる。皇位を継承するのに、これほど簡単な方法はない。そうは思わんか…マキシマス?」

「はい、それが最も簡単でしょう、陛下。」

「それに、最善の方法でもある。そうは思わないか、マキシマス?」

「陛下のお決めになることです。」

「君の意見を訊いているんだ。」

マキシマスは口を開いたが、また閉じ、いい言葉を選ぼうとした。「第三の方法があるかもしれません…元老院議員のひとりを指名なさるとか。養子になさってはいかがでしょう…よく行なわれることですし…陛下ご自身も養子でいらっしゃいます。」

「で、どの議員がいいと思う?」

マキシマスは肩をすくめた。「一人も知りません。」

「私は知っておる。皇帝に相応しい者はいない。ああ、元老院に有能な者がいないと言っているわけではない。しかし、皇帝となると、特別な素質のある人間でなくてはならない。議員より娘の方が素質があるが、残念ながらルッシラは女だ。考えてもみたまえ。ルッシラが自分と同じように強く、知性と威厳と勇気を兼ね備えた男と組めばどんなに強力か。真にその地位にふさわしい皇帝と皇后だ。」マルクスは指を組んで、頑固に目をそらしているマキシマスを見つめた。「それで、どう思う、マキシマス?」

「その…それは…陛下のお決めになることだと思います。」

「そんなことは分かっておる。」マルクスは少し苛立った声で言った。「マキシマス、君の意見を訊いているんだ。」

本気で言っているのだろうか?マキシマスは神経質に掌を手の甲にこすりつけた。「正直に申し上げて、コモドゥス殿下の即位は最良の選択とは思えません。」

マルクスはうなずいた。「それなら、私が後継者に望む男をルッシラと結婚させるべきだと思うのだな。」

マキシマスは自分が罠にかかりつつあるのを感じた。何か邪魔が入ってくれないだろうか?テントに雷でも落ちたらいいのに。「そうですね、陛下。ふさわしい候補者は、もちろん大勢いるでしょうが…」

「それが、一人しかおらんのだ」マルクスが口を挟んだ。「ルッシラと私はこの件について話し合って、その男しかいないと意見が合った。」

マキシマスは黙って床を見つめていた。

「その男は生まれついてのリーダーで、その実力はもう何度も証明されている。」マルクスは身を乗り出してマキシマスと目を合わせ、じっと見つめた。「私はその男をよく知っている。ローマを愛している男だ。ローマのために最善のことをしてくれるだろう。息子が皇帝になるのを防ぐには、その男がなるしかない。」マルクスは椅子の背にもたれたが、将軍の目を見つめたままだった。

食べたばかりの食事が胃の中で鉛のように冷たく感じられた。マキシマスは肘掛けを握り潰さんばかりに強く握っていた。「その男は…何をしている男です?」

「軍人だ。偉大な指揮官だ。」

「国政のことは何もわかっていないかもしれません。」マキシマスは少し自棄気味に言った。

「娘に教えてもらえばいい。政治の知識より、人格の方がずっと大切だ。知識は身につけることができるが、人格は生まれつきのものだ。」

重い荷物を持って長い距離を走りでもしたように、マキシマスの心臓は早鐘を打ち、息切れがした。「姫君と結婚できる立場の男なのですか?」その声は自分の耳にさえ、ひどく小さく聞こえた。

「結婚できる立場にするのは簡単だ。彼の今の家族には十分な補償を与える。」

たとえローマ帝国のためであろうと、愛する妻と息子を捨てられるものか。そんな事は出来ないし、するつもりもない。マキシマスは顎を上げてマルクス・アウレリウスを真っ直ぐ見つめ、何も言わなかった。身体は石のように冷たくこわばっていた。ルッシラと結婚してマルクス・アウレリウスの後継者になることを拒否すれば、コモドゥスが皇帝になるのは彼の責任ということになるのか?これは脅迫以外の何物でもない。マルクスは心からローマのためを思っているだけなのかもしれないが、マキシマスは裏切られたと感じた。今は彼の反応をみているだけで、決めてしまったわけではなければいいが。そう祈るばかりだった。

長い時間が経った。マルクスはとうとう、ため息をついて言った。「もう夜も更けた。マキシマス、私は疲れたよ。君も長旅で疲れているだろう。もう休んで、それぞれこの件をよく考えようじゃないか。近いうちにもう一度話し合おう。今すぐ決めなくてはならんわけじゃない。」彼は立ち上がった。マキシマスは堅苦しい態度で立ち上がった。マルクスは彼をこれほどに悩ませてしまったことを深く悔やんだが、やらねばならぬ事をしているという確信があった。「ところで、今回はコモドゥスを連れてきた。しばらく前線で過ごさせて、皇帝の普段の仕事を見せるのが息子のためになると思ったのでな。」

マキシマスが私物をまとめ、挨拶さえせずに黙ってテントを出て行くのをマルクスは悲しげに見つめていた。

 

第89章 マキシマスの新兵

マキシマスは部下たちの前を歩き回り、なんとか憤怒を抑えようとしていた。コモドゥスには、正午に来るように言ってある。青年は2時間以上も遅れていた。兵士たちは並んで立っているのに疲れ始め、マキシマスは彼らに「休め」と命じた。兵士たちは物音一つ立てずに地面に座り、将軍が草の上に小道を刻むのを見ていた。ハーキュリースがその後を影のようについて歩いていた。

マキシマスは声に出さずにマルクス・アウレリウスを呪った。彼は皇帝の仕事を見せるために息子をゲルマニアに連れてきたと言った。それなのに、この若者をマキシマスに預けて行った。将軍の機嫌を取るためか、皇帝は連隊をいくつか交替させて、フェリックス第3連隊をボーナのマキシマスの元へ遣した。効果はなかった。マキシマスは皇帝に腹を立て、その息子に憤激し、マルクスのせいでこの若い男を我慢しなければならぬ事に激怒していた。皇帝は息子が帝国を治める器ではないと納得させるために、わざと彼を置いて行ったのだ。そんなことは、この不愉快きわまる男に四六時中邪魔をされるまでもなく、とっくにわかっている。

ようやく、コモドゥスとそのお抱え近衛隊が丘の上に現れた。彼らはのんびりと馬を歩かせていた。兵士たちは皇帝の息子に挨拶するためによろよろと立ち上がった。青年が近づいてくると、彼らは軽蔑を辛うじて隠して頭を垂れた。 マキシマスはほとんどわからぬほど短く頭を下げ、食いしばった歯の間から言った。「殿下、2時間もお待ちしておりました。」

「2時間?時間の経つのは速いな、マキシマス。部下と剣の稽古をしていたんだ。この時間にはいつもそうしているのでね。」コモドゥスは馬上から横柄に見下ろした。「もう来たのだから、ぐずぐずしていないで始めようじゃないか。今日のお楽しみは何だ?先々週みたいに橋を架けるのか?その前のように道路工事か?ええ?今日のお遊びは一体なんだね、将軍?」彼は皮肉たっぷりな口調で言った。

マキシマスが怒っているのを見て、フェリックス第3の兵士たちは期待をこめて目配せを交わした。我らが将軍をこんな風に愚弄してただで済んだ奴はいない。たとえ、皇帝のガキであろうと。マキシマスの表情に心配になったクイントスは、友人の側に寄って手で警告の合図を送った。言葉に気をつけろ。効果はなかった。

マキシマスは挑戦的な態度で足を広げ、手を腰に当て首を傾げて睨み付けた。コモドゥスはその日予定されている汚れ仕事にもかかわらず、最上の衣装を身につけていて、簡素な羊毛のチュニック、裸足にサンダルというマキシマスのいでたちとは好対照だった。コモドゥスの近衛隊も、金縁のついた黒革や羊毛や絹で着飾っていた。「殿下と部下の方たちには、こういう仕事はきついですか?それなら、もっと御身にふさわしい仕事を考えますが。」彼は怒りのあまり、かえってふざけた調子になっていた。「そうですねえ…洗濯場なんていかがでしょうか?後ろの方々は水桶に映った自分のハンサムな姿を楽しめるでしょうし、殿下はお召し物を汚されるどころか、一層きれいになって仕事を終えることがおできになりますよ。」

待ってましたという笑いが起こるのを聞いてクイントスは身をすくませた。マキシマスの言葉は、声の届かなかった後方の兵士のために列を伝って繰り返され、哄笑が波のように広がって行った。クイントスは兵たちをにらみつけ、笑いはゆっくりと引いて行った。

コモドゥスは自分が笑い者になっているのに気づき、むっとしながらも顔を赤らめるだけの神経は持ち合わせていた。「将軍、君は部下を押える事もできないのかね?」

「マキシマス、言葉を慎め」クイントスが囁いた。将軍がこれ以上辛辣なことを言うと、後で後悔することになるのではないかと心配していた。

「押さえつけずとも、自らを律する事のできる兵ばかりですから。」フェリックス第3の兵士たちは、将軍が自分たちに味方してくれたのを喜んで顔を輝かせた。「お父上は殿下を私の指揮下にお預けになりました。殿下が兵士の気持ちを少し味わうようお望みになったのです。殿下のお望みは食事の味わいだけのようですが…それでも、今日の作業には参加なさりたいのですね?」

「ぼくに向ってよくもそんな口をきけるな」コモドゥスがわめいた。

「お気に召さないのなら、お父上とご一緒にお帰り下さい。」マキシマスはくるりと背を向けて大股で歩いて行き、アルジェントにぱっと飛び乗った。馬は驚いて前脚を振り上げた。ハーキュリースは馬のひずめを避けて飛び出し、コモドゥスを見上げてうなり声を上げた。「ハーキュリース、静かにしろ」マキシマスは命令し、アルジェントの向きを変えてスタートさせた。

少し後、マキシマスはドナウ川に腿まで浸かり、足を泥に埋めて、支流を広げて基地に流れ込む新鮮な水を増やす工事を指揮していた。まだ4月で、水は冷たかった。兵士たちはうなり声を上げながらシャベルで泥をかき出し、川岸に積み上げた。骨の折れる仕事だった。支流が広がると今度は、泥が再び川に流れ込むのを防ぐために岸を石で補強しなければならない。コモドゥスはブーツを脱いで足首まで水に浸かった。不快感が満面に浮かんでいた。彼はマントの裾をつまみ上げていた。脱ぎたくないが、汚したくもないのだ。もう一方の手は、ぴかぴか光る鎧に魅せられて寄って来る蝿を払うのに忙しかった。彼は感心したふりをして兵士たちの仕事ぶりを眺めていた。時々マキシマスに向って、作業は順調のようだな、などと話しかけて来たが、将軍は無視していた。岸の一部が崩れそうになると、マキシマスは自らシャベルをつかんで部下と共に働いた。コモドゥスは嫌悪感に顔をしかめた。

ハーキュリースは、しばらくの間水の中で遊びまわっていたが、今は岸辺に寝そべり、顎を前足にのせてご主人が働くのを眺めていた。コモドゥスが口を開く度に、胸の奥から低いうなり声がわき上がった。マキシマスの声が聞こえると、うなるのは止めて尻尾を振った。

夕暮れ、疲れきった泥だらけの男たちは、同じように泥塗れの将軍に率いられて基地への道をゆっくりと歩いて行った。川の支流は拡張され、補強された。工事は完了し、兵士たちは今日一日の成果に満足していた。

汚れひとつない真っさらな恰好のコモドゥスはマキシマスの隣に馬をつけた。マキシマスは真っ直ぐ前を向いたままだった。「マキシマス、君のような地位の人間が、ただの兵卒みたいに働くのはみっともないと思うが。見たまえ…君の汚らしい恰好。だれも将軍だとは思わんだろう。一兵卒みたいな振る舞いをしていては、兵士が言うことをきかなくなるんじゃないか?」

「私の部下たちは誰が将軍なのかよくわかっております、殿下。人間の権威は服装とは関係ありません。」マキシマスはめかし込んだコモドゥスをちらりと見て、穏やかな声で言った。今はあまりに疲れていて、この若造と舌戦を始める気にはなれなかった。「明日の仕事はきっとお楽しみになれますよ、殿下。丘の洞窟から掘り出した岩で、向うの沼を埋めるんですよ。悪くない仕事です。今時分は、沼の蛇もあまり大きくはありませんし。」コモドゥスはぽかんと口を開けた。マキシマスはアルジェントを早足にさせた。口の端に笑いが浮かんでいた。

 

「今日は泥遊びをなさったんですか?」

「キケロ、今夜は冗談に付き合う気分じゃないんだ。」座って泥のこびりついたサンダルを脱ぎながら、マキシマスは物憂げに言った。

「すみません。すぐに風呂を用意致します。」

「熱い湯にしてくれ。身体の芯まで冷え切ってしまった。」

「もちろんです。それまで、これを飲んでお待ち下さい。身体の中から暖まりますよ。」キケロは薄めていないワインのゴブレットをマキシマスに渡した。「将軍、彼のことであまりお悩みになりませんように…」

マキシマスは友人の方を見た。「そんなに見え見えだったかな?」

「ええ、そうです。将軍が皇太子に立ち向かっていらっしゃる事は、基地中の話題になっています。しかし、将軍がお辛いのもみんなわかっております。」キケロはちょっとためらってから言った。「マキシマス、一言申し上げてもよろしいですか?…その、友人としてですが。」

将軍はほほえんだ。「駄目だと言ったらやめるのか?」

「いいえ。」

「それなら…正直に言いたまえ。」

「コモドゥスには用心なさって下さい。彼は、今までにも将軍にずいぶんひどい事をしてきました。まだ権力の座についてもいないのに。いつか力を握る人です。その…気をつけて下さい、将軍。」

「わかったよ、キケロ。クイントスにも注意された。」マキシマスは目を閉じ、頭から外界を閉め出そうとした。

 

数時間後。マキシマスは机に向って座り、光沢のある机面に肘をついて指先でこめかみをさすっていた。この基地の中で、彼の悩みをわかってくれる者は誰もいない。兵士たちには表面上の対立は見えるが、彼の内なる苦しみはわからない。のしかかる孤独の重みは耐え難いほどだった。彼は妻に悩みを打ち明けたくて仕方なかった。愚痴を聞いてもらって、優しい慰めの言葉を聞き、その胸に顔を埋めることさえできたら…マキシマスはランプを近づけて巻き紙から新しいパピルスをちぎり取った。彼は鵞ペンをインクに浸け、書き始めた。「愛しいオリヴィア、君もマルクスも元気で過ごしていることと思う…」

 

第90章 客人

6月、皇帝は北境沿いの基地や砦を巡察することに決めた。マキシマスのすすめもあり、息子を連れていくことにした。ゲルマニア部族といくつか小競り合いはあったが、各連隊が簡単に処理できる程度のものだった。しかし、まだ全面戦争の兆しは消えておらず、マルクス・アウレリウスは連隊が準備万端なのを自分の目で確認しておきたかった。皇帝自らが訪れることで士気を高める狙いもあった。

4月から5月にかけて、皇帝とマキシマスは頻繁に食事を共にしたが、もう皇位継承の話は出なかった。マキシマスは安堵し、徐々に寛いだ気持ちになった。皇帝の留守中、マキシマスは各地域との通信手段を確認しておくことにした。戦時にも通信が途絶えないように、陸路・水路に複数の経路を確保しておくようにした。彼はテストとして帝国の全ての地域に手紙を送り、返信が来るまでどのぐらいかかるかを測った。彼は無作為に選んだ道を塞ぎ、別のルートを探し出す使者の能力をテストした。結果は満足のゆくものだった。

テストのための郵便物が殺到していたにもかかわらず、彼はいつも妻の手紙を真っ先に探し出し、必ず最初に読んだ。息子はどうしているか、我が家はどんなようすか、どんなことでも知りたくてたまらなかった。オリヴィアは宝物のような息子の絵も同封してきた。それはすくすくと育つ息子の成長の記録だった。

8月上旬、手紙が来なくなった。はじめは通信経路に何らかの障害が起きたのかと思い、マキシマスはエメリタ・オーガスタの連隊に手紙を送ってみた。返信は3週間もしないうちに来た。マキシマスは心配になり、スペイン駐屯の部隊に手紙を書き、街のそばの丘の上にある彼の家を見に行って欲しいと頼んだ。しかし9月初め、部隊から返事が来る前にオリヴィアの手紙が届いた。それはごく短い手紙で、家の出来事を細々と綴ったいつものような長い手紙ではなかった。マキシマスはまだ落ち着かなかった。彼は返事に心配していることを書き、何か不都合か悩みがあるのか、と訊ねた。9月末に返事が届いたが、質問の答えははぐらかしていた。しかし、10月には何もかも元通りになったようだった。彼はようやく家族の心配を忘れ、とりあえずゲルマニアでの問題に心を集中させることが出来るようになった。

続く数ヶ月の間、チャティ族軍がドナウを大挙して渡り、ローマの基地と村を殲滅しようと何度も試みた。マキシマスは攻撃を的確に予測して阻止した。何百人という敵兵が戦死し、また何百人もの敵兵が捕虜になった。ローマ軍側の戦死者はほとんど出なかった。今のところ、北方のローマ人たちは侵略の恐怖から解放されて比較的穏やかに過ごすことが出来ていた。ローマ軍の士気も高かった。

ある明るい10月の日、マキシマスが川沿いの巡察から帰ると客人が待っていた。彼は驚いた。最初、マキシマスはその背の低い、色の黒い、髭をたくわえて流れるようなトーガを着た男が誰か分からなかったが、やがて彼はにっこりして言った。「セプティミウス・セヴェルス!わざわざお越しとは光栄だな!」

セプティミウスは立ち上がって将軍に挨拶し、その手を大喜びで握りしめた。「マキシマス、また会えて本当に嬉しいです。ローマの法廷が例年通り2ヵ月の休みに入ったので、ちょっと旅行をしようと思いまして。」

「法廷?」

「そうです…今はローマで法務官をやっておりまして。」

「そうか、それはおめでとう」マキシマスは彼に座るように合図し、自分も椅子を引き寄せた。

「ありがとうございます。まあ、これは足掛かりに過ぎませんが」

マキシマスは少し眉を寄せた。「法務官といえば重要な仕事だと思うが…」

「いえ、ローマの司法を軽く見ているわけではありません。しかし、権力のある地位ではありませんからね。忙しいばかりです。」

マキシマスはうなずいた。キケロが飲物を持って来た。「それでも、ここよりはいい暮しができるだろう?」

セプティミウスはにっこりした。「確かに、住まいはテントじゃありません。しかし、あなたのような地位につけるのならローマの豪華な部屋なんか惜しくありませんね。あなたこそ、ローマ帝国の運命を決める人です。私ではない。」

「私は自分の仕事をしているだけだ。」

「謙遜なさりすぎですよ、将軍。皇帝があなたをたいへん高く評価なさっているのはもう誰でも知っています。そのことと…ローマ軍兵士のあなたに対する忠誠…これを合わせると、あなたはたいへんな権力者と言ってもいい。」

マキシマスは考え深げに彼を見た。「セプティミウス、いつか皇帝陛下が私を任務から解放してくれたら、私はスペインの妻子の元へ帰るつもりだ。」

法務官は心から驚いた。「マキシマス、まさか、ローマでの将来を考えたこともないなんておっしゃるのではありませんよね?…少なくとも、元老院議員にはなって当然ですよ。あなたは英雄としてローマに凱旋して、人々の尊敬を集めることができますよ。」

「そんな事より、息子の健やかな成長を見たいね。セプティミウス、結婚は?」

「はい、しております。妻の名前はパシア・マルシアナです。割合、晩婚でした。」

「子供は?」

「まだです。息子さんがいらっしゃるとは羨ましいです。」

「この世で一番素晴らしい事だ、子供を持つのは。ローマでのどんな地位よりずっと大切な事だ。」

「もちろん、家族を呼び寄せることも出来るでしょう。」

マキシマスは脚を組んで客人をしげしげと眺めた。「アフリカが恋しくはないのか?」

「もちろんです。しかし、私の家族は今は散り散りでしてね。この旅行の目的の一つは、弟のゲタを訪ねることなんです。弟は北部イタリア駐屯のイタリカ第1連隊の副官になりましてね。ペルティナクス将軍の下です。羨ましい限りです。私はシリアで連隊指揮官の地位につきたいと望んでいるのですが。まあ、それはともかく、そこまで来たのだから足を伸ばして、ゲルマニア情勢をこの目で見ておきたいと思ったのです。皇帝はどちらですか?」

「東ドナウ沿岸のどこかにいらっしゃる。多分、ヴァンドボーナだ。ご子息とご一緒だ。もうすぐ戻られるだろう。」

「コモドゥスですね。」

「そう、コモドゥスだ。」

「彼のことはどう思いますか、将軍?」

マキシマスはセプティミウスを警戒の目で見た。「皇帝陛下の子息をどうこう言う立場にはない。」

「誰だってそうですよ。でも、人はいろいろ言うものです。そうじゃないですか?」

マキシマスは、測りがたい微笑を浮かべたまま黙っていた。

セプティミウスは笑い声を上げた。「わかりました。無理強いはしませんよ」

「で、セプティミウス、このフェリックス第3にはどのぐらい滞在したい?」

「よろければ、数日ほど。」

「かまわんよ。」マキシマスはキケロを指して言った。「陛下の隣のテントを用意させよう。」キケロはうなずき、部屋を用意しに行った。

「将軍のお帰りを待っている間に基地を少し見させていただきました。牢は捕虜で満杯ですね」法務官は言った。

「先日の戦闘で多くの敵兵を捕らえた。無計画な攻撃で…ほとんど、思いつきのような…彼らにとっては悲惨な結果になったというわけだ。」

「ローマのアリーナに新しい剣闘士がたくさん来ますね。これほど嬉しいことはないですよ。私はローマの剣闘試合の開催責任者なんです。最近、この仕事はいろいろ難しくてね。莫大な金がかかるし…剣闘士は、ひどい供給不足なんです。」

「君は剣闘試合が好きなのか?」

「もちろんです。いい気晴らしですよ。将軍は?」

「見たことはない。」

セプティミウスは笑った。「あなたという人は、普通とはどこか違いますね。どうして見たことがないんです?スペインにもアリーナはあるでしょう。」

「ああ、だが、子供の頃には、おれの親は一度も見に行かなかった。兵士になってからは、見世物の為に人が死ぬのはどうも嫌な感じがしてね。人の死は楽しめるようなものじゃない。」

「そりゃ、剣のどちら側にいるかによるでしょう。」セプティミウスはくすくす笑った。

マキシマスはこの男が嫌いになり始めていた。彼はあくびを噛み殺し、額をこすってきっぱりと言った。「いや…そんなことはない。」

キケロが雰囲気を察して口を挟んだ。「すみません、将軍、お客様のテントがご用意出来ました。」

セプティミウスは眉を上げた。「もう?ずいぶん早いな。」

「キケロはとても有能なんだ」マキシマスはそう言って立ち上がり、客人について来るように合図した。

マキシマスがテントの前で「おやすみ」を言おうとしていると、セプティミウスが腕を掴んだ。彼は身を乗り出し、秘密めかした囁き声で言った。「将軍、今夜は女性が一緒に居てくれると嬉しいのですが。長い旅でしたからね…意味はお分かりでしょう?」彼は、同じ男として共感を求めるようにマキシマスにウインクした。

「セプティミウス、基地内に女性はいない。」

「それなら、基地の近くはどうです?」

「実は…いない。」

セプティミウスは驚いた。「女奴隷は?女奴隷ぐらいいるでしょう。牢にいませんか?」

「兵士だけだ。女は捕虜にしない。」

セプティミウスはマキシマスを見上げ、わけがわからない、と言うように首を振った。「やっぱりあなたは、本当に普通とは違う方ですよ、将軍。」

「おれはこれが普通だと思いたいね、セプティミウス。ゆっくり休みたまえ。明日、朝食の時に会おう。」

 

第91 〜 95章