Maximus' Story
Chapters 91 - 95


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第91章 悪夢

「将軍、すみません、起きて下さい!」

マキシマスがぱっと目を開けると、目の前にキケロの影になった顔があった。「何だ?何があった?」

「陛下のテントに誰かいます。来て下さい。」

マキシマスはローブを羽織り、裸足のままキケロの後をついて行った。キケロは何も言わずにマルクス・アウレリウスのテントのフラップを開き、反対側の隅のほのかな蝋燭の光を指差した。またたく蝋燭の光に、所狭しと置いてある大理石の彫刻の影が揺れ、今にも生命を得て飛び掛って来そうに見えた。蝋燭はセプティミウス・セヴェルスの手に握られていた。彼はゆっくりと歩き回りながら、皇帝の持ち物にうやうやしく手をすべらせていた。彼の手は大理石から絹へ、絹から木材へとさまよっていた。

「何か盗むつもりなんでしょうか?」キケロが囁いた。

「わからん」マキシマスも小さい声で言った。「そこまで馬鹿だとは思えんが。様子を見よう。入ってはいけない所に入っているからと言って、泥棒と決めつけるわけにはいかん。」

セプティミウスは立ち止まり、皇帝の豪華な椅子の上に掲げられた黄金の鷲を見上げた。彼は空っぽの椅子に向かって頭を垂れ、それから、非常にゆっくりと、玉座に腰を下ろした。

キケロは息を呑んだ。マキシマスは顔をしかめたが、腕をつかんで従者を止め、口に指を当てた。将軍はゆっくり前に踏み出して男が何をしているのかよく見ようとした。セプティミウスは目を閉じてしばらく座っていたが、やがて、臣下の挨拶を受けるようにゆっくりと手を差し伸べた。彼は誰かの進言に耳を傾けるかのようにうなずき、よくわかった、と言うように手を動かした。彼は作り笑いを浮かべ、声を出して笑い、手を振って目に見えぬ臣下を下がらせた。

マキシマスは静かにテントの半分ほど男に近づいたが、蝋燭の貧弱な光が届かない所に隠れていた。彼はセプティミウスが皇帝ごっこをするのをしばらく眺めた後、咳払いをした。セプティミウスは椅子から文字通り飛び上がり、空中で首をひねって影の中の男を見ようとした。彼は恐怖のあまり、玉座の織物の絨毯の上へ蝋燭を取り落とした。マキシマスは煙を上げ始めた蝋燭に飛びついた。彼は稲妻のようなスピードで反応して蝋燭を掴み、回転してさっと立ち上がった。蝋燭はまだ灯ったままだった。キケロは思わず拍手したくなった。しかし、セプティミウスは紙のように真っ白な顔をしてぜいぜいと息をついていた。

「おどかしてすまないが、セプティミウス、私の従者がこのテントの壁に光が映っているのを見てね。調べに来ないわけにはいかなかった。分かるね?」マキシマスは法務官の鼻の下に蝋燭の火をかざした。彼は化け物のように見えた。「陛下は他人がご自分の椅子に座るのはお喜びにならないと思うが。」

セプティミウスは心臓の上に手を押し当てた。まだ、口もきけぬほど動揺していた。

「それでは、衛兵を一人呼んで君のテントまで送らせよう。少し休みたまえ。この件については、明日の朝話し合おう。」こう言い終わると同時に、キケロがランタンを手に現れた。そのすぐ後を衛兵がついて来ていた。セプティミウスは武装した衛兵の前を歩かされてテントを追い出される屈辱に打ち震えた。

マキシマスは足元をちらりと見下ろし、むかついて数歩下がった。「あいつ、絨毯に漏らしやがった!」彼は吹き出し、大声で笑い始めた。キケロも笑い出した。二人はお互いの肩をつかんで腹をかかえて笑った。とうとう二人とも椅子に倒れこみ、落ち着きを取り戻すまでそこに座っていた。マキシマスは手の甲で涙を拭った。「あいつももう懲りただろう。キケロ、もう戻って寝るとしよう。」

「朝になったら絨毯を干します。」キケロは言った。「こんな肥溜めみたいな匂いの所へ陛下が戻っていらしたら大変です。」

彼はマキシマスの後について出口へ歩きながら、将軍の肩が震え出すのに気づいた。「奴は便所を探していて、腰を下ろすところを間違えたのかもしれん。」マキシマスはくすくす笑った。二人ともまた笑いの発作に襲われ、将軍のテントに着くまで止まらなかった。

 

翌朝、セプティミウスは朝食に現れなかったが、後でマキシマスが自分のテントでクイントスと仕事の話をしている所に会いに来た。夜中に大きな笑い声が聞こえたような気がしたが、あれは何だったのかと副官に訊かれて、マキシマスは既に事情を説明していた。

「あの…昨夜の件についてはお詫びいたします、将軍」法務官は小さい声で、言った。しかし、反省している様子はなかった。「実は、夢を見まして、夢に導かれてあのような事をしたのです。将軍は夢をご覧になりますか?」

「時々はな。」マキシマスはそっけなく言った。あまり冷たい態度を取るつもりはなかったが、これで許されたと思われても困る。

「私はよく見るんです。私は、夢は未来に起こることの予兆だと信じております。」

マキシマスはマルクス・アウレリウスとの会話を思い出し、珍しいものでも見るようにセプティミウスを眺めた。「君も占星術を信じているのか?」

「もちろんです。今までのところ、私の人生は予言通りに展開しています。しかし、私はせっかちなので、次の運命期に到達するのが待ちきれないのですよ。」

「それで、君の昨夜の行動と夢と、どういう関係があるんだ?」

「実は大ありなんです。眠りに落ちてすぐ、私は皇帝に呼ばれた夢を見たのです。」

「それで、ただの夢だってことに気がつかないで暗いテントに迷いこんだ、というわけか?」

「マキシマス、あなたは分かっていらっしゃらない。夢というのはそんなに単純なものではないのです。文字通りに解釈してはいけない。私の夢の意味するところは、ちょうどその瞬間に、皇帝が私のことを考えていらっしゃったということです。私はどこか皇帝に近い所…陛下の私に関するお考えをはっきり感じ取れる所へ行く必要があったのです。
私は眠りと覚醒の中間の状態でした。その時、あなたに突然起されたのです。自分が何をしているのか意識していない状態でした。」

マキシマスは、虚勢を張っている人間を見ればそれと見抜くことができた。彼は興味深々で法務官を見つめているクイントスをちらりと見た。

「私はとても動揺したので、」セプティミウスは続けた。「なかなか眠れませんでした。それで、今朝はこんなに遅くなったんです。しかし、眠りに落ちると、また夢を見ました。」セプティミウスの表情が変わった。今度は、マキシマスを好奇と警戒の混じった顔で見つめていた。「あなたの夢でした。」

「そうか?」マキシマスはいつまでこのゲームにつきあえばいいのかよくわからなかった。

「お聞きになりたいですか?」

マキシマスは肩をすくめた。クイントスは男をじっと見つめたまま、熱心にうなずいた。

「夢の中で、あなたのケープの狼の毛皮が突然命を得て、あなたに食いついてくるのです。あなたは必死で戦い、剣で狼に致命傷を与えます。しかし力尽き、脇腹に狼の牙を受けて血を流しながら倒れて死にます。しかし、あなたは腕を差し上げ、その剣は翼があるかのように空を飛んで行き、雲と共に落下してあなたの次男の手に飛び込みます。その時、あなたの長男は苦痛の叫び声を上げています。」

マキシマスは興味深そうにセプティミウスを見たが、彼の言葉を不快に感じていた。「セプティミウス、おれには息子はひとりしかいない。」彼は静かに言った。

法務官は黙って彼を見つめていた。クイントスも口をぽかんと開けて将軍を見つめていた。

マキシマスは二人をかわるがわる見て、「もういいかな?クイントスと私は仕事があるんだ。」と言った。

セプティミウスはうなずいてテントを出て行った。しかしその前に、考え込んでいるような顔でマキシマスをしばらくじっと見つめていた。

クイントスは大きく息を吐き出した。「気持ちが悪いな。どういう意味だと思う?」

マキシマスはセプティミウスの消えた出口を眺めた。「クイントス、奴は野心家だ。野心家ってものがどんなに危険か、おれは知っている。」彼はいぶかしげにこちらを見つめている副官を見て言った。「さあ、仕事に戻ろう。」

 

第92章 前哨地

マキシマスは数字の列に戻ったが、クイントスは集中できない様子だった。彼は統計の数字を読むふりをしながらマキシマスを横目でちらちらと見ていた。

マキシマスはとうとう諦めて、椅子にもたれて言った。「クイントス、何を考えているんだ?」

副官はすぐ会話に乗ってきた。「あの夢だよ。マキシマス、気にならないのか?」

「ああいうのを気にする人間もいるようだな」マキシマスは皮肉っぽく言った。

クイントスは受け太刀になって言った。「そうか?少しは気にするべきなのかも知れんぞ。」

「どうしてだ?セプティミウスがおれについて何を知っているというんだ?奴は昨日までおれに息子がいることも知らなかった。それで、おれに息子が二人いる夢を見た。」マキシマスはため息をついた。「おれが奴をまずい所で捕まえたんで、仕返しにおれの神経にさわるような事を言っただけさ。その手は乗らん。」

クイントスはこだわった。「これから、二人目の息子が出来るかもしれないじゃないか。あの夢のようなことが起こらないとは誰にも…」

「クイントス」マキシマスが口を挟んだ。「セプティミウスは休暇中だが、それだけじゃない。奴には目的があるんだ。奴は小物だが、野心は大きい。自尊心はもっと大きいだろう。ああいう男は帝国中に腐るほどいる。もし仮に、奴がマルクス・アウレリウスと交信できるんだとしても、陛下はあんな男にはすぐに我慢できなくなられるだろう。陛下は人を見る目がおありになるんだ。」

「しかし…」クイントスは言いかけたが、キケロが部屋に入って来たので言葉を切った。

「すみません、将軍。たった今、皇帝からこの手紙が届きました。緊急です。」キケロは書類をマキシマスに渡し、クイントスに会釈してするりと影の中に戻って行った。

マキシマスは印章が本物かどうか調べ、読み始めた。その顔にゆっくりと笑みが広がった。彼は鼻を鳴らして言った。「クイントス、聞けよ。陛下はコモドゥスをローマに送り返したそうだ。実の父親でさえ、あいつがそばにいるのは我慢できないらしいな。」クイントスは礼儀正しく微笑んだ。読み進むうちに、マキシマスの表情は変わった。満足そうな微笑は消えて心配そうな表情が現れた。「キケロ!」マキシマスは呼んだ。

「はい?」

「2、3日中に出かける。1週間か2週間だ。準備を頼む。」

「どちらにお出かけか、お聞きしてもよろしいですか?」

「ゲルマニアの領土だ。」マキシマスは驚いているクイントスを見て言った。「またしても、この連隊を君の有能なる手に委ねる時が来たようだ。」

 

A.D. 178年 1月

マキシマスはスカルトに乗り、百人余りの武装した騎兵を連れて進んだ。毛皮とケープは荷物に入れたままだった。彼らが通っているのは、ドナウ・ライン沿岸のローマ軍基地と、蛮族の領地深くの部族の定住地との間に設けられた非武装地帯だった。不安定な非武装地帯を通るのに、マキシマスは自分の地位を宣伝したくなかった。

このようなローマの前哨地を、マキシマスが訪れることはめったになかった。マルクス・アウレリウスは、マキシマスが北部辺境全体の戦略に集中できるように、これらの土地の管理はもっと格下の将軍たちにまかせていた。前哨地に住んでいるのは補助軍の兵士たちと、交替で赴任して来る歩兵隊だった。彼らの目的は領地内でローマ軍の存在感を示すことと、定期的に交渉の場を持つ事で攻撃的な部族を抑えること−そして、交渉が決裂したら際には強引に服従させることだった。その時は、牛を暴走させたり、村に火をつけたり、人質を取ったりする戦術が用いられた。しかし、そこまでする事はめったになかった。ゲルマニア人とローマ人は既に互いの存在を我慢することを覚え、結婚や商売を通じて混じり合ってさえいた。特にこの季節にトラブルが起こることはめったになかった。誰も彼も、苛酷な北方の冬を生き延びるだけで精一杯だった。

しかし、何かが狂ってしまった。ローマ軍の将軍が行方不明になり、ローマ軍は報復として族長の娘を捕まえた。ゲルマニアの貴族女性は、部族の者に尊敬されている。チャティ族は衝撃を受け、将軍のことなど何も知らない、と主張した。そして、その女性がローマ兵にレイプされたと訴えたことで、事態はさらに悪化した。ローマ兵は全員、そんなことはしていないと主張した。事態は過熱し、敵意はゲルマニア領土全体に野火のように広がりかねなかった。これを抑えるためには、マキシマスが自ら乗り出して直接対処するしかない、と皇帝は考えた。 既に遅すぎたのでなければいいが、とマキシマスは思った。

彼は鞍に背筋を伸ばして座り、白い息を吐いていた。空は晴れていた。雪が降っていなくてまだよかった。彼は厚手のチュニックを重ね着して、羊毛のズボンと肩から膝までを覆うケープを身に着けていた。指には凍傷を防ぐために皮紐が巻かれていた。足はブーツの中で羊毛で幾重にも守られていた。頭を暖めるために簡素な兜をかぶっていた。前哨基地に着く直前に、威厳のある将軍の軍服に着替えるつもりだった。最初から権限を掌握するために。

彼らは一晩、星空の下で野宿した。何枚もの毛布にくるまり、焚火にぎりぎりまで身体を寄せて眠った。二日目の夕刻、遠くに石の塔が見えてきた。マキシマスが真鍮の鎧、ケープと毛皮を身につける間、兵士たちは休憩した。その後、ローマの旗印、黄金の鷲を掲げて前哨基地に近づいて行った。手は剣にかけ、必要ならすぐに弓を取れる体勢で進んだ。

前哨基地はローマ領地の基地に比べるととても小さく、原始的なところだったが、兵士たちが兵役期間のほとんどを過ごす正規基地に比べて大差ははかった。必要なものは揃っていたが、贅沢品は一切なかった。これは前哨隊の基地に過ぎなかった。それでも、最初ここに建てられていた、木の枝を寄せ集めた粗末な砦よりはずっと快適だった。

部族民の襲撃に会うこともなく、あたりは静まり返っていた−が、突然、道端の低木の陰から大きな石が飛んできてスカルトの耳のすぐ下に当たった。馬は叫び声を上げ、前脚を高く振り上げてマキシマスを振り落としそうになった。彼は必死で馬のたてがみを掴んだ。スカルトは激しく首を振りながら前脚をどすんと地面に下ろした。マキシマスに血の飛沫がかかった。マキシマスぐらぐらする馬の上でバランスを取ろうとしている間に、二人の兵が木立に突進し、すぐに戻って来た。犯人は両側から腕を掴まれてぶらさがっていた。それは12才になるかならないかの少年で、脚をばたばたさせながら兵士たちとその馬たちをののしった。

マキシマスが馬を降りて近づくと、少年は痩せた身体を激しく震わせ、将軍の顔に唾を吐きかけた。唾はマキシマスの右の頬に命中して髭の中に垂れていった。彼は手の甲でゆっくりと顔を拭った。少年を押えていた兵士のひとりがかっとなって手を放し、手の甲で子供の顔を強く殴りつけた。少年は凍った道の上に頭から倒れこんだ。

「もういい!」マキシマスはそう言って少年の服の背中をつかんで立たせた。「まだ子供じゃないか。」まわりに野次馬が集まって来て、唇の切れた、怯えた子供を捕まえているローマの将軍を怒りをこめて睨みつけていた。マキシマスは幼い反逆者を片腕で軽々と抱き上げて兵士のひとりに渡した。兵士は少年を鞍の上にうつぶせに寝かせた。「頭が冷えるまで、しばらく基地の牢に入れておけ。」

群集の怒号の中、マキシマスはスカルトのところへ戻って馬の鼻面を撫で、傷を調べた。かなり深い傷で、まだ出血していた。すぐに獣医に見せなければならないだろう。今までのところ、状況は良くない。前途多難だ。

 

「何があったのか説明してくれ。」マキシマスは凍てつくように寒い前哨基地の広間に座っていた。彼の前には上級百人隊長が座り、隣には書記が控えていた。書記は2人の言葉を全て書きとめるよう命令されていた。

「ポリエヌス将軍を最後に見たのは23日前になります…12月末です。お会いしたのは朝でした。昼食後、将軍は前哨地の巡回に出かけられました。それ以来見ていません。」

「その朝、何を話した?」

「いつも通りのことだけです。必要な装備とか、トラブルの報告とか…」

「その時にここにいた兵士たちは、まだ全員いるか?」

「はい。それは確認しました。」

「トラブルと言ったな。どんなトラブルだ?」

「いえ、いつも通りのことだけです。いつもの、個人的な対立とか、持ち物に関してのけんかとかです。たいしたことではありません。」

「それで、どう解決した?」

男は居心地悪そうにもじもじと身体を動かした。書記のペンがパピルスの上でかりかりと音を立てていた。「おっしゃる事がよくわかりませんが…」

「双方が納得する解決を見たのか?」

「はい。もちろん、感情的なしこりは残ったでしょうが、それはいつもの…」

「『いつも通りのことだけ』か。」マキシマスが代わりに続けた。

百人隊長は身体をこわばらせた。「はい。」

「すまないな、オラニウス。将軍が事故に遭ったのか、逃亡したのか、殺されたのか、それさえまだ分からんのでね。」

「殺されたんですよ。」

「どうして分かる?」

「決まっているでしょう?蛮族どもは我々を忌み嫌っています。我々の指揮官を殺すチャンスがあったから、殺したのでしょう。」

「目撃者はいるのか?」

「いいえ。」

「それなら、推測にすぎん。」

「経験に基づいた推測です…将軍。」

「人を殺人犯と決めつけるにはもっとましな根拠が要る。まず、死体がなくては話にならない。」

「捜索しましたが、見つかりませんでした。多分、ばらばらにして燃やしたんでしょう。」

マキシマスは顎の髭をなでた。「チャティ族の貴族女性を攫ったのはどうしてだ?」

「犯人が名乗り出るまでの人質です。」

「レイプされたと言っているそうじゃないか。」

「レイプですって!」オラニウスは吐き出すように言った。「誰がそんなことをしますか。しかし、そうだったとしても当然の報いです。とんでもないあばずれですよ!」

マキシマスは緊張した。「レイプというのは最も重い罪のひとつだぞ。許されるものではない。」

「だから、そんなことはしていません。」

「軍医の診察を受けさせたか?」

「いいえ。」

「何故だ?」

「何のためにそんな事をするんです?」

「暴力をふるわれた跡があるかどうか分かる。痣とか…」

「誘拐したときに多少手荒に扱ったかもしれません。何の証拠にもなりませんよ。」

マキシマスは目の前にむっつりと座っている男の顔をしげしげと見た。「わかった、オラニウス、こうしよう。私は兵士全員から、ひとりひとり話を聞くことにする。全員が同じ話を同じ言葉で語るような事がないように望む。…この意味は分かるな。それから、チャティ族の女からも、そっちの言い分を聞くことにする。通訳が必要だ…ローマ人の通訳と、チャティ族の通訳をひとりづつ。」

「必要ありません。あのあばずれ…いえ、女性は、ラテン語が話せます。」

「そうか、それなら少しは助かるな。手配を頼む。明日朝一番に、兵士たちの尋問を始める。下がってよし。」オラニウスはマキシマスを睨みつけてから、ドアをバタンと閉めて部屋を出て行った。マキシマスは書記を勤めている兵士を見た。「やれやれ、まったく協力的なことだ。あの様子じゃ、この捜査はあっと言う間に終るな。」

若い兵士は同情をこめてほほえんだ。

「君も帰っていいよ。明日また頼む。」

「ありがとうございます、将軍。」タリウスは書類をまとめた。「将軍、差し出がましい事を申し上げますが…ここにはあなたのような高位の将校がいらしたことはないので…ここの将校たちは、自分たちの権限が奪われるのではないかと心配しているのです。」

「その心配は当たっている。」

タリウスはマキシマスを見た。将軍は真面目な表情をしていたが、男らしい顔にゆっくりと微笑みが広がり、厳しい風貌がたちまち柔らかくなった。

タリウスは笑った。「ええ、当たり前ですよね。将軍、ごゆっくりお休み下さい。」

マキシマスは机に肘をついて短い髪を指でかき上げ、深いため息をついた。どっと疲れが出た感じだった。彼は目を閉じた。すぐに、彼の頭はがっくりと前に倒れた。彼ははっとして背を伸ばし、なんとか目を覚ましていようとした。入口の方で笑い声が聞こえた。彼は霞んだ目でそこに立っている人影に焦点を合わせた。

「将軍、すみませんが」タリウスがにやにやして言った。「今夜お過ごしになる部屋へ、誰かご案内しましたでしょうか?」

マキシマスは掌に顎をのせて顔を上げ、悲しげに微笑んで首を振った。

「机でもお休みになれるでしょうが、もう少し寝心地の良いところがありますよ。この基地はかなり混み合っていますが、少しは落ち着いてお休みになれそうな所があります。ちょうど将軍の部屋が空いていますので…」タリウスは真面目に言った。皮肉な調子はまったくなかった。

マキシマスは若い兵士について部屋を出た。この寂しい前哨基地に、ひとりだけでも友好的な人間がいたことに感謝したい気持ちだった。

将軍の部屋はマキシマスの予想より豪華だった。広くはなかったが、高そうな家具が揃っていた。「事件の後、誰か何か動かしたか?」マキシマスはタリウスに訊いた。

「わかりませんが、それは有り得ます。」

マキシマスは部屋を見まわし、ベッド近くの床に女物の靴が1足落ちているのに気づいた。「将軍は結婚してたのか?」

「はい。」

「彼の妻はここにいたのか?」

「いいえ。ローマにいらっしゃると思います。」

マキシマスは靴を拾い上げた。「じゃあ、これは誰の…」

「将軍の愛人です。」

「それで、彼女はどこにいる?」

「彼女も行方不明です。」

「いつから?」

「将軍が行方不明になったのと同じ時です。」

「なるほど。そのことを黙っていたのは、オラニウスにしてみればほんのちょっとした不注意というわけだな。」

「ええ、そうですね。」タリウスが言った。

マキシマスは腰に手を当てて部屋を見回した。今夜は寝る前にいろいろとやらなければならない事があるようだ。「タリウス、ありがとう。明日の朝また会おう。」

 

第93章 旧友

午前10時ごろには、マキシマスは基地の兵の半数から話を聞いた。午後3時ごろには、ほとんど全員終わらせた−しかし、成果はゼロだった。何人かの兵士は、オラニウスのように身構えていた。何も知らないと言い張る兵士もいた。ほとんどの兵士たちは、偉大な指揮官を目の前にしてすっかりのぼせ上がり、口もきけぬ有様だった。マキシマスは時々彼らの言葉を書きとめたが、むしろ、相手の目や表情を観察していた。詳細な記録は、常に控えているタリウスを信頼して任せていた。

「次、」マキシマスは、メモをとりながら顔を上げずに言った。次の兵士が机の反対側の椅子に座った。将軍はちらりと見上げて、また紙に視線を落として言った。「名前は?」

「マキシマス、僕がわからないんだね。」

マキシマスははっとして顔を上げ、眉を寄せて目の前の男を見つめた。どこかで会っただろうか?

兵士はわかった、と言うように微笑み、甲高い子供の声を真似て言った。「僕の名前は皇帝のお名前をいただいたんだ。もう言ったっけ?」

マキシマスはぽかんと口を開けた。「ルシアス?ルシアスなのか?」彼は言った。

ルシアスはにっこりした。

マキシマスは椅子から飛び上がり、机の反対側に駆けよって幼馴染みの友を抱きしめた。「おいおい、背中が折れるよ!」ルシアスはぜいぜいと息をつきながらうめいた。マキシマスはあわてて腕をゆるめたが、ルシアスの肩をつかんだまましげしげと彼を見た。

「君は…変わったな。」マキシマスは彼の薄くなりつつある頭と出っ張った腹をに気づいて笑った。

「君もね。僕の頭の毛が少なくなった分が君の顔に行ったみたいだな。」ルシアスはマキシマスの髭を軽く引っ張った。「それに、この前会った時にはそんないい恰好はしていなかった。声も少し低くなったようだな。でも、その目を見ればどこにいてもわかるよ。」

「まあ座れよ。」マキシマスは兵士の椅子を机の自分の側に引っ張ってきてルシアスに座るように合図した。彼は腰を下ろした。将軍は、兵士たちが戸口に群がって中の様子を覗きこんでいるのに気づき、苛々と手を振って追い払った。「何をじろじろ見てるんだ?」彼はぶつぶつと言った。

「みんな君のことを怖がっているんだ。僕が君の髭を引っ張ったりしているのが信じられないんだろう」ルシアスはにやにやした。「君のことは、子供の頃同じ連隊にいてよく知っているって言ったんだけど、信じてくれなかったんだ。みんな、僕が馬鹿をみるのを見物しに来たんだよ。恥をかかせないでくれてありがとう。」

「タリウス」マキシマスは書記に言った。「少し、二人だけにしてくれないか。残りの兵には後で話を聞く。」

「これで終りですよ。彼が最後でした。」若者は書類を集め、ドアをしっかりと閉めて出て行った。

「そうか…よかった。」マキシマスはため息をついた。彼は毛皮とケープを脱いで床に放り出した。「今日は疲れた…それに、もううんざりしかけていたところだ。」彼はルシアスの方を見てにっこりした。「話すことが山ほどあるぞ。それから、頼むから−『マキシマス』と呼んでくれ。会えて本当に嬉しいよ。どのぐらいここにいるんだ?」

「12年になる。」

「何だって!」

「本当だ。その前は、東方の前哨基地にいた。こっちの話はそんなとこで終わりだね。」

「こんなひどい所にそんなに長くいるのか。兵士はもっと短い周期で交替するもんだと思っていたが…」

「正規軍ならね。僕は補助軍だ。忘れたのかい?ずっと二級品だよ。」ルシアスの言葉には苦さはまったくなかった。彼は友人の心配そうな顔を見て笑った。「そんなに悪くないよ、マキシマス。ひとつの所に長くいると、そこに根を下ろすことができる。ここに家族がいるんだ。」

「ゲルマニアの女性か?」マキシマスが言った。

「ああ。子供が4人いるんだ。女の子が3人と、男の子がひとり…君は?」

「スペインに妻と、息子がひとり。名前はマルクスだ。」

「でも…君の任地はゲルマニアだろう?」

マキシマスは悲しげにうなずいた。「あまり会えないんだ。何年も帰れないこともある。」

「それは気の毒に。僕の方が恵まれている面もあるみたいだね。」ルシアスが言った。

「そうかもしれんな。」

「あの哀れなクイントス君は一体どうした?」

マキシマスはくすくす笑った。「おれの副官をしているよ。」

「てことは、君があいつの上官なのか?」

将軍はにやにや笑ったまま、何も言わなかった。

「それはそれは…正義ってものはあるんだな。でも、どうしてそうなったんだ?君は上流階級の出身じゃないだろう?」

「ああ、でも、皇帝が元老院階級の家族に養子縁組を世話してくれたんだ。それで、今の地位につけた。」

「もっと高い地位にもいけるよ。」

「興味ないね。」マキシマスはそう言って、自分の話はもういいと言うように、「ここでの君の仕事は?」と言った。

「僕には語学の才能があるみたいなんだ。ゲルマニアの方言をいろいろ話せるんで、ここの代表通訳をしている。戦闘員じゃないんだ。それには、体格も体力も足りないからね。女房は喜んでるよ。」

「ポリエヌス将軍の通訳もしていたのか?」

「ああ。」

「じゃあ…彼をよく知っていた?」

「他の兵士と変わらないよ。将軍は気さくなタイプじゃなかった。あまり人と話をしなかった。」

マキシマスは椅子にもたれて友人を見つめた。「君がここにいたのは神々の恵みだよ、ルシアス。」

「何とか君の力になりたいけど、マキシマス、僕も他の兵士同様、大した事は知らないんだ。」

「将軍は殺されたと思うか?」

ルシアスは肩をすくめた。「確かな事はわからない。」

「推測でいい。どう思う?」

「殺されたんじゃないと思うね。」ルシアスは閉じたドアをちらりと見た。「マキシマス、前哨地ってやつは、ローマを追い出したがっている人々の敵意の大海に浮かんだ小島みたいなもんだ。我々は孤立しているんだ。軍は何かまずい事でも起きない限り、ここには大して注意を払わない。だから…欲の深い奴が利益を追求するにはもってこいの所なんだ。汚職の温床と言っていい。」マキシマスはうなずき、続けるようにうながした。ルシアスは腕を膝について身を乗り出し、マキシマスをじっと見つめて声を低くして言った。「僕は、以前は別の仕事もしていたんだ。しばらく、倉庫で働いていた。経理官が僕の所に来て、いくつか質問して行った。何か、おかしい所があったらしい。彼が将軍にそれを指摘すると、将軍は彼をどこかに転出させてしまった。僕はその仕事から外された。」

マキシマスは友人の姿勢をまねて、顔を近づけた。「おかしい所というのは?」彼は小さい声で訊いた。

「注文と在庫が合わないんだ。帳簿に食い違いが出ている。」

「誰かが装備を盗んでいたのか?」

「そのようだ。」

「何のために?売るためか?」

「おそらく。ローマ軍の装備を欲しがっているゲルマニア人はたくさんいる。高く売れるんだ。」

「何で支払うんだ?ゲルマニアの金はおれたちには何の価値もないだろう。」

「女や…子供だ。女の子も男の子も。」

「何だって!」マキシマスは頭をかかえこんで、床に向って言った。「奴隷売買か。ポリエヌス将軍は懐を満たして消えたってわけか?」

「その可能性は高いと思うね。」

「行方不明になったというのは、単にそれをごまかすためか。それなら、オラニウスも一枚かんでるな…他にもいるかもしれん。」マキシマスは椅子にもたれ、目を閉じて首を振った。「なんだって、仲間の女や子供を売り飛ばしたりするんだ?」

「仲間じゃないよ。他の部族から攫ってくるんだ。」

「そうやって部族間の対立も煽っているというわけか。」

ルシアスはうなずいた。「いつもはお互いを攻撃し合っているけど、共通の敵が現れると団結する。驚くほどの早さでね。」

「ポリエヌスの愛人というのは…本当は奴隷か?」

「ああ。」

「それで、将軍は奴隷を売った金を握って都合よく失踪、誰も捜さない。殺されたと思われているからだ。失踪はチャティ族のせいにして、ローマに対して体裁を繕うために族長の娘を誘拐してごまかす、か。」

「うまい手だろう?」

「ルシアス、君は前哨地の外の事はよく知らないだろうけど、今は北部辺境全体が火山みたいにくすぶっているんだ。ちょっとした事で大爆発が起きるだろう。」マキシマスは悲しげに首を振った。「この事件の影響は実に深刻だ。」

「ポリエヌス将軍は、後がどうなろうとかまわないんじゃないかな。多分、もうどこか帝国の片隅の、安全な所に行ってるよ。十中八九、ブリタニアだね。オラニウスも逃亡計画を立てていたに違いない。そこへ君が現れて、すべて台無しというわけだ。」

「それがおれの癖でね」マキシマスはちょっと笑ったが、すぐに真剣な顔に戻って言った。「部族の敵意は高まっている。この基地のすぐ外でも、その兆しがあったよ。チャティ族に譲歩を示すために、女を解放したらどうなると思う?」

「レイプされたと言っているんだぞ。それを忘れるな。」

「本当かどうか、見当がつくか?」

「わからん。正直に言って、マキシマス、どっちでも気にする奴はほとんどいないよ。ここの奴らは、彼女のことなんかただの野蛮人だと思ってる。」

「君はゲルマニアの女性と結婚しているんだろう?他にもそういう兵士はいるのか?」

「ほとんどいない。歩兵隊の兵士は毎年交替するんだ。彼らは地元の女なんて、欲望を満たす道具以上には考えていない。結婚するのは、補助軍の兵士だけさ−僕みたいな。」

「それじゃ、チャティ族は陵辱の報復を要求してくるな。どんな要求だと思う?」

「陵辱した男−あるいは男たち−の死だ。」

「誰だかわからなかったら?」

「兵士を二、三人選んで引き渡すように要求してくるだろう。そして、彼らをなぶり殺しにする。」

「無実かもしれない。」

「ああ、そうだ。」ルシアスは身を乗りだしてマキシマスの膝を叩いた。「おい、大変なトラブルを抱え込んでしまったようだな。」

マキシマスは頭痛を抑えようとするように目をこすった。「おれの専門分野は外交より戦闘なんだがな。」

「君はどっちの分野でも有能だと思うよ。」ルシアスの声には本物の尊敬がこもっていた。

「昔…子供の頃には…まさかこんな所でこんな事をするはめになるとは考えもしなかったな。」

「君が将軍に−北部軍総司令官にも−なったって事には、全然驚かないね。君はあの頃から特別だった。僕にはわかってた。」

マキシマスは途惑ったような顔で言った。「おれにはわからなかった。他にもそう言った人がいたが、自分ではわからなかった。」

「善良な人間は自分の偉大さに気づかない。」

「いつからそんな哲学者になった?」

「ゲルマニアの長くて寒い夜は人を哲学者にする。でなけりゃ、狂人にね。」

「軍が君の能力を見過ごしているのは残念だな。」マキシマスは急に笑みを浮べ、鎧の狼の飾りを指差して眉を上げた。「おれにはコネがあるから、当たってみようか?」彼は秘密めかして囁いた。

ルシアスは笑った。「ありがとう、マキシマス、でも、今ではここが僕の居場所なんだ。僕にとっては、家族がいれば充分だよ。」

マキシマスは遠い目をしてうなずいた。「誰にとっても、それで充分さ。」

 

第94章 人質

重い木のドアを開けると同時に、マキシマスは何かが彼の頭めがけて飛んでくるのを目の端でとらえてさっとよけた。皿は壁にぶつかって砕け、将軍の頭にガラスのかけらが降り注いだ。2人の衛兵が部屋の向う側に飛んで行って女の手首を掴み、石の壁に押えつけた。彼女は衛兵に向かって、マキシマスにはわからない言葉でわめきたて、彼に目を向けた。彼はゆっくりと身体を起こし、毛皮のケープからガラスのかけらを払いながら女に近づいた。彼は女から数歩離れた所で止まったが、それでも女は彼に向かって唾を吐き、右の頬に命中させた。ルシアスとタリウスは息を呑んだが、マキシマスはため息をついて、顔を肩の毛皮にこすりつけただけだった。「外で会ったのは君の弟らしいな」彼はつぶやき、衛兵に彼女を椅子に縛りつけるように命じた。

彼は金切り声を上げている女に背を向けて粗末な木の椅子を掴み、女の足の届かないぎりぎりの所に置いた。彼は椅子を反対に向けて座り、腕をさりげなく背もたれにのせ、ブーツの脚を両側に広げた。「さて、姫君、あなたがラテン語を話せることはわかってます。さっさと始めましょうか。」

彼女はわからないふりをして眉をつり上げた。チャティ族の女は中背で痩せており、汚らしい、鈍い茶色の髪をして顔は汚れていた。その服は簡素な茶色の羊毛で、泥でひどく汚れていた。裸足の足も汚れていた。女からは強い、酸っぱいにおいが漂っていて、マキシマスは鼻が曲がりそうだった。どこといって魅力のない女だったが、怒りに燃える青い瞳だけは、このローマ将軍をどうしてやりたいかを如実に語っていた。女は母国語とラテン語の両方で将軍をののしり、彼の方に向かってまた唾を吐いたが、今度は標的の遥か手前に落ちた。

マキシマスは、表面上は何の感情も見せずに言った。「私はマキシマス・デシマス・メリディアス将軍だ。ローマ軍の北部連隊総司令官だ。ポリエヌス将軍の失踪と君の誘拐の件でここに来た。この両方と、それにローマ兵にレイプされたという君の訴えを調べている。」

女は彼を睨みつけた。

「名前は…?」

「関係ねえだろ」

マキシマスは二度ほどまばたきをして、無意識に背筋を伸ばした。これがチャティ族の貴族女性だって?「わかった。それでは、『姫君』と呼ぶことにしよう。」

彼女はせせら笑った。

彼は無理に肩の力を抜いた。「何があったのか話して欲しい。」

「もう言っただろ」彼女は棘のある口調で言った。

「私は聞いていない。兵士を通してより、君から直接聞きたいんだ。」

「どうしてさ。将軍…あんた、それで興奮すんの?」

「全然。冗談じゃないね」マキシマスはきっぱりとそう言って、別の方から攻めることにした。「腹はへっていないか?」

「それが何だよ」彼女はそっけなく言って、目にかかった髪を払おうと首をふった。

マキシマスは後の部下たちの方を振り返って言った。「ここは寒いな。衛兵、火をおこしてくれ。ルシアス、清潔な女物の服があるかどうか探してくれないか。タリウス、食べ物とワインを頼む。」兵士たちは将軍の命令を果すために黙ってぞろぞろと部屋を出て行った。

「2人きりになりたかったの、将軍?」

「別に。」

「なんで?あんた、どっか悪いの?」

「いや。やせっぽちで汚らしい、口の悪い女は好みじゃないだけだ。」

彼女は一瞬ひるんだが、攻撃は止めなかった。「ああ、あんたの妾たちはいい服着て、毎日香水の風呂につかってるんだろうさ。」

彼は挑発には乗らなかった。「もう一度訊くが…何があった?」

「見りゃあ分かるだろ、このローマの馬鹿男!」彼女は腕をねじったが、縄はゆるまなかった。彼女は癇癪を起して椅子の脚を蹴った。

一体いくつなのだろう、とマキシマスは考えた。16歳?17歳?彼女は強がっているだけで、ひどい目にあって怯えている女の子にすぎないのだ。「だれが君をここに連れて来た?」彼は優しく訊いた。

彼女は口をぎゅっと閉じた。

ルシアスが食べ物を持って戻って来た。「そこに置いてくれ。」マキシマスは女のそばのテーブルを指差して言った。彼女は手を出すことは出来なかったが、匂いは漂って来た。

彼女は顔をしかめてルシアスを睨みつけ、マキシマスを見て眉をつり上げて「あんたの奴隷?」と皮肉っぽく言った。

「いや、友達だ。」

「へえ、あんたに友達がいるとはね、将軍。偉そうな軍服を着てりゃあ何でも手に入るってわけ?」

マキシマスは、なかなか鋭い事を言う、というようにうなずいた。「何か飲むか?」

彼女はちらりとテーブルの方を見たが、すぐ彼の顔に視線を戻した。彼女は黙ったまま、何とか彼を見下ろそうとしていた。

「まず話してくれ。そうしたら、食べていい。」

彼女は思わず唾を飲みこんだが、何も言わなかった。

マキシマスの忍耐も尽きかけてきた。「すまないが、姫君、」彼は椅子をまたいで立ち上がりながら言った。「話す気になったら衛兵にそう言ってくれ。それまで、私は他にする事があるのでね。」彼は片脚をひょいと廻して椅子から降り、ドアへ向かった。

彼女は、出て行くはずはない、と思っているように疑わしげに見ていた。

彼は出て行った。

ドアの外から、マキシマスはルシアスを手招きで呼んでドアを閉め、彼女には聞こえないことがわかっているのに声をひそめて言った。「ルシアス、あの女、ひどい臭いだな。最後に風呂に入って着替えたのはいつだ?

「何週間も前だよ。どうしても服を脱ごうとしないんだ。」

「まあ、レイプされたって言うんならそれも分かるが…それにしても、もう少しましな匂いにならない限りあそこに座って話を聞く気にはなれんな。」

ルシアスはうなずき、考え深げに言った。「うちの女房が力になれるかもしれないな。」

 

1時間後、湯を満たした浴槽が寝室の床に置かれ、その横に石鹸と、柔らかいタオルの山と、簡素だが清潔な服が用意された。ぽっちゃりと可愛らしいルシアスの妻、エリカは、人質に向かって励ますようににっこりと笑い、腕をまくりあげて構えた。部屋の隅に置いた椅子にルシアスが座って見張りをしていた。閉めたドアの外には衛兵が2人立っていた。

「何する気だよ?」縛られたままの女は母国語で怒鳴った。ルシアスの妻には見覚えがあった。

「あなたをお風呂に入れるんですよ、姫君。将軍が臭いっておっしゃるんでね。」

彼女は驚きに目を丸くして、怒りのあまりうめくように言った。「あいつの味方するなんて!あんたはこっちの仲間じゃないか!」

「あたしも臭いと思いますよ。あなたの誇りはどこへいったんです、姫君?あなたのようなレディが、ふしだら女みたいなふるまいをなさって!」

「ローマ人と結婚するなんて!」彼女はルシアスの方へ頭を振って言った。「この裏切り者!」

「あたしは裏切り者なんかじゃありませんよ。ただの幸せな妻で母親で、人生で何が大切か分かっているだけです。さあさあ、お風呂にはいりましょうね。」

臭いと言われた事には、彼女はかなり傷ついたようだった。人質はむっつりとルシアスを見て、その妻に「あいつを外に出してよ」と言った。

「姫君、あなたの側に妻だけ残して行くわけにいきませんよ。見る気はありませんからご安心を」ルシアスはきっぱりと言った。

「じゃあ、椅子を壁に向けてよ!」

ルシアスはため息をついて命令通りにした。すぐに、水音が聞こえ始めた。

 

凍てつくように寒い石の塔の上で、ルシアスはマキシマスを見つけた。彼は前哨基地を囲む暗闇のあちこちに浮かび上がる、巨大な篝火を見つめていた。チャティ族の男たちの声が風に乗って届いた。4人の衛兵が将軍の後ろで護衛をしていた。彼らは見るからにそわそわと落ち着かない様子だった。マキシマスは篝火から目を離さずに言った。「ルシアス、見ろ。今はまだ示威行為にすぎんが、敵の数が増えれば困ったことになる。ここを生きて出られる者はいないだろう。闇に紛れて、ボーナに兵を遣って歩兵隊を3隊派遣するよう要請するつもりだ。」彼は憂鬱そうに微笑んだ。「飢えた鮫に囲まれた小島に取り残されたみたいだな。」

ルシアスは友人らしい親しい仕草で、マキシマスの肩に慰めるように手を置いた。彼は興奮を押え切れないような声で言った。「マキシマス、これを見てくれ。」彼の指先からは、手の込んだ黄金細工に輝く宝石をちりばめたネックレスが垂れていた。「あのチャティ族の人質嬢が服の下に隠していたのを、妻が見つけたんだ。他にもたくさんある。服を脱ぎたがらなかったのはこのせいだな。」ルシアスはネックレスを手にのせて、マキシマスがよく見えるようにランプの光にかざした。「ローマの品だ。多分、非常に高価なものだ。この辺りでこんなものを買える所はない。誰かにもらったんだな。」ルシアスは誇らしげにマキシマスを見た。「彼女、話す気になったよ。」

 

戻ってみると、部屋の空気はがらりと変わっていた。窓は換気のために開け放たれていた。部屋を暖めるために火が灯され、石の壁に陽気な光を踊らせていた。テーブルに置かれた皿にはパン屑しか残っていなかった。チャティ族の人質は膝に手を置いて、おとなしく椅子に座っていた。洗い立ての髪はまだ少し濡れていたが、焚火の光の中で暗い金色に柔らかく輝いていた。しみひとつない白い肌は少し上気していた。彼女は聡明そうな、きらきら輝く青い瞳をしていた。彼女ははっとするような美人だった。

マキシマスはエリカに感謝をこめて微笑んだ。彼女は頬を真っ赤にして微笑を返し、濡れたタオルを拾って部屋を出て行った。

「さて、姫君、」マキシマスは気楽な仕草で足を膝にのせ、上げた方の膝をつかんだ。「ご気分もよくなったでしょうから、お名前を教えていただけますかな?」

彼女はむっつりと彼を見上げたが、ようやく、ぶつぶつと何かつぶやいた。

マキシマスは身を乗り出して首を傾げた。「何ですって?」

「フレイダ!」彼女は癇癪を起して怒鳴った。機嫌はあまり直っていないようだ。

彼は椅子にもたれた。「ありがとう、フレイダ。」

「どういたしまして…マキシマス。」

彼はちょっと頭を下げて、そう呼んでかまわないことを示した。そしてケープの下からネックレスを出して彼女の顔につきつけた。「どこでこれを?」

彼女は目をそらして答えを拒否した。

マキシマスは長い間黙ったまま、彼の射るような視線に彼女がもじもじと身じろぎし始めるまで待った。「姫君、ローマ帝国では、奴隷はどんな目に遭うかご存知ですか?」彼女は顔をそむけて目を閉じた。「餓え、暴力、拷問、強姦…一生、不自由な身体にされたり、殺されることもある。」彼はもう一度、ネックレスをつきつけた。「たったひとりの子供でも、そんな目にあわせる価値が、こんな宝石にあると思うのか?」彼は女の横顔を見つめた。彼女は息を呑みこみ、下唇が震え出した。彼女は頑固に口を引き結んだ。

マキシマスの声は冷静だった。「奴隷として生まれた女性と知り合ったことがある。勇敢で頭が良く、美人で…素晴らしい女性だったのに、持ち主の都合でいろんな男に与えられていた…それも、子供の頃から。生まれつきの資質には恵まれていたのに、彼女は自殺することを考えた。そんな、苦痛と屈辱ばかりの人生に耐えるくらいならと…」マキシマスはフレイダの方へ身を乗り出して、無理矢理視線を合わせた。「君は多勢の女性や子供をそんな運命に陥れる片棒を担いだんだ。どんな気持ちだ?こんながらくたのために。」

フレイダは椅子から飛び上がってマキシマスの方を振り向いた。衛兵たちは驚き、あわてて彼女を捕まえようとしたが、マキシマスは座ったままで手を振って彼らを止めた。表面上は落ち着き払っていた。

「ちがうんだ!あんたにはわかんないよ!」彼女は泣きながら叫んだ。「ネックレスなんかじゃない。あたしを愛してるって言ったんだ!ローマに連れていってくれるって…海のそばのヴィラに住もうって。」細い身体を震えが走り、彼女は苦しげに胃のあたりを抱え込んだ。

「誰が言ったんだ?ポリエヌス将軍か?」

「そうだよ!」彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。「嘘だったんだ。」

「ポリエヌスには妻も愛人もいた。君のために両方を捨てると思ったのか?」

「奥さんがいるなんて知らなかった」彼女はしくしく泣いた。「愛人は見せかけだよ。あたしと寝てたんだ!」

「どこで?ここか?この基地か?」

「時々…でも、ほとんどは外で」彼女はしゃくりあげた。

「どこだ?」マキシマスは訊いた。

「この近くの森の中の小屋で、いつも会ってた。」

マキシマスはルシアスを見たが、彼は首を振って肩をすくめた。後で捜さなくては。将軍は続けた。「彼は誰も彼も騙していたようだ。フレイダ、君だけじゃない。」彼女は壁に向かって立ち、冷たい石に額を押しつけていた。マキシマスは立ち上がり、静かに彼女の方へ歩いて言った。おどかさぬように、話しかけながら歩いた。「彼は君を利用していたんだ。他にも多勢、利用された。」マキシマスは石の壁の、彼女の頭の上に手をついた。「フレイダ」彼は静かに言った。「彼は君をレイプしたのか?」

彼女は首を振った。その身体は震えていた。

「ローマ兵の誰かが、君をレイプしたのか?」

彼女はまた首を振り、頭を石にこすりつけた。

「どうしてそんな事を言ったんだ?」

「彼がそう言えって。」

「この誘拐を計画した時に?」

「え…ええ。」

「誘拐なんてなかったんだな?」マキシマスは言った。

彼女はうなずいた。涙がぽろぽろと頬を伝っていた。

「それでは、誰が君をここへ連れて来た?」

「オラニウスだよ。」

マキシマスの疑いはこれで裏付けられた。彼は吸い込まれてしまいたいとでもいうように壁に身体を押しつけている若い女を見た。彼女のことは、まだよくわからなかった。「君はポリエヌス将軍の逃亡を助けたんだね。彼の約束を信じていたのなら、君を連れて行かないのは変だと思わなかったのか?」

「後で迎えをよこすって…」彼女は小さい声で言った。

彼女が何をしたか分かっていても、マキシマスはこの若い女を抱きしめて慰めてやりたい衝動を押えなければならなかった。「女性や子供を攫って奴隷に売る時、君はどんな役をしていたんだ?」

「彼に…言われて…話しかけて…信用させるようにって…」

「君をエサに使ったのか。チャティ族の族長の娘を。君がおびき寄せて捕まえたのか。」

激しい嗚咽が、彼女の咽喉から漏れた。

「もう一つだけ。オラニウスは奴隷売買に関わっていたのか?」

彼女はうなずき、壁に向かって言った。「分け前をもらっていたよ。ほとぼりが冷めたら、あいつも逃げるつもりだったんだ。そう話しているのを聞いたよ。」

その答に納得したマキシマスは壁から手を離し、背を向けようとしたが、彼女が腕を掴んで止めた。再び、衛兵たちが飛んで来ようとした。「動くな」マキシマスは衛兵に命令し、フレイダの方を向いて言った。「どうした?」

「あたしをどうするの?」

彼は彼女の青い瞳を見下ろした。その瞳は恐怖と涙で溢れていた。「父親の所へ返す。君は父親に本当の事を話すんだ。それで全面戦争を回避できるといいが…」

「あたしは殺される。一族の誇りを傷つけたから…」

「フレイダ、よく聞くんだ。」マキシマスの声に残っていた暖かさは消え去っていた。「君を犠牲にすることで他の何千人もの命が助かるのなら…私はそうする。」マキシマスは彼女の指を腕から引き剥がし、振り向かずに部屋を出て行った。衛兵の横を通り際、彼は「オラニウスを逮捕しろ」と言った。

 

その夜遅く、衛兵たちは森の小屋のドアを蹴破り、ランタンで内部を照らした。マキシマスは彼らを押しのけて中に入った。凍った土の床の、1部屋だけのあばら家だった。家具は粗末なテーブルと椅子が2つ、それにベッドが1つだけだった。若い金髪の女の凍りついた裸の死体が、ベッドにうつぶせに横たわっていた。目を見開き、首には黒い痣が残っていた。ポリエヌスの愛人だ。

 

ほのかな曙光が東の空を染めていた。マキシマスは前哨基地の裏門の外にある空き地に、フレイダの父親と共に座った。霜の降りた地面に4つの椅子が正方形を描いて置かれていた。マキシマスは基地を背に座り、湿ったブーツの中で足の血行を保とうと指先を動かしていた。芳しい竈の匂いが漂ってきて、空っぽの胃が音を立てた。マキシマスの後には武装した衛兵が8人立ち、その後には、重装備の騎兵隊が控えていた。馬たちは鼻を鳴らし、凍った地面を前足で掻いていた。族長の方も、粗末な毛皮を纏って剣を持った逞しい長髪の男たちに護衛されていた。フレイダはマキシマスの左に、右にはルシアスが座っていた。「お父上に全部話すんだ」マキシマスが言った。

背の高い戦士に話をする間、娘の目には本物の恐怖が浮かんでいた。ルシアスがマキシマスに話の内容を通訳した。族長はずっと無表情なままだった。それでもフレイダは、寒さのせいか、恐怖のためか、ぶるぶると震えていた。

「君はレイプなどされていないことと、君のいわゆる『誘拐』は狂言だったことを話せ。」

フレイダはすがるような目つきでマキシマスを見た。「もう言ったよ。」

「もう一度言え。はっきりさせておかなくてはいけない。」

彼女は一語一語強調して、この点を繰返した。

「ルシアス、そちらの抗議活動が手におえなくならぬよう抑えて欲しいと族長に言ってくれ。」

ルシアスが話す間、ゲルマニアの指揮官はマキシマスの目を真直ぐ見つめていた。族長の返事にルシアスは息を呑んだ。「マキシマス、もう遅いと言っている。沢山の部族の、何千、何万という戦士が、もうこっちへ向かっている。今日の夕刻にもここに着くかもしれない。真実を話そうとしても、聞き入れるような状態ではないだろうということだ。止められないと言っている。戦争をしに来ているんだ。」

マキシマスが立ち上ると、族長も飛び上がった。彼はマキシマスより頭半分は背が高かった。「ルシアス、会見はこれで終りだ。前哨地から人々を避難させる間、そちらの兵を退いて欲しいと言ってくれ。それが戦士として名誉ある行為だ。」

ルシアスは将軍の言葉を通訳した。族長はゆっくりと首を振り、母国語で答えた。ルシアスの息が震えた。「それはできないと言っている。ローマ軍の指揮官を捕まえておきながら逃がしたとあっては、他の族長たちに殺されると言っている。」

マキシマスは巨漢のゲルマニア人に直接向かって言った。「私を捕らえようとなどすれば、全ローマ帝国の怒りがあなたの部族の上に注ぐだろう。」

2人の指揮官は睨み合った。ひとりは背が高く、逞しく、長い髪をしていた。もうひとりは彼より背は低かったが、同じように逞しく、ローマ最高の戦士に相応しい、堂々たる装いをしていた。2人の背後の兵士たちもお互いを睨み合った。「ルシアス」マキシマスは族長を見つめたまま通訳を呼んだ。「おれの部下たちに、補助軍の兵士とその家族たちの避難を始めるように言え。荷物をまとめている暇はない。真直ぐ南へ向え。何があっても止まるな。眠る暇もない。基地の兵士たちも同行させろ。それから、チャティの族長に、私は残ると伝えろ。その代わり、私と私の部下以外の人々は黙って逃がして欲しい。」

「マキシマス」ルシアスが必死の声で言った。「それじゃ、君を守るのは君の騎兵隊だけになってしまう。明日までに、ゲルマニア兵は何万人も来るんだぞ。君の部下がいくら優秀でも、勝ち目はないよ。」

マキシマスはルシアスの言葉は聞こえたという印に一度だけうなずいたが、「君の奥さんと子供たち避難させろ…君も一緒に行け。」と言った。

ルシアスの声は震えていた。「将軍、今までにあなたの命令に逆らった兵士はいましたか?」

マキシマスはルシアスの言葉が急に丁寧になったことに驚いて言った。「いや。」

「じゃあ、僕が最初か。頼むから、そうはさせないでくれ。家族は避難させるけど、僕は君と残る。君には通訳が必要だ。」

マキシマスは感謝をこめてルシアスを見た。「家族を避難させに行け−でもその前に、族長に言ってくれ。部下と私は食事をして、身体を温めるために基地に戻る。」

ルシアスはゲルマニア戦士の答えを通訳した。「君が他の人々に紛れて逃げないという証拠が欲しいと言っている。」

「わかった…証拠はちゃんと示す。」マキシマスは衛兵をひとり呼んで指示を与えた。衛兵は走って行った。

その衛兵が、他の3人と共に、怯えてじたばたと抵抗しているオラニウスを引きずって戻って来るまで、誰も口を開かなかった。「不当だ!」自分がゲルマニア兵に引き渡されるのに気づいた彼は、マキシマスに向かって叫んだ。「裁判もなしにこんなことはできないはずだ!殺される!法律はどうしたんだ!ローマの法律は!」

「オラニウス、こういう状況下では…私が法律だ。」マキシマスは唸るような低い声でそう言って、敵の将に少し頭を下げ、石の建物に戻って行った。ゲルマニア兵たちが散り始めると、彼の部下たちもその後に続いた。しかし、マキシマスはためらってから振り返り、族長がまだ自分を見つめているのに気づいた。「あなたの娘さんはローマの将軍に騙されたのです。彼には、他にも多勢、騙された。」フレイダは感謝をこめてマキシマスを見た。彼は比較的安全な基地の中へ消えて行った。

 

第95章 孤立

マキシマスとルシアスは2人きりで石の塔の上に立ち、前哨地を捨てて逃げるローマ人の長い列を見つめていた。男たち、女たち、子供たち、徒歩の者、馬に乗っている者、木の馬車に乗った者…その多くが、故郷と呼べるたった一つの場所を捨てて行くのだ。ほとんどの人間は決然として前だけを見つめていたが、最後に一目、粗末な石造りの建物を見ようと振り返る者もいた。ライン川までたどり着くことさえ出来れば、間違いなく、彼らの未来は蛮族の荒地での生活より良くなるだろう。しかしそれまでには、森深い非武装地帯を抜けて危険極まりない旅をしなければならない。森には部族と決別したゲルマニアの戦士たちが潜んでいる。彼らにとっては、非武装地帯などまったく意味を持たないのだ。しかし、避難民は何百人も固まっていたし、その中には前哨基地の歩兵隊もいた。彼らは基地を離れられる事を喜んでいた。また、マキシマスの部下の騎兵もいた−がっちりと武装した、高い戦闘能力を誇る兵士たちだ。

マキシマスは塔の上の、はっきり見える所に立っていた。避難してゆく人々に力と勇気を与えると同時に、チャティ族の幹部たちに約束通り残っている事を示すためでもあった。基地に残った彼の存在そのものが、避難して行くローマ市民たちの安全を保証していると言っても過言ではなかった。

マキシマスのケープは寒風にひらひらと漂っていた。その動きがなければ彫像と見紛うほどだった。ルシアスはマキシマスをちらちらと盗み見た。彼は心を奪われたように人々の列を見つめていて、何を考えているのかまったくわからなかった。自分が逃げる算段をしているのだろうか?身の危険を怖れているのだろうか?もしそうだとしても、怖れをまったく見せていなかった。石の手摺に置いた手も震えていなかった。遠い昔、ふたりはちょうど同じように軍隊生活を始めた。しかし、それからふたりがたどって来た人生はまったく違うものになった。将軍の頼もしい、決然とした顔を見つめていると、ルシアスはこの偉大な人物の隣にまるで同輩のように立っている資格が自分にあるのだろうか、という気がしてきた。大人になったマキシマスにこうして会ってみて、彼がなぜローマ軍の指揮官に選ばれたのかが心から理解できた。ルシアスは彼がそこにいるだけで圧倒される思いだった。

マキシマスは基地に残った騎兵たちを見た。彼らは一見無目的に、開いた正門を出たり入ったりしていた−徒歩や馬で、避難民にしばらく同行しては引き返して来ていた。彼らはまったく気まぐれに行動しているように見えたが、そうでない事はルシアスにはわかっていた。何をしているにせよ、それは彼の隣に立っているこの不屈の男によって完璧に計画された作戦の一部であり、ひとつひとつの動きには必ず目的があるのだ。

ゲルマニアの戦士たちは遠くから避難民を嘲る事で満足しているようだった。追い求めていた獲物は、彼らの手の中にある。基地の塔の天辺に、無敵の軍神か何かのつもりで立っている。その伝説的な指揮官がいなくなれば、無敵のローマ軍も骨抜きになるだろう。帝国北部軍が一時的にでも弱体化すれば、その隙に致命傷を与えることも出来るはずだ。戦士たちは去って行くローマ人たちに向かって斧を振りかざし、剣や槍を振り上げて、嘲りと嚇しの言葉を怒鳴っていた。彼らの姿だけでも充分恐ろしかった。巨大な体躯、不思議な形に編んだ髪、長い髭と粗野な服。

『マキシマス、戦争になるのか?』将軍が答を返すまで、ルシアスは自分が声に出して言ったことに気づかなかった。

「戦争はもう始まっているんだよ、ルシアス。しかし、おれは罪もない非戦闘員を最初の犠牲者にしたくない。この基地の兵士たちが仔羊みたいに皆殺しされるのも望まない。」

その言葉の意味は間違えようがなかった。「それで、代わりに自分を最初の犠牲に差し出すつもりなのか?」

マキシマスは答えなかった。

「マキシマス、奴らが君に何をするつもりなのかわかっているのか?僕は見たことがあるんだ、マキシマス。敵に捕まって拷問の末に殺された兵士を何人も見た。最後にやっと死なせてもらえるまで、言語を絶する凄まじい苦しみが続くんだ。」

マキシマスの青い目は、避難民の列の末尾を追っていた。最後のひとりが暗い、鬱蒼とした森に吸い込まれて消えた。ようやく、彼はため息をつき、目を閉じた。「生きておれを捕まえることはできない。ルシアス、おれは戦って死ぬ。」

「マキシマス…」

将軍はこの数時間で初めて動いた。彼はようやく友人の方を振り向くと、敵は到底聞こえない距離にいるにもかかわらず、声を低めて囁いた「あの集団は、ボーナからこっちへ向っている歩兵隊とすれちがう筈だ。歩兵隊は援軍を要請してからこっちへ来ることになっている。数日中に、この基地のすぐ外で総力戦になる。ルシアス、君には状況を話していなかった。説明するよ。ここにはおれたちだけしか残らない。おれの部下も行かせた。君とおれと…あと、馬だけだな。」

「ふたりだけ?」ルシアスは混乱して頭を振り、その言葉の意味することを理解しようとした。

「そうだ。ここの兵士を全滅させたくもないが、おれの部下を犠牲にするのもいやなんだ。」

「でも…どうやって…?」

「外へ出たか?皆が避難している間、でたらめなパターンに見えるように、基地を出たり入ったりさせておいたんだ。実際には、馬を森に移していたんだ。ほとんどの馬はそこに隠して、同じ馬を数頭だけ何度も何度も基地に入れていた。それから、ゲルマニア兵たちが正門で気勢を上げている隙に南側の壁を越えた。うまくすれば、敵はまだ騎兵隊がここにいて基地はしっかり守られていると思っている。ローマ軍最高レベルの兵士たちでも敵わないほどの兵力が揃うまで、おれたちを捕まえに来るのは待つだろう。それで数日はかせげる。軍服を2着置いていかせたから、必要ならそれを着られる。」

ルシアスは衝撃を受けていた。「じゃあ…君を守る者はもう誰もいないのか?」

マキシマスは少し受け太刀になって言った。「ああ…理由は説明した通りだ。」

ルシアスはかっとなって怒鳴った。「マキシマス、今度は自分が人質になったのか!」

「声が大きい、」マキシマスが注意した。

「僕はどうなるんだ?」ルシアスは言った。「僕の命も危なくなったじゃないか!」

午後の日は翳り始めていた。マキシマスの顔に走った辛そうな表情は、深まる影に隠れて見えなかった。「君も行かせるべきだった。すまない。本当に自分勝手だったよ。」彼は地面に視線を落とした。初めて、ためらいが−ほんの小さな、弱さのかけらが−マキシマスの声に忍びこんでいた。「完全に独りにはなりたくなかったのかもしれない」彼は囁いた。友人の顔を見ることができなかった。「ルシアス、今ならまだ安全にここを出ることが出来る。家族に追いつける。」

「ああ、そうするよ!」ルシアスはそう言ったが、動かなかった。

「じゃあ、行け。おれはしばらくここにいる。おれが敵の目に入る所にいて、逃げようとしていない事さえわかっていれば、連中は基地の守りを固めようとはしないだろう。部下が置いていった軍服を着て、敵が体勢を立て直す前に南の壁を越えろ。」マキシマスはうながした。ルシアスが動こうとしなかったので、マキシマスは彼に背を向け、話が終ったことを示した。

それを見て、ルシアスは去った。怒りのこもった荒々しい足音が階段に響いた。マキシマスにはその一歩一歩が、まるで腹を殴りつけられるようにこたえた。足音は遠ざかり、吹きすさぶ寒風の音だけがマキシマスの耳に響いた。彼の目は南に向うローマ人の列を探してさまよったが、彼らはとっくに消えていた。彼は鎧の中に手を入れて、肌身離さず持ち歩いている小さな革の巾着袋を引き出し、中から二つの小さな彫刻を取り出した。彼はふたつの彫像を何度も、何度も手の中で回していた。それからひとつづつ持ち上げてキスをした。それから手の中に握りしめ、肘を手摺にのせて額を拳に押し当てて目を閉じた。

 

何時間も後、マキシマスはほとんど動くこともできないほど身体の芯まで凍えきり、将軍の兵舎に戻った。彼は暖炉の火がまだ燃えているのに驚いたが、その前にしゃがみ込んで手を暖めた。今夜はあまりに疲れ切っていて、何も考えられなかった。

「いつまで外にいるつもりかと思ったよ」

マキシマスは滑らかな動作でぱっと振りかえり、構えた。まるで魔法のように、いつの間にか手には剣を握っていた。ルシアスが彼のベッドに寝そべって頬杖をついていた。心臓が落ち着くのを待ってから、マキシマスは剣を鞘に納めた。彼は背を向けて火のそばへ行き、今度は足を暖めようとした。「もう行ったのかと思った。」

「この部屋に隠れていたのが僕じゃなくてチャティ族の戦士だったら、今ごろ君は死んでるな。」

「それはどうかな。」

ルシアスはベッドから降りてマキシマスの方へ来た。「友達が困っている時に、見捨てて行けるやつなんているかい?」

マキシマスは黙って火を見つめていた。

「君がクイントスならとっくに置いて行ってるよ。」

マキシマスの顔にゆっくり笑みが広がった。「そんなに悪いやつじゃないよ。」

「へえ。どうかな。」ルシアスはマキシマスの肩を握りしめて言った。「さて、北部軍総司令官殿、これからどうする?」

「寝る。」マキシマスはルシアスの方を振り向いて背中を暖めた。

「ずいぶん呑気なんだな」ルシアスは驚いて言った。

「そうじゃないんだが、やっかいな事態ってのは前にも経験があってね。今のところ、なんとか生き延びている。今一番賢明な行動は、ちゃんと休養を取って、明日には頭と身体がちゃんと働くようにすることだよ。」

「で、どこで寝るつもりだ?ベッドはもう僕が取ったよ。」

「床で寝るさ。」

「マキシマス」ルシアスは笑った。「冗談だよ。もちろん、ベッドは君のものだ。」

「ルシアス、おれはどこでも寝られるんだ。大丈夫だよ」

「でも…」

「いいから寝ろよ」マキシマスは笑顔で言った。

 

第96 〜 99章