Maximus' Story
Chapters 96 - 99


第 96 〜 99 章

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Glaucus' Story 続編「グラウクス・ストーリー」

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第96章 信頼

コン、コン、コン、とノックの音がした。

マキシマスはうなり声をあげて寝返りをうった。あまりにも固い床の上で、腰も肩も痛み、痣になっていた。彼は冷たい空気の侵入を防ごうとケープを身体に巻きつけ、顔を狼の毛皮に埋めて耳障りな音を防ごうとした。

ノックの音は続いていた。

「ルシアス、やめろよ」マキシマスは頭を上げてベッドの方を見ながら言った。

「へえ?」ルシアスは寝ぼけて鼻声を出した。「何を?」

ノックの音は、まだ続いていた。

「あれだよ。」

ルシアスは身体を起した。残り少ない髪に寝癖がついていた。「僕じゃない」彼は息をつまらせた。

マキシマスは一瞬で立ち上がった。「シーッ」彼は手を下に向けて腕を伸ばし、ルシアスに動かないように合図した。ルシアスは動くつもりはなかった。彼は膝をしっかり抱え込んでいた。ゆっくり、音を立てずに、マキシマスは暗い部屋を横切り、剣を手に耳を澄ました。ドアまで行くと、彼は静かにノブを回した。そしていきなり押し開け、未知の侵入者を迎え撃とうと構えた。ドアの外は無人だった。彼は首を伸ばして辺りを見回した。誰もいなかった。

コン、コン、コン。

「マキシマス!」ルシアスが押し殺した声で言った。「あそこから聞こえる。」彼は将軍の部屋の反対側の壁にある大きな、豪華な木の衣装箪笥を指差した。

マキシマスはけげんそうに眉を寄せて箪笥に近づき、正面と横の板に手をすべらせた。表面は固く、振動も感じなかった。彼は息をひそめ、剣を構えて注意深く扉を開けた。中は空っぽだった。

コン、コン、コン、と音がした。

マキシマスは戸棚の後側の板に手を当てた。それは隙間のない一枚板のように思えた。彼は3回、板を叩いてみた。思ったとおり、返事が返ってきた。「ルシアス、ランタンで照らしてくれないか?暗くて見えないんだ。」マキシマスは背面の端を指で押して調べた。かなりかかってから、その板を少し横に動かすのに成功した。すると、魔法のように、それはみしみしと音を立てて横に開き、湿った、黴臭いにおいが漂ってきた。

「もう、いつまで待たせるのよ!」戸棚の後の暗闇からフレイダが出てきて言った。彼女は小さなランタンを手に、途惑っている二人の男の方へ歩いてきた。

マキシマスはすぐに彼女を押しのけて剣を構え、爪立ちになって暗い洞穴をのぞき込んだ。

フレイダは彼を可笑しそうに見ていた。「あたしは一人だよ」

「信じられるか」マキシマスは戦闘態勢のままで言った。

「助けに来たんだよ」彼女は言った。

「何でそんなことをするんだ?」マキシマスは疑わしそうに言ったが、彼女は本当に一人のようだった。彼はすこし警戒を解き、彼女のへ顔を向けた。

彼女は肩をすくめて、「あんたには借りがあるような気がしてね。」と言った。

「おれには借りなんてない。君が負債があるのは君の仲間に対してだ。それも、到底返せない負債だ。」マキシマスはようやく剣を鞘に納めてチャティ族の女性の方を向き、暗い穴の方へ頭を振って言った。「どこへ続いている?」

「道は二手に分かれてて、ひとつは南の森、ひとつは北東へ続いてるの。」

「どうしてこんな事を知っていたんだ?」

「北へ行く方の道は例の小屋に続いてるんだ。」

「ポリエヌス将軍はこうやって君と逢っていたのか。」

「そうだよ。」彼女はまったく悪びれずに言った。「元々は南へ行く道しかなくて、いざというときのための、兵士の脱出路だったの。将軍がもう一本、私用のための道を作らせたんだ。」青い目がブルー・グリーンの目を覗きこんだ。フレイダはマキシマスの視線をひるまずに受けとめ、目をそらさなかった。

「外で待ち伏せされていないという証拠は?」彼はまだ疑っている事を隠さずに言った。

「証拠なんかないよ。あたしを信じてくれなきゃ。それにあんたたち、他に大して手はないんじゃない?あんまり時間がないから、あんたの部下たちは残して行って、自分たちで何とかしてもらうしかないね。」

マキシマスはルシアスをちらりと見て黙らせた。

フレイダは気楽な調子で続けた。「族長たちはまずあんたを処刑して、それから合同で、国境沿いのローマ人の村を順に攻撃して行くつもりみたい。早く着いた族長たちと父の話を立ち聞きしたの。」

ルシアスは蒼ざめ、恐怖に顔を歪めた。

「時間はどのぐらいあるんだ?」マキシマスは天気の話でもするようにさりげなく訊いた。

「せいぜい、あと1日ってところね。兵隊はどんどん集まって来てるわ。あんたを殺す前にどうやって拷問するかについては、どの族長にもそれぞれ考えがあるみたいね。」

フレイダがマキシマスを怖がらせようとしてそんなことを言ったのだとしたら、期待したような反応は得られなかった。彼は彼女に数歩近づいて、腕を組み、首を傾げてしげしげと見た。「どうしてこんな事を教えてくれるんだ?君にどういう得がある?」

彼女は疑われたのが心外とでも言うように顎を上げたが、その態度とは裏腹に本音を白状してしまった。「あたしもあんたと一緒にローマへ行きたいの。」

「おれはローマへは行かない。」

「それじゃ、とにかくローマの領地まで連れて行ってよ。そこからは自分でなんとかするわ。あたしは冒険心溢れる、自立した女なのよ。」

マキシマスは笑いを堪えきれなかった。「それはわかってるよ。」彼は目の前の率直な若い女をしげしげと眺めた。彼女は糖蜜色の髪を一つに編んで背中にたらし、色とりどりのクレイビーズの首飾りを何重にもたらし、男の服を着ていた。茶色の羊毛のチュニックを重ね着し、ズボンを皮紐で固定していた。マキシマスは再び暗い抜け道を覗きこんだ。「選択の余地はないようだ。しかし、言っておくが、フレイダ…もしこれが罠なら、君の仲間に捕まる前にまずその綺麗な咽喉をかっ切るからな。」

 

マキシマスはフレイダの後をついて寒い、じめじめしたトンネルを歩いていった。通路は非常に狭く、彼の広い肩が通れるぎりぎりの幅しかない所もあった。また急に高くなったり低くなったりしているので、将軍は何度も岩に頭をぶつけ、その度に小声で悪態をついた。その後のルシアスは、はぐれないようにマキシマスのケープをしっかり握っていた。フレイダの持つランタンの明かりはマキシマスの身体に遮られてまったく届いていなかった。凍てついたトンネルの床には黒い氷が隠れていて、ルシウスは三度、滑って転んだ。その度にマキシマスも引っ張られて倒れそうになった。しかし、フレイダはこの道を通いなれているようだった。彼女は自信に満ちた足取りですたすたと先を歩き、男たちにもっと急ぐように言った。

嫌になるほど延々と歩いた後、ようやく木のドアに着いた。マキシマスはフレイダを押しのけて前に出て、肩でドアを押した。ドアはぎしぎしと軋みながらゆっくりと開いた。顔に冷たい、新鮮な空気を感じると、彼は女の腕を掴んで前に引っ張り、剣を彼女の咽喉に当てた。そしてそのまま、外側からドアを隠している低木を押しのけて外に出た。暗い森の中、聞こえる音は自分たちの荒い息だけだった。ランプの光にちらちらと舞う雪が光っていた。足跡は見えない。

「ほらね」フレイダは怒ったように言った。「あたしを信じろって言ったでしょ。」彼女は腕から彼の手を払いのけて、掴まれていたところをさすった。

マキシマスは警戒を解かなかった。「ここはどこだ?」

フレイダは頭を振って、「基地はあっち、林の向う。」と言った。

「道はどっちだ?」マキシマスは自分の位置を把握しようとしながら訊いた。

「あっち」彼女は暗闇を指差した。「近くだよ。」

「わかった。二人で道に向え。おれを待たなくていい。」

ルシアスはびっくりした。「どこへ行くんだ?」

「馬を置いてゆくわけにはいかない。」

ルシアスは目を丸くして彼を見上げた。「気でも狂ったのか?マルクス・アウレリウスは頭のおかしい奴を将軍に選んだのか?」

「将軍、あんた馬鹿じゃないの」フレイダがずけずけと言った。「逃げられるうちに逃げるた方がいいよ」ルシアスとフレイダは肩を並べ、声を揃えて将軍の無分別な行動に反対した。

「おれは…」マキシマスは言いかけたが、ルシアスが口を挟んだ。

「君の墓碑銘は決まったね。『彼はその馬を救わんとして命を落とせり』」

マキシマスはもう心を決めていたし、これ以上議論する気にはならなかった。「こっちへ向っているローマ軍に会ったら、おれがどこにいるか伝えてくれ。さあ、行け。」彼は有無を言わせぬ口調できっぱりと言った。

フレイダはルシアスの腕を掴んだ。そして、いかにも渋々、2人は道へ向って行った。マキシマスはもうすぐ死ぬだろう−それも、馬のために。ルシアスは振り向いた。マキシマスはこちらをじっと見つめていた。

「力と名誉を」将軍は冷静な声で言った。

ルシアスはうなずいただけで、雪の積もった小枝をかき分けて歩き続けた。次に振り向いた時には、マキシマスは消えていた。

 

第97章 スカルト

マキシマスはドアを出て振り返り、存在しない部下たちに大声できっぱりと「外は寒いから出て来なくていい」と命令した。彼の声はからっぽの建物を抜けて響き渡り、弱々しい、うつろなこだまとなって戻って来た。彼はドアを閉めて、掛け金がかかっていない事を確認し、いかにも目的がありそうなしっかりした足取りで厩舎に向った。実際には、この空っぽの基地の中でたった一人なのを強く意識していた。重ねたチュニックとズボンとブーツだけの恰好で、マキシマスは真直ぐ前を見て歩いていた。基地の兵舎を囲む壁の上は数人のゲルマニア兵が見張りをしていた。マキシマスは彼らを挑発してやりたいという強い衝動と戦っていた。彼の自信に満ちた様子を見て、敵兵たちはお互いの胸を肘でつつきあい、囚われの将軍を指差した。彼らは安心しきっていた。奴にはもう逃げ道はない。こちらの準備が整って、捕らえに行くまでここにいるしかないのだ。彼らにとってマキシマスは、檻に入れられた野生の狼のようなものだった。誇り高い、危険な生き物だが、今は捕らえられて無力だ。もはや、あいつは我々の慈悲にすがるしかないのだ。そして、慈悲を与える気はまったくない。

厩舎の中は静かで平和だった。マキシマスはお馴染みの馬のにおいに心が安らぐのを感じた。高窓から射す冬の日が埃の粒子を浮かび上がらせ、壁に積み上げられた飼葉を黄金色に照らしていた。マキシマスが通ると、3頭の馬が頭をもたげ、眠たげな目で不思議そうに彼を見た。彼は自分の黒い駿馬の処へ真直ぐ歩いて行った。馬は頭を振って挨拶した。マキシマスは囲いの戸から身を乗り出してスカルトの鼻面をやさしく撫で、頭の傷の治り具合を調べた。馬も同じようにやさしく、将軍の胸に鼻をこすりつけた。マキシマスは動物と小さい子供だけのために取ってある優しい、唄うような声で言った。「おはよう。よく眠れたみたいだな。でも、腹がへったろう?最後に飼葉をもらったのはいつだい?」

「今朝やりましたよ」

マキシマスは驚いて飛び退いた。その拍子に手綱に足がからまって木の床に後向きに倒れた。彼は一瞬で立ち上がり、敵に向って構えた…敵?目の前に立っていたのは少年だった。将軍は羊毛のチュニックから藁を払いながら子供を睨んだ。「ここで何をしているんだ?」少年は怯えていた。マキシマスは思ったより恐い声を出してしまったことに気づいた。

「あの…馬の…世話をしているんです。」金髪の少年はローマ兵の簡素なチュニックを着て、気をつけの姿勢で立っていた−あるいは、立とうとしていた。しかし、彼の身体はぶるぶる震えてまっすぐ立っているのが難しいようだった。

厩舎を見回すと、マキシマスの黒い馬以外に茶色い馬が3頭いた。手厚い世話を受けているのは見ればすぐに分かった。彼は囲いの戸に肘をついて少年に父親のような微笑を向けた。少年はせいぜい、12歳ぐらいのようだ。「私が誰だか知ってるのか?」彼はやさしく訊いた。

少年はマキシマスの簡素な服装に途惑ったようだったが、「士官の方でしょう?」と言った。

「私はマキシマス将軍だ。」少年の目が丸くなった。「基地からはもうみんな避難した。どうして残ったんだ?」

「将軍、僕は、誰かが馬の面倒をみないとと思って…飢え死にさせたくなかったんです…特にこいつは。」彼はマキシマスの馬を見ながら言った。スカルトは誉められて喜んでいるように頭を振った。「何て言う名前ですか?」

「スカルトだよ。」

少年はほとんど恭しいと言っていいような目で馬を見つめた。「こんな素晴らしい馬は初めて見ました。」

マキシマスはうなずいて、子供を不思議そうに見た。「君の両親は?」

「死にました。ずいぶん前のことです。それで兵士になったんです。」

マキシマスは馬の額を撫でた。馬は将軍の胸に顔をこすりつけて前歯でチュニックを噛み、じゃれるように引っ張った。マキシマスはにっこりして馬の筋肉質の首を撫でた。彼は恥ずかしそうにこちらを見ている少年を見て言った。「それで、君の名前は?」

「アセリオです。」

「そうか。アセリオ、私の馬に飼葉をやってくれてありがとう。とても大事な馬なんだ。」

「賢い馬ですね。」

「まったくだ。戦闘の最中も、こちらの気持ちが読めるみたいに思い通りに動いてくれるんだ。期待を裏切られたことは一度もない。だから、私もこいつを裏切ることはできないんだ。」彼は馬のベルベットのような鼻を手の甲で撫でた。「アセリオ、われわれは危険な状況にいる。君の助けが必要だ。」少年ははっとして顔を上げ、しっかりとうなずいた。「そっちの3頭の囲いには飼葉と水をたっぷり置いて行ってやってくれ。」彼は少年を安心させるように微笑んだ。「君と私、それにスカルトはここを脱出する。」

「え?」アセリオは迷っているように茶色の馬たちの方を見た。「あとの馬は?」

「心配ない。ゲルマニア軍が面倒を見るよ。こんなにいい馬は持っていないだろうからな。」

少年はうなずいて、それ以上何も訊かずに働き始めた。命令に従うのに慣れている様子だった。彼はマキシマスの方をちらちらと盗み見た。将軍は口笛を吹きながら仕事をしていた。少年は、こんな将軍は見たことがない、と思った。この人は今まで会った誰よりも強くて威厳がある。でも、その瞳と馬たちを扱う手には優しさがあった。マキシマスはスカルトと他の3頭に馬勒をつけ、1頭だけに鞍をつけた。

「君、馬に乗れるか?」マキシマスは、茶色の雄馬に腹帯を締めながら訊いた。

「はい、将軍!」アセリオは自信を持ってこう答えられるのがとても誇らしかった。

「よし。まず、基地の中で馬を運動させる。それから…いいかい、これから説明することをよく聞いてくれ。」マキシマスは、目を丸くしている少年に小声で指示を与えながら、弱い冬の日光の中へ歩み出した。

 

マキシマスはスカルトの手綱を引いて歩かせ、寒い厩に長い間立っていたために少しこわばっている馬の脚をほぐしていた。彼はもう一方の手に、もう1頭の馬の手綱をゆるく持っていた。アセリオはその横をあとの2頭の手綱を引いて歩いていた。屋根の上のゲルマニア兵は注意深く見張っていたが、時間が経てばそのうちに飽きてよそ見をすることもあるだろう。

マキシマスはアセリオを鞍を着けた馬に押し上げ、スカルトをその横にぴったりとつけた。そして自分も、スカルトの大きな背中にうつぶせに飛び乗り、片脚を反対側に回して身体を起した。人を鞍なしで乗せるのには慣れていないスカルトは、少し落着かない様子だった。彼と少年は1頭づつの馬を手綱で引いていた。2人は馬を初めはゆっくりと、だんだん早足にさせながら、狭い基地の運動場をぐるぐると回り続けた。壁の上の兵士たちには、マキシマスはその仕事に没頭しているように見えた。しかし、彼は兵士たちを注意深く観察し、行動に移る時を待っていた。チャンスは意外に早くやってきた。基地の外から呼び声がして、兵士たちは全員が同時に外を見下ろした。マキシマスは身を乗り出して少年の方へ腕を伸ばし、抱きかかえてスカルトの方へ移らせ、自分の脚の間に座らせた。あまりに滑らかな、素早い動作だったので兵士たちは気づかなかった。2人は引いていた手綱を放した。よく訓練されている馬たちはそのまま同じ軌道を走り続けた。マキシマスはスカルトの手綱をそっと引き、少し開いたままにしておいた入口の方へ数歩近づけた。ブーツのひと蹴りで、彼らは中に入った。

マキシマスは馬を飛び降り、即座に行動開始した。彼はアセリオを手伝わせて、重い家具を押したり引いたり、引き摺ったり蹴ったりして入口のドアのそばに積み上げて内側から塞いだ。ある程度の重さのある物で動かせる物は全部使った。スカルトの馬勒を掴むと、外で警告の叫び声が聞こえた。ゲルマニア兵たちは、数分の内にドアまでやって来るだろう。彼は緊張を声に出さないように気をつけて馬をなだめながら、建物を抜けて将軍の部屋まで引っ張って行った。部屋に入ると、アセリオと共にまたドアを塞いだ。外の物音は空っぽの建物にまるで雷鳴のように響き渡り、逃亡者たちの危機感をつのらせた。トンネルの内部はひどくでこぼこしているが、鞍を着けなければ馬を通り抜けさせることはできる。マキシマスはそう確信していた。彼はスカルトを入口へ引っ張って行った。しかし、スカルトは暗い穴の入口でぴたりと脚を止め、いくら宥めてもそれ以上進もうとしなかった。

マキシマスは馬が落ち着くまで少し待った。その間に鎧を着け、留め金を外したまま、ケープと毛皮を肩に掛けた。彼は入口から後ずさりで離ようとしている愛馬に穏やかな声で話しかけた。「スカルト、頼むよ。出口はここしかないんだ。」

「これを使って下さい。」アセリオはマキシマスに毛布を投げた。彼はそれをスカルトの頭と首にかぶせた。馬は必死で首を振ったが、振り落とすことは出来なかった。マキシマスは馬の身体の緊張がゆっくりとほぐれてくるのを感じた。彼は馬の頭を低く押えながら、入口へ強く引いた。

「アセリオ、あのランタンを持ってトンネルに入ってくれ。後から行く。あまり先へ行かないように注意してくれ。右側の壁に沿って歩くんだぞ。」マキシマスは目隠しをした馬がしっかり足場を見つけるまで待ったが、その間にも建物の入口からドアが斧で叩き割られ、家具が放り投げられる不吉な音が響いて来ていた。スカルトが完全に洞穴の中に入るとすぐに、マキシマスは馬の腹をくぐって戸棚の戸を閉め、後側の隠し戸も完全に閉めた。彼はもう一度馬の下をくぐり、馬の頭の横に立った。彼は手探りでスカルトの鼻面を探り当て、やさしく囁いて前に進むよう励ました。片手を湿った岩壁に置き、もう片方は低い天井にぶつけないようにスカルトの頭を押えていた。マキシマスはアセリオのランタンの揺れる光を頼りにトンネルを進んで行った。スカルトはうなり声をあげ、脇腹が壁をかすめると脚を止めそうになった。しかし、マキシマスの手の導くままに進み続けた。トンネルの中に響く音は馬のひづめのぽくぽくという音と、時々鼻を鳴らす音、それに2人の兵士の足音だけだった。マキシマスの望み通り、ゲルマニア兵たちは彼らが寝室で煙のように消えうせたのに気づいて混乱しているようだった。しかし、戸棚の隠し戸に気づくのは時間の問題だろう。

半分ぐらいまで来たか、とマキシマスが思った時、アセリオが氷に足を滑らせ、叫び声を上げて転んだ。ランタンが地面に落ちて砕け、あたりは完全に真っ暗になった。マキシマスは手探りで少年を探し当て、彼のチュニックを掴んで立ち上がらせた。「大丈夫だよ。壁から手を離さないで、少しゆっくり行こう。」

「すみません、将軍」アセリオは涙声で言った。

マキシマスは彼の肩を叩き、心中の不安を隠して安心させるように言った。「大丈夫だよ。暗くなったってことは、ゲルマニア兵にもこちらが見えないってことだ。右の壁を伝って行け。転ばないように足を踏みしめて歩くんだ。君の居場所がわかるように、小声で話し掛けてくれ。」マキシマスは不要になった毛布を馬の頭から外した。スカルトはふさふさしたたてがみを振った。

「ぼくはとても…」

「ほら、私が毛布の端を掴むから、君は…」その時、木を砕く大きな音がトンネル中に響き渡り、マキシマスは言葉を切った。ゲルマニア兵たちに見つかったのだ。「急げ!急げ!」彼はアセリオに囁いた。「右の壁を伝って、出口に着くまで止まるな。」

トンネルを怒号がこだました。2人の逃亡者はでこぼこの岩壁を伝ってよろめきながら走り、早く逃げようと焦るあまりつるつるした地面に足を滑らせた。心臓が早鐘を打ち、息が苦しかった。スカルトは脇腹を何度も石の壁にこすられて泣き声を上げた。 トンネルには一体何人いるのだろう?最後まで追いつかれないように急ぐしかない。

背後から光が射し、2人は奇妙に歪んだ自分の影を追いかけるように走った。前を行く少年に当たるといけないので、マキシマスは剣を抜きたくなかった。しかし、いずれそれは避けられないだろう。チャティ族兵士が2人に向って怒鳴った。その言葉の意味はわからなかったが、何を言っているのかははっきりしている−止まれと言っているのだ。

「止まるな」マキシマスが荒い息の間で言った。「もうすぐだ。」そう言い終わらぬうちに、アセリオは固い木のドアにぶつかって撥ね返り、驚きに身を固くしてマキシマスの腕に飛び込んで来た。

しかし、明かりを手にした兵士たちはすでに彼らに追いついていた。

「さがれ!」マキシマスはスカルトに向って叫び、その肩を押した。馬は主人の命令が戦闘の時の声なのにすぐに気づいて反応し、兵士の一人を壁に押えつけた。男は押しつぶされた肺で必死に息をしようとしたが、マキシマスは彼が息をしなくなるまで馬をおさえていた。しかし、その仲間が1人、愚かにも馬の背に登ってマキシマスの方へ来ようとした。スカルトは嫌がって激しく身体を振った。兵士はその鋭い蹄の下に滑り落ちた。馬はその身体を激しく踏みつけ、ぐしゃりと潰した。大きな馬の身体に邪魔されて獲物に手が届かないのに苛立った1人が、その後半身を横にどけようとした。スカルトはもう我慢できなかった。馬はその強力な後脚に力をこめて蹴った。脚はチャティ戦士の胸に命中し、岩に叩きつけた。彼は悲鳴を上げ、手を上げて身を守ろうとしたが無駄だった。頭に血が上ったスカルトは後を蹴り続け、男は壁にもたれてこと切れ、倒れこんだ。

マキシマスは肩で息をしながら馬の具合を調べ、続く追手が来ていないかどうか耳を澄ました。聞こえる音はドアに押しつけられて、恐怖に震えている少年の泣き声だけだった。ランタンがまた消えてしまったので、声は聞こえるが姿は見えなかった。「アセリオ…アセリオ、もう大丈夫だ。敵は全滅だよ。もう安全だ。」マキシマスは手探りで少年の腕を掴んだ。彼は子供をやさしく側に引き寄せ、抱きしめて言った。「ドアを開けていいかい?安全なところへ行こう。」二度、強く押すとドアはぎしぎしと音を立てて開いた。トンネルのドアを隠している木の葉から柔らかい陽光が漏れていた。マキシマスは四つんばいになって枝を分け、目を細めて注意深く外を覗いた。外には誰もいなかった。彼はにっこりして少年の髪をくしゃくしゃとなで、手を貸して外に出させた。それから、おとなしくなったスカルトを木の間から引っ張り出した。

太陽の下で仰向けにひっくり返って心臓が落ちつくまで休みたいと、マキシマスは切に願った。しかし、今にも別の兵士たちがトンネルを抜けて追って来るのではないかと心配だった。残りの兵たちはおそらく、森を捜索しているのだろう。彼はスカルトのたてがみを掴んでその広い背中にまたがり、アセリオを抱き上げて後に座らせた。彼は馬をルシアスとフレイダの行った方向に向けてスタートさせた。

鬱蒼と茂った森の中で少し迷った後、彼は土の道を見つけ、馬を南に向って走らせた。疲れきったアセリオはマキシマスの背中にもたれてうとうとしていた。手から力が抜けているのを感じた将軍は少年の腕を自分の腰にまわして片手でしっかり掴み、滑り落ちないようにした。マキシマスは警戒を解いていなかった。まだ基地からそれほど遠くへ来てはいない。安心できるのは、まだまだ先だ。

 

彼より先に、スカルトがそれに気づいた。馬は耳を後に動かして鼻を鳴らした。マキシマスは振り返ったが、誰もいなかった。彼は馬を止めて向きを変え、来た道を見た。道は空っぽだった。静寂を乱すのは、木から木へと飛ぶ小鳥の声だけだった。マキシマスは馬の首を撫でて言った。「何が聞こえたんだい?」スカルトは前脚を跳ね上げ、また鼻を鳴らした。マキシマスは気味の悪い、ぞくぞくする感覚が背中を走るのを感じた。「アセリオ、起きろ。ちょっとまずい事になるかもしれん。」少年は眠そうに身じろぎした。「出来るだけしっかりつかまってろ。わかったか?」アセリオは彼の背中に頭をこすりつけてうなずいた。怖くて声が出なかった。マキシマスは腰につけた剣に手をかけたが、まだ抜かなかった。

突然、右側の森から黒い鳥の一群がきいきいと鳴きながら空へ飛び立った。その鳴き声はチャティ族戦士たちの恐ろしい雄叫びと混ざり合った。戦士たちは道の両側の鬱蒼とした常緑樹の森から、武器を手に駆け出して来た。手に手に剣や槍や弓を振りかざした戦士たちが、まるで川の氾濫のように森から溢れ出してきた。マキシマスはスカルトの向きを変えてフルスピードで走り出した。槍が彼らをかすめて飛び、まわりの地面に矢が降り注いだ。マキシマスは少年を後に座らせたことを深く後悔したが、もう位置を替える暇はなかった。「つかまれ!」彼はもう一度そう叫んだ。

スカルトはぐんぐんと追っ手との距離をあけて行った。しかし、マキシマスに加えて少年も乗せている馬はすぐに疲れてしまうだろう。それに、スカルトはかなり前から出血していた。こすれた脇腹から滲む温かい血がマキシマスのズボンを濡らしていた。加えて、道は丘陵地帯に入り、ゆるい上り坂は急坂に変わっていた。「急げ!」マキシマスは必死で馬を駆ったが、馬はすでに泡を吹き、荒い息をしていた。逃げ続けるより他に道はなかった。道を降りて隠れようとしても、絶対に見つかるだろう。馬の蹄は地面をとらえていたが、マキシマスは馬がよろけるのを感じた−一度、それから二度。万一、馬が倒れたらどうやって逃げればいいのか。マキシマスは必死で考えようとした。スカルトは勇敢に急坂を駆け上った。その頑強な心臓はもちこたえていた。マキシマスはまた馬の耳が動くのに気づいた。しかし、今度は前に動いていた。丘の向う側に何かがいる。

マキシマスもその音を聞いた。轟くような足音。丘の頂上に達した時、彼は見た−生まれてから見た、最も美しい光景。ローマの黄金の鷲が陽に輝き、数え切れぬほどの紫旗が風に舞い、そしてその後には、ローマ兵の果てしない波が続いていた。完全武装し、戦闘体勢で。狂ったように馬を駆って来る彼らの将軍の姿を認めると、角笛が鳴り響いた。将軍の後で、ゲルマニア兵士たちは急停止し、信じられぬ思いで眼前の光景を眺めた。獲物は今や彼らの手を逃れ、フェリックス第三連隊の五千の兵が彼を守るように包み込んでいた。兵士たちは道の真ん中で直ちに戦闘隊形をとった。我らが将軍を守るためなら死ぬまで闘う覚悟だ。

そして…彼らの中心には、白馬にまたがり、威厳を湛えた背の高い影があった。それは神聖なるローマ帝国皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグスタスその人の、細い白髪とケープを風に靡かせ、ロイヤル・パープルと黄金色に輝く鎧をまとった姿だった。この戦闘ばかりは、皇帝自ら指揮を執らずにいられなかったのだ。

ゲルマニア軍に勝ち目はない。

 

第98章 A.D.179年 夏

取るに足らぬ前哨地の、比較的小さく思えた紛争の解決に、マルクス・アウレリウスは彼の大事な将軍を派遣した。その運命的な決断が、その後1年半続く大戦争の引き金となった。皇帝と将軍は幾多の戦闘を指揮した。この出来事が導火線となり、北部地域は全面戦争に突入した。両軍は土地と文化的相違をめぐって血なまぐさい戦闘を繰返した。

前哨地を脱出した後、マキシマスはボーナの基地に一度も戻れなかった。彼を追って来たチャティ族の戦士たちは完膚なきまでに叩きのめされた。その後、彼は頭を垂れ視線を地に落として皇帝の前に立ち、馬を救うために自らの命を危険にさらしたことを部下たちの前でさんざん叱られた。マキシマスが謙虚に皇帝の許しを乞うと、皇帝は彼をしっかりと抱きしめ、涙に濡れた顔を将軍の顔に押しつけた。老人は弱々しい身体を震わせ、節くれだった拳が白くなるほど強く将軍の腕と首を握りしめ、そもそもあのような、不安定で危険な状態の所へ行かせたのが悪かった、と許しを乞うた。フェリックス第3連隊の兵士たちは父親に叱られた時の事を思い出した。子供を崖っ淵から救い出した父親は、恐怖と安堵感の両方から怒りを爆発させるものだ。この2人がお互いに愛し、尊敬し合っているのは、誰の目にもはっきりとわかった。

マキシマスは常時前線に留まり、鬱蒼とした松の森で無数の戦闘を指揮した。皇帝は主基地に戻ってチャティ族・マルコマンニ族・クアド族の連合軍と講和を結ぼうと努力したが、拒否された。最終的な勝利を収めたかと思われた瞬間、別の地域で新たな紛争が勃発した。その度に将軍は紛争地域に地元の連隊を集結させた。彼らの側には常に、フェリックス第3連隊の疲れを知らぬ男たちの顔があった。

179年の夏になってやっと、マキシマスは決定的な勝利を収めた。ゲルマニア軍は傷を癒し、体勢を立て直す為に兵を退いた。将軍はやっと、一時的にボーナへ戻ることが出来た。彼はルシアスとアセリオともう一度会いたかった。それから、フレイダがどうしたかも知りたかった。それに、留守の間にたまっている妻の手紙を読みたくてたまらなかった。返事が来ないのでさぞ心配しているだろう。部下たちにも、たとえつかの間でも、休暇が必要だった。ある蒸し暑い7月の午後、疲れ切ったフェリックス第3の兵士たちは久しぶりに腰を据えて休もうと、ボーナへと向った。

 

家族と水入らずで過ごす兵士もいれば、飲み騒いだり娼婦を買ったりする兵士もいた。部下たちがどんな気晴らしを選ぼうと、マキシマスはかまわなかった。必要な時、即座に戦闘体勢に入れさえすればよい。

しかし、マキシマスは自分のテントにこもり、顔と手元と机だけを照らすようにランプの明かりを落とし、むき出しの肌に惹かれて飛んで来る蚊さえ気にも留めずに独り座っていた。オリヴィアの手紙を読むときは、いつもそうしていた。テントを暗くするとゲルマニアは遠ざかり、たやすく想像を広げることができた。彼はスペインの家にいて、明日には畑を耕し、息子と遊び、妻を腕に抱きしめることができると…これからまた直面なければならない苦痛や死のことばかり考えたくはなかった。彼は何かを創り出すことに憧れた。破壊するのではなく。彼は生命を育むことに憧れた。死をもたらすのではなく。オリヴィアの手紙はスペインの夢を作り出すもとだった。彼は一語一語をゆっくり味わい、ほとんど暗誦できるほど何度も何度も読み返した。

彼はもう一人の子供を激しく望んでいた。そのことを考えると身体中がうずくほどだった。オリヴィアはゲルマニアで何ヵ月も過ごしたので、また妊娠したという知らせを聞けるのではないかと期待していた。しかし、3人目の子供の誕生という吉報はついに告げられることはなかった。オリヴィアも自分と同じぐらい失望しているに違いないと思い、彼は手紙でこの話題には触れなかった。2年前、少しの間手紙が来なくなった時期があった。彼は妻がその時流産したのではないかと心配したが、彼女はそんなことはないときっぱり書いてきた。ゲルマニアで経験したさまざまな出来事にオリヴィアがひどく動揺していたのはわかっていた。彼を心配させまいとして、辛いことは手紙から省いているのではないのだろうか?マキシマスがそうしているように。そう思うと余計に、彼は手紙の行間に何が隠されているのか読み取ろうとしてしまった。最近の彼女の手紙は明るく楽しい話題ばかりだったのにもかかわらず。

妻はいつも、息子の絵を同封してきた。息子は驚くほどの速さで成長していた。いつも元気一杯で楽しく暮らしているけれど、パパに会えなくてとても寂しがっている、と妻は言った。オリヴィアは子供が自分で描いたたどたどしい絵も何枚か同封してきた。一枚はマキシマスの絵だった。それを見たとたんに彼は吹き出し、大声で笑った。息子の目に映った彼はケープと毛皮と髭と目ばかりが目立ち、大口を開けてにたにたと笑い、太い腕は筋肉でぼこぼこと盛り上っていた。彼の横には愛馬のどちらかが立っていたが、ほとんど棒を繋ぎ合わせたような姿で、大切なパパよりもずっと小さく描かれていた。全部の絵の隅々までをじっくり眺めた後、荷物の中に大切にしまいこんだ。ヴァンドボーナに帰った時に彼の宝に加わることになるだろう。

オリヴィアの手紙を読んでいて唯一、辛いのは、いつ家に帰って来れるのかいつも訊かれる事だった。彼はもうしばらく待って欲しいと書くようにしていた−たぶん、次の収穫の時期には、と−しかし、到底帰れそうもないのはわかっていた。最後に家族に会ってから2年半になろうとしていた。妻には、もうすぐ会えるかもしれないという希望を持たせてやりたかった。家に帰りたい…妻と息子が恋しい…ルシアスの家族を訪ねた時、その辛さはますます酷くなった。

ルシアスはエリカと4人の子供と一緒にボーナの村に落ち着いた。そして、新しい家族も加わった。アセリオはこの家族の長男になり、狭いが暖かい小さな家で育てられることになった。マキシマスはルシアスを正規軍に昇進させるよう手配した。補助軍での年月を全て従軍年数として数えたので、彼の給金は大幅に上がり、家族と共に簡素だが快適な生活を始めることが出来た。彼は軍幹部付きの公式通訳となり、必要に応じてボーナを訪れる要人たちの通訳も勤めるようになった。マキシマスと違って、彼は数週間以上家族と離れることはなかった。

フレイダはといえば、あれからすぐに南へ向う隊商にくっついて行ったそうだ。持ち前の要領の良さと好奇心で、今はもうローマの近くまでたどり着いているだろう。

ある夜、マキシマスとクイントスは、アセリオとルシアスとエリカと夕食を共にしていた。エリカは膝に末娘をのせていた。あとの3人の子供は食事を済ませ、大騒ぎで遊んでいた。楽しげな子供たちの声と物音に包まれ、マキシマスはすっかり寛いでいたが、自分の家族を思い出して心が痛んだ。彼はエリカの膝の赤ん坊をしげしげと眺めた。赤ん坊は薔薇色の頬に青い目をしていて、くるくると巻いたやわらかいバター色の髪がぽっちゃりした顔を縁取っていた。赤ん坊は目を丸くし、指を2本口に入れて、たまたま一番近くに座っていたクイントスをしげしげと見つめていた。赤ん坊は副官に向ってそろそろと手を伸ばしたが、彼はべたべたの指からさっと身をかわした。彼を見つめる可愛い顔に不安そうな表情が浮かんだ。彼女はこの頑固な男を怖がったものかどうか迷っていたが、お尻の下にママの膝、背中にママの胸があるかぎり大丈夫だと決めたようだった。

エリカが地下室から追加のワインを取って来ようと決めるまでは、何もかもうまく行っていた。彼女は夫の座っていた空の席をちらりと見て−夫はゲームに熱中しすぎて取っ組み合いのケンカを始めた子供たちを止めに入っていた−赤ん坊を一番手近なところ−クイントスの膝の上−に置いて席を立った。

急に動かされたのにびっくりして、赤ん坊は目をぱちぱちさせ、まん丸に見開いた。赤ん坊が表情を変えたのを見て、マキシマスの顔にはにやにや笑いが広がった。クイントスは赤ん坊の脇をぎこちなくつかみ、出来る限り自分の身体から離して膝の端にのせた。「爆発」が来るな、とマキシマスは思ったが、クイントスにはわからないようだった。突然、赤ん坊は大きく口を開けてわめき出した。顔は深紅から紫に変わろうとしていた。クイントスはまったくどうしていいかわからず、闇雲に膝を揺らして赤ん坊を宥めようとした。しかし、野生の跳ね馬にでも乗っているようにぴょんぴょんと飛び上がらせただけだった。一瞬、泣き声が止んだかと思うと、彼女は深く息を吸ってますます大声で泣き出した。クイントスの顔は、今や赤ん坊の顔と同じぐらい真っ赤になっていた。

「こっちへよこせ」マキシマスはそう言って手を差し伸べた。クイントスは泣きわめいているお荷物をさっさと厄介払いした。赤ん坊は不快感に彼と同じぐらい身体を硬直させていた。

エリカとルシアスが食卓に駆けつけた。「マキシマス、ごめんなさいね」エリカが赤ん坊を受取ろうと手を伸ばした。しかし、マキシマスはもう、赤ん坊を肘と胸の間にしっかり抱え込んでいて、手を振ってエリカの手を断った。

「大丈夫、大丈夫」彼は微笑んだ。「世の中、こんな簡単な問題ばかりならいいのにな。」マキシマスは簡素な白いチュニック姿に、いつものブーツではなく涼しげなサンダルを履いていた。赤ん坊はチュニックの柔らかい布とマキシマスの腕に、しっかりと包み込まれていた。「この子の名前は?」彼は赤ん坊を優しく揺らしながら訊いた。彼は赤ん坊の頭を包みこむほどの大きな手で絹糸のような巻毛を撫でていた。彼女はもう静かになって、しゃくり上げながら仔猫のような小さな泣き声を上げてた。

「イゾルデだよ」ルシアスはマキシマスをしげしげと眺めながら言った。「君が好きみたいだな。」

「おれも好きだよ」マキシマスは自分の低い声が胸にもたれたイゾルデの耳に響いているのを意識して、静かな声で言った。しかし、赤ん坊はその響きが気に入ったようで、彼の胸にぴったりとくっついて口に親指を突っ込み、やっとご機嫌を直した。マキシマスは背を丸めて赤ん坊を顔に近づけ、その髪に顔を埋めて深呼吸した。エリカはよく分かる、と言うように微笑んだが、クイントスは知らん顔をしていた。「うーん、いい匂いだ」マキシマスはつぶやいた。 「赤ん坊っていうのは、何とも言えない…いい匂いがするな。」

クイントスは鼻に皺をよせた。

「ちがう」マキシマスはいらいらと言った。「そのにおいじゃない。そうじゃなくて…」彼は言葉を捜した。「つまり…赤ん坊の匂いだ。」クイントスはテーブルのオイルランプの光に急に興味を引かれたようだ。マキシマスは彼をじっと見つめて言った。「クイントス、クララはこのぐらいの歳じゃないのか?イゾルデを抱いてみた方がいいんじゃないか?練習が必要なようだから」マキシマスはちょっとからかうだけのつもりだったのだが、クイントスは表情を固くした。

マキシマスとルシアスは顔を見合わせた。ルシアスの暖かく気さくな歓迎にもかかわらず、幼馴染の3人の再会は、控えめに言っても、張り詰めた雰囲気が漂っていた。クイントスがどうしてよそよそしい態度を取っているのか、マキシマスは夕食の間中理解に苦しんでいた。3人の内で唯一、身分の高い生まれのクイントスが、3人の内で一番人生に満足していないのだろうか。ルシアスは軍では大して出世していないが、多勢の家族に囲まれ、そんなことは補って余りあるほどの愛情に恵まれている。マキシマスは、もちろん、軍での成功と愛情溢れる家庭の両方を手にしている。クイントスは軍において望んだほどの地位は得られず、家族もない−妻は若くして死に、娘は遠いローマにいて会った事すらない。クイントスは自分の人生のあらゆる面で満足してないのではないか、とマキシマスは考えた。そして、マキシマスは彼に何をしてやったらいいのかわからなかった。そもそも、何か出来る事があるのかさえわからなかった。

クイントスはマキシマスを見て、その胸でうとうとしている赤ん坊を見た。その夜中ずっと、アセリオは崇拝にも似た目で黙ってマキシマスを見つめていた。 ルシアスは何度も将軍の方へ顔を寄せて何か囁き合っていた。エリカはといえば、将軍に満足して頂く事が彼女の人生の最重要事だとでも言わんばかりに、彼の回りを飛びまわって食べ物やワインを勧めまくっていた。そしてまた、彼は泣きわめいていた赤ん坊まで−それまで静かだったのに、クイントスが抱いたとたんに泣き出した赤ん坊まで−魅了してしまったようだ。彼は唐突に立ち上がった。「悪いが、疲れているんで、基地に戻らせてもらうよ。」

マキシマスはイゾルデを胸に抱いて立ち上がりかけた。「クイントス…帰るなよ。まだ早いじゃないか。」

「そうだよ」ルシアスも言った。「頼むよ。つもる話があるだろう。」

しかし、クイントスはもう出口へ向っていた。「だから、疲れているんだよ。」彼は白々しい笑顔を浮かべた。「ルシアス…出発前にもう一度会おう。奥さん、」彼はエリカにちょっと頭を下げた。「お招き頂いて感謝します。」それ以上の引きとめる言葉を拒否するようなきっぱりとした足取りで、彼はドアを出て行った。

「あらあら、」エリカが椅子に沈み込みながら、マキシマスの方を見て言った。「何か失礼をしたかしら?」

マキシマスはイゾルデを腕に抱きなおして腰を下ろした。「いえ」彼はエリカを安心させようと、優しく微笑んで言った。「クイントスのことは、ルシアスも私も理解しようと長年努力しているんですが、未だにわからないんですよ。たぶん、誰にもわからないんじゃないかな。」

ルシアスはマキシマスのゴブレットにワインを注ぎ、エリカはランタンをいくつか灯した。小さな中庭は夕闇から暗闇に変わり始めていた。エリカは子供たちを寝かせに行った。アセリオは2人の男とテーブルに残った。まだ一言も発せず、隣に座っている男に圧倒されていた。私服を着て、腕に赤ん坊を抱いて夕方の柔らかい光の中に座っていると、将軍はなんて若く見えるのだろう。若くて、強く、ハンサムで、寛いで…親しみやすく見える。でも、軟弱ということではない、アセリオは思った…決して、軟弱ということはないが、ずっと親しみやすい。

マキシマスがゴブレットを持ち上げると、ルシアスが言った。「マキシマス、クイントスの精神状態にまで君が責任を感じることはないよ。昔から決して満足しない奴だった。これからもそうだろう。いつでも、手の届きそうで届かないものばかり望むやつなんだ。」

「やつの精神状態に責任なんか感じてないよ。」

「いや、感じてるね。」

「まあ、もしそうだとしたら、それは彼がおれの連隊で重要な地位にいるからだ。おれがいない時は彼が人の生死に関わる決断をすることになる。自分の人生に不満のある人間は、難しい状況でよい判断をしない事が多いからね。」

「それじゃ、そんなに力のある地位に置いておくのは危険って事じゃないのか?」

「ルシアス、そんなに単純な事じゃないんだ。」

「マキシマス、教えてくれ。もし明日死ぬと分かっていて、君の後任を選ぶことが出来たとしたら…彼を選ぶかい?」

マキシマスは顔をそむけた。彼はクイントスへの信頼を完全に失っていた頃の事を思い出していた。「いや」彼は短く答えた。

「でも、そうなるんじゃないのか?クイントスが君の後任になるんじゃないのか?」

「皇帝陛下がおれの後任を指名されるまで、一時的になるだけだ。マルクス・アウレリウス陛下は人を見る目がおありになるんだ、ルシアス。きっと適任者を選ばれるだろう。」

「マルクス・アウレリウス陛下が将軍を任命なさったんですか?」アセリオがようやく会話に加わった。

マキシマスは少年の方を振り向いて笑顔を浮かべた。笑うといつもそうなるように、目尻が下がり皺が寄った。「そうだよ。」

「それでは、本当に人を見る目がおありになりますね。」アセリオは恥ずかしそうにそう言った。

マキシマスは少年の髪をくしゃくしゃとなで、肩を軽く叩いて言った。「そうだろう?」

アセリオはにっこりした。

しかし、ルシアスはそんなに簡単には納得しなかった。「もしも、君と皇帝と、両方に同時に何かあったらどうする?同じ戦闘で戦死することもありえるだろう?」

「もしも、もしも。そればっかりだな」マキシマスはからかうように言った。「もしも山が溶けたら?もしも真夏に雪が降ったら?ドナウの水がワインになったら?」

友人が真面目に答えるのを拒否しているのを見て、ルシアスは不満そうだった。

マキシマスはルシアスを宥めようとした。「おれはテストとして、長い間連隊を留守にする時、クイントスに任せて行ったんだ。彼は立派な仕事をしたよ。」

「君がいなくても、君が上官だということがわかっているからな。とんでもない馬鹿をやったとしたら、君に言い訳しないといけないってことをね。」ルシアスは座ったまま前にかがんで、脚を伸ばして足首を重ねた。彼はマキシマスを横目で見た。「クイントスを完全に信頼していると言えるかい?」

「いや。でも、完全に信頼してる人間なんてほんの少ししかいない。」

「僕もその1人かい?」

「ああ…そうでなきゃ、こんな話はしていない。」マキシマスはアセリオの方を見た。「この部屋で話したことは外では一切秘密だ。いいね?」

「はい、将軍。」将軍に気に入ってもらいたくて必死のアセリオはしっかりとうなずいた。

エリカが戻って来て、マキシマスの腕の中の子供を連れて行こうと彼の側に来た。「その子のねんねの時間は、とっくに過ぎてるんですよ、マキシマス。」

「でも、寝てるじゃないか」マキシマスはこの可愛い、暖かい赤ん坊を手から放したくなかった。

エリカは何も言わずに、太い腰に手を当てて眉を上げた。マキシマスはイゾルデの巻毛にやさしくキスをして、大きな手で彼女を抱き上げて母親に渡した。長い銀色のよだれの糸が赤ん坊の口から彼の手に垂れていた。マキシマスはまるで気にする様子もなく、連れて行かれる寝ている赤ん坊を見つめたままチュニックで手を拭いた。

「帰った方がいい。」

「何?」マキシマスはぼんやりと言った。

「君は、家に帰った方がいいよ。」ルシアスはもう一度言った。「…奥さんと息子さんのところへ。それから、もっと子供を作った方がいい。どのぐらい帰ってない?」

「2年半…30ヵ月…135週…どう数えても、長いな。」

「何日と何時間まで数えたか?」ルシアスが微笑んだ。

「ああ。」マキシマスは冗談を言っているのではなかった。何日、何時間までが、石の壁にに刻印したように、マキシマスの心にしっかりと刻み込まれていた。

「マキシマス、それは長すぎる。」

エリカの優しいが有無を言わさぬ声が寝室から聞こえてきた。「アセリオ、寝る時間よ。」

少年は顔をしかめたが、2人に挨拶をして席を立った。マキシマスはまたすぐ会おうと約束した。

少年が出て行ってドアが閉まると、マキシマスは座ったまま身を乗り出して低い声で言った。「この戦争が終ったら、北部地域も安定すると思うんだ。そうしたら、皇帝陛下に帰郷の許可をお願いしようと思っている…今度は、永久に。引退したいんだ。もう一生分の何倍も人殺しをした。もうたくさんだよ。」

ルシアスは自分の手を、椅子の腕の上のずっと大きいマキシマスの手の上にのせた。「当然だよ。君ほど軍に人生を捧げた兵士はいない。きっとお許しが頂けるよ。」

マキシマスはうなずいたが、友人から目をそらして壁の方を見た。彼は目の焦点が合わなくなって灰色の石がぼやけてくるまでじっと壁を見つめていた。皇帝は引退を許してくれるだろうか?ローマが彼を解放してくれることがあるだろうか?

 

第99章 A.D.179年 初冬

マキシマスは前線から1マイルの位置にある主基地の、設備の整ったテントに座っていた。今や前線はヴァンドボーナから北へたった数時間の所まで迫っていた。彼は皇帝からの手紙を手に、当惑した様子で眉をひそめ、額に深い皺を刻んでいた。戦争が最終段階に入っているというのに、マルクスはなんの説明もないままヴァンドボーナに留まっていた。マキシマスの能力に全幅の信頼を置いているので、彼ひとりでも作戦を遂行できると確信している、と皇帝は言った。しかし、最後の戦闘には何を措いても駆けつける、と。長年の念願である平和を帝国にもたらす戦闘を、是非この目で目撃したい。マルクスの手紙は彼の将軍への賞賛と激励に溢れていたが、マキシマスはかえって不満な、落ち着かない気持ちになった。

「どうかなさったのですか?」キケロが訊いた。手に持った皿から立ち上る湯気が、冷たい空気の中で彼の頭を包み込んでいた。キケロはマキシマスの前の机に夕食を置いた。将軍は戦闘の前夜には、考えをまとめるために1人で食事する習慣だった。彼は背を向けてマキシマスのワインを注いだ。質問に答えてもらえるかどうかわからなかったが、彼としてはどちらでもかまわなかった。詮索するつもりはなかった。彼はただ、自分がいつもマキシマスの気持ちを気にかけていること、必要ならいつでも心を打ち明けて欲しいということを知ってもらいたいだけだった。

マキシマスは手紙をつかんだまま手を膝に落とした。もう一方の手は、ご主人の膝に顎をのせている大きな灰色の犬の頭にのせていた。犬もキケロと同様に、マキシマスの気分が落ち着かないのを感じ取って慰めようとしていた。頭の上を食べ物が通ると、ハーキュリースは鼻をひくひくさせた。犬は大きなピンクの舌で黒い唇に垂れたよだれをなめ取った。マキシマスが後でちゃんと食事を分けてくれることは分かっていたので、彼はおとなしくじっと待っていた。食べ物にありつけるまで、ご主人の手を耳に、力強い脚を顎と胸に感じていられれば満足だった。

マキシマスは友人をちらりと見てため息をついた。「よくわからん。戦闘を避けられるなんて、陛下らしくない。もっとお若かった頃は、陛下は自ら馬を駆って戦闘の指揮をとられていた。それが今は、ヴァンドボーナに座ったまま、すべておれに任せるとおっしゃる。おれに何か隠していらっしゃるような気がして心配なんだ。」

「もうお年ですから、疲れていらっしゃるのかもしれません」キケロは安心させようとして言ったが、そう聞こえたかどうか自信がなかった。

マキシマスは手紙を横に置いてフォーク取った。彼は上の空で、フォークは皿の料理の上をさ迷っていた。胃が落ち着かず、食欲がなかった。 「ああ…でも、ここのところ大勝利の連続で、あと数週もしないうちに決着がつきそうなんだ。マルクスが20年も追い求めていたものが手に入るんだ−ローマ全土の平和が。キケロ、何だか信じられないな。平和だ。もう殺し合いをしなくてもいいんだ。皇帝陛下はこの戦争の終りを見にいらっしゃるべきだ。これをご覧にならないなんて、信じられない。」

「将軍に任せておけば安心だと思っていらっしゃるのですよ。」キケロはマキシマスが話をしたいのを感じとって、近くの椅子に座った。

「おれは…来て欲しいんだ。相談に乗って欲しい。手紙では詳しい話が出来ない。春以来お会いしていないし…」マキシマスはパピルスをじっと見た。「とにかく、来ていただかないと。」彼は囁くような小さい声で言った。「まあ多分、おれは陛下にお会いしたいだけなんだろう。」彼は自嘲気味に笑った。「平和という贈り物を直接、受け取っていただきたいのかもしれない…お喜びになる言葉を直接、聞きたい。」

「陛下を慕っていらっしゃるのですね。」

マキシマスは答えなかった。答える必要はなかった。彼は黙って顎をなで、食事の皿をちらちらと照らしている蝋燭を見つめた。食事は、もうすぐハーキュリースの胃に収まることになるだろう。犬は待ちきれずに、彼の膝を頭でそっと押した。

キケロは将軍を見つめた−将軍は眉を寄せ、目を伏せて肩を落としていた。彼は将軍を気遣って、優しく言った。「ひょっとしたら、将軍からそう言ってくるのを待っていらっしゃるのかもしれませんよ。来て欲しいとお願いしてはいかがですか。将軍はとてもお強い方なので、みんな想像できないんですよ…誰かにそばにいて欲しいとか、そういうお気持ちになられるとは。」

マキシマスは驚いたようにキケロを見た。「そんな風に思われているのか?」キケロはうなずいた。「お前もそう思っているのか?」

「あなたは、実際強い方ですから…でも、私は将軍の別の面も存じております。他の方々の知らない面を。息子さんと遊んでいらっしゃるところとか、奥さんの手紙を読んでいらっしゃるところとか、辛い手紙を書いていらっしゃるところ…あるいは、戦闘の作戦にお悩みになったり、戦死した部下のために悲しんでいらっしゃるところなどを…はい、どうぞ」キケロは皿をマキシマスの方へ押した。「これ以上冷める前にどうか召し上がって下さい…その後で、陛下に手紙をお書きになって下さい。お気持ちを打ち明けて、是非いらして欲しいとお願いしてはいかがですか。」キケロはマキシマスの腕をつかんで、悩みの色を浮かべた青い目を真剣に見つめた。「将軍のためなら、陛下はきっと何をおいてもいらっしゃいますよ。」

AD180年 1月

マキシマス・デシマス・メリディアスはヴァンドボーナ北方の松の森深くに広がる焼け野原に立っていた。ほんの数日前まで荘厳な常緑樹が風に揺れていた森は、今や黒焦げた切り株が点々と残るだけの不毛の地と化していた。粉雪が白い灰と混じり合い、渦を巻いていた。死に絶えたものの残骸、新たな生命の息吹、それを見分けることすら難しかった。180年1月、凍てついた朝だった。

自分の心は喜びに満ち溢れているはずだ、と彼は思った。しかし、これからの数週間の事を思うと、喜びどころか恐怖と不安しか感じなかった。過去数ヵ月間、彼とその部下たちはゲルマニア中で大勝利に次ぐ大勝利をおさめ続けた。その強さと士気は、戦争がもうすぐ終るという希望に支えられていた−残る抵抗勢力は既に僅かだった。そして彼らはいよいよ、最終戦に臨もうとしていた。今日こそは、ローマ帝国に待望久しい平和が訪れる日かもしれないのだ。喜んでいいはずだ。

なのに、そういう気持ちにはなれなかった。

兵士たちは位置に着いて将軍の命令を待っていた。その戦場を見下ろす丘の上にはマルクス・アウレリウスが、痩せた身体を厚い外套で包み、刺すような寒風の中で白馬に跨っていた。1週間前、マキシマスは敬愛する皇帝にほぼ10ヵ月ぶりに会った。彼は衝撃を受けた。こんなに弱っておられたとは!何て顔色が悪いのだろう。マキシマスの崇拝した無敵の皇帝は、もはや無敵ではなかった。皇帝を抱擁した時、マキシマスは老人の脆い骨が折れてしまうのではないかと思った。彼が死に近づいているのは否定のしようがなかった。皇帝の死はこの国の政治に憂うべき事態をもたらすだけではなく、マキシマスの心にもかつて経験のないほどの深い傷を残すだろう。父と慕っていた人を失う事を考えるだけで、彼の胸はしめつけられるように痛んだ。そしてそうなれば、コモドゥスが絶対権力者になる−あの無責任な、心の歪んだ、危険な男が皇帝になるのだ。あのような人間に仕えることはできないと、マキシマスは既に心を決めていた。自分には彼が皇帝になるのを阻止するチャンスもあった事は分かっていた。ただ、その方法を受け入れることができなかったのだ。任を解き、スペインの家族の元に戻らせて欲しいと、彼はマルクスに願い出るつもりだった。そうやって、愛する皇帝の避けられない死から逃げるのだ。自分が臆病者だと考えた事はなかった。しかし、マルクスの生命が晩秋の樫の葉のようにゆっくりと衰え、散ってゆくのを見ているのは、考えただけで耐えられそうになかった。マキシマスは既に父親を失っていた。もうひとりの父を失うのには耐えられない。

彼は帰るべきところへ帰るのだ。故郷へ、愛する妻と息子のやさしい腕の中へ。そして、中断していた本来の農夫としての人生を再び始めるのだ。そして、もっと沢山の子供を作り、子供たちが幸せに健やかに、逞しく育つのを見て暮らし−孫たちや−もし神々がお許しになれば−曾孫たちに囲まれる喜びも味わうことが出来るだろう。

マキシマスは足元の焼け焦げた地面を見た。彼は磨り減り汚れたブーツのつま先で泥と灰を少し掘りかえし、この地獄のような場所に新たな生命の息吹を探そうとした。か細い緑の草一本でもよかった。この死に絶えたような地にも、生き残っているものがあるという徴を見たかった。いつかこの地も蘇るという徴−彼の人生も蘇るという徴を。草は一本も見つからなかった。その代わり、濃い煙が鼻腔に入りこんだ。咽喉は焼けつくように痛み、目がうるんだ。急に目が潤み、目の前が霞んだのは煙のせいだと、彼は思いこもうとした。彼は瞬きをして目の痛みを抑え、深く息を吸った。

部下は既に戦闘準備を整え、位置についている。この最後の闘いに臨み、彼らもまた、故郷がすぐ手の届く処に見えてきたのを感じているのだろう。兵士たちは彼らの勇敢なる将軍にどこまでもついて行くつもりだった。彼の命令ならどんな事にでも即座に従うだろう−我々はこの人の後に従い、幾多の戦闘を無事くぐりぬけて来たのだ。この人なら、この果てしない戦争に決着をつけて、我々を故郷に帰らせてくれるだろう。彼らはそう信じていた。しかし、それは未来のことだ−どんなに近い未来でも。今は眼前の任務に集中しなければならない−この最後の闘いに。マキシマスも同様だった。

彼は背筋を伸ばした。将軍の地位の象徴、真鍮の鎧とケープと毛皮の重さを肩に感じ、その重さを心強く感じた。ゆっくりと、彼は頭を上げてこれからの戦闘に心を集中させた。彼は深呼吸し、振り向きかけてふと動きを止めた。彼の目は、荒廃した光景の中に微かな彩りをとらえていた。コマドリだった。ごく小さいコマドリだ。この辺りで、こんなに早い時季にコマドリを見るのは珍しい。コマドリは枯れ枝に止まり、寒風にゆらゆらと揺れていた。小鳥はこの地がすっかり荒れ果ててしまったことにも、これから吹き荒れるさらなる暴力にも、まるで気づいていないように見えた。荒廃の中に見つけたほんの小さな生命の美に、マキシマスの口元に微かな笑みが浮かんだ。

見つめていると、鳥は小さな羽をはばたかせ、右の方向へ飛び去った。吉兆だ、とマキシマスは思った。彼は微笑み、小鳥が鉛色の冬空に呑み込まれて消えるまで見守っていた。吉兆だ。彼はそう決めた。そして、この戦闘に勝利するという眼前の仕事以外の全ての事を心から追い出した。彼の表情は固く引締まり、敵を恐怖に陥れる冷酷な闘いの仮面が現れた。望む物を手に入れるためなら、その前に立ちはだかる者は一切容赦なく打ち倒す、という決意に満ちた表情だ。

彼は優雅に振り返った。長いケープが脚を包み込むように揺れた。彼は荒地を横切って彼の命令を待つ部下たちのもとへと歩いて行った。そして、彼が心を尽くして愛した皇帝のもとへ。ローマ帝国の平和と安定という、死にゆく皇帝の最後の願いを叶える事が出来るなら、マキシマスは喜んで命を捧げるだろう。