Glaucus' Story:プロローグ〜第5章

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プロローグ

A.D.180年 1月初旬
スペイン


「ねえ、お願いよ、たっぷり寝てるかどうか、ちゃんと確認してね。きれいな空気にあてて、たっぷり食べさせて…うちから野菜と牛乳を持って来たから…」

「はいはい、オリヴィア。言っておくけど、この家にも野菜と牛乳はちゃんとあるのよ。」憤懣やるかたない、という様子でオーガスタが言った。彼女は腰に手をあてて義理の妹をしげしげと見た。

「わかってるわよ」オリヴィアは言った。「でも、この子はいつもうちで採れた野菜を食べているから、よそのを食べたら胃がおかしくなるかもしれないと思って…」

「オリヴィア、この子は大丈夫よ。あんたは心配し過ぎなのよ。ほら、元気そのものじゃないの。マルクスの鼻風邪がうつったって、大した事ないわ。子供は始終、風邪をひくものだし、だからって、しん…」オーガスタは「死んだりはしない」という言葉を口から出る前にあわてて飲みこんだ。そんな言葉を聞いたらオリヴィアはますます心配するだろう。オーガスタはにこにこ笑っている子供を母親の手から受けとって胸に抱き、小さな口から指を出させて、鼻と柔らかい薄茶色の巻毛にキスをした。彼女はよくグラウクスを預かっていたので、ほとんど自分の子供のように思い始めていた。きらきら光る素直な緑の瞳が彼女を見返していた。オーガスタはいつものように、グラウクスというのはこの子のぴったりの名前だわ、と思った。マキシマス・デシマス・グラウクス…「緑の瞳」という意味のプレノーメンが彼とその偉大な父親、マキシマス・デシマス・メリディアスを区別していた。彼女は丈夫な2歳児を床に降ろしてお尻を愛情をこめて軽く叩いて言った。「ほうら、いとこたちと遊んでおいで。伯母さんは料理に戻るから。晩御飯は林檎のタルトよ。」

2人の女は子供が隣の部屋に駆けこんで行くのを見守った。3人の年上のいとこたちが彼を暖かく歓迎した。たちまち、あたりは4人の子供たちのけたたましい笑い声に満たされ、オーガスタはうんざりしたふりをして、耳を塞いで天を仰いだ。

義姉が自分と同じぐらいグラウクスを愛していることをオリヴィアは知っていた。「オーガスタ、お願いね。あの子から目を離さないでね。」オリヴィアはすがるような声で言った。

「わかってますって。オリヴィア、あんたはあの子の事になると本当に過保護なんだから。」

タイタスが厨房に飛びこんで来て、ドアをバタンと閉めた。同時に、ドアの反対側に二つの枕が投げつけられた音がした。彼は大げさに額の汗を拭うふりをしてみせた。「グラウクスがまた来ているね。今度はどうしたんだ?マルクスが咳でもしたかい?」彼はオリヴィアをからかって言った。

オリヴィアは兄を無視してドアへ向った。「マルクスが治ったら迎えに来るわ。預かってくれて本当にありがとう。感謝してるわ。」

タイタスが妻を見ると、彼女は意味ありげにオリヴィアの方へ頭を振って見せた。タイタスはオリヴィアについて外に出た。午後の空気は涼しく、気持ちが良かった。「オリヴィア。」彼は妹の腕をつかんで自分の方を向かせ、低い声で言った。「マキシマスに手紙を書いたか?」

オリヴィアは反抗的な態度で顎を上げた。何を言われるのかはわかっていた。「手紙なら毎日書いてるわ。」

タイタスはため息をついた。「あの子のことを言っているんだ。わかってるんだろう?もうひとり息子ができたことをもうマキシマスに言ったのか?」

「いいえ。」

「オリヴィア、言うって約束しただろう?」

「あれからよく考えたのよ。タイタス、まだ言えないわ。」

「どうしてだ?あの子は健康だし、死にかけてもいない。お前はあの子がちょっと熱を出す度に死ぬんじゃないかと大騒ぎするがね。こんな大事なことをマキシマスに秘密にしておくなんて、不当だと思わないのか?」

「兄さんにはわからないのよ。娘が死んだ時、マキシマスがどれほど悲しんだか。あんな風に知らせを受けたなんて、本当に可哀相だったわ…愛する人たちから遠く離れた所で…すごく苦しんだわ。ゲルマニアに行った時、この目で見たもの。あんな思いは二度とさせたくないの。あの人はまた子供を失うのを、すごく怖れているの。そんなことになったら死んでしまうわ。ゲルマニアでマルクスが病気になった時に、マキシマスはそう言ったもの…また子供を失うことになったら生きていられないって。」

「オリヴィア、生まれたばかりの時に言わなかったのは分かるよ。あの子は生まれたばかりの時は危険な状態だったから、確実に生き延びると分かるまで言うのを待っていたのは分かる。しかし、今は健康そのものじゃないか。あの子は大丈夫だよ。」

「汚れた水を飲んで病気になって死ぬかもしれないわ…どこかから落ちるかもしれないし…馬に蹴られるかも…」

タイタスは妹の肩を揺さぶって言った。「やめなさい。そんな風に考えるのはやめるんだ。」

オリヴィアの黒い瞳が涙で光っていた。「兄さん、わからないの?子供に会えるのを楽しみにしていて、その子に何か悪いことが起きてしまったと聞かされるより、次に帰って来た時に元気な子供に会ってびっくりさせられる方がずっといいわ。もうあんな風に、マキシマスを傷つけたくないの。がっかりさせたくないの。」オリヴィアの咽喉に嗚咽がこみ上げていた。「マキシマスに会いたい。」

タイタスは妹を抱き寄せた。妹の夫は遥か遠くに行ったきり何年も帰ってこない。彼女の生活どんなに淋しいか、想像するに余りあるものがあった。妹の人生には、確かなものは何もないのだ。マキシマスは本当に帰ってくるのか−それさえ、確かな事はわからない。

彼は妹の髪に頬をすりよせて言った。「何年になる?」

「ほとんど丸三年よ。」

「最近、便りはあったか?」

「昨日手紙が来たわ。また部族軍と戦うんですって。でも、戦争はもうすぐ終って、家に帰れそうだって言っていたわ。今度は、永遠に。」オリヴィアはタイタスから身体を離して、分かってくれたかどうか探るように兄の顔を見つめた。「考えてみて。家に帰った時、1人だけじゃなくて2人息子がいることを知ったら、きっとすごく喜ぶわ。グラウクスはパパにそっくりだし。」

「たしかにね。でも気持ちが落ち着いたら、秘密にされていた事をすごく怒るんじゃないか?私たち全員に対してね。私はあの男だけは怒らせたくないね。言っておくが…」

「グラウクスを腕に抱いたら、怒るなんて無理だわ」オリヴィアは目を閉じて微笑んだ。「ああ、その日が待ちきれないわ。」

それでもタイタスは不安だった。「オリヴィア、その日がまだ何年も先だったらどうする?」タイタスは手を上げて妹を黙らせた。「マキシマスの予想が外れて、戦争がこれから何年も続いて、帰って来られる日がずっとずっと先になったら?その時までにはグラウクスは大きくなって、父親の事をいろいろ聞かされるだろう…とりわけ、マルクスから…あの子は疑問に思うんじゃないか?父親があの子のことを知らないなんて、あの子に対して不当だと思わないのか?」

「そうなったら、その時また考えるわ。今は、マキシマスはもうすぐ帰ってくるって信じることにする。タイタス、そうしたら、私たちはまた家族に戻るの。きっとそうなるわよ。」

オリヴィアは兄の頬を撫でてキスをした。そして、タイタスがそれ以上何か言う前に荷馬車に向って歩き出した。

タイタスは荷馬車が消え、道の土埃が落ち着くまで見守っていた。その後、彼は声に出して独り言を言った。「…それで、マキシマスが戦死したらどうするんだ?自分の名前を継いだ息子がいることを知らずに死ぬことになるんだぞ。」彼は悲しげに首を振り、厨房に戻って行った。厨房は林檎タルトの甘い香りに満たされていた。

 

ゲルマニア…2日後…真夜中

マルシアヌスは必死でキケロを手招きした。彼は主人のテントの入口に、マキシマスの剣を手に放心したように立っていた。「キケロ!キケロ!」彼は囁き、手を振った。一体どうしたんだ?マルシアヌスは影をつたって忍び足で士官兵舎を横切り、キケロの側まで行った。「キケロ!」

マキシマスの従者は殴られでもしたように、目を見開いて飛び上がった。しかし、軍医に返事もせずに呆然と剣を見つめていた。なぜこれが自分の手にあるのかわからない、とでも言うように。彼はマルシアヌスがそこにいるのに突然気づいたように、取り乱した、ぎらぎら光る目で彼を見た。彼は震える声で「マルシアヌス、一体どうなっているんです?何があったんですか?」と言った。

「キケロ、なにか大変な事が起こっている…とても酷い事が。マキシマスと話したい。今すぐに。」

キケロはうつろな目で首を振った。「だめです」彼は弱々しい、震える声で言った。「将軍はいらっしゃいません。」

マルシアヌスはキケロをマキシマスのテントの中へ押し戻して素早く辺りを見回した。「どういうことだ?マキシマスはどこへ行った?すぐに話をしなきゃならんのだ!」

キケロは顔をくしゃくしゃにした。「連れて行かれました。奴らが将軍を連れて行きました」彼も、将軍を探しているようにテントを見回した。そして軍医の方を振り返って、「マルシアヌス、奴らは将軍を処刑するつもりです!」彼はショックと悲しみに咽喉をつまらせた。

「何だと!」マルシアヌスはキケロの肩をつかんで激しく揺さぶった。「誰のことだ?一体全体、何の話をしている?処刑だって?」

「近衛隊です。クイントスが連れて来て…」

「神よ、」マルシアヌスはキケロを放し、爪が掌に食い込むほど強く拳を握り締めてなんとか冷静になろうとした。

「どこに連れて行かれたかわかるか?」

キケロは首を振った。「夜明けまで馬を走らせて、そこで処刑しろと−クイントスがそう命令していました。」彼はまた剣を見つめた。「剣をお渡ししようとしたのに、お受けにならなかったのです。私がお守りするのもお許しになりませんでした。どうしてなんでしょう?」彼はほとんど泣いているような声で言った。

マルシアヌスは彼を落ち着かせようと、また肩をつかんでやさしく揺さぶった。「キケロ、」彼は言った。「もし彼が死を覚悟したなら、巻き添えで君を死なせることだけは避けたいと思っただろう。だから、君に剣を抜かせなかったんだ。」

キケロはうなずいた。少し落ち着いたが、涙を隠そうともせずに泣き始めていた。「奴らは将軍の手を縛って、殴って気絶させて引き摺って行ったんです。」彼は頭を垂れて目を閉じた。手が激しく震え、剣が滑り落ちた。剣は切っ先から落ちて床に刺ささり、まるで見えない手が振るったよう震えた。その不気味な振動は、ふたりに現実の残酷さをひしひしと感じさせた。「マルシアヌス、どういう事です?マキシマスは皇帝陛下が殺されたと…」

「確かにそうだ。絞殺だ。私は死亡診断書に署名するために呼ばれたんだが、死因を『自然死』とするように強制された。マキシマスが呼ばれた時、私は陛下のテントのすぐ外に立っていたんだが…マキシマスは寝間着のままだった…出て行った時は動転した様子で、私がいたのにも気づかないようだった。近衛隊の事は君の言った通りだ。クイントスと3人の近衛兵がすぐに後を追って行った。」

キケロが話を続けた。「将軍はお戻りになって鎧を着けられ、元老院議員たちを呼ぶようにと言われました。話があるからと…」

マルシアヌスはうなずいた。「マキシマスも私と同じものを見たんだな−マルクス・アウレリウスの首に青痣があった。それから?」

今夜の恐ろしさが改めて身にしみてきたように、キケロは目を閉じ、深く息をついた。彼は目を開け、起こったばかりの酷い出来事を思い出すままに語り始めた。まるで口が勝手に動いているようだ、とマルシアヌスは思った。「将軍はクイントスに、なぜ武装しているのかとお尋ねになりました。そうしたら、クイントスが近衛兵たちに将軍を捕らえるように命令したのです。」彼は目をぎゅっと閉じた。涙が頬を伝い始めた。彼は息を呑みこんだ。あまりに酷い話で、言葉にできるかどうかも自信がなかった。「将軍はクイントスに、家族の面倒を見て欲しいと懇願されたのですが、」彼はすすり泣いていた。「クイントスは、家族にはあの世で会えると…」彼は言葉をつまらせた。胸の奥から嗚咽が漏れた。何とか冷静さを取り戻して話を続けようと、彼は深く息を吸った。「将軍はクイントスにくってかかろうと…しかし近衛兵に剣の柄で殴られて気絶させられたのです。」彼はまた泣き出した。彼は赤く腫れた目を上げた。その顔には絶望が浮かんでいた。「マルシアヌス、奴らは将軍のご家族を殺す気です!」

「家族?オリヴィアとマルクスを?」マルシアヌスは膝をつき、手を祈りの形に握った。

「何故?どうして将軍にこんなひどいことを?」キケロは叫んだ。彼は苦しげに顔を歪ませ、どうしていいかわからずにマルシアヌスの肩を掴んでゆさぶった。

マルシアヌスはよろよろと立ち上がった。「おそらく…コモドゥスはもう自分が皇帝だと宣言したんだ。多分、マキシマスはマルクス・アウレリウスが殺されたことに気づいてコモドゥスへの忠誠を拒否したんだろう。」

「でも、どうして家族を?」キケロは涙声で言った。「マキシマスがコモドゥスに逆らったのなら、マキシマスの処刑を命令するのは分りますが、どうして家族まで?オリヴィアとマルクスには罪はないのに…クイントスはどうして罪のない者を殺す命令などできるのです?」

マルシアヌスはため息をついた。キケロはもう立派な大人だか、まだ世間知らずで純粋すぎるところがある。彼は人の善良さを信じようとし、世界は正しい論理に基づいて動いていると信じている。「コモドゥスは歴史を書換えて自分に最高の光を当てようとしているんだ。後で悩みの種になるようなことは残しておきたくないはずだ。マキシマスがこの世に存在した証拠さえ全て消し去るつもりのような気がする。だから、家族も殺そうとしているんだ。」彼は言葉を切り、テントを見回した。「彼の持ち物も破棄するつもりだろう」彼は言った。「出切る限り残さなくては。彼の記憶を守るんだ。」彼はキケロの方を振り返り、肩に手を置いた。「今夜本当は何があったのか、いつか世界に知らせなくてはならん。」

「マルシアヌス、処刑を止めなくては!みんなに何があったか伝えたら、こんなこと誰も納得しませんよ。追いかけて行って処刑を止めさせます。手をこまねいて将軍を死なせるなんてことはしません!」

「キケロ、わからんのか?この連隊は既にコモドゥスが制圧している。彼に逆らった者は殺されるだろう。おそらく、マキシマスは既に裏切り者とされて、帝国に対する反逆の罪を着せられているだろう。」

キケロは憤慨して手を広げた。「そんなこと、誰も信じませんよ!マキシマスを少しでも知っている人なら、将軍のローマへの愛と忠誠を疑うことなどあり得ません。」彼はマルシアヌスの方へ身を乗り出し、声を低くして言った。「兵士たちに事情を話します。何か打つ手があるはずです。」

マルシアヌスはうなずいた。微かな希望が心に戻って来た。「その通りだ。キケロ、急いでこの話を広げるんだ。もう時間が…」

その時、2人の近衛兵がテントに入って来て、彼の言葉は途切れた。「軍医、」ひとりが言った。「来い。ご遺体をローマへ搬送する準備をしてもらう。」

マルシアヌスはキケロを見た。

「早くしろ!」衛兵は怒鳴った。彼はマルシアヌスを先に歩かせ、その後をついて出て行った。もうひとりの近衛兵はドアの前に立って武器をかまえ、キケロを睨みつけた。

マキシマスの従者は勇気を奮い起こした。ここに馬鹿みたいに突っ立っているわけにはいかない。彼は衛兵に近づいて言った。「仕事がありますので」分厚い手が彼の肩をつかんだ。

「駄目だ、ここにいろ。」彼はキケロを押し戻しながら言った。従者はよろめき、マキシマスの机の横の椅子にどすんと腰を降ろした。彼は絶望し、そこに座りこんで床の真ん中に突き立ったままの将軍の剣を見つめていた。キケロはみじめな気持ちで剣を見ていたが、やがて現実を悟って呆然と立ち上がった。近衛兵は反射的に剣を抜き、テントの中へ一歩踏み出した。「ここにいろと言ったはずだ」衛兵は怒鳴った。「逃げようなんてそぶりでもみせたら…」そう言いながら、示威的な、しかし効果的な鋭い仕草で剣を振ってみせた。「その場で死体にしてやる。わかったか…従者君?」

キケロは腰を降ろし、黙ってうなずいた。彼は従順を装って座ったまま、必死で考えていた。衛兵はドアの方へ下がった。キケロは床を見つめるふりをしながら常に目の端で衛兵を捉えていた。熱にうかされたような頭に様々な考えがよぎっては消えた。彼は何とか落ち着いて、まず何をしたらよいかを考えようとした。

1時間ほど経っただろうか?時は這うようにのろのろと進んだ。2人の男は剣をはさんで、黙ったままじっと動かずにいた。キケロはとうとう我慢できなくなり、危険を承知でわざとゆっくり立ち上がった。衛兵はすぐに武器を構え、警戒体勢になった。。キケロは「落ち着いて」と言うように掌を外に向けて手を上げ、マキシマスの寝室の方に頭を振った。

「祈るのもいけませんか?」彼は出来るだけ落ち着いた声を出した。心臓は早鐘を打ち、衛兵に鼓動が聞こえるのではないかと思うほどだった。彼は振り返り、ゆっくりと隣のマキシマスの寝室に歩いて行った。衛兵は黙って後をついて来た。部屋に入ると、彼はマキシマスの祭壇のところへ行って扉を開けた。祭壇の中の彫像たちが衛兵によく見えないように、蝋燭は灯さなかった。この祭壇が将軍ひとりのものである事に気づかれませんように、と彼は祈った。近衛兵はキケロも普段からこの祭壇を使っていると思っているだろう。

衛兵が口を開いた。「裏口から逃げようと思っているのなら無駄だぞ。このテントの四方は衛兵が囲んでいる。」彼は乱暴な口調で言った。

キケロはクッションに膝をつき、組み合わせた手を祭壇の端に置いた。「逃げようなんて思っていません。」彼は疲れた声で言った。打ちのめされて抵抗する気力もないと思ってくれればいいが。力では近衛兵にはとても敵わないと分っていた。しかし、他のやり方で抵抗できるのではないか。彼は額を手にのせ、耳を澄ませた。数秒後、衛兵が部屋の入口を離れてテントの正面入口に戻る音が聞こえた。彼は背筋を伸ばして耳を澄ませ、足首をほぐす振りで前にかがみ、ドアの方を振り返った。衛兵の姿は見えなかった。彼は自分の跪いている所が正面入口からは見えないのを確認した。冷たい怒りにも似た決意が胸に涌き上がるのを感じた。彼は祭壇の方を向き、素早く手を伸ばして小さな祭壇の中心のオリヴィアとマルクスの彫像をさっと取り、チュニックの上着のベルトの上に入れた。後でちゃんと包むまでそこに隠しておこう。自分が大切にしてきた全てのものにかけて、神々と自分の先祖に誓って、他に何も出来なくても、マキシマスが大事にしていたこの二つの彫像にだけは、あの人でなしどもに手を触れさせるものか。自分も大切にするだろう−マキシマスだけでなく、あの素晴らしい女性オリヴィアと可愛いマルクスの想い出として−マルクスは本当の意味で人生に足を踏み入れるチャンスさえなかったのだ。彼は素早く他の彫像を動かし、中心の隙間を埋めて二つがなくなっているのがわからないようにした。

彼はひざまづいたまま密かに部屋を見まわし、何を自分で取っておくか、何をマルシアヌスに預けるか考えた。全てを持って行くことはできない−大きい物を隠すのは不可能だろう。慎重に選ばなくては。ようやく、いくらか考えがまとまり、彼は主室に戻った。彼は机の横の椅子に戻り、打ちひしがれた様子で静かに座っていた。

夜は曙に向って、嫌になる程のろのろと進んで行った。じっと待っているうちにキケロの勇気はほとんど挫けそうになった。マキシマスが自分にとってどんなに大きな存在だったか−自分のためにどれほどの事をしてくれたか−打ちのめされそうになる度に、彼は何度も何度もそれを思い起して決意を新たにした。そしてとうとう、夜明けの光がテントの壁をほのかに照らし、基地が動き出す音が聞こえ始めた。衛兵は顔にゆっくりと笑みを浮かべ、テントの戸を開けて白み出した空を見上げた。彼は勝ち誇った顔でキケロと剣を見て嘲笑い、出て行った。

キケロは椅子に座ったまま剣を見つめていた。彼が心をこめて手入れしていた将軍の剣だ。とうとうこらえきれなくなり、涙が頬を伝い始めた。しばらく泣いた後、彼は近衛兵が戻る前に行動しなければならないと気づいた。彼は耳を澄ませてドアのすぐ外には誰もいない事を確かめて、立ち上がってマキシマスの寝室へ戻った。彼はマキシマスの持ち物を素早く見まわした。将軍の私物をかき回すなど、夢にも考えた事はなかった。しばらく後、探していた物を見つけた。彼は小さい懐剣を素早く左のブーツに押し込んだ。それから、マキシマスが私服の時によくつけていたフィビュラ(外套留め)を見つけた。それはかなり大きな丸いブロンズ細工のフィビュラだった。中心には、翼を広げた鷲の素晴らしい彫像があった。上側の中心には『SPQR』と書かれた小さな楕円形の盾が刻まれ、その両側から月桂樹が枝を伸ばしていた。下には鷲の爪に掴まれた旗があり、そこには『マキシマス・デシマス・メリディアス』と刻まれていた。これは昔、フェリックス第三連隊の下士官たちが贈ったものだった。マキシマスは、この品は自分には少し気取り過ぎているように感じたらしいが、それでもこの贈り物にこめられた部下たちの心に打たれて、よく身につけていた。

キケロは別の戸棚を調べ、中の小さな箱を開けた。この箱を開けるのにはなぜか罪悪感があったが、本当に大切な物を見つけたかった。箱の中には手紙の束がいくつか納められていた−愛するオリヴィアからの大切な手紙。マキシマスは全部を保存していた。キケロは読むつもりはなかったので、探しているものは一つだった。ようやく見つけた。それはオリヴィアからの手紙で、他の手紙とほとんど同じだったが、将軍の絵が入っているところが違っていた。オリヴィアは素晴らしい芸術家だった。彼女の手紙はそこに散りばめられた絵によって一層美しいものになっていた。彼女の人生において大切だった様々なものの絵−マルクスの成長の記録、故郷の農場の風景、そして何よりも、彼女の愛するマキシマスの肖像−たとえば、この絵のような。豪華な鎧と狼の毛皮を逞しい肩に軽々と纏い、王者のような威厳を湛えて誇らしげに背筋を伸ばしたマキシマスの肖像。彼は手紙を畳み、フィビュラと一緒に布に包んだ。彼は急いで自分の寝室に行き、絨毯の端を持ち上げ、皮細工の道具を使って下の地面に小さな穴をあけた。そこに布包みを埋め、絨毯に不自然なでこぼこができないように土をならした。近衛兵がテントの探索を済ませた後−探索が行なわれる事はわかっていた−安全になったら、取り出すことにしよう。

彼は主室に戻り、元の椅子に座りこんで状況の厳しさを考えた。彼は絶望と、わずかな希望にすがろうとする気持ちに引き裂かれていた。やがて心が麻痺したようになり、彼は呆然と椅子に沈み込んだ。マルシアヌスがテントに戻って来た時、彼はまだ座りこんでいた。マルシアヌスは冷静な表情で、声も落ち着いていた。マルシアヌスに声をかけられて、彼は力を奮い起こして立ち上がった。

「基地じゅうに噂が広がっている。寝ている間にこんなことが起こったとは、みんな信じられないようだ。コモドゥスはもう基地を後にした。クイントスもついて行ったようだ。」マルシアヌスは床に刺さった剣の所へ行って引き抜いた。「クイントスは利口な奴だ。残っていたら兵士たちに殺されただろう。」マルシアヌスは剣を持って輝く刃を見下ろした。「近衛隊は残って、士官たちを皇帝のテントに閉じ込めて見張っている。反乱を起させないようにするためだ。しかし、その前に多勢の兵士たちが壁を越えた。マキシマスの遺体を捜しに行ったんだ。馬は出せなくて、歩いて行った。彼にふさわしく、名誉を持って葬ってあげなくては…」軍医はキケロの隣に座った。彼はチュニックの下に隠した羊皮紙の巻物にそっと手を触れた。「キケロ、これには我々が考えていたよりずっと複雑な事情があるようだ。マルクス・アウレリウスはローマ帝国を変えるつもりだったらしい…しかし、これからこの国は彼の計画とはまったく違う方向に変わりそうだが。」彼は悲しげに首を振った。「マキシマスは私が今まで知り合った中で最高の人間だ…だった。殺された皇帝もそう思っていたに違いない。我々はマキシマスの記憶を守らなくてはならん。キケロ、いいか、コモドゥスと近衛隊は彼の存在そのものを消し去ろうとするだろう。彼とかかわりのあったもの全てを…家族をはもちろん…」マキシマスは手に持った剣を見つめた。「…財産に至るまで全てを。彼の記憶そのものを抹消しようとするだろう。」

「将軍は生きています。」

この言葉はあまりにだしぬけに、あまりにきっぱりとキケロの口から飛び出して来た。マルシアヌスは度肝を抜かれ、呆然とキケロを見た。突然気がおかしくなったのか?ショックが大きすぎてとうとう神経が切れたのだろうか?「何だって?」

キケロは軍医を見上げて言った。奇妙なことに、その目は狂人の目には見えなかった。「マルシアヌス、私は将軍をよく知っています。」キケロは言った。「将軍は強い意志をお持ちです。最高の戦士です。そして、ご家族を愛していらっしゃいます…守るためなら何でもなさるでしょう。これだけは言えます…将軍は衛兵どもに黙ってついて行っておとなしく首を差し出すなんてことはなさいません。少しでもチャンスがあると思われれば、たとえ千分の一のチャンスでも、逃れてご家族を救いに行こうとなさるでしょう。」彼は真直ぐ前を見た。「もし、最悪の事が起こったとしても…」その可能性を口にするのも嫌だった。「命を賭けてもいいですが、その前に近衛兵を少なくとも2人は地獄に送っているはずです。」

マルシアヌスはまたキケロの肩を掴んでやさしく揺さぶった。彼も信じたかった−上官としても、友としても、心をこめて愛した将軍が、狂気の新皇帝の手を逃れたと。しかし、現実という醜い怪物がその無慈悲な顔を見せている今、不可能な、非現実的な夢に溺れて欲しくなかった。「キケロ、」彼は言った。「よく考えろ。現実を見るんだ。君は望みを口にしているだけだ。」

キケロは頑固に首を振った。「マルシアヌス、私は将軍をよく知っているんです。」彼は言い張り、軍医の目を見つめた。「今夜起こった事を止めることはできなかったでしょうし、将軍の奥様と息子さんを救えるのは神々だけでしょう。しかし、彼の記憶を守ることは出来ます。あるいは…神々がお許しになるなら…将軍のお戻りに備えておくことは出来ます。ご恩をお返ししたいのです。」彼はチュニックの中を手探りしてマキシマスの妻と息子の彫像を取り出した。「奥様が将軍のためにお作りになったものです。」彼はマルシアヌスに教えた。「私にも彫刻を下さったことがありました。私の宝物です。大事に持っています。神々が慈悲を下されば、いつか将軍にお返しできるでしょう。それが叶わないなら…」彼は咽喉をつまらせた。それ以上は続けることが出来なかった。

マルシアヌスはキケロの肩に腕を回して言った。「キケロ、それは是非取っておきなさい。マキシマスの想い出に。君がどんなに彼を大事に思っていたか、よく知っているよ。」

キケロはうなずき、彫像を上着の下に戻した。「昨日の今頃は、将軍の朝食を用意していました…」彼は顔を歪め、背を丸めて泣いた。彼は必死で希望に縋りつこうとしていたが、疲れ果て、昨夜の出来事の恐ろしい邪悪さに打ちのめされていた。

マルシアヌスは彼を見つめていた。彼が自分の悲しみを胸に秘めておく事ができるのは、長年に渡って死んで行く兵士たちを看取ってきたからだ。「キケロ…キケロ、聞きなさい。彼の形見を持って行きたい。手伝ってくれ。マキシマスのいない軍にはもういられない。マキシマスがいたからこそ、私はこんなに長くここにいたんだ。何か彼の物を持って行きたい。その彫像は君が持っていなさい。」

キケロはすすり泣きながら、途切れ途切れに言った。「はい、も、もう…で、出来るだけ集めて…」彼は深呼吸して目と鼻を袖で拭った。「出来るだけ…個人的なものと、お名前やイニシャルが入っているものを集めました。こちらです。」彼は立ち上がってもう一つの部屋へ行き、絨毯をめくって地面を掘り、袋を開けてマルシアヌスに見せた。一番上には手紙が二束あった…オリヴィアの手紙の束。「ご結婚以来、このお手紙は将軍の人生の記録になっています。手紙の中に絵もあります。」彼は目をぎゅっと閉じ、目蓋から涙がにじみ、頬を伝った。「どうやって…どうやって出て行くつもりです?」

「兵士たちの悲しみはやがて怒りに変わる。そうしたら、ここは大騒ぎになるだろう。そうしたら…近衛兵は兵士を抑えるのに忙しくなるだろうから…その隙に逃げる。」

「どちらへ行かれるのですか?」

「どこか、キリスト教徒の集落を探すよ。」マルシアヌスは苦々しげに言った。「ローマの正義はもう沢山だ。」

キケロは疲れ切った顔でうなずいた。彼ははっと顔を上げ、「待って下さい!」と言って、主室に駆け込んだ。マルシアヌスは袋を持ってその後について行った。キケロは床に落した剣の鞘を拾い上げ…あれが本当にたった数時間前のことなのか?…剣を鞘に戻した。彼はマルシアヌスの方を振り向いて剣を渡した。「神々のお恵みがあれば、」彼は祈りを唱えるように言った。「いつかこの剣を将軍にお返しできるでしょう。」

「キケロ、君はずっと前からこの剣の手入れをしてきた…君が持っていたまえ。きっと彼は君に持っていて欲しいと思っているよ。近衛隊が行ってしまうまで、土に埋めておくといい。」

キケロはうなずいてドアの方へ首を傾けた。テントの外で徐々に大きくなる騒音が、すでに2人の耳に届いていた。何が起こったかが知れ渡るにつれ、悲嘆と怒りの渦が基地中に巻き起りつつあった。注意を引かぬよう慎重に動かなければならない、とマルシアヌス思った。しかし、これからの数時間、騒ぎは大きくなる一方だろう。気づかれずに脱出できるのは間違いなさそうだ。

心を読んでいたように、キケロが彼の肩に手を置いた。「マルシアヌス、どうか気をつけて…」彼は言った。

マルシアヌスは振り向いて彼を抱きしめた。「キケロ、神と共に歩みなさい。」彼はそう言い…そして去った。

 

1ヶ月後…ローマ

セプティミウス・セヴェルスは燻るオイルランプの薄暗い光のそばで背を丸め、透けるように薄いパピルスの巻き物に走り書きされた言葉を熱心に読み、その言葉を高級なワインのように舌の上を転がして味わった。彼はパピルスをいろいろな角度に傾けて暗いランプの光にかざした。これを読むのは今夜二度目だったが、彼の心臓は早鐘を打っていた。彼はひっきりなしに唇を舐めていた。色々な意味で、彼は飢えていた−渇望が全身から溢れ出していた。そうだ…これこそが待ち望んでいたものだ。彼は巻物を下ろし、アルマテアの神秘の予言を心の中で暗誦した。ついに終ったのだ−マルクス・アウレリウスの治世が。そして、これから高みに昇る運命にあるのはこの私、セプティミウス・セヴェルスなのだ−コモドゥスという名の、洟垂れの出来そこない皇帝ではない。

微笑が彼の唇を歪めた。彼は神聖な物でも扱うように、掌でパピルスを撫でた。端についた乾いた茶色い染みは目に入っていなかった−それは、シビラの巫女の言葉を書きとめさせるために彼が連れていった不運な書記の身体を流れていた血の一滴だった。予言の唯一の証人であったその男は洞窟を出てすぐ、雇い主の法務官に肩甲骨の間を刺されて死んだ。不運な書記の死体は急な階段を一番下まで転げ落ち、石の彫刻のようにぐしゃりと潰れた。

その哀れな男はシリアの連隊指揮官に昇進したばかりのローマの法務官を信頼し、ローマの南からクマエまでイタリア海岸をついて来た。そこには、シビラの巫女の洞窟への入口になっている美しい小さな神殿があった。二人は生贄を捧げ、今にも崩れそうな階段を登り、狭い入口を這い抜けて、暗い、蝙蝠の舞い飛ぶ洞窟に入った。洞窟は一枚岩掘って作られていた。天井のどこかの隙間から射す不気味な赤い光にシビラの姿が浮かび上がった。二人は恐怖のあまり思わずお互いにしがみついた。恐ろしい姿だった…それはしなびた老婆で、白くぎらぎらした目をして、歯のない口でにたにたと笑っていた。セプティミウスは彼女に挨拶をしながらぶるぶると震えた。しばらくしてからやっと、二人は気づいた−彼女が黙っているのは、既に死んでいるからだと。それは前任の巫女、デイフォーブのミイラ化した死体だった。彼女の後継者、アルマテアは狂気を湛えた若く美しい女性で、デイフォーブの後から射す純白の光の帯に照らされて象牙の玉座に座っていた。

セプティミウスは何とかもう一度、質問を口にした。「シビラの巫女よ、ローマと私の運命を尋ねに来た。」アルマテアの身体に予知能力がみなぎり、人相が変化し始めた。彼女は苦しげに息を呑んだ。その声はざらついていた。彼女が予言を口にしている時、洞穴を突風が吹きぬけ、書記は舞い上がるパピルスを押えようと苦労した。セプティミウスは暗闇から襲いかかる蝙蝠を払い除けながら、なんとか彼女の言葉を聞こうとした。それが、今読み返しているこの言葉だ。

80と4年の長きに渡り

勝ち誇る雌狼は

鉄であり、かつ黄金なる者どもを伴侶とせり。

セプティミウスはうなずいた。84年間、ネルヴァ帝からマルクス・アウレリウス帝まで、アントニーニ王朝がローマ帝国を支配してきた。その間、帝国は繁栄し、拡大して来た。

最後の20年、その伴侶は

剣と英知、戦と黄金をもたらせり。

彼は陽のごとくあり、陽のごとく照らせり。

そう、彼は名君だった。マルクス・アウレリウスは。皇帝として、彼は帝国を拡大し、強力にした。しかし…ローマの繁栄はまだまだこんなものではない。

しかし、彼の血脈は仔狼にあらず、それは狂犬。

彼の輝ける道を継ぐ仔狼は現れず。

狂犬は悲嘆と流血のみをもたらす。

セプティミウスは勝ち誇った笑い声を上げた。「狂犬」はコモドゥスに違いない。彼は触れるもの全てに苦痛と悲嘆をもたらすだろう。人々は彼に背を向け、私、セプティミウスの元へやってくるだろう…手を広げて迎えよう。

賢明なる伴侶は真実を悟れり。

彼は雌狼を獅子に託せり。

しかし、彼は裏切られ、獅子もまた裏切りを受けり。

これを読んで、セプティミウスの笑いは消えた。マルクス・アウレリウスがコモドゥスからローマを守るように「獅子」に頼んだって?「獅子」とは誰だ?今どこにいるのだろう?

狂犬の血と獅子の血

共に流れども決して混じらず

深紅の砂の上、黄金の陽の下。

雌狼に黄金の伴侶は再び現れることなく

獅子の血の報いは闇

そして鉄鷲は剣もて雌狼を奪わん。

ふむ、「獅子」はコモドゥスを殺して自分も死ぬのか。まったく好都合だ。そして「闇」の時代の後、セプティミウス−「鉄鷲」が権力を掴む。「闇」にはいろいろな意味が考えられる…戦争、飢饉、疫病…まあ、それはどうだっていい。しかし、「鉄鷲」とはいい呼び方だ。鉄は黄金よりずっと強い。なるなら、黄金より鉄の方がいい。身を潜めて準備を進めよう。「獅子」が現れ、ローマへの義務を果して死ぬのを待つのだ。闇の時代の後、私、セプティミウス−「鉄鷲」が行動を起す。彼はほくそえんだ。

鉄の足音、鉄の兵士たち、鉄は力なれど黄金にあらず。

輝ける慈愛、輝ける英知は消え去り

鷲は雌狼を征服し、その雛も続く。

ふむ…帝国は完全に私のものになるのか。私は強力な君主になるだろう。ローマが浸ってきたマルクス・アウレリウスの学識と哲学…そして英知…そんなものはもう沢山だ。ローマには強い指導者が必要だ…鉄の雛たちを連れた鉄鷲。「雛」は兵士のことだろう。沢山の兵士!彼はシリアに得た自分の新しい地位の事を考えた。これは始まりにすぎない。

鉄の羽根、鉄の爪、鉄の目、その手には剣。

敵には容赦なく、友にも慈悲を持たず。

鉄鷲には鉄の心、その言葉は信じるに足らず。

敵手たちは鉄鷲を脅かす−強欲な小鷲ども

されど敵とするに足らず、鉄鷲の爪に引き裂かれん。

無敵だ!セプティミウスは笑った。私は無敵になり、逆らう者をことごとく滅ぼすのだ。友人だろうと、敵だろうと…どんな手を使っても!

しかれど、真の脅威は隠されし者。

彼の血は黄金、深紅に流れる黄金。

誰の目にも、自らにさえ、彼は隠れたる者。

隠れたりといえども、その行く手に陽は輝く。

笑いは消え、彼は顔をしかめた。「隠されし者」とは誰だ?自分自身にも隠されている?これは一体どういう意味だ?それに、「脅威」とはどんな脅威だろう?アルマテアはわけのわからん事を言い出している。この部分は意味をなさない。分らぬながらも、セプティミウスは正体の見えない敵の事を考えて身震いした。

鉄鷲は仔を狩り、貪る。

しかるに仔は隠れ育つ−彼は獅子、狼にあらず

その血は黄金の獅子の血、深紅に流れる黄金なればなり。

また獅子か。黄金の血を持つ仔?マルクス・アウレリウスにもう一人息子がいたか?いや…狼でなく獅子というからには、ローマ皇帝の息子ではないということだ。「狂犬」を殺す「獅子」の仔か?まあ、それなら「隠れたる者」を消すのも簡単だろう。「獅子」が現れるのを待って、その子孫を殺せばいいのだ。

セプティミウスはパピルスを恭しい手つきで巻いて紫のリボンで結び、別の巻物の中に隠して机の一番下の引き出しの奥に入れた。彼は背中をそらして伸びをした。背骨がぼきぼき音を立てた。彼はシリアに出発しようとしていた。軍で重要な地位につくのは初めてだった。彼は地位を駆け上り、すぐに将軍になるだろう。そしてその後は…賢明なるセプティミウス・セヴェルスに不可能はない。

 

第1章 グラウクス

A.D.187年 スペイン

10歳のペタヴィウス・ヴァレリウスは−少年は普段、「グラウクス」というプレノーメンで呼ばれていた−ある屋敷跡を囲む石垣の上に座っていた。それは彼の家から丘をいくつか越えたところにあった。ここにはもう誰も住んでいない。7年程前に、謎めいた火事がここの母屋と納屋を焼き尽くし、住人はここを打ち捨ててどこかへ行ってしまったようだ。そこは豊かな土壌の良い農場だったにもかかわらず、誰もこの土地の所有権を主張せず、家を再建しようともせず、まるで忌むべき場所のように扱った。だから、彼は…グラウクスは…密かにここを自分の場所だと思っていた。退屈な日常から離れて想像力を広げることの出来る場所。

こんな涼しい晩春の日には、谷間には霧がたちこめて緑の丘を縁取り、まるで未知の怪物がとぐろを巻いてひそんでいるように見えた。しかし、この家の黒ずんだ壁の立っている丘は、怪物のようには見えなかった。傷つき、癒されるのを待っている、この奇妙に懐かしい建物をしっかりと支えている台のようだった。

霧に浮かぶ黒焦げの崩れた壁は、秘密を隠しているように見えた。解き明かされるのを待っている謎を。しかし、グラウクスがこの場所の事を訊くと、両親はいつもうろたえたように顔を見合わせるだけで答えてはくれなかった。そして、あそこで起こった事は話してはいけないし、お前もあんな所に行ってばかりいちゃいけない、とほのめかした。そんなことは不健康だし、あの場所は危険だからね。家で他の子たちと遊んでいればいいじゃないの。

それでも、この場所はグラウクスを惹きつけてやまなかった。美しいサイレンの妖しい歌のように。他の人はこの場所を忌み嫌っているようだった。彼にとっては、ここは独りになれる場所であり、他にはない妖しい美しさを湛えた場所だった。自然が崩れた石の壁の所有権を主張していた。蔦が表面を覆い尽くし、息を呑むほど美しい珊瑚色の薔薇をほとんど絞め殺しそうになっていた。薔薇はドアを守るように囲み、今もなお、その美しさで客を誘いこもうとしているようだった。雨が黒い煤を少しづつ洗い流し、その下に隠れていた元の石の色が−あたたかなピンクがのぞいていた。

今でも、黄金色の麦が雑草と畑の占有権を争っていた。そして今でも、夏の終り頃には、果樹たちはたわわに実をつけた−桃も、梨も、林檎も。家の南を流れる小川の澄んだ、冷たい水にはきらきらと輝く魚や臆病な亀たちが住んでいた。グラウクスは魚が流れを溯るのを何時間も眺めていた。魚の輝く背は深い、暗い水の中で銀の筋のように見えた。色とりどりの野の花が小川へと根を伸ばし、太陽に向って頭をもたげていた。太陽は木々の向うから、その影に金色の縞模様を踊らせていた。

この場所には魔法がかかっているようだ。そしてこの場所は、ぼくのものになったんだ。でも昔、ここには他の人たちが住んでいた。彼は常にその存在を感じていた。彼は焼け跡のあちこちを掘り返して、時々前の住人たちの痕跡を発見した−ここにはガラス玉、あそこには壊れた台所用品。誰かが正門の近くに大きな壷を埋めたのだ。壷は今では壊れて使い物にならなくなっている。誰かが、今ぼくが座っているこの壁を作ったのだ。誰かが麦を採り入れ、果物を収穫し、馬の世話をし…今はからっぽの厩舎に、かつて馬たちがいた痕跡が沢山残っていた。かつて、この場所は栄えていたのだ。人々が実際に住んでいたのだ−ぼくみたいな男の子もいたかもしれない。

そよ風が霧を動かし、少しずつ散らしていった。風は少年の明るい茶色の巻毛をなびかせた。少年は無意識に髪をかき上げ、額に落ちてくるやっかいな前髪を後ろにはらった。 前髪はそれ自体が意志を持っているように動き、頑固に元の位置に戻ったが、少年はもう気にしなかった。グラウクスは草を引き抜いて歯並びのよい白い歯にはさみ、柔らかい端を噛みながら指でくるくると回した。彼は膝を持ち上げてそこに出来ているかさぶたをいじった。数日前に馬から落ちた時の傷だ。もうすでに、少年は名騎手だった。しかし、この間はちょっと見栄をはってやりすぎてしまい、膝に怪我をするはめになった。慎重にかさぶたをはがそうとしたが、まだしっかりくっついていたので、グラウクスはすぐに興味を失った。

少年は長くて真っ直ぐな、日焼けした脚を伸ばし、サンダルの足をぶらぶらさせた。そして舌を丸めて短い、鋭い口笛を吹いた。すぐに、大きな黒い犬が林から飛び出し、ふさふさした輝く毛皮から水滴を飛ばしながら彼に向って走って来た。耳をぴったりと倒し、尻尾を後ろになびかせて、犬は真っ直ぐ少年に向った。10歳の誕生日のお祝いにペルシウス叔父さんのくれた犬だ。叔父さんは秘密めかして、「この犬の先祖は狼なんだよ」と囁いた。グラウクスが名前を何にしようか考えていると、「『ハーキュリース』はどうだい」とペルシウス叔父さんが言って、両親はなぜか嫌な顔をした。グラウクスはその名前がとても気に入ったが、両親は最後にはその名前をつけちゃいけません、とはっきり言った。しかたなく、「ゼウス」という名前にすることにした。「ゼウス」もいい名前だ。「ハーキュリース」ほどじゃないけど。グラウクスは壁を飛び降りて崩れた家に向って歩いて行った。ゼウスが足元をついて来た。犬は身体を振って背中や尻尾に残っていた水滴を飛ばし、若いご主人を泥水だらけにしてしまった。

グラウクスは母にプレゼントを持って帰りたかったので、ドアを囲む枝から珊瑚色の薔薇を摘んだ。手の届く範囲で一番香りの良い花を選んだ。帰り道の方を向いた時、彼の目は一瞬、頭上を優雅に滑空しているきれいな黒い鳥に引き付けられた。グラウクスは両手を広げて丘を駆け下りた。彼は壷のすぐ向うの、雑草に覆われた不思議な二つの盛り土の間を駆け抜けた。少年のウェーヴのかかった髪がたなびき、チュニックが上に下に、上に下にと揺れた。少年はむき出しの腕を大きく広げていた。自分の身体を浮かせてくれる見えない気流を探している若い鳥のように。紺碧の空へ、鳥のように駆け上がろうとしているように。少年の逞しい脚はリズミカルに動き、壊れた壷のところを通り過ぎてポプラの並木道へ入った。背の高いポプラたちは、巨大な兵士たちのように真っ直ぐ並び、傷つけようとするものから少年を守っているようだった。彼は壊れた門を抜けて埃っぽい道を走り出し、まるで空へ駆け上ろうとしているようにぐんぐんスピードを上げた。その足はほとんど土に触れていないように見えた。黒い鳥はまだ少年の頭上をぐるぐる廻っていた。もう昼御飯の時間だ。また遅れたらママが嫌がるだろう。グラウクスは誰にも嫌な思いをさせたくなかった−誰よりもママには。そうじゃなくても、ママはぼくが丘の向うの焼け跡で遊んでばかりいるのをいつも心配しているのだから…でも、この場所は磁石のような不思議な力でぼくを惹きつけるのだ。

 

第2章 成人

A.D. 192年
スペイン

14歳のグラウクスはカールした長い前髪を目から払いのけ、豊かな髪を手櫛でなでつけた。せめてレースが始まるまで、落ちて来ないでくれるといいのだが。その手の動きを、3人の少女の視線が追いかけていた。3人は数年のうちに、彼の花嫁に選ばれる最有力候補だった。少女たちはくすくす笑い、顔を赤らめた。もっと後に立っている十数人の少女たちは3人に羨望の眼差しを送っていた。彼女たちがタイタス・ヴァレリウスの末息子と結婚式を挙げられる可能性はずっと少ない。

グラウクスの家は裕福な馬の繁殖農家だった。ローマのお偉方−将軍から皇帝まで−が、彼の家が育てた馬に乗っていた。グラウクスは一族に残った唯一の独身男性なのだ。彼の15の誕生日は数日後に迫っていた。そして、来年の3月17日、リベラリアの祭りで、彼は同い年の男の子たちと共に大人として、正式なローマ市民として認められことになっていた。成人式が終れば直に、彼の祖父は結婚の手配を始めるだろう。メリディア中の少女たちがその日を待ちかねていた。少女たちはもう父親たちに、ヴァレリウス家の家長に話を持ちかけておいてくれとせっついていた。

あの一族の唯一の独身男性だというだけでなく、少女たちの知識の及ぶ限り、彼は世界一魅力的な男性だった。彼は歳の割に背が高く、すらりとしていて肩はたくましく、まっすぐな逞しい脚をしていた。彼の運動神経の素晴らしさは有名で、エンペラ・オーガスタスの夏祭りで行われる競技会では、毎年、出場した競技全部で優勝していた。この間も、レスリング大会の14歳の部で優勝し、競走でも一番になった。少年たちの多くは少女たちほど彼に夢中というわけでなかった。彼らは少年の才能と容姿と、金持ちの家族にやきもちを焼いていた。彼は農場で最高の雄馬−アポロという名の、こげ茶色の3歳馬−にまたがり、丘を越えて市を一周する耐久レースに臨もうとしていた。他の少年たちは誰も、グラウクスに勝てるなどと夢にも思っていなかった。でも、ヴァレリウスの末息子が出場するレースなら、2位でも充分な名誉だ。

グラウクスは鞍の上で背筋を伸ばし、つややかな茶色の髪を払った。その仕草が彼を見つめている少女たちに及ぼす効果にはまるで気づいていなかった−彼の心はこれから始まるレースに集中していた。輝く緑の瞳は、同じ色の丘を見上げ、レースのルートを心の中で辿っていた。彼は無意識に首にかけたビュラをいじった−このお守りと、彼のトーガ・プレテクスタの縞模様だけが、彼がまだ少年であることを示していた。彼は大人並の自信を持っていた。今まで、やろうと決めたことは全て簡単に成し遂げてきたのだ。見かけも大人びてきていた。鼻の下には髭が生えだす兆しがみえていた。少年は腿を引き締め、手綱を取ってスタートラインに近づいた。日焼けした腕と脚の固い筋肉が波打った。彼は出場する16頭の一番外側に馬をつけた。

新緑の木の狭い木陰に、グラウクスの兄たち、タキトゥスとクローディアスが腰を下ろしていた。「あいつに賭けたか?」タキトゥスがクローディアスに訊いた。

「もちろん。金を稼ぐのに、これほど確実な方法はないよ。ただ、あいつの負けに賭けるほどの馬鹿を見つけるのが難しくなってきてな。」

「いつから負けてない?」

「一度も負けたことないんじゃないか。レスリングでも乗馬でも、駆けっこでも弓矢でも。競争となると全勝だ。他の男の子たちが気の毒になってくるよ。」

「まあ、少年の部にいるのもあと少しだ。来年はもっと強力なライバルと競争しなくちゃならなくなる。」

「それでも勝つよ。」スタートラインの近く、しかし興奮した馬たちからは充分離れた所に、少女たちが集まって笑いさざめいていた。クローディアスは彼女たちの方に頭を振って、「まったく、女の子たちはあいつに夢中だな。じきに、父さんはあいつの結婚を考えだすんだろうな。」と言った。

「それはないだろう。」

「どうして?あと2、3年もすれば、あいつも適齢期だ。」

「父さんは別のことを考えているらしい。」

クローディアスは戸惑った顔で兄を見たが、やがてわかった、という顔になった。「教えるのか?」

「ああ。来年のリベラリアの儀式の後で。」

クローディアスは重いため息をついた。彼もタキトゥスも既に20代半ばで、妻も子供もいた。しかし2人共、12年前に家族の一員になったこの少年の事となると今でも弱いのだ。彼は特別だった。特別な少年だった。誰もがそのことを知っていたが、その理由を知っている者は少なかった。少年自身も知らない。全てを知ったら、彼はどう思うだろう?

グラウクスは愛馬の首にぴったり身体をつけた。少年の顔は馬のふさふさしたたてがみにほとんど隠れてしまった。その手は手綱をしっかりと、しかし余裕を持ってつかんでいた。旗が振り下ろされ、グラウクスは足を締めて声を上げた。それを合図に、アポロは急発進し、最初の障害の前に他の馬に大きく差をつけた。駿馬は飛ぶようにコースを駆け抜けて行った。グラウクスは馬の背にぴったり身体をつけて、石の壁を飛び越えてゆうに1メートル半は向うに着地し、角を曲がって見えなくなった。他の馬たちはアポロの後塵にむせていた。

二人の兄は首を振って微笑んだ。「血は争えないな」タキトゥスが言った。

「まさにそうだ。」クローディアスが言った。二人は飲物を買いに人ごみを抜けて行った。グラウクスはライバルに何マイルもの差をつけてゴールするだろうが、それは半時間ほど先のことなので、その間くつろいで過ごした方がいいだろう。

2人は木陰に戻り、弟がゴールラインを駆け抜けるのを見た。ライバルたち視界にも入っていなかった。彼は泡を吹いている愛馬を止め、その背から飛び降りて汗まみれの首を抱きしめた。興奮した観客たちが彼の回りに集まってきた。彼はにっこりして振り向いた。ウェーブのかかった髪は風にかき乱されてくしゃくしゃだった。彼は兄たちに気づいて大喜びで手を振った。二人も手を振り返し、歩いて行って祝福の輪に加わった。

「こいつ、一度もスピードを落とさなかった!」グラウクスは言った。「スピードを緩める方が難しいぐらいだったよ。走りたがってしょうがないんだから!」

「この馬の血筋だよ」タキトゥスはそう言った。彼は声を低くして付け加えた。「息子というのは父親そっくりに育つもんだ。びっくりするぐらいに…」

 

193年 3月

リベラリアは毎年3月17日に、人生の15年目を迎えた少年たちのために開かれる。この儀式は子供時代の終わりと、大人としての人生の始まりを意味していた。儀式は1日かけて行なわれる。儀式は朝、グラウクスが赤い縞のトーガ・プレテクスタを脱ぎ、ビュラを外してレリ−家の守り神と主な先祖の小さな偶像−の前に捧げる事から始まった。一家の男たちと並んだグラウクスは香を焚いてレリに捧げた。父のタイタスは彼の白いチュニックを脱がせて純白のトーガ・ヴィリリスを着せ、肩と腰の襞を整えた。ふたりの目が合った。

「用意はいいかい?」タイタスが訊いた。グラウクスは首を傾げ、ゆっくりと微笑を浮かべた。その笑顔はタイタスが遠い昔に知っていた少年とあまりにもそっくりで、彼はどきりとした。

「パパ、大丈夫?」グラウクスは父親の目に突然深い感情が浮かんだのを見て心配そうに訊いた。

タイタスは息子の頬をなで、髪をかき回して、言うことを聞かない巻毛を余計にくしゃくしゃにした。「この髪も切らなきゃいかんな。」

「どうして?髪を切る儀式なんてないよ。」

息子はからかっているのだ。美しい緑の瞳がきらきらと輝いていた。「そうだが、もっと人前に出して恥ずかしくない恰好にさせないと。」

グラウクスは手に唾をつけて髪をなでつけ、なんとか平らにならそうとした。しかし、髪は余計にぐちゃぐちゃになっただけだった。兄たちは大笑いした。

外では、ヴァレリウスの親類縁者一同が家族を連れて集合し、さらに農場の奴隷たちも一家で並んでいた。馬車で2日以内の範囲にある数々の農場から友人たちも駆けつけていた。父親と祖父に付き添われ、誇らしげな顔の兄たちを後に従えたグラウクスが家から現れると、全員が歓声を上げた。男たちは毛並みつややかな馬に騎乗し、女たちは馬車に乗りこんだ。奴隷達は大型の荷馬車にぎゅう詰めになった。一行はエンペラ・オーガスタに向ってエメラルド色の丘をゆっくりと進んで行った。道沿いの家では家族が門の前に集まり、少年におめでとうと叫んだ。少年は手を振り、輝くような笑顔を返した。正式にローマ市民の一員になる少年に歓迎の握手をしようと手を差し伸べてくる男たちもいた。

大きな灰色石の城門に到着すると、彼らは馬や馬車を降りて、彫像の並んでいるフォーラムへと歩いて行った。板石の街路に面した家々は春の木の葉や花で作った花輪で飾られ、家族たちは見物客と共に歓声を上げていた。 女たちが赤い花びらを投げ、何枚かがグラウクスの髪にくっついた。彼の家族の友人知己たちが声をかけ、敬礼を送った。返礼として、彼は拳を握って心臓の上に押し当てた。少女たちは口を覆ってくすくす笑いながら街を抜けてゆく少年たちの列を見つめていた。彼女たちは顔を赤くしながら、目を惹いた男の子を指差していた。自分があまりにも注目を浴びているのにきまりが悪くなったグラウクスは、なるべく真直ぐ前を見ていようとした。しかし我慢できずに、晴れ着に身を包んで下ろした髪に花を飾った綺麗な少女たちをちらちらと盗み見た。

フォーラムに着くと、少年達は一列に並び、誇らしげな父親たちがその後に並んだ。皇帝たちの彫像が彼らに長い影を落とし、足元の石畳に光と影の縞模様を作っていた。ひとりひとり名前が呼ばれ、少年たちは一歩前に出て、市の行政官から大人として、また正式なローマ市民として認められたことを祝福された。

その後、行列は市の中心まで進み、そこで少年たちのために神々に雄牛が捧げられた。牛の首にナイフが振り降ろされるとグラウクスは少し身震いし、肩をすくめてごまかした。群集は大きな歓声を上げた。さっきより細かい花びらが頭に降り注ぎ、足元に落ちた。それは祭壇からこぼれて石畳に淀んでいる血と同じ色だった。

長い時間をかけて挨拶回りをした後、家族と友人一同は家に帰り、この地域で手に入る限り最高の素材を使った豪華な夕食を取った。肉や野菜はもとより、黒海から取り寄せたキャビア、牡蠣、トリ貝やカタツムリに至るまでの珍味を満載した銀の皿の重みでテーブルは軋んでいた。ラディッシュ、アーティチョーク、アスパラガスや豆がミント味の仔羊、ワインソースを添えたウズラ、黒胡椒をまぶしたジューシーなローストビーフと場所を争っていた。食堂は狭過ぎるのでずっと広いアトリウムに寝椅子が並べられ、客全員が座るなり寝そべるなり好きな姿勢で食べることができるようにしてあった。楽しげな声の輪の向うでは、庭の噴水が涼しげな音で唄い、アトリウムを出入りする吟遊詩人たちと競っていた。食事が済むと、色鮮やかな絹を纏い、髪を念入りに結い上げた女性たちは三々五々座りこんで噂話に花を咲かせた。男たちはゲームに興じた。子供たちは庭中を駆けまわり、鬼ごっこをしたり、猫たちを追い掛けまわしたりして遊んだ。

グラウクスは自分だけのためにこれだけの人が集まり、これだけの祝宴が開かれていることに圧倒されていた。彼はふたりの兄の近くにいるようにした。兄たちなら自分の気持ちをよくわかってくれそうだった。実際、ふたりはグラウクスを庇っているように見えた。大人としての責任から、今少しだけ彼を守ろうとしているかのように。ふたりは知っていた−人生を変えてしまうような大きな事実が、まもなく彼に明らかにされる事を…彼は知らない。

 

第3章 告白

グラウクスはいぶかしげに父と祖父の顔を見比べた。彼はマルクスの広い寝室に連れて来られたところだった。何かまずい事でもやっただろうか?

「座りなさい、坊や…ああ、もうそんな呼び方をしてはいけないな。」マルクスは笑った。

「かまいませんよ、お祖父様。いくつになっても、お祖父様にとってはぼくは『坊や』でしょう。」

マルクスはグラウクスにワインのゴブレットを渡した。「我々3人だけで少しお祝いをしようと思ってね。それから話をしよう。大人の男同士として。」

グラウクスはワインを一口がぶりと飲み、顔をしかめてから無理に平気な顔をした。そのワインはいつも飲んでいる水で薄めたものではなかった。彼は少し咳き込んでから、こちらをじっと見つめている父親に向ってにっこりした。

「グラウクス、お祖父さんと私は、これからお前に大事な事を話さなければならない。これを話すのはとても辛い。しかし、長いこと話し合って決めた事だ。お前には知る権利がある。お前自身の人生にかかわることだ。お前はもう大人になったのだから、今まで知らなかったことを知る権利がある。」

若者の胃の中で蝶々が暴れだし、彼は少し身じろぎした。一体何の話だろう?彼の目は祖父と父の顔をかわるがわる見つめた。何か知らないが、深刻な話に間違いない。

タイタスが話を続けた。「はじめにこれだけは言っておく。これから話す事によって、家族の中でのお前の立場や、私たちのお前に対する気持ちはほんの少しも変わらない。それだけはわかってくれ。」

グラウクスはワインのゴブレットをつかみ、ごくりと呑みこんだ。胃の中の蝶々は、籠に捕らえられた野鳥のようにばたばたと暴れていた。

タイタスは息子の手を取り、安心させるようにぎゅっと握った。「お前の生まれた時の事情は、お前が信じているのとはかなり違うんだ。」タイタスは深く息を吸った。「私はお前の名のみの父親で、生みの父ではない。オーガスタも名のみの母親だ。」

彼は緑の瞳を大きく見開いてタイタスを見つめ、それから祖父の方へ視線を移した。

「安心しなさい、グラウクス、私は本当にお前の祖父だ。」マルクスは暖かい微笑を浮かべた。

二人はしばらく間をおいた。グラウクスの顔に浮かんだ衝撃は、やがて苦しげな困惑に変わった。「でも…」

「説明するよ」タイタスが言った。「単純な話なんだが、話すのは本当に難しい。つまり、お前は私の妹のオリヴィアの息子だ。妹はお前がまだ2歳の時に死んだんだ。お前の父の名はマキシマス−マキシマス・デシマス・メリディアスだ。…彼も死んだ。家族が死んだ後、お前はうちに来て一緒に暮らすようになった。妻と私はお前を息子として育てた。」

「お父さんじゃないって…?」グラウクスは途惑いながら、この残酷な事実をなんとか理解しようとしていた。

「私はお前に命を与えた父親じゃないが、息子同様に愛してきた。タキトゥスとクローディアス同様、お前は私の息子だ。」

「本当は伯父さんだね」グラウクスは今聞いたことをよく考えた。身体中が震えていた。「お母さんは伯母さんなんだ。ぼくを養子に?」

「ああ、私はお前の伯父に当たる。しかし、いや、お前を養子にはしなかった。理由があるんだ。後で説明する。」

少年の顔に複雑な表情がよぎるのを、ふたりはじっと見つめていた。「タキトゥスもクローディアスもぼくの兄さんじゃないんだ。」

「ああ、本当は従兄弟だ。だが、お前を弟として愛しているよ。それはわかっているね。」

「兄さんたちは知っているの?」

「ああ。二人はお前よりかなり年上だから、お前の母さんと父さんを覚えている。あまりよくは覚えていないだろうが…」

「隠していたんだ」グラウクスはぽつりと言った。少し責めるような口調だった。彼は震えを抑えるために手をぎゅっと握り締めていた。

マルクスは自分が口を挟む時だと思った。「グラウクス、全て私が決めた事だ。お前には、死んだ家族を恋しがったりせずに、幸せに、健やかに育って欲しかった。兄さんたちには何も言うなと命令した。私の決めた事だ。今、お前にこのことを話しているのは、あの二人も知っている。お前のことをとても心配しているよ。弟を失うんじゃないかと心配している。二人はお前をかわいがっているからね。」

グラウクスは親指の爪を噛み、目をぱちぱちと瞬いた。心は嵐のように乱れていた。「父さんの名前は何でしたっけ?」

「マキシマス・デシマス・メリディアスだ。」

「それじゃ…ぼくの本名はデシマスですね。ヴァレリウスじゃなくて。」

「そうだ。」

「ペタヴィウス・デシマス・グラウクス?」

「お前の本当の名はマキシマスだ…マキシマス・デシマス・グラウクスだ。お前は父親の名を継いだ。グラウクスというのはもちろん、お前の緑の瞳からきている。お父さんの名のメリディアスは生まれた土地の名からきている。」

「もう一口、ワインを飲みなさい、グラウクス」マルクスが優しく言った。

「駄目です。吐きそうだ」グラウクスは痛む胃を腕で押えた。頭の中は混乱とショックと疑問で渦巻いていた。「何があったんですか?」

「事故があって…酷い事故が…」タイタスが言いかけた。

マルクスがたしなめるような口調で口を挟んだ。「タイタス、全て隠さずに話すと決めただろう?」

タイタスは父に向って言った。「そうですが、今、話すのがいいものかどうか…ほら、ショックを受けています。」

グラウクスは父のトーガをつかんだ。「お願いだから教えて。どうしても今すぐ知りたいんだ。」

タイタスが宥めようとして言った。「グラウクス、今日は一度にいろいろ聞いてもう疲れただろう。今聞いたことをよく考える時間をとって、明日また続きを話すことにしないか?」

「パパ…」彼はそう言いかけて言葉を切り、タイタスを見つめた。彼を何と呼んでよいのか分からなかった。

タイタスは手を伸ばして少年のくしゃくしゃの髪をなでた。その声も、手も優しかった。「これからもそう呼んでもらえれば嬉しいよ。それに、オーガスタもお前が『ママ』と呼ばなくなったら悲しむだろう。あいつはお前が可愛くてしょうがないんだから…」

グラウクスは黙ってうなずいた。「何があったのか教えて、パパ…お祖父様。教えてくれなければ余計に、いろいろひどい事を想像してしまうよ。」

マルクスは椅子を少年の近くに寄せた。実際に起こった事以上にひどい事など有り得ないだろう。「わかった、知っている限りの事を教えよう。ただ、私たちにもわからない部分があるんだ。」彼はワインをがぶりと飲んで、深く息を吸い込み、話し始めた。「私には息子が4人と、娘が1人いた。娘の…お前の母さんの…名前はオリヴィアだった。オリヴィアは若い時、うちの隣の農場の持ち主だった兵士に逢って…一目で恋に落ちたんだ。」

グラウクスはきょとんとしていた。

「丘を越えたところにある焼け跡のことだよ。」マルクスが説明した。

グラウクスははっとして背筋を伸ばした。「ぼくがいつも行っている?ぼくの両親はあそこに住んでいたの?」

マルクスはうなずいた。「素晴らしく豊かな農場で、作物も家畜も豊富だった。」

グラウクスはほとんど聞いていなかった。目に見えない力でぼくを惹きつけるあの場所は…両親の家だったのか。「あの…両親はあの火事で死んだんですか?」

「まあ聞きなさい。その若い兵士はマキシマスという名で、ゲルマニア駐屯の連隊の一員だった。彼はとても優秀な兵士で、既に副官にまでなっていた−副官というのは、将軍の下の位だ…辺境出身でそこまで出世するのはめったにないことなんだ。その時、彼は子供の時以来、久しぶりに故郷に帰って来ていたんだ。つまりね、グラウクス、あの家はそれ以前にも一度火事になったんだ…マキシマスが子供の頃に。それで、彼は両親と弟を失ったんだ。」

グラウクスはすぐに気づいた。「ぼくと同じだ。」

「そう、お前と同じようにね。彼は自分の過去を取り戻すために戻ってきていた。そして、お前のお母さんは彼を見たんだ。彼はとてもハンサムだった…お前はお父さんにそっくりだよ。それで、お母さんは彼の気を引こうとして、毎日食事を持って行ったんだ。オリヴィアがそんなことをしているとは、私たちは知らなかった。その後ようやく、オリヴィアが彼を夕食に招待して、家族みんなが彼に会ったんだ。彼は軍服を着ていて、とても立派だった。それで、その後、彼もお前のお母さんに恋をして、ふたりはすぐに結婚した。ふたりは焼けた家の土台の上に小さな家を建てて、その後何年もかけて少しづつ大きくしていった。そうして、家は豊かな農場になった。しかし、結婚してまもなく、お母さんがお前の兄さんのマルクスを身篭っている時に…」

「兄さん?」グラウクスは思わず立ち上がった。「本当の兄さんがいるの?」

「いや」マルクスは急いで言った。うっかり口に出してしまった事を後悔していた。「座りなさい、坊や。まあ座って。」彼は優しく言った。

グラウクスはしぶしぶ腰を下ろした。心臓はどきどきしていたが、心は沈んでいた。ぼくには兄さんがいたんだ。でも、兄さんも火事で死んだらしい。「マルクス…」彼はつぶやいた。

「さっきの話だが…皇帝の近衛隊がやって来て、マキシマスは将軍に任命されたので、すぐにゲルマニアに戻るようにと言ったんだ。」

「ぼくのお父さんは将軍だったの?」グラウクスが訊いた。その肩書きは彼にはあまりピンと来なかった。

マルクスもタイタスもうなずいた。

「兄さんはどうなったの?」この事の方が気になっていた。

「グラウクス、彼も火事で死んだんだ。」タイタスが出来るだけ優しく言った。想像するのも難しい両親よりも、自分と同じような少年だった兄の死に、グラウクスがより同情を感じるのは理解できた。

兄の事は考えていた通りだと思い、彼はうなずいた。そして自分と同じ名前の父の方に心を戻した。「父は将軍だったんですね。」

マルクスはもう一度うなずいた。「そうだ。将軍だった。マルクス・アウレリウス陛下が、彼にこの大いなる栄誉を与えたんだ。マルクス・アウレリウスとルシアス・ヴァレスは、しばらく共同統治帝だった。そして、ルシアス・ヴァレスが死んだ時、マルクス・アウレリウスは北方に強力な指導者が必要だと考えて、お前のお父さんを選んだ。考えられないほど名誉な事だ。拒否することはできなかった。」

「グラウクス、これは凄い事なんだよ」タイタスが付け加えた。「お前のお父さんは偉大な将軍だったんだ。偉大な指導者だった。皇帝に重用されていた将軍だった。」

若者はゆっくりとうなずいた。今聞かされている事をすべて理解するのは難しかった。ぼくの名前は本当はマキシマスなんだ。マキシマス・デシマス。 マキシマス・デシマス・グラウクス。ぼくの父は将軍だったんだ。将軍だけど、農場も持っていた。

マルクスは話を続けた。「お前のお父さんはたくさんの重要な戦闘を勝利に導いた。カシウスという名の謀反人の手から帝国を救ったことさえある。マルクス・アウレリウスは彼をとても重用していたから、お父さんは忙しくてあまり家に帰って来れなかった。でもね、グラウクス、お父さんは本当は家庭人だったんだ。彼の望みは、農夫として家で家族と一緒に暮らすことだけだった。しかし、才能と技量があまりにも優れていたので、それが許されなかった。お前が馬に乗っているところを見るたびに、お父さんを思い出すよ。私たちは彼に雄馬を2頭贈ったんだ…スカルトとアルジェントという名前だった。2頭とも、アポロと同じ血筋だった。」

グラウクスはしばらく馬の事を考えた。とりあえず、そういった枝葉の事を考える方が楽だった。「父さんは馬に乗るのは上手だった?」

「彼は名騎手だった。剣士としては、さらに素晴らしかった。敵う者はいなかった。」マルクスはにっこりした。

「剣士?ぼくは剣はあまり得意じゃない。弓矢の方が得意だ。」

「お父さんはごく若い頃に入隊したから、早いうちに剣の訓練を始めたんだ。たっぷり練習を積むことが出来たし…」

「火事の原因は?」グラウクスが口を挟んだ。彼の心は、家族全員がそんな風に死んでしまったという恐ろしい事実を受け入れられないでいた。

マルクスはため息をついた。「そう、それはこの話でも特に難しいところなんだ。とても辛い話だし、それに、本当は何があったのか、全て分っているわけではないからなんだ。お前が2歳の時、ある日、お前のお母さんがうちにお前を預けに来た。お前の兄さんの具合がよくない時、母さんはいつもお前をうちに預けていたんだ。その後すぐ、タイタスとユーセビウス叔父さんと私は、南イスパニアとイタリアに馬の買付に行くことになった。その旅行は前々から予定していたし、延期する理由はないと思ったんだ。女や子供たちはここにいれば安全だろうと思った。奴隷も多勢いるし、お前の面倒を見る人は沢山いたからね。」

グラウクスは思いつめた目で祖父をじっと見つめていた。この話をするのが老人にとってとても辛いのはよくわかった。

「我々の留守中に、何か酷い事が起こってしまった。お前の両親の農場は襲撃されて、お前のお母さんと兄さんは殺された。」

「殺された?」グラウクスはぽかんと口を開けた。「誰かが殺したって事ですか?火事で死んだんじゃないんですか?そう言ったじゃないですか!」グラウクスは怒りを覚え、責めるような口調で言った。

タイタスがまた口を挟んだ。「グラウクス、この話はとても込み入っていて、どちらも本当なんだ。多分、農場を襲撃した連中が火をつけた。そして、お母さんと兄さんは…焼かれたんだ。」

「どうして父さんが助けなかったの?」グラウクスは立ち上がっていた。

「ゲルマニアにいた。」

「父さんは、ふたりと一緒に死んだんじゃないの?」

「いや、後で死んだ。」マルクスが答えた。少年がこの話に納得できないのはよくわかっていた。

グラウクスは混乱していた。彼は頭を振って椅子に沈みこみ、掌で両目をこすった。「わからない。」

タイタスは彼の柔らかい髪をなでた。少年が小さい頃には、慰める時に髪をなでてやるのはとても効果があったのだが。「我々にもわからないことが多いんだ、グラウクス。私たちが旅から戻った時には、1週間ぐらい経っていた。あの家は焼け落ちていた。作物は焼き払われ、そこらじゅうに召使たちの死体が転がっていた。そして、新しい墓が2つあった。その上にはしおれた花がのせられていた。当然のことだが、私たちには誰がそこに埋められているのか、確かなことはわからなかった…仕方なく、掘ってみたんだ。お前のお母さんと兄さんだった。」

グラウクスは焼け焦げた死体を想像して身震いした。「奴隷たちが埋葬を?」

「いや。奴隷たちは、誰もそんなことはしていないと言った。ここの皆が、あの農場で何かあったと気づいた時には、もう埋葬されていたそうだ。」

「じゃあ、誰が?」

「証拠はないんだが、お前のお父さんじゃないかと思っている。」

グラウクスはため息をついた。まったく記憶に残っていない母と兄の恐ろしい死に、怒りを覚え、混乱し、打ちのめされていた。「父さんはゲルマニアにいたと言ったじゃないか。」

「そう思っていたんだが、他に誰が、お母さんと兄さんをわざわざ埋葬する?あんなに愛しげに、墓の上に花を供えたりする?ここらへん一帯の全員に聞いて回ったが、誰もそんなことはしていなかった。通りすがりの人なら、わざわざあんなに丁寧に埋葬したりはしない。火をつけた連中は絶対にしない。」

グラウクスも、この謎をよく考えてみた。「父さんはゲルマニアから帰って来て、帰って来たら母さんと兄さんが死んでいたのかな?」

「そうだと思う。」

「それじゃ、父さんはどうしたんだろう?どこへ行ったの?」

「それがわからないんだ。彼は消えてしまった。」

「逃げたってこと?」少年は驚いて訊いた。

「違う、そうじゃない。グラウクス、」マルクスはきっぱりと言った。「お前のお父さんは絶対にそんな事をする人ではない。きっと、彼に何かあったんだ。何か酷い事が…ただ、何があったのかよくわからないんだ。」

部屋を沈黙が満たした。タイタスとマルクスはショックに身を固くしている少年を見つめていた。少年の人生は、ほんの数時間のうちに何もかも変わってしまったのだ。

「まだ生きているかもしれない」彼は苦しそうな声で言った。

「いや…それはありえない。」

「どうしてわかるんです?生きているかもしれないじゃないですか!ぼくの父さんはまだ生きているかもしれない。死ぬところを見たわけじゃないんでしょう?死体も見ていない。そう言ったじゃないか!」

マルクスは興奮している孫息子を落ち着かせようとした。希望に縋りたい気持ちは理解できたが、空しい期待を抱かせたくなかった。「グラウクス、もし生きていれば、彼は家に帰って来たはずだ。でも、帰って来なかった。まだ生きているなんて望みは持たない方がいい。グラウクス、わかっておくれ。今日は一度にいろいろ話しすぎた。もう休むことに…」

「いやだ!」グラウクスはなんとか感情を抑えようとした。「ぼくは…ここで話を止めないで。何もかも教えてよ。どうしても知りたいんだ。」

「グラウクス…」タイタスが言った。「一週間後に、私はゲルマニアへ向かった。お前のお父さんを捜しに…万一、彼が家に戻って、家族が死んでいるのを発見して、それから軍に戻ったのだとしたら−と思ってね。ずいぶん理屈に合わない行動だが、ショック状態だったのかもしれないし…」タイタスは励ましを求めるようにマルクスの顔を見た。「そこにはもう新しい将軍がいて、お父さんは反逆罪で処刑されたと聞かされた。」

「何だって?」グラウクスは思わず立ち上がり、ワインをひっくり返してしまった。赤い液体はテーブルに広がり、下の絨毯にこぼれた。「父さんは偉大な人だったって言ったじゃないですか!どうして…」彼はだしぬけに言葉を切った。裏切られたという思いが心にあふれてきた。父さんは皇帝を裏切り、そうする事によって、生き残った自分の息子をも裏切ったのだ。「そんなに偉大な将軍なら、マルクス・アウレリウスはどうして処刑したりしたの?」

「マルクス・アウレリウスはもう死んでいたんだ、グラウクス。新皇帝はその息子、コモドゥスだった。マルクス・アウレリウスはゲルマニアで亡くなった…噂によると、かなり疑わしい状況でね。兵士たちは私に話をしたがらなかった。理由は察しがついたが。それでも何人かの兵士が、こっそり私を呼び出して教えてくれた。お前のお父さんは、コモドゥスがマルクス・アウレリウスを殺したと考えていて、だから新皇帝を支持するのを拒否したんだと。お父さんを処刑する命令をしたのはコモドゥスだ。マルクス・アウレリウスじゃない。どうやら、実際の命令を下したのはお父さんの副官だったクイントスらしい。裏切られたのはお父さんの方だったんだよ、グラウクス。」

マルクスは嫌悪のこもった声で言った。「コモドゥスというのは、まったく無能な、無責任な、帝国の歴史上希に見るほど最低の皇帝だった。ローマで剣闘士に殺されたのは当然の報いだ。お前のお父さんなら、決してあんな男を支持することはなかっただろう。しかし、わかるかい、グラウクス…お父さんは大変な力を持っていた。ローマ軍全体が彼に忠誠を誓っていた。軍を率いてコモドゥスに対して反乱を起こすことも出来た筈だ。もしその気なら、『皇帝』の地位を我が物にすることさえ出来たかもしれない。だから、コモドゥスは出来るだけ早くお父さんを消したかったんだ。自分の地位を安泰にするために。」

「しかし、妙なのは、」タイタスが言った。「兵士たちはマキシマスの死体を見つけられなかったんだ。何週間も捜し続けたのに。きちんと葬って上げたいと思ったんだ。しかし最後には、獣が運んで行ってしまったんだろうと諦めざるを得なかった。あの兵士たちに会わせたかったよ、グラウクス。逞しい大男たちが、お前のお父さんの話をする時には泣きじゃくっていた。将軍を心から愛していたんだ。」

グラウクスは瞬きをして涙を堪えた。

タイタスは少年の額に落ちた巻毛をかき上げた。「お前が生きている限り、マキシマスは死ぬことはない。お前はお父さんと生き写しだ。私はマキシマスが今のお前より少し年下の頃友達だったんだ。よく憶えているよ。髪はお前の髪より黒かったし、目は緑より青に近かったが、それを除けば、お前は父親そのものだ。」タイタスは椅子に腰を下ろした。「彼の私物を持って帰ろうと思ったんだが、何も残っていなかった。彼の持ち物がどうなったか、誰も知らなかった−それか、知っていても教えてくれなかった。お前にお父さんの形見を渡すことが出来たらよかったんだが…剣とか…でも、何もなかった。まるで、彼など存在もしていなかったみたいだった。」

グラウクスは黙ったまま、必死で涙を堪えようとしていた。ようやく口を開いた時、その声はほとんど聞こえないほど小さかった。「ゲルマニアで処刑されたんだったら、帰って来て母さんと兄さんを埋葬したりできなかったはずだ。」

「お父さんがいなくなった状況には、いろいろ分らない事が多いんだ」タイタスが続けた。「まず、死体が見つからなかったこと。それに、兵士たちが森で3人の近衛兵の死体を見つけたこと。近衛兵の馬がいなくなっていたこと…近衛兵たちは自分の剣で殺されていた。」

グラウクスは希望を感じて顔を上げた。「父さんが近衛兵たちを殺して逃げたと思っているんだね?」

タイタスはにっこりして肩をすくめた。「お前のお父さんなら、不可能なことなんかないだろう。勇敢で賢い男だった。」タイタスはグラウクスをしばらく見つめていた。いよいよ、一番怖れている質問に答えなければならないだろう。その質問はすぐに来た。

グラウクスはようやく口を開き、慎重に言葉を選んでいるようにゆっくりと訊いた。「もし父さんが処刑を逃れて家に戻って来て…戻ってみたら母さんと兄さんは死んでしまっていたのなら…どうして、ぼくを迎えに来なかったの?」

タイタスとマルクスは顔を見合わせた。タイタスはその質問を消してしまいたいというように目を閉じた。

マルクスは立ち上がり、孫息子のゴブレットにワインを注ぎ直した。「まあ飲みなさい、グラウクス。飲んでおいた方がいい。」

グラウクスはワインを無視し、深く息を吸って煮え立っている胃を落ち着かせようとした。父と祖父の思いつめた様子が恐ろしかった。次には何を聞かされるのだろう?

タイタスは優しく言った。「グラウクス、どう言えばいいのかわからない…だから、はっきり言うことにするよ。マキシマスはお前のことを知らなかったんだ。」

若者はそれまで勇敢に涙を堪えていたが、とうとうテーブルに肘をつき、目に拳を押し当てた。彼は長い間黙っていたが、ようやく、涙につまった声で言った。「どうしてそんなことが?」

タイタスは、彼が生まれた時マキシマスが家にいなかったこと、母親が彼が死ぬのではないかと理不尽なほど思いつめていたことを話した。そんなことを説明しても、少年の辛さが和らぐものではないだろうと思っていた。その通りだった。

顔を覆った手の向うから、グラウクスが訊いた。「ぼくを見たこともなかった?」

「ああ。」

「ぼくの名前も知らなかった?」

「そうだ。」

「父さんにとっては、ぼくは存在していなかったんだ。」

「グラウクス、私はマキシマスほど深く家族を愛している男に会ったことがない。たとえ、あまり一緒にいられなかったとしても…もし知っていたら、お前のことも深く愛しただろう…それに、お父さんはきっと今はお前のことを知っている。お前を見守っているよ。きっと…」

マルクスは後は私が言う、という合図にタイタスの顔を見た。「グラウクス、お前が生きているのはマキシマスがお前のことを知らなかったからなんだ。」

とうとう、若者の頬を涙がこぼれ落ちた。「どういうこと?」

マルクスは話を続ける前に自分の目を拭った。「お前のお母さんと兄さんを掘り起こした時、二人が死んだという事よりさらに恐ろしいことに気づいたんだ。ただの殺人じゃなかった。ふたりの手に、釘の穴があった。それから、折れた十字架が2つあった。二人は磔にされたんだ…ローマ帝国の死刑のやり方だ。」マルクスは首筋をこすった。その顔は急にひどく年老いて見えた。「二人の死は、お父さんが処刑された事と関係があったに違いない…処刑されかけた事と、と言った方がいいかな。誰かが政治的な理由で殺されると、家族全員が共に死刑を宣告される。息子が成長して復讐を求める事を防ぐためだ。近衛隊がお前の事を知っていたら、草の根をわけてもお前を捜し出して殺しただろう。お前はまだほんの赤ん坊だったが、それでも。マキシマスが知らなくてよかったんだ。だからこそ…彼の名を継いだ息子が生き残った。マキシマス・デシマス・メリディアス将軍の息子であることは、たいへんな名誉だ。本当に、大いなる誇りなんだ。」

タイタスが続けた。「それでも私たちはずっと、誰かがお前の事を知って、やり残した仕事を片付けにくるんじゃないかと心配でならなかった…何年も経った後でも…だから、私はお前を自分の息子として育て、お前が本当は誰なのか隠すために別の名前で呼んでいた。今でも、他人の前では本名を名乗らない方が安全だ。まして、お前のお父さんにその後何があったのか、わかっていないのだから。」

「でも、ぼくはお父さんに似ているんでしょう?人が見ればわかるんじゃないかな?」

「ああ、そうだ…しかし、言ったように、違うところもある。お前の目は緑だが、彼の目は青に近かった。お前の髪はお祖母さんに似て茶色だ…お父さんは黒髪だった。お前は髪を割と長くしているし、かなりウェーブがかかっている。マキシマスは髪を兵士らしく短く刈っていた。それと、彼は短い髭を生やしていた。お前にはまだ髭はない。」タイタスは少しだけ微笑んだ。「お前はまだマキシマスほど背が高くないが、そのうちに追いつくだろう。身体つきも、彼ほど逞しくはないが…それも、いずれ追いつく。お父さんの声はとても低くて深い声だった。お前の声も、将来はそうなる兆しがある。私たちにはお前とお父さんがとても似ているのがわかるが、他人にはわからないだろう。」

グラウクスは立ち上がり、祖父の大鏡で自分の姿を眺めた。「まだ何か話があるの?」

タイタステーブルにこぼれたワインの渦を指で辿った。「グラウクス、お前を養子にしなかった理由を説明しておく。養子にする事も考えた。本当に真剣に考えたんだ。しかし、お前のお父さんは元老院階級だった。将軍になるために、元老院議員の養子になったからだ。だから、お前も元老院階級だ。私がお前を養子にすると、お前はその地位と付随する特権を全て失ってしまう。」タイタスはマルクスをちらりと見た。「それは賢明ではないと思ったんだ。分ってくれ。」

グラウクスは自分の顔を眺め続けていた。

マルクスが付け加えた。「グラウクス、お前のお父さんは死んだが、どこでどうやって死んだのか…正確にはいつ死んだのか、わからないんだ。この十数年、我々は答えを探しつづけて来た…いろんな噂が飛んでいた…馬鹿げた噂だ。しかし、とうとうはっきりしたことは何も分らなかった。こんな辺境にいると、我々の所まで情報が届くのに長い年月がかかったりするんだ。永久に届かないこともある。マキシマスは消えてしまったんだ。」

グラウクスは自分の姿を見つめ、青い目に短い髭、短い黒髪をした自分の顔を思い描いてみようとした。「父さんに何があったのかつきとめなきゃ。」

「グラウクス、私たちは長いこと…」

「どうしても知りたいんです。まだ生きているかもしれない。投獄されているのかもしれない。生き残っている息子がいる事を知らないから、ここに戻っても意味がないと思っているのかもしれない。」

その決然とした声に、タイタスとマルクスは身震いしそうになった。その声は父親そっくりだった。ふたりはしばらくの間、放心したように自分の姿を見つめている少年を見ていた。そして、独りでゆっくり考える時間を与えようと思い、静かに部屋を出て行った。

「ぼくは生きているよ、父さん」彼はつぶやいた。「あなたには生きている息子がいる…父さんに何があったのか、必ずつきとめる。」

 

第4章 ペルシウスの回想

ペルシウスは壊れた門に馬を繋ぎ、ポプラ並木をゆっくりと歩いて行った。彼の目は雑草に覆われた墓の前に佇む若者の背中を見つめていた。若者は辛そうな様子で肩を落とし、うなだれていた。叔父が横に立っても、グラウクスは顔も上げなかった。少年がトーガ・ヴィリリスを身に着けたのはほんの2週間前だった。そんな短い間に、この子はすっかり変わってしまった、とペルシウスは思った。いつも上機嫌で、始終笑い声を上げていた明るい性格は消えてしまった。代りに、彼は苦悩の衣を纏い、その重さに動くこともできないように見えた。

ペルシウスは咳払いした。

「いるのはわかってたよ、叔父さん」グラウクスは墓から目を離さずに言った。

「僕が君ぐらいの頃に、ここに来たよ。姉さんがここに兵隊さんを訪ねてくる時、ついて来たんだ。姉さんはその後すぐ、彼と結婚した。」

グラウクスはほとんど聞いていなかった。「ぼくはこの上で遊んでた。母さんと兄さんのお墓だなんて思ってもみなかった。」グラウクスはようやく顔を上げ、赤く腫れた目でペルシウスを見た。少年は泣いていたのだ。「どうして誰も教えてくれなかったの?」その目には激しい苦悩が表れていた。

ペルシウスはため息をついた。「まだ早すぎると思ったんだ。」

「無礼なことをしてしまった…」

「とんでもない。グラウクス、全然無礼じゃないよ。それどころか、オリヴィアはきっと喜んでいるよ。息子が二人とも近くにいてくれて。」

グラウクスはかがんで雑草をつかみ、怒りをこめて一掴み引き抜いた。彼は叔父の方を振り返って雑草を掴んだ手を鼻先に突きつけた。「どうしてこんな風に雑草だらけにしておいたの?どうして墓石がないの?」

ペルシウスは甥の手をそっと開かせた。雑草は風に舞い散った。彼は心をこめてグラウクスの手を握りしめ、下ろさせた。「マキシマスと暮らしたこの家で眠るのがオリヴィアの望みだろうと思ったから、うちの地所には移さなかった。でも、そう決めた時、この墓には墓石を立てない事も決めたんだ。」グラウクスは抗議しようとしたが、ペルシウスは手を上げて止めた。「説明させてくれ。兄さんと父さんに聞いただろう?君のお母さんと兄さんが死んで…お父さんがいなくなった時の事には、分らない部分がたくさんあるって。でも、間違いないのは、ローマ帝国の政権交代に何かの関係があったって事なんだ。つまりね、グラウクス、すごい権力を持っている連中が関わっていたって事だ。しかし、連中は君を見逃した。だから、僕らは絶対に…絶対に、連中に気付かせたくなかったんだ…もう一人の息子がまだ生きているって事を。君がお母さんと兄さんの墓参りをするのも危険だと思った。どっちにしろ、本当の事を教えるには、君はまだ幼すぎたしね。今でも、ここにはあまり来ない方がいいんだ…この土地は君のものなんだけどね。あまり思いつめない方がいい。」

「そんなの無理だよ。叔父さんたちにとっては13年前の出来事で、家族が殺されたって事にも慣れる時間があったのかもしれないけど、ぼくは聞いたばかりなんだ。ぼくにとっては、つい最近の出来事みたいなんだ。13年前にどんな気持ちだったか憶えてない?」グラウクスは、どうかわかって欲しい−と言うように叔父を見つめた。

ペルシウスは少年の肩に腕を廻して、荒っぽく引き寄せた。慰めたいが、あまりべたべたするのは照れくさい時に男同士がする仕草だった。「昨日の事のようによく憶えているよ。あの塀に座って話さないか?姉さんと君のお父さんが結婚する前、ここに来たときに僕が座ってた所だ。」

ペルシウスは気乗りのしない様子のグラウクスを塀の方へ引っ張って行った。「父さんとは親しかった?」

「彼のことは、姉さんを別にすれば、うちの家族の誰よりもよく知っていたよ。彼は僕のヒーローだった…僕が知っているうちで、一番すごい人だった。僕は彼みたいになりたかったんだ。将軍としての彼も知っているよ。ゲルマニアに行ったから。」

グラウクスは驚いて足を止めた。「叔父さんもゲルマニアに行ったの?」

ペルシウスは彼の腕を掴んで引っ張って行った。「ああ。君のお父さんは軍隊を指揮するのに忙しくて、めったに家に帰らせてもらえなかった。オリヴィアはひどく淋しがって、それに、マルクスが父親を知らずに育つのを心配して、マルクスを連れてゲルマニアに行こうと決心したんだ。マルクスはまだ5つだった。お父さんは何年も家に帰っていなかった。オリヴィアは淋しくてたまらなかったんだと思う。姉さんはその計画を僕に打ち明けて、ついて来て欲しいって言ったんだ。僕にはわくわくするような冒険に思えた。だから、喜んでついて行くことにした。」 ペルシウスは塀の上を手で払い、小石を拾って小川の方へ投げた。彼は腰を下ろし、グラウクスに隣に座るように合図した。少年はためらわずに座った。どんな情報のかけらでも欲しかった。「長くて厳しい旅だった。僕が想像していたより、ずっと大変だった。特に、山を越える時には。1ヵ月以上かかった。それで、やっと着いてみたら、お父さんはライン・ドナウ沿岸の連隊を視察に行っていて留守だった。彼は何十という連隊の総司令官だったんだ。すごく広い地域の…何万という兵士たちの最高責任者だった。その頃のゲルマニアは戦乱状態で、お父さんは数え切れない程の戦闘を指揮していた。」

「勝ったの?」

ペルシウスは笑い声を上げ、感に堪えないといった風に首を振った。「ああ、もちろん。勝ったとも。」

叔父が笑っている理由がよく分らなかったので、グラウクスは真面目な顔で訊いた。「怪我をしたことは?」

「時々ね。でも、いつも回復した。とても強い人だった。身体も、心も。」

グラウクスは脚を曲げて腕で膝を抱えこみ、頬を膝にのせて、自分と一番年の近い叔父をしげしげと眺めた。「どんな人だったの?つまり、将軍としてじゃなくて、一人の人として。」

「彼にはちょっと…近寄り難いところがあった…とても大きな責任を抱えていたからね。重荷を背負っていたんだ。でも、家族と一緒の時はまるで別人だった。とても優しくて、親切だった。ここに帰った時、ゲルマニアの戦争から離れていた時は、結構呑気で、とても面白い人だった。すぐに気の効いた言葉が出てくるんだ。すごく頭のいい人だった。本当は頑固で、意志が強くて…正直言って、恐い人なんだけどね。でも、マルクスと一緒にいる所を見ると、明るくて冗談好きで…オリヴィアといる時は本当に優しい、愛情に溢れた人だった。二人を愛していたんだ。」

「なら、どうして軍を辞めて家族と一緒にいなかったの?」

「出来なかったんだ。彼は皇帝に選ばれて、命令に従わなくてはならなかった。それに、本当は軍隊の生活も好きだったんだろうと思う。やりがいのある、責任の重い仕事が。彼はローマを愛していたし、自分の力の及ぶ限り国に奉仕したかったんだ。だからって家族を愛していなかったわけじゃない。本当に素晴らしい人だった、君のお父さんは。」ペルシウスはまた石を拾って投げた。石は近くのひな菊に当って花を飛ばしてしまった。「本当に悲しいよ…彼がもういないのは。」

「まだ生きているかもしれない。」

ペルシウスは背筋を伸ばし、その馬鹿げた考えを追い払おうとするように両手を広げた。「いや…いや、グラウクス、空しい望みを持つのは止めなさい。生きているとは思えない。生きていたなら、帰って来た筈だ。」

「帰りたくても帰れなかったのかもしれない。どこかの牢に捕まっていて、どうして誰も捜しに来てくれないのかと思っているかもしれない。傷ついて、みんなに忘れられてしまったと思っているかもしれない。そうかもしれないじゃないか!もし、そうだったらどんなに辛いか考えてみてよ。怯えて、飢えて、独りぼっちで…ずっと長い間…」

「グラウクス…」

少年は塀を飛び降りて叔父の前に立った。「あり得ることだろう?」

「ほとんどあり得ないよ。」ペルシウスは宥めるように言った。

「死んだっていう証拠を見るまでは生きていると信じることにする。ぼくは父さんを捜しに行く。」

「この国はとんでもなく広いんだぞ。」ペルシウスは優しく言った。

「わかってるよ。」グラウクスはサンダルで地面をこすり、口を頑固にぎゅっと引き締めた。

「いや、わかってない。僕もわかっているつもりだった。ゲルマニアに行くまでは。マキシマスがここに帰って来た時なんか、僕はいつもこんな風に思ってた−彼は1日か2日、緑の丘を越えてちょっとした旅行を楽しんで来ただけなんだってね。とんでもない勘違いだった。山は険しかったし、地理はわからないし、そこらじゅうに追剥ぎや山賊はいるし。アルプスを越えてしまうともうほとんど旅篭もないんだ。真っ暗な森が延々と続いていて、とても恐ろしかった。ひどい悪天候もあったし…雪やら雨やら霙やら…ゲルマニアから帰る時にはマキシマスがついて来てくれた。君のお母さんと兄さんのことが心配だったんだ。あの人が一緒にいれば、襲ってくるような度胸のある奴はいなかったね。」

グラウクスは叔父の話をもっと聞きたかったので、また塀に腰を下ろした。「ゲルマニアにはどのぐらいいたの?」

「何ヵ月も。」

「そんなに?何をしていたの?」

ペルシウス恥ずかしそうに顔を赤らめた。「うーん…僕は兵士になったつもりだった。」彼は微笑んだ。「剣の使い方を習い始めたりもしていたんだ。でも、僕には兵士の素質がないことがわかった。本当にタフな連中だよ。でも、僕には君のお母さんと兄さんを見守るという大事な仕事があった。お父さんがそう望んだんだ。彼はずっと一緒にいるわけにはいかなかったから。任務があったからね。」

「母さんは何をしていたの?」

「まあ、ほとんどの時間は、お父さんを恋しがっていたよ。」突然、ペルシウスは笑い出した。マキシマスが基地に帰って来て妻と息子に会ったその夜の事と…翌日、将軍が部下たちに散々からかわれた事を思い出していた。

「何が可笑しいの?」

「いや、君には言えないな。」

グラウクスは呆れて天を仰いだ。ペルシウスは彼の肩をつかんで、「えーと、昼の間は、姉さんはマルクスの面倒を見て…それから、絵を描いていた。」と言った。

「絵?絵って何の?」

「グラウクス、君のお母さんはとても才能があったんだ。馬の彫刻なんてとても上手で…」ペルシウスはふと思い出して眉を上げた。「厩に馬の彫刻があるのは知っているだろう?」

「うん。昔、おもちゃにしていた。」

「お母さんが彫ったんだ。」

「本当?」グラウクスは驚いた。母の手で作られた物に昔から馴染んでいたと思うと胸が一杯になった。「ぼくの寝室にもいくつか飾ってある。すごいな。」

「姉さんは、マキシマスがゲルマニアに持って行けるように、自分とマルクスの小さな彫像を作って贈ったんだ。とても素晴らしいものだった。タイタスがゲルマニアに行った時捜したんだが、見つからなかったそうだ。姉さんはいつも絵を描いていた。マルクスの絵や君のお父さんの絵、農場の絵…」ペルシウスは突然、腕に痛みを感じて回想から醒めた。グラウクスが拳が白くなるほどの強さで彼の腕を握り締めていた。

「その絵、どこにあるの?」少年は勢い込んで訊いた。「見たいんだ。」

ペルシウスは悲しげに首を振った。「全部、火事で焼けてしまった。姉さんの他に絵を持っていたのは君のお父さんだけだが、彼の持ち物は全て消えてしまったんだ。多分、コモドゥスが全部焼き払うように近衛隊に命令したんだと思う。残念…いや、待てよ!まだ残っているものがあるぞ。お母さんの絵の事を話そうとしていたのに、君が邪魔をするから」ペルシウスは苛立ったふりをして、大げさな身振りでグラウクスの手を振り払った。「ゲルマニアで、お父さんが留守の間に、姉さんは彼の寝室の壁に大きな壁画を2つ描いたんだ。部下たちが彼のために石造りの家を建ててくれていて、姉さんは基地にいる間そこに住んでいた。壁画のひとつはこの農場の絵だった。マキシマスに頼まれて、オリヴィアは自分とマルクスをそこに描き込んだ。ふたりを描いた絵で残っているのはあれだけだろうな。」

グラウクスは目を丸くしてペルシウスを見つめていた。彼が何を考えているのか、ペルシウスにはよくわかった。「お祖父さんは絶対行かせてくれないよ。そんな旅をするには、君はまだ若すぎる。」

「じゃあ、叔父さんが一緒に来てよ。」彼はすがるような声で言った。

「グラウクス、駄目だよ。僕はもう結婚しているし、もうすぐ子供も生まれる。ここで責任を抱えているんだ。わかるだろう?」

グラウクスは簡単には諦めなかった。「壁画は2つあったって言ったよね。もうひとつは何の絵?」

ペルシウスは甥の首筋に手を伸ばし、愛情をこめて抱き寄せた。この少年を止める事など出来るだろうか?「君のお父さんの肖像画だ。将軍の礼装を身に着けて黒い馬に乗っている…背景はドナウ川とゲルマニアの山だった。彼の姿を完璧に捉えていた。外見だけでなく、性格まで表現していた。」ペルシウスはゆっくり首を振りながら言った。「どうやったらあんなすごい絵が描けるんだろう、と思っていたよ。」

グラウクスはペルシウスを見つめたままだったが、その目は遥か遠くを見ていた。彼は北東の方向を見た。「まだあるかな?」

「壁画?多分ね。あの家を取り壊すのは大変だろう。でも、塗りつぶされているかもしれない。君のお父さんの後にも、何人もの将軍があの家に住んだんだ。彼の顔を見たくなかったかもしれない。何と言っても、彼は反逆者にされたんだからね。」

「そんなの嘘だ。ぼくが証明する!」

ペルシウスはため息をついた。「グラウクス、自分の家族について知るのは大切なことだけど、君の両親と兄さんはもういないんだ。過去の事だ。あまりこだわらない方がいい。」

グラウクスは塀を飛び降りて、家の前の草に覆われた墓に向ってつかつかと歩いて行った。ペルシウスは渋々、その後を追った。

「どっちがどっちだか知ってる?」グラウクスが訊いた。

ペルシウスには一瞬何の事かわからなかったが、やがて静かに答えた。「お母さんが左側だよ。」

グラウクスは母の墓に歩み寄り、しゃがんでその上にそっと手をのせた。「母さん、どうして父さんにぼくの事を言ってくれなかったの?」

ペルシウスは少年の肩に手を置いた。「グラウクス、ゲルマニアから帰った後、お母さんの性格はちょっと変わってしまったみたいだったんだ。姉さんはここで育って、世の中の厳しい現実を知らなかった…君みたいにね。ゲルマニアで目の当たりにした残酷な現実に、姉さんはショックを受けていた。兵士たちがひどい怪我をしていて…自分の夫も。息子も病気で死にそうになった。多分、あの時初めてわかったんだと思う…人間の命が本当は、とてもはかないものだってことが。だから、君が生まれた時、姉さんはものすごく過保護になって、君の健康と安全についてはちょっと行き過ぎなぐらい気にするようになってしまった。君に何かあったらと、とても怖がっていて…また子供を失ったら、マキシマスは耐えられないんじゃないかと思っていたんだ。」グラウクスは驚いて、手を払いのけて立ち上がり、叔父の前に立った。「だから姉さんは、マキシマスが家に帰って来て君に直接会えるまで、君の事を秘密にしておく事にしたんだ。馬鹿な考えだったかもしれない。でも、誰も姉さんを説得できなかった。」

「『また』子供を失うって、どういう意味?マルクスはまだ死んでいなかったでしょう?どうして『また』なの?」

ペルシウスは唸った。「まったく鋭いな、君は。」

グラウクスは顎を上げ、答えを要求するように叔父を見つめた。

「君には姉さんがいたんだが、生まれて数日で死んでしまった。マルクスの妹だ。お父さんは会うことができなかった。その知らせを受けた時、彼はとても、とても悲しんだんだ。」

姉さん。ぼくには兄さんも姉さんもいたんだ。二人とも死んでしまった。「名前は?」

「マキシマだ。」

グラウクスは墓を見下ろした。「ここに埋葬されてるの?」

ペルシウスは正門の方を見て頭を振った。「いや。あの子の墓は一番背の高いポプラの下だ。花が植えられている。」

グラウクスは根元に秘密を隠している大きなポプラを黙って見つめ、静かに言った。「ぼく以外は、みんないなくなってしまった。ぼくの家族は5人−残ったのはぼくだけだ。」彼は深く息を吸った。「でも、行方のわからないのは一人だけだ。叔父さん、ぼくは母さんに約束したんだ。必ず父さんを見つけるって約束を…」

「グラウクス…」

「…生きていても、死んでいても。もし死んでいるなら、復讐する。」

「グラウクス、そんなこと無理だよ。自分を傷つけるだけだ。」

「ペルシウス、ぼくはもう傷ついてる。それが傷を癒す唯一の方法なんだ。どうしてもやりたいんだ。」

「グラウクス、ひとつ約束してくれ。」

若者は叔父を見つめた。美しい緑の瞳に情熱が溢れていた。

「冒険に出る前に、しっかり準備をすると約束してくれ。君は名騎手だし、弓矢も上手だが、それだけではだめだ。乗馬と弓の腕に磨きをかけて、新しいことも学ぶんだ。剣の腕も磨いた方がいい。君のお父さんは素晴らしい剣士だった。僕が師匠を見つけてやるよ。」

グラウクスはうなずいた。叔父が協力の姿勢を見せてくれたので、いくらか表情がやわらいでいた。「ありがとう。今すぐ始めるよ。」

「もうひとつ約束してくれ」自分の言葉の重さを強調するように、ペルシウスは甥の肩を掴み、軽く揺さぶった。「君のお祖父さんが生きている間は出発しないと約束してくれ。そんなことをしたら、ひどく悲しませてしまうことになる。」

「でも…」

ペルシウスは少年の肩に食い込むほど指を握りしめ、ゆっくりと言った。「君はまだ若い。時間はいくらでもある。」

ペルシウスの言葉はグラウクスには耐えられなかった。「時間なんてないよ!父さんはまだ生きているかもしれないんだ!1日待てば、それだけ父さんを死に近づけてしまうかもしれない。待てないよ!」

「もしそうなら、彼はどう思うかな…たった一人の息子が、自分を救おうとして死んでしまったら?まだ何もわからない子供なのに、そんなに大変な事をやろうとしたばっかりに。お父さんがどんな気持ちになると思う?グラウクス…マキシマスが死んだっていうのは、何の根拠もなく言っているわけじゃないんだ。今から5、6年待ったって状況は変わりはしないよ。」

グラウクスは腕を上げて叔父の手を振り払った。「5、6年?そんなの、永遠に待てって言ってるのと同じだよ!それに、お祖父様はまだ十年も二十年も長生きするかもしれないじゃないか。」

ペルシウスは首を振り、静かに言った。「いや。年々、顔にも身体にも老いが忍びこんでいるのがわかる。家族が側にいてあげなくてはね。特に、死んでしまった愛娘の、たった一人の子供は。」

グラウクスはぎゅっと目を閉じた。それから目を開け、振り返って母の墓を見つめ、「母さんに約束したんだ」とつぶやいた。

「姉さんが生きていたらこう言うよ…ちゃんと大人になって、どんな事態になっても対処できるようになるまで、そんな馬鹿な事は絶対許しませんって。グラウクス…君のお父さんには敵がいたんだ。連中はまだ生きているかもしれない。お父さんの敵は、今や君の敵だ。君がゲルマニアに現れてあっちこっちで質問を始めたら…わかるだろう?火の中に飛びこむようなもんだ。今は我慢するんだ。」

緑の瞳は涙で溢れていた。「父さんが牢獄にいるところばっかり頭に浮かぶんだ…ぼくらみんなが、父さんを裏切ったんだ。」

「牢獄になんかいないよ、グラウクス。彼は死んだんだ。僕も、あの後何年も君と同じように希望を持っていた。事実を認めなければと思った時は辛かったよ。お父さんは死んだんだ。」

「ぼくは…」涙が溢れた。グラウクスの瞳は森の奥の深い泉のようだった。「…父さんに会いたかった。叔父さんが羨ましいよ。父さんと知り合うことが出来たなら…どんなことでもするのに…どんなに短い間でもいい…」

ペルシウスは少年の汗ばんだ額に落ちた前髪を払ってやった。「お父さんを知る一番いい方法は、彼と一緒に働いていた人たち…彼を愛していた人たちに、会って話を聞くことだろう。でも、今はまだ駄目だよ、グラウクス。」

グラウクスは渋々うなずいた。「まだ…」彼は掌で目元を拭い、鼻をすすりながらつぶやいた。「今はまだだね。」

 

第5章 ローマ〜180年 晩春

セプティミウス・セヴェルスは円形競技場の北西側の入口を飾る石灰華のドーリア式半柱に凭れていた。巨大な石の建造物は頭上に聳え立ち、辺りを威圧していた。間もなくこの門から剣闘士たちが入場し、皇帝の御前を行進する。今日の戦闘の始まりを告げる儀式だ。ここと正反対の南東の端にはリビティナリア門がある。生き残ることが出来なかった不運な剣闘士たちと、戦闘で殺された野生動物が運び出される門だ。しかし、セプティミウスが興味を抱いている剣闘士はただ一人−彼はちゃんと生きていて、辺りの注目を一身に集めてる。彼は牢に座り、アリーナへと呼ばれるのを待っていた。

牢の周りには人が群がり、皇帝に挑んだ男を一目見ようと押し合い圧し合いしていた。セプティミウスは人だかりと朝の日差しを逃れて一息ついた。疑惑を裏付けるには、一目見るだけで事足りた。賞賛を集めている男は、まさにマキシマス・デシマス・メリディアス将軍だった。あの偉大な将軍がローマに来て、人々の賞賛を集める−これはセプティミウスも予想していたことだった。しかし、想像していたのは、大規模な凱旋パレードで煌びやかに飾られた戦車に乗り、何万という人々の歓呼の声と足元に投げられる薔薇の花びらに迎えられる彼だった。確かに、歓呼の声というのは当たっている。しかし、群集が褒め称える彼の技と勇気が発揮されている戦闘は、単なる見世物なのだ。

セプティミウスはもみ合う群集の背中を眺めながら、ほんの数ヶ月前までローマ帝国最高の将軍だった男、故マルクス・アウレリウス皇帝のお気に入りだった男の驚くべき運命に思いを馳せた。この短期間に、何という転落ぶりだろう!彼はもう、帝国の運命を左右する決断を下すことはないのだ。もはや彼は無力−無力以下だ。剣闘士厩舎の馬の一頭に過ぎない。彼の命は、持ち主の気まぐれとコロシアムの観客の移り気に委ねられているのだ。今や彼の知性も、力も知略も、ローマ市民の午後の気晴らしにしか役立っていない。彼らは自分たちよりさらにみじめな者たちの、自分たちよりさらに軽い命が奪われるのを眺めて、日々の労苦を忘たがっているのだ。

セプティミウスは彼の華々しいデビューを見逃した。もちろん、噂は聞いていた…戦士『スペイン人』の噂は彼自身より前にローマの門をくぐっていた。しかし、マキシマスが仲間の剣闘士を率いてスキピオ・アフリカヌスの無敵の戦車隊に逆襲をかけたという戦闘を、法務官は見逃してしまった。さぞ壮観だっただろう。戦車と戦車兵のばらばらの残骸が大アリーナの砂に散らばり−観客たちは衝撃を受け、そして歓喜したという。負け犬の逆転勝利。民衆は、そういうのが好きだ。彼らは牢の鉄格子から手を差し伸べ、『我らがヒーロー』に少しでも近づこうと…出来れば、手を触れようとしている。彼の名前を呼んでいる。『マキシマス!マキシマス!』彼の方へと花を投げ−菓子を差出しておびき寄せようとしている者さえいた。小さな子供ではあるまいに。彼は牢の奥の暗い隅に座ったままだった。無関心な様子で、威厳を保って−その顔には何の表情もなく、目は中空の一点を見つめていた。仲間の剣闘士たちは我が身をもって彼を不躾な視線から守ろうとしていた。しかし、衛兵たちが下がるように命令し、マキシマスを一人で別の房に入れる、と脅した。何と言っても、観客には賭け金を払う前にヒーローをじっくり観察する権利があるのだ。剣闘士を、外の広場の屋台に下がっている肉か何かのように値踏みする権利もある。

マキシマスの無関心な様子に、群集はますます熱心に彼の気を引こうとした。彼らの叫び声は熱狂に近くなっていた。特にたちが悪いのは女たちだった。彼女たちは、手の込んだ髪型に念入りな化粧をして透けたドレスを纏い、彼の前をこれ見よがしに歩き回っていた。彼は目もくれなかった。女たちは彼がお気に召したようだ。今日の出し物の終了後、召使いに彼を訪問する手筈を整えさせる女が続出するだろう。ローマに現れた最新のヒーローの、別方面の才能をお試しするためなら、彼女たちは金に糸目はつけない。

こいつらはマキシマスが誰なのか全然知らないのだな、とセプティミウスは思った。ローマ中を噂が飛び交っていた…彼はローマ軍の将軍だったという…自分でそう言うのを確かに聞いた、と言う者もいた。しかし、信じる者はほとんどいなかった。奴隷の持ち主が、自分の剣闘士の過去について大げさな話をでっち上げるのはよくある事だ。しかし、彼が誰だろうと、素晴らしく勇敢な戦士には間違いない…肝心なのはそのことで、あとはどうでもいい。彼は大胆にも、怒れる皇帝の前に堂々と立ち、挑戦した。観客は彼の助命を求めて叫んだ。その事実が彼の魅力を際立たせていた。そして、引き下がったのは嫌われ者の皇帝の方だった−マキシマスではなく。人々はマキシマスが将軍であって欲しくないと思っているのだろう−特権階級の人間ではあって欲しくないと。自分たちの仲間だと思いたいのだ。だからこそ、商人や旅人が街から街へと噂を運び、戦士マキシマスの評判が帝国中に広まっても、彼の正体は謎のままになっていたのだ。彼は「剣闘士のマキシマス」とか、「スペイン人の剣闘士」、あるいは単に「あの凄い剣闘士」などと呼ばれていた。

セプティミウスは幻想を抱いてはいなかった。帝国民の大多数はローマで何が起こっているかなどほとんど気にもとめていない。皇帝は次々に変わるが、その情報が辺境に届くのには何ヵ月もかかる。情報が届いたとしても、日々の生活に影響しない限り、気にする者はほとんどいない。国民の関心は自分たちの食べる物、住む家、健康−それだけだ。権力も政治もどうでもよいのだ。

一瞬、人だかりが動き、マキシマスの姿がちらりと目に入った。彼は動いていなかった。彼は石のベンチに、前腕を膝に置いて身体をやや前に傾げ、逞しい脚を大きく広げて座っていた。革の鎧と粗末な青いチュニックは、真鍮の鎧と毛皮にも負けぬぐらい彼の強さと恰好よさを引きたてている。セプティミウスそう思った。人々はチュニックからのぞく逞しい腕と脚を感嘆の目で眺め、しきりに賞賛の言葉を交わしていた。牢に繋がれた身となっても、彼は威厳と誇りをかけらも失っていなかった。

あそこに座って何を考えているのだろう?自らの運命を嘆いているのだろうか?それとも、諦めているのか?栄光ある地位からの転落を招いた失敗を−それが何だったのかは知らないが−悔やんでいるのだろうか?しかし、全ての事には理由があるのだ。セプティミウスはそう信じていた。人生は芝居のように−神々が書いた台本通りに展開してゆく。しかし、どんな人間も、台本を読むことは許されないのだ。喇叭が芝居の始まりを告げるまで。

しかし…セプティミウスはただの人間ではない。彼は自分の台本の中身を知っている。予言によって告げられている。彼は皇帝になる運命なのだ。かつての偉大なる将軍、マキシマスが権力の座から落とされたのと同様、運命によって決まっている事なのだ。しかし…マキシマスほどの人物が、こんなにあっさりと出番を終え、これほど不名誉な形で舞台を去ると信じるほど、セプティミウスは愚かではなかった。違う。彼がローマに来たのには…鎖に繋がれてやって来たのには、理由があるはずだ。その理由は、予言の中にある−と、セプティミウスは信じていた。マキシマスこそあの『獅子』なのだ。もう間違いない。マキシマス・デシマス・メリディアスは間もなく、それとは知らずに昔の知り合い、セプティミウス・セヴェルスを助けることになるだろう。シビラの巫女の予言通り、アントニーニ王朝に終りをもたらすのだ。そしてそれこそが、セプティミウスの信じるところによれば、そもそもマキシマスが生まれた第一の理由なのだ…セプティミウスが主役である芝居の脇役として。元将軍は思ってもみないだろう−自分の人生の究極の目的がその死にあるとは。その死こそが、帝国の次なる偉大な王朝−セヴェラン王朝確立の発端となるのだ。

群集から沸き上った不満の声に、セプティミウスは物思いから醒めた。衛兵がマキシマスと他の剣闘士たちをコロシアムの低部に戻しているところだった。今日の戦闘の準備にかかるのだ。ヒーローの姿をもう一目見ようとちらちら振り返りながら、人々は散った。彼らは隣人と競争で、大アリーナの上方に席を確保しようと走って行った。マキシマスのデビュー以来、円形競技場の外にはいつも長蛇の列が出来ていた。入場出来ずにがっかりして帰って行く者も多かった。セプティミウスは急ぐ必要はなかった。クッションつきの快適な席が最前列に用意されていた。

マキシマスは立ち上って背を向け、少し背をかがめて低い通路に入って行った。セプティミウスは彼の広い肩が通路に消えて行くのを見ていた。明らかに彼をリーダーと認めている他の剣闘士たちは、その後に従った。セプティミウスは石の壁を離れて歩き出そうとしたが、一人の女にふと目を引かれて足を止めた。女は連れもなく一人きりで、空になった牢の端に釘づけになっていた。他の人々はもういなくなったのに、彼女はついさっきまでマキシマスが座っていた場所をじっと見つめていた。その美しい顔は蒼ざめ、呆然としていた。すらりと背の高い身体は凍りついたようで、刺されでもしたように手で胃のあたりを押えていた。この暑さにもかかわらず、女は柔らかい青い外套の襟元をしっかりかき合わせていた。赤みがかった金髪がフードから少しだけのぞいていた。セプティミウスは興味をそそられて女に近づいた。「奥さん?」彼は話しかけた。彼女は喘ぎながら慌てて振り向き、ガラスのような青い目で彼に一瞬目をとめた。女は低い絶望のうめき声を上げて顔をそむけ、逃げるように去った。彼女の姿はコロシアム近くにつめかけた群集に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。

変だな、とセプティミウスは思った。あの女はアリーナに入る気はないようだ。しかし彼はすぐに女のことを忘れ、また自分のことを考え始めた。彼はポルティコの陰を歩き、彼のようなお偉方のための特別席まで行った。コモドゥスは今日もアリーナに来ているだろう。ここからはちょうど反対側の、日除けつきの豪勢な貴賓席に姉と一緒に座っているに違いない。残念、とセプティミウスは思った。マキシマスがアリーナに入場する時のあの洟垂れ小僧の顔が見たかった。彼は知人たちに挨拶しながら、すでに一言一句空で憶えている予言を思い起こした。『獅子』には仔がいる、と予言にあった。その『仔』がいずれ彼の悩みの種になると。マキシマスと話した時、息子が一人いると言っていた。多分、スペインに隠れているのだろう。マルクス…たしかそういう名だった…亡くなった皇帝に因んで名付けられていた。セプティミウスは足取り軽く入口に向った。あと数週間の内に、やっかいな仔を始末してしまおう。そうすれば枕を高くして眠れるだろう。要するに…予言された出来事を自分の都合のいいように変えられないのなら、運命を知っていたって何の意味があるだろう?

 

第6章〜第10章