Glaucus' Story:第11章〜15章

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第11章 もう一人の女性

グラウクスはスペインの陽気なメロディを口笛で吹きながらドアを開けた。ジョニヴァスはもう起きていて、軽い朝食を食べているところだった。

「昨夜は楽しかったか?」ジョニヴァスが声をかけた。

「もう最高でしたよ」グラウクスは答えた。「楽しみに水を差そうというあなたの努力にもかかわらずね。」ゼウスは彼の方を見て長い尻尾をぱたぱたと二度振ったが、すぐにテーブルの食べ物に注意を戻した。

「水を差そうとなんてしておらん」ジョニヴァスは犬に骨を投げてやりながら言った。「用心した方がいいと思っただけだ。この街には、若くて金持ちの夫をひっかけようと手ぐずね引いている女が山のようにいるんだ。ましてそれがマキシマスの将軍の息子で、男前も悪くないとくりゃ…」

グラウクスはジョニヴァスの向い側に座った。「ジョニヴァス、カタリナは寂しかっただけですよ。あの若さで独りぼっちで…未亡人なんですから。」

「カタリナはいい娘だがね。しかし、彼女だってイスパニアの羽振りのいい農場に住みたいと思うんじゃないのか?」

グラウクスは焼きたてのロールパンを取って割いた。

「彼女、食べるものはくれなかったのか?」

グラウクスはにやにやしただけで、昨夜から気にかかっている事に話題を変えた。「ジョニヴァス、父を愛していた高貴な女性って誰なんですか?」

ジョニヴァスは背を伸ばし、腹の上で手を組んで若者を見つめた。「皇帝の娘で、皇帝の姉で…皇帝の妻だった女性だ。」

この謎々に当てはまるのは一人しかいなかった。「ルッシラ姫?」

「そうだ。」

グラウクスは感嘆の口笛を吹いた。「本当に、何もかも超一流ですね。凄い美人だったそうじゃないですか。」

「本当に美人だったよ。彼女と君のお父さんが初めて会ったのは、二人ともまだ子供の頃だった。二人の間には、すぐに強い絆が出来た。二人は後に再会した…お父さんが今の君ぐらいの歳の頃だ。彼は既に、軍で高い地位に昇り始めていた。二人は恋に落ちて…」

「待って下さい…父も彼女を愛していたって事ですか?」グラウクスは甘い苺とクリームを口一杯に頬張ったまま訊いた。

「ああ、そうだと思う。真剣にね。」

「その時、彼女は結婚してました?」

「いや、まだだった。しかし、ルシアス・ヴァレスと婚約していた。お父さんはそれを知らなかった。彼女はそれを隠していて、夫婦として一緒になれるとマキシマスに思わせたんだ。」

グラウクスは鼻を鳴らした。「嘘をついていたんですね。」

「確かにそう言えるだろうな。彼を失いたくなくて必死だったんだと思う。それでぎりぎりまで本当の事を隠していたんだ。」

「二人は深い関係になったんですか?」

「わしは知らん。しかし、ありうることだな。彼女はマキシマスに夢中だった。彼女のような女性がそんな事をするのはとても危険なんだが…処女を失った身体で初夜の床に行くのは。彼のためなら、あえて危険を冒したかもしれない。」

「彼女のような人がどうしてここに来たんですか?」

「東方からの帰還兵がローマに疫病を持ち込んで、ルッシラとコモドゥスはここに避難して来たんだ。」

「なら、父さんはコモドゥスのことも昔から知っていたんですね。」

「ああ。しかし、仲は良くなかった。コモドゥスはその頃から甘やかされた、わがままな子供だった。それに、マルクス・アウレリウスはその頃からお父さんをとても気に入っていた。良くない組み合わせだ。」

「コモドゥスは子供の頃から父さんを恨んでいたんですね。」

「ああ。コモドゥスは姉に対して、かなり不自然な執着を持っていた。彼女がマキシマスと愛し合っているのを深く嫉んでいた。」

「父親も、姉も、僕の父さんを愛していた。」

「その通り。」

「ルシアス・ヴァレスと結婚した時、ルッシラはまだ父さんを愛していたんじゃないですか?」

「その通り。皇帝たちが基地に来た時、マキシマスは彼女の婚約の事を知ったんだ。彼は激怒した。そして傷ついた。彼女も傷つけてやろうと思って、愛していないと言ったんだ。とても悲しい状況だったな。」

「ルシアス・ヴァレスは若くして死んだんじゃありませんでしたっけ?」

「ああ。しかし、その前に、マルクス・アウレリウスは娘がマキシマスを愛しているのに気づいて、お父さんのイスパニアへの帰郷願いを許可した。少年時代以来初めての帰郷だった。皇帝は彼に正式に結婚する許可も与えた。その頃は、兵士は結婚を許されていなかったんだ。彼は故郷で君のお母さんに逢って、真剣に愛するようになった。わしはお母さんにも会ったが、お似合いだったよ…美人で、頭が良くて、逞しくて意志の強い女性だった。」

「父さんは決して母さんを裏切らなかったって言いましたよね…それは考えれば考えるほど、素晴らしい事に思えてきたんですが…でも、他の女性にも会ったでしょう。もし父にその気があったら、恋愛に発展したかもしれない女性はいましたか?」

「一人いたかな。」

「教えて下さい。」グラウクスはもうひとつパンを取って、椀に残ったピンクがかったクリームをこすり取った。

「これはお父さんと一緒に黒海に行った兵士から聞いた話だ。カシウス将軍の反乱を鎮圧しに行ったんだ。」

「カシウス将軍?マルクス・アウレリウスが死んだと言って、皇帝になろうとした男ですか?あのカシウス将軍?」ジョニヴァスはうなずいた。「父さんは反乱を鎮圧する手助けをしたんですか?」

「彼が鎮圧したんだ…ほとんど、彼一人で。マルクス・アウレリウスの帝位を守ったんだ。」

グラウクスは感心して首を振った。「父さんについて、僕が知らないことはまだまだたくさんあるんだなあ。皇帝が父さんを愛したわけですね…コモドゥスが憎んだわけだ。」

「そして、お父さんは皇帝を愛していた。何しろ、お父さんはまだ小さい頃に家族を失って、その後すぐ軍に入ったんだ。マルクス・アウレリウスが彼の父親のようになった。」

「で、その女性というのは?」

「すごい美人の、若い赤毛の奴隷で…娼婦でもあった…」

「娼婦?娼婦に恋をしたんですか?」グラウクスは大きな笑い声を上げた。「それでも、その女とも寝なかったって言うんですか?」

「わしの話を聞いとるのか?」グラウクスは肩をすくめて、ジョニヴァスに続けるように促した。父は本当に複雑な人間だったらしい。

「彼女はカシウスを殺すのに協力したらしい。君のお父さんの命を救ったとさえ言えるかもしれん。」

「名前は?」

「憶えていないんだ。」

「まだそこにいると思います?」グラウクスは黒海まで馬でどのぐらいかかるだろうか、と考えた。

「いや。彼女はお父さんのはからいで自由を与えられて、ローマへ行ってそこで新たな人生を始めたということだ。」

「見つけるのは難しいでしょうね。」

「まず不可能だな。もう娼婦はやっておらんだろうし、結婚したかもしれん…どうなったかは神のみぞ知る、だ。」

「ルッシラはどうなったんです?」

「ローマで帝位が競りにかけられ、権力争いが始まった時、彼女は亡命を余儀なくされた。ルッシラは意志の強い、頭のいい女性だったからな。権力を望んだ連中には脅威だった筈だ。ローマ初の女性の皇帝にもなりうる人だから。連中は彼女を排除したがった。息子のルシアスも一緒に亡命した。噂では、彼女は客死したらしい。」

「それは確かですか?隠れているのかもしれません。」

「そうだな。確かなことはわからん。」

「ローマに行く理由はこれで三つだ。ルッシラと…その名前のわからない元娼婦と…クイントスと。三人とも、父さんの事を何か知っているかもしれない。それに、クイントスとは決着をつけないと。」

「馬鹿なことはするなよ。お父さんはローマへは一度も行ったことはなかったし、その娼婦とは二度と会わなかったはずだ。それを言うなら、ルッシラにも、クイントスにもだ。」

「でも、行方不明になった後、父さんが何をしていたかはわからないじゃないですか。もしかしたら、逃げた後ローマへ行って、そこで新たな人生を始めたかも。大きな都市だし、紛れこむ事も出来たはずです。」

「雲を掴むような話だな。」

「でも、他に掴むものもないでしょう?ジョニヴァス、父さんの話をこんなにたくさん教えてくれて感謝しています。この5年間、父さんは何というか…ぼんやりした影みたいなもので、掴もうとすると消えてしまっていたんです。あなたのおかげで、本当の父の姿が見えてきた気がします。ずっと人間的な姿が。」

「君のお父さんは偉大な人間だったが、神様だったわけじゃない。普通の人間だった。ただ人より頭が良くて、強くて勇敢だった…しかし、それだけだ。神様を愛することはできない。崇拝するだけだ。マキシマスは深く愛されていた。」

「それが災難の元にもなったみたいですね。ゲルマニアで、話を聞けるような人を他に知りませんか?」

ジョニヴァスはためらった。「もう行ってしまうのか?」

「もうすぐ行きます。他の基地にも、父を知っていて何かの手がかりをくれる人がいる筈です。それに、父がよく通っていた川沿いの街道を見てみたいんです。」

「寂しくなるよ。」

グラウクスはにっこりした。「僕も寂しいです。でも、戻って来ますから。必ず戻ります。そうだ…その証拠に、ゼウスを置いて行きます。どうですか?こいつはあなたのことが好きみたいですし。」

「それは、とても嬉しいよ。」ジョニヴァスは自分の膝に乗っている犬のつやつやした頭を撫でた。「ボーナにルシアスという男がいる。子供の頃からお父さんを知っていた男だ…14歳ぐらいからだったかな。その後、彼は補助軍に配属されて音信不通になっていたんだが、再会したんだ。お父さんが…行方不明になる数ヶ月前に。」

「まだそこにいますか?」

「おそらく。お父さんが軍からいなくなる直前、二人はとても親しくしていた。」

「他には?」

「いるが、どこにいるかわからんのだ。もしかしたら、一番肝心な男かもしれん。名前はマルシアヌスといって、フェリックス第三連隊の軍医長だった。お父さんの親友だった。彼は、お父さんがいなくなった翌日に消えてしまった…彼の持ち物の大半を持って。君のお母さんの手紙とか…」

グラウクスはぱっと立ち上がった。「どこにいるんです?」

ジョニヴァスは目を細めてマキシマスの息子を見上げた。「だから、わからないって言っただろう。」

「じゃあ、誰が知っています?」

「多分、誰も知らんよ。グラウクス、座りなさい。お父さんの従者のキケロが詳しく話してくれたんだ。その後、キケロも消えてしまった。」

「ローマで。」

「そうだ。」

「すべての道はローマに続いているみたいですね、ジョニヴァス。」

「そうかもしれんな。」

「キケロはどんな話を?」

「皇帝が死んだあの恐ろしい夜…何があったのか気づいていたのは彼とマルシアヌスだけだったんだ。」グラウクスが口を挟もうとしたが、ジョニヴァスは手を上げて止めた。「二人には止められなかった。二人とも、コモドゥスの近衛兵たちに厳重に見張られていたんだ。マルシアヌスは軍医だったから、皇帝の死亡診断書を書くように強制された。彼はキケロに、皇帝は絞殺されたと言ったそうだ。首に残った痣を、お父さんも見たに違いないと。だから、お父さんがコモドゥスに忠誠を誓うのを拒否すると、新皇帝はクイントスに彼を逮捕させたんだ。彼は頭を殴りつけられ、手を縛られて引き摺って行かれた。でもその前に、奴らはマキシマスに、彼の家族も殺すつもりだと言っていたそうだ。」

グラウクスはもう黙っていられなかった。「だったら、父さんは知っていたんですね…家族が殺されるって事を。」

「ああ。かわいそうに。自分が死ぬ事より辛かっただろう。」

グラウクスは興奮のあまり足踏みをした。「だからこそ、必死で戦って逃れたのかもしれない。ジョニヴァス、父さんはイスパニアに帰って来たかもしれないんです…ほんの数時間違いで、家族を救うのに間に合わなかったのかもしれない。それで、二人を埋葬したのかも。誰かが埋葬したのは確かなんです。丁寧に、愛情をこめて。」

「それならどうして、そのままそこにいなかったんだ?」

若者の心はまた沈んでしまった。「わかりません。もしかしたら、近衛隊が戻って来て、見つかってまた連れて行かれたのかもしれない。父さんは牢にいるかもしれないと思っているのはそのせいなんです。ローマの刑務所かも。ジョニヴァス、僕はローマに行きます。マルシアヌスもローマにいるかもしれない。」

「それはないだろう。」

「どうしてわかるんですか?」

「あの男についてひとつ確かな事がある−キリスト教徒だってことだ。彼は君のお父さんへの仕打ちを見てすっかり嫌気がさして、その晩すぐに軍を離れたんだ。どこかのキリスト教徒の集落に行くと言っていたらしい。」

「そうか…それは手がかりにはなりますね。そういう集落は人里離れた所にあるんじゃないですか?」

「わしは知らん。」

グラウクスはため息をついた。「ジョニヴァス、もう答えは尽きたようです。疑問ばかり増えてゆく…でも、手がかりも増えました。明日、ボーナへ出発します。その後、ローマに向う前に寄りますよ。いいですか?」

ジョニヴァスは黙ってうなずいた。何が言えただろう?彼はこの明るく無鉄砲な若者に、ずっとここにいて欲しかったのだ。彼がそばにいると、若い頃のマキシマスといるような気がするのだ。

 

第12章 コロシアム〜180年

故マルクス・アウレリウス皇帝を追悼する大剣闘大会−150日連続の剣闘試合−は、ローマでも未曾有のものだった。そして、瞬く間にその花形となった剣闘士も、ローマの民衆がかつて見たこともないような男だった。普段は剣闘試合を見ないローマ市民たちでさえ、常連客と席を争うようになっていた。朝から夕方頃のマキシマスの出番まで、人を雇って席を確保しておかせる者までいた。「マキシマス!マキシマス!マキシマス!」群集は朝アリーナに入場したとたんに叫び出し、彼らのヒーローがついに姿を見せるまで叫び続けた。

マキシマスの前例のない連日の登場は、多くの人間に金をもたらしていた。しかし、一番の恩恵を受けているのは何と言っても彼の持ち主、抜け目のないプロキシモに他ならなかった。持ち馬の栄光のおかげで、今や彼は大金持ちだった。彼はローマでも最上流の人々と付き合うようになっていた。お偉方連中はスペイン人剣闘士の情報欲しさに、彼を両手を広げて歓迎した。全てマキシマスのお陰だった。当のマキシマスは、狭い牢に閉じ込められて日々を過ごしていた。

プロキシモはマキシマスに好意を持たぬよう気をつけていた。そんなことになれば、自分の奴隷を毎日毎日、戦闘に送り出して死に直面させる事が出来なくなってしまう。マキシマスの驚くべき過去は忘れて、ただの所有物だと考えなければいけない。人気のある剣闘士は、試合と試合の間に2、3日の休みを取るのが普通だった。しかし、群集のマキシマスを求める声があまりに大きいので、彼は怪我をしていようと、疲れていようと、毎日試合をさせられていた。結局のところ、あの男とていつ死ぬかわからないのだ。稼げるうちに稼いでおかなくては。マキシマスはただの所有物だ。寒さや雨が続いたり、街に疫病がはびこったりしてコロシアムが閉鎖されれば、あの男も休養を取る事が出来るだろう。

それにしても、マキシマスは何という拾い物だっただろう!プロキシモが人の疲れ切った男たちと共に彼を買った時、このスペイン人はほとんど死にかけていた。想像もしていなかった−彼がこれほどの才能と強さ、それに勇敢さを隠し持っていようとは。彼の力をかき立てているのは、新皇帝への激しい怒りだった。彼はそれをほとんど隠そうともしていなかった。何があの男を闘いに駆り立てているのか−それはプロキシモにはどうでもよかった。それが皇帝であろうと、他の何であろうと−皇帝が馬鹿な考えを起こして民衆の意思に逆らい、この人気剣闘士を殺そうとしない限り。新しい皇帝は若くて短慮だが、馬鹿ではない。皇帝は自重して、マキシマスが最後の闘いを闘う日をじっと待つつもりだろう…それが何年も先であればいいが、とプロキシモは思った。

それにまた…自分の所有するこの人気者を使って金を儲ける方法なら、他にもいくらでも考えつくことが出来た。男も、女も、プロキシモを始終追い回しては、あの剣闘士と夜を過ごさせてくれないかと持ちかけて来た。彼と一緒にたった1時間を過ごすだけの為にでも、連中は目の玉の飛び出るような大金を喜んで払う。しかし…マキシマスを連日闘わせた上、夜は金持ち客の相手をさせるのでは、いくらあの男でも荷が重過ぎるだろう。アリーナに送りこむ時は最上のコンディションでないと危険だ。彼の相手には帝国中でも最高ランクの剣闘士が送りこまれて来るのだから。しかし…アリーナが閉鎖されるような事態になれば、マキシマスのサービスを競りにかけるのもやぶさかではない。当人がどんなに抵抗しようと。言うことを聞かせる方法ならいくらでもある。プロキシモはいざとなれば、いくらでも無慈悲になれる人間だ。 彼を一目見るだけのために、人々は道に長蛇の列を作っている。鎖に繋がれた彼の肌に触れる為なら、いくら払うだろう?プロキシモは巨万の富を思い描いて身震いした。

 

マキシマスはコロシアムの客席の下にある牢に静かに座り、アリーナへの出番を待っている餓死寸前の獣たちの叫び声を聴いていた。あのような状態では、動物は動くものになら何にでも襲いかかり、引き裂くだろう。彼は一度、この種の見世物を目撃しかけた事があった。数家族のキリスト教徒たちが−小さな子供たちもいた−ライオンの餌にされ、血に飢えた5万の観客が歓声を上げていた。彼は吐気とめまいを感じて顔をそむけた。虐殺の、ほんの始まりの部分しか見ることが出来なかった。虐殺を目の前にして自分が何も出来ない事に、マキシマスはひどく動揺した。彼はもはや、一声で戦争を始めることも止めることもできたあのマキシマス将軍ではないのだ。自分の運命さえ意のままには出来ない。あの死を目前にした家族たちと同じだ。

においは音よりもっとひどかった。死と腐敗と恐怖のにおい。動物と人間のにおい…吐瀉物、排泄物、尿、汗。時々彼は、襲いかかる忌まわしいにおいを防ごうと、手で鼻と口を覆って座っていた。

今日はどんな相手と闘うのだろう?プロキシモは対戦相手について情報や助言をくれることもあったが、ほとんどの場合は何も教えてくれなかった。マキシマスの敵はアリーナに出て初めて判明した。これまで生き残ってこれたのは、どんな状況にも対応出来るように軍が彼を訓練してくれたからだ。彼の脳は状況を瞬時に判断し、行動に移すことが出来た。何年もゲルマニアで手強い敵と戦ってきた経験の賜物だ。彼は一人と闘いながらもう一人の動きを捉え、同時に部下たちに命令することが出来た。部下たち。彼の『処刑』の後、皆はどうなったのだろう?彼の部下たちは、今何処にいるのだろうか?

ジュバが通りかかり、友人の肩を励ますように叩いた。マキシマスは黒い肌のヌミディア人を見上げて少しだけ微笑んだが、心はすぐにまた暗い考えに沈みこんだ。彼にはもう誰の命を救う力もない−というのは、正確ではないかもしれない。彼がいなければ、仲間の剣闘士のほとんどはローマへ来て最初の戦闘で確実に死んでいただろう。仲間たちは彼を信頼した。そして彼は、負け戦を勝利に導いたのだ。仲間は彼を非公式な指揮官と認めるようになった。みんなは彼を必要としている。その信頼を裏切ることはできない…妻と息子を裏切ったようには。家族を殺した男を殺すことが、せめてもの償いをするチャンスなのだ。そのためなら、どんな試練にも耐えるだろう。それでも彼は、自分を許すことは決して出来ないだろう。コモドゥスに背を向けるという致命的失敗をした自分を。ただ、コモドゥスを支持するふりさえすればよかったのだ。そして、内部から彼を倒す工作をすればよかったのだ。それなのに、愛する皇帝の死にショックを受けていた彼は、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。オリヴィアとマルクスの彼の失敗の代償を払った…その命で。もうすぐ自分もそうするだろう。それが当然の報いなのだ。

喇叭が響き、本日の最後から二番目の試合を告げた。観客の歓声が増した。声を合わせて「マキシマス!マキシマス!」と叫ぶ声が既に聞こえていた。彼の出番は次だ。

プロキシモが牢の鉄格子の所に現れて「スペイン人!」と怒鳴った。「あとの者はそこにいろ。」

マキシマスは立ち上がり、歩き出そうとした。その背中に、仲間たちが静かに声をかけた。「力と名誉を、マキシマス。」彼はうなずいた。牢の戸が軋み音を立てて開き、護衛が二人、彼の横についた。プロキシモが盾と剣を手渡した。

「兜はなしか?」マキシマスは武器を受取りながら訊いた。

「ああ。客はお前の顔を見たがっている。今日の相手は二人だ。」

「同時に?」

「もちろん。ズッカバールではその2倍以上殺しただろう?忘れたのか?」

「あいつらはど素人だった。」

「今日のやつらもそうだ。お前に比べたらな。それを忘れるな。だがそんなことより、ゆっくりやって殺しを楽しむんだ。観客にも楽しませてやれ。客を楽しませるんだ、マキシマス。まだわかっとらんようだが、お前はもう兵士じゃない。客を喜ばせるのがお前の仕事だ。」 マキシマスは彼を睨みつけた。自分の言葉はまた無視されるだろう。それはプロキシモにもわかっていた。こればかりは何とも手の打ちようがない。

「敵の武器は?」

「一人はお前と同じく盾と剣、もう一人は三叉と網だ。」

「皇帝は来ているか?」

「マキシマス、やつの事は忘れろ。」

「来ているのか?」

プロキシモはため息をついた。「ああ、来ている。他にも5万人来ている。誰のために闘っているのか忘れるな」スター剣闘士を導いてアリーナの門へと続く暗い洞窟を歩きながら、プロキシモは唸るような声で言った。

「忘れられるか」マキシマスが言った。

「いい試合をな。後で熱い風呂とマッサージとご馳走が待っているぞ。」

「おれを買収するつもりなら、もっとましなもんを用意しろ。」

「お前の賭け金の分け前ならもう充分過ぎる程やっているだろう。あんまり早く自由を買い戻されても困るんだ。」プロキシモは笑顔を浮かべたが、マキシマスはにこりともしなかった。彼の心は既にこれから始まる闘いに集中していた。彼は目の前の仕事以外の全ての事を頭から追い払った。他の事に気を取られている余裕はない。

歓声は既に耳を聾せんばかりだった。「マキシマス!マキシマス!マキシマス!」彼の血は湧き、全身に力が漲るのを感じた。心臓が早鐘を打ち、呼吸も速くなった。彼はゆっくりと、深く息を吸いこみ、気を落ち着かせようとしながら自分の名前が呼ばれるのを待った。名前が呼ばれたら、彼はコロシアムの階段を駆け登り、熱い砂の上へと踏み出すのだ。彼が人殺しをするのを見たがっている連中の興奮の叫びの中へ。

彼は目を閉じた…息を吸って…吐いて…集中しろ…そして、聞こえてきた…彼の名が。門がうなりを上げて開き、マキシマスは陽光の中へ歩み出た。薔薇の花びらと観客の賞賛の声が彼の頭上に降り注いだ。彼はアリーナの反対側の貴賓席をちらりと見上げた。コモドゥスは確かにあそこにいる。ルッシラも、その幼い息子も。彼は対戦相手に向かって真直ぐ歩いて行った。二人とも顔を覆う面のついた兜をかぶっていた。彼は二人の男の目を順に睨みつけた。二人は視線を落とした。彼は勝てると確信した。再び喇叭が鳴り響き、二人は同時に皇帝の方を向いて、声を合わせて「死に行く我らより、皇帝に敬礼を」と言った。マキシマスは冷笑を浮かべ、剣をくるりと回した。彼の自信に溢れた態度に、観客は大喜びした。彼はルッシラを完全に無視して敵の方を向いた。二人は兜の覆いを下ろして顔を隠した。彼はかがんで砂を一掴みすくい上げ、掌にこすりつけてからゆっくりと地面に落とした。

 

ローマに戻って以来、ジュリアは一度も剣闘試合を見に行こうとしなかった。老いも若きも、金持ちも貧乏人も、あのゲームに夢中になっているようだったが。奴隷が虐待されたり、殺されたりするのを見物するなんて、考えただけで嫌だった。しかし…今日はこうして、コロシアムの外で時間をつぶしながら、マキシマスが来るのを待っている。例のスペイン人剣闘士のことは、彼女も聞いていた。聞かない方が無理だった。しかし、彼女は気にも留めていなかった…「その男の名前はマキシマスというんです」とメイドが告げるまで。

ただの偶然だろう、と彼女は思った。マキシマスはゲルマニアにいる。彼は将軍だ。しかし、噂に聞いた彼の姿はあまりにもぴったりだった。そこでジュリアは青い外套をはおり、勇気を奮ってコロシアムの牢に群がる人ごみを抜けて行った。かの剣闘士の姿を一目見ようと。人ごみの隙間から彼の姿を見るまでは、彼女は冷静だった。6年ぶりに見る彼−18の頃から愛し続けてきた男−マキシマス将軍だった。彼女は彼の名を呼ぼうとした。声が出てこなかった。彼は気づかなかった。彼女は狂ったように人を押しのけて前に進み、鉄格子を掴んで彼の名を叫んだ。彼女の叫び声は群集の声に紛れてしまった。彼は一度だけ顔を上げた。その目は中空を睨み、何も見ていなかった。

絶望に打ちのめされ、彼女は凍りついたようにそこに立ち尽くしていた。彼が闘いに呼ばれて行ってしまった後にも、長い間牢の中を見つめていた。吐気がこみ上げた。彼女はやっとの思いで路地に駆け込んで膝をつき、胃の中に何もなくなるまで吐き続けた。彼女はふらふらと家まで戻り、ベッドにもぐりこんで苦しい涙を流した。横たわったまま、彼女は考えようとした−一体どんなむごい運命のいたずらが、ローマでもっとも敬われた将軍を剣闘士奴隷に変えてしまったのだろうか。彼にもう一度会いたいと祈っていた。でも、こんな再会は望んでいなかった。何と言う皮肉だろう−彼がとうとうローマに来たというのに、今や自分は自由民で、彼の方が奴隷なのだ。嘆きと絶望と、激しい怒りと…罪悪感の入り混じった感情にかられ、彼女は枕を殴りつけた。手紙に返事が来なかった時から、彼女は何度も、彼が病気ならいいと思った…何度も。こんなに愛させておいて突き放した彼を罰する残酷な方法を想像したこともあった。私は毎日、毎時間、彼の事を考え続け…毎晩夢に見ているというのに、彼は完全に私を無視した。そうだ…私は彼を罰してやりたかった…傷つけて、仕返しをしたかった…でも、こんな事は望んでいなかったのに。奴隷になるなんて。

メイドが心配してジュリアの親友のアポリナリウスを呼んだ。彼はジュリアの蒼ざめて涙の跡のついた顔、腫れ上がった目を見てショックを受けた。彼は泣き続けるジュリアを抱きしめ、彼女をこんな気持ちにさせるマキシマスを密かに呪った。一体何だって、ジュリアはあの男の事を忘れてしまえないんだ?

「ジュリア、落ち着いて」アポリナリウスはそう言って彼女のもつれた髪を撫でた。「君のせいじゃない。」

「私、ひどいことを願ったわ…あの人がひどい目に遭えばいいって…奥さんも…」

「願ったからといってその通りにはならないよ。マキシマスが奴隷になっているのは、君とは関係ない。」

「彼が憎いの」ジュリアは友人の肩を涙で濡らした。

「違うよ…まだ愛しているんだ。愛と憎しみは両方ともとても強い感情だから、間違えやすいんだ。」

「ああ、アポリナリウス、どうしたらいいの…どうしたらいいの?奴隷のまま死なせるなんて出来ない。出来ないわ。」

「君にはどうしようもないよ。」

ジュリアはアポリナリウスから身体を離したが、彼はしゃくり上げている彼女の肩を抱き続けた。「やっと…やっと忘れかけて…たのに。もう二度と会う事もないと思って…彼のことはわす…忘れて前に進もうと…なのにこんな…」彼女はしくしくと泣いた後、やっと言葉を継いだ。「あの人は近くに来たのに、やっぱり手が届かない。ああ、アポリナリウス…あの人、死んでしまうわ。」

アポリナリウスはジュリアの顔を肩に引き寄せて、落ち着くまで優しく揺さぶった。「愛しているの」彼女は囁いた。「愛しているの。」

「ああ、わかってるよ。」

「どうしたらいいの?」

「ジュリア、僕はああいう野蛮なゲームは気味が悪くて見たことがなかったけど、もしそれが彼を忘れる助けになるのなら、一緒に試合を見に行ってあげるよ。」

「どうしてそれが彼を忘れる助けになるの?」

「彼を違う目で見られるようになる。君にとって彼は将軍だ…威厳と気品をそなえた偉大な人間だ。アリーナに這いつくばっている野獣みたいな彼を見たら、将軍の想い出は消えて、早く忘れられるかもしれない。君の愛した男はもう存在しない…そこにいるのは彼の肉体だけだってことがわかるだろう。」

「アポリナリウス、優しいのね。でも、私はあんなものを見るのは我慢できそうもないわ。あなたもそうなんじゃないかしら。」

「嫌だけど、君のためなら我慢するよ。いつにする?」

ジュリアはためらわなかった。「明日。」

「明日?まあ…なんとかなるだろう。でも、まともな席を取るにはよっぽど早く行かなくちゃならないよ。」

「ありがとう。あなたは本当にいい友達だわ。あなたの言う通りだといいけど。」

 

ジュリアはアリーナの柱廊をふらふら歩き、円形競技場の外の広場をさまよい歩いて時間をつぶしていた。その朝早く、彼女はアポリナリウスと並んで客席についたが、一匹目の動物が殺されたところで逃げ出した。アポリナリウスは親切にも、夕方にマキシマスが出てくるまでずっとそこにいて席を確保しておいてくれると言った。ジュリアはこれから始まる闘いを少し忘れようとした。しかし、どちらを向いてもマキシマスの事を思い出さずにはいられなかった。通りすがりの人々が彼の名を口にしていた。商人が『マキシマス』人形を売っていた−金属性の剣闘士人形で、塗料で黒い髭と青いチュニックが描かれ、大きな、勃起したペニスのついたグロテスクな代物だった。人々は列をなして買い求めていた。男性的強さの象徴として玄関に架けておくのだ。剣闘士は街に溢れていた。彼女は今まで気がつかなかったのだ。剣闘士は建物のモザイクに描かれ、大理石の彫像にもなっていた。コロシアムの石灰華のアーチにも、剣闘士の名が刻まれていた。観客たちが中へ入るのを待ちながら刻むのだ。彼女はマキシマスの名があちこちに刻まれているのに気づいた。

観客の声が熱を帯び、中の5万人と外の5千人が彼の名を合唱するのが聞こえ出した。彼女はようやく、渋々席に戻った。一日中剣闘試合を見ていた友人のアポリナリウスはすっかり興奮している様だった。顔は紅潮し、身振りは大げさになっていた。「ジュリア!丁度いい所に帰って来たね!彼はもうすぐ登場するよ!」

「こんな所に一日中いさせてごめんなさい。いろいろ、恐ろしいものを見たでしょうね。」彼女は言った。

「ああ…ああ。ひどいもんだ。そこらじゅう血だらけだよ」しかし、アポリナリウスの目はマキシマスがもうすぐ登場する扉に釘付けになっていた。彼が息を切らしているのは、嫌悪のためだけだとは思えなかった。「座って、座って!」彼は隣の席を叩いたが、目は動かさなかった。

喇叭が鳴り響いた。門が開き、一人の男の姿が現れた。観客から割れんばかりの歓声と拍手が起こった。ここから見ると、彼は何て小さく見えるんだろう、とジュリアは思った。何て孤独に見えるんだろう。彼女は友人の手を取って強く握りしめたが、彼はマキシマスにすっかり気を取られていた。「あれが彼?」彼は訊いた。

「そうよ。」

「ずいぶん軽装だなあ…ほら、革の鎧と盾だけだ。兜もない。今日見た殺され役だって、もっとましな恰好をしていたよ。」まわりの騒音がひどくなり、アポリナリウスはほとんど怒鳴るような声になっていた。

「殺され役って?」

「ああ…到底勝ち目はなくて、ただ殺されるために出てくる連中のことだ。一日ここに座っていれば、いろいろ覚えるよ。」

ジュリアは目を凝らし、この二階席から可能な限りしっかりとマキシマスを見た。彼は自信に満ちていた。砂の上を大股で歩くしっかりとした足取りも変わっていなかった。怪我をしている様子はなかった。少なくとも、この距離から見えるような傷はなかった。ジュリアは少し安心した。マキシマスがコモドゥスの方を見て、剣闘士の挨拶を口にするのを拒否した時、彼の顔に嘲笑が浮かぶのがはっきりと見えた。

 

マキシマスは膝を曲げ、つま先でバランスを取って深くリズミカルに呼吸した。彼は敵が先に動くのを待った…敵は動いた…二人同時に…観客は歓喜の叫び声を上げた。マキシマスは盾を上げて剣を防ぎ、同時に高くジャンプして、彼の脚を絡め取って倒そうとした網を避けた。彼はそちらの男を先に倒す事に決めていた。マキシマスは優雅に回転して、投網を持った剣闘士の無防備な肩に容赦なく剣を振り下ろした。血しぶきが空を飛んだ。男が悲鳴を上げ、傷に手を当てようとすると同時に、マキシマスは腹部を一撃して彼を片付けた。男は石のように倒れた。観客は大喜びで叫んだ。

「今の見た?今のを見たかい?凄い、あの男は天才だよ、ジュリア!」アポリナリウスが叫んだ。「もう一人片付けてしまったし、剣に加えて三叉も手にいれたし…こんなの、想像もしてなかったよ!あんなに自信たっぷりで…すっかり彼の思いのままじゃないか!」

ジュリアはどちらに驚いたらいいのかわからなかった−マキシマスの剣闘士としての素晴らしさか、知的な友人の意外な興奮ぶりか。マキシマスはかけらも変わっていない。彼は今でも、どこをとっても将軍そのものだった。彼女は目を閉じ、知っている全ての神々に祈りを捧げた。どうか、彼の命をお救い下さい。

目を開けると、兜をつけた剣士が襲いかかるのが見え、彼女は身を竦ませた。しかしマキシマスは剣で簡単に攻撃を防ぎ、背を屈めて突進した。剣が男の喉に突き刺さり、続いて三叉が腿に刺さった。マキシマスが剣と三叉を引き抜くと血が吹き出し、瀕死の男も、彼を殺した男も、共に血塗れになった。マキシマスは剣を地面に突き刺し、二つの死体と皇帝に背を向けて歩き出した。観客の叫び声を無視し、彼は先程入場した門の方へ真直ぐ歩いて行った。門は開かなかった。ジュリアは胃のあたりをぎゅっと掴んで、恐怖の目で皇帝の方を見た。皇帝はこわばった、意地の悪い笑いを浮べていた。その隣には彼の姉が緊張に蒼ざめた顔をして座っていた。マキシマスはゆっくりと振り返り、自分を苦しめている男を見た。かなり距離があるにもかかわらず、彼の唇が歪むのがジュリアにも見えた。「ああマキシマス、挑発しないで。お願い、どうか挑発しないで」彼女はつぶやいた。

観客は徐々に静かになった。それぞれ違った意味で強力な二人の男は、血に濡れたコロシアムの砂をはさんで睨み合った。ゆっくりと、マキシマスはコモドゥスの方へ戻り始めた。皇帝は貴賓席の前に立っていた。神経質な笑い声が客席まで聞こえるようだった。『われらがヒーロー』が嫌われ者の皇帝に立ち向かうこの瞬間を、観客はこよなく愛していた。しかし、彼が自分の命を危険にさらしている事も承知していた。どんなに強い対戦相手より、コモドゥスの方が危険だった。マキシマスが近づいて来るのを見ながら、皇帝はどうするか考えているようだった。ゆっくりと、観客の合唱が再び始まった。それは徐々に大きくなり、やがて5万人が声を合わせて叫び出した。その中には、桟敷席のジュリアとアポリナリウスの声もあった。「マキシマス!マキシマス!マキシマス!」彼らは叫んだ。彼の命を救うことの出来るのは、自分たちの声だけなのだとでも言うように。

ようやく、皇帝は近衛隊長と相談し、一度だけうなずいた。マキシマスの背後の門がゆっくりと開いた。彼は立ち止まり、コモドゥスをもうひと睨みすると、背を向けてアリーナ底部の暗闇に消えて行った。

満足した観客たちはゆっくりと散って行った。仲間とのお喋りに、われらがヒーローの一挙手一投足を再現しながら。明日の午後、彼が再び敵をしとめに登場するまで、今日の記憶をゆっくり反芻しながら待つことにしよう。

 

第13章 河畔の道

グラウクスは頭を後にそらして目を閉じ、暖かいそよ風に髪を靡かせた。目を閉じていても、他の感覚が視覚を補い、脳に素敵な情報を送り続けていた。石畳に鋭くリズミカルに響く馬のひずめのぽくぽくという音。松の葉を吹きぬける風の歌うような音。揺れる樫の葉のひそやかな笑い声。近くを流れるドナウ河を行き来する舟の櫂の水音。船頭たちの声。鬱蒼とした葉陰の作る光と影の縞模様をくぐりながら、彼の顔は暖かさと冷たさを交互に感じた。松の樹液のきつい匂いと、道端に咲き乱れる野の花の甘い匂いが入り混じり、あたりは不思議な匂いがしていた。彼は深く息を吸いこみ、さまざまな芳香が肺の中で混ざり合うように一瞬息を止めた。彼は父の世界に浸りきり、満足のため息をついた。身体のリズミカルな揺れが突然止まり、彼は背筋を伸ばして目を開けた。ご主人が注意散漫になっているのをいいことに、アルターが道草を食っていた。馬は瑞々しい木の葉や、灰色の石畳の隙間に伸びた黄緑色の草をくしゃくしゃと食んでいた。グラウクスは漆黒の首をぽんぽんと叩いた。自分が辺りの景色を楽しむ間、愛馬にも休憩を取らせてやってもかまわなかった。

森を抜けると、道の両側には農地が果てしなく広がり、遠くに見える紫色の丘に溶けこんでいた。低い石の垣根が穀物畑を仕切り、深い緑から黄金色までのさまざまな色が不規則な幾何学模様を描き出していた。道から遠く離れた丘のふもとに農家が身を寄せ合うようにかたまって建っていた。もう見慣れた泥と枝の壁と藁葺き屋根を見ていると、時がこのローマ帝国の片隅を置き去りにして行ってしまったように思えた。距離も様式もかけ離れているにもかかわらず、農家のたたずまいを見ているとグラウクスの胸は痛んだ。彼は自分の家が恋しくなった−マキシマスの築いた農場が。でも、ここはマキシマスが人生のほとんどの時間を過ごした地なのだ。父がどんなにこの田園風景を愛したか、グラウクスにはよく分った。彼はこの地に魅了されていた。人間の手がほとんど触れていない未開の地。

彼は物思いに耽り、アルターをマイペースで歩くにまかせた。彼らは再び、北方辺境に特有の鬱蒼とした森に入った。昔、兵士たちが奇襲攻撃を防ぐために道路際の木々を残らず切り倒した。しかし、草の間から顔を出した若木たちは、人間の思惑に邪魔されることなくぐんぐんと育った。今は道の上に伸びた大枝の濃い葉陰が緑の天蓋を作り出している。この同じ道をかつて、父に率いられた大軍が旅したのだ。武器を持ち、命令あらば即座に戦闘に入れる体勢で。グラウクスは自分がその一員になったところを想像してみた。ローマの栄光のためなら死をも厭わぬ6千の兵士たち。その一員になったら…目の前の枝に覆われた道に、彼はそんな軍隊を思い描いて見た。黄金の鷲章旗、風に靡く軍旗…数百騎の騎兵隊、それに続く数千の歩兵隊。全てを率るのは、駿馬に乗った誇り高き将軍…

夢の中のように、目の前にその光景が広がった…将軍が、長いワインレッドのケープを靡かせて彼に向って来る。グラウクスは父の顔を思い描いてその光景を完成させようとした。将軍は近づいて来た…しかし、彼の顔はもどかしいほどぼやけていた。あとちょっとのところで、グラウクスの想像力が追いつかないのだ。若いスペイン人は鞍の上でゆっくり背筋を伸ばした。彼の想像上の軍隊の姿が妙にはっきりと見えて来た…1万の兵の足音に地面が震えるのを感じるほどだった。彼はどきりとして、出し抜けに顔を上げた。 空想ではなかった。本物の軍隊が狭い道をこちらに向って来ていた。彼は急いでアルターの向きを変えて木の間に入った。将軍が通り過ぎる前に、何とか向きを変えて彼を見ることが出来た。将軍はまったく無表情で、真直ぐ前を見ていた。たしかに違う。あれは父さんではない。あの男は当時のマキシマスより年寄りだし、髭もない。疲れた目の下はたるみ、鼻の両側には深い皺が刻まれていた。あれはもしかしてヴェスニウス将軍だろうか?ヴァンドボーナの基地で父の家に住んでいる?

グラウクスはすっかり魅了され、連隊が行進するのを眺めていた。兵士たちは寸分違わぬ、秩序だった動きをした。将軍が先頭で、その副官たちが続き−両側を重武装の衛兵が固めていた。次は騎兵隊、その後を歩兵隊、そのさらに後を、さまざまな装備を満載した荷車を引くラバたち、そして数十人の職人が続いていた。彼らなしでは軍は機能しないのだ。行列は延々と続いた。グラウクスは連隊の様子を細かいところまで覚えこもうと、食い入るように見つめていた。歩兵隊の最後尾が近づくと、彼は声をかけた。「兵隊さん、どこへ行くんですか?」

兵士のひとりが怒鳴り返した。「ヴァンドボーナだ!」

やっぱりそうか。これが現在、ヴァンドボーナ基地に駐屯している連隊なのだ。あれは本当にヴェスニウス将軍だったのだ…父さんの家に住んでいる男。グラウクスはようやくアルターを道に上げ、連隊の最後尾が遠い木々の中に消えるまで見つめていた。視界から消えた後も音は響き続けていた。彼はうきうきした気分で、遅れを取り戻そうとアルターのスピードを上げた。次の街で今夜の宿を見つけなくては。まだ数時間はかかる。

 

二日後、グラウクスはカストラ・レジーナの城壁近くまで来ていた。門は街に入る人々で混み合っていた。順番を待ちながら、彼は街を睥睨している河畔の砦を眺めた。カストラ・レジーナの街はヴァンドボーナよりは小さかったが、ローマ式の石の建物も記念碑もちゃんとあった。彼は空腹で疲れきっていたので、最初に目に入った旅篭に向った。その旅篭は石造りではあったが、屋根は低く藁葺きで、ローマ式というよりゲルマニア式に近かった。しかし、ちゃんと中庭があり、そこが食堂になっていて、比較的清潔そうだった。グラウクスはここに泊まる事に決めて帳場の列に並んだ。若い女がいい匂いの食事をのせた盆を持って通りかかり、彼は微笑みかけた。彼女は微笑みを返してきた。しばらく後、彼は食堂に席を取った。先程の女が他の給仕に、彼はあたしのお客だから手を出すな、と言った。

 

部屋の中に誰かいる。なぜ目が覚めたのかはわからなかったが、グラウクスは目が完全にあく前に剣を手に立ち上がっていた。一緒に寝ていた若い女は驚いて彼の名を呼んだが、突然顔にランタンを突きつけられて悲鳴を上げた。

グラウクスはぼんやりした影に向って突進し、敵の武器を払い落とそうと、男の手のあたりに剣を振るった。男が叫び声を上げた。グラウクスは剣を思いきり振り下ろしながら、女に逃げろと叫んだ。剣が肉を斬る感触があった。ランタンが砕ける音が聞こえた。彼は暗闇の中でさっと振り返ってさらなる攻撃に対して身構えた。

「おい、武器を捨てろ!」男の声が怒鳴った。グラウクスはベッドと壁の間で背を屈め、部屋の中に何人の盗賊がいるのか見定めようとした。少なくとも3人はいる、と彼は思った。彼はベッドに跳び乗り、機敏な身のこなしで反対側に着地した。砕けたランタンの火が絨毯に燃えうつりかけているのを必死で叩き消そうとしている音が聞こえた。グラウクスは途惑いながら、荷物を掴んで盾のようにかざし、再び剣を振るった。別の男が汚い言葉でののしり、武器を床に落とした。グラウクスがドアノブを掴んだ瞬間、二つ目のランタンに火が灯り、床に自分の影が見えた。そのの影の頭の上に突然別の影がさした。振り返る間もなく、目も眩むような激痛が走り、彼は丸太のように床に倒れた。

 

頭の割れるような痛みに、彼はようやく意識を取り戻した。彼はうめき、顔を撫でようとしたが、手が思うように動かなかった。彼はうめき声を押し殺して何とか片目を開けた。見下ろすと、手首が縛り合わされて、足首を縛ってあるロープに繋げてあった。彼は宿の自分のベッドに裸で横たわっていた。男たちが回りを囲んでいた。彼は肘をついて上半身を起こした。

頭上にぬっと顔が現れた−兜をかぶった顔。「なんだ、生きていたんだな」男は冷たく言った。部屋の暗さと金属の兜のせいで顔はほとんど見えなかった。「名を名乗れ!」

グラウクスはうめき声と吐気を押えこんだ。「そういうあんたは誰だよ?」彼はかすれた、うなるような声で言った。

男は顔を上げ、ランタンをかざしてグラウクスに自分の顔がはっきり見えるようにした。兵士だった。「さあ、名を名乗れ」彼は命令した。

グラウクスは頭を振り、部屋がぐるぐる回るのをやめてから答えた。「僕が誰か知らないんなら、どうして襲ったんだ?」

「言っておくが、我々が君を攻撃したのではない…攻撃してきたのは君の方だ。我々は自己防衛をしただけだ。」

「あんたたちは声もかけずにいきなり僕の部屋に入って来たじゃないか。ドアには鍵がかかっていたのに。他にどうしろっていうんだ?」

「グラウクスというのは君の通称か?」兵士は縛られた男の質問を無視して言った。

「そうだよ。だったら何なんだ?」

「君はマキシマス将軍の息子なのか?」兵士が訊いた。

「そうに決まってる」兵士の後ろから低い声が響いた。グラウクスを尋問していた兵士が横に下がり、その背後に別の兵士があらわれた。明らかに、この男が隊長だ。彼はグラウクスに冷たく笑いかけ、ベッドの端に腰を下ろした。

「縛られた相手には強気なんだな」捕虜は嘲笑った。

男は眉を上げた。「うむ、君は確かにマキシマス将軍の息子だ。間違いない。」彼は感心したように言ったが、すぐに厳しい口調になって、「グラウクス君、君は私の部下3人に傷を負わせた。困ったことだ。」と言った。

「僕は自己防衛をしただけだ。あんたらはノックもしなかったし、入る前に自己紹介もしなかった。」彼は言った。グラウクスはベッドを囲んでいる6人の男を順番に睨みつけた。「たった一人を相手に6人がかりか?」

「相手がマキシマス将軍の息子とあれば、用心するに越したことはない。」

「拍子抜けしたんじゃないのか?」

男は薄い唇を僅かに歪めて笑った。「いや、そんなことはない。」

「百人隊長、僕は逮捕されたって訳かい?」

「いや。」

「なら、縄をほどいてくれ」グラウクスは大胆に要求した。

「駄目だ。」

「なあ、あんたたちの狙いが何なのかは知らないが、縄をほどいて服を着させてくれ。そうしたら、文明人らしく話をしようじゃないか。あんたたちはちゃんとした軍人だろう?」

百人隊長は少しためらった後、兵士の一人に合図した。兵士は前に進み出てグラウクスの手首と足首のロープを切った。その間、残りの兵士たちは剣で捕虜の胸に狙いをつけていた。

若き民間人は、すっかりうんざりして荷物の近くに立っている男を押しのけ、チュニックを探し出して頭からかぶった。ケープは着けなかった。彼らにフィビュラを見せたくなかった。彼は腰を下ろし、5本の剣を顔の近くに突きつけられながらブーツを履いた。「百人隊長、僕をどこに連れて行くつもりだ?」彼は足首を膝にのせて靴紐をしっかり結びながら言った。

「ヴァンドボーナだ。」

グラウクスは立ち上がって黒いチュニックの皺を伸ばした。「せっかくだけど、そこにはもう行ったよ。僕は西へ行くんだ。」

「そうはいかん。君の馬は厩か?」

「そうだ。悪いけど、鞍をつけておいてくれないか?何なら、ここの宿代も払ってくれてかまわないよ。」

百人隊長は若者の強がりを無視して、「さあ、ぐずぐずするな」と命令し、グラウクスをドアの方へ押した。

若者は狭い階段をゆっくり降りた。背中に3本、胸に2本の剣が突きつけられていた。アトリウムには野次馬が集まっていた。結構、とグラウクスは思った。彼が誘拐される所を多勢の人間が目撃している。兵士たちに連れられて外に出ると、厩の中から馬の大きないななきが聞こえ、続いて木の扉が粉々に砕けた。宿の主人が怯えながら、怒れる黒い雄馬を必死で抑えようとしていた。何とか馬勒を着けることはできたようだが、鞍は床の藁の上に転がっていた。アルターは身体をひねり、前脚を跳ね上げて蹄で空を掻いた。宿の主人は恐れをなして手綱を離した。アルターは急におとなしくなった。彼はたてがみを振ってグラウクスの方へと歩いてきた。兵士たちはぱっと散った。馬は大きな黒い頭を下げ、ご主人の手に鼻面をこすりつけた。グラウクスはその耳を撫でて、愛馬に「よくやった」と囁いた。

兵士の一人がグラウクスの足元に鞍を放って、着けて乗るように命令した。兵士たちは剣を抜いて馬を取り囲んでいた。

「手を出せ」馬上の百人隊長がロープを手に命令した。

「そんな必要はないよ。ご覧の通り、僕はあんたたちについて行くつもりになっているんだから。」

「手を出せ!」彼は怒鳴った。グラウクスは仕方なく手首を差出した。父は手を縛られ、武器をもたない状態で3人の近衛兵を殺したという。僕がその2倍を殺せる見こみはあるだろうか?無理だな、とグラウクスは思い、ヴァンドボーナに戻る覚悟を決めた。宿の外には20人あまりの人が集まっていた。彼はわざとひとりひとりの目を順に見つめた。彼らに自分を憶えておいて欲しかった。入口の所に、あの給仕女がショールを顎の下でかき合わせ、身をすくめて泣いていた。彼は悲しげに微笑みかけた。少なくとも、彼女は彼のことを憶えていてくれるだろう。

 

二日後の夜、休みなしの強行軍の後、疲労困憊のグラウクスは馬に乗ってヴァンドボーナの門をくぐった。彼を囲んでいる兵士たちも同じく疲れ切っていた。暗闇の中、彼らは左折して基地の中央路に入り、延々と続く兵舎の横を進んだ。兵士たちは眠っているのだろう。彼らは基地の裏手の、ジョニヴァスが牢だと言っていた建物に着いた。

金属の扉が軋み音を立てて開くと、グラウクスは身震いした。彼は乱暴に中に押しこまれ、後ろから荷物が投げ込まれた。彼は立ったまま目の前の石の壁と革の軍用寝台−狭苦しい牢の中の唯一の家具−を眺めていた。扉がばたんと閉められ、錠が差し込まれる音ががらんとした建物中に響き渡った。彼は真暗闇の中に取り残された。完全に囚人になったわけだ−彼の父親が捕らえた捕虜を収容するために建てられた、この冷たい石の牢の中で。

誰か、彼がゲルマニアにいるのが気に入らない人間がいるらしい。

 

第14章 ヴィラ〜180年

奴隷運搬車に乗り込みながら、マキシマスは長い、フードのついた茶色い外套の裾を踏んで少しよろめいた。扉が乱暴に閉められるやいなや、鞭の音がして馬車は急発進した。彼は木の床に投げ出されて手と膝をついた。彼が座席に腰を下ろして外を見ると、馬車の背後で剣闘士学校の門が閉まるのが見えた。そしてコロシアム前の暗い広場が見えてきた。夜に剣闘士学校の外に出たのは初めてだった。いつもは人で溢れている街はがらんとして、動くものといえば聳え立つ壁の陰をよろよろ歩く酔っぱらいだけだった。

マキシマスは鉄格子を掴み、外套のフードの下から外を見て、プロキシモが彼をどこへ連れて行こうとしているのか見定めようとした。彼が知っているローマは剣闘士学校と円形闘技場の間の道だけだった。外は暗く、位置は余計にわかりにくかった。こんな夜に連れ出されるのは尋常ではない。それも、彼一人が。他の剣闘士たちは後に残されて指揮官のことを心配していた。特にジュバは動揺していた。剣闘士たちが寝床についた後、突然、4人の武装した衛兵がやって来てマキシマスに牢から出るように命令し、何を訊く暇もなく連れ去って行った。中庭で、衛兵たちは彼に革帯で出来た鎧を投げてよこし、着るように命令した。この鎧はズッカバールでの最後の試合以来使っていなかった。その後、手首に巻きつけた革の上に鉄の枷が締められ、彼は外で待っている奴隷運搬車まで連れて行かれた。牢を振り返ることさえ出来なかった。仲間たちは鉄格子に顔を押しつけて見送っていただろう。これが何事であれ−尋常ではない。

マキシマスは数日の休みを取れるのを楽しみにしていた。疫病がまた流行の兆しを見せて、ローマの街を恐怖に陥れていたので、コロシアムも、他の公共施設も一時的に閉鎖されていた。あの忌むべきコモドゥスでさえ、一般大衆と接触するのを恐れて宮殿に閉じこもっていた。プロキシモは疫病が剣闘士学校に入りこんだ時の事を考えて、価値の高い剣闘士を避難させようとしているのだろうか?それなら…なぜ鎧を?別のアリーナで闘わされるのなら、この鎧ではあまり防御にならない。革帯の隙間を剣の刃が簡単に通るからだ。彼はずっと以前にこの鎧を使うのをやめ、もっと頑丈な一枚革の鎧を使っていた。以前の人生の唯一の名残であるブーツはいつものように身につけていた。清潔な青いチュニックが鎧の下の身体を包んでいた。脚は、いつものように出していた。

狭い街路は暗く、無人で、明かりといえばそこここに揺れる松明か、家の鎧戸の隙間から漏れる黄色いランタンの光ぐらいだった。マキシマスが閉じ込められている場所からは、ローマを囲む丘に点々と踊っている灯は見えなかった。金持ち連中が、人口過密の都市から−群集や悪臭や騒音、そして疫病から−逃れて住んでいるのだ。馬車は建物、門、円柱、送水路、大理石像などを抜けて進んで行った。彼に見えるのはぼんやりした影だけだった。白い円柱のついた大きな公共建造物が見えたかと思えば、他の建物の陰に隠れてしまった。ローマの中心地は、何もかもが場所を争っているようだった。並木のあるカーブした大きな壁は、コロシアムさえ小さく見えると聞かされていたサーカス・マキシマスだろう。彼はその向うの丘に聳える豪華な大理石の宮殿を見ようと目を凝らした。コモドゥスはあそこにいる…ルッシラも。マキシマスは馬車の横から後に移って、宮殿の影が見えなくなるまで睨みつけていた。

馬車は無人の街路をかなりの時間をかけて進んだ後、アヴェンティン・ヒルを南下して巨大なオスティアン門を抜けた。マキシマスは馬車の後の窓から外を見ながら都市の城壁がどんどん小さくなっていくのを見て驚いた。彼らはヴィア・オスティエンスを止まらずに進んでいた。道の両側にはローマの死者を弔う墓がびっしりと続いていた。簡素な墓石もあれば、手の込んだ塗装を施した記念碑もあった。マキシマスはすっかり混乱し、かなり不安になっていた。彼はフードを目深にかぶり、馬車に揺られながら考えた−今度は何が待ちうけているのだろう。

ローマを遠ざかるにつれ、道は真直ぐに、平らになってきた。マキシマスは馬車の緩やかな揺れと馬の蹄のリズミカルな音に眠気を誘われた。彼は自分がうとうとしているのに気づかなかった。馬車が急停止し、マキシマスは危うくまた床に投げ出されそうになった。彼は目をこすったが、鉄格子の向うには暗闇しか見えなかった。どのぐらいの時間馬車に乗っていたのかはっきりわからなかった。南京錠の軋む音が聞こえ、馬車の扉が開いた。月に照らされたプロキシモの顔が目に飛び込んできた。「降りろ」剣闘士の持ち主は怒鳴った。

「ここはどこだ?」マキシマスは馬車を降り、湿った夜気の中に踏出しながら訊いた。

彼の主人はそれには答えずに、「手を出せ」とだけ言った。

マキシマスは強情に手を外套の下で後に組んだまま出そうとしなかった。「何故だ?ここはどこだ?」プロキシモは衛兵に向ってうなずいた。4人の武装した男がマキシマスの腕を掴んで無理矢理前に出させ、手首の枷に長い鎖を取り付けた。マキシマスは思った−どこに行くにしろ、楽しい事にはなりそうもない。

衛兵たちはマキシマスの向きを変えさせ、カーブした石畳の道を歩き始めた。暗い道の両側には露に濡れた背の高い生け垣が続き、松明のついた鉄柱が等間隔に並んでいた。歩きながら、マキシマスは遠くに波音が聞こえるのを感じた。微かに潮の匂いがする。カーブを曲がると、マキシマスは急に立ち止まって眼をこらした。彼の目の前には壮麗なヴィラが月の光に白く輝いていた。ヴィラは松明で明るく照らされていた。二階建てで、正面側全体に部屋を日差しから守るポルティコがついていた。ポルティコは白い大理石の円柱で支えられ、円柱の間には優雅な衣装の女神たちの大理石像が並んでいた。上階の部屋には大きなテラスがついていて、鉢植えの椰子や花が飾られていた。ヴィラの中心部は完全なドームになっていた。入口にある趣向を凝らした庭が訪問客を迎えていた。涼しい音を立てている噴水や装飾的な柱廊が池に映っていた。個人の家でこれほど豪華なものがあるとは、マキシマスは想像したこともなかった。

ヴィラから召使いが一人現れ、彼らに近づいて来た。彼はマキシマスをちらりと見たが、プロキシモに話しかけた。「連れて来てくれましたか?」

「はい、ご覧の通り。」プロキシモは少し苛立ったような声で言った。

「こちらへどうぞ。」

プロキシモが彼の後に続き、その後で2人の衛兵が手枷をつけられた剣闘士の鎖を引き、さらに2人の衛兵が続いた。衛兵たちはこの屋敷にすっかり圧倒されている様子だった。マキシマスはためらい、鎖を引いて立ち止まった。この豪勢なヴィラに入りたくなかった。

プロキシモがぱっと振り向いて言った。「マキシマス、ぐずぐずするな。」

「プロキシモ、ここはどこだ?誰の家だ?」

「しつこいぞ。質問ばかりするな」プロキシモは苛立っていた。

「どうも気に入らん。プロキシモ、何でこんな所に来たんだ?」

彼の持ち主はこの質問を無視して、衛兵たちに彼を急がせるように命令した。庭園には何十種もの花の香りが漂っていたが、マキシマスには楽しんでいる余裕はなかった。彼の警戒心は急速に募っていた。4人の衛兵が彼の背中を押し、鎖を引いて、ヴィラの正面の二重扉の中へ入らせた。

家の中も、外観と同様に豪華だった。彼らは二階に吹き抜けになっている大きな八角形のアトリウムに入った。天井は完全なドームになっていて、中央に天窓があり、大きな広間に光が入るようになっていた。黒と白の精緻な幾何学模様のモザイク床に明るい月の光が射していた。ドームは縦溝のついた白大理石の円柱が支えていた。円柱はアトリウムの中心部に大きな円を描いていた。柱廊の奥の壁には松明とランタンが瞬き、黄金の影を踊らせていた。

「こいつをどうしましょう?」プロキシモが召使いに訊いた。

「とりあえず、あそこの柱の間に繋いで下さい。」

衛兵たちは即座にマキシマスの手首の鎖を引いて腕を開かせ、背中を押して2本の柱の間まで行かせた。鎖は強く引かれ、マキシマスの腕は身体から45度の角度に引っ張られた。二本の鎖は円柱に回して固定された。辛い姿勢ではなかったが、身動きが取れなかった。

円柱の向うには、三方に、彫刻を施された厚い樫のドアが並んでいた−6つあった。ドアの間にはアルコーブがあり、そこにも等身大の大理石像が並んでいた。アトリウムの一辺は壁がなく、花をつけた低木や優雅な噴水の並ぶ中庭に続いていた。マキシマスの位置から、中庭の向うにさらに部屋が並んでいるのが見えた。そのひとつは書斎のようだ。

プロキシモは彼の奴隷に最後の一瞥をくれてから、召使いについて中庭に入り、その向うの書斎に消えてドアを閉めた。4人の衛兵は気をつけの姿勢でヴィラの玄関のところに立っていたが、あたりの様子をよく見ておこうと目をさまよわせていた。ローマに帰ったら同僚に話してやろう。どうせ信じないだろうが。

自分がここに連れて来られた理由は何だろう、とマキシマスは考えた。剣闘士の持ち主が集まって秘密の試合でもやるのだろうか?ローマの大円形闘技場が閉鎖されている今、そんな物を見るのに金を払う富豪がいるのだろうか?

マキシマスは右足から左足へと体重を移しながらプロキシモの消えた場所を見つめていた。ひどく長く感じられる時間が経った後、ようやく扉が開いた。マキシマスは背筋を伸ばした。プロキシモが戻ってきたが、彼は一人の男と一緒だった。背の高い、痩せた男。髪は豊かな白髪の巻毛で、流れるような白いトーガを着ていた。彼は微笑みを浮べてマキシマスの方へ歩いて来た。二人の目が合った。その黒い目に警告の光があったのは気のせいだろうか?

「マキシマス?」男が訊いた。

彼は一度だけうなずいた。

男は手を伸ばしてケープの紐を引いた。ケープは鎖に繋がれた男の足元にふわりと落ちた。男はそこに立ったまま、視線をマキシマスの身体を頭から足元まで動かし、また頭まで戻した。彼は手入れの行き届いた指を伸ばしてマキシマスの顎を持ち上げた。彼は剣闘士の横に回りながら爪で喉元をゆっくり下へ辿り、右肩まで降ろした。男は指でマキシマスの腕をなで下ろし、後に回った。手が膝に触れ、腿の外側をなで上げるのを感じてマキシマスはびくりとした。マキシマスは必死の形相でプロキシモの方を見たが、奴隷の持ち主は背を向けたまま中庭を眺めていた。剣闘士は胃の中に湧き起った吐き気を押えようと深く息を吸い込んだ。

「素晴らしい。彼は完璧です。」男は囚人の前に戻りながら言った。「一週間お借りします。もっと長くなるかもしれない。」

「大変結構です」プロキシモは答えた。「あとは値段の相談だけですな。」マキシマスは驚愕のあまり口もきけなかった。

痩せた男は最後にもう一度値踏みするように剣闘士を見て、書斎の方へ戻って行った。

マキシマスは必死で腕をねじったが、思った通り鎖はびくともしなかった。プロキシモはそれほど彼を蔑んでいるのだろうか−この男に彼のサービスを売ることが出来るほど?彼の持ち主は、こんな風に彼を裏切るほど金の亡者なのだろうか?他の持ち主たちが、値段さえ折り合えば誰にでも剣闘士を貸し出しているのはマキシマスも知っていた。しかし、プロキシモにはその気がないようだった…今夜までは。

プロキシモと男が再び現れるまで、1分が1時間にも思える時間が過ぎていった。交渉は成立したらしく、二人ともとても満足しているように見えた。マキシマスはプロキシモの注意を引こうと鎖を振ったが、彼はわざと自分の奴隷の視線を避けていた。彼はマキシマスの方を見ようともせずにドアへ向かった。

「プロキシモ!」マキシマスが呼んだ。返事はなかった。「プロキシモ!」今度は怒鳴った。

奴隷の持ち主は振り返って彼を睨みつけた。「静かにしないか!」

「どこへ行く?ここに置いて行くつもりか?」

「そうだ。」

マキシマスは呆然とした。「プロキシモ、やめてくれ。こんなことはやめてくれ。頼む。」彼の声には僅かに恐怖の兆しがあった。それはどんなに危険な状況でも聞いたことのないものだった。彼は興味深そうにマキシマスを見た。この奴隷はついに弱さを見せたのだろうか?恐怖をあらわにしたか?

奴隷の持ち主は白髪の男に丁寧にお辞儀をした。彼は好奇心をあらわにして二人を見ていた。「すみません、こいつに話があるので少し二人にしてくれますか?」

プロキシモは彼のスター剣闘士のそばに来て彼を睨み、顔をつきあわせて立って、怒った声で囁いた。「将軍、知っての通り、コロシアムが閉鎖されて、おれの剣闘士たちは一時的に失業だ。やっかいなことに、それでもおれは連中を食わせなきゃならん。また連中はたくさん食うしな。金がないんだ。お前を1週間貸し出すことにした。もっと長いかもしれん。この取り引きで儲かる金でお前の仲間に飯を食わせる事ができる。そうじゃなきゃ、連中を鉱山にやらなきゃならん。お前のお陰で連中は助かるんだ。」

「貸し出すって、何のために?」マキシマスはその答えを知っていたが、訊かずにはいられなかった。

「向うの望むことなら何でもだ…いいか、何でもだぞ。聞いているか?金の半額はもう受け取った。1週間後に戻って来た時、もう半額を受け取る…彼がお前に満足したらな、将軍。必ず満足させろ。」プロキシモは背を向けかけたが、ぱっと振り向いて言った。「お前と数時間過ごすために、人がいくら払うか知ってるいるか?おれはいつも断って、お前が夜ゆっくり休めるようにしてやっていた。必要なかったからだ…今まではな。お前の勝利賞金だけで充分だったからな。」彼はドアに向かった。

マキシマスは喉元に怒りがこみ上げるのを感じた。「見世物のために人殺しをするのはこの世で最低の事だと思っていたが、どうやら間違っていたようだ。」

プロキシモは立ち止まって振り返った。「逃げようなんて考えを起こしているのなら、止めた方がいいぞ、将軍。おれが連れ戻しに来た時にお前がいなかったら、お前の自由の代償はジュバが命で支払うことになる。」プロキシモの狙い通り、マキシマスの顔から血の気が引いた。

「あんたはジュバを殺したりしない。あんなにいい剣闘士を殺すのは惜しいだろう。」

「お前に比べれば、やつの価値など無いも同然だ。」プロキシモはそう言いながらドアの所へ行って、護衛たちに囚人をしかっり監視するように念を押した。

マキシマスはショックと絶望と屈辱に打ちのめされてモザイクの床を見つめた。胸がむかついて吐きそうだった。彼の手は手枷からだらりと下がっていた。脚は何とか体重を支えていたが、それは単なる惰性だった。

男は衛兵たちの方をちらりと見て囚人に近づき、彼の頬を手の甲でそっと撫でて指を顎鬚の中に入れた。マキシマスは彼の顔を見られなかった。「話が聞こえてしまったのだが、マキシマス…君がこの…休暇のことを…知らされていなかったとは意外だったね。」彼はまた剣闘士の顎を持ち上げようとしたが、マキシマスは顔をそむけた。男は注意深く成り行きを見守っている衛兵たちをちらりと見た。彼はマキシマスの身体の向こう側の、衛兵の視線から隠れる所に立ち、耳に口を寄せて囁いた。「マキシマス、心配しないで。違うんです。あなたを傷つけたりしません。」

「何だって?」マキシマスはつぶやいた。聞き違いだろうか?

「シーッ」男は囁いた。彼は思わせぶりに、剣闘士の胸を覆っている留金のついた革帯の下に指を滑らせた。「衛兵が見てます。調子を合わせて。」

男は革帯に指をかけてマキシマスの前に戻り、声を大きくして言った。「さて、もうすこし行儀良くしてくれないかな。プロキシモの話では、君は協力してくれるということだったが…でも、協力しないなら、どうとでも好きなように罰していいとも言っていた。殺したり、二度と闘えないような身体にしたりさえしなければいいという事だから。この滞在を君にとってとても…楽しいものにしてやってもいいが…極めて苦痛に満ちたものにも出来る。それは君の態度による。」

マキシマスは男の態度にすっかり当惑していた。脅したかと思えば、安心させるような事を言ったり、また脅したり。最初のショックは去り、闘志が戻ってくるのを感じた。「何が望みだ?」彼は唸るように言った。

「何もかも」男は囁いた。彼はマキシマスの革の鎧に魅了されたようだった。彼は奴隷の胸や腰のバックルをいじり、胸を保護する革帯の間に長い指を走らせていた。「君のことは大アリーナで遠くからしか見たことがなかった。近くで見たらがっかりするんじゃないかと思っていたが…とんでもない。きれいな目…悲しい目。素晴らしい声。声は聞いたことがなかったが、君の姿に似合う荒々しい声じゃないかと想像していたんだ。思った以上に完璧な声だ。それにその革の鎧…素敵だ。何か…君が引き立つようなものを、と要望しておいたんだが、この私の想像さえ越えた素晴らしさだ。」

彼が喋っている間、マキシマスはコロシアムで剣闘士を値踏みするように敵を値踏みした。背は自分より少し高いが、ずっと痩せていて、狭い肩とか細い腕をしている。動きは優雅でしなやかだが、握力はないに等しい。この鎖さえ外されれば、素手で簡単に殺せるだろう。しかし…この男を殺すために、自分とジュバの命を捨てる価値があるだろうか?いや、それよりも…こんな事のためにコモドゥスを逃がしてしまっていいのか?妻と息子を殺した男に復讐せずに?駄目だ。プロキシモの命令通り、この男に服従するしかないだろう。触られただけでぞっとするが。これから起こる事が、今までに耐えてきた事よりさらに酷いという事がありえるだろうか?もっと醜くて下劣なことがありえるだろうか?マキシマスは深呼吸した。「すみません、逆らうつもりはないんですが、まだ今の身分に慣れていなくて、他人の気まぐれで運命が決まるという事に馴染めないんです。」

「正直に言うと、私は君にとても興味があるんだ。君はどう見ても知性も教育もある人間だ…普通の奴隷ではないね。」彼はマキシマスの腰の前面を防御する厚い革の房をつまみ上げたが、そのまま落した。「君の過去は謎めいているね…スペイン人?…将軍だって噂する人もいるが?プロキシモはそう呼んでいたね。それとも、それのマキシマス伝説の一部かい?もっと君のことを教えてくれると嬉しいんだが。」彼はこう言うと、衛兵たちをちらりと見た。彼はマキシマスに片目をつぶって見せてから武装した男たちの方へ歩いて行った。マキシマスは首をひねった。彼らの会話のほとんどが耳に入った。

「君たちもローマに帰りたかっただろうね。プロキシモがどうしても残してゆくっていうから…」男は衛兵たちに大様に笑いかけながら言った。

「我々がついていなければ、あの男を扱うのは無理ですよ。危険なやつです。殺されかねませんよ。」衛兵の一人が不満そうに言った。「やつにあなたの言うことを聞かせるために残ったんです。」他の衛兵もうなずいた。

「そういう男だからこそ面白いんじゃないか。諸君、飲み物を用意させるから少し休憩したらどうかな?我々のお友達は、とりあえずどこへも行けないだろうしね。」主人はにっこりして手を伸ばし、衛兵たちを差し招いた。彼らは中庭を通って書斎に入った。彼らの笑い声は嘲るように響き渡り、空っぽのアトリウムの柱に反響した。

マキシマスは独り取り残された。彼は立っていた−鎖に繋がれ、広いアトリウムの2本の柱の間に腕を広げて。床に落ちた影は無防備さを絵に描いたようだった。彼は独り、自分の無力さと恐怖と向き合った。

 

第15章 牢

グラウクスは革の寝台にうつぶせになり、石の床の細い長方形の陽だまりを見つめていた。彼はじっと動かずに、小窓の鉄格子から射す日光が床を横切る経路を目で追っていた。毎日、同じ経路。投獄されて12日目、彼はその軌道を正確に予測できるようになっていた。独房に隔離されて、それが唯一の光であり、唯一の暇つぶしでもあった。誰も会いに来なかった。誰も話しかけて来なかった。人間との接触といえるのは、一日に二度、この牢に食べ物を押しこみ、後で残飯を片付けに来る姿の見えない人物だけだった。その人に監禁の理由を教えてくれと懇願したが、無視された。

彼は考えつく限りの方法で誰かに声を届けようとし、独房の厚い壁から基地の音を聞こうとした。今はそれにも疲れ、ただ死んだように座っていた。死に絶えたような静寂。自分の心臓の音が聞こえるほどだった。牢の窓は砦の厚い外壁に面していた。彼の叫び声は二つの壁の間に反響するだけで、誰にも聞かれずに消えていった。

鼠さえいない。彼は完全に独りぼっちだった。

グラウクスはため息をつき、反対側の壁に視線を移した。そこに刻まれた印も、細かいところまで憶えこんでいた。前にここにいた誰かが、やはり太陽の動きを辿っていたのだ。しかし、季節は違っていて、軌道は低く、床を越えて壁に映っていたようだ。彼は指でそこに刻まれた名前らしきものをなぞった。知らない言語の、知らない文字。ここに監禁された日数を単純な線で刻んでいる捕虜もいた。先住者たちの痕跡は気味が悪かった。彼らはどうなったのだろう?死んだのか?奴隷にされたのか?自分もそうなるのだろうか?ジョニヴァスはグラウクスがボーナに向っていると思っているだろう。なのに、彼は老人が自分の手で建てた牢に座っているのだ。グラウクスがもっと明るい気分なら、この皮肉に笑っていただろう。

彼はゲルマニアに来てからの言動を全て思い起こしてみた。こんな扱いを受けるような事をした覚えはない。牢に放りこまれるはめになったのは、何かをしたからではなく、彼が誰なのかが問題なのだろう。ここに入れられたのは、マキシマスの息子だからだ。他の理由は考えられない。

ドアの向うで物音がした。『朝食』が到着したという印だ。グラウクスは立ち上がりかけたが、床の陽だまりを見て止まった。位置が違う。食事が来る時刻ならもっと右、三角形の石の天辺の辺りにあるはずだ。彼は腰を下ろして鉄の扉を見つめた。扉の蝶番がぎいぎいと音を立て、ドアがゆっくりと開いた。グラウクスの心臓が早鐘を打ち始めた。背の高い男の影が入口に立っていた。細かいところは暗くて見えなかったが、その男は父が着ていたようなケープを着ていた。

「起立しろ!」将軍の後の兵士が怒鳴った。

グラウクスは自分の無作法に顔を赤らめ、ぱっと立ち上がって会釈し、相手の地位に敬意を表した。「ヴェスニウス将軍…」

「私を知っているのかね」ヴェスニウスは牢に足を踏み入れ、床の汚物をブーツで踏みつけて薄明るい場所に立った。

「はい、将軍」グラウクスは男のいかつい顔を観察した。牢は薄暗いのに、彼は目を細めていた。「訊いてよろしいですか…」

「質問がある。」将軍が口を挟んだ。

「何ですか?」

「君の生まれた年月日と正確な時間は?」

「えーと…21年前の7月25日です。真夜中過ぎ、だったと思います。どうして…」

「君の出生地は?」

「メリダです。」

「証拠はあるのか?」

「はい。書類を持っています。」

「君の父親は…?」

「父はマキシマス・デシマス・メリディアス将軍です。フェリックス連隊の将軍、北部軍総司令官です。」グラウクスは誇らしさを抑えきれない口調で言った。「父をご存知ですか?」

ヴェスニウスは質問を無視した。「フェリックス連隊の将軍は私だ。」彼は冷たく言った。「君の母親は?」

「父の妻です…オリヴィア・メリディアです。」

「証拠はあるか?」

「はい。婚姻証明書があります。父が元老院階級で、マルクス・アウレリウス皇帝から婚姻の特別許可を与えられていた事も記述されています。」

「その書類を渡したまえ」ヴェスニウスが命令した。

グラウクスは躊躇した。「あの…その代わりに、お願いしたい事があるんですが…」

ヴェスニウスはかっとなった。彼は顎を上げ、囚人を睨みつけた。「私と取引しようっていうのか?」

「いいえ。」グラウクスは声がうわずるのを必死で抑えながら言った。父もこんなに恐かったのだろうか?「単なるお願いです。」

「何だ?」将軍が言った。

「あの…ジョニヴァスのところに兵士を遣って僕がここにいることを伝えてくれませんか?街のすぐ外のローマ式の家に住んでいます。彼は…この牢を建てた、父の技師長だった人です。」

「書類をよこせ。望み通りにしてやる。」

それ以上何か頼む勇気がなかったので、グラウクスはかがんで荷物を開け、自分の身分を証明する丁寧に丸められた書類を取り出した。「必ず返して下さい。」彼はためらいながら書類を将軍に渡した。将軍は書類をひったくり、くるりと背を向けて、羊毛と毛皮で出来たつむじ風のように出て行った。

「待って下さい!」グラウクスはそう叫んで彼を追いかけようとしたが、二人の衛兵が彼を乱暴に突き飛ばし、ドアをばたんと閉めて錠を射しこんだ。

彼は床にどすんと倒れ、冷たい床に横たわったままドア越しのくぐもった嘲笑を聞いていた。「基地の牢屋に1、2週間いただけで、ずいぶん素直になったじゃないか。ええ?」

 

 

「手に入れたか?」

「はい。」

「それで?」

「21年前の7月25日、真夜中の1分後です。彼がマキシマスの息子であることはこの書類が証明しています。彼は父親そっくりです。」

「嫡出なのか?」

「そのようです。」

セプティミウス・セヴェルスは机に拳を叩きつけた。筆記板と鵞ペンが跳び上がり、インクがこぼれそうになった。「『隠されし者』だ。予言にあった『隠されし者』に違いない。これで全て実現した。」彼は喘いだ。彼の頭は手負いの獣のように前に後に揺れ、金の月桂樹冠が落ちそうになっていた。

ヴェスニウスはセヴェルスが何の話をしているのか分らなかったので、気をつけの姿勢のまま黙って立っていた。

影が動き、男の姿が影から忍び出るように現れた。背が高く痩せていて、影と同じぐらい真っ黒な姿。黒髪、黒い髭、黒いケープ、黒い鎧とブーツ。黒い心。近衛兵だった。「殺してしまいなさい」毒を吐くように、影が囁いた。彼の動きは蛇のようだった。密やかに岩から岩へと這うクサリヘビ。

ヴェスニウスは身震いした。皇帝の従兄弟、近衛隊長のガイウス・フルヴィウス・プローティアヌス−彼が近くにいるといつもぞっとする。この男は皇帝から大きな権力と巨万の富を与えられていた。それに、彼は皇帝の意志決定にかなりの影響力を持っているようだった。頭が良く、無慈悲で…非常に危険な男だった。男女両方を相手にした彼の乱れた性生活は有名だった。この従兄弟同士が若い頃アフリカで恋人同士だったという根拠のない噂まであった。彼らの絆が深いのはそのせいだと。

「殺してしまえばよろしい。」プローティアヌスは従兄弟の椅子の方へ歩きながら言った。純金と純銀で出来た鎧がランプの光にぎらぎらと光り、冷たい目の光と輝きを競っていた。彼は血の匂いを嗅ぎつけて上機嫌になっていた。「誰が気づくというのです?誰が気にかけます?」

「いや、まだだめだ」セプティミウスは椅子の上で身動きしながら言った。彼は動くたびに顔をしかめていた。

ヴェスニウスは皇帝を観察した。万能の皇帝、セプティミウス・セヴェルスは豪華な金箔の玉座にぐったりともたれていた。東方への旅からあわてて戻ったせいで疲れきり、身体はひどく痛んでいるようだ。彼は家族と旅して、アフリカへの凱旋帰国を予定していた…その矢先、マキシマスの息子がヴァンドボーナに現れたという知らせを受けたのだ。彼は生きていて、元気で…質問をして歩いていると。関節のひどい痛みをこらえ、彼は馬に飛び乗ってヴァンドボーナに飛んできた。1週間で到着した。しかし、今、急いだつけが来ているようだ。彼はほとんど動けなかった。精緻な刺繍をした、椅子の一部のように見せかけているクッションで背中を支え、腫れ上がり、ねじれた足と足首は当て布をしたスツールに乗せていた。

痛風だ、と人は噂していた。何年も帝国中の連隊基地を視察して歩いているために、関節炎にもなっているのだろう。何の病気にしろ、痛みのせいで彼は常に不機嫌だった。ヴェスニウスが皇帝に−不運にも−謁見する度に、それはひどくなっているようだった。彼には療法士と4人の軍医が常に侍っていた。彼らは昼夜を問わず皇帝の世話をし、強い薬を処方した。それでも、皇帝の痛みは止まなかった。

ヴェスニウスは玉座の後にセヴェルスの胸像があるのに気づき、視線を実物から大理石の似姿の方へ移した。その像はカールした豊かな髪と髭の、逞しい、ハンサムな、颯爽とした若者の肖像だった。ヴェスニウスは彫像と実物を比べてみた。実物の方は椅子にだらしなくもたれ、肩を丸めて苦痛に顔を歪めていた。その黒髪はまばらで、直毛だった。巻毛ではない…髭は薄く、むらに生えていた。彫像の髭のような豪華なウェーブではない。目の下にある大きな紫色のたるみは顔の威厳をひどく損ない、実年齢の53歳よりずっと年老いて見せていた。彫像は若き日のマルクス・アウレリウスの彫像に似ていた。セヴェルスは自分が彼の養子だと主張している。彼は敬愛された故マルクス・アウレリウス帝の手法をそっくり真似て政治を行い、ローマの人々の支持を得ていた。何と言っても、マルクス・アウレリウス自身がセプティミウス・セヴェルスを後継者に選んだのだ…少なくとも、セヴェルスはそう主張している。ヴェスニウスはそんなことを信じてはいなかった。高位の役人たちもほとんど信じていない。しかし、彼は帝国の大多数の人間を騙すことに成功していた−直接会うことなどまずないであろう人々。彼らさえ騙せれば、あとはどうでもいいのだ。

「ヴェスニウス!」

将軍は飛び上がった。彼は物思いから醒め、「はい、陛下?」と言った。

「書類は?」セヴェルスは手を伸ばした。その手は苛立たしげに震えていた。

ヴェスニウスはあわてて書類を渡し、元の姿勢に戻った。この陰謀における自分の役割が嫌でたまらなかった。敬愛を集めていたかつての同僚の息子を裏切る羽目になっていると思うと、苦い後悔の念がこみ上げた。しかし、グラウクスの存在についてセヴェルスに報告しなかったら、最終的にはその代償は自分の命で払うことになっただろう。

「下がってよし」とプローティアヌスが言った。ヴェスニウスは背を向けようとしてためらった。近衛隊長の命令に従うべきか、皇帝が下がってよいと言うまで待つべきか?彼はどうしていいか分らずに二人の顔をきょろきょろと見比べていた。プローティアヌスは嘲笑を浮かべた。書類に気をとられているセヴェルスはようやく彼を追い払うように手を振った。彼はほっとして、急いで部屋を出ていった。近衛隊長は彼が消えるのを確認して、皇帝の机に腰をもたせかけてさりげなく手を組んだ。「グラウクスとやらを生かしておいては危険だ。」

「殺す方が危険だ。」

「馬鹿な。例の予言では、やつは危険なんだろう…忘れたのか?」

「やつを殺せば私が苦しむ結果になる、ともあったぞ。都合よく忘れているようだが…」

プローティアヌスは従兄弟の心配を嘲笑うように手を振った。「お前の大事な予言か。『獅子』に息子がいて、お前の地位と権力に対する脅威となるっていうんだろう…」

「お前の脅威にもなるということだぞ」セヴェルスは唸った。

プローティアヌスは眉を上げ、うなずいた。「そうだな、おれに対する脅威でもある。だから、さっさと始末しろ。投獄しろ。ローマのテュリアン刑務所に放りこんで闇に葬ってしまえ。あの地獄では長くは生きられまい。直接殺したことにはならんしな。」プローティアヌスはこれですべて解決した、とでも言うように掌を上にして腕を広げて見せた。

セヴェルスは従兄弟を無視して書類をかき回していた。「ない!ここにはないぞ!」

近衛隊長は振り返り、手を机にのせた。「何がないんだ?」

「馬鹿!ずっと探している書類の原本だ!やつが持っていないんなら、誰が持っているというんだ?」

「おれにはわからんね。」

「当たり前だ!あれを探し出すのがお前の一番重要な仕事だろう!失敗しおって!」

プローティアヌスは気色ばんだが、彼らしくもなく黙っていた。

「待てよ、やはりあの餓鬼が持っているのか。その価値に気づいて、ここに持って来るのは危険だと思ったのかも…」セヴェルスは額をこすりながらぶつぶつ言った。

「それとも、やつは全く何も知らないのかも…」近衛隊長が言った。

皇帝は従兄弟を睨みつけた。「誰が持っているにしろ…あれを持っている人間がマキシマスの息子が生きていると知ったら…必ず騒ぎ出すだろう。」セヴェルスははっとして口をぽかんと開けた。彼は立ち上がりかけたが、痛みが走ってまた椅子に沈み込んだ。「そうだ…原本を探し出すにはそれしかない。グラウクスがあれを手に入れる迄待つんだ。そして取り上げて、闇に葬る…」

「やつと一緒に。」

「そうだな…」セヴェルスはまた身じろぎした。うめき声を押え切れなかった。「道具を持って来い。あの若者のホロスコープを見なきゃならん。やつがどんな星の下に生まれているか。21年前の7月25日…悪い徴だ。2+5は7だ。それにやつはマルクス・アウレリウスの治世の17年目に生まれている。」彼は考えに沈んだ。「それに、もし、アウレリウスの望んだ通りコモドゥスでなくマキシマスが皇帝になっていたら…彼はアントニーニ王朝の第7代皇帝になっていた筈だ。」セヴェルスは茫然と首を振った。自分の不運が信じられなかった。「7ばかりだ…」

「7はお前のラッキーナンバーだと思っていたが…お前の名前からして…」

「馬鹿、それは私に関わる事柄が7だった時だけだ。敵に7が当てはまる時は私にとって悪運となるんだ。」

プローティアヌスは従兄弟の迷信深さにうんざりして天を仰いだ。予言と占星術と占数術にすっかりはまり切っている。しかし彼は、従兄弟のこの弱点を自分の利益に繋げる事も出来るのに気づいていた。皇帝を操りたいと思った時には、『予言にある』とか『星に記されている』とか言えばいいのだ…そうすれば思うように動かす事が出来る。

プローティアヌスは麻布に包んだ占い道具を机の上に文字通り、放り出した。皇帝は彼を睨みつけた。「お前も下がっていい」セヴェルスは言った。「集中したい。」

立ち去る代りに、近衛隊長は玉座の後に行って腕をさりげなく背もたれに降ろした。彼は身を乗り出して囁いた。「考えてみれば…あの餓鬼を利用する手もあるな。」

セプティミウスは少し顔を上げた。「どういう意味だ?」

「ヴェスニウスによれば、彼は父親そっくりだそうだ。それなりの恰好をさせれば、若い頃のマキシマスだと言っても通るかもしれん。」

「何のために?」セプティミウスは用心深く、しかし興味をそそられて訊いた。

プローティアヌスは説明した。「分っているだろうが、お前は軍ではあまり人気がない。ローマに進軍してお前を皇帝にしてくれた軍なのにな。お前は帝位を得るために、政敵のニジェールを支持した将校たちを片っ端から処刑した…連中はそれが気に入らなかったようだな。」 プローティアヌスは両手を上げて従兄弟の抗議を遮った。「東部軍はお前を支持して当然だった…なのにやつを支持した。北部軍の支持をバックにして彼を処刑したお前の判断は正しかった。しかし…やつを支持した軍人を殲滅したお前のやり方は軍には人気がなかったようだな。軍の支持を失えば、お前には何も残らない…わかっているだろうが。軍が他のやつを担ぎ出せば、お前の治世もお終いだ。」

セプティミウスは顔をしかめた。しかし、プローティアヌスの言っている事が全て本当なのは分っていた。「グラウクスをマキシマスの息子として表に出せと言うのか?軍がやつを支持する事にしたらどうする?連中はマキシマスに惚れこんでいた。彼が反逆者だとは信じていない者も多い。彼はある意味で、皇帝だったとさえ言える…ローマのコロシアムで、一瞬の間だが…何万という人間が目撃しているんだ。私が全力を尽くしてあらゆる記録を処分したとしても…あの男を記念する物がなにもないとしても。彼らがグラウクスの味方についたらどうする?お前だって分っているだろう…やつが帝位を求めたら、強力な政敵になるぞ。それに、あの書類を公表でもされたら…」セヴェルスは身震いした。

「書類のことは忘れておれの言うことを聞け。」

セヴェルスは髪に従兄弟の息がかかるのを感じた。首筋の毛が逆立った。

「お前を支持するようにグラウクスを説得する。それからやつに名ばかりの偉そうな肩書きを与えて、全帝国軍に見せびらかして歩く。」プローティアヌスは指を広げてセプティミウスの顔の前をひらひらと動かした。皇帝は暗い目でその手を追った。「考えてみろ。またとない宣伝だ。偉大なる将軍、マキシマス・デシマス・メリディアスの息子がセプティミウス・セヴェルスを支持する…そうなれば、軍もこぞって支持するだろう。そしてローマの人々も…彼らを忘れるな。連中の多くは偉大なる剣闘士のマキシマスを忘れてはいない。彼の息子となれば夢中になるぞ…そして、その息子がお前を支持しているとなれば…連中も右へ倣えとなるだろう。セプティミウス、やつは強力な…道具にもなり得る。」

「思い通りに操れればの話だ。彼が父親の遺産についての真実を知ったら…あるいは、私がマルクス・アウレリウスの養子だというのが作り話だと知ったら…私が嘘吐きだと証明して破滅させるだろう。」セヴェルスは目をこすった。「しかし…やってみる価値はあるな。お前の言う通り、彼は強力な道具になる。しっかり操りさえすれば。」彼は唐突に笑いを浮かべ、従兄弟の方をちらりと見た。「彼を近衛隊長にするのもいいな。お前の制服が似合うだろう。」

プローティアヌスは自分の策謀に熱中していたので、脅迫は無駄に終った。「マキシマスの死を目撃したコロシアムの群集を見ただろう?ショック状態からさめると、髪をかきむしってわめいていた。街中が悲しみに沈み…その間に、近衛隊は密かに帝位を競りにかける準備を始めていた。」

「ああ…予言にある『闇』の時代だ。その後、私…『鉄鷲』が権力の座についた。予言通りに。」セヴェルスはシビラの予言の次の部分を暗誦した。

しかれど、真の脅威は隠されし者。
彼の血は黄金、深紅に流れる黄金。
誰の目にも、自らにさえ、彼は隠れたる者。
隠れたりといえども、その行く手に陽は輝く。
鉄鷲は仔を狩り、貪る。

しかるに仔は隠れ育つ−彼は獅子、狼にあらず
その血は黄金の獅子の血、深紅に流れる黄金なればなり。

「グラウクスは黄金の血を持っている」セヴェルスは続けた。「黄金の…皇帝の血だ。」

下らん、とプローティアヌスは思った。剣で斬ってやれば、他の人間と同じ赤い血を流すだろう。内心の考えとは裏腹に、彼は言った。「お前の解釈が間違っているのかもしれんぞ。」プローティアヌスは皇帝を自分の都合の良い方向に導こうと慎重に言葉を選んだ。「もしかすると…『隠されし者』というのは、ずっと『隠された』ままでいるという意味かもしれん。黄金の血を持っていても。『隠されている』というのは『気づかれない』という意味にもとれる…彼の真の資質は気づかれずに終るんだ。自分にも、ローマの人々にも…だが、我々は知っている。我々だけが彼の潜在能力を知っていて、利用することができる。自分では気づかない。我々の傀儡になるんだ、セプティミウス。」

「やつがあの書類を持っていなければの話だ」セヴェルスは言った。「それに、言うことを聞かなかったらどうする?」

「その時は殺せばいい。そうすれば『黄金の血』も永遠に隠れたままになる。どうした…そういう処刑は今までにだって何度もやっているだろう、セプティミウス。自分の甥を殺させたこともあったじゃないか…訛のひどいラテン語でお前に恥をかかせたってだけで。お前はもっと酷い事もやっているが、報復を受けた事は一度もない。予言というのは色々な解釈が出来るものだ、セプティミウス。」

「そんなことはない。他に解釈は出来ん。もう一つの予言を忘れたか?」

「なら、ローマの刑務所に放りこんで勝手に死なせればいい!」プローティアヌスは苛立ってきた。

「プローティアヌス、これは全て実現しているんだ、最後の数行を除いて…これはグラウクスのことだ。」

「やつは我々の手にあるんだぞ!」

「やつの目的は父親の汚名を晴らすことだ。そしてマキシマスこそがマルクス・アウレリウスの本当の後継者で、私ではないことが暴かれてしまう。そうなれば、私の王朝はお終いだ…まだ始まっていもいないのに。帝位を継ぐのは私の息子たちだ、マキシマスの息子などではない!」

プローティアヌスは口調を変えた。「きっとそうなる。心配するな」彼は宥めるような声で言った。セプティミウスが予言のことで落ちこんでいる時は何を言っても無駄なのだ。

セプティミウスは注意深くパピルスを広げ、星図の皺を伸ばした。「出て行け」彼は命令した。「する事がある。」

プローティアヌスは追い払われた怒りを飲み込んだ。何と言っても、おれはこの帝国中で皇帝自身に次ぐ権力者なのだ。さて、従兄弟が星占いと予言に没頭している間に、おれはもっと役に立つ事をしよう…この問題はおれが面倒を見なければならんようだ。まあいい。セプティミウスがマキシマスの餓鬼を殺せないと思いこんでいるとしても…このおれが殺せばいいだけの話だ。

 

第16章〜20章