Glaucus' Story:第16〜20章

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第16章 前兆

ホロスコープを完成した時、セヴェルスの手は震えていた。彼は玉座からふらふらと立ち上がり、後によろけて胸像を落とした。像は床で粉々になり、彼は台を掴んでやっと立った。彼は癇癪を起して残骸を蹴りつけたが、腫れ上がったつま先がかけらに触れたとたんに悲鳴を上げた。衛兵が飛んで来た。

「陛下?ご無事ですか?」

「何でもない!出て行け!」衛兵は戸惑い、背を向けかけた。「待て!」セヴェルスは怒鳴った。彼は気を落ち着かせてから言った。「この辺にミトラの神殿はあるか?」

「もちろんです。近くの洞窟にあります。」

「生贄の雄牛を用意しろ。」

「はい、陛下」衛兵は床にうつぶせに転がっている壊れた皇帝像をちらりと見、縁起でもない、と思いながら急いで出て行った。

セヴェルスは哀れな声でうめいた。誰に聞こえたってかまうものか。これはあんまりだ。このホロスコープによると、事態はますます悪くなる。皇帝はゆっくり背筋を伸ばし、ためらいがちに足を踏み出して、ぼろぼろの身体に無理に体重をかけた。ゆっくり机の周りを歩きながら、苦痛を顔に出さぬよう努力した。兵士たちに足を引きずっている姿を見せるわけにはいかない…絶対に。机の前に戻った時には震えは治まり、背筋は伸びていた。しかし、星図が目に入ると苦痛のあまりしゃがみ込みそうになった。

グラウクスは私を苦しめるために神々が遣わされたのだ。

獅子座。マキシマスの息子は獅子座だ…獅子。主星が惑星や衛星でなく、恒星である唯一の星座−黄道十二宮の中でも上位の星座だ。獅子座のグラウクスは生まれつきのリーダーだ。強く、誇り高く、情熱的。彼は自分の力を自覚し、認められる事を強く望んでいる。その望みは叶うだろう…軍を味方につけて、現皇帝から玉座をもぎ取る時が来れば…セヴェルスは苦い思いを呑み込んだ。それに、彼は野心家だ…つまり、帝位を望んでいるという事だ。それ以上の野心などありえないだろう?選ばれた者、偉大な人間…全て星に記されている。

水星と木星がこんなに良い位置にあれば、グラウクスは望むこと全てに成功するだろう。彼は指揮を執る人間、リーダーだ。血は争えない、とセヴェルスは思った。マキシマスもおそらく獅子座で、このような良い星の下に生まれたのだろう。しかし…ひとつだけ「良い」兆項がある…水星は自由の象徴だ。自由を失う事はグラウクスにとってこたえるだろう。セヴェルスは彼が牢に座っているところを想像して微笑んだ。彼はふと、グラウクスがローマのテュリアン刑務所に入れられたらどのぐらい生き延びるだろう、と考えた。あそこでは囚人は地面の穴から地下に投げ込まれ、何百人という病に冒された瀕死の男たちと…牢に放置されたまま腐ってゆく死体と共に閉じ込められるのだ。

セヴェルスは楽しい想像を頭から追い払ってホロスコープに集中した。グラウクスは社交術に気を使わず、思ったことを率直に言う人間だ。これは不利な点になり得る。衝動的な所は欠点だが、それが魅力的だと感じる人もいる。そういう率直さは、遠まわしな物言いが幅を利かせる政治の世界には馴染まない。しかし、ホロスコープによれば、彼は違う意見にも耳を傾ける事の出来る人間でもある。

それにしても火星が…ああ、この火星。火星の位置が示すのは、彼が何をやっても成功する人間だという事だった。帝位は彼のものだ。セヴェルスはうめいた。しかし、月の位置には若干の希望がある。グラウクスはまだ若く、世間知らずだ。旅を始めるのが早すぎた。その青臭さで痛い目に遭いかねないだろう。わずかな希望だ、とセヴェルスは思った。

皇后を見つけるのにも苦労するだろう。セヴェルスはにやりとした。彼は遊び人で、女なしではいられない…それも、沢山の女だ。束縛を嫌うからだ。皇后になり得るような女性なら喜ばないだろう。

しかし、星が示す処によれば、彼は成功した男として洗練された紳士の生活を送る…あるいは、皇帝の。セヴェルスは唸った。

一方、天王星は彼が追放されてさすらう、と示している…でなければ、とても長い、何年にも及ぶ旅をすると。これはどういう意味だろう。グラウクスが今やっている探索がその旅なのか。それとももっと後に何かが起こり、長く故郷を追われることになるのか?ある意味では、皇帝もさすらいの旅をしていると言ってもいい…帝国中を旅して回り、長く一つ所にいられない。セヴェルスは故郷のアフリカのことを思い出した。何年帰っていないだろう。

皇帝は眉をしかめて星図を見つめた。母親が身ごもったときの星の位置で、もっと詳しくわかることがある。セヴェルスは腰を下ろし、星図を引き寄せて計算道具をを掴んだ。しばらく後、彼は頭を抱えて突っ伏した。うめき声さえ出なかった。グラウクスの生まれた9ヵ月前、太陽、月、木星、水星、火星、金星が直列し、その線上に獅子座があった。恐ろしい程の力の集中。その9ヵ月後には、並外れた人間が生まれるという徴だ…それがグラウクスなのだ。

 

真夜中を少し過ぎた頃、松明に導かれた数人の男が丘を越えて、武器、兵士、軍隊の守護神であるミトラを奉る洞窟に向かった。セヴェルスは痛みをこらえて暗闇を急いだ。ほんのニ、三回、石畳に足をとられてよろめいたが、周りを固めた近衛隊があわてて隠した。セヴェルスが洞窟の入口で立ち止まると、後の一行も止まった。入口には牛の角が飾られていた−7本。それぞれの角は、ミトラ教の7つの神体に守られた7つの世界を表わしている。

7。

セヴェルスは一刻も早く儀式を始めようと洞窟に飛び込んだ。洞窟の中には石の祭壇と松明があり、あとは目を丸くした少年兵がじたばたと暴れる鵞鳥を抱いているだけだった。「雄牛はどこだ?」皇帝が怒鳴った。

若い兵士は今にも気絶しそうに見えたので、ヴェスニウスが代りに答えた。「先週、最後の雄牛を生贄にしてしまったのです。まだ次が届いていませんので…」

「だらしのない基地だ!」セヴェルスは吐き出すように言った。「鳥でやるしかない。どけ!」彼は少年兵に怒鳴った。少年は怯え、鵞鳥からあわてて手を放してしまった。鳥は大きな翼を広げてはばたかせ、皇帝の顔をぴしゃぴしゃと叩きながら祭壇から飛び立とうとした。鵞鳥は暗闇の中で石の壁にぶつかって向きを変えた。鳥は逃げ場がないのに気づいてますます怯え、翼をばたばたさせ、があがあと鳴きながら香炉をひっくり返し、あやうく松明に突っ込みそうになった。

「捕まえろ!」セヴェルスが叫んだ。

兵士たちは一斉に手を伸ばして大きな鳥を掴もうとしたが、抜けた羽根を掴んだだけだった。笑う度胸のある者はいなかった。

ヴェスニウスは鳥がいずれは空気の冷たい方へ飛んで来ると思い、洞窟の入口の横に立っていた。思った通り、鵞鳥はすぐに彼の腕に飛びこんで来た。ヴェスニウスは身体中を使って鳥を捕まえ、力強い羽を押えつけた。彼は顔をつつこうとした嘴をかわして、しかめっ面の皇帝に鵞鳥を差出し、セヴェルスの手がしっかり鳥を掴むのを確認してから手を放した。

セヴェルスは肩で息をしながら片手で鵞鳥の首を掴み、もう一方の手で上等のケープのフードを上げた。彼は形式的な祈りを省略し、宝石のついたナイフをベルトから抜いて高く掲げた。影が洞窟の灰色の壁に映っていた。彼は即座に、ナイフを鵞鳥の首に刺した。手にも顔にも黒い血が迸った。彼はじたばたと暴れる鳥を押えつけ、大人しくなるとナイフを刺して咽喉から切り裂いていった。温かい臓物が手の上にこぼれた。

ヴェスニウス将軍は皇帝が懐剣を放り出し、鳥の腹に両手を突っ込んで血まみれの臓器を祭壇に引きずり出す様子を興味深く眺めていた。皇帝は屍骸を壁に放り出した。屍骸は岩の上に黒い血の跡を残して地面に滑り落ちた。

「どうやって見ろというんだ?松明を持って来い!」セヴェルスが怒鳴り、兵士の一人があわてて飛んで来た。

プローティアヌスが従兄弟のかたわらに歩いて来た。血で軍服を汚す心配がなくなるまで待っていたのだ。「どうなんだ?」彼は内臓を持ち上げて調べているセヴェルスに訊いた。

「よくない」皇帝はつぶやいた。「だめだ…最悪だ。これを見ろ、プローティアヌス…心臓が異常に大きい。」彼は湯気をたてている臓物を床に放り出した。「おまけに、腸に膿胞がある。」

「ほんのちょっとだ」プローティアヌスは軽く言った。

「ちょっとじゃない!こういう若い鳥は外見も中も完全に健康体なのが普通だ。悪い徴だ、プローティアヌス。悪い徴だ。」彼は近衛隊長を睨みつけた。「これでも、彼を殺しても何の報いもないと言うのか?」セヴェルスは後の儀式をすべて省略して出て行った。4人の近衛兵があわてて後を追った。

プローティアヌスは背中で手を組んで、影に隠れようとしている少年兵を見た。「そこのお前!」彼は言った。

「はい?」少年が進み出ながら言った。

「ここを片付けてから牢に出頭し、一週間いること。鳥を逃がした罰だ。」

兵士はうつむいた。「わかりました。」

近衛隊長はケープを翻して洞窟を出て行った。残されたヴェスニウスが不運な少年を慰める役になった。 士官兵舎の石の家に戻る頃には、セヴェルスは玉座に戻ってスツールに足をのせていた。

「もう寝たらどうだ」プローティアヌスは言った。従兄弟の身体を気遣っているわけではなく、自分が寝たかったからだ。しかし、皇帝は聞いていなかった。セヴェルスは憑かれたように座りこみ、一言一句記憶している恐ろしい予言を暗誦していた。

賢帝の即位二十年後
ローマは無慈悲なる狂犬の手に落ちん
長い年月に帝位に昇る最初の息子
しかるに息子は息子にあらず、その手には血
心に背信が宿り、魂は闇。

息子ならざる息子、無慈悲なる狂犬
国を虜とし、日々流血に浸る
しかし、過去の影より現る者
死ねども死なざる者
選ばれし者、彼こそ世を継ぐべき息子。

勝利にありてさえ、狂犬は孤独と恐怖に生き
敵を恐れ、肉親に憎まれ
選ばれし者現れ、その恐怖は募る
自らの最期を悟り、最期は訪れる
選ばれし者、光もたらすべき者なりき。

しかるに彼は裏切られ、一度ならず何度も
一人ならず何人も、彼を愛する女までにも
選ばれし者は死すべき者、しかれど敗れず
義と真をもたらすため死から蘇らん
息子ならざる息子と世を継ぐべき息子

共に死すべき者、その血は共に流れども交わらず
狂犬は消え去り、選ばれし者も逝けり
しかれど影に去りて永久に戻らぬその前に
選ばれし者は賢帝の夢を蘇らせん
されど黄金の夢、賢者の夢は叶わず。

選ばれし者は去り、闇は訪れん
光ある者への裏切りの報いは闇なれば
十と二年の闇、流血と死
十と二年の謀反、殺戮、偽り、戦
そして鉄なる者は世を継がん。

されど光はもたらさず、彼もまた闇なり
闇なれども新たなる闇、異なる闇
征服し、支配し、裏切り、怖れられん。
しかしまた死すべき者、報いにその血は流れ
数多の脅威より勝利者として現れん。

しかるに脅威は脅威ならず、真の脅威は秘密
狂犬は恐怖に生き、鉄もまた同じ
殺戮と裏切りに生きる者、裏切りと偽りに生きる者
共に選ばれし者を裏切り、共に恐怖に生きん。
裏切られ、死せりと云えども、選ばれし者は敗れず。

彼は義をもたらし、束の間なれども支配者となる
彼の名を消し去ろうとすれども
選ばれし者なれば、その血は密かに生き
彼は残せり、その血、その名、その力を継ぐ者
その名を継ぐ者、永遠に生き、神々は微笑む。

彼に使命あり、その使命、父への義務は果されん
選ばれし者の名は汚されたれば
名を継ぐ者、多くが愛し、また多くが怖れ、憎む。
災いなれ、彼を憎む者、彼は名を継ぎ、祝福されし者
その血を流すものは呪われん。

 

予言の部分:へ−ベ・ブランコ、ホロスコープの監修:マリア・デル・カルメン・ディアス−これは西暦177年7月25日真夜中過ぎに生まれた男性の実際のホロスコープです。

 

 

第17章 ヴィラ(続)〜180年

アトリウムは闇に沈んだ。松明を灯しに来る奴隷もいない。中庭とドームの天窓から射すおぼろな月光だけが部屋を照らし、アトリウムの隅に深い蒼い影を投げかけていた。マキシマスは床に座っていた。腕は頭の上に引っ張られ、頭はがっくりと肩に落ちていた。彼は重い目蓋を上げて暗闇を見つめていた。何も見ていなかった。長時間食事も水分も睡眠も摂っていないせいで、ありがたい事に頭がぼんやりしていた。夢うつつの状態で、幻影が見え始めた。幽霊のような白い大理石像が微かに動いたようだ。像はアルコーブを離れ、彼の方へふわふわと漂って来た。彼は何の反応もせずに見つめていた。何に対しても、反応するだけの力が残っていなかった。

「マキシマス」彫像が囁いた。「マキシマス。」彫像は彼の前にしゃがんで白い手を彼の顔に伸ばした。頬に触れた手は暖かく、柔らかく、大理石のように冷たくはなかった。彼はやっとの思いで目を開けた。目の前に女の顔があった。

女は彼の顔をやさしく撫でながら彼の名を何度も何度もつぶやいていた。「マキシマス、私を憶えてる?」

憶えて?彼は目を細め、瞬きをした。会った事があると言うのか?こんな、髪を綺麗に編み上げて、宝石を光らせているような女性に?彼は首を振った。ほとんどわからないような動きだった。彼は乾いた唇をなめた。

「水を持って来たわ、マキシマス。グラスを口に当ててあげるわね。」

彼女がそう言ったのに、彼は水が触れるとびくりとした。彼は冷たい水を咽喉に詰まらせそうになりながら少しすすり、それから一口がぶりと飲んだ。渇きは余計に募った。彼女はグラスを離した。

「もっと…」

「待って…すぐよ。すぐに楽にしてあげて、ワインと食事を上げるわ。ああ、マキシマス…一体どうしてこんなことになったの?」

彼の頭はまだ少しぼやけていた。「衛兵がここに繋いだんだ。」

「それはわかってるわ、マキシマス。そうじゃなくて、どうして奴隷になったの?マルクス・アウレリウス帝の一番の将軍が、何で剣闘士なんかに?」

彼女の顔は影になっていた。「君は誰だ?」彼は訊いた。

女は手を上げてゆっくりと髪のピンを外し、豊かなウェーブをふわりと肩に落とした。彼女は彼の手に顔を近づけて、指が髪に触れられるようにした。彼女はためらいがちに髪に触れる指が震えるのを感じた。彼は絹糸のような髪を指で梳いた。

「ジュリア」彼はため息をついた。「ジュリア。思い出した。君の香り…君の香水だ。」

「ええ。」彼女は彼の顔を両手で包み、額、両頬、鼻とキスしていった。「もう大丈夫よ、マキシマス。あなたを傷つける人はここにはいないわ。」

「あの男は…」

「私の友達よ。あなたを呼んだのは私なの、彼じゃなくて。ここは私のヴィラよ。」

マキシマスはまだ戸惑っていた。「君の夫?」

ジュリアはにっこりした。「いいえ、マキシマス、ただのお友達よ。夫は死んだの。」

マキシマスは腕を落とした。両腕は鎖に吊るされて中空で止まった。彼はゆっくり頭を振って状況を理解しようとした。「おれはてっきり…」

ジュリアは彼のすぐ側に座り、顔をやさしく撫で続けた。「マキシマス…こういうやり方しかなかったの。女が相手だと取引してもらえないだろうと思って。」

マキシマスは深く、震える息を吸った。

「アポリナリウスの芝居はやりすぎだったわね。本当にあなたに魅力を感じてるらしくて…頼んでいないことまで。ごめんなさい。あなたを脅かすつもりはなかったの。」

マキシマスはまた彼女の髪のに触れようと、鎖を大理石に引き摺って手を動かしたが届かなかった。彼女は彼の真正面に座っていた。「ジュリア…顔色が蒼い。」

彼女は一瞬目を閉じ、彼の深い声の響きが身体を暖めるのを感じた。林の向うにある砂浜を陽が暖めるように。「光のせいよ、マキシマス。」

「君の髪は今でも…朝焼けみたいな色なのか?」彼女は移動して、彼の手が髪に触れられるようにした。「柔らかい…記憶通りだ。また逢えるとは思わなかった。」彼は囁いた。

ジュリアは振り返って鎖に繋がれている彼の手のひらにキスをした。彼女の声は涙を含んでいた。「アポリナリウスが衛兵たちに一服盛ったのだけど、あいつらなかなか寝てくれなくて…もっと早く来るつもりだったのに、あいつらがいつ戻って来るかと思うと怖くて。」彼女は中庭をちらりと見た。「アポリナリウスが鎖の鍵を持っているの。出来るだけ早く来るって…そうしたら解放してあげられるわ。」彼女は身体を前にすべらせて長い脚を彼の曲げた膝に置き、また彼の顔を手で包んだ。「ああマキシマス、一体何があったの?」

「話せば長いんだ。」彼は突然、小さな笑い声を上げた。ちっとも楽しそうではない声。「君は自由になって、おれは奴隷になったってわけだ。」

遠くでドアが開閉する音が聞こえ、マキシマスはジュリアの肩越しに先刻彼を苦しめた男を見た。ランタンを手に近づいて来る白髪の男をジュリアはアポリナリウスと呼んだ。

「遅くなってごめん」彼はアトリウムの端から声をかけた。「あいつらときたら、ワインセラーを丸ごと飲み干してしまうかと思ったよ。やっと寝てくれたよ。」彼はアトリウムの周囲の松明を数本灯した。大広間はぼんやりした黄金の光に包まれた。彼は手を差し伸べてジュリアが立つのを助け、床に座ったままのマキシマスに言った。「マキシマス将軍、騙してすみませんでした。それにあなたを苦しめてしまったかもしれない。許してください。本当にこうするしかなかったんです。さあ、鎖を外します。もっと居心地のいい所へご案内します。食事とワインの用意が出来ています。その後、あなたを脱出させます。」彼はマキシマスの鎖の錠を外し、じゃらじゃらと床に落としながら言った。

長時間膝を曲げて座っていたので、マキシマスの脚は感覚がなくなっていた。ジュリアとアポリナリウスは両側から彼を助け起した。彼は数歩よろめいたが、すぐにしっかりした足取りで二人の間を歩き出し、さっき大理石像が動き出したのかと思った所を通って行った。アポリナリウスが彫刻のある樫の扉を開け、横に下がってジュリアとマキシマスを先に入らせた。幅の広い廊下の向うにゆるやかにカーブした大理石の階段があった。階段の上にもドアがあり、その向うには明るく照らされた部屋があった。そこはヴィラ内部の個人用アパートメントになっていた。彼らはエレガントな家具の並ぶ大きな居間に入った。月光の射すテラスに面した窓が開いていた。寝椅子に猫が二匹いた。猫たちは人間たちの営みにはまるで無関心に居眠りをしていた。椅子の上にももう一匹いた。開いたドアの向こうに寝室が見えた。閉まったドアがもう2つあった。マキシマスはローマの宮殿の中に入ったことはなかったが、ここより豪華だとは想像出来なかった。

マキシマスはジュリアを見た。記憶通りの美しさだった。長い、赤みがかった金色の柔らかなウェーブが肩に流れ落ちていた。彼が手を差し伸べると、ジュリアは彼の腕に飛び込み、首に顔を埋めて泣き出した。

「邪魔者は消えます」アポリナリウスはにっこりして、鎖と錠をテーブルに置いた。

マキシマスはうなずいた。彼の『客』として一週間を過ごさなければならないと思わせた事を、まだ許す気になれなかった。アポリナリウスはドアを閉めて鍵をかけた。

マキシマスはジュリアを抱きしめて囁いた。「泣かないで、ジュリア。大丈夫だから。」

ジュリアは身を引いて涙を拭いた。「今はあなたの方が奴隷にされてるのに、私を慰めてくれるの?」

マキシマスは肩をすくめて微笑んだ。「癖かな。」彼は真面目な顔になり、不思議そうに訊いた。「友達が言ってたのはどういうことだ?おれを脱出させるっていうのは…」

涙に濡れた顔が興奮に輝いた。「マキシマス、私、全部手配したの。夜が明けたらすぐ、衛兵が起きないうちに、あなたをスペイン行きの船に出航直前に乗せて密航させるの。あなたがいないって誰かが気づく頃には、あなたは海の上よ。あなたは逃げたって言うわ。それから…」マキシマスが優しく微笑んで首を振っているのを見て、彼女の声は途切れた。

「スペインへ帰る理由はない。おれはどうしてもローマにいなくてはならないんだ。」

「でも、あなたの奥さんが…息子さんも…」

彼の顔を痛みがよぎった。「二人とも死んだ。コモドゥスの近衛隊に殺された。おれもやつらの手で殺される筈だったんだ。」

ジュリアの膝ががっくりと萎えた。マキシマスは彼女の腕をつかんで椅子に座らせた。彼女は目を大きく見開き、紙のように蒼白な顔で彼を見つめた。彼は彼女の前にしゃがんで手を握っていた。「死んだの?」彼女は繰返した。何度も言えば信じられるとでも言うように。「それなら…話が違ってくるわ。」彼女は自分の財産目録でも作るように部屋を見回した。「ちょっとだけ待って、必要な物だけ詰めるから。私も行くわ。一緒に…」

「いや、ジュリア、おれは行けない。」

「逃げなくちゃ。マキシマス、あなた、アリーナで死んでしまうわ。」

「そうだな。」

「逃げてくれるの?」『そうだ』が気を変えてくれたという事だといいと思い、彼女はそう訊いた。

「そうだ…おれはアリーナで死ぬだろう。」

彼女は彼の腕をつかみ、ブルー・グリーンの瞳を答を探るように覗きこんだ。「わからないわ。命を助けようと言っているのよ…自由にしてあげるって。」

「おれの命はもう終っている。妻と息子が死んでいるのを見つけた日に終ったんだ。その時に死にたかった。死ななかったのは、皮肉な巡り合わせってやつで…運命のいたずらで、家族を殺した男に報いを受けさせることが出来るかもしれない立場になった。おれはそうするつもりだ。それを見届けたら…死ぬだろう。」

ジュリアは呆然とした。「マキシマス、あなたを救うためにあなたと戦わなくちゃならないの?」

「ジュリア、どうかわかってくれ。おれはもう、君の知っていた男じゃないんだ。」

「あなたは変わってないわ。」彼女はまた涙声になっていた。

「いや。あの男は死んだんだ。おれは奴隷だ。剣闘士だ。人を楽しませるために人殺しをする男だ。おれが死ねば、客はもっと喜ぶだろう。おれは屑だ。おれの命など救う価値はない。」

ジュリアは彼の手を振り払って立ち上がり、部屋を歩き回り始めた。マキシマスも立ち上がり、彼女がほっそりした腰と胸を揺らして歩き回るのを眺めた。彼女は苛々と親指の爪を噛んでいた。彼女は本当に美しい。突然、彼女はぱっと振り返った。その表情はがらりと変わっていた。

「マキシマス、手を出して。」

彼は眉を上げた。

「いいから出して。」彼女は彼に近づいた。

彼女の態度がどうして急に変わったのかわからなかったが、彼は素直に腕を差出した。両手を合わせ、掌を下に向けて。 ジュリアは急いで後から錠を取り、手首を縛り合わせようとしたが、焦ってしまってうまくいかなかった。マキシマスは彼女が錠を出したのを見て手を引っ込めようとしたが、無理に手の力を抜いて錠がちゃんと閉まるまでじっとしていた。急におれが怖くなったのだろうか?彼女が自分のしたことを確認できるように、彼は手を伸ばしたままにして、もう一度眉を上げた。ジュリアは彼の縛られた手首をまじまじと見つめていた。自分にこんなことが出来たとは信じられないと言うように。マキシマスは黙ったまま、興味深そうに彼女を見つめた。彼女は一瞬だけ彼の顔を見て、錠の置いてあったテーブルに行って鎖を持って来た。彼の表情は好奇心から苛立ちに変わった。彼は手を下ろした。

「手を出して」ジュリアは命令したが、いかにも自信のなさそうな声だった。

マキシマスは彼女の顔を見つめた。彼女は目を合わせられなかった。「ジュリア…もういい。」

彼女は息を呑み込んだ。「手を出しなさい。」

彼は彼女をからかおうとした。「ご命令ですか?奥方様が奴隷に、おとなしく鎖に繋がれるように命令しているんですか?」

彼女は唇を噛みしめて答を拒否し、黙って立ちつくしていた。

マキシマスはため息をついてまた手を差出した。ジュリアが鎖を不器用に扱うのを、彼は甘い父親がいたずらな子供を見るような目で見つめていた。鎖を彼の手枷の輪に通したところで、彼女は手に鎖の端をぶら下げたまま途方に暮れて立ち尽くした。重く冷たい鎖は彼女の長いデリケートな指にはまったく不似合いだった。

マキシマスは彼女に、ローマに残るというのはよく考えた末の決心なのだということを説明したかったが、何と言えば納得してもらえるか分らなかった。彼はあきらめて彼女を眺め、見るからに奴隷を扱い慣れない、自分のしていることに嫌悪を感じている様子を可笑しく思った。彼は軽い調子で言った。「あっちの柱に繋ぎたいんじゃないのか?もっとも、大理石に鎖で傷がつくかもしれないが。」

彼女の顔から途惑いが消え、決然とした表情が現れた。彼女は彼の向きを変えさせ、肩を押した。マキシマスの提案とは反対側の円柱の冷たい大理石に彼の背中がぶつかるまで、彼女は彼を後向きに歩かせた。彼女が長い鎖を円柱にまわして引いたので、彼の肘が曲がって手が腰に押しつけられた。手に持った鎖の端を固定するものが何もないのに気づき、彼女はまた途方に暮れた。

「どうも、あまり上手じゃないね。言うことを聞かない奴隷を縛りつけるのには慣れていないんだろう?」マキシマスは冗談めいた、軽い口調で言った。

冗談だと思っているんだわ。ジュリアは錠の鍵を置いたテーブルをちらりと見た。彼がくすりと笑うのが聞こえた。手が届かなかった。彼女はかっとなって鎖を放り投げ、鍵を掴んで振り返った。彼はもう鎖を外してしまったと思っていたが、彼はじっとしていた。彼女は鎖を拾い上げ、思いきり強く引いた。マキシマスは驚いて思わずうなり声を上げた。彼女は錠を外し、鎖の輪に通してまた閉めた。彼女は一歩下がって彼を見つめた。目を見開き、口に手を当てて−自分がひとりの男を…奴隷を縛りつける事が出来たという事に驚いたかの様に。鎖で繋いでしまったのだ−マキシマスを。

彼は呆然と見つめているジュリアをじろりと睨んだ。「満足か?」

僅かに皮肉のこもった彼の声に、彼女は緊急事態なのを思い出し、「船に乗って欲しいだけよ。」と言った。

「ジュリア…」

「水夫にあなたを運ばせて、船倉に閉じ込めてもらうわ。」

「船長が許可しなかったら?」

「するわよ。私の船で、私が船長を雇っているんだもの、マキシマス。私、大艦隊を持っているのよ。」彼女は髪を背中に払った。

マキシマスはうなずき、心から感心して言った。「それは凄いな。今の君はおれの知っていた君とは違うようだ…あれは何年前だった?」

「私はあまり変わってないわ。マキシマス、あなたもそうよ。境遇が変わっただけで、あの時と同じ人間だわ。」

「ジュリア、プロキシモが戻って来た時におれがいなかったら、やつはおれの命の恩人を殺してしまうんだ。そんなことをさせるわけにはいかない。おれが自由になるために、ジュバを死なせるわけにはいかない。」

ジュリアの目は涙で光っていた。「そんなことにはならないかも…プロキシモは本気じゃなかったかも…」

「プロキシモの立場で、奴隷が何の罰も受けずに逃げおおせるなんて事を許すわけにはいかないんだ。他の剣闘士の持ち主たちが厳しい罰を要求するだろう。そんな事は許されないと、自分の奴隷に示すためだ。おれを逃がすような不注意をやらかしたら、プロキシモはその罰として、所有する剣闘士を一人残らず殺せと要求されてもおかしくない。仲間だと思ってる連中をおれのせいで死なせて、おれだけ生きて行くなんてことはできない。それに、帝国中どこへ逃げようと、コモドゥスは草の根分けてもおれを探し出すだろう。死ぬのが数週間後でも数ヶ月後でも、大した変わりはないだろう?」

「復讐のため?復讐のために生きるの?復讐のために残るの?」

マキシマスは視線を落とし、静かに言った。「それだけじゃない…いろいろあるんだ。」

「じゃあ説明してよ。わからないもの。」

マキシマスは食事が用意されているテーブルを見た。「食事とワインをくれて、楽にさせてくれるって言ったね?どうしてまた縛られてしまったんだ?」

ジュリアは彼の顔を見つめていた。彼の当惑した顔、力強い腕と脚…記憶にあるよりさらに逞しくなっている…黒い革のストラップとバックルに包まれた胸…彼女は泣き出した。「いい気味だわ。あなたは縛られて当然なのよ」彼女は泣きながら言った。

マキシマスは彼女の方へ行こうとしたが鎖に止められた。「ジュリア?」

「マキシマス、あなた『何年になる?』って聞いた?何年って?私はちゃんと憶えてるわ。何年、何日、何時間になるかまでね!将軍の軍服を着たあなたが、私にさよならを言ってから−私を捨てて去って行ってしまってから!」

猫たちが目を覚まし、丸い目をしてジュリアを見つめていた。一匹はソファの後に駆け込み、もう一匹は用心しながら近づいて来た。緑の目が好奇心と警戒心に輝いていた。

賢明にも、マキシマスは黙っていた。

「あなたのことが頭から離れなくて…この6年間、毎日、毎時間、あなたの事ばかり考えて、どこにいるのか、何をしているのか、元気でいるのかって…奥さんの腕に抱かれているあなたを想像して泣いたわ。あなたは絶対、私のものにはならないんだって…」

マキシマスは絨毯を見つめていた。「悪かった」彼は小さい声で言った。

「悪かったなんて言わないで、マキシマス。わからないの?生きていてもしょうがないと思ったことも何度もあるわ。あなたへの気持ちがなければ…あなたへの愛に苦しんできたの、マキシマス…初めて逢った日から…それから毎日ずっと。」

マキシマスは天井を見上げて瞬きした。息を呑み込んだ時、咽喉の筋肉が痛んだ。彼は目を閉じ、縛りつけられている柱の金箔に飾られた大理石に頭をもたせた。

ジュリアの苦しい怒りはおさまらなかった。「それなのに、あなたは私の事なんか一度も思い出さなかったでしょう?違う?家族とローマ帝国を守るのに忙しかったものね。考える暇もなかったでしょう、奴隷で娼婦の小娘のことなんか!」

「そんなことはない」マキシマスはつぶやいた。目は閉じたままだった。

ジュリアは彼のすぐそばまで来て両腕を掴み、不気味な低い声で言った。「なら、どうして手紙に返事をくれなかったの?」

ジュリアもマキシマスもアパートメントのドアが開く音を聞かなかった。アポリナリウスが部屋に入ろうとしたところで、彼女の最後の言葉を聞いて止まったのに気づいていなかった。「おっと、」彼はそっとつぶやいてこっそりと出て行った。

「手紙?」マキシマスは目の前にある彼女の顔を見て、途惑った声で言った。

彼女はくるりと背を向け、また振り返った。手を腰に置いて首を傾げ、彼を糾弾する姿勢になっていた。「あなたは確かに手紙を受取ったって聞いたわ。受取らなかったとは言わせない。」

「ああ、受取った。でも…」

「なのに、返事をくれなかったじゃない!」

「ジュリア…」彼はどうかわかって欲しい、と言うように言った。「あの手紙を受取った時、おれはカストラ・レジーナにいた。それから数時間と経たないうちに、蛮族軍が攻撃をかけてきたんだ。ちゃんと読んだ。返事も書き始めていた…でも、時間がなくなってしまった。ジュリア…戦争中だったんだ。翌日、おれの基地も攻撃されて、何百人という部下を失った。おれは重傷を負って…」

彼女は腕を組んだ。顔が赤くなっていた。「後で返事を書けばよかったじゃないの。」

「手紙がなくなってしまったんだ。テントを畳む時に紛れ込んでしまったらしくて、見つからなかった。」

「手紙がなくなったって返事は書けるでしょう?」

マキシマスは乾ききった唇をなめた。「君の名字も、住所も思い出せなかったんだ。従者に探させたんだが、見つからなかった。だれが見つけたと思う、ジュリア?最後に見つけたのは誰だと思う?」

ジュリア口を頑固に引き結んでいた。

「おれの女房だよ。他ならぬ妻だ。あの時、ヴァンドボーナで一緒だったんだ。君が誰なのか、どうして彼女が聞いたこともない女から手紙が来たのか言い訳しなきゃならなかった…オリヴィアはラブレターだと思いこんでいたんだ。」

彼の言葉が聞こえていなかったように、彼女は言った。「本当に住所が知りたければ、調べればよかったじゃないの。」

突然、マキシマスの怒りが爆発した。彼は鎖を引いて身体をよじった。「戦争だったんだ!おれは将軍で、軍隊を率いていたんだ!

ジュリアはびっくりして後によろめき、心臓に手を当てた。彼が声を荒げるのを聞いたことがなかった。黒海のほとりでカシウスの陰謀を止めようとしていたあの危険な時でさえも。雷に打たれたみたいだった。彼女は宥めようと手を差し伸べたが、彼の怒りは海の嵐のように手がつけられなかった。

「おれは戦っていたんだ!守っていたんだ…ローマの街を、ローマの市民を、ローマの兵士を!おれは国を守るために戦っていたんだ!でも、おれは負けた、ジュリア、負けて全てを失った!おれの家族も、おれの皇帝も、軍隊も…自由さえも!それなのに、君はずっと下らん手紙のことなんか気にしていたのか!」マキシマスの息は荒く、顔は上気していた。彼はうつむいて悲しげに首を振った。「君が気にしていたのは下らん手紙のことか」彼は疲れ切った声で繰返した。彼は柱にぐったりともたれた。彼は突然顔を上げ、苦い笑い声を上げた。「今夜の目的はそれなのか、ジュリア…手紙のことでおれに罰を与えるためか?アポリナリウスとかいう君の友達にいじめられたのもそのためか?その後何時間も、これからレイプされるんだと思いながら鎖に吊るされていたのも…一週間、君の友達の性奴隷にされるんだと思わされたのも?…昔の君みたいに?」マキシマスはまたうつむいて柱にもたれた。「君がその手でまたおれを縛りつけたのはそのためか?立場が逆になったんだという事をはっきりさせたかったのか?」

「ちがう」ジュリアは口を動かしたが、声が出てこなかった。

「それで、もう満足か、ジュリア?復讐は充分したか?手紙の返事が来なかった事や、奴隷として生まれた事に?まだおれを罰し足りないか?」彼は乾いた笑い声を上げた。「それなのに、おれが復讐に生きているって非難するのか。」

ジュリアは椅子に沈み込んだ。手足が震え、顔は蒼白だった。黄土色の猫が遊んで欲しくなったのか、彼女の膝に飛び乗った。しかし、彼女は猫がそこにいるのにも気づかなかった。猫はすぐに膝から飛び降り、尾を立ててぴくぴく動かしながら憤然と歩み去った。

マキシマスは猫を目で追った。目をそらすものがあったのがありがたかった。ジュリアは猫を見ている彼を見つめながら、惨めな気持ちで彼の言った事を考えた。彼にそんなことをしてしまったのだろうか…手紙に返事をよこさなかった罰を与えてしまったのだろうか?私が奴隷として生まれたのに、彼は自由民として生まれたことを罰したのか?私を愛さなかった事を罰したのか?

猫は優雅に食事の用意されたテーブルに飛び乗り、用心深い足取りで小エビの方へ向かった。マキシマスは反射的に唇をなめ、どんなに空腹で喉が渇いていたか唐突に思い出した。

二人は部屋の端と端に黙ってじっと立っていた。二人とも耐え難い悲しみと苦しみを抱えながら、お互いを慰める事が出来なかった。ジュリアはようやく、萎えてしまったような脚で無理に立ち上がった。彼女は鍵を拾ってマキシマスにゆっくり近づいた。何も言わずに、彼女は鎖の錠を外し、床に落とした。彼は彼女の手を見ていた。顔は見なかった。

「私は疲れたわ、マキシマス…もうすぐ夜明けだし。」彼女は彼の胸に向って言った。「少し寝たいわ。あなたもでしょう。部屋は用意していないの…今頃あなたは船に乗っていると思っていたから。でも、そこに予備の寝室があるから…」彼女は閉じたドアの方へ頭を振った。「あの部屋には窓がないから日が射さないの。遅くまで寝ていられるわ。ただ、ちょっと女っぽい部屋だけど。私は一人暮らしで、このアパートメントに男性が泊まったことはないから。」

マキシマスはその言葉を不思議に思い、手枷から鎖を外しながら「旦那さんは?」と訊いた。

「名前だけだったの。一緒に寝たことはないわ。奴隷の身分から解放された時に誓ったの。もう二度と、男に身体を与えることはしないって…その人を愛しているのでなければ。夫のことは好きだったけど、愛してはいなかった。だから…ずっとここに一人で住んでるの。」

マキシマスは彼女の蒼ざめた頬をなでてやりたいと思った。しかし、そうしなかった。彼は彼女を抱き寄せて、この世の不幸から守ってやりたいと思った。しかし、出来なかった。

「アポリナリウスに頼んで、その鉄の手枷を何とか外す方法を考えてもらいましょう。もっと楽な服とサンダルも、彼が持ってきてくれるわ。ここに一週間いるのなら、楽にした方がいいものね。起きたらお風呂に入るといいわ。」

彼はうなずき、彼女が自分の寝室に行ってそっとドアを閉めるのを見つめていた。ドアが閉まるとすぐに、向うから泣き声が聞こえ始めた。

マキシマスは寝る気になれなかった。彼は寝るように言われた部屋のドアをちらりと見て、それから食事の方を見た。食事は三匹の猫たちにすっかり食い荒らされてしまっていた。この食事はどうせ無駄になるのだから、と猫たちは思ったらしい。ジュリアは泣き続けていた。

彼は新鮮な空気が吸いたくてたまらなくなり、テラスに出て大理石の手すりに手をついた。外はまだ暗く、東の空はほんの僅か白んでいるだけだった。遠くに街の灯がちらほらと見えたが、その向うは真っ暗闇だった。マキシマスは深く息を吸った。海だ。潮の香りが今ははっきりとわかる。

「将軍?」

アポリナリウスが庭に立って彼を見上げていた。マキシマスは背を向けかけた。

「将軍!お願いです!弁解とお詫びをさせて下さい。お願いします。」

マキシマスは渋々手すりのところに戻った。

「ありがとうございます。あの…さっきも言いましたけど、今夜は本当にすみませんでした…あなたにひどい思いをさせてしまって。あなたがあんなに長くあそこに縛られたままになるとは、本当に思わなかったんです。」

「鍵を持ってたのは君だろう」マキシマスは冷たく言った。

「はい、わかってます。でもジュリアが来て、ちょっとでも長くあなたと一緒にいたいって言うんで…あなたはすぐ船に乗ってしまうと思っていましたし…彼女がどんなにあなたを愛しているか考えると…ぎりぎりまであなたと一緒にいさせてあげたいと思ったんです。」

「おれは独りだった。」

「後で知りました。申し訳ないとしか言えません。ジュリアは素晴らしい女性です。どうしてこんな事をしたのか考えてみたんですが…わざとあなたを苦しめようとしたんじゃないと思います。そんなはずはありません。彼女はあなたを愛しているんです。心から。剣闘士のマキシマスが本当にマキシマス将軍だってわかった時、死にそうなぐらいショックを受けてました。彼女はずっと、あなたが何事もなく幸せに暮らしていると思っていたんです。そうじゃないと知った時の嘆きようといったら…」

マキシマスは腰を手すりにもたせ、腕を組んで暗闇を見つめていた。

「今夜の彼女の態度を弁解しているわけじゃないんです…それを言うなら、僕の態度もですけど。何だか…何だか信じられなくて…あなたのように強い人に僕が命令出来るなんて…それで、調子に乗ってしまって…ほんとに恥ずかしいです。」

マキシマスは手で髪をかき上げてくしゃくしゃにした。彼は黙ってアポリナリウスを見下ろした。

それは話を続けろという合図だった。「お二人の会話が…というか、お二人の言い争いが聞こえてしまったんですけど…将軍、ジュリアが何であんなに頑固に手紙にこだわっていたのかわかりません。そりゃあ、返事が来なかったときはとてもがっかりしてましたけど、もう忘れていたはずです。実際、もう何年も手紙の事なんか一言も口にしてませんでした。でも今夜は…彼女はただ、何か…わかりやすいものに託したかったんだと思います。自分の…失望を…それで、手紙の事を言い出したんでしょう。」

「失望?」

「はい。つまり、ジュリアはあなたを救えると思っていたんです。あなたが自分を救ってくれたように…あなたを自由にして上げられると思っていたんです…自分が自由にしてもらったように。なのに、あなたはそれを許さないって言う。許さずに、おそらくは死につながる道を選んで…また彼女から去って行ってしまう…」

マキシマスはため息をついた。「おれの人生は複雑なんだ。外見には単純に見えるかもしれないが、今でもいろいろこみいってる。おれには果さなければならない義務があって、どんな代償を払ってもやらなければならないんだ。その代償は、おそらくおれの命で払うことになる。」

「将軍、あなたはジュリア差し出した自由を拒否して死を選ぶんですか?」

「選ぶ?おれに選択の余地はない。君もジュリアも、どうしておれが自由に選べるなんて思うんだ?」

アポリナリウスは混乱した。「僕はてっきり…」

「君は勝手な想像をしすぎる。おれには使命がある。選択の余地はない。残念だが、その道にはジュリアが入る余地はないんだ。」

「残念…?」

マキシマスは背を向けかけ、思い直して戻って来て、苛立ったようにぐるぐると歩き回った。彼は喋ろうとして言葉を切り、また話しはじめた。「ジュリアほど美人で賢い女性が好きだと言ってくれるのが嬉しくないと思うか?もっと時間がありさえすれば、愛し返すことだってできるかもしれない。でも、アポリナリウス…おれには時間がないんだ。選択の自由もない。おれがここに来た事で、誰も彼も余計に辛い思いをする。ローマの牢に放っておいてくれた方がよかったんだ。」

「わかってませんでした。改めて、申し訳ありませんでした、将軍。」

マキシマスはうなずいただけで、東の空に目を戻した。赤い太陽が水平線から昇り始めていた。赤みがかった黄金。ジュリアの髪のようだ。奴隷の身分から逃がしてあげるという申し出を拒否するおれは愚かだろうか?今までずっと、自分の幸せより義務を優先させてきた自分は馬鹿だっただろうか?他に生き方を知らないのだ。14の歳から、任務を負って育ってきたのだ。庭に立っている男を最後にちらりと見てから、彼は居間に戻った。ジュリアの部屋から、もう泣き声は聞こえなかった。

 

 

ジュリアが寝室から出てきた時には、もう夕食の時間に近くなっていた。豊かな髪はくしゃくしゃで、泣きながら眠ったためにまだ目が少し腫れていた。彼女はクリーム色の絹のガウンを羽織り、マキシマスの部屋のドアをそっと開けた。居間からの銀色の光が部屋を照らした−ベッドには寝た形跡がなかった。ジュリアはドアを閉めた。心臓が早鐘を打ち始めた。彼は思い直して逃げてくれたのだろうか?アポリナリウスと話した後で?彼女はパニックを起こしそうになりながら振り返り、立ち止まった。マキシマスはテーブルの横のソファに寝そべって静かに寝息をたてていた。毛並みのいい黒猫が彼の胸の上に丸くなり、彼が息をする度に上がったり下がったりしながら満足げにごろごろとのどを鳴らしていた。彼は猫にそっと片手をのせていた。ジュリアはこっそりと近づいた。そのソファは彼には短すぎた。片脚はアームにかかり、片脚は膝を曲げてブーツの足を床につけていた。チュニックがまくれあがり、日焼けした筋肉質の脚がほとんど見えていた。彼は革の鎧を着けたままだった。よっぽど着慣れているのだろう。猫にのせていない方の手はソファの背にかけて、指をゆるやかに曲げていた。顔はかなり無理な姿勢でソファの背に向けられていた。髪はくしゃくしゃだった。もっと近くで見ようと歩き出すと、何かに足が当たり、絨毯の上を転がって行った。銀のワイン壷。空っぽだった。あんな恰好で寝ていて平気なわけだ。昨夜最後に見た時はいっぱいだった。猫はワインを飲まない。何も食べずにこんなに飲んで。

彼女は彼の手を落ちないように支えながら胸から猫をそっとどかせ、床に置いた。猫は優雅に伸びをして空いている椅子に飛び乗った。ジュリアはソファの側の絨毯に座り、マキシマスのぐったりした手を持ち上げて猫のいた温かい場所にそっと頭をのせた。彼の手が髪の中に落ちた。彼はすやすやと眠り続けていた。ジュリアは革を通して聞こえる力強い、ゆっくりした心臓の鼓動を聴きながら、昨夜居間から聞こえた言葉を思い出していた。「もっと時間がありさえすれば、愛し返すことだってできるかもしれない。」一週間。時間はたっぷりある、とジュリアは思った。

 

第18章 謁見

ドアのスロットが開いた。グラウクスは革の寝台に拳を突いて起き上がり、ドアまで歩いて行って朝食を受取ろうとした。彼は盆に手を伸ばしたが、食事は手の届かない所にさっと引っ込められた。「ああ、面白いよ」囚人は言った。「ここに閉じ込めておくだけじゃ物足りないか?いじめないと気が済まないのか?」食事の盆は戻って来なかったが、スロットは開いたままだった。彼はかがんで狭い穴から外を覗き見た。二つの目が覗き返していた。彼はぎょっとして一歩下がり、足を踏みしめて「誰だ?」と用心深く訊いた。

返事はなかった。彼は相手の目を…見知らぬ人間の、瞬きもしない目を見つめた。「誰だ?」彼はもう一度訊いてみた。

返事はなかった。

「僕はグラウクスだ。あんたは誰なんだ?」

ぎらぎら光る目はこちらをじっと見つづけていた。

「なあ、食事なら分けてやるよ、もし欲しいんなら。でも、全部は困る。腹が減っているんでね。」

「目」は反応しなかった。

グラウクスはぞっとして脚が寝台にぶつかるまで後ずさりし、そのまま座った。こちらからスロットを閉める方法があったらいいのに。この狭い牢では、食い入るような視線を逃れる術はない。

スロットはようやくぱたんと閉まった。その後すぐ、ドアが開いて衛兵が入って来た。グラウクスは衛兵の目を見た−さっき自分を見つめていた目とは違う。「立て」衛兵は命令した。

グラウクスは躊躇した。処刑されるのだろうか?

「立て!」衛兵は怒鳴り、手を剣に伸ばした。

グラウクスは立ち上がった。頭の中がぐるぐる回っていた。父のように行方知れずになってしまうのだろうか?後で家族がゲルマニアにやって来て−かつてマキシマスを探しに来たように−何の手がかりもつかめない、という事になるのだろうか?ここに痕跡を…彼がここにいたという徴を残せるだろうか?ジョニヴァスがいるが、あの老人はここには来ていない。背中に置かれた手が彼をドアから押し出したので、彼の物思いは途切れた。ドアの外には衛兵がさらに三人いた。「荷物を取って来ないと」グラウクスは言った。

衛兵たちは彼が外国語でも喋ったように無反応に彼を見つめていた。

「荷物です。牢にあるんです。もし釈放されるなら、荷物を取って来ないと。」

「なぜ釈放されるなんて思うんだ?」衛兵は冷笑を浮べた。

「だって、そもそも拘束する理由はないでしょう。」

「我々の決めることではない」衛兵はそう答えたが、仲間に合図して彼の荷物を取って来させた。

よい徴候だ、とグラウクスは思った。彼は衛兵に連れられて牢を出て、数週間ぶりに新鮮な空気を吸った。初めて見た時とは違い、基地は活気に溢れていた。兵士たちが軍隊生活にかかわるありとあらゆる仕事を遂行していた。グラウクスは軍隊の普段の姿に魅了され、一瞬自分の心配を忘れた。一行は別の石の建物まで歩いた。ためらう暇もなく、彼は中に入れられた。それは共同浴場だった。

 

少し後、濡れた髪をして、自分の汚れた服の代りに兵士のチュニックを着た彼は再び父の家の敷居をまたいだ。前に二人、後に二人の衛兵がついていた。思った通り、ヴェスニウスが待ち構えていた。しかし将軍は彼をちらりと見ただけでグラウクスが見たことのない部屋のドアをノックした。ドアが開くと、ヴェスニウスは衛兵にうなずいてグラウクスを中に入れさせた。

部屋は今までいた牢とほとんど同じぐらい暗かった。グラウクスは一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。暗闇の中にぼんやりした影がうごめき、今にも飛びかかってきそうに見えた。彼はゆっくり前に進んだ。大理石の皇帝像が左に、反対側には大きな黄金の鷲章があり、そこらじゅうに盾や剣や徽章があった。部屋は狭く、ごたごたと色々な物が詰め込まれていて、濃すぎる香の匂いが立ち込めていた。グラウクスが豪華な黄金の椅子に座っている小柄な人物に気づくのにしばらくかかったのも無理はなかった。椅子は大きすぎ、男を呑み込まんばかりだった。皇帝?ローマ皇帝なのか?グラウクスは混乱してしかめっ面の男を見つめた。

「無礼な若造め、膝をつけ。皇帝の御前だぞ!」耳元でうなり声がして、グラウクスはびくりとした。

彼は床に膝をついて頭を下げ、その隙に考えをまとめようとした。ローマ皇帝の御前に呼び出されたのか。何故?

「立ちたまえ、若者よ。君の顔が見たい。」別の声が言った。思った通り、それは皇帝その人の命令だった。彼はぱっと立ち上がって椅子の前に立った。息は荒く、手足が震えていた。黒衣の近衛兵が彼の左に来た。その豪華な軍服から見て、相当に地位の高い軍人なのだろう。グラウクスはどこを見たらいいのかわからなかった。二人とも黙ったまま、彼をじろじろと眺め回していた。多分、何か訊かれない限りこちらからは口をきかない方がいいのだろう。彼はどうしていいのかわからなかったので、ただ腕をぴったり脇につけ、足元を見つめたまま黙っていた。

「君の名はグラウクスだね?」永遠とも思える時間の後、皇帝が訊いた。

「はい、陛下。」呼び方はこれでいいんだっけ?

「マキシマス・デシマス・グラウクス?」

「はい、陛下。」彼は繰り返した。

「君の父親はマキシマス・デシマス・メリディアス将軍か?フェリックス連隊の将軍の?」

「はい、陛下。」彼はまたそう答えた。

「マキシマス将軍には息子は一人しかいなかった筈だ。どうして二人いるんだ?」

「父をご存知だったんですか?」

「答えろ。」

「父は僕のことを知らなかったんです。」

「何故だ?」

「僕を身篭ったこと、生まれたことを母が隠していたからです。父はここ、ゲルマニアにいて僕を見に帰って来れなかったので、帰って来られるまで知らせない方が父のためによいと思ったようです。」

「それで、君に会った後も、二人目の息子の事を誰にも言わなかったのか?おかしな話だ。」

「父は僕に会っていないんです。その前に行方不明になりました。」

セヴェルスは少しの間黙っていた後、「君は父親に関する情報を探しに来たんだね。」と言った。

「はい、陛下」グラウクスは、今度は少し希望のこもった声で言った。彼がようやく視線を上げると、皇帝は厳しい顔で真っ直ぐこちらを見つめていた。

「どんな情報が欲しくて来たんだ?」

見るなとは言われなかったので、グラウクスはセプティミウス・セヴェルスを見つめ続けていた。この男は皇帝としては失望ものだった。紫のローブと金の勲章を着けて黄金の月桂冠をかぶってはいたが、グラウクスはもっと大きな、もっと王者らしい威厳のある人物を想像していたのだ。「18年前、父が失踪した理由を知りたいのです、陛下。」

「それで、何がわかった?」

「ほとんど何もわかっておりません。父の事については、意見の対立があるようで…それに、父が死んだのか、生きているのかもはっきりしていないのです。あの…陛下は何かご存知でいらっしゃいますか?」皇帝に直接質問してもいいのだろうか?

セヴェルスは気にしない様子で、すぐに答えた。「コモドゥスは無責任な、情緒不安定な皇帝だった。何一つ満足にやり遂げられなかった。」

「『何ひとつ』とおっしゃいますと?」グラウクスの目は武装した近衛兵に引き付けられた。彼はグラウクスが皇帝と話している間、ずっと彼を観察していて、今は背後に回っていた。その男が死角に入ると、グラウクスはなぜかとても落着かない気分になった。

セヴェルスは彼の不安に気づいていないか、いたとしても無視していた。「マキシマスは逃亡したのかもしれないし…収監されているのかもしれん。帝国を出て野蛮人と暮らしているのかもしれん…しかしまた、死んだという事も有り得る。」

「死体は見つかっていません…」

「そんなことには何の意味もない。」セヴェルスは目を細めて首を傾げた。「会ったこともない父親を、どうしてそんなに見つけたいんだ?会いたがらないかもしれないぞ。おそらく、新しい家族が出来て、君の存在は迷惑なだけだろう。忘れたい過去を思い出させるだけの存在だ。」

「父はそんな人ではありません…」グラウクスは右側にさっと目を走らせた。近衛兵はそこにいて、値踏みするように彼を見つめていた。この目…牢のドアのスロットから見つめていた目に間違いない。グラウクスは微かに身震いした。

「父親がどんな人間だったのか、君にどうして分かる?」皇帝は鋭く言った。「彼は権力の座には相応しくない男だった。皇帝も軍も、彼を高く評価していたようだが…」

皇帝の言葉に、グラウクスは途惑った。「権力?父は農夫で、スペインの家族の元に帰る事の他には何も望んでいなかったはずです。僕の望みは、父がどうしてその望みを叶えられなかったのかをつきとめる事と…父のローマへの忠誠に疑いを持つ者がいるなら、その疑いを晴らす事…それだけです。」

セヴェルスは彼の方へ身を乗り出し、首を突き出して目を細めた。「私の言っているのは本物の権力の事だ。軍隊内だけの権力などではない。」彼は囁いた。「本物の力だ。」

グラウクスは毛が逆立つのを感じた。「父は全軍の指揮を執る事も出来る優秀な指揮官でした。皇帝にどんな権限を与えられたとしても、立派に義務を果す事が出来たはずです…」

セヴェルスは椅子の手摺を叩いた。「それでは…認めるんだな!お前がここに来た真の目的を!」

皇帝の言葉は再びグラウクスを当惑させた。彼は首を振っただけで何も言わなかった。

「しかし、神々のご決断は違っていた。そうじゃないか?神々は他の人間を皇帝にお選びになった。」

「あの…陛下、僕には何のことやら…」

「分からんと言うのか?」皇帝は皮肉たっぷりに言った。彼は背筋を伸ばし、座ったままで精一杯自分を大きく見せようとした。「それで、探求の旅に出たというわけか。要は何を探しているんだ?」

「真実です、陛下。」

近衛兵が玉座の横に立って振り返り、腕を組んだ。目はグラウクスを睨んだままだった。

皇帝も腕を組んだ。二人は恐ろしげな一対をなしていた。「それで、真実がどこにあればいいと思っている?」

グラウクスの緑の瞳は二人の間をさまよった。「僕は…ただ、心の平安を求めているだけです。父に何があったのか、どうしても知りたいのです。それだけです。」

「私をだませると思うな。お前の本当の望みはわかっている。」セヴェルスは両手で椅子の手摺を掴んで立ち上がった。彼は一瞬、顔を歪めたが、すぐに表情を変えた。その物腰は唐突に柔らかくなった。「そうだな…君が心の平安を取り戻す手助けをしてやれるかもしれん。」

グラウクスは息を呑んだ。「陛下?」

セヴェルスはゆっくり時間をかけて、慎重に言葉を選んだ。「父親の足跡を探したいなら…トラキアへ行くといい。」

冷酷な目が皇帝を不思議そうにちらりと見て、それからグラウクスに戻った。

「トラキア?何故トラキアなんですか、陛下?」

「君の父親はトラキアにいたことがあったと思う。そこに戻ったかもしれん。」

セヴェルスがこちらへ向って来たので、グラウクスの質問は舌の上で消えてしまった。皇帝の動きがひどくゆっくりなのに、グラウクスは初めて気づいた。セヴェルスは若者の顔をじろりと見上げ、それからグラウクスより背が低いのがあまり目立たぬように二歩下がり、下がりながら顔をしかめた。グラウクスはじっと立っていた。恐いというより、わけがわからなかった。

セヴェルスはにっこりして、マキシマスの息子を眺め回した。彼は若者の肩を掴んで言った。「軍服が似合うじゃないか。そう思わんか、プローティアヌス?」

近衛兵はゆっくりとうなずいた。彼は目を伏せていた。「まったくです。」

グラウクスはいつもの黒の代りに着ている簡素な灰白色のチュニックを見下ろし、セヴェルスに視線を戻した。「自分のは汚れてしまったんです。長いこと牢に閉じ込められていたので…陛下、僕はどうして逮捕…」

「兵士になろうと思ったことはないのか?父親のように?」グラウクスの次の質問が答えたくない物なのに感づいて、セヴェルスは口を挟んだ。

「僕は農夫です…父と同じく。」

セヴェルスはその答えを振り落とすように手を振った。「兵士の仕事は農民の仕事より遥かに重要だ。兵士は帝国の民を守る。君の父親は、帝国国民を守っていたんだ。」

「そしてその努力の報いとして、地位を追われて処刑の命令を受けました。」

皇帝はまたしかめっ面になった。「そう結論を急ぐな。さっきも言ったように、コモドゥスは情緒不安定だった。マキシマスの仕えたのが私なら、事情は違っていただろう。君の父上のような優秀な軍人が私の下にいてくれたらと思うよ。」

「先程陛下は、父は権力の座には相応しくないと…」

プローティアヌスがグラウクスの方へ飛んで来て、殴ろうとするように手を上げた。グラウクスは瞬きもせずにじっと立っていた。近衛兵はゆっくりと手を下ろした。「皇帝陛下に異を唱えるとは何事だ。」

玉座の方へゆっくり戻って来る近衛隊長を、セヴェルスは燃えるような目で睨みつけた。彼は背中を支えるクッションをこっそり直してから慎重に腰を下ろした。

どこか具合が悪いのだろうか、とグラウクスは思った。

何回か深呼吸をしてから、セヴェルスは若者に向って言った。「君は父親の勇気を継いでいる。いいことだ。君のような部下が必要だ。」セヴェルスは顔に感じの良い微笑みを貼り付けようとしたが、唇がますます薄くなっただけだった。「実は…君に私の近衛隊に入って欲しいと思っているのだよ。」グラウクスがぽかんと口を開けたのを見て、彼はあわてて手を差し上げた。「ローマ市民なら誰でも、私の言葉を光栄と思う筈だ。」

「あの…たいへん光栄です、陛下。僕に近衛隊に入るほどの能力があると思って頂けたのは。しかし僕は…何より先に、父に関する疑問を晴らすことが出来ないのなら、ローマ帝国にも皇帝陛下にもお仕えすることは出来ないと思うんです。」

プローティアヌスは剣の束に手をかけ、脅すように一歩前に出た。「皇帝陛下直々のお言葉を拒否すると言うのか?」

グラウクスは黒衣の近衛隊長を見た。「拒否するのではありません。時間を頂きたいだけです。」

プローティアヌスはマキシマスの息子の目の前に立った。「貴様、これがどれほど異例のことか分かっているのか?貴様の様な、訓練も受けていない…兵士ですらない素人が、帝国中で最高級の隊に抜擢されたのに、それを断るだと?」

グラウクスは彼を真っ直ぐ睨み返し、低く静かな、しっかりした声で言った。「今は都合が悪いんです。」

「誰の都合だ?」プローティアヌスは怒りのこもった大声で怒鳴った。「貴様か?大事なのは皇帝が何をお望みになるかだ。貴様の都合などどうでもよい!貴様は臣下だろう!」

「まあ、まあ、プローティアヌス」近衛隊長の背後からセヴェルスの声がした。「これは命令というわけではない。お前の言い方では、引き受けてくれるものも引き受けてくれなくなる。」皇帝の言葉に、プローティアヌスは渋々横に下がった。その目はグラウクスを呪い殺さんばかりに睨みつけていた。セヴェルスが話を続けた。「マキシマス・デシマス・メリディアスの息子が私の腹心になってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。私の未熟なる前任者が君の家族に行った不善に対する、せめてもの償いになる。」

グラウクスははっきり「ノー」と言わずに断る方法を探していた。「お許し下さい、陛下…僕はこの旅を何年もかけて準備して来たのです。求める答えが見つかるまでは前進しなければなりません。その事を常に気にかけたままでは、満足にお仕えすることは出来ないと思うのです。」…生きて明日の朝を迎えることが出来るだろうか?

「わかった、わかった、グラウクス。」セプティミウスは笑って、「負けた」というように手を上げた。「好きなようにしたまえ。」

プローティアヌスは皇帝を恐ろしい目で睨みつけたが、完全に無視された。

「それでは、釈放して下さるのですか?」グラウクスが訊いた。

「ああ、ああ。行ってよろしい。」

グラウクスはためらった。「僕の剣を返して頂けますか?」言ったとたん、彼は言い過ぎてしまったのに気づいた。

「駄目だ!君は私の部下3人に傷を負わせた。ちゃんとした兵士の訓練を受けるというなら、武器は返してやろう。」

グラウクスはまだためらっていた。

「行かないのなら、私は気を変えてまた牢に放り込むかもしれんぞ。」

「父の肖像画のことなんですが…陛下が塗りつぶすように命令なさったと聞きました。おっしゃるように父を尊敬なさっていたのなら、なぜそんなことを?」

セヴェルスは苛立ちをあらわにして言った。「ローマに命令されたからだ。さあ、とっとと出て行け!」

今度は、グラウクスは何も言わずに命令通りにした。

 

「反逆を許しておくのか!」グラウクスが消えたとたんに、プローティアヌスは怒鳴った。

「簡単に脅せる相手ではないぞ。」

「お前にとってはな。」

「お前のやり方はああいう男には通用しない。やつの父親もそうだった。」

「なら…どうするつもりだ?」プローティアヌスは不機嫌に言った。セプティミウスがグラウクスを釈放してしまったのに不満な様子だった。

「尾行させる。毎日、毎分、どこへ行こうと。やつが何をしたか毎日報告させろ。何か不審な動きがあったら即座に報告させること。お前の部下を4人つけろ。やつに気づかれるなよ。」

「そんな必要があるのか?あいつはお前が何の話をしているのかさっぱり分かってなかったようじゃないか。」

「分からんふりをしていただけだ!」セヴェルスは怒鳴った。「奴は知っているに決まっている。私を油断させて、目を離した隙に私を廃位に追い込む画策をするつもりだ!」

「どうしてトラキアに行かせた?」

「トラキアなら安全だ。私に送られて来た例の書類の写しは、東方のどこかから送られている。トラキアはローマでも東方でもない。しかし、東方に近いから書類の原本を持っている奴がグラウクスを見つける可能性もある…そうなったら、我々の出番だ。それに、ローマにはマキシマスを知っている人間が多すぎる…将軍として、あるいは剣闘士として。彼の息子にはローマへ行かせたくない。トラキアにいる分にはやつは無害だ。あいつが基地を出る前に、部下の準備を整えさせろ。それから、忘れるな…あの書類を、必ず手に入れるんだぞ。」

そしてその後、奴を始末する−とプローティアヌスは考えた。それに…トラキアは人間が消え失せるにはもってこいの場所だ。

 

第19章 剣

Maximus' sword ゼウスが突然吠え始め、ジョニヴァスは昼寝から覚めた。彼は数回鼻を鳴らし、がっくりと胸に落ちていた頭を持ち上げた。昼寝は、老齢と共に身に着けた習慣だった。彼は半分目を閉じたままでよろよろと椅子から立ち、庭に向った。「シーッ」彼は犬を静かにさせようとした。しかしゼウスは吠え続け、庭を囲む塀のドアに駆け寄っては戻り、興奮した様子でぐるぐると回っていた。

「誰かいるのか?」ジョニヴァスは大声で怒鳴り、護身用にいつも側に置いている棍棒に手を伸ばした。

「僕です、グラウクスです。ジョニヴァス、入れて下さい。急いで!」

老人は閂を外した。グラウクスはドアを押し開け、急ぐあまりジョニヴァスにドアをぶつけそうになった。若者は肩越しにちらりと後ろを見て、ドアをばたんと閉めて閂を掛けながらもう一方の腕で興奮している犬を押えた。

「何だ?何が…」ジョニヴァスは混乱してつぶやいた。グラウクスは喋らないように合図して彼の腕を掴み、家の中へ引っ張って行った。中に入ると、グラウクスは家のドアにもしっかり閂をかけた。

「一体どうしたんだ?何があった?」ジョニヴァスは台所の近くの椅子にがっくりと座りこんだグラウクスに訊いた。ゼウスは彼の膝を登るようにして、長い舌で彼の肌の出ているところをなめまわしていた。

「僕も知りたいですよ。ジョニヴァス、僕はこの2週間、基地の牢屋にいたんです。あなたの建てた牢です。」

「何だって?」

「はい。知らなかったんですか?」

「もちろん知らなかった。どうして知っているわけがある?」

「兵士を遣ってあなたに伝言してくれってヴェスニウス将軍に頼んだんです。でもあなたは来なかったから、約束は守られなかったんだろうと思ってましたが。」

「何があった?君、何をしたんだ?」

「僕は何もしていませんよ、ジョニヴァス。カストラ・レジーナの宿屋にいたら、夜中にいきなり兵士が6人来て拉致されたんです。それからここに連れ戻されて牢に放り込まれました。今日までずっと閉じ込められていました…それで、やっと出られたと思ったら…何のためだったと思います?」

ジョニヴァスは首を振った。彼は目を心配そうに見開いていた。

「皇帝と謁見するためだったんです。」

「まさか」ジョニヴァスは驚いて、大声で言った。

「本当です。セプティミウス・セヴェルス、その人でした。」

ジョニヴァスは別の椅子にゆっくりと沈み込んだ。「皇帝が君に何の用だったんだ?」

「近衛隊に入らないかって言われました。あんな妙な話は初めてですよ、ジョニヴァス。皇帝は僕が何か狙っているみたいな…何かたくらんでるみたいな…というか、僕が何か知ってるみたいな言い方をしていて…何の事だかさっぱりわかりませんでした。僕の望みは父について知る事だけだって言ったんですけど、信じてもらえなかったようです。」

ジョニヴァスは急にひどく心配になってきた。「皇帝が近衛隊に入れなんて言ったのは、君を側において監視したいからだ。他に説明がつかない。」

「でも、何のために?どうして僕なんかにかまうんです?ローマ皇帝ともあろう人が、どうして僕なんかを監視する必要があるんですか?」

ジョニヴァスは心配そうに眉をひそめてゆっくり立ち上がり、ワインのデキャンターと2つのゴブレットををテーブル持って来た。しかし、注ぐ前にグラウクスがデキャンターを掴んで、中身を直接咽喉に流し込んだ。ジョニヴァスは若者の手が微かに震えているのに気づいた。彼がいつもの漆黒の代りに兵士のチュニックを着ているのにも気づいた。彼は食べ物を取りにもう一度席を立った。「グラウクス、お父さんがいなくなった夜に起こったことを全て知っている人間は誰もいないんだ。何人かの人間が、それぞれ情報のかけらを持っていて…全てを繋ぎ合わせることの出来るのは多分、お父さんだけだったんだろう。皇帝は君も何か知っていると思っているようだな。何か皇帝の不利益になることを知っていると思っているんだ。」

「でも、何を?僕が何を知っているって言うんです?父に会った事さえないのに。」

老人はパンとチーズと塩漬けの肉を持って、足をひきずりつつテーブルに戻って来た。グラウクスは膝からゼウスの前足をどかせて手助けしようと立ち上がった。しかしジョニヴァスは首を振って断った。「座れ、座れ…2週間牢屋に閉じ込められていたのは君の方だろう。」彼はグラウクスの前に食べ物を置いて腰を下ろし、話を続けた。「わからんな。皇帝自身にもわかっとらんのかもしれん。彼は何て言ったんだ?」

グラウクスはパンを裂き、がつがつと口に押し込んで食べながらもごもごと話した。「何だか、『権力』の話ばかりしていましたよ。神々が皇帝を選んだとか、父は本物の権力には相応しくないとか…『本物』の権力だ、と強調してましたよ。何か意味ありげに。」

ジョニヴァスはテーブルの上で腕を組んで、木の表面を見つめながらグラウクスの言った事をよく考えた。「どうも、セヴェルスはマキシマスが自分の帝位に対する脅威だと…あるいは、脅威だったと…思っているようだな。それは、つまり、君も脅威になりうるって事だ。」

「そんなの馬鹿げてますよ、ジョニヴァス。僕は兵士でもないし、政治家でもない。」

「君のお父さんは大変な力を持っていたんだよ、グラウクス。単なる将軍ではなかった。彼はローマ帝国軍全軍の支持を得ていた。皇帝にも愛されていた。マキシマスは望む物全てを手に入れられたはずだ…望めば、どんな地位にでもつけた。」

「でも、父の望みはスペインに戻ることだけでした。僕はセヴェルスにそう言ったんです。そうしたら、父は本物の権力には相応しくないと侮辱されました。」

「セヴェルスには信じられんのだろう−あれほどの力と影響力を持った男が、家族のために全てを手放すとは。彼のような人間にはわからんだろうな。皇帝は、君が父の遺産を要求しようとしていると思ったんじゃないのか?」

「遺産ならもう相続しましたよ。農場です。」

ジョニヴァスは考え深げにうなずき、訊いた。「近衛隊に入れというのを断った時、皇帝は何て言った?」

「不機嫌そうでしたね。でも、皇帝の近衛隊長は−凄く嫌な奴なんですが−彼はもっと不機嫌でした。あの男を見ると鳥肌が立ちます。セヴェルスは僕に行っていいと言って、父を探すならトラキアへ行けと言いました。」

ジョニヴァスは驚いて背筋を伸ばし、「彼はマキシマスが生きていると思っているのか?」と訊いた。

グラウクスは固い白チーズにかぶりついた。ゼウスがこぼれたかけらにありつこうと待ち構えていた。「父がどうなったかご存知ですかって、はっきり訊いてみたんです。皇帝はこう言いました−どこか見つからないような所で生きているかもしれないし、牢にいるかも…死んだかもしれない、どれもありうるって。自分は知らないって言ってました。」

「トラキアか。で…トラキアに行くつもりか?」

「いいえ。予定通り、ローマへ行きます。皇帝には何か…怪しいところがあるって感じたんです。あまり信用できません。すぐに出発しなきゃ。皇帝が気を変えて捕まえに来る前に。馬は返してもらったんですが、剣を取られてしまいました。ここに剣があれば貸してくれませんか?なければ、買える所を教えてくれますか?」

ジョニヴァスはうなずいて若者の手を叩いた。「食べてろ。すぐ戻る。」

数分後、グラウクスはジョニヴァスの足音を聞いて声をかけた。「こいつに餌をやりすぎですよ。ほら、もう太り始めて…」ジョニヴァスの手にあるものを目にしたとたん、言葉は口の中で消えてしまった。それは鞘に入った剣だった。上等な黒革の鞘で、光る真鍮の縁取りがついていた。ジョニヴァスは何も言わずに、若者に剣を差出した。

グラウクスは息をつまらせ、恭しい手つきで剣を受取った。「ジョニヴァス、どこでこんな剣を手に入れたんですか?素晴らしいものじゃないですか。これはまるで…」彼ははっとして目を上げた。

ジョニヴァスは黙ったままゆっくりうなずいた。

グラウクスの顔から血の気が引いた。「これは父の?」彼はささやいた?

ジョニヴァスはまたうなずいた。マキシマスの剣が息子の手にあるのを見て、彼は胸を打たれていた。こんな光景を見ることが出来るとは思ってもみなかった。

グラウクスは象牙とマホガニーの柄をゆっくりと掴み、長い慎重な動作で剣を抜いた。鞘と鋼鉄の刃が歌うような音を立てた。

ジョニヴァスの声はかすれていた。「これは君のお父さんが将軍に将軍に任命された時、マルクス・アウレリウス帝から賜ったものだ。マキシマスはいつもこれを使っていた。」

グラウクスは畏敬の念をこめて剣を垂直に差し上げた。細く傷ひとつない刃の上で光が踊っていた。彼は剣を右へ左へ揺らし、その重さと完璧なバランスに驚いた。彼は象牙の握りに一本づつ指を置いていった。父の手のぬくもりが感じられるような気がした。まるで、さっきまで父の手が触れていたように…まるで、この剣がたった今、父から息子へと手渡されたように。彼の目が突然潤みだし、頬に涙がこぼれた。彼は柄を見つめたままゆっくりと椅子に沈み込んだ。彼はもっとよく見ようと柄を顔に近づけた。両側に、小さなSPQRという文字が刻印されていた。軍神マルスの頭部と細やかな真鍮の葉が柄を飾っていた。彼はマルスの飾りに恭しく手を触れた。象牙の握りにマルクス・アウレリウスの印章が埋め込まれていた。マホガニーの取っ手にも、交差した真鍮の葉の文様が飾られていた。彼はやっとの思いで剣から目を離し、鞘の方を見た。固いマホガニー色の革の鞘には4つの真鍮の月桂樹の葉が配され、そこに皮紐が固定されていた。葉の真ん中にライオンの頭部がついていた。鞘の先端も真鍮の飾りで守られていた。

「僕にはこれを持つ資格はありません」グラウクスはかすれた声で言った。

「あるとも。君には充分な資格があると思う。」

「状態も完璧です。」

「大事に包んで隠していたんだ。時々取り出して磨く時の他は。わしの前には、キケロが大切にしていた。」

グラウクスは手の甲で涙を拭った。「父の従者だった人ですか?」

「ああ。キケロが持っていたお父さんの形見は2つだけだった…君のお母さんと兄さんの小さな彫像と、この剣だ。彼はこの剣を大事にしていた。彫像と剣−両方とも彼の宝だった。その後、キケロも行方不明になって、彫像は彼と一緒に消えてしまった。剣はわしが受け継いだ。キケロがこの剣を持っているという事を知っていたのはわしだけだったんだ。」

「凄いな」グラウクスは感に堪えぬようにつぶやいて手を伸ばした。彼の力強い腕と剣は、まるで繋がっているように完璧に調和していた。「何とお礼を言ったらいいのか…」

「礼を言う必要はない。この剣は君が持って当然なんだから。とても嬉しいよ。マキシマスにこれを受け継ぐ息子がいて…この剣を持つにふさわしい息子が。」

 

第20章 ヴェローナ

グラウクスはついにアルプスを越え、ヴェローナで一日休むことにした。その後、ポステュミア街道を横切ってアミリア街道を南下し、カッシア街道、フラミニア街道を越えてローマへ向うのだ。数日後にはポー川を渡り、アルペン山脈を踏破してテベレ川の谷に下りて行くだろう。まだ先は長い。それに、ローマに近づくにつれ道には人が多くなってきた。早く目的地に着きたいと思うあまり、山の景色の美しさにもほとんど気を留めていなかった。

彼はヴェローナの居酒屋の湿っぽいレンガ壁に背中をもたせて座り、瓦屋根を叩く絶え間ない雨音を聞いていた。この土砂降りがおさまるまで、一日かそこらここで待機しよう。こんな天気の時は道の土は泥と化し、氷と同じくらい滑りやすくなる。馬の繊細な脚を危険にさらすつもりはなかった。雨のせいで居酒屋は蒸し暑く、居心地が悪かった。階上の宿屋も同じようなものだろう、とグラウクスは思った。彼は羊毛のケープを背中に払い、後の簡素な木の椅子の上に落とした。その仕草に紛れて、彼は密かに混み合った部屋を見回した。あいつらはいない。ヴェローナにいないというわけではないだろう。ただ、この居酒屋の客に混じってはいない。グラウクスは少し肩の力を抜き、あの男たちが自分を尾けているというのは気のせいだろうか、と改めて考えてみた。顔を隠し、こそこそと動き回る影のような男たち。

彼は大きなあくびをして、ワインをすすりながら食事が運ばれて来るのを待った。連中が何者かはともかく、見張っているのは皇帝の命令に間違いない。皇帝は何か訳のわからない理由で、マキシマスの息子を大いなる脅威と見なしているらしい。グラウクスは覗き見をされているような嫌な気分だったが、差し迫った危険は感じていなかった。もし僕を殺したいのなら、山の中でやっただろう。そうすれば死体を谷間に放り込んで狼に始末させることが出来た。いや…連中はただ見張っているだけなのだ。多分、僕の行動をセヴェルスに報告しているのだろう。僕がセヴェルスの教えた通りトラキア目指して東へ向う代りに、イタリアへ南下しているという知らせを聞いて、皇帝はどう思っただろう?グラウクスは意地悪く考えた。

最初に気づいた時には、自分と同じ旅人だと思った。混み合った街道をローマへ向っている旅人で、同じ日程で同じ経路を辿っているのは単なる偶然だろうと。自分を見ているのも、喪服と腰に揺れる素晴らしい剣に興味を引かれているだけだろうと思った。しかし、ある夜山小屋で近づいて何気なく話かけてみると、男たちは風に飛ばされる枯葉さながらに散って行った。フードをあわてて下ろして顔を隠し、それぞればらばらの方向へ。それではっきりした。

彼らは4人いて、2人づつ交替で見張っていた。見張られているという事実を受け入れてしまうと、グラウクスはスパイたちとゲームをして長旅の間を楽しむことにした。もっとも、楽しいと思っているのは彼だけのようだが。ある夜、彼は宿屋の正面玄関から入り、翌朝の夜明け前に窓から出て屋根を横切った。彼がらしくもなく遅くまで寝ていることをセヴェルスの部下がようやく怪しみ出した頃、彼は宿屋から遥か遠くにいた。彼らは夕方まで追いつけなかった。それ以来、彼が泊まっている宿屋の外には哀れな見張り役が1人残されることになった。この天気に貧乏くじを引いた気の毒な男は4人のうち誰だろう−グラウクスはぼんやりと考えた。彼はまた、角を曲がった時、どちらかの側が深い森になっている長い真直ぐな道に出たらチャンスだと喜んだ。彼はアルターのスピードを上げた後、急に手綱を引いて森の中へ入り、4人の男が獲物はどこへ行ったのだろうと不思議がりつつ全速力で通り過ぎるのを眺めて楽しんだ。その後、黒馬に乗った黒衣の男が森から出現し…獲物が猟師を追いかけるという事になった。尾行がグラウクスにばれているのを彼らは知っていた。それでも、4人は律儀に任務を続けていた。

しかし、今夜は、彼はとても疲れていてゲームをする気にもなれず、ただ静かに落ち着いて食事がしたかった。湿った羊毛の服を着た人間でごったがえす部屋の湿度を少しでも下げようと、彼の側で小さい火が焚かれていた。招かれざる道連れを眺める代りに、彼は火に目を向けた。長い旅の末にローマに辿りついたら、どんなに嬉しいことだろう。ローマ−謎めいたローマ帝国の首都。ゲルマニアとは天と地ほども違う所だろう…おそらく、イスパニアとも。栄華を誇るエメリア・オーガスタでさえ、きっとローマの足元にも及ばないのだろう。

グラウクスは脚を伸ばしてあくびを噛み殺した。ゼウスはどうしているだろう。グラウクスはヴァンドボーナから急いで出発した。ジョニヴァスがあまりに寂しそうな様子だったので、彼は老人に旅の間犬を預かってくれないか、と頼んだ。ローマに着いたら、ゼウスは邪魔になるでしょうから。旅の目的を果した後、ゼウスを連れにヴァンドボーナへ戻って来ると言うと、ジョニヴァスの顔は明るくなった。老人はすぐに承諾し、ゼウスを呼んで毛皮をなでながら、毎日夕方にはたっぷり散歩をさせてやる、と約束した。辛い別れの後、グラウクスは生活必需品を数ヶ月賄えるだけの金を老人の枕の下に忍ばせた。そしてアルターに鞍を着けて旅路についた。

ヴァンドボーナの城門を出た後で、グラウクスは基地に書類を置いてきてしまったことを思い出した。彼は仕方なく基地に戻った。基地にはまだセプティミウス・セヴェルスが滞在している様子だった。彼は兵士がヴェスニウス将軍から書類を受け取って戻って来るまで門の外で立って待っていた。彼は素早く書類に目を通してなくなっている物がないのを確認した。その時、ヴェスニウスからの走り書きの伝言がはさまれているのに気づいた。私は君の父上を非常に尊敬してた、答えが見つかる事を祈っている、と書かれていた。その後、彼はアルターの向きを変えてローマへ向った。

居酒屋のドアが開き、湿っぽい風が吹き込んだ。グラウクスが顔を上げると、例の4人のうちの2人が外套から水滴を振り落としていた。ひとりが彼の方を見たので、グラウクスは親しげにうなずきかけた。男はびっくりしたようにあわてて顔をそむけた。何てわかりやすい連中だろう、とグラウクスは思った。兵士としてはよく訓練された、優秀な人間なのかもしれないが、策略にはまったく弱いようだ。彼はぼんやりと考えた−連中はどうやって皇帝に報告を届けるのだろう?何日に1回ぐらい報告させられているのだろう?一体何が起きたら、セヴェルスは連中に行動を起こせと命令するつもりだろう?僕が何をしたら、父の探索に無理矢理終止符を打たせるつもりなのだろう?

若い給仕女がはにかんだ微笑を浮かべながら目の前にシチューの鉢と焼き立てのパンを置き、彼の物思いは途切れた。グラウクスは「ありがとう」と言って椅子を引いた。その顔にゆっくりと笑いが広がり、彼は給仕女を手招きして囁いた。「あそこの紳士たちにこの店で一番いいワインを差し上げてくれ。今入って来たあの2人だ。僕からだって事を必ずはっきり伝えてくれよ。」

「かしこまりました」給仕女はぴょこんとお辞儀をして、急いで彼の頼みを叶えに行った。数分後、彼女はグラウクスから一番遠い、一番暗い片隅に落ち着いた2人組にワインを届けた。グラウクスは彼らの驚いた顔を眺めて楽しんだ。彼はじっと反応を待ち、ひとりがようやく彼の方を見ると、ゴブレットを挙げて挨拶した。男は嫌々ながらうなずき返した。グラウクスはにやにや笑いながらシチューを頬張った。今日はなかなか楽しかった。ローマに入ってしまえば、混んだ街角で彼らを撒くことが出来るだろう。それは自信があった。それまでは、連中はいい退屈しのぎだ。

 

第21章〜25章