Glaucus' Story:第21〜25章

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第21章 庭園 〜180年

マキシマスは顔をしかめて横を向いた。鍛冶屋が彼の手首に金敷を振り下ろした。大きな金属音が響いたが、鉄の枷は外れなかった。

「もう一度、」鍛冶屋がそう言うと、ジュリアはもう一度目を覆った。がちゃんという音と共に、連結部が壊れた。間もなく、もう一方の枷も壊された。マキシマスは感謝の印にうなずいて立ち上がり、重い鉄製の奴隷の手枷を外した。彼はこの手枷が大嫌いだった。それは冷たく、重く、自由を失ったことを常にはっきりと思い知らせるものだった。彼は手枷を地面に落として蹴飛ばした。

ジュリアは彼の手首の皮紐を解くのを手伝い、皮膚に残った痣を優しくマッサージした。彼女も、彼の体に残る奴隷の印を一刻も早く消してしまいたかった。「お風呂の用意ができているわ。きれいな服も。」彼女は微笑んだ。「その後、朝食を食べましょう。」

家の方へ歩きながらマキシマスが言った。「時間の感覚がめちゃくちゃになっているようだな。もう夕方近いんじゃないか?朝食の時間じゃないよ。」

「あら、あなたが勝手に酔いつぶれて一日中寝ていたんじゃないの。」ジュリアはからかった。彼の胸に静かに頭をもたせたまま過ごした数時間を、彼女はたっぷり楽しんだ。

噴水の踊る大きな池のほとりを歩きながらマキシマスは家の方を眺めた。揺れる水面に映る影が二人を追っていた。マキシマスは立ち止まり、水面を見つめた。青いチュニックと黒革の鎧を着けた逞しい男と、白絹を着たほっそりした女が映っていた。鮮やかな対照だった。ゲルマニア以来、自分の姿を見たのは初めてだった。自分が今でもマキシマス将軍のように見えることに、彼は驚いた。ひょっとしたら、ジュリアの言う通りなのかもしれない。おれはそれほど変わっていないのかもしれない。

ジュリアは彼と腕を組んで彼の影を見つめた。「とてもハンサムだわ」彼女はつぶやいた。「鎧がよく似合うわ。ゲームを見に来る人たちもそう思っているようね。円形闘技場の壁にあなたの名前が刻まれているわ。あなたと何をしたいかも。外ではあなたの人形も売っているの…とても『男らしい』人形。試合の間には、あなたの絵のついた皿も売っているわ。私が行った日には、朝の内に売りきれてしまっていたみたい。」

「おれはいい商売になるんだな」マキシマスはつぶやいた。彼の気分は暗くなりかけていた。

ジュリアは彼の腕を引き、庭の方へ導いた。この状況で出来る限り雰囲気を明るくしたかった。「マキシマス、この庭、どう?」

「素晴らしいよ。こんなのは生まれて初めて見た。」

ジュリアは彼の言葉に嬉しくなった。「夫が私に設計させてくれたの…もちろん、建築家の力を借りてだけど。もっと控えめな庭にしたかったんだけど、夫はどうしても大きくて豪華なものにしたいって。ここで顧客をもてなすから、感心させたかったのよ。」

「海運業っていうのは儲かるんだろうな。」

「ええ。今は私のものよ。」

「君が経営を?」

「ええ」ジュリアはマキシマスを横目で見た。「驚いた?」

「いや」彼は心から言った。この女性のことなら、何を聞いても驚かないだろう。「こんな広い屋敷にひとりで住んでいて、普段は何をしているんだ?…恩知らずの奴隷を救おうとする以外には?」

彼が昨夜の口論のことを言っているのに気づいてジュリアは微笑んだ。それから真面目な顔になって言った。「たいていは読書をしているわ。私は教育を受けたことがなかったんだけど、アポリナリウスに教えてもらったら、もっともっと勉強したくなったの。それから、猫と遊んだり、庭を散歩したり…でも、あなたと一緒に散歩する方がずっと楽しいわ。ローマにもいいアパートメントを持っているの。」

「もう一度結婚するといい。子供を持てよ。」

「まあ、マキシマス、あなたは人の面倒ばかり見ようとするのね。」ジュリアは日陰にある大理石のベンチにマキシマスを導いた。彼女は腰を下ろし、彼の腕を引いて隣に座らせた。「また愛のない結婚をするぐらいなら、ひとりでいるわ。」

「こんな所に隠れていなければ、愛する人が見つかるかもしれない。ローマへ行って…」

「マキシマス、昨夜言ったことは本気よ。愛していない人に身体を与えることはもうしないわ。もうたくさんよ。私が男と関係を持つのなら、愛がなければ…そうでなければ、ずっと独りでいるわ。」

薔薇がそよ風に揺れてマキシマスの肌をやさしく撫でた。彼は前腕を膝にのせて薔薇をじっと見つめた。

ジュリアは身じろぎして、ためらいがちに言った。「昨夜のことだけど…あんな風に感情をぶちまける気はなかったの。あんなことをして恥ずかしいわ。でも…ひょっとしたら、よかったのかも…あなたに私の気持ちを知ってもらえて。この道をあなたと歩けるなんて思ってもみなかったわ。夢には見ていたけど。ここにあなたがいるなんて信じられない…たとえ、短い間でも。」

マキシマスは血のように赤い一輪の薔薇にやけに興味を引かれているように見えた。彼は手を伸ばし、大きな無骨な手でヴェルヴェットのような花びらをやさしく撫でた。ジュリアは彼の手をじっと見つめていた。

「愛はこの世で一番大切なものよ」彼女は囁いた。

彼は彼女の方を見なかった。「ジュリア、おれたちには未来はない。」

その冷たい口調にジュリアはたじろいだ。「わかってるわ。あなたの未来は昨夜はっきり聞いたから。」

「仮におれが自由だったとしても、結婚はできない。おれのような身分の男が自由民の女性と結婚するのは違法だ。」

ジュリアは笑った。「マキシマス、あなたにはもう身分なんてものはないのよ。もし解放されればあなたは自由民だわ。私と同じ。」

「そうかもしれない。」

「どうして『かもしれない』なの?」

マキシマスはジュリアの後に掌を置いて体重をかけ、彼女の方へ身体を傾けた。彼の腕が背中をかすり、ジュリアはまるで抱擁されているように感じた。彼女の結っていない髪が暖かい風にそよぎ、彼の腕を愛撫した。彼は声を小さく、とても低くして言った。「おれが家族の死に復讐するためだけに生きていると思ってるだろうけど、それ以外にもいろいろあるんだ。」

彼の顔は彼女の顔のすぐ側にあった。

彼は続けた。「コモドゥスに姉がいるのは知っているね。」

「ルッシラさまね…ええ。」

「彼女にはルシアスという息子がいるんだ。ルシアスとおれの息子は同い年だ…同い年だった。ルシアスはコモドゥスの後の皇位継承者だ。」マキシマスはちらりと微笑んだ。「まだ幼くて…無邪気で…叔父の膝元で暮らしている。コモドゥスは残酷な男だ。子供相手でも容赦しない…おれはよく知っている。もし何かでコモドゥスが脅威を感じることがあれば、ルシアスに危害を加えるかもしれない。」

「どうしてそう思うの?」

「母親がそう言っていた。」

ジュリアは驚いた。「ルッシラさまに会ったの?ローマに来てから?」

「ああ。ある夜、牢を訪ねて来た。」

ジュリアは嫉妬の波に襲われた。それは頭がくらくらするほど強烈だった。「どうしてそんなことを?」

「ルッシラとおれは昔からの知り合いなんだ。彼女は弟と一緒にゲルマニアにいた。皇帝が…死んだ時。弟がおれの処刑を命令したことを知っていたから、おれがローマのコロシアムに剣闘士として現れた時にはショックを受けていた。彼女は自分の悩みをおれに相談しに来たんだ。」

「何故?あなたがどうやって彼女の力になれるの?」

「彼女はおれがコモドゥスを殺すつもりなのを知っている。おれは別に隠してはいないからな。彼女はおれにもうひとつ動機を与えた…彼女の息子を守るためだ…おれの皇帝、マルクス・アウレリウスの孫を。」

「自分の弟を陥れようとしているの?」

「シーッ、ジュリア」マキシマスは素早くあたりを見まわして誰もいないのを確認した。「君が信用できるのはわかっている。おれはモエシアで君に命を預けて、君は裏切らなかったから。今話したことは誰にも言ってはいけない。」

「もちろんよ。」彼女は力をこめて言った。彼が自分を信用してこんなに大事なことを話してくれたことがとても嬉しかった。

「君が自由にしてくれるというのを断ったのは、妻と息子の復讐をしたいからというだけじゃない事をわかって欲しかったんだ。言ったように、複雑なんだ。」

ジュリアはためらった後、勇気を奮い起こして訊いた。「ルッシラさまが好きなの?」

「ああ…大事に思っている。」

ジュリアは息を呑みこんだ。「愛しているの?」

「いや、愛してはいない。少なくとも…そういう風には。」

「昔からの知り合いだって言ったわね。昔、愛していたの?」

マキシマスは彼女の質問に微笑んだ。彼は彼女の首にからまっている髪を払ってやりながら言った。「遠い遠い昔の話だ。あれ以来、違う人生を歩んできた…そして二人とも結婚して子供を持った。」

ジュリアは自分の手を見た。「昔の愛が蘇ることもあるわ。」

マキシマスは首を振った。

ジュリアは身体をねじって彼を見た。彼女は熱い眼差しで彼の目を覗きこんだ。「マキシマス、あなた、死ぬのが怖くないの?」

彼はため息をついた。「おれは人生のほとんどを死と向き合って生きてきた。戦闘があれば自分自身の死や部下の死と向き合う。今はアリーナで毎日死と直面している。そうだな…おれは死ぬのは怖くない。それに、おれの妻と息子はもう死後の世界にいて、おれが行くのを待っているんだ。」

ジュリアは彼の胸に身体を押しつけたが、革の鎧が彼女の肌を阻んでいた。

「マキシマス、あなたの奥さんがあなたの死を望んでいるとは思えないわ。奥さんはあなたを愛していた。あなたには長い、幸せな人生を送ってほしいと思うはずよ。急いで来て欲しいなんて絶対に思わないわ。」

「ジュリア…」

彼女は彼の髭に覆われた顎をつかんだ。「だめよ、聞いて。女は愛する男のためなら何もかも捧げるものよ…彼の幸せのためなら何だって犠牲にするわ。オリヴィアはあなたを見守りながら、残された日々に掴めるわずかな幸せまで嫌がったりしていないわ。私の申し出を受けて自由になって欲しいと思っているわ…自分がいなくても、長く幸せな人生を送って欲しいって。もう一度愛を見つけて欲しいって。彼女はずっとあなたを待っている…10年経とうと、20年経とうと。」ジュリアは涙声になり、瞬きをしてこぼれそうになった涙をこらえた。

「妻が何を望んでいるかじゃないんだ。おれ自身の望みなんだ。」

涙がこぼれた。ジュリアは腹立たしげに頬を拭った。「じゃあ、あなたは自分勝手だわ。あなたを愛して、生きて欲しいと思っている人たちのことを考えてない。自分のことしか考えていないわ。」

マキシマスは彼女の涙を親指でやさしく拭いた。「ジュリア、おれがやらなければならない事をやり遂げて、それでも生き延びる道があるなら…多分そうするよ。おれがいつまで生きようと、オリヴィアとマルクスが待っていてくれるのもわかってる。」

「でも、私がその道を作ってあげたのに、あなたは断ったわ。」

「理由があるんだ。」

「わかってる…わかってる…ジュバね。あなたを自由にするためなら、ジュバは喜んで命を捧げるとは思わない?」

「そうかもしれない。おれが決めることじゃない。でも、おれは、自分の自由のために君の命を犠牲にはしない。」

ジュリアは驚いて身体を起した。「何?一体何の話?」

マキシマスは木の上を見た。「この近くにある街はオスティアだろう?オスティアには軍の基地がある。」

ジュリアは目を丸くして背筋を伸ばした。「ええ、ええ。」彼女の目に希望の光が浮かんだ。「ひょっとしたら…」

マキシマスは彼女の唇に指を当てて黙らせた。「おれが基地に近づいても、おそらく軍はコモドゥスに忠実な将軍が統括しているだろう。将軍がおれに気づいたら、その場で殺すだろう。おれに気づかなかったら、おれの身分がわかるまで拘束するだろう。どっちにしても、おれは死んでコモドゥスは生き延びることになる。」

「でも、あなたの知っている兵士たちなら、あなたに味方するんじゃない?」

「考えられないな。おれの軍は北部にいるんだ。それに、もしフェリックス連隊がいたとしても、おれはここを離れるわけにいかない。」

「でも、基地まで行ってそれから戻ってくることも出来るでしょう?私も行くわ。作戦を立てて…」

「駄目だ。」

ジュリアは目を閉じて苛立たしげに首を振った。「マキシマス、どうしてなの?わけがわからないわ。あなたは軍の指揮官で、軍がこの近くにいるのよ。」

「おれはもう指揮官じゃない。でもそんなことより…君はコモドゥスがどんなに執念深い男か知らないんだ。どんなに酷い事でも平気で出来る男なんだ…」

ジュリアは長い間黙っていた後、「誰に?」と訊いた。

「自分を怒らせた人なら誰にでも…おれを助けようとする人に。」

「私のことね。」

「そうだ。」

ジュリアはマキシマスの上腕をつかんでいらいらと揺さぶった。「マキシマス、わからないの?あなたのためなら危険も平気よ。」

「おれは平気じゃない。」

「マキシマス…」彼女はすがるような声で言った。

「ジュリア、君はよく剣闘を見に行くのか?」

「マキシマス、話をそらさないで。」

「いいから答えてくれ。」

「一度だけよ。あなたを見に。」

「一日中いたのか?」

「いいえ、ずっと外にいて、観客があなたの名前を合唱し始めたのを聞いて入ったの。」

「それなら、あそこでどんな残虐な事が行われているか知らないだろう。」

「あ…少しは知っているわ。」

マキシマスは首を振った。「おれみたいな剣闘士が闘うのは夕方だけだ。1対1で闘うのは特別に強い剣闘士だけだ。もっと早い時間には、アリーナは二人一組になった剣闘士たちで一杯になる…同時に何十人も闘うんだ…二人一組で繋がれて、人を殺すように特別に訓練された野獣と闘う。普通、動物というのはどんなに腹が減っていても人間を殺すことはしない。人間を殺すのは、そう訓練されているからだ。酷い大虐殺だ。」

「そんな物は絶対に見たくないわ。」この話と、私が彼を逃がす事とどう関係があるのかしら?

「しかし、一番酷いのはそれじゃない…そんなのはずっとましな方なんだ。」マキシマスは暗くなり始めた空に向かって話していた。「朝に行われる見世物はとりわけ酷いんだ。死刑囚が縛り上げられて、身を守る術もなく獣の餌にされる。女や子供もだ。宗教団体の人間や、戦争捕虜だ。生きながら引き裂かれるんだ。」彼は咳払いした。「しかし、もっと酷いものを見た。先週、おれはどういう訳か朝のうちにアリーナに連れて行かれて、一日中牢に入れられていた。一番値段の高い剣闘士は一番いい牢に入れられる…地面のすぐ下だ。そこからは、アリーナが見えるし音も聞こえて、何が起きているか逐一わかる。」彼は深く息を吸った。「見世物に金を出しているのは、公職に就いていて再選を望んでいる連中だ。最高の見世物を提供すれば、一番の人気を得る事を知っている。『最高の』ってのはつまり、最も血なまぐさくて、最も非道ってことだ。残虐を通り越して変質的なものも多い。」彼は言葉を切って、空に現れ始めた星を見つめた。

ジュリアは彼が考えをまとめるまで待って、「続けて」と言った。彼がこの話を口に出してしまいたいのを感じ取っていた。「私はたいがいの事では驚かないわ。」

彼は両手で顔をこすって続けた。「そんな物を見物しながらピクニックをしている連中がいるのを知ってるか?目の前で人間が引き裂かれるのを見ながら飯を食うんだ。本当に無神経で野蛮な連中だ。」彼は頭を垂れ、ほとんど聞き取れないような声で言った。「女が一人、アリーナに引き出されて来た。美しい女だった。裸で、祭壇に似せた豪華な金の車にうつぶせに縛り付けられていた。神々に捧げる生け贄みたいに。観客全員によく見えるようにアリーナを一周させた後、女に獣の皮を掛けた。獣を連れた男が入って来た。特別に訓練された獣だ…そしてその獣が、女をレイプした。」

ジュリアは息を呑んだ。爪が彼の腕に食い込んでいた。

「どんな獣かは言わないが、あんな事が可能だとはとても信じられなかった。女は血も凍るような悲鳴を上げていた。もちろん、ひどい怪我を負って血を流していた。野獣たちが放たれて彼女を片付けた。観客は大喜びだった。」

ジュリアの喉からすすり泣きが洩れた。マキシマスは彼女を抱き寄せて、逞しい腕で包み込んだ。涙が黒革の上にこぼれた。「まだあるんだ。」彼は囁いた。

「もう聞きたくないわ」彼女は彼の肩に顔を押しつけて、涙声で言った。

「いや、聞いてくれ。」彼は泣き声がおさまるまで待った。「何台もの馬車が入って来た。一人づつ裸の女を引き摺っていた。引き裂かれ、はらわたを引き摺り出されて、それでもまだ生きていた。留めをさすために野獣たちが放たれた。しかし、最悪なのはそれでもないんだ。一番酷かったのは、10人ぐらいの可愛い金髪の少女たちで…全員、10歳以下のようだった…多分、ゲルマン人だ。ひょっとしたら、その子たちがそこにいたのはおれのせいかもしれないんだ。戦争の犠牲者だ。」マキシマスは身震いし、小さい声で言った。「子供たちに何があったかは、とても言えない。」

マキシマスはぐったりと自分にもたれているジュリアの背中をやさしく撫でた。「これでわかっただろう?」彼はかすれた声で言った。「おれを逃がす計画に君を巻き込むような危険な真似をしたくない理由がわかっただろう?君はアリーナに放り込まれて観客の慰み者になるかもしれない。そんな事になったら、おれは生きてゆけない。」

彼女は彼の肩に顔を押しつけるようにうなずき、しゃくりあげた。二人は長い間そのままじっとしていた。二人は慰めを求め合っていた。二人は慰めを与え合っていた。

ジュリアはようやく顔を上げて両手で彼の顔を包み込んだ。「自分勝手だなんて言って悪かったわ。」

彼は微笑んで彼女の指にくちづけした。「いいんだ。」

「昨夜あなたは、家族が死んだのは自分のせいだから死んで当然だって言っていたわね。マキシマス…ふたりに何があったの?」

彼女は彼が身体を引くのを感じた。「それは話したくない…今夜は。」

彼女は手を彼の肩に落とし、彼のやつれた顔を見つめた。「わかったわ」彼女はそう言って、二人にのしかかる暗い気持ちを何とか明るくする方法はないかと頭をひねった。その時、まるで合図のようにマキシマスの腹が音を立てた。「あら、まあ、あなたがずっと何も食べてないことをすっかり忘れていたわ。さぞお腹が空いたでしょうね。」

マキシマスは腹をさすった。「実はそうなんだ。」

ジュリアは立ち上がって彼の手を引っ張った。「来て、アパートメントに食事を用意させたわ。多分もう冷めてしまっているわ。」

マキシマスは彼女に手を引かれるまま道を歩き始めた。「冷めてるどころか、もうないんじゃないか?君の猫たちがまた食べてしまったかも。あんな贅沢な猫は初めて見た。」

ジュリアは笑った。「大丈夫、今度は覆いをかけるように言っておいたから。」彼女はマキシマスの腰に腕を回した。マキシマスは彼女の肩に手をかけた。

ジュリアの笑い声に惹かれたアポリナリウスが自分の部屋のテラスから見下ろし、庭から現れた二人がアトリウムのドアの方へ歩いてくるのを見た…彼は微笑んだ。

 

第22章 ローマ

その道はローマ帝国の偉大さと強力さを象徴するかのように、力強く真直ぐに丘を越え、岩を蹴散らし、大河を渡り、帝国の首都へ向って断固たる歩みを続けていた。グラウクスがアルターのスピードを上げると、旅人たちは大きな馬に道を譲った−田園がフラミニア街道に道を譲るように。フラミニア街道は北部からローマに入る一番大きな街道だ。彼の背筋は道と同じように真っ直ぐで、その意志は馬の蹄の蹴る石のように固かった。

グラウクスは何日も前に自分を尾行している近衛兵たちへの興味を失っていた。今、彼の心はこれから果す使命に集中していた。市のすぐ北でテベレ川を渡るミルヴィオ橋の優雅な石造りのアーチが見えてくると、興奮のあまり胃が締めつけられるような感じがした。彼は橋の上でアルターを止め、少しの間だけ、午後の日光が揺れる水面に踊るのを眺めた。それから目を上げて、川がゆるやかにカーブして遠くの丘の向うに消えるのを見つめた。丘には、オリーブやレモンの木々の間に、優雅な白いヴィラが並んでいる。あのテラスからは息を呑むようなローマの風景が見られるのだろう。ローマの富裕階級が、街の喧騒や暑さを逃れて住む贅沢な別荘だ。

いよもうすぐだ。ローマはすぐそこにある。

しかし、橋の南からグラウクスの歩みは這うようにのろくなった。帝国北方と東方からの多くの道が全て合流し、フラミニア街道には全員がひしめき合っていた。がたがたと揺れる荷車、重々しい覆いつきの馬車、軽量の馬車などが場所を争い、御者は苛立ち、歩行者は慎重に歩みを進めていた。誰も彼もが、この大都会でしなければならない用事を抱えているのだ。鶏や鴨が鳴きながら翼をばたつかせ、羽根が風のない空気をふわふわと漂っていた。馬車に乗せられた狭い檻の中で豚が鼻を鳴らしていた。農夫たちが牛を歩かせて、城壁の中にある肉市場まで運んでいた。彼らは市民たちに新鮮な肉を供給するが、代わりに道を臭い落し物で一杯にした。荷車を引く馬や牛も同様だった。ありとあらゆる種類の貨物がローマの巨大市場に向かっていた。その中には、奴隷市場かアリーナに向かう人間を乗せた檻もあった。うつろな目をした男たち、女たち、子供たちが鉄格子の向こうからぼんやりと彼を見つめていた。彼は目をそらした。彼らの悲痛な眼差しを見返すことが出来なかった。

馬車が一台ひっくり返り、小一時間ほども交通を遮断した。馬車が立てなおされ、荷物の砕けた赤瓦を奴隷たちがかき集めた後、苛立った旅人達がやっと通れるようになった時には、もう夕暮れが近づいていた。道の両側には、様々な大きさの大理石の記念碑や墓が、道路と通行者たちを閉じ込めるようにびっしりと切れ目なく並んでいた。初め、飾りのついた墓の列はグラウクスを落ち着かない気分にさせた。渋滞のせいで墓碑銘をゆっくり読む時間ができると、彼は興味を引かれてきた。ここに永遠の名を刻まれている男たち、女たち、子供たち−この大都会に生き、死に、しかし法によってその厚い城壁の外に埋葬された人たち。鼓動が早くなった。死者の名の中に、父の名を見つけることになるのだろうか?家族から遠く離れたところで謎の死を遂げたローマ将軍の墓を見つけることになるのだろうか?

黒馬に乗ったグラウクスは、道をゆっくりジグザグに進みながら全部の名を読もうとした。疲れた旅人たちは慌てて馬を避け、拳を振りながらののしった。マキシマスはここにいるのだろうか?いったいいくつ墓があるのだろう?ローマへ入る街道はこれだけではない…他の街道も同じようなものだろう。彼はゆっくりと深呼吸して、何とか心を落ち着かせようとした。マキシマスは死者の中にではなく、生きている人の中にいると思わなければ。ローマに入らなくては。

遂に、夕闇の中に巨大な蜃気楼のようなローマが現れた。この距離から見ても、その壮大さは想像を絶していた。高い円柱に支えられた赤い瓦屋根の建物や巨大なドームが城壁の上に聳え立ち、見渡す限り広がっていた。ポルタ・フラミニア−ローマの北の玄関を守る巨大な石の門−が見えてくる頃には、夕暮れになっていた。入城を朝まで待つ事にした徒歩の旅人たちが、城壁の外側に寄り添うように並ぶ宿屋に向かい出し、道はようやく空き始めてきた。しかし、グラウクスは入城を許されるのは夜になる荷車の列に並んでいた。彼は馬を目の届く安全な厩に寝かせたかった。こんな時間にまだ空いている部屋があるだろうか?しかし、求める答えがあるかも知れない都市に入るのをもう一晩待つことはできなかった。グラウクスはようやく門を通り抜け、ローマへ入った。丁度その時、西の丘の向こうに日が沈んだ。

フラミニア街道はそのまま真直ぐ続き、グラウクスは両側に並ぶ暗い、くねくねと曲がった路地を見ながら進んだ。彼はアルターを厳しく抑えていたが、この数時間慣れない人込みにもまれ続けている馬はかなり不機嫌になっていた。せっかちな御者の操る荷馬車がわき腹をかすめて行った。馬は前脚を振り上げ、怒りをこめて空を掻いた。グラウクスは何とか馬を落ち着かせようと、降りて頭を抱き寄せ、やさしい声で宥めながら道の端へ連れて行った。馬は何とか落ち着いたが、暗闇から飛び出して来た酔っ払いが目の前によろめき出て、また気を立ててしまった。今夜はもうどこかに落ち着いた方がいいようだ。数分後、彼は厩のある宿屋を見つけた。アルターの泊まれる空きがあった。彼は愛馬に餌をやってブラシをかけた。それから外套にくるまって馬の足元の藁の上に丸くなり、踏まないように気をつけてくれよ、と言った。明るくなってから、この厩がちゃんとしているかどうかよく確認しよう。それまでは、馬のそばを離れるわけにはいかない。

 

翌朝、グラウクスは徒歩で街を見物に出かけた。彼は疲れていた。藁の上で寝たせいで体が少しこわばっていたのと、夜の街の騒音に慣れていないせいでよく眠れなかった。夜通し眠らない街なんて想像もしていなかった。馬車の車輪の音や馬の蹄の音に御者の怒鳴り声が加わり、騒音は夜中続いた。彼が慣れ親しんだ夏の夜は、コウロギの声とやさしい風の音だけが聞こえる平和なものだった。彼は寝不足だった。しかし、厩は思ったよりずっとしっかりしていた。彼はまた馬が必要になるまでアルターをそこに預ける手配をした。

早朝の光に包まれたローマは、昨夜よりずっと親しみやすく見えたが、混雑は相変わらずだった。荷車や馬車の代わりに、籠を抱えた徒歩の人々が今日の買い物をしようと街に繰り出していた。グラウクスと違い、みんなはっきりした目的地があるようだった。ふらふらと歩く彼はひっきりなしに人に押されたりぶつかられたりした。とうとう彼は人波に身をまかせることに決め、市の中心部へと運ばれて行った。高い丸い建物が彼の目を引いた。彼は一瞬だけ剣の柄から手を離し、人ごみをかき分けてピンクの花崗岩の巨大なオベリスクが二つ並んでいる方へ向かった。それは偉大なる皇帝、アウグストゥスとその家族の霊廟の入口だった。グラウクスは糸杉に囲まれた建物をうっとりと見上げた。屋根の頂点には金箔をかぶせたブロンズの皇帝像が、朝の金色の日差しに火のように輝いていた。彼はゆっくりと建物を一周した。静寂に包まれたこの場所にずっといたいと思った。しかし、彼は仕事に取り掛かろうと心に決め、再び人込みに身を投じた。

道の両側には商店が軒を並べていた。商人たちは大声で品物がいかにお買い得かを叫び、人込みに飛び込んで通行人を店に引きこもうとした。商人たちは立派な剣と輝くフィビュラを身に着けた若者に目を引かれた。野菜や石鹸、パンや革サンダルから生きた鶏に至るまでのあらゆる品物が彼の鼻先に差し出された。彼は手を上げて買う気はないことを示した。

グラウクスはすぐにまた疲れてしまい、人込みを脱出して広場に入った。マルティウス広場は公共の建物に囲まれた広々とした、静かな広場だった。その中心には、一本の高い、優雅なコロンナが立っていた。空に聳え立つ円柱の全体をレリーフ彫刻がらせん状に囲んでいた。彼は頭をそらしてコロンナの天辺までを見た。それから彼の背よりずっと高い土台に近づいた。そこに刻まれている名前を見て、彼は身震いした。マルクス・アウレリウス。これはマルクス・アウレリウスを称えるコロンナなのだ…亡くなった偉大な皇帝。グラウクスはためらいがちに手を伸ばし、そこに刻まれた名前の文字をひとつひとつ指で辿った。これが父の皇帝だったのだ。彼はコロンナの周りをゆっくりと一周し、精緻なレリーフをよく見ようとした。これはアウレリウス帝の戦争での勝利の記念碑なのだ。見える限りの彫刻は全て戦いの光景だった。それなら、この中に父がいるのだろうか?ここには父が描かれているのだろうか…ここに不滅の名を刻まれている偉大な人物と、マキシマスとの絆の永遠の記念として?しかし…どうしてわかるだろう?グラウクスに見えるのは彫刻のうち下の1メートルほどだけで、それさえもはっきりとは見えなかった。彼は少し離れて目に手を翳し、天辺に立つ皇帝とその妻ファウスティナの彫像をよく見ようとした。グラウクスは皇帝に、彼の将軍の汚名を晴らすと心密かに誓った。命を懸けても。彼は拳を固め、胸に押し当てて名君に敬礼した。ここには必ずまた来よう。

道の名前はラタ通りに変わり、かなり狭く、曲がった道になって、クリヴィス・アルジェンタリウスに出た。ここはもう旧市街だ。かつてローマの城壁だったセルヴィア城壁の狭い門を通りすぎる頃には、太陽は頭のほとんど真上に来ていた。グラウクスはローマのフォーラム(フォロ・ロマーノ)の西の端に立っていた。ここがローマの政治、宗教、商業の要なのだ。彼は畏敬の念に打たれて立ち尽くした。これほど壮麗なところとは想像もしていなかった。そこは巨大な、広々としたプラザで、神々や女神たちに捧げられた円柱形のモニュメントが中心に向かって並んでいた。公邸やアーチ、彫像と並んで元老院があった。人々はそこここに数人づつ集まって政治談義や噂話に熱中していた。仕事に向かう人もいた。グラウクス同様、その壮麗さにただ見とれている観光客もいた。その建物はきらきらと輝いていた。白、緑、灰色の大理石が、ほとんどは自然の美しい色のまま使われ、いくつかは彫刻と塗装をほどこされていた。ブロンズと黄金の彫像、精緻なモザイク、花であふれんばかりのテラス、踊る噴水。全てがその威厳を際立たせていた。グラウクスはゆっくりとフォーラムの端まで歩き、戻りながら目に入る全てのものに手を触れ、眺め、驚嘆した。彼はその中心で立ち止まり、ジュリアス・シーザーの神殿の方を見た。円柱が聳え立ち、巨大なブロンズのドアが並んでいた。その右側にはヴェスタ神殿が立っていた。その向こう、丘の上に広がる大きな建物は宮殿に違いない。反対側のフォーラムの建物の向こうには、コロシアムのカーブした壁が空に聳え、観客の叫び声が風に乗ってグラウクスの耳に届いた。

最後に、グラウクスはディオスクリ神殿の階段を登り、一番上の段の大きな円柱の涼しい陰に腰を下ろした。彼は目を閉じ、大都市の匂いと音を感じた。彼は目を開け、仕事に出かけるローマの人々を眺めた−帝国中から集まった様々な人種の人々。何千人も。

何千人、何万人も。

突然、グラウクスはこれから始める仕事の途方もなさを実感して肩を落とした。こんな巨大な都市で、何かを…誰かを見つけるなんて出来るのだろうか?赤毛の娼婦を?元近衛隊長を?

父さんを?どうやって父さんを見つけたらいいんだろう?

 

第23章 インシュラ

グラウクスが3度目にノックしようとしていると、出し抜けにドアが開いた。誰もいなかった。

「はい?」女の声が吠えるように言った。

彼が下を見ると、とても背の低い女性が暗いアトリウムに立っていた。しかし、はっきり見えるのは複雑なスタイルに編み上げた巨大な栗色の巻毛のかたまりだけだった。

「貸しアパートメントがあると聞いたんですが…」彼は髪に向かって訊いた。

「誰に聞いたんだい?」

「えーと…下のレストランの主人です。そこで食事して…」

「ふーん。うちは借り手を選ぶんだよ」彼女はドアを閉めようとしたが、彼はつま先を突っ込んで止めた。彼女は苛立たしげに一歩下がり、ゆっくりと、馬鹿にしたような目つきで彼を頭からつま先まで眺めまわした。「なんでそんな服を着てるんだい?」

「喪中なんです」グラウクスも彼女を観察した。「年寄り」というのが最初の印象だった。

「誰の?」

「母と兄です。」

「どこから来た?」

「スペインです。」

彼女はまたドアを閉めようとしたが、グラウクスが押さえた。「あんたみたいな連中には部屋は貸さないよ」彼女はきっぱりと宣言した。

「僕みたいな連中?どういう意味ですか?」

「うちは元老院階級にしか貸さないんだよ。あんたは…見るからに…失格だね。」

「でも、僕は元老院階級なんです。」

彼女は彼を疑わしそうに睨んだまま首をかしげた。身体中の毛穴から優越感が滲み出しているようだった。その時、白いトーガを着た若い男がグラウクスの後ろから入口をすり抜け、陽気に挨拶した。「今晩は、レディ・オノリア。」彼女は彼を無視した。男はアトリウムをゆっくり横切り、振り向いて興味深そうにグラウクスを見た。

「証拠は?」彼女は言った。グラウクスが由緒ある家系の生まれだとはまだ信じていない様子だった。

グラウクスは荷物を入口に置いて中をかき回し、父親の書類を取り出した。彼は女性に該当書類を渡した。彼女は明かりの方へ行って腕をいっぱいに伸ばし、目を細めて読んだ。グラウクスはアトリウムにいる男の方をちらりと見た。彼はドアにもたれて面白そうになりゆきを眺めていた。

「あんたの父親が将軍?」

「そうです。」

彼女は書類をつき返し、首を傾げて、自分の髪の天辺あたりできらきらしているフィビュラをじろじろと見た。「ここは高いよ。金はあるのかい?」

「いくらなんですか?」

値段を聞いて彼は息を呑んだ。

「家賃の支払いは毎月初め。3ヵ月分前金で払ってもらうよ。」

「部屋を見せてくれますか?」

「家賃が払えるのかい?」

「はい…部屋を見たいんですが。」

「女を連れこんじゃ駄目だよ。」

「はい、わかりました。」

「パーティは禁止。」

「はい…」

「ここの住人のほとんどは静かに暮らしてるんだ。馬鹿騒ぎにつきあうような人たちじゃないからね。」

「もちろんです。居るか居ないか分からないぐらい静かに暮らしますよ。本当です。」

「そうかい。それなら、ついておいで」小柄な女性は背を向けて暗がりに消えた。

「おい、君!」

グラウクスは立ち止まり、アトリウムの向こうにいる若い男を見た。

「ギリシア語は読めるか?」彼は囁いた。

「ギリシア語?」

「そうだ…読めるのか?」

「ああ。」

「ならいい。賃貸契約書はギリシア語なんだ。無教養な人間を追っ払うためだ。」男はグラウクスにウィンクして、自分の部屋のドアに鍵を差し込んだ。「がんばれよ。」

「来るのかい?来ないのかい?」女主人が部屋の向こう側から怒鳴った。グラウクスはあわてて彼女に追いついた。彼は後を歩きながら、彼女は一体何歳ぐらいなんだろう、と考えた。かなりの歳、ということぐらいしかわからなかった。あの髪はカツラだろう…それは確かだ。濃い栗色の巻毛は、深い皺の刻まれた顔にはまったく合っていない。頬には紅がさしてあり、唇は濃い赤に塗られていた。口紅が滲んで、口を囲む縦皺に流れ込んでいた。高価そうな布で出来た服を着ていたが、彼女のでこぼこした身体にはまるで合っていなかった…あるところではきつ過ぎ、あるところではゆる過ぎた。彼女は歩きながら自分の前の空気に向かって喋り、グラウクスは何を言っているのか聞き取るのに苦労した。

「…石造りだから、火事になることはない。」彼女は自慢げに言った。「ローマ中でも、こんなインシュラはめったにない。天井も高いし。」彼女は手を頭の上で振った。グラウクスは全部の指に重そうな指輪がはまっているのに気づいた。「見てごらん」彼女はゆっくり慎重に階段を登り始めた。三階に着いた時にはぜいぜいと息を切らしていた。「見た通り、一階は店とレストランになってる…わかってるだろうけど、とっても高い店だよ。」

「とてもいい店ですね。」本当は見てもいなかった。

「この地域には最高級のものしかないんだ。宮殿も近いし…この近所に住んでるのはローマでも一番上流の市民だけだ。このあたりにはインシュラは少ないから、下宿人のより好みも出来るんだよ。」

「はい、よくわかりました。」

彼女はうなずいた。「二階は私の家だ。」

二階でドアの鍵を開けていた黒髪の男は誰だったんだろう?彼もそこに住んでいるようだった。

「この階には、角に面して4部屋ある。」彼女は彫刻のある厚い樫のドアの前で止まり、ドレスの胸から鍵を引っ張り出した。彼女はドアを押し開けて部屋の中へ消え、また喋り出した。「ここは見ての通り、応接間だ。上等の緑大理石…ここにはでこぼこの石なんて一つもないよ。床はモザイク。そっちは台所…」彼女は指差した。彼女はせかせかと別の部屋に入って行き、声が途中で聞こえなくなった。部屋をよく見る暇もなかった。「ここが寝室。広くはないけど、一人用としては快適だよ。見ての通り、上等な家具がついてる。動かさないで欲しいね。」彼女はぱっと振り返り、グラウクスを押しのけて応接間に戻り、台所へ向かった。「台所、」彼女は手を広げた。「風呂はそこ。水が流れてて下水につながってる…ローマでもめったにない物だよ。」彼女は彼をちらりと見て、ちゃんと聞いているかどうか確認した。彼はわかったという印にうなずいた。実際、彼はこの部屋にすっかり感心していた。「そこの窓の外を見てごらん。」彼女は命令口調で言った。

赤い瓦屋根の向こうに美しい中庭があり、花をつけた低木や大理石の噴水、彫像などが飾られていた。大きなレモンの木陰にベンチが二つ置かれていた。一つには女性が座り、頭を胸に落として居眠りをしていた。女性は大きないびきをかきながら、骨がないようにぐにゃぐにゃと揺れていた。「いいですね」彼は言った。

「一階から入れるよ。」彼女は太い腰に手を当てて言った。「で、どうする?」

「素晴らしいところですね。是非ここをお借りしたいです。」

彼女は基準に合うかどうか値踏みするように長いこと彼を見つめていたが、とうとう「契約書を取って来るからここで待ってておくれ。何も触るんじゃないよ。」と言った。

グラウクスは彼女のいない間にアパートメントをよく見た。明るく、綺麗で、汚れひとつなかった。壁には庭園の絵が描かれ、屋外の雰囲気を部屋の中にも作り出していた。ここを見つけられたのは幸運だった。

「で、どうした?」男の声がした。

グラウクスは振り返り、一階にいた男が入口に立っているのに気づいた。喜ぶべきか怒るべきかわからなかった。「ここに住むことにした。」

「よかった!」男は手を差し出した。「僕はマリウス・ヴィプサニウス・アグリッパ。一階に住んでいる。」

グラウクスはその手を握った。「グラウクス。マキシマス・デシマス・グラウクス。」

「ぴったりの名前だな」マリウスはにっこりして新入りを眺めた。「今までのところ、テストに合格しているみたいだな…次のテストの準備はいいかい?」

「ギリシア語を読むこと?」

「そう。」

「問題ないよ。でも、教えてくれてありがとう。」

「まあ、純粋に自分のためなんだけどね。ここに住んでる男は僕だけなんだ。他は片足を棺桶に突っ込んでるような婆さんばっかりで、もう飽き飽きだよ。このアパートメントは、丘の屋敷を処分して街中に移ってきた金持ちの未亡人の溜まり場なんだ。大家の許可が下るなんてめったにないことなんだぜ。」

グラウクスはこの同年代の気の良さそうな男に親しみを覚えた。髪はくしゃくしゃの黒の巻毛で、目は濃い茶色だった。特にハンサムというわけではなかったが…鼻がいささか大きすぎ、唇が薄すぎた…気さくな態度が彼を魅力的に見せていた。「君も大家のテストに合格したんだろう?」

マリウスはにやりと笑った。「テストを受ける必要もなかったんだ。父は元老院議員で、今はカッパドキアの知事でね。ローマに来た時はここに住んでいるんだ。母と妹は街の西にある別荘に住んでいる。僕はここ、勉強のためにね。」

「何の勉強?」

「政治に決まってるだろう?父は僕に大いなる期待をかけているんだ。家庭教師と図書館と議会見学の日々だ。悲しいかな、夜は退屈そのものだ。」彼は声を落とし、秘密めかして囁いた。「君が来てくれれば変わるかもな。」

「マリウス、僕はローマにいる間にやらなきゃならないことが沢山あって忙しいんだ。」

男は細い肩をすくめた。「ずっと働きずめってことはないだろう?いつ来たんだ?」

「今日着いたばかりなんだ。」

「ローマは初めてかい?」

「ああ。」

「そうか、それなら、僕が案内役になるよ。」

「ありがとう。」

「さて、まず何が見たい?」

「刑務所。それから、売春宿かな。」

マリウスは一瞬、唖然としたがすぐに立ち直った。「たいていは宮殿や神殿とかアリーナに行きたがるんだが…まあ、売春宿ってのはわかる。僕の馴染みの店は最高だよ…でもなぜ刑務所なんか?」

「個人的な理由でね。」

「ほう、それはミステリアスだな。」マリウスはつぶやいた。彼はグラウクスの脇腹を指差し、「その剣はいい会話のきっかけになるだろうな…会話を終らせるきっかけにもなるだろうが。」

グラウクスの手は反射的に柄を掴んだ。「父の剣なんだ。」

「柄にあるのはマルクス・アウレリウスの印章かい?」

グラウクスは剣をちらりと見下ろし、それから改めてマリウスを見た。この男は注意深い、鋭い目を持っている。「そうだ。」

「そうか…君がここに来てくれてとても嬉しいよ、グラウクス。」

「ありがとう…」

「持って来たよ」女主人が部屋に入りながら大声で言った。彼女はマリウスには一瞥もくれなかった。「読んでサインしな。」

グラウクスは契約書を受け取り、よく見るために明るい窓辺に行った。契約書は本当にギリシア語で書かれていた−えらく格式ばったギリシア語で。グラウクスは彼の教師に感謝した。教師はひとかどの人物になるつもりならギリシア語は絶対に必要だと言い張ったのだ。その頃は馬に乗ること以外に興味はなかったので、彼は嫌々勉強した。やっと勉強が役に立った。突然、彼の顔は暗くなった。彼は大家と、まだ入口に立っているマリウスを見上げた。「一年?一年契約しなければならないんですか?ローマに一年もいるつもりはないんです。」

「それはどうしても譲れないよ。始終出たり入ったりされるのは困るんだ。一年は契約してもらわないと。」

「あの…すみません。それなら、他を探します。」彼は心底、がっかりしていた。

「どのぐらいいるつもりなんだい?」彼女は訊いた。

「長くても数ヶ月です。」

「それじゃあとても駄目だね。特別にまけても八ヵ月、他の人にはまけたことないんだよ。」

「すみません」グラウクスは残念そうに契約書を返し、荷物を取った。「他にどこを当たったらいいかご存知ですか?」

「この辺りじゃ無理だよ、坊や。この地域にはインシュラは少ししかないし、まず空き部屋はないよ。」

「サビュラを当たってみるといい。あそこにはインシュラがたくさんある。」マリウスが助け舟を出した。

老女は鼻で笑った。

「そこにはどう行けばいいんですか?」

「フォーラムの方向へ戻って、クリヴァス・オルビウスで右へ曲がって、どこでもいいから左へ行って、それからサビュラ・マジョールを右。でも、この時間じゃあまり望みはないんじゃないかな。」

「仕方ない。当たってみるよ。奥さん…お手間を取らせてすみませんでした。マリウス、会えて良かった。」

「また会おう、友よ」マリウスは階段を降りるグラウクスの背中に言った。

 

第24章 サビュラ

マリウスの道案内は非常に正確だった。気がつくと、グラウクスはローマの中心を離れて郊外に出ていた。道は狭くなり、夜の帳が降りると共に暗くなっていた。道を照らす松明もほとんどない。グラウクスは何度も立ち止まり、夜間に知らない地域に入るのは賢明だろうか、と考えた。しかし、サビュラは遠くはなく、もうすぐ近くまで来ていた。それに、どちらにせよ、今夜泊まるところを探さなくてはならない。

サビュラが見えてくる前に、その臭いが鼻をついた。彼は鼻に皺を寄せた。無蓋の下水道から臭気が立ち上っていた−排泄物、尿、吐瀉物の入り混じった酸っぱい臭い。星の微かな光は、狭い道路の両側に並ぶ今にも壊れそうな建物の列に遮られていた。ねじれた建物は九階もの高さに聳え立っていた。足元を照らすのは、ごくたまにある松明と、インシュラの木の壁の割れ目からもれる微かな光だけだった。黄色い光は石畳にぎざぎざの縞模様を描き出していた。

グラウクスは尾行している近衛兵を探して振り向いた。初めて、影の中に彼らがいればいいと思った。敵であろうと味方であろうと、見慣れた人間がそばにいれば心強いと思った。しかし、彼はひとりだった。本能は逃げろと告げていた。しかし、彼は辺りのあまりの不気味さに、根が生えたようにそこに立ちすくんでいた。猫が背の毛を逆立てるように、手足の先まで緊張が駆け抜けた。彼は膝を曲げて剣を抜き、素早く左右を見回した。薄暗い路地はくねくねと曲がり、闇に消えていた。薄暗い中に、鼠のたかったゴミの山がまるで生きているようにうごめき、痩せ衰えた犬たちがうなり声を上げながら今夜の食べ物を探し回るのが見えた。犬たちは人間たちと残飯を争った。腰の曲がった、奇形の人間がきゃんきゃん鳴いている犬を蹴りつけ、蛆のわいた残飯をさらって行った。寝ているのか、気を失っているのか、重なりあうように塀にもたれている人間たちもいた。声が絶え間なく聞こえていた−子供の泣き声、大人の叫び声、痛みと絶望にうめく病人の声。

グラウクスは恐怖を感じながらも、魅入られたように釘づけになっていた。想像もしていなかった−ローマがこんな所だなんて。ローマは…あの壮麗なフォーラムのように、街中がエレガントで清潔なところだと思っていた。サビュラのようなところは見たこともなければ、想像したこともなかった。帝国のもっとも偉大な都市で、こんな暮しをしている人々がいるなんて…どうしてこんな事が許されているのだろう?

突然、何かが袖を掴んだ。彼はびくりとして振り返り、剣を構えた。その女は、鋭い刃を見てもたじろぎもしなかった。女は無遠慮に彼を眺めまわした。「かわい子ちゃん、何が欲しい?手でやるかい?口でやって欲しいかい?金次第じゃ両方やったげるよ。」女から漂う悪臭に彼は胃が悪くなり、後ずさりした。「坊や、どうしたのさ?」女は近づきながら言った。女は痛々しいほど痩せていて、ぼろぼろのチュニックが骨ばった肩から垂れ下がっていた。脚の生傷から黄色い膿が滲み出していた。「何が欲しいか言ってごらんよ…ねえ?」突然、彼女は振り返って後ろの物影に向かって怒鳴った。「来るな!あたしが先に見つけたんだよ!」物影は逃げて行った。

グラウクスは必死の思いでチュニックの中を探り、小銭を引っ張り出した。「ほら…これで食べ物を買え。」彼は女の足元に金を投げつけた。女の目がぎらりと光り、骨と皮ばかりの指が小銭を拾い上げた。彼女はぱっと背を向け、たちまち闇に消えた。グラウクスは自分の過ちに気づいたが、もう遅かった。ありとあらゆる大きさの人間の形をした影たちが、彼に向かってずるずると近づいて来た。彼は恐慌をきたして剣を振りまわした。「来るな!近づくな!もうないんだ。」

「お願いです…飢え死にしそうなんです」影の一つが懇願した。その声は何十人もの声に紛れた。グラウクスはじりじりと後ずさりした。足首が何か柔らかい物に触れた。犬の鳴き声がして、グラウクスはよろけて汚水溜めの横に膝をついた。彼は汚物に手をつき、あやうく倒れるのを免れたが、手は何か腐った、ぐにゃぐにゃしたものに触れた。犬は歯をむいてうなり、毛を逆立ててその物体に突進し、咥えて運び去った。肋骨と背骨がグラウクスの目に入った。それは人間の死体の残骸だった。

彼はぱっと立ちあがって走り出した。彼は飛ぶように走って行った…フォーラムの方へ…明るい方へ、清潔な方へ、安全な方へ。サビュラの亡霊から充分遠ざかった事を確認してから、彼は立ち止まり、道端に行って吐いた。震えながら、彼は何とか立ち上がり、パラティンの方へ向かった。この落とし前をつけなければ。

 

「おや、グラウクス、また会えて嬉し…」マリウスの言葉は、顎に叩きこまれたグラウクスの拳によって途切れた。彼は後によろめいてアパートメントのモザイクの床に倒れ、ショックに口を開けたまま背中で滑って止まった。彼は寝転がったまま顎を撫で、怒りに燃えたスペイン人を眺めた。その顔に浮かんだショックはすぐににやにや笑いに変わった。

「この野郎!殺されるところだったんだぞ!」

マリウスは笑い声を上げた。「まさか。腰につけてる剣はただの飾りじゃないだろう?使い方もちゃんと知っていると見たね。」一瞬後、その剣は彼の顎に突きつけられていた。彼は頭をそらして笑顔を引っ込めた。彼は宥めるように手を上げた。「グラウクス、頭を冷やして剣をしまいたまえ。無事だったんだからいいだろう。」

「寿命が縮んだ。あそこは話とは大違いだった。どうなるかわかってて教えたんだろう!」

怒りにグラウクスの手が震えた。マリウスはそっと指を上げて剣の先を脇へどけた。「その通り。君じゃなきゃあんな所へやったりしないよ。人間の肉だって食うような飢えた犬と人間に八つ裂きにされるのが落ちだろうからね。でも君の父親は将軍だったっていうし、形見の剣も持っている。さっきも言ったけど、剣の使い方もちゃんと知っているみたいに見えたしね。それに、君は無事だったし、ちゃんと帰るべきところに帰ってきた。さあ、契約書を貰ってきてサインしろよ。」

「サビュラへ行かせたのは、そうすればここに戻って来ると思ったからなのか?」グラウクスは呆れて剣を下へ向けた。「何で?」

「だから言ったろ、僕は自分勝手なんだ。婆さんたちの機嫌を取って神経痛の愚痴ばっかり聞いているのには飽き飽きしてるんだよ。」彼は腕を伸ばした。「いいかげんに起こしてくれよ。」グラウクスは無視して背を向けた。マリウスはよろよろと立ち上がり、顎を動かしながらトーガの皺を伸ばした。「いいパンチをしているなあ。」

誉め言葉は完全に無視された。

「なあ、今夜はここに泊まって、契約書にサインするのは明日の朝にしたらどうだ?予備の寝室がある…風呂も。グラウクス、言っとくけど…」マリウスは笑った。「君、風呂に入った方がいいよ。」

グラウクスは剣を鞘に収めたが、まだ怒っていた。彼はドアへ向かった。「ここを借りるなら、今夜中に大家に言わないと。誰かに貸してしまうかもしれない。」

「それはないな。僕がもう三ヵ月分の家賃を払っておいたからね。後で返してくれよ。」

グラウクスは振りかえり、にやにや笑っている男をまじまじと見つめた。「何て思い上がった奴なんだ!」

「やっと分かったかい?」

「他に道はないってわけか?」

「まあ、そうだな。グラウクス、あんな所に行かせたりして悪かった。君は辺境から来たんだろう?」グラウクスに睨みつけられて、マリウスはあわてて言った。「馬鹿にしてるんじゃない…逆だよ。ただ、君はサビュラみたいな所は見たことがないんだな…」

「見たことがないどころか…」

「…だから、僕が思ったよりショックが大きかったみたいだ。」

「ローマともあろうものが、どうしてあんな所を放置しておくんだ?」

マリウスは悲しげに微笑んでキャビネットまで行き、洒落たデキャンタとグラスを二つ取り出した。彼はワインを注ぎながら説明した。「元老院が手を出す必要もないんだ。時々、自分たちで大掃除しているからね。」グラウクスが眉を上げるのを見て、彼は説明した。「火事だよ。年がら年中。ああいう地域は火薬箱みたいなもんだ。毎月のように火事を出して、ローマの人口を減らしている。」彼は革椅子の方に手を伸ばして言った。「まあ座れよ。」彼はグラウクスの前の革椅子に腰を下ろした。「それに、元老院階級の男の中には、あそこの恩恵に与ってる連中も多いからね。」

グラウクスはさっきの娼婦を思い出した。何の話かは想像がついた。

「安いセックスさ。」

「『安いセックス』が群れをなして襲ってきたよ。あんな病気もちの女によく触る気になるな。」

「いや、狙いは女じゃないんだ。あそこに行く連中が求めるのは禁断の果実…男…少年だ。あそこなら、ローマ社交界での評判を気にすることなく欲望を満たすことが出来るんだ。サビュラの男たちも、子供たちも、お客の秘密を守っている限り生き残れるのを知っている。一言でも洩らしたら命はない。死んでも、誰も気にしない。」

グラウクスはしばらく黙って床を見つめていた。「ローマって、僕が思っていたのとは違うみたいだな。」彼は静かに言った。

「早くも幻滅かい?」マリウスがからかった。「それでもまだ最悪のところは見てないだろう?」

「何のことだ?」

「刑務所さ。刑務所を見たいって言ってただろう。」

グラウクスはうなずいた。

「特別な理由でも?」

「ローマの刑務所に収監されていたかもしれない人を捜しているんだ。」

「誰?」

グラウクスはマリウスをじっと見つめ、感情を抑えた声で言った。「父だ。」

マリウスは驚いて背を伸ばした。グラスの液体が手にかかり、血のように指をつたってこぼれた。「将軍かい?」

この生意気な若造を驚かすことができたと分かって、グラウクスは満足感を覚えた。「そうだ、将軍だ。フェリックス連隊の将軍、マルクス・アウレリウス治世下の北部軍総司令官。」彼は深いため息をついて、つぶやいた。「ぼくの父だ。」

マリウスは椅子にぐったりともたれた。「グラウクス、君のお父さんみたいな人が収監されるとしたら、テュリアン刑務所に決まっている。だけど…」

「それはどこにあるんだ?」

「君はクリヴァス・アルジェンタリウスを通ってローマに入ったんだろう?その道を戻って、ヴィカ・パラシニを左へ曲がると近衛隊が駐屯している大きな基地がある。テュリアン刑務所はその中だ。テュリアン刑務所はローテュミエ刑務所の一部なんだが、近衛隊が管理しているんだ。」

『僕の』近衛兵たちもそこにいるのだろうか、とグラウクスは考えた。「どうして近衛隊が刑務所の管理を?」

「国立の刑務所で、政治犯が収監されているからだ。重要人物が…例えば昔、クレオパトラの妹のアルシノエが収監されていた。部族の族長も、ローマを引き回された後あそこに入れられて、その後処刑される。ただの犯罪者はローテュミエ刑務所に入れられて、その後アリーナに移送されて殺される。グラウクス…」マリウスはためらいがちに言った。「あの牢の酷さといったら…とても言葉に出来ないほどで…囚人が長く生きることはめったにない。君のお父さんが居るとしたら、何年になるんだ?」

「居るかどうかはわからないけど、もし居るなら…18年近くになる。」

マリウスは黙って首を振った。彼はゆっくりと立ちあがってグラウクスのそばに来て、慰めるように肩をつかんだ。「グラウクス、風呂と寝室に案内するよ。もう遅いし、これから色々大変みたいだからな。」グラウクスも立ち上がった。「君のお父さんを捜すのを手伝うよ、」マリウスは言った。「勉強の時間を少し割けるだろう。残念だな…初めてのローマ旅行なのに、そんな事情で来たなんて。」

グラウクスはうなずき、またため息をついた。

マリウスは拳をグラウクスの顎に軽くぶつけた。さっき自分を床にのしたパンチの真似だった。ようやく、グラウクスは微笑んだ。「それが済んだら、浴場巡りと売春宿巡りにご案内しよう。僕はローマでも最高のを知ってる。少しは楽しまなくちゃな。」

 

第25章 故郷への手紙

グラウクスは新しいパピルスを引っ張り出し、鵞ペンを黒インクに浸して改めて書き始めた。

親愛なるママ、パパ

彼はペンを止め、ペン軸で唇を叩きながら考え込んだ。手紙の書出しとしては、こんな気楽な呼び方は変なような気がした。「お父さん、お母さん」の方が手紙にはふさわしいが、その言葉を使うのにはためらいがあった。その特別な言葉は、本当の両親、オリヴィアとマキシマスのために取っておきたかったのだ。彼はなぜか、自分を育ててくれた人−伯母と伯父−と、本当の肉親を区別する必要を感じていた。本当は両親ではない両親と、自分に命を与えてくれた夫婦とを区別したかった。だから、とりあえず、オーガスタとタイタスのことは「ママ、パパ」と呼んでいた。二人との親密で愛情に満ちた関係によく似合う呼び方だった。偉大なる実の父親の方は、まだはっきりしたイメージが掴めていなかった。頭の中のマキシマスはまだぼんやりと霞んでいて、心ではなぜか距離を感じていた。しかし、父のことを知るにつれ、それは少しづつ変わってきた。将軍としてでなく、人間としてのマキシマスに少しづつ親しみを覚えるようになってきた。でも、会ったことはないのだ。一緒に笑ったことも、食事を共にしたことも…手を触れ合ったことさえない。

彼は乾いてしまった鵞ペンをインクに浸し、続けた。

ローマに着いて二日になりました。僕は宮殿の近くのしっかりしたアパートメントに落ち着きました。ここは市の中でも環境の良い所です。手紙の最後に住所を書いておきますので、良かったら返事を下さい。僕は元気です。ローマでもう友達ができました。父さんを捜すのを手伝うと約束してくれました。彼の父親はローマ属州の知事です。彼は信用できると思います。

最後の言葉を書いたとたん、グラウクスは考え込んでしまった。これでは、『信用できない人もいる』とほのめかしてるみたいだ。伯母と伯父を心配させるような事は書きたくなかった。しかし、もう三回も書き直している。また最初から書き直すのは面倒だった。もっと慎重に言葉を選ばないと。

ローマは本当にすごい大都会です。とても広く、帝国中から人が集まっています。ほとんどの場所はきれいですが、そうでない所もあります。でも、僕は環境の良いところに落ち着きましたのでご安心下さい。

自分を安心させようとしているのだろうか?

ゲルマニアからここへはアルターだけ連れて来ました。ゼウスはヴァンドボーナで、父の技師長だったジョニヴァスという人に預けて来ました。目的を果したら迎えに行くつもりです。アルターもしっかりした所に預けてあります。日中、街の中に馬が入るのは禁じられているのです。近衛兵の馬を除いて。

グラウクスは「近衛兵」という言葉は二度と使うまいと心に決めた。伯母と伯父に、皇帝の家来にゲルマニアからずっと尾行されているなどという事を言うつもりは毛頭ない。心配させたくなかったし、何よりも、すぐに帰って来いなどと言われたくなかった。

ジョニヴァスはたくさんの事を教えてくれました。しかし、彼と話したことで疑問もまた増えてしまいました。ここでその答えを見つけたいと思っています。僕はある女性を捜しています。父がカシウスの謀反を阻止した時に会ったという女性です。それから、父の副官だったクイントスという人を捜し出したいと思っています。その後、コモドゥスの近衛隊長をしていた人です。

ご存知のように、僕は生きている父を見つけたいと思っています。伯父さんはマキシマスがゲルマニアで死を逃れてスペインに戻ったと思っていらっしゃいましたよね。ジョニヴァスの話を聞くと、それは充分有り得る事のようです。その後の行方はわからないのですが、ここローマで、手がかりを与えてくれる人を見つけたいと思っています。明日、僕はテュリアン刑務所に行って、父が収監されていた記録がないかどうか調べるつもりです。

その後も予定がつまっています。新しい友達のマリウスは、少しは遊べと言っています。僕は時間を無駄にしたくないのですが…

「グラウクス?」ドア越しにマリウスの声がした。

「居るよ。入れよ。」グラウクスは大声で答えた。

…でも、マリウスはどうしても僕にローマの街を案内したいと言っています。」

マリウスがドアを開けると、涼しい風が吹き込んで羊皮紙の端を持ち上げた。「何をしているんだ?」

「手紙を書いてる。」

マリウスは呆れて、「それは見れば分かる。」と言った。

「伯母と伯父に。君には関係ないけどね。家を出てから一度も手紙を書いていないから、無事だと知らせておかないと。」グラウクスはため息をついた。「どうも、僕は手紙を書くのは下手みたいだ。今までは手紙を書く相手もいなかったから。」

マリウスは細い身体を革のソファに投げ出し、木のアームに膝をかけた。彼は気楽な格好で寝そべり、脚をぶらぶらさせながらグラウクスをしげしげと眺めた。彼が動くたびに革が微かな音を立てた。「そうだろうな。そもそも、家を離れたのが初めてなんだろう?」彼はからかうように言った。

グラウクスは彼を無視して書き続けようとした。後は何を書いたらいいんだろう?

家とスペインの緑の丘が恋しいです。家族のみんなも、馬たちも。でも、僕は目的に着実に近づいている感じがします。

彼は手入れの行き届いた爪を眺めているマリウスをちらりと見た。顎の左側に鉛色の痣が出来ていた。悪かったとは全然思わなかった。彼は手紙に戻った。

家に帰れるまでどのぐらいかかるか分かりませんが、全ての疑問に答を見つけたら、必ず…

「君、尾行される心当たりはある?」

グラウクスははっとして顔を上げた。鵞ペンがパピルスに引っかかって黒いしみを作った。彼は悪態をついて、出来る限りインクを拭き取り、できるだけさりげない口調を装って「なぜそんなことを?」と言った。

「君がここに来た夜、男が二人、物陰に隠れていた。」マリウスはグラウクスの目を見上げた。「同じ連中が、君の後をついてサビュラの方へ行った。」

「あいつら、来てたのか?」

「てことは…やっぱりそうなのか?」

グラウクスは手紙を見つめ、ペンにインクをつけた。しかし、もう集中できなかった。ペンはパピルスの上をさまった。黒く光る滴がぽたりと落ちて、手紙にもう一つ染みを作った。彼はペンを置いて椅子の背にもたれ、腹の上で腕を組み、黙りこくっていた。

「やつら、また外にいるぜ。隠れてるつもりのようだったけど、あいにく僕は目が利くんだ。僕を尾けてるとは思えなかった。ここの婆さんたちを尾けてるはずはないしね。」マリウスはグラウクスを見て片方の眉を上げた。「それで…どういうことなんだ?君を手伝ったりしたら面倒なことになるのかな?」

「多分ね。」

「正直なお答えをありがとう。」マリウスは新しい友達をじっと見つめていた。「あの連中、何者なんだ?」

「近衛兵だ。」

今度は両方の眉が飛び上がった。「それは…凄いな。皇帝が直々に監視したいと思う奴なんてめったにいない。」

グラウクスは顎鬚を撫で、皮肉っぽく「そりゃ光栄だね」と言った。

「何をやったんだ?」

「どうも、質問をしすぎたらしい。それ以外には心当たりがなくてね。」

「質問って何の?」

「父について。」

「そうか。」マリウスは考え深げにうなずいた。「皇帝が君の噂を聞いて、何でそんなことを聞きまわってるか調べさせようとしたって訳か?」

「噂を聞いたんじゃない。皇帝と直に話したんだ…」

マリウスは身体を起こした。「本当か?僕だって会ったことはない…」彼は宮殿の方向へ頭を振って言った。「…こんな目と鼻の先に住んでるのに。」彼は顔をしかめて考えに沈んだ。「どこで会った?」

「ゲルマニアで。数週間前だ。」

「ゲルマニアか。東方に行ってるって話だったが。」

「僕が会った時は北方にいたよ。ヴァンドボーナの父の基地にいた…父のために建てられた家に泊まっていた。」

マリウスはその言葉に苦さを感じ取った。「なにしろ皇帝だから、帝国中の物は何でも思い通りにできるのさ。」マリウスは優しく言った。「このインシュラに押し入ってきてここに住むって言ったとしても、誰も逆らえない。」

グラウクスは手紙を見た。セプティミウス・セヴェルスに会ったことも家族に知らせるべきだろうか?今は止めておこう。何と説明していいのかわからない。マリウスは彼の心を読んだように、「危険なのか?」と訊いた。怖がっているというよりも、面白がっているようだった。

「正直言って…わからない。」

マリウスは細身の若者らしい優雅な仕草で立ちあがり、窓辺に手をついて中庭を見下ろした。彼は長い間そのままじっとしていた。ようやく窓に背を向けて振り返ると、身体の周りに日がさして顔は完全に影になっていた。「僕を信用してないんだな?」

グラウクスはためらわずに答えた。「僕は君を知らない。尾行されている理由もわからないから、誰が信用できるかもわからない。もうすでに喋り過ぎたかもしれない。」

「まあ、そうだろうな。僕が君の立場なら、やっぱり信用しないだろう。」

「わかってくれてありがとう。」

「でも、正直に言って、僕は興味津々だね−君のお父さんについて。今まで聞いた話だけでも、実に面白そうだ。グラウクス、僕は政治を勉強しているから歴史には詳しいんだ。僕はマルクス・アウレリウスの大ファンでね。彼が死んでコモドゥスが後を継いで以来、ローマはすっかり変わってしまった。それから…彼がアリーナで死んで、ここは大混乱になった。近衛隊が権力を握って、帝位を競売にかけて売り渡してしまった。」

近衛兵の話題が出た機に乗じて、グラウクスは質問してみることにした。「クイントスって名前の近衛隊長のことを聞いた事があるかい?姓は知らないんだ。」

「知ってる。コモドゥスの近衛隊長だった男だ。」マリウスは頭を垂れて目を閉じた。情報を引っ張り出すために頭の中から外界を締め出そうとしているようだった。「クラルス。名前はクイントス・クラルスだったと思う。」

「君は記憶力がいいんだな。」

「どうでもいい細かい事を覚えている性質でね。」

「僕にはどうでもよくないよ。クイントス・クラルスは近衛隊長になる前、僕の父の副官だったんだ。マルクス・アウレリウスが死んで父が失踪した時に…まさにその夜に、彼は近衛隊長に出世したんだ。」

「ふうん、それは…とても興味深い事実だな。実に、興味深い。」

「彼はどうなったんだ?」

「コモドゥスが殺された後、彼は近衛隊長としてローマの実権を握った。そのころ、ある元老院議員が…名前はグラックスだったと思う…この国を共和制に戻す責任者になっていた。誰が彼にそんな権限を与えたのかはよく分からない。それで、コモドゥスの後継者はルシアス・ヴァレスの筈だった。でもルシアスはまだほんの子供で、グラックスはただの元老院議員で、両方とも権力を持っていなかった。それで、クイントスとその近衛隊がローマの実権を握って、王座を競りにかけて一番高い金を払う奴に売り渡すことにした…もちろん、その金は近衛隊が頂くんだ。ローマの歴史の中でも最も暗い時代だ。しばらくの間、帝国はとても不安定だった。」

「どのぐらいの間?」

「まあ、セプティミウス・セヴェルスが皇帝になるまでかな。かなり長期間だった。」

「その後クイントスはどうなった?」

「セヴェルスは自分が直接知っている人間しか信用しなかった。北部軍を率いてローマに進軍した時、彼は近衛隊を全員、自分の子飼いの部下に入れ替えた。詳しい事は憶えてないけど、なかなか面白い話だと思ったよ。セヴェルスは元の近衛兵を残らず検挙して権力を全て奪い、ローマから追放したんだ。」

「追放?」

「ああ。ローマから百マイル以内の所には二度と戻るなと命令した。土地も財産も没収、馬さえもだ。思い出した…追放された近衛兵を愛馬が追いかけて行った話があったな。その近衛兵は馬を殺して、それから自殺したそうだ。元の近衛隊は、全員完全に失脚したんだ。」

「じゃあ、クイントスはローマにはいないのか。」

「いないだろうな…まだ生きていたとしての話だが。」

グラウクスは口をぎゅっと引き結んだ。「ここで彼を捜し出したいと思っていたんだけどな。僕が聞きたいことをいろいろ知っていると思うんだ。」

「グラウクス、僕が力になれるかもしれない。ローマに長く住んでいる人たちに、友達が…コネがあるから。父の友達だよ。彼を見つける手助けができるかもしれない。」

グラウクスは立ち上がり、モザイクの床を横切って、光のがマリウスを隠すのではなく照らし出すような位置に移動して壁にもたれた。「助けてくれるのは嬉しいけど、君のローマでの立場を危うくするかもしれない。セヴェルスはどういう訳か、僕が何か探り出すのを嫌がっているらしいんだ。僕をゲルマニアから東方へ行かせようとした。皇帝が東方へ行けというの僕が無視したんで、たぶん怒っている。」

「忠告を無視されて怒らないような人間じゃないな、たしかに」マリウスが言った。「でも、僕は人の鼻をあかすのが好きでね…相手が権力者でも。憶えておけよ、グラウクス…皇帝と言っても、皇帝でいられるのは次のやつが現れる迄だ。近頃、長期政権を維持するのは難しくなっている…本当はとても不安定な地位なんだ。王朝を確立するなんてのはもっと難しい。セヴェルスはそうしたいみただけどね。考えてみろよ、殺された皇帝が何人いるか…」

「たとえば、マルクス・アウレリウスとか。」

「まあ…確かにそういう噂はあるね。でも、証拠は何もないんだ。殺されたと思っているのか?」

「ああ。」

「それで…君のお父さんが関わっていると?」

「父は皇帝の死に関わってなんかいない」グラウクスはきっぱりと言ったが、声を落として、「でも、知っていたのかもしれない…本当は何があったのか。」と言った。「前にも言ったけど、コモドゥスは父を処刑するように命令したんだ−マルクス・アウレリウスが死んだ、その同じ夜に。でも、状況から考えて逃げたみたいなんだ。」

「どこへ?」

「わからない。スペインへ戻ったかもしれないけど、その後すぐに消えてしまった。」

「それで、どうしてローマの刑務所にいるなんて思うんだ?」

「有り得ることだろう?」

「まあ、もしローマへ来たんなら、テュリアン刑務所に入れられる事になったとしてもおかしくはないな。でも、あそこで長く生き残れる人間なんていない。病気の蔓延した生き地獄だ。あまり期待しない方がいいぞ。でも、ローマ人ってのは何でも記録に残すことでは悪名高いから…ちょっとでもあそこにいたんなら、必ず記録が残っているはずだ。」マリウスはゆっくり歩いて来てグラウクスの目の前に立った。「僕に行ってやろうか?君は目立たないようにしていた方が安全かもしれない。」

「いや、自分の目で見たい」彼は微笑んでこの言葉をやわらげた。「ありがとう、マリウス。でも、自分でやりたいんだ。」

「僕も一緒に行くよ。」彼はグラウクスの反対を遮るように手を上げた。「君がこの一件を持って来るまで、僕は退屈で死にそうだったんだ。君にはわからないだろうけど。」彼はグラウクスの肩を掴んだ。「完全に信用しろとは言わないよ。僕が信用できるってはっきり分かるまではね。それまでは、ただ君にくっついて行って手伝える時は手伝うよ。それでいいだろう?」

グラウクスは一瞬だけためらったが、すぐにうなずいた。

「よかった。さて、それじゃ今日は君の連れを…近衛兵を撒いて遊ぼうか。」

「どうやって?」

マリウスはにやりとして、窓の方を見てうなずいた。

「その遊びならやったことがあるけど…」

マリウスは下を向いて少し考えた。「ああ、そうだ…連中、婆さんが連れ立ってインシュラを出るのは気に留めないんじゃないかな?」

今度はグラウクスが眉を上げた。

「毎日午後に、ご婦人方のうち三人が召使いを連れて買い物に行くんだ。三人が五人になったってかまわんだろう。」

「この髭が見えないのか?それに、君は婆さんにしては背が高すぎるよ。」

「髭は剃れ。僕は猫背で歩く。ご婦人方が服とカツラを貸してくれる。みんな退屈しているんだ。」

グラウクスは顔をしかめた。

「何て顔するんだ。髭なら二、三日もすりゃまた伸びるだろう。」

グラウクスは嫌そうに顎を押さえたが、ようやくため息をついてうなずいた。マリウスの後をついてアパートメントを出ながら、しかめっ面はだんだん笑いに変わった。

 

二時間後、五人の女がそれぞれ女の召使いを連れ、ぺちゃくちゃと喋りながらインシュラの正面玄関を出た。道の反対側の物陰から、二人の男が女たちをぼんやりと眺め、ドアに視線を戻して塀にもたれた。マキシマス・デシマス・グラウクスの監視なんていう退屈な任務からは、一刻も早く解放されたいものだ。

 

第26章〜30章