Glaucus' Story:第31章〜35章

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第31章 想い出

「坊や、気分はどう?落ち着いた?」ユーゲニアは心配そうな目でグラウクスを見つめていた。彼はこわばった表情で皿の上のパンやチーズ、無花果やナッツをつつきまわしていた。すっかり食欲がなくなったようだ。一方のマリウスは、マキシマスの過去に繋がる手がかりを発見したことにすっかり興奮し、食事をがつがつと頬張りながら喋り続けていた。ユーゲニアは二人に食べ物を取り分けながら、マルクス・アウレリウスによって解放されてローマに来てからの自分の人生につて説明した。

ユーゲニアはローマで、女実業家として再出発を試みた。彼女は支度金を小さな魚屋に投資した。しかし、彼女の頭脳はビジネスには向いていなかった。卸業者も顧客も程なくそれに勘づき、両側から金を騙し取り始めた。彼女は店を閉め、債権者から逃れて、嫌々ながらも元の生活に戻るしかなかった。彼女は高級娼館の絹のカーテンの奥におさまり、指示だけ与えて自分で男にサービスをすることはない身分を望んだ。しかし、ローマの競争は激しく、その夢は叶えられなかった。それでも彼女は、比較的まともな女の子たちをかかえる小さな店を長年に渡って維持してきた。客もとぎれなかった。これでも、うまくやってきた方だろう。彼女は自分に言い聞かせていた。

グラウクスは水をたっぷり加えたワインを一口飲み、礼儀正しく話題を父の事に戻そうと試みた。「父についてご存知の事を教えて下さい。」

ユーゲニアは母性愛のこもった目でハンサムな若者を見た。この子は父親そっくりだ。でも、まるで似ていないところもある。「カシウスが自分で皇帝になったって宣言して…それからしばらくして、お父さんが部下を連れてやって来たのよ。あたしたち、何もわからなかったから…マルクス・アウレリウス陛下は死んだって聞かされていたから、そうだと思ってた。だから、お父さんがやって来てそうじゃないって言って…とても驚いたよ。でも、あたしたちはお父さんを信じたの。どうしてだかわからないけど、信じずにはいられない人だったのよ。お父さんは、それはもう…真面目で、頼り甲斐がありそうに見えたの。それに、あたしたち、彼を信じたかった。カシウスってのは血も涙もない男だったから…あんたのお父さんはとても優しくてね。女の子たちはみんな彼に夢中になったわ。マキシマス将軍が部下を連れて基地に着いて、次の夜だったか、その次の夜だったか…将軍はカシウスが開いたパーティに行ったの。マキシマス将軍とカシウスが憎み合ってるのは、はたから見てもよくわかったわ。マキシマス将軍はカシウスに宣戦布告したの。正直言うとね、あたしたち、お父さんはその夜の内に殺されてしまうだろうと思ってた。でも…ここでジュリアの登場よ。」

グラウクスはうなずいて先を促した。

「あの子はカシウスから、お父さんについているように…何をするか見張って、カシウスに報告するようにって命令されていたの。でも、本当はカシウスの敵に味方していた。あの子はカシウスを憎んでいたからね。カシウスの変態野郎があの子にどんなことをしてたか、神のみぞ知るだよ。ほんとに酷い奴だった。あの子は、見た目は触れなば落ちん花って感じだけど、芯は鋼鉄だったね。」ユーゲニアはちょっと黙り込み、考えをまとめてから続けた。「ジュリアはあなたのお父さんに一目惚れしたの。傍目にもわかるぐらいだった…それに、あたしの考えじゃ、お父さんもあの子に惹かれてた。二人はパーティで二人きりで過ごしていたし、その夜、将軍はジュリアを自分のテントに呼んでたし…あの子は朝まで戻って来なかった。あたしたち、彼がどんなだったか知りたくてたまんなかったんだけど、あの子は何にも教えてくれなかった。」彼女は秘密めかして囁いた。「あの子はやきもち焼きだから、他の子があの人に近づくのも嫌だったんじゃないかな。」彼女は自分で納得するようにうんうんとうなずいてみせた。

グラウクスは顎から力を抜こうとしたが、緊張が首と肩に移っただけだった。父が美人の娼婦と一夜を過ごしたからといって、どうしてこんなに嫌な気持ちがするのだろう?妻に操を立てて何年も女なしで過ごすなんて、どこか悪かったに違いない−ジョニヴァスにこんな事を言ったのは他ならぬ自分だったのに。こんなことが気になるなんて、理屈に合わない…でも何故か、とても気になった。

ユーゲニアは話を続けていた。「マキシマス将軍はカシウスを殺すつもりで、ジュリアに助けを求めたの。で、ジュリアはあたしの助けを求めた。ジュリアはあたしのことを信用してたからね。あたしたちは秘密も打ち明け合う仲だったの…あたしが絶対にマキシマス将軍を裏切ったりしないって、あの子にはわかってたのよね。」ユーゲニアの顔を微笑みがよぎり、とたんに若々しくなった。彼女は白髪まじりの髪をかき上げ、話を続けた。「あたしたち、マキシマス将軍をかくまったの」彼女は笑い声を上げた。「将軍のテントは見張られていたんだけど、抜け出してあたしたちの所へ来たの。それで湯舟に隠れてもらったのよ。ジュリアはお湯を入れて、泡の立つ香油を入れて、将軍と一緒に湯舟に入ったの。衛兵たちが捜しに来たら、水に潜って息を止めていてもらったの。連中が諦めて帰るまで。」彼女は首を振った。「溺れて死んじゃうんじゃないかって、すごく心配したわ!衛兵たちは浴室を調べるって聞かなくて…でも結局、あたしたちしかいなくて…かわいそうに、マキシマス将軍はその間ずーっと、お湯に潜って息を止めていたの。泡に隠れてね。衛兵たちはジュリアを湯舟から引っ張り出したわ。あの子が連中をうまいことアトリウムに誘い出したから、あたしたちは将軍様を水から引っ張り上げたの。」彼女はまた笑った。「軍服がびしょ濡れでね…」

「軍服を着てたんですか?」グラウクスはびっくりして訊いた。

「そうねえ…全部じゃなかったね。チュニックだけ。香油が目にしみたらしくて、こすってらっしゃったわ。あたしは身体を拭くのをお手伝いしたの。」彼女ははしゃいだ声で言った後、シャボン玉がはじけるように急に真面目になり、背筋を伸ばした。「それで、マキシマス将軍はあたしに助けて欲しいっておっしゃったの。将軍の部下たちに指示を伝えたのはあたしなのよ。」彼女は誇らしげに言った。「あたしを信用して下さったのよ。」

グラウクスはうなずき、にっこりした。苦労の多い人生を送っているこの勇敢な女性が好きになりはじめていた。それに…この人は父さんと話したんだ。父さんを助け、父さんに触れ…僕が憧れていることを全部したんだ。「それから?」

「詳しい経緯は知らないんだけど、ジュリアはマキシマス将軍がカシウスを殺すのを手伝ったらしいの。お父さんはとても勇敢な人だったのよ、グラウクス。敵の基地の只中にいらしたのに、すぐに皆を従えて…まるで皇帝ご自身みたいに。マルクス・アウレリウス陛下が到着されるまで1週間ぐらいかかったんだけど、その間しっかり基地を統制していらっしゃった。あたしたちはその間ずっとジュリアに会えなくて、詳しいことを教えてもらえなかったのよ。」

「ジュリアはどこにいたんですか?」

ユーゲニアはためらった。彼女はグラウクスの複雑な気持ちを感じ取っていた。「お父さんと一緒だった。」彼女は優しく言った。「お父さんはあの子をずっとそばにおいていらしたわ。」彼女は急いで話題を変えた。「皇帝陛下がお着きになったときは、すごいお祝いでね…見せたかったよ。マルクス・アウレリウス陛下がまるで自分の息子みたいに将軍を抱きしめて、連隊の全員が喝采してね…」

グラウクスの咽喉元に固いものがこみ上げた。彼は大きく息を呑み込んだ。兵士たちが父に喝采を送った…皇帝、マルクス・アウレリウスが父を抱きしめた…我が息子のように。

「それからどうなったんですか?」マリウスが訊いた。

「それから二、三日して、あたしたちはみんな解放されて、ローマへ行って新生活を始めることになったの。皇帝陛下から支度金もたっぷり頂いてね。あたしたちは生まれて初めて自由になったの。全部、あんたのお父さんがとりはからって下さったんだよ。出発する時も、わざわざ別れを言いに来てくれた。」

「ジュリアも一緒に?」

「もちろんだよ。でも、あの子はひどく落ち込んでた。お父さんと離れたくなかったんだね。将軍と一緒にいられるんなら、自由にならなくてもいいと思ってただろうね。それほど愛してたんだ。若い衛兵の一人がジュリアに熱を上げてたけど、あの子は目もくれなかった。」

「父はそれからどうしたんですか?」

「スペインに帰られたよ。あんたとお兄さんとお母さんのところへ。」

グラウクスはゆっくり首を振った。「いいえ、それは僕が生まれる前です。」

「まあ、そうなの」ユーゲニアは驚いた。「でも、後で話は聞いただろ?」

「あの…僕は父に会ったことがないんです。」

ユーゲニアの緑の目が丸くなった。「一度も?」

「一度も。僕は父が行方不明になる2年前に生まれました。僕が赤ん坊の頃、父はずっとゲルマニアにいたので…」

「行方不明って…どういうこと?」

「跡形もなく消えてしまったんです…コモドゥスが皇帝になった時に。」

「ああ、マルクス・アウレリウス陛下が亡くなったって聞いた時はとても残念だったよ。それはそれは立派な方だった。でも、消えてしまったなんて…どうして…一体全体、何があったんだい?」

「詳しくは言えないんですけど、コモドゥスと意見の相違があったみたいです。それ以来、行方がわかりません。僕は父を見つけたい…父に何があったのか知りたいんです。ジュリアに会えたら、何か教えてくれるんじゃないかと思って。」

「でも、お母さんも何も聞いてなかったのかい?」

「ユーゲニアさん…僕の母と兄は殺されたんです…父が行方不明になったのと同じ時に…新皇帝の命令で。」

ユーゲニアは息を呑んだ。

「皇帝は父も殺すように命令したんですけど、父は処刑を逃れたんです。その後父に何があったのか、家族の誰も知りません。父の部下だった兵士たちも知らないようでした。」

「あらあら、まあまあ」ユーゲニアは咽喉元に手を当てて、ぜいぜいと息をついた。マリウスはすかさず彼女の手にワインのグラスを押しこんだ。彼女は一気に飲み干した。彼女はゆっくりグラスを置き、グラウクスを見た。緑の瞳の縁が赤くなっていた。「なるほどね、それでわかったわ。」

「わかったって、何が?」グラウクスが訊いた。

「どうしてそんなに空ろな目をしているのか。そんなに若いのに、顔に苦労の跡がある訳が…」

グラウクスは目を背けた。悲しみがそれほど顔に現れているとは…

ユーゲニアは静かな優しい声で言った。「ねえグラウクス…ジュリアを見つけたって、お父さんの行方を捜す手がかりにはならないと思うけどねえ。将軍はあの子をローマへ行かせてしまった…その時からはっきり分かってたのよ…将軍があの子を受け入れるつもりはないって。二人が一緒にいたのはほんの短い間だったし、将軍も他の男と同じで、あの子を利用しただけなんだ…目的は違っていたけど。本気で愛してしまったのがあの子の不幸だったのよ。」

「わかってます。ふたりは二度と会わなかったかもしれない。でも、手がかりはこれしかないんです。ある人が、父をローマで見たと言っていました。ジュリアもローマにいる。可能性はあります…どんなに小さくても…」

「そうか。それじゃあ、ジュリアの行きそうなところへ行って待ち伏せするんだね。それが一番いい手だよ。」

「今はどんな外見になっているでしょうね?」

「そうねえ、あの子はあんまり変わってないんじゃないかな。年は取ってるだろうけど。」ユーゲニアはにっこりした。「みんな年を取ったよ。こればっかりはどうしようもないからねえ。あの子もちょっと白髪が増えてるかもしれないけど…きっと今でも綺麗だと思うよ。」

「でも、どこを捜せばいいのか…」

ユーゲニアは笑った。「馬鹿な子だねえ!女が行く所といったら決まってるだろう?どんな女でもね、買い物は大好きに決まってるよ!」

 

第32章 トラヤヌス市場

グラウクスは首を振り、白昼夢を頭から追い払った。もう何週間もこうして居酒屋の端に座り、市場の雑踏を眺めている。つい、頭が現実を離れて漂い出してしまう。時々グラウクスは、店から店、屋台から屋台へと、ジュリアの人相に当てはまる女性を探してさまよい歩いた。しかしほとんどの時間は座って見張っていた。彼の席は市場の入口に近く、出入りする人々をほぼ全てチェックすることが出来た。

彼は独りだった。マリウスは図書館へ戻ってしまった。最近さぼり気味の勉強を取り戻しながら、無数の歴史文書からマキシマスに関係のありそうなものを探すためだ。その一方で、彼は20年前に北部連隊で働いていたマルシアヌスという名のキリスト教徒の医者も捜していた。マリウスがいないのは淋しかったが、二手に分かれたほうが能率がいいことは確かだった。しかし、今のところ、成果はあがっていない。

トラヤヌス市場はローマで最も面白く、最も人の多い建物のひとつだった。市場はトラヤヌス広場(フォーラム)を囲んでいた。トラヤヌス広場は巨大な正方形の広場で、アウグストス広場からトラヤヌス帝を記念する凱旋門を通って入ったところにポルティコがあった。広場の中心にはトラヤヌス帝の騎馬像があった。一隅にはローマでも最大のバシリカ・ウルピアが聳えていた。広場に面して、2つの図書館があった−1つはギリシア語書籍、1つはラテン語書籍の図書館だ。図書館で調べ物をしているマリウスがグラウクスと待ち合わせて昼食を取るには便利な場所だった。図書館の間にはトラヤヌスの大コロンナが立っていた。その側面にはローマ軍のダキア征服を記念するレリーフが刻まれている。

ローマの商業的中心であるトラヤヌス市場は3階建ての商店街で、広場の一隅を占拠していた。その上には、さらに三層の店舗が連なり、全部で150の店舗が帝国一の巨大商業センターを形成していた。ありとあらゆる店があった。パン屋、魚屋、肉屋、婦人服屋、仕立て屋、床屋、果物屋、金貸し、不動産屋、敷物屋、染物屋、香辛料屋、洗濯屋、彫金師、レース職人、履物屋、ベルト屋、鞄屋…この世に存在するあらゆる種類の店が集まっていた。ローマ帝国の津々浦々はもとより、神秘的な東の国からも商品が集まっていた。居酒屋や屋台は、食べ物と憩いを求める人々で賑っていた。食料品流通の拠点でもあるこの建物は、身動きが取れないほど混み合っていた。それでも、通路のアーチから涼しい風が入るので、何とか我慢できた。ローマの秋は深まりつつあった。

もう何週間も、グラウクスは商店街の店頭から店頭へとさまよい、気の急いた買い物客に押されたり突き飛ばされたりした。彼は商品を吟味するふりをして、眉をしかめながらあれこれ手を触れて歩いた。しかし、彼の緑の瞳は絶えず人込みを見渡し、赤みがかった金髪の長身の女性を探していた。時々、彼は3階の通路の手すりのところに立ち、下の2層にジュリアの姿を探した。物売りの声や笑い声、足音などが混じり合い、彼の耳にこだましていた。赤い髪が視界に入る度に彼の心臓は飛び上がった。しかし、よく見ると若過ぎるか、背が低過ぎるか、あるいは全然美人ではない女性ばかりだった。

4週間目の終り頃、グラウクスはついに、店員たちに小銭を握らせて謎の女性について訊きまわり始めた。彼は2階の5軒目の店で有力な情報を得た。高価で珍しい絹を東方から輸入している店の主人が、ジュリアを知っていると言った。ええ、よくいらっしゃいますよ。お得意様です。

マリウスとグラウクスは正午に居酒屋で落ち合った。二人とも興奮した様子で、同時に喋り始めた。

「待て、待て。」グラウクスは笑って手を上げた。「僕からだ。まあ聞いてくれ。」

「見つけたのか?」

「いや、見つけたわけじゃないけど、ジュリアがよく来る店を見つけたんだ。まあ、ここしばらくは来てないらしいけど…次に来るまで、そこで見張っていればいいんだ。もう見つけたようなもんだよ。」

マリウスはにっこりした。「そりゃすごい。とにかく、座ろう。」二人は席に着いた。マリウスはメニューを眺めながら、さりげない調子でニュースを明かした。「医者の居場所がわかったよ。」

「何だって?」グラウクスは椅子から飛び上がり、小さなテーブルの端を掴んで友人をまじまじと見つめた。「どうやって見つけたんだ?どこにいる?」

「まあ座れよ。みんなが見てるじゃないか。喜ぶのは早い。この近所にいるってわけじゃないんだ。彼はアラビア・セクンダにいる…ペトラだ。」

「ペトラ?」グラウクスは指でテーブルを小刻みに叩きながら、子供の頃学校で習ったローマ帝国の地理を思い出そうとした。「砂漠の石掘都市だっけ?」彼はためらいがちに言ってみた。

「正解。」

グラウクスはがっかりした。「遠いな。」

「そう言っただろ。ローマからペトラに行くには、アレキサンドリアまで船で行って、紅海を渡って、後は陸路で砂漠を横断するしかない。困難な旅だ。極めて危険な旅だ。」

「でもマリウス、彼が鍵なんだ。もしかしたら、父の一番大切な形見を持っているのは彼かもしれない。あの夜ゲルマニアで何があったのか、本当に知っているのは彼なんだ。どうしても行かなくちゃ。」

マリウスは給仕女からワイン壺を受け取りながらうなずいた。「そう言うだろうと思っていたよ。」

「一体全体何だって、よりにもよってそんな所へ行ったんだろう?」

「ペトラは帝国の最果てだし、行くのは極めて困難だ…キリスト教徒の隠れ家にはもってこいの所さ。今じゃ、キリスト教徒はほとんどそういう所へ逃げてる。心おきなく自分たちの神を礼拝できる所へ。ローマに残ったキリスト教徒がどんな目に遭っているか、君も知っているだろう。拷問された上に、観客の見世物としてコロシアムで殺されている。その医者は逃げて正解だよ。」

グラウクスはワインをすすった。もう何年も味わったことのない満足感が、ゆっくりと心に湧き上がるのを感じていた。ジュリアとマルシアヌス、両方の情報が手に入ったのだ。父のパズルの二つの大きなかけら。「ペトラに行った理由はそれだけじゃないかもしれない。彼は何か、見つけられたくないものを持っているのかも…あるいは何か知っているとか。ひょっとしたら、父も一緒にいるかも知れない。」グラウクスはそう言った。興奮が高まっていた。「一体、どうやって見つけたんだ?」

「ローマの住民には、キリスト教徒の友達がいる人が少なくないんだ…なかなか公言はしたがらないけどね。正しい相手に正しい質問、これを根気よく続ければいいのさ。まあ、とりあえずマルシアヌスの事は忘れよう。ジュリアの方が近くにいるからな。彼女には是非お目にかかりたいね。」

グラウクスは満面の笑みを浮かべた。「僕もだよ。例の店の主人によると、彼女は今でも美人で、赤みがかった金髪をしているそうだ。きっと目立つよ。早く来てくれればいいんだけど。」

「君は気にならないのか?お母さんがまだ生きている時に、お父さんの恋人だった女性に会うというのは…?」マリウスはカタツムリの殻を割って身を口に放り込み、ガーリックバターにパンを浸した。

「正直に言うと、自分でもよくわからない。最初に聞いた時は、相当な変人だと思ったんだよ−母に操を立てて何年も女なしだったなんて。でも考えているうちに、素敵な事に思えてきたんだ。だから、ユーゲニアの話はショックだった…モエシアで父がおおっぴらにジュリアを愛人にしてたって事は…でも、誰に聞いても、ジュリアっていうのは大した女性だったみたいだね。父が彼女に弱かったのも分かる気がするよ。」

「君のお母さんは知っていたのかな?」

グラウクスは黙って肩をすくめた。それは彼の方が訊きたかった。

「長居はできないんだ。良い知らせを早く伝えて、ついでに腹ごしらえをしたかっただけでね。」

「マリウス、本当にありがとう。どんなに感謝しているか…」

細身の青年はスペイン人の友人を見てにっこりした。「わかってるよ。それに、僕は楽しんでるんだ。難しい謎を解くのは楽しい。」彼はローブを探って小銭を出そうとしたが、グラウクスが手を伸ばして止めた。

「いや、僕がおごるよ。せめてものお礼だ。」

「そうかい?じゃあご馳走になるよ。また後で会おう。早くジュリアが見つかるといいな。」

※裁判や公の集会の場として用いられた長方形の大建造物

 

第33章 船〜180年

ジュリアとアポリナリウスはテラスに立ち、庭園をあてもなくさまようマキシマスを見ていた。先刻は中庭を、その前は書斎を歩き回っていた。

「戻って来てくれるよ。時間が必要なだけだ。」アポリナリウスはジュリアを励まそうとした。

「時間はないのよ。時間がないのを知ってて、私から離れていようとしているの。私を傷つけないように。」

アポリナリウスは驚いた。「傷つけるって?彼は君を傷つけたりしないだろう?」

「私を愛すれば私を傷つけると思っているの。」ジュリアの目は涙できらめき、今にも溢れそうだった。「あんなに愛に渇いているのに、人としていちばん必要なものさえ自分に許そうとしないの。私を傷つけると思っているから。代わりに、自分を傷つけているんだわ。」

アポリナリウスはマキシマスの無私の行動を立派だと思い、庇いたくなった。「自分のことより、人の命や幸せを優先することが習慣になっているんだ。そうせずにはいられないんだろう。そういう人なんだ。だからこそ愛しているんだろう?」

「わかってるわ」マキシマスは庭園に立ち、何もない空間を見つめていた。黒髪と広い肩に陽光が踊っていた。

「彼のところへ行ったら?」アポリナリウスが優しく言った。

「でも、何とかして私を避けようとするのよ。」ジュリアは目元をごしごしとこすって、隣に立つ男を見た。「アポリナリウス、彼をここから連れ出したいの…衛兵や鎖の記憶から離れた所へ。手を貸して。」

アポリナリウスはため息をつき、眉を寄せて顔を曇らせた。その顔はだんだん明るくなり、彼はにやりと笑った。「考えがある。」

数分後、ジュリアは寝室に駆け込んだ。その顔は希望に輝いていた。その頃、アポリナリウスは厩へ向かっていた。

 

 

「将軍!マキシマス将軍!」

マキシマスが道の端まで歩いてくると、アポリナリウスが砂利道に立っていた。彼は見事な雄馬の手綱を取っていた。鞍をつけられた馬は前脚を跳ね上げていた。元気な馬の手綱を、アポリナリウスがいかにも恐る恐るという感じで掴んでいるのを見て、マキシマスはにやりとした。彼は馬の轡をしっかりと掴み、毛並みのよい鼻面をやさしく撫でた。「君の馬か?」

「いえ、いえ、違います。僕は乗馬はやらないんです。将軍、あなたがお好きかと思いまして。」アポリナリウスはさりげない口調で言った。まるで、奴隷に…本当はローマ将軍である奴隷に馬を貸すことぐらい日常茶飯事だとでもいうように。「この屋敷にはまだご覧になっていない所がたくさんあるんですよ。例えば、素敵な釣り池とか。」彼は道の向こうを指差した。マキシマスは彼の指の先を見た。「この道をオスティアの方角へ少し行って、土の道に出た所で道を降りて下さい。そんなに遠くありません。森と野原を抜けて行けば、すぐわかりますよ。」

マキシマスは微笑み、感謝をこめてうなずいた。彼は馬にひらりと跨り、アポリナリウスは急いで手綱を放して後ずさりした。彼はこの恐ろしい獣を厄介払い出来て喜んでいた。剣闘士は短いチュニックをなで、馬の方向を変えた。馬は砂利を撥ね上げ、軽やかに駆けて木立の向こうに消えた。少し後、マキシマスは土の道に行き当たって道を降り、顔に当たる小枝を払いのけながら馬のスピードを落とした。すぐに、かぐわしい若草に野の花の咲き乱れる野原に出た。彼は馬をギャロップにして、髪を吹き抜ける風と、脚の下の力強い、軽々とした筋肉の動きを楽しんだ。

彼は手綱を引いた。馬はもっと走りたそうに前脚を跳ね上げた。マキシマスは目に手を翳し、彼方に目を凝らした。野原の真中に忽然と、不思議な物体が姿を見せていた。その物体の真中には木が生えていた。いや…あれは木じゃない。マストだ。船についているマストだ。巻き上げられた帆が見える。マキシマスは不思議に思い、船の方へ向かった。近づくにつれ、船はどんどん大きくなり−最初に想像したような小さなレプリカではなく、本物と同じ大きさの帆船だということがわかった。変だな。彼は馬に乗ったままイグサに囲まれた湖のほとりまで来た。湖の真中に船がある。まるで、そこに碇泊しているように。大理石の彫刻が船を囲んでいた。海の生き物たちの彫刻だ−実在の生き物も、想像上の生き物も。彼は湖を一周しながら、木製の帆船の細部を眺めた。見事な物だ。帆は巻き上げられ、索具が風に鳴っている。本物の商船のように、甲板には樽や木箱が転がっている。彼は湖をもう一周し、イグサの隙間から船に続く道を発見した。簡単に歩いて渡れるように、頭を平らにした岩が等間隔に並べてあった。彼は馬を降り、馬をぽんぽんと叩いて、遠くに行くなよ、と言った。そして、最初の岩に足を乗せた。

湖の中心に向かって歩きながら、彼は大きな大理石彫刻を眺めた。水面に跳ねる魚、とぐろを巻いている海の怪物たち。大きな銀色の影は本物の魚だ−石でできたお仲間の間をすり抜けて行く。魚の背で太陽の光が、溶融した金属のように輝いた。さらに7つの岩を進んだところで船に着いた。彼は縄梯子を両手で掴んで登り、甲板に飛び降りた。音から判断して、甲板の下は空洞になっているようだ。彼は目も眩む高さのマストを見上げ、近くにあった樽に手を触れた。彼は船尾に向かって歩き、水面を見下ろした。かなりの高さだ。船の前には、大理石の人魚があった。彼女は魚尾をなまめかしくくねらせ、長い髪で胸を隠していた。魔法にかかったような場所だった−非現実的でありながら、やけにリアルだった。マキシマスは向きを変えて欄干にもたれた。彼は太陽に向かって顔を上げて目を閉じ、索具を吹き抜ける風の歌を聴いた。これは本物の船で、奴隷の身分を逃れて旅立つところなのだ−そう想像するのはたやすかった。

風の歌に人間の声が加わったのに、彼はようやく気づいて目を開けた。一瞬前には誰もいなかったところにジュリアがいて、甘くやさしい歌を口ずさんでいた。彼女は船室近くの樽に座っていた。結んでいない髪が、顔のまわりにふわふわと靡いていた。彼女の水色のガウンは光が当たると緑色にきらめいた。太陽に輝く波のようだ。透き通った布が風に弄ばれ、ヴェールのようにひらひらと揺れていた。マキシマスは魅了され、欄干を離れて近づいた。ジュリアのガウンの下の部分は、布と同じ色の柔らかい羽根で飾られていた。彼女は小さく歌を口ずさみながらゆっくりと彼の方へ歩いて来た。歩いた後に羽根が落ち、甲板をふわふわと漂った。髪が後ろに靡き、きらきらと瞬く薄い布が彼女の胸の下の方しか覆っていないのがあらわになった。

マキシマスは恍惚となって立ち止まった。彼はよく響く深い、かすれた声で言った。「こんなに美しいセイレーンに、オデュッセウスはどうやって抵抗できたんだろう?」

歌の最後の一小節が風に流されて消えた。彼女は微笑んだ。その目は愛に潤んでいた。

マキシマスが言った。「セイレーン…君はその美しさと歌で、オデュッセウスを誘惑して殺そうとするんだろう?怖がった方がいいのかな?」

「怖がった方がいいのは、私の大切なオデュッセウスを傷つけようとする人だけよ。」ジュリアはふわふわと漂うように彼のところへ来て、指の背で髭に覆われた頬を愛撫した。「私がいれば大丈夫よ、ハンサムなオデュッセウスさん。」彼女はマキシマスのうなじに手を当てて顔を引き寄せ、やさしくくちづけした。「ここは海の上…」彼女は彼の唇に囁いた。「ローマは遥か彼方…私たちは漂流しているの…二人きりで。」彼女はもう一度、今度はもっと深いキスをした。彼は手を伸ばして彼女を抱き寄せた…片手は髪の中に、片手は腰に。「愛しいオデュッセウス…」彼女は囁きかけた。彼はその口を燃えるようなキスでふさいだ。

彼は我を忘れた。

彼は腰に当てた手をさらに下に動かし、尻の上で指を広げた。強く抱き寄せた拍子に羽根つきの布が破れた。二人のキスは熱を帯び、舌が触れ合った。ジュリアは身体が骨から融けて形もなくなり、彼の手で再び形作られてゆくように感じた。彼の髭の感触が首から肩へと降りてゆき、彼女はうめき声をあげた。彼は邪魔な薄物を脇へどけようとし、しびれを切らて下へ思い切り引っ張った。純白の乳房が片方あらわになった。唇が手に続いた。「マキシマス、」彼女は息を切らしていた。

彼は顔を上げた。目に焦りが表れていた。「どこへ?」彼はかすれた声で言った。

「船室へ。」

彼は片腕を彼女の膝にまわして、軽々と抱き上げた。大股の2歩でドアに到達した。彼は背をかがめて低い船室に入り、ドアを思い切り蹴って閉めた。音が野原を越えて森に響くほど強く。舷窓から射す光が、光沢のある絹のクッションで覆われた大きなベッドを照らしていた。彼は柔らかいマットレスに片膝をついてジュリアを降ろし、クッションを乱暴に払いのけて床に落とした。ジュリアは彼の顔にキスの雨を降らせ、舌で耳の周りを辿って、暗黙のうちに彼を急かした。二人の荒い、熱い息が狭い船室を満たした。

マキシマスはジュリアの頭を支えながらやさしくベッドに横たえた。彼女の手は彼のチュニックを掴んで引っ張り、逞しい肩があらわになった。彼女はおとなしく待ってなどいられなかった。彼女はマキシマスの首を掴み、露になった肌に激しく口づけし、歯を立てた。彼の手は彼女の胸をさまよい、軽く撫で、しっかりと掴んだ。彼は唸った。彼の指が固くなった乳首を撫で、弄ると、彼女は息を呑んだ。

「服が多すぎる…服が多すぎる…」荒い息の下でジュリアが言った。マキシマスは膝をついたまま身体をそらし、ベルトを外してチュニックを脱ぎ捨てた。ジュリアは彼の胸を目と手でむさぼった。彼のためらいがちな指が、彼女の胸の下を被っている布をさまよっていた。どこから脱がせたらいいのか。ジュリアは笑った。「マキシマス、いいから破っちゃって。こんな服、どうでもいいわ。」仰せに従う間もなく、彼女は自ら布をつかんで腰のところまで引き裂いた。上半身がすべて彼の目の前にあらわになった。

それ以上言う必要はなかった。スカートもすぐに同じ運命を辿った。彼が放り投げたスカートは、羽を撒き散らしながらひらひら、ふわふわと宙を漂い、音もなく床に着地した。彼女はその下には何も着けていなかった。マキシマスは下着を脱ぎながら彼女から目を離すことが出来なかった。「想像で君の美しさを誇張しているかもしれないと思っていたんだ。でも、君は記憶通りの美しさだ。」彼女の胸が激しい鼓動と共に震えるのに合わせて、彼は息ついた。

「あなたは記憶よりもっと美しいわ」ジュリアの目は彼の身体をさまよい、みぞおちの辺りで止まった。彼女は手をさしのべ、脚を開いた。「来て、愛しいひと…ずっとあなたを待っていたの…長過ぎたわ。」

 

アポリナリウスはジュリアの部屋のテラスで夕陽を眺めながら、上機嫌で鼻歌を歌っていた。若い二人は、今夜は戻ってこないだろう。彼はあの場所の魅惑を知っていた…それに、抵抗し難いあの衣装…効果てきめんだ。

 

何時間か後、マキシマスは手探りでランタンと火打石を探していた。ぼんやりした黄金の明かりが灯ると、彼はドアまで歩き、部屋の空気を冷ますために少し開けた。部屋中のあらゆるところが、露がおりたように湿っていた。二人の肌も。夕べの微風に身体を冷ましている愛する男の姿がよく見えるように、ジュリアは羽根布団を叩いて低くした。指と唇が彼の肌の暖かさを憶えていなければ、名工の手になる大理石像と見紛うだろう−海から現れたトリトンのような姿。彼女は猫のように伸びをして、完全無欠の幸福感に微笑みながら、部屋の惨状を見回した。彼女の衣装はぼろきれのようになって床に落ち、絨毯とベッドにはそこらじゅうに緑と青の羽根が散らばっていた。マキシマスのサンダルは片方が机の上に、片方がドアのそばに落ちていた。チュニックがひっくり返った椅子の上に落ち、椅子の脚が一本、がりがりの腕のように袖から突き出していた。数時間前にその袖からのぞいていた逞しい腕とは正反対だ。彼女はくすくす笑った。

マキシマスは振り向いて微笑んだ−控えめな、片頬だけの微笑はゆっくりと、暖かい、大きな笑みに変わった。

「二人分の着替えを持って来きてよかったわ。あの服の残骸をまとってヴィラに帰ったら、大した見物だったでしょうね。」ジュリアは言った。彼女が手をさしのべると、彼はベッドに戻って来た。彼女は身体をずらして彼のために場所を空けた。彼が横になると、もう放したくないというように片腕と片脚を掛け、顔を彼の首にこすりつけた。彼は力強い腕で彼女を包み込んだ。

「この船は何なんだい?」彼はジュリアの額に顔を寄せたまま囁いた。

「これは会社の最初の船のレプリカなの。今は私が所有している会社だけど。船団の最初の一艘よ。」くぐもった声が聞こえた。「ほら、私は泳げないから、船に乗るのは嫌いなの。これは私個人の船のひとつなの…安全な船。ヴィラと召使たちから逃げる隠れ家ね。本を読むために、この小さな船室を作ったの。」彼女は笑った。「考えてみるとおかしいわね…あなたがここに来て、私を愛してくれたらって何回夢想したかわからないわ。本当に、あなたには想像もつかないぐらい何回もね。」

「初めてだったんだ。」

彼女は笑った。「えっ?」

「商船に乗ったのは初めてだ…ズッカバールに行くとき、奴隷として船倉に放り込まれたのは別にして。」

彼女は片肘をついて起き上がり、彼を見おろした。「本当?」

「ああ。おれは海から離れた所で育ったし、軍隊時代はほとんど陸路で移動していた。一度だけブリタニアへ行ったが、あれは軍艦だった。」彼の表情がやわらぎ、少年のような笑顔になった。「知らなかったよ…商船にはセイレーンまで装備してあるとはね。」彼は小さなテーブルを見た。「ワインや食べ物まで。男の望むものすべてだな。」

彼女のエレガントな指が彼の眉をたどり、鼻筋から口へと降りていって唇を愛撫した。「かわいい口」彼女はそう言って、かがみこんで彼の下唇を歯ではさみ、そっと吸ってから放した。「夢に見ていた通りだわ。あなたとのこの時を、もうずっと前から夢見ていたの。昔の経験とは全然違う…素晴らしいわ…魔法みたい。」

マキシマスは指の後で彼女の頬をやさしく撫でた。「君の過去は、もうずっと昔のことだ。君は生まれかわったんだ。」

「でも、本当に生まれかわったって感じたのは今日が初めてなの。私…本当は少し怖かった。たとえ相手があなたでも、辛いことを思い出すんじゃないかと思って…」彼女は目を伏せた。「モエシアを出て以来、男の人と寝た事はないの。」

マキシマスは不思議に思って眉を寄せた。「旦那さんは?」

「いいえ、言ったでしょう…忘れた?私は誓ったの。愛する人に自分からすすんで…というのじゃない限り、男に身体を許すことはしないって。」彼女は彼の深い青の瞳を真剣に見つめた。「私が愛したのはあなただけ。今はもう、過去が消えてしまったみたい。『愛し合う(make love)』って言葉の意味がやっとわかったみたい。意味のない言葉だと思ってた。私にはそれが愛の行為だとはとても思えなかったから…辛い気持ちばかりで。今やっとわかったわ。あなたのおかげよ。本当にありがとう。」

彼女はもう一度キスをした。彼は口を開き、キスを深めていった。ジュリアは彼の髪をかき上げ、短い巻毛を握った。彼女は彼の腰の上に腰を乗せ、彼の身体を両脚でつかまえた。マキシマスはジュリアの尻を掴み、肩にしがみついている彼女をくるりと回して自分の下にした。

 

次の夜の明ける頃になってやっと、一つに溶け合った二人の人影を乗せた馬が道を帰ってくるのを、アポリナリウスは目撃した。馬が帰り道を覚えていてよかった。二人とも、お互いのことしか頭にないようだったから。

 

第34章 張り込み

グラウクスはいつもの場所に立ち、手すりにもたれていた。ここはトラヤヌス市場の2階、絹商人の店の反対側だ。ジュリアがその店の上得意であることを知ってから、既に2週間以上が経っていた。しかし、彼女はまだ現れない。始めのうち彼に疑いの目を向けていた商店主たちも、今はにこやかに会釈をしてくる。下見をしている泥棒ではないということがわかったのだ。

下の商店街に背を向けて、グラウクスは腕を組んであくびをした。日々が過ぎるごとに、期待は徐徐に薄れて退屈へと変わり、いつのまにか、彼は集中力を保つために頭の中でゲームをしていた。あの絹の店の梁の上には二千三百六十二個の煉瓦がある。この午前中、ここを通った女性のうち十七人が最新流行のサンダルを履いていた。彼は独り笑った。僕にが流行がわかるなんて!しかも最新流行が。市場をうろつき回ることは、少なくともファッションの勉強にはなる−他には役に立たなくても。

絹商人の店の隣には床屋があり、主人は毎朝、判で押した様に同じ動作をした。鉄の門扉を開け、手を叩き、エプロンを着け、鏡を磨いて、剃刀を革砥で砥ぐ。潮の満ち干の様に正確だった。

グラウクスはまたあくびをして、前髪をかきあげた。髭の伸びた顎を撫でていると、さっきの前髪が頑固に額に戻ってきて目に入った。そういえば最近、ジュリア捜しに夢中で身なりのことはまるで頭になかった。床屋はせっせとカウンターを拭き、擦り切れた茶色の革椅子を磨き始めた。もう何週間もここに立ち続けているので、グラウクスは床屋に何度も挨拶をしていた。彼のお客になってみてもいい頃合かもしれない。彼は手すりを離れ、買い物客の一団が通り過ぎるのを待ってから床屋のドアまで歩いて行った。

背の低い床屋はグラウクスを見上げて愛想よく挨拶した。「何時になったらいらしてくれるのかと思っていたんですよ。最新流行の髪型になさったらお似合いですよ。お客さんのようなお若い方に人気のあるスタイルです。この巻毛を落ち着かせて、お顔のまわりにきれいにアレンジしましょう。」

「僕の髪を落ち着かせるなんて無理ですよ。あきらめた方がいいです。」グラウクスは笑った。「でも、もしお手すきなら、カットだけお願いします。」

床屋はにっこりして、慣れた手つきでエプロンをぱっと開いた。グラウクスは使い込まれてでこぼこになっている革の椅子に座った。磨きこまれた大きな鏡が壁に掛けてあった。自分の姿だけではなく、背後の通路もよく見える。床屋は見事な手さばきで巻毛を刈り込み始めた。剃刀を持った手首がダンスのようにリズミカルに動いた。「お客さん、豊かな御髪をしてらっしゃる」床屋は言った。「もう少し短くなさったらお似合いですよ。」

「ありがとう。でも、この髪型に慣れてるんです。どうも、僕は身だしなみに関してはずぼらな方で…」突然、グラウクスはぱっと身体を起こした。床屋の剃刀が床に落ちた。

「な…?」床屋は肝をつぶしてつぶやいた。彼のお客は呆然と鏡を見つめていた。うっかり何か剃り落としてしまっていないだろうか?お客の耳はちゃんとついている。血も出ていない。

グラウクスは一瞬にして椅子から飛び出した。エプロンがケープのようにたなびいていた。「待って!」彼は叫んだ。「待ってくれ!」彼は店の出口に突進した。赤みがかった金のウェーブに縁取られた青白い顔が、そこに現れて消えたのだ。大きな、苦しみを秘めた青い目が鏡の中で彼と視線を合わせた。一瞬後、その顔は消えていた。

「待って下さい!」床屋も叫んだ。客が金も払わず、エプロンも着けたまま逃げようとしているのだ。彼は逃がすものかと言うようにエプロンの裾をしっかりつかんだ。グラウクスは丈夫なエプロンに絞め殺されそうになった。若いスペイン人は両手でエプロンをつかんでむしりとった。ドアに駆け寄ろうとすると、また引き止められた。「待って!」床屋が叫んだ。彼の大声に、出口の外に野次馬が集まり始めていた。彼はグラウクスのチュニックにしがみついた。「お勘定がまだですよ!」

グラウクスは大急ぎでコインを引っ張り出し、床屋に向かって投げた。料金に足りているかどうかはわからなかったが、どうでもよかった。床屋は黒いチュニックから手を放し、金を拾いに行った。金額は足りているようだ。

グラウクスは野次馬をかき分けながら「ジュリア、待って!」と叫んだ。彼は買い物かごにつまずいてよろめき、床に腹ばいに倒れそうになったが、なんとかバランスを取り戻した。彼は絹商人の店に駆け込み、狭い店内をきょろきょろと見回した。二人の女性客が振り向いて彼を見た。二人ともジュリアではなかった。

「店にお入りになるところだったんですよ」絹商人が進み出て言った。「と思ったら、突然立ち止まられて…あっという間にいなくなってしまったんですよ。その通路を走って行かれました。自分の幽霊でも見たような顔でしたね。」

「どっちに!?」グラウクスは怒鳴った。

商人は頭を振って方向を示した。グラウクスはギャロップで店を飛び出した。まだ遠くには行っていないはずだ。彼は西へ向かって走りながら店を一軒一軒覗いた。彼女はいない。通路の端まで来ると、上下の階段を見回した。彼女はいない。グラウクスは当てずっぽうに一階へ向かい、階段を3段づつ跳び降りた。一階の店も一軒づつ捜したが、いなかった。彼は露天市場の方へ走っていった。駄目だ。こんな人ごみの中では、取り巻きを引き連れた皇帝が紛れこんでもわからないだろう。グラウクスは肩を落とし、円柱にぐったりともたれた。「くそ!」彼は吐き捨てるように言った。「くそ!くそ!くそ!」やり場のない怒りに駆られ、彼は緑色の大理石に拳を叩きつけた。見失ってしまった。信じられない。彼女を見失ってしまった。泣きたい気分だった。

日暮れまで、彼は彼女を捜して、巨大市場と広場を足取りも重く歩き回った。

彼女は現れなかった。

 

第35章 決別〜180年

その週の終わりまで、ジュリアとマキシマスはお互いのそばを離れなかった。彼女のアパートメントで、船で、人気のない砂浜で、心ゆくまで二人きりの時間を過ごした。アポリナリウスはほとんど二人の姿を見なかった。それは彼にとってこの上なく嬉しいことだった。たまにちらりと姿を見かける時の、ジュリアのきらきらと輝く顔…それだけで充分だった。将軍の深い、よく響く笑い声とジュリアの優美なためいきが、陽光と花のようにヴィラを満たしていた。声が聞こえるところにいる者たちは足音をひそめて歩いた。若い二人の喜びを感じ、彼らの心まで弾んでいた。アポリナリウスの心は喜びに溢れた…が、来るべき時のことを考えると絶望に沈んだ。

その時は、あまりにも早く来てしまった。

ドアを乱暴に叩く音がアトリウムに響き、召使が飛んで来た。中庭から見つめるアポリナリウスの心に恐怖が溢れた。ドアがすごい勢いで開き、召使は後ろに飛びのいた。壁にぶつかって撥ね返ったドアを衛兵のブーツが止めた。背の低い、髭の男が衛兵の横からアトリウムに入って来た。さらに3人、厳重に武装した男がドアを固めた。「わしの剣闘士を連れ戻しに来た!」彼は嵐の前触れのような不吉な声で言った。「奥方を捜して来い!」彼は召使に命令した。召使は、蹴り飛ばされた犬のようにこそこそと走り去った。

アポリナリウスは勇気を奮い起こし、怒りをあらわにしているプロキシモの前に立った。「何かご用でしょうか?」滑稽なほどの丁重さで、彼は訊いた。

「いかにも用だ。わしの剣闘士を連れて来い。約束より長居しているようだな。剣闘試合が再開された。すぐに連れ戻したい。今日の午後、試合を入れているんだ。」

アポリナリウスはにっこりと会釈した。「プロキシモ、また来てくれて…」

プロキシモはつかつかと歩いて来て白髪の男の正面に立ち、「ああ、あんたか」とつぶやいた。「わしの記憶では、この訪問を手配したのはあんただったな…わしの剣闘士を借りたいと言ってきたのは…」プロキシモは衛兵たちをちらりと見てた。「…奥方様の代理で。そう聞いたが。」

「ええ…まあ、その通り…」

プロキシモはあんたに用はない、と言うように手を振って、中庭の向こうの書斎に向かってすたすたと歩いて行った。「相当な追加料金を払ってもらうことになりますぞ。」

「全額支払います」アポリナリウスは中庭を歩いて行くプロキシモの背中に言った。「将軍は書斎にはいらっしゃいませんよ」

プロキシモは立ち止まり、振り返った。「では今すぐ連れて…」

アトリウムのドアが開いた。「どうしたの、アポリナリウス?何を騒いでいるの?」ジュリアはそう訊いた後、プロキシモに目をとめて凍りついた。

プロキシモは眉を吊り上げてお辞儀をした。「これはこれは奥方様。噂以上のお美しさですな。」しかし、彼はマキシマスにしか興味がなかった。マキシマスがジュリアを庇うように前に進み出ると、彼は自分の剣闘士の頭から足元までに目を走らせた。「鎧はどうした?すぐに出発するぞ。今日は試合がある。」

「駄目です」ジュリアはそうつぶやいて、愛する男の手を握りしめた。彼は彼女の腰に腕を回して抱き寄せた。

「感動的だな」プロキシモは訳知り顔で眉を吊り上げ、いくらか皮肉をこめて言った。「鎧を取って来い」彼は恐怖に身をすくませている召使に命令した。「あれはわしのものだ。わしは自分の財産は手放さん。」彼はわざとジュリアの目を見ながら言った。「スペイン人…馬車に乗れ。」

ジュリアは震えながら、プロキシモの前に進み出ようとしたが、マキシマスが止めた。「ジュリア」彼は囁いた。「何も言うな。おれは行かなくちゃならない。このことは話し合ったはずだ…余計に辛くなるだけだ。」口調は柔らかかったが、それは警告だった。

彼女は何か言おうと口を開けたが、出てきたのは苦しげな嗚咽だけだった。彼女は深呼吸して、やりなおした。「プロキシモ、この人が本当は誰なのかわかっているんでしょう?ローマ軍の将軍を奴隷にしておくなんて出来ないはずです。」

「それが出来るんです。手放すつもりはありません」プロキシモは馬鹿丁寧な口調で言った。「わしが買った時、彼は死にかけの奴隷でした…将軍などではない。」

「彼はマルクス・アウレリウスの重用した…」

「マルクス・アウレリウスは死んだんです。今はコモドゥスが皇帝だ。彼はコモドゥスには気に入られていないようですな。」

召使が革の鎧を手に戻って来て、マキシマスの方へ行こうとしたが、プロキシモが手を伸ばして引ったくった。「わしのものだと言っただろう。さあ、馬車に乗れ、スペイン人。」

「プロキシモ…二、三分待て。」冷静な将軍の声で、マキシマスが言った。

「時間はない。金をもらったらすぐに出発だ。」彼は物欲しそうにジュリアを見て手を突き出した。「さあ、奥様。」

「金を取って来ます。」ジュリアが動けないようなので、アポリナリウスが代わりに言った。

「すまない」マキシマスはジュリアのつややかな髪に囁いた。アポリナリウスは書斎に走って行った。

ジュリアは声もなく首を振った。目に激情が走り、彼女はマキシマスの腕を無理やり振りほどいた。彼女は主人と奴隷と間に立って、二人の顔をかわるがわる見た。彼女はゆっくりと気を鎮め、心の乱れを押さえつけて冷静な声を出した。「彼を買うわ」彼女はプロキシモに言った。

マキシマスは眉をひそめた。プロキシモは笑った。「売り物じゃありません。『自分の物を取り戻しに来た』と申し上げたでしょう?」

「言い値で結構よ。いくら欲しいか言って。」

封筒を手に書斎から戻ったアポリナリウスが、中庭のタイルの上で立ち尽くしていた。ジュリアの大胆な申し出にショックを受けていた。

プロキシモは首を振った。「奥様…」

「いくらでも払うわ。プロキシモ、彼のためなら。」

プロキシモは唇を歪め、腕を組んで若く美しい女性を見つめた。「これは、これは…それほどまでにご満足ですか。」彼は笑いながら自分の奴隷を見た。「よくやったな、スペイン人。大したもんだ。ローマにもどったら、こっちの才能の方も売り出してみるか。」

マキシマスは何も言わず、威厳のある態度を保っていた。

ジュリアは必死の思いを隠そうともせずに言った。「全部あげます。私の全財産を…ヴィラも…船も全部…ローマのアパートメントも。マキシマスが一生かかっても、その半分も稼げないでしょう。」

アポリナリウスは絶句した。彼は手に持った封筒のことも忘れ、急いでアトリウムに入って来た。

初めて、プロキシモは心を動かされた様子を見せた。彼の声は柔らかくなった。「奥様、聞いて下さい。素晴らしいお話です。これが他の奴隷なら、喜んで応じたでしょう。しかし、何を頂こうと、マキシマスは売るわけには参りません。彼を買いたいと言って来た人は何人もいたんですよ。ローマの貴族で、あなたよりずっと高い値をつけました。しかし、マキシマスはわしにとって、どんなヴィラでも、どんな大金でも、船が何艘あろうとかなわない価値を持っているんです。」彼は真剣な目で彼女を見つめた。「帝国中の剣闘士を持っている貴族たちが、わしを羨み、一目おいています。それこそ何千人も剣闘士を持っている人間もいるんですよ。剣闘士に黄金の鎧をつけさせている人間も。悲しいかな、わしにはそんな金はない。わしはただの元剣闘士、自由を勝ち取ってささやかな剣闘士学校を始めた男です。何とかまともに食って行けてはいるが、いい家の出の、花形剣闘士を山ほど抱えいている連中には鼻で笑われている。」彼は黙りこんでいるマキシマスを見つめた。「そんなわしが、まったくの偶然でこの男を拾った…そして今、わしはどんな大金でも買えないものを手に入れた…以前はわしなんぞに洟もひっかけなかった貴族どもの尊敬と羨望です。これに代えられるものはこの世にない。わかっていただけましたか?」プロキシモは、悲しみに沈んだ若い女に同情しているようにも見えた。彼は革の鎧をマキシマスに投げた。マキシマスは気の進まぬ様子で受けとめた。プロキシモはアポリナリウスから封筒を受け取った。

「プロキシモ、ちょっと二人だけにしてくれ」マキシマスは革の鎧を足元に置いて言った。主人がためらっているのを見て、彼は「少しの間でいい」と言った。

プロキシモは短くうなずいた。「外で待ってる。早くしろよ。」彼は衛兵たちを連れて出ていった。マキシマスとジュリアとアポリナリウスの三人だけになった。

白髪の男が進み出てマキシマスの肩に手を置いた。「お別れしなければならないのは残念です。あなたは素晴らしい人だ。お会いできて光栄でした。ローマに戻っても、どうか…幸運がありますように。」アポリナリウスの目が曇り、彼は視線を落とした。彼は二人をアトリウムに残し、急ぎ足で出ていった。

ジュリアはマキシマスに背中を向けて書斎の方を見ていた。身体を硬直させ、拳を固く握り締めて。触れたら砕けてしまいそうだ。

「ジュリア?」マキシマスは彼女の耳元で囁いた。「すまない。こうなることはわかっていたのに、望みがあるように思わせてしまった。」

「あなたのせいじゃないのよ、マキシマス。自分で自分を騙していたの…一緒に生きられるって…二人だけで…どうにかして…」彼女の声は細くなり、途切れた。彼女は頭を垂れ、身体を震わせて泣き始めた。彼女は振り返り、差し出された腕の中に飛び込んだ。「ああ、マキシマス、マキシマス…あなたなしでは生きてゆけないわ」彼女は彼の首に顔を押し当てて泣き、肩にすがりついた。彼の身体の中に忍びこんで一つに溶け合おうとするように。

マキシマスは彼女の髪に顔を埋めた。彼の声もかすれていた。「ジュリア…わかっていただろう?この時が来るのは…」

「わかってたけど…辛いわ」

「ああ…ああ。」彼は囁き、痛いほどの情熱をこめてキスをした。そして、彼女の腕を肩から外して身を引いた。「行くよ。」

ジュリアは彼を止めようとはしなかった。しかし、きっぱりと言った。「私もローマへ行くわ…馬車を出すわ。あなたの馬車のすぐ後をついて行く。マキシマス、あなたの試合には必ずアリーナへ行くわ。あなたは一人じゃない。私がそばにいるから。いつも。」

「早く来い、スペイン人、ぐずぐずしていると手枷をつけるぞ!」プロキシモがドアの外で怒鳴った。

マキシマスは彼を無視した。「ジュリア、ここにいろ。ローマに近づくな。」彼は言った。「辛い思いをするだけだ。」

「いやよ。あなたの近くにいたいの。あなたと一緒にいるわ…毎日。」彼女の声は涙につまっていた。

マキシマスは彼女の肩にやさしく手を置いて言った。「おれが闘うところは見ない方がいい。どんなことになるかわからない」彼は声を落とし、囁くように言った。「おれにはやらなければならない事がある…わかっているだろう。」

ジュリアは彼の頬に両手を当てた。「マキシマス、もしあなたが…やらなければならないことをやって、それでも…生きていられる方法があるなら…私のところへ戻ってくるって約束して。」

「ジュリア、多分それは無理だ。」

「マキシマス…お願いよ。約束して…自分の命を犠牲にせずにコモドゥスを殺す方法があるなら、そうするって。約束して。」

「わかった…約束する。」彼は彼女の手を握り、唇まで持ち上げて細い指の一本一本にやさしくキスをした。そして手を放し、背を向けてゆっくりとドアへ歩いて行った。戦いに−ずっと恐れていた、しかしずっと待ち望んでいた戦いに赴く将軍のように。

「愛してるわ、マキシマス。」

彼はドアのところで振り向いた。その目には優しさと後悔が溢れていた。「約束する」彼は囁いた。そして去った。

ジュリアは自分が空っぽになってしまったように感じた…血も、骨も、命も、魂もなくなってしまったようだ。生きている人間ではなく、塵の詰まった影になってしまったようだ。

マキシマスはしっかりした足取りで馬車に向かい、中に入るとヴィラに背を向けて座った。ヴィラを鉄格子越しに見るのには耐えられなかった。扉の閉まる音がしなかったので、彼は変に思って振り向いた。プロキシモがそこに立ち、自分の剣闘士をじっと見つめていた。「マキシマス…すまない」彼は静かにそう言って、ゆっくりと扉を閉め、南京錠を掛けた。

馬車の扉の閉まる音が聞こえるまで、ジュリアはアトリウムに立ち尽くしていた。アポリナリウスが隣にいることにさえ気づかなかった。御者が馬に合図をし、木の車輪が砂利道を行く音がした。馬車はマキシマスを連れ去って行った−コロシアムへ。隷属の身へ。

「アポリナリウス、」ジュリアは静かにきっぱりと言った。「ローマへ行くわよ。」

 

第36章〜40章