Glaucus' Story:第41章〜45章

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第41章 逃亡

翌日の夜、ドアを叩く音がインシュラ中を叩き起こした。レディ・オノリアはぶつぶつ言いながら、重い栗色の鬘を頭にのせ、寝巻きの上にローブを羽織った。奴隷も寝ているこんな夜中に私を起こすなんて、よっぽど大事な用なんだろうね。

ドアを叩く音ががんがんと響いた。

彼女は暗いアトリウムをよろよろ歩きながら怒りを募らせていた。「ちょっと待って!今行くから!」彼女はドアに耳を当てて怒鳴った。「誰だい?!何の用だい?!」

「開けろ!皇帝陛下の命令だ!」

酔っ払いの若造が、またふざけた事を。彼女は鼻で笑って、「とっとと消えないと衛兵隊を呼ぶよ!」と叫んだ。

「我々は皇帝直属の近衛隊だ!ここに用がある!ドアを開けなさい!」

「大家さん、どうしたんですか?」マリウスがローブの紐を結びながら声をかけた。起きたばかりらしく、髪はくしゃくしゃで目は腫れていた。

オノリアは心配そうに彼を見た。「近衛隊だって言ってるんだよ。」

「ああ、くそ」彼はつぶやき、大家に向かって「何の用か訊いてみて下さい」と言った。

「何の用だい?」彼女は怯えが声に出ないように気をつけて言った。

木を蹴るブーツの音が響いた。「開けないと叩き壊すぞ!」

マリウスはアトリウムに歩いて行った。くしゃくしゃの髪をした老婦人たちが廊下に出てきて、「あらあら、まあまあ」とつぶやいていた。

「言う通りにした方がいいようです」マリウスはそう言って身構えた。

閂が外されるや否や、ドアがすごい勢いで開き、ものものしく武装した黒衣の男たちが6人、アトリウムになだれ込んで来た。

老婦人たちが金切り声を上げた。マリウスは息を呑みこんだ。

「マキシマス・デシマス・グラウクスはどこにいる?」隊長が怒鳴った。

レディ・オノリアは背をしゃんと伸ばしたが、その頭は隊長の胸までしか届いていなかった。「さあ…寝てるんじゃないですか?まともな人間は寝てる時間ですよ。」

「部屋を見せろ。」

オノリアは上品に頭を振って不快の念を示し、鬘を直した後、暗いアトリウムを抜けて大儀そうに階段を登った。六人の近衛兵は苛々しながら彼女の後をついて行った。

彼女は息を切らしながら三階に辿りついた。「グラウクス、」彼女は猫なで声を出した。「お客様ですよ…」

近衛隊長は彼女を荒っぽく押しのけ、ドアを叩いた。返事はなかった。

「鍵をよこせ!」隊長は怒鳴り、オノリアが仕方なくローブから出した鍵を引ったくった。ドアが開き、近衛兵たちは剣を抜いてアパートメントになだれ込んだ。

マリウスは怯えた婦人たちのそばで廊下に立ち、セヴェルスの部下たちがドアを全部開け、家具の下や後をくまなく捜すのを見ていた。

「いないぞ!」近衛兵が叫んだ。「他の部屋も調べろ!」衛兵は他の部屋の鍵を要求し、廊下から上がる抗議の声を無視して、全部の部屋を荒らし始めた。家具が壁に叩きつけられ、カーテンや服が引き裂かれた。

「ここにはいません」衛兵が隊長に報告した。隊長は怒りのあまり泡を吹きそうな顔でマリウスを見た。

「君は彼の友人だな?」

マリウスは落ち着き払っていた。「以前は友人でした。」

「どこにいる?」

「知りません。」

「嘘をつくな!」

「ついてません。彼を尾行していたでしょう?僕らが一緒にいるのを最後に見たのはいつですか?」

近衛兵は目を細めただけで答えなかった。

「何日も前でしょう?」マリウスが言った。「喧嘩をしましてね。それ以来会ってません。会いたくもないです。」

「喧嘩の原因は?」兵士は疑わしそうに訊いた。

「この僕が奴なんかとつきあってやってるのに、感謝の気持ちもない。うんざりですよ。」

「どこにいるか知らないんだな?」

「全然。」

隊長はつかつかと歩いて来て、威圧するように若者のすぐそばに立った。「嘘はつかん方が身のためだぞ。」

「なぜ嘘なんか?奴を庇っているとでも?」

外で大きな音がして、二人は同時に振り向いた。二人の衛兵が駆け込んで来た。「大変です!奴の馬がいなくなっています!」

近衛隊長の顔に、隠しようのない狼狽が浮かんだ。彼は恐ろしさに思わず目を閉じた。まずいことになった。非常にまずい。プローティアヌスにどう説明したらいいのだ?プローティアヌスを怒らせるぐらいなら、アリーナで飢えたライオンと闘う方がましだ。彼はインシュラの住人を脅しつけるように睨んだが、効果はなかった。彼は部下を引き連れ、来た時とはうって変わって静かにアトリウムを出て行った。

「とっとと消えな!」オノリアは乱暴にドアを閉めながら、いささか芝居がかった声で怒鳴り、怯えている他の婦人たちの尊敬の眼差しを意識つつ振り向いた。

暗い所に一人で立っているマリウスの顔に、ゆっくりと微笑が広がった。

 

夜明け前、黒い馬を後ろに繋いだ馬車がオスティア郊外のヴィラに到着した。乗客たちは素早く馬車を降りて、馬車と馬を目立たないところに隠し、アルターを屋敷の厩に入れた。

ジュリア、アポリナリウス、グラウクスの三人は、誰にも見られたくなかったので、松明も灯さずにヴィラまで歩いた。老人は自分のアパートメントのドアを閉め、ほっと息をついた。こんな逃亡劇に付き合うには、年を取り過ぎたようだ。ジュリアはグラウクスを連れて自分のアパートメントに入り、ドアを閉めて鍵をかけた。「あなたがここにいる事は、召使たちも気づかないわ」彼女は言った。「うちの者たちは私のプライバシーを尊重してくれてるから、私の許しなしにアパートメントに入ったりしないの。」

グラウクスは何も訊かなかった。彼女がグラウクスに黒のチュニックと外套を脱ぐように言い、代わりに普通の茶色の服を渡したときも、彼は何も訊かなかった。彼女はグラウクスに背格好の似た召使を呼び、時々夜道を歩くように言った。近衛兵たちに、グラウクスがまだローマにいると思わせるためだ。彼女の様子から、グラウクスは事態が差し迫っていることを実感した。だから、真夜中に彼の馬を連れた召使が現れ、すぐにオスティアへ出発する、と言われた時も、何も訊かずに従った。彼は自分のアパートに寄ったが、荷物をかき集めてマリウスに状況を−分かっている限りの状況を−簡単に説明する時間しかなかった。マリウスはクイントス捜しを続けると約束してくれた。

ジュリアのヴィラに入ると、彼は荷物を床に下ろしてあたりを見回した。暗くてよく見えなかったが、とにかく大きいことはわかった。おそらくここも豪華なつくりなのだろう。

「あそこで寝てちょうだい」ジュリアは居間に隣接した寝室を指差して言った。「お父さんが寝ていたところよ。あの時に…」

ドアにノックの音がした。「ママ?帰ったの?馬車の音がしたわ。どうして灯りをつけないの?」

ジュリアは手を口に当て、目を丸くした。

「ママ?そこにいるの?パパも一緒?」

ジュリアは慌てたようにグラウクスを寝室に押し込み、低い声で言った。「私の娘のジュリア・アポリナリアよ。私がこんなに早く帰ってくるとは思わなかったみたい。それに、お客が来るとは…うちは…うちにお客が来る事なんかないから。ちょっと話してくるわ。ゆっくり休んでね。」彼女は部屋から出てドアを閉めた。

グラウクスは腰に手を当てて考え込んだ。皇帝が彼を尾行させていると聞いてから、ジュリアの様子はかなり変だ。今度は、僕が来たことを娘に知られて慌てているみたいだ。それとも、娘がいるのを僕に知られたから慌てているのだろうか?彼女とアポリナリウスに子供がいたからって、どうして僕に隠す必要があるんだろう?彼はちらりと、娘も母親に似て美人だろうか、と考えた。

しかし、彼は疲れていた。わけを聞くのは明日でもいい。彼はベッドに座った。父がここで眠ったのだ…まさに、このベッドで。彼は満足そうにのびをして、すぐに深い眠りに落ちた。

 

第42章 家族

ドアの向こうで声高に言い争う声がして、グラウクスは目を覚ました。ベッドから脚を下ろし、服のまま眠ってしまった事に気づいた。頭がちゃんと働くようになるまで、彼はそこに座って薄暗いランプに照らされた部屋を眺めた。いい家具を揃えた広い部屋だったが、女性の寝室にありがちなけばけばしさはない。大きな羊毛の絨毯がモザイク床の大部分を覆い、部屋を暖かい雰囲気にしていた。壁を飾る田園風景の壁画が、空の色に塗られた天井に続いている。まるで外で寝ているようだ。この部屋には窓がないのに。一方の壁には大きな木の戸棚が二つ並んでいて、彼は片方を開けてみた。来る当てもない客のため、清潔な寝具が沢山用意されている。もう一つの戸棚の向こうに、閉まったドアがある。彼はドアに歩み寄り、静かにノックしたが、返事がなかったのでノブを廻した。そこはタイル貼りの大きな浴室で、トイレも湯舟も水盤も揃っていた。ガラスのドーム型天井から光が降り注いでいる。彼は足を踏み入れ、立ち止まり、裸足の足を見下ろした。床が温かい!彼は足の指を曲げた。ここは天国だ。彼は寝室に戻って戸棚から洗面道具を探し出し、身体を洗い、歯を磨き、髪をブラシでとかして身だしなみを整えた。

彼はベッドに戻って、荷物からきれいな黒いチュニックを出して頭からかぶった。ドアをどんどんと叩く音かして、彼は顔を上げた。「いつまでそこに篭ってるつもりなの?」少し苛立った女性の声が聞こえた。ジュリアが叱るような声で何か言っていたが、よく聞こえなかった。

彼はあわてて、ほっそりした腰にベルトを巻きつけ、サンダルを履いた。家の中でブーツを履くのは礼儀に反するだろう。彼は自分の姿を大鏡で確認した。状況を考えれば、まあ見苦しくはない格好だ。ドアを開けてジュリアの居間に入ると、腰に手を当てて立っている若い女性にぶつかりそうになった。ジュリアは蒼白い、不安そうな顔をしてソファに座っている。グラウクスはジュリアに会釈して「おはようございます」と言ってから、目の前に立ちふさがっている若い女性を見て首を傾げた。誰だろう?

ブルー・グリーンの瞳が意地悪そうに輝いた。「その態度はないんじゃないの?妹に向かって。」

彼は殴られでもしたようにのけぞった。「何だって?」彼は驚いてジュリアを見た。ジュリアは目をぎゅっと閉じていた。

「ジュリア・マキシマ…言わないって約束したじゃないの」ジュリアはこわばった声で言った。

若い女性は長い、ウェーブのかかった黒髪を背中に払って言った。「あら、どうしていけないの、ママ?」彼女はグラウクスのまわりをゆっくりと一周し、じろじろと眺めた。「この人が父さんにそっくりなんですって?」彼女は母親に向かってにやりと笑い、片方の眉を上げて横目で兄を見た。「父さんはハンサムだったって言ってたじゃないの。」

グラウクスは混乱し、二人の女性を見比べた。冗談なのだろうか?いや…冗談ではない。ジュリアの動揺ぶりを見ればわかる。「…妹?」咽喉が詰まった。

「ええ」マキシマはにっこりした。「母さんは穏やかに切り出すつもりだったらしいけど、私は何でも率直に言うのが好きなの。」彼女は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐ覗きこんだ。「私たち、同じ父親の子供なのよ。マキシマス・デシマス・メリディアスの。」

グラウクスは目を瞬き、深く息を吸い、かすれた声で「僕の妹?」と言った。

ジュリアがようやく立ち上がり、娘を押しのけて前に出た。「グラウクス、こんな風に知らせてしまってごめんなさい。時期を見計らって、私からちゃんと話すつもりだったのよ。」ジュリアは娘を睨んだが、娘はにやりと笑っただけだった。 「マキシマの考えは違っていたみたいね。」ジュリアは彼の手を取った。驚くほど冷たい。「ねえ、座って頂戴。」ジュリアは彼をソファの方へ引っ張って行こうとしたが、彼の脚は萎えたように動かなかった。

マキシマの整った顔に、初めて心配そうな表情が現れた。「グラウクス、ごめんなさい。私、人をからかってしまう癖があるの。こっちに来て座って。話すことが山ほどあるわ。」

やっと脚が言うことをきくようになり、彼は二人について部屋に入った。彼の目は前を歩く黒髪の女性のほっそりとした後姿を見つめていた。彼女はいくつなのだろう?17?18?

「私は18歳よ」彼の心を読んでいたかのように、マキシマが言った。「兄さんは?」

「僕は…22だ。」グラウクスは椅子に腰を下ろしながら言った。彼女は背が高く…ジュリアと同じぐらいの背だった…吃驚するほど美しかった。輝く黒髪が肩を覆い、完璧な楕円形の顔を縁取っていた。しみひとつないクリーム色の肌、すっきりとしたきれいな鼻、彼の口にそっくりな、弓形の口。顎には窪みがあった…二人の父親から継いだ顎。信じられない。妹がいたんだ。何と言ったら良いのかわからなかった。

幸いにもその時、ジュリアが落ち着きを取り戻して話し始めた。「二人とも、説明して欲しいでしょうね。」二人はジュリアを見た。「グラウクス、マキシマは子供の頃から知っていたの。あなたが聞いたばかりの事を…自分の父親が誰かってことも、父親の身に何があったかも。あなたは立て続けに色んな事を聞かされて、動転していると思ったから、妹の事は今まで黙っていたの。今日打ち明けて、明日会わせるつもりだったのよ。」娘は兄をじっと見つめてにこにこ笑っていた。ジュリアは娘をちらりと見て言った。「このわがまま娘はそれまで待てなかったみたい。ごめんなさいね。兄がいるって事は、この娘も昨夜知ったばかりなの。私もそれは知らなかったから。」

「彼女は動転してませんね。」グラウクスは照れたように微笑んだ。彼はこの生意気な少女が気に入り始めていた。いや…もう少女とはいえない。大人の女性だ。

「将軍はこんな顔だったのね」マキシマはごく真剣に言った。「想像通りだわ…想像以上ね。」彼女は彼の目を見つめたまま母親に訊いた。「声も父さんに似てる?」

「同じ声よ」ジュリアは愛した男の子供たちを見つめながら静かな声で答えた。

「そう、それなら、ママがあのスペイン将軍に恋したのも納得ね。」

ジュリアは笑った。もう笑うしかなかった。

「ジュリア…この事と、あなたの旦那さんはどう関わっていたんですか?」失礼な質問でなければいいが。

「アポリナリウスはずっと前から私の親友だったの。マリウス・セルヴィリウスと結婚していた時から、ずっと。妊娠しているってわかって、あなたのお父さんが死んだ後、アポリナリウスと私は結婚したの。娘に名前をあげられるように…独身の女にはできない事だから。さっきも言ったように、マキシマは小さい頃から本当の父親のことを知っていたけど、彼はマキシマを自分の娘として育ててくれたわ。グラウクス…あなたが現れて、私たちの人生は変わったわね。」

「僕の人生も変わりました。僕はいとこ達を兄弟だと思って育ったんです。それが嘘だと知った時…両親が実は伯母と伯父で、本当の母と兄と姉は死んで、父はいなくなったと聞かされた時は…胸を引き裂かれ思いでした。この一週間で失ったものを取り戻したような気がします。僕の人生の、謎だった部分について知ることが出来ましたから。それに、妹まで見つかって。」この自信に満ちた若い女性のそばにいると、妙に照れくさい気分になった。どんな顔をして見たらいいんだろう…そもそも、見ていいんだろうか?見惚れたりしたら誤解されるだろうか?

彼が気まずそうに床を見つめているのを見て、マキシマは静かに言った。「私、ずっときょうだいが欲しかったのよ、グラウクス。兄さんに会えて、こんなに嬉しい事はないわ。」

若者はゆっくりと視線を上げ、潤んだ瞳でこちらを見つめている妹と目が合った。彼の目も潤んだ。彼は少し恥ずかしくなり、涙を笑顔で隠した。マキシマも笑顔を浮かべた。グラウクスは白い歯を見せてにっこりと笑った。彼女も嬉しそうに笑った。二人は声をそろえて笑い出した。

ジュリアは目許をぬぐいながら静かに部屋を出ていった。

 

 

しばらく後、アポリナリウスはジュリアのアパートメントに入り、マキシマとグラウクスが肩を寄せ合って座っているのを見て喜んだ。彼は二人を抱きしめ、落ち着きを取り戻したジュリアの隣に座った。

家族に囲まれたジュリアは、真剣な声で話し始めた。「マキシマスは死の数週間前、ここで私と一週間を過ごしたの。その間にいろいろなことを話してくれたわ。彼にとっては難しい事だったでしょうね。孤高の人だったから…でも、私に心を開いてくれて、他の誰にも話したことのない事を打ち明けてくれたの。誰にも言わないでくれと言われたわ。だから、今までずっと秘密を守ってきたの…マキシマにも、アポリナリウスにも黙っていたわ。でも、もう黙っているわけにはいかない。知らない事でグラウクスが危険にさらされることになるから…とても危険なことなの。」

グラウクスは考え深げに髭ををなでた。見覚えのある仕草に、ジュリアはどきりとした。彼女は深く息を吸い、続けた。「マキシマスがマルクス・アウレリウスのお気に入りの将軍だったことは知っているわね。あなたたちのお父さんを、皇帝は息子のように愛した…本当の息子のコモドゥスより愛していた。皇帝がゲルマニアにいらした時、陛下はマキシマスに、自分はもうすぐ死ぬから後継者を指名したいって打ち明けたの。」彼女は娘とグラウクスを順に見て、もう一度深呼吸した。「皇帝はマキシマスを私室に呼んで、自分の権力を継いで、ローマを共和制に戻して欲しいと彼に言ったの。」彼女はそこで言葉を切り、三人に理解する時間を与えた。

長い沈黙が落ちた。最初に口をきけるようになったのはアポリナリウスだった。「つまり…マキシマスはローマ皇帝になる筈だったってことか?」

マキシマとグラウクスは口もきけずにジュリアを見つめていた。

「ええ。」ジュリアが答えた。「でも、マキシマスの望みは故郷の家族の元にに帰ることだけだったの。もう3年近くも離れていたから…彼が断ると、マルクス・アウレリウスはもう一度考えてくれと言ったわ。皇帝はマキシマスに、日暮れまでに答えて欲しいと言って…結局、お父さんは申し出を受けたの。」

二人はぽかんと口を開けた。

「彼は名誉を望んではいなかったけど、愛する皇帝を失望させたくなかったのよ。それに、ローマへの義務も感じていた。契約書を二通作成して、署名して、一通をマキシマスが、もう一方を皇帝が保管したの。マキシマスの考えでは、その夜、マルクス・アウレリウスがこの事をコモドゥスに打ち明けたんじゃないかって…それで、コモドゥスは怒りにかられて…皇帝を殺した…絞殺したの。マキシマスはクイントスに起こされて、彼に連れられて皇帝のテントに行くと、マルクス・アウレリウスは死んでいて、コモドゥスが新皇帝の地位についたと宣言したの。ルッシラもそこにいたわ。彼はテントに戻って、鎧をつけて契約書をチュニックの下に隠して、従者のキケロに基地に来ていた議員たちを呼ぶように言ったの。でも、クイントスが武装した近衛兵を連れて入ってきて、皇帝がマキシマスと家族の処刑を命令したと言ったの。」

「でも、父は処刑を逃れた」グラウクスが静かに言った。

「その通りよ。そこからは知っているわね。でも…あなたのお父さんは皇帝の後継者に指名されていたのよ。これがどういうことか分かる?」

「でも…父さんは奴隷になったのよね…皇帝じゃなく…」マキシマが言った。

「待って…ちょっと待って」グラウクスは眉を寄せて考え込んだ。「ジュリア、父がアリーナで死んだ時、皇帝のように命令を下して、人々は従ったって…」

「そうよ」ジュリアは囁いた。「コモドゥスが死んでから彼自身が死ぬまでのわずかな間、マキシマスは無冠のローマ皇帝だった。クイントスは知っていたわ。ルッシラも知っていた。私も。でも、人々は知らなかった。」その言葉をしっかり刻みつけるように、ジュリアは驚きに見開かれた三人の目を順に見つめた。

グラウクスは今聞いた事と自分の状況を考えてみた。「でも、どうしてセプティミウス・セヴェルスは僕を尾行させたりするんだろう?20年も経ってるのに?僕なんか怖れる必要はないだろうに。」

「それがあるのよ」ジュリアが言った。「セプティミウス・セヴェルスは自分がマルクス・アウレリウスの養子だから、ローマの正式な皇位継承者だと言っているの。本当は軍事力で地位を奪っただけなのに。影響力のある貴族たちの中にも、セヴェルスを嫌っている人は多いわ。でも、マルクス・アウレリウスの選んだ人間だから黙認しているのよ。契約書が発見されたら、マルクス・アウレリウスの選んだのはマキシマスで、セヴェルスじゃないということが明るみに出るわ。どうなると思う?しかも、マキシマスには息子がいるってわかったら?」

グラウクスはさっと蒼ざめた。「セヴェルスは、僕は彼の帝位を奪うことが出来るって…奪うつもりだと思っているんでしょうか?」

「自分が野心的だから、他人もそうだと思っているんでしょうね。自分が権力に固執しているから、あなたもそうに違いないと思っているのよ。グラウクス、セヴェルスは王朝を築きたがっているの…息子に帝位を継がせて、その息子にも…あなたは彼の王朝を脅かす存在なの。」

「でも…もし、僕が帝位を望んでいるとしても…父が皇帝に指名されたなんて言っても、誰が信じるって言うんです?」

「契約書だ!」アポリナリウスが興奮した様子で叫んだ。

「でも、僕は契約書なんて持ってません。」

「セヴェルスは持ってると思っているんだわ。」マキシマが言った。

「でも、僕は牢に入れられた事があって、その時皇帝は…あっ」

「何?」マキシマは彼の手を取って握りしめた。「どうしたの?」

「これでわかった。あの時、牢に入れられた理由は教えてもらえなかったんですが、セヴェルスは何かわけのわからない事を言っていて…今やっと意味がわかりました。」

「どういうこと?」マキシマが訊いた。

グラウクスの心はゲルマニアに戻っていた…

……セヴェルスは椅子の手摺を叩いた。「それでは…認めるんだな!お前がここに来た真の目的を!」

皇帝の言葉は再びグラウクスを当惑させた。彼は首を振っただけで何も言わなかった。

「しかし、神々のご決断は違っていた。そうじゃないか?神々は他の人間を皇帝にお選びになった。」

「あの…陛下、僕には何のことやら…」

「分からんと言うのか?」皇帝は皮肉たっぷりに言った。彼は背筋を伸ばし、座ったままで精一杯自分を大きく見せようとした。「それで、探求の旅に出たというわけか。要は何を探しているんだ?」

「真実です、陛下。」

近衛兵が玉座の横に立って振り返り、腕を組んだ。目はグラウクスを睨んだままだった。

皇帝も腕を組んだ。二人は恐ろしげな一対をなしていた。「それで、真実がどこにあればいいと思っている?」

グラウクスの緑の瞳は二人の間をさまよった。「僕は…ただ、心の平安を求めているだけです。父に何があったのか、どうしても知りたいのです。それだけです。」

「私をだませると思うな。お前の本当の望みはわかっている。」……

「契約書だ。皇帝は僕が契約書を捜していると思ったんだ。」グラウクスは妹を見た。「契約書を捜していると思ったから、僕を尾行させたんだ。僕が見つけたら取り上げるつもりで。でなきゃ、死ぬまで牢に入れられていた筈だ。」彼は眉を寄せた。「でも、一体どうして皇帝が契約書の事を知っているんだろう?ジュリア、父が一通、皇帝が一通持っていたと言いましたね?父の契約書はどうなったんですか?」

「スペインにあるわ」ジュリアはやさしく言った。「お母さんのお墓に一緒に埋めたの。」

「そうか」彼は重いため息をついた。「家族とローマへの義務を一緒に葬ったんだ。」

ジュリアはうなずいた。

「もう一通はどうなったんだろう…皇帝の契約書は?」アポリナリウスが訊いた。

「セヴェルスが持っているはずはないわね」マキシマが言った。「持っているなら、兄さんを尾行したりしないもの。コモドゥスが持っていたのかしら?」

「そうとは限らないわ」ジュリアが言った。「マルクス・アウレリウスはコモドゥスに打ち明けたかもしれないけど、契約書は見せなかったかもしれない。皇帝が亡くなった時はかなり混乱していたから、何が起きていても不思議はないわ。」

突然、グラウクスは立ちあがった。「皇帝が殺された後、部屋に入った人間は−コモドゥス、ルッシラ、クイントス、父さん、それから例の医者だ。クイントスか医者が持っていったんじゃないかな?」

「でも、それならどうしてセヴェルスが知ってるの?」マキシマが兄を見上げて訊いた。この謎にすっかり心を奪われていた。

「わからない」グラウクスが言った。「確かに、辻褄が合わない。でも、とにかくマルシアヌスとクイントスを見つけなきゃ。契約書を見つけないと。僕には、父が裏切り者だという疑いを晴らして名誉を回復させる義務があるんだ。その契約書が唯一の方法かもしれない。」

「居場所はわかっているのかい?」アポリナリウスが訊いた。「マルシアヌスとクイントスの?」

「はっきりとはわかりません。友達のマリウスによると、マルシアヌスはペトラにいるかもしれないそうです。クイントスはどこかに亡命しています。」

「グラウクス、あなたはここにぐずぐずしていちゃいけないわ。それだけは確かよ。」ジュリアがきっぱりと言った。

マキシマはショックを受けて母親を見た。

「本当はここにいて欲しいのよ…出来ることなら永遠に。でも、私たちの策略なんか遅かれ早かれ見破られて、近衛兵があなたを捜しに来るわ。ここにいては駄目。危険すぎるわ…あなたにとっても、娘にとっても。セヴェルスは娘のことは何も知らない。知られたくないわ。」

「もちろんです!」グラウクスが言った。「他の人の命を危険にさらすつもりはありません。明日出発します。」

マキシマがぱっと立ち上がった。「だめよ、母さん…兄さんに会えたばかりなのに、もうお別れを言えっていうの?」

「マキシマ、お母さんは僕たちの安全を考えてくれているんだ」ジュリアが口を開く前に、グラウクスが言った。

「嫌よ…母さん、お願い…」

ジュリアは厳しい顔で言った。「他に方法はないの。あなたの身に危険がなくなったと確信できたら、グラウクスと会ってもいいわ。」

「母さんはいつもそればかりじゃないの!危険、危険って!私はどこにも行けない…ローマにも行けないのよ。いっつもそればっかり!」

「マキシマ、お母さんの言う通りだよ」グラウクスは落ち着かせようと彼女の腕を取った。「必ず戻ってくる。約束するよ。」

マキシマは兄の手を振り払った。「母さんの味方するつもり?」美しい目に涙が溢れ、泣き声になった。「みんなして私を閉じ込めようとするのね。これじゃ生きてないのと同じだわ!」彼女はしゃくり上げながら、走って部屋から出ていった。

ドアがバタンと閉まり、グラウクスは首をすくめた。「ジュリア、すみません…」

「あなたのせいじゃないわ、グラウクス。私はマキシマを過保護にしすぎていたみたい。娘を失うのが怖くてたまらないのよ。」彼女は頭痛でもするようにこめかみをこすった。「明日ちゃんと話をするわ。その前に、あなたを無事に出発させる手配をしなきゃ。明日の晩に乗船して、明後日の夜明けに出航出来るように船の準備をするわ。ほとんどの港は冬には閉鎖されるけど、その前に船を出せるでしょう。スペインへ帰るといいわ。そうすれば安全ね。」

「ジュリア、僕はペトラへ行きます。」

ジュリアは目を閉じた。彼は父親そっくりだ。「グラウクス、どんな旅になるかわかってるの?」

「わかりません。でも、どんな旅でも、僕は行くつもりです。船でアレキサンドリアまで送ってくださるとありがたいです…そうでないなら、せっかくですが船はお断りします。」

ジュリアは彼を見つめた。愛する人の顔、愛する人の声…彼女は微笑んで言った。「頑固さと独立心はマキシマスの遺伝ね、あなたたち二人とも。船は出来るだけペトラの近くまで行かせるわ。」

 

第43章 マキシマ

「マキシマ?」グラウクスは彼女のアパートメントのドアを静かに叩き、声をかけた。「ちょっと話していいかな?」

返事はなかった。

彼はもう一度ノックした。「マキシマ?頼む、ドアを開けてくれ。」

ドアが細く開き、縁の赤くなった青い目が現れた。「何の用よ?」

「見せたい物があるんだ。」

彼女は鼻をすすり、ドアを開け、背を向けてテラスのところまで歩いて行った。

グラウクスは何と言っていいかわからなかった。この女性のことは何も知らないのだ…血を分けた妹なのに。彼は入口の所で立ち止まった。彼女の私室に侵入するのは気が進まなかった。「マキシマ、僕は明日の夕方に発つんだ。それまでは一緒にいられる。」

「兄さんの人生の貴重な1日を、私のために割いて下さるわけ?」マキシマは皮肉に言った。「開豁でいらっしゃること!」

グラウクスは眉を寄せた。「そんな言葉、どこで習ったんだ?」

マキシマの背中が固くなった。からかわれているのだろうか?「ママと同じよ。アポリナリウスから。」

「彼は君の先生でもあるんだ?」

「そうよ。この部屋で教えてもらったの。生まれてからずっと、ほとんどこの部屋にばかりいるの。」彼女はまわりを見まわした。「綺麗な部屋でしょう?綺麗な牢獄だわ。私はずっとこのヴィラに閉じ込められているの。自由になりたいって、そればかり望んできたわ。同い年ぐらいの他の女性たちみたいに…」

「君と同年代の女性たちは、そんなに自由じゃないよ。だいたいは結婚していて子供もいる。お母さんは、君を無理に結婚させたりはしなかったじゃないか。」

彼女はようやく振り向いた。テラスから吹く夕べの風に、白い絹のストーラが揺れていた。「娘を結婚させることができるのは父親だけよ。難しい問題でしょう?私の父さんは死んでいるんだもの。」

「法的にはアポリナリウスが父親だろう?」

「アポリナリウスは優しい人よ。心から愛しているわ。でも、彼は父親じゃないの…親切な伯父さんってところね。私には父親がいないって、小さい頃から気づいていたわ。」

「僕にもいない。」

「ええ。でも兄さんは、父親がいるって信じていたでしょう?」

グラウクスはうなずいた。

「私はね、母が恋焦がれている相手に憧れながら育ったの。母はずっとその人の喪に服しているんだもの。非の打ち所のない完璧な人。他の男なんか足元にも及ばない男。」

「マキシマ、父さんだって人間だったんだよ。」

「母にとっては違うわね。母の目に映る彼は神様なの。」彼女は椅子に座り、グラウクスに向側に座るように合図した。「私はずっと寂しくて、きょうだいが欲しくてたまらなかったの。ある時思い切って、妹か弟が欲しいって母に頼んでみたの。母は、それは永遠に不可能だって言ったわ。母はマキシマス以外の人とは絶対に寝ないし…マキシマスはもういないから。」

「アポリナリウスはどう思っているの?」

マキシマは笑った。「グラウクス…彼は男の人の方が好きなのよ。完璧な結婚でしょう?夫婦につきもののややこしい問題抜きで、ずっと一緒にいられるもの。」

ああ…そう。グラウクスは声を出さずにうなずき、口を挟まずにマキシマの話を聞く事にした。

「マキシマスは私を見なかったし、抱く事もできなかった。プロキシモが父をローマに連れて帰った後、母はなんとか連絡を取ろうとしたの。でも近づけなかった。ようやく手紙だけは受け取ってもらえたんだけど…父がコモドゥスと闘って死んだのはその翌日だったの。多分、母が私を身篭っている事も知らなかったと思うわ。」

「その点は僕も同じだ。父さんは僕の事も知らなかった。」

「でも、父さんの名前は継いでいるじゃない。私にはそれもないのよ。私は認知されていない子供。小さい頃からずっと父の事を考えていたわ。どんな顔だったのか…どんな声をしていたのかって。私、軍隊を見たこともないの。将軍ってどんな人なのか、全然わからなかった。世界一強くて、世界一ハンサムな人を想像したわ。でも、とても優しくて、私と遊んでくれて、私をあやして腕の中で眠らせてくれるの。」

「君の想像は真実に近いと思うよ。それに、とても真面目で、責任感の強い人だった。自分の仕事がどんなに重いかわかっていたんだ。部下たちに愛され、尊敬されていた。皇帝も彼を愛した。妻と息子も、彼を愛した。」

マキシマの目が潤んだ。

「父さんは大勢の人の心に残っている。」

マキシマは涙を流しながら微笑んだ。「あのね…私、もう子供じゃなくなった頃からね…マキシマスは母さんの想像上の人物なんじゃないかって思い始めていたの…私が生まれた理由を作るための…父さんが実在していたって証拠は、ママが今でも大事にしてる青いチュニックだけだったの…兄さんに会うまで。兄さんは、父さんが本当にハンサムで強かったっていう証拠だわ。」

グラウクスは照れくさそうに微笑んだ。「ありがとう」彼は唇を噛み、昨夜からずっと考えていた事を思い切って訊いてみることにした。「マキシマ、君は父親のことをよく知っているんだね。お母さんの過去については知ってる?」

彼女はあっさりと、「娼婦だったってこと?」と言った。

グラウクスは驚きを隠せなかった。

「知っているわよ。母さんは何もかも話してくれたわ。母さんが私を身篭った場所だって知っているわよ…ヴィラの中の人造湖の真ん中よ。母さんがカシウス将軍の奴隷で娼婦だったって、最初に知った時はたしかにショックだったけど…かえって尊敬しちゃったわ。そんなところから身を起こして、こんなに成功したなんて。」

「そうだね。ジュリアはすごい女性だ。」

「ええ。でも、私のことも自由にさせてくれればいいのに。自分の人生を歩ませて欲しいの。私はもう大人よ。」

「もう一度マキシマスを失うみたいに感じるんだろう。」

「それは私にはどうしようもないわね。」

「ああ…その通りだね。君は何がしたいの、マキシマ?」

「ここを出て行きたいの。」彼女は熱っぽく言った。「帝国中を見てみたいわ。自由に旅をして、好きなように生きたいの。」

グラウクスは微笑んだ。「そんな風に生きている人なんかいないよ。」

「父さんは…」

「いや」グラウクスが口を挟んだ。「父さんこそ、全然自由じゃなかった。本当は農夫でいたかったのに、将軍になった。本当はスペインにいたかったのに、ゲルマニアにいた。父さんは自由じゃなかったんだよ、奴隷になる前も。」

マキシマはテラスの向こうの闇を見つめた。「兄さんの言う通りね。」

グラウクスは妹を元気づけようと、「さっき、見せたい物があるって言ったよね?」と言った。

「ええ。」彼女は夜空を見つめたままだった。

「マキシマ、見てごらん。」

彼女は振り返り、グラウクスの手にある物を見て息を呑んだ。鞘に入った見事な剣だった。彼は妹に剣を差し出した。マキシマはためらいがちに指先で触れた。

「マキシマスが将軍になったとき、マルクス・アウレリウス帝に賜った剣だ。皇帝が亡くなった夜まで、父さんはこれを使っていた。」

驚きに目を丸くして、マキシマは兄から剣を受け取り、「まあ…何て重いの!」と叫んだ。予想外の重さに腕ががっくりと垂れた。

「ああ。戦闘の時には、父さんはこの剣を何時間も振り続けたんだ。敵が襲ってくる方向によって、右手に持ったり左手に持ったりしながら。」

「剣ってこんなに綺麗な物だったのね。装飾品みたい。」ランタンの光が真鍮に反射した。

「飾りじゃないよ。この剣にどれだけの血が流れたか…」

「どこでこれを?」

「父さんの戦友がくれたんだ。マキシマスの隊だったフェリックス第三連隊の技師長だった人で、今でもゲルマニアに住んでいる。マルクス・アウレリウスが死んだ後、父さんの従者のキケロがこの剣を取りに行ったんだけど、渡す前にクイントスがテントに入ってきて父さんを逮捕したんだ。抵抗するチャンスがなかった。その後、この剣はキケロが持っていた。彼が死んだ時、ジョニヴァスが受け継いで、ずっと大事に隠し持っていたんだ。」

マキシマは剣の束を握りしめ、ゆっくりと鞘から抜いて垂直に捧げ持ち、刃の上に踊る光を惚れ惚れと眺めた。彼女はくすくすと笑い出した。彼女から初めて聞いた少女っぽい声だった。「私の手には大き過ぎるわ。」

「父さんの手に合わせて作られたんだ。」

「ねえ…父さんの手がここに触れたのよ。私の手がある、ちょうど同じ所に。父さんの目がこの同じ刃を見て、この同じ束を…」彼女は恭しい囁き声になった。「まるで、父さんの手に触れているみたい。」

「僕もそんな感じがしたんだ。」

マキシマのブルー・グリーンの瞳が、真剣に彼を見つめた。「本当?」彼女は剣の先をゆっくりと下ろし、兄をじっと見つめた。「あのね…私、気持ちを本当にわかってもらえたって感じたのは、これが生まれて初めてよ。誰かをこんなに近く感じたのは。」彼女は息を呑みこんだ。「グラウクス、どうか行かないで。」

「行かなきゃならないんだ。」

「お願い。」

「マキシマ、僕の旅は始まったばかりなんだ。君に会えたことは、今までで一番すごいことかもしれない…この二、三日で、父さんのことを予想もしていなかったほど沢山知ることが出来た。でも、もっと知りたいんだ。何もかも知りたいんだ。それに、契約書を見つけなくちゃ。絶対に!」

マキシマは覚悟を決めたようだった。「いつ帰って来られる?」

「わからない。多分、何ヵ月もかかるよ。」

「帰ってくるわよね?」彼女の顔には希望と不安が浮かんでいた。

「もちろん帰ってくるよ。」彼女の目はまだ疑っていた。「証拠として、僕の馬を残して行くよ。この剣を別にすれば、アルターは僕の持ち物の中で一番価値のあるものなんだ。僕が戻るまで面倒を見てやってくれるかい?」

声が出るかどうか自信がなかったので、マキシマは黙ってうなずいた。

グラウクスは無理に笑った。「僕は帝国のあちこちに動物を置いてきてるみたいだな。」

彼女は笑おうとしたが、唇がちょっと動いただけだった。マキシマは剣をゆっくりと鞘に戻し、ひどく悲しい目でグラウクスを見つめながら手渡した。「さようなら、兄さん。さようなら。」

 

第44章 港

「グラウクス、あなたは甲板のテントで寝てね。」ジュリアが言った。彼女は若者に船の中を案内し、小さな船室へと向かった。彼女は航路の長さを考え、晩秋の風を考えて、最も少ない乗組員で最も速く航行できる中型船を選んだ。それに、船長は小麦運輸のベテランで、アレキサンドリア〜オスティア間の航路を知り尽くしていた。彼女は船室のドアを開けた。「テントの中はあまり暖かくないでしょうけど、船室は狭いし、イミリウス船長のための部屋だから…寒いようだったら下層甲板に降りてね。下にもあまり場所はないけど…疑われないように、アンフォラとかワイン樽とか、腐りにくい物を積んだのよ。樽はほとんど空よ。積荷は軽い方がいいから。」

「何から何まで…本当にありがとうございます。言葉にならないぐらいです。どんなに感謝しているか…あなたとマキシマに会えて、どんなに嬉しいか…」

「そう言ってくれて嬉しいわ。嫌われるんじゃないかって心配していたの。お父さんと私のささやかな関係を知られたら…」

「嫌う?とんでもありません。愛する者を全て失った父に、あなたは愛を与えてくれた。それに子供を…僕には妹を与えてくれた。感謝しきれないぐらいです。」

ジュリアは微笑んだ。安堵のため息を隠そうと、彼の肩を抱いて素早く両頬にキスをした。

「マキシマが見送りに来てくれるかと思っていたんですけど…」

「私が来ないように言ったの。危険だから。」

「そうですね。」

「マキシマは怒ってるわ。今朝話をしたけど、もう口もきいてくれないの。あなたの出発に抗議して部屋に閉じこもっているわ。でも、そのうち出てくるでしょう。私たち、喧嘩することもあるけど、本当は仲がいいのよ。」

「出航の前に訊きたいことがあるんですけど、時間ありますか?」

「ええ、少しならね。船長の準備はほとんど終っているわ。」予定外の出航の準備を整えるために、船員たちが甲板を忙しく動き回っていた。

ジュリアが船室のドアを閉めると、グラウクスが言った。「マキシマに聞いたんですけど、父に会いに剣闘士学校へ行ったんですって?」

ジュリアはうなずいた。その時の事を思いだし、彼女の顔は悲しみに沈んだ。「ええ。でも、会えなかったの。プロキシモは、私がいると彼の気が散ると思ったみたいで、衛兵に私を追い帰させたわ。」彼女は長い間を置いてから、「お父さんがヴィラ去ってからは、とうとう一度も話せなかった。」と言った。

船室の小さな窓から射す陽に埃がちらちらと光り、彼女の美しい横顔が照らし出されていた。「でも、手紙を届けたんでしょう?」

彼女はぱっと振り向いた。「マキシマがそんなことまで?ええ、そうよ。でも、マキシマスに届いたかどうかわからない。コロシアムの近くの居酒屋にプロキシモがいて、手紙を受け取って欲しいって頼んだの。」

「訊いていいですか…」

「手紙に何を書いたかって?」彼が言い終わる前に、ジュリアが答えた。「妊娠したかもしれないって書いたわ。その知らせで、彼が生き延びたいと思ってくれればいいとおもったの。」

「でも、プロキシモは手紙を受け取ったんですね?」

「ええ。」ジュリアは小さなテーブルによりかかり、腕を組んだ。「その時のプロキシモは別人のようだった。以前の皮肉っぽい、自信たっぷりな彼ではなくて−何か、神経質になっているみたいで、後ろを気にしていたわ。マキシマスに対する態度も変わっていたみたい。お父さんを別の目で見るようになっていたみたい…奴隷じゃなくて、人間として。」

「何が彼を変えたんでしょう?」

「はっきりとは分からないけど…あの後、ずっと考えていたの。多分プロキシモは、コモドゥスを巡る当時の政治的陰謀に関わっていたか…あるいは巻き込まれていたんだわ。皇帝を倒す計略があって、元老院議員や、ルッシラも関わっているって噂だった。でも、残念ながら…コモドゥスは何かおかしいって疑い始めて…それがアリーナでのお父さんの死に繋がったんだわ。グラウクス…マキシマスはね、結局、ローマに命を捧げたんだわ。軍人としての務めを果して。マキシマスにとって、コモドゥスの死は初めは個人的復讐だったけど、もっと高尚な目的に変わっていったの。」

「どうしてレディ・ルッシラが…父も…コモドゥスを倒す計略に関わっていたと思うんですか?」

「ルッシラの弟が死んだ後、近衛隊が即座に彼女を排斥したからよ。近衛隊は、彼女が政治に干渉することを望まなかった。彼女は力を持っていたし…元老院議員の支持もあった。彼女はプロキシモを通じてマキシマスに援助を求めたでしょうね。」

「どうしてそんな事を知っているんですか?」

ジュリアは微笑んだ。「私もスパイを雇っていたの。私はマキシマスに近づけなかったけど、ルッシラは近づく事ができたみたい−何といっても皇帝の姉ですからね。ルッシラは少なくとも二度、剣闘士学校へ行ってマキシマスに会ったようね。」

グラウクスは眉を寄せた。「でも、どうして父が助けになると思ったんでしょう?父は鎖に繋がれた…ただの奴隷だったのに。」

「お父さんは奴隷の身だったけど、力を持っていたわ。何と言っても、軍隊が彼を支持していたのよ。でも、兵たちは将軍は死んだと思っていた。マキシマスが自由の身になれば、軍の支持を得てローマに進軍して、力で権力を奪う事が出来たでしょうね。」ジュリアは深いため息をついた。美しい顔が悲しみで曇っていた。「確証はないけど、彼は一度逃げようとしたみたいなの。」

グラウクスは驚いて身体を固くした。「逃げたって?」

「ええ。ルッシラが手配したのかも。最後の対決の前の夜、剣闘士学校で騒ぎがあったのは確かよ。剣闘士がたくさん死んだわ。でもお父さんはそこにはいなかった。そして…その次の日には、彼はひどい傷を負った姿で現れて、死ぬまでコモドゥスと闘ったの。その夜何があったのか、はっきりとはわからないけど…きっと何かが、コモドゥスを最後の対決に追いつめたのよ。」

「ルッシラの話が聞けたらなあ。」

ジュリアは首を振った。「グラウクス、彼女は死んだわ。」

「ええ、わかってます。でも、僕にはまだ疑問が残っていて、彼女なら答えを知っていただろうに。何て酷い事だろう…マルクス・アウレリウスのような名君の娘と孫が、こんな風に『処分』されてしまうなんて。」

「私の知る限りでは、息子の方は生きているわよ。名前はルシアス・ヴァレス。あの時はまだ子供だったけど、彼は殺されなかったはずよ。確か、セプティミウス・セヴェルスは彼にどこか辺境の官職を与えたはず…マルクス・アウレリウスの養子だっていう彼の主張をもっともらしく見せるためでしょうね。ルシアス・ヴァレスには気を遣わざるを得ないみたいよ。疑いを招かないように。」

「どこですか?彼も、何があったのか憶えているかもしれない。」

「どこだったかしら…調べておくわ。あなたが帰って来た時に教えてあげるわね。」

「すみません、もう一つだけお願いしていいですか?」

ジュリアはにっこりした。彼女はこの若者が心から好きだった。「もちろんよ。」

「ローマに友人がいるんです…マリウスという…僕が帰らないと心配するでしょう。住所を教えますから、目立たないように彼に会って、僕の行き先を教えてやってくれますか?必ず帰ってくるからと伝えて下さい。」

「ええ、わかったわ。さあ、もう時間よ。私は船を降りるわ。準備して。すぐ出航よ。風に恵まれれば、2週間ぐらいでアレキサンドリアに着くでしょう。」彼女は彼の髭に覆われた頬を撫でた。「グラウクス、気をつけてね。」

 

少し後、商船から漕手を乗せた小さな船に渡した綱がぴんと張り、商船は外海に曳かれて行った。船は帆を広げ、南に進路を取った。だんだん小さくなるオスティアの灯台を眺めながら、グラウクスは新たな豊かさが加わった自分の人生について考えた。父には永遠に会えない事がわかってしまったが、代わりに妹ができたのだ。とても元気のいい妹が。そして、新しい素晴らしい家族−一種の家族−ジュリアとアポリナリウス。風上に顔を向けると、まだ緩い風が豊かな巻毛を吹き抜けていった。人生は冒険。今、新しい章が始まろうとしている。

 

第45章 旅路

航海三日目の早朝、グラウクスはテントの外の騒音に目を覚ました。怒った男の声、他の男たちの笑い声…女性の金切り声。

「まさか」グラウクスはつぶやいた。「嘘だろ?」不吉な予感を胸に小さなテントから頭を突き出した。悪い予感は的中した。霧の立ちこめた、揺れる甲板にマキシマが立っていた。船長がその腕をしっかりと掴み、口汚くののしっていた。数人の水夫がにやにや笑いながら二人を取り囲み、汚いズボンとチュニックを着た若い美人に見惚れていた。

グラウクスはテントを這い出し、顔をしかめながら立ち上がった。毎日の事だが、湿った木の甲板に寝ると背中が痛くなる。彼はマキシマを睨みつけた。マキシマは睨み返し、反抗的に顔を上げた。彼も、船長も、他の水夫も怖くなんかない−と言っているようだ。「大丈夫です、船長」彼は申し訳なさそうに言った。「僕の妹なんです。妹の行動は、僕が責任を取ります。」

マキシマはイミリウスの手を振り払った。「悪いけど、自分の行動の責任は自分で取るわ!」彼女は痣になった腕をさすりながら憤然としていた。

「樽ン中にいたんですよ。何日もいたらしい。」船長は唾を吐いた。「船に女を乗せるのは嫌いだ。おれの船には乗せたくねえ。悪運をもたらすんだ。アンフォラをほとんど割られちまった。船倉がむちゃくちゃだ。」

グラウクスはマキシマの腕の船長が掴んでいた所を掴んだ。マキシマは痛みにひるんだ。彼は大声で言った。「言葉に気をつけた方がいいぞ、イミリウス。このひとはただの女じゃない。この船を所有している女性の一人娘だ。」彼は手を少し緩めたが、放しはしなかった。「敬意をもって接するように。」彼は船長を見ていたが、水夫たち全員に向けて言った言葉だった。その言葉は、狙った通りの効果があったようだ。水夫たちは甲板を見下ろすか帆を見上げるかして、若い女性の方を見ないようにした。変な目で見ているなどと誤解されてはかなわない。彼らはグラウクスの剣を見ていた。それに、首になるのも嫌だった。彼らはゆっくりと散り、それぞれの位置に戻った。

グラウクスは、澄ました顔で船長の後姿を見ている妹の腕をぐいと引っ張って「一体全体、ここで何をしているんだ?!」と言った。

「あら、見ればわかるでしょう?私も一緒に行く事にしたの。」

「責任持てない…」

「さっき持つって言ったじゃない。」彼女はにっこりした。綺麗な眉が片方吊り上った。「それに、自分の面倒は見られるわ。」

「本当か?さっき僕がいなかったらどうなってたと思う?」

「放してよ。」

「どうなってたと思う!?」

マキシマはため息をつき、小さな子供に言い聞かせるように言った。「兄さんがいなかったら、私もこんな所にいないわよ。でしょう?」彼女は自由な方の手で汚れたチュニックをはたいた。「本当言うとね、見つかってよかったわ。樽のにおいで頭が痛くなってたの。寒いし、狭いし。甲板の方がずっといいわ。兄さんもいるし。」

「船に残るつもりか?だめだよ。」

マキシマは海を見て、兄に目を戻した。「じゃあ、どこに行ったらいいのかしら?」

グラウクスは呆れて手を放した。確かに、返す言葉がない。どうやって帰したらいいのだろう?「お母さんが死ぬほど心配しているぞ。」

「多分ね。でも大丈夫よ。アポリナリウスに手紙を残して来たの。兄さんがついてるから大丈夫だって。」

グラウクスは頭を抱えた。「僕もぐるだと思われる。ジュリアが何て思うだろう!」

「ああ、心配しないで。兄さんは何も知らないからってちゃんと書いたわ。家を出るのは私一人の考えだからって、はっきり書いておいたから。」彼女はぱたぱたと鳴る帆を見上げた。「ああ、何て素敵なの!小さい頃からずっと、テラスから船を眺めて、乗ってみたいと思っていたの…行き先はどこでもよかった。本当にどこでも。やっと乗れたわ。」心から嬉しそうな笑い声に、兄の顔にも思わず微笑みが浮かんだ。「グラウクス、私、幸せよ。こんなに幸せになれるなんて、夢にも思わなかった。」彼女は兄の肩に手を乗せ、微笑みを返した。「兄さんのおかげだわ。」

グラウクスは風でくしゃくしゃになった彼女の黒い、豊かなウェーヴをやさしく払った。「それは僕も同じだよ。でもマキシマ、この旅はとても辛いし…おそらく、危険な旅になるんだ。皇帝が僕を見つけたら、君も見つかってしまう。君の身が心配なんだ。」

「マキシマスは私の父さんでもあるのよ。兄さんが危険なら私も危険だわ。危険を分かち合いたいの。父さんの事を何もかも知りたいの…兄さんのことも。お互い、話すことが山ほどあるわ。絶好の機会じゃない?」

グラウクスは船尾から船首までを見回した。「水入らずで話せる場所はなさそうだよ。」

彼女はテントを見た。

彼はため息をつき、根負けしてうなずいた。「僕は下の水夫たちのところで寝るよ。」

「ありがとう。優しいのね。」

彼は首を傾げ、彼女をしげしげと眺めた。「樽の中でどうやって3週間も暮らすつもりだったんだ?」

「ずっと樽に居た訳じゃないわ。みんな忙しそうだし、積荷はほとんど見に来ないし。食べ物と水は持ってきたの。少しづつ食べれば2週間もつぐらい。」彼女は汚れたチュニックを見下ろした。「でも、こんなに長くお風呂に入れないのは気持ち悪いわね。」

「クレタ島で補給する時入れるよ。そこからはアレキサンドリアまで直行だ。」

彼女は夢を見るように目を閉じ、微笑んだ。「アレキサンドリア…ねえ、アレキサンドリアよ、グラウクス。アレキサンダー…クレオパトラ…ピラミッド。ずっと前から見てみたかったの。」

「ラクダにも乗ってみたかった?」

「ラクダ?」

「ああ。ペトラまでは砂漠を越えて行くんだ。物見遊山じゃないよ。」

「わかってるわよ。でも、ついでに見てもいいでしょう?」彼女は抵抗し難い微笑みを浮かべた。

 

その後の旅は何事もなく、天気にも恵まれていた。夜はマキシマがテントを占領し、グラウクスは甲板でターポーリン(防水帆布)にくるまって寝た。寝心地がいいとは言えなかったが、妹がいると、思ったよりずっと楽しいのは認めざるを得なかった。彼女は頭が良く、意志が強く、ユーモアのセンスがあり、彼より教養があった。気まぐれどころか、とても思慮深く、慎重だった。生意気な態度はほんの表面だけで、本当は明るく気立てのいい女性だとわかり、二人はすぐに仲良くなった。二人はお互いの子供の頃からの事、心に秘めた憧れや不安、将来の夢までを語り合った。

アレキサンドリアのファロス灯台が遠くに見えてくる頃には、ずっと昔から一緒にいたようになっていた。

アレキサンドリア

アレキサンドリアのファロス島上にある部分は、広い円形の港グレート・ハーバーと帝国一高い灯台に占められていた。灯台は100m以上の高さがあり、巨大な鏡で増幅されたその灯りは100マイル先の外海からでも見ることが出来た。街自体はファロス島だけでなく、岸を囲み、マレオティス湖と海の間の狭い陸地にも広がっていた。色鮮やかな宮殿、神殿、劇場、図書館、記念碑、公共建造物が並び、街は輝いていた。街の両側には、輝く白い砂浜と沼地が海岸線に沿って続いていた。椰子の木々が、そよ風に優雅に揺れていた。素晴らしい都市だった。ここは帝国の中でも、文化的、歴史的、科学的、精神的な中心のひとつなのだ。

元々はラーコティスの村だったこの街は、アレキサンダー大王の命により、ギリシアの建築家、ロードス島のディノクレイトスによって再建された。直線に走る街路が規則的な碁盤の目を作っていた。中心街であるカノピック大通りは東西に走り、西壁の月門と東壁の太陽門を繋いでいた。ソマ大通りはカノピック大通りと垂直に交差し、グレート・ハーバーとレイク・ハーバーを結んでいた。グレート・ハーバーの西端の運河を通って、船がマレオティス湖に入れるようになっていた。港の東端にはもう一本運河があり、偉大なるナイル河に続いていた。単純な構造だが、信じられないぐらい美しかった。

アレキサンダー大王は世継を残さずに死に、将軍たちが後継者の座を争った。その中で、アレキサンドリアを首都に持つプトレマイオスが地位を確立し、その後三百年に渡って続く王朝を創立した。しかし、王朝の後期には、国内の争いがローマの侵略を招いた。ローマ帝国はエジプトの小麦に依存していたのだ。プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラは王位と都市を守ろうと努力した。エジプトの女王はジュリアス・シーザーと子供をもうけた後、マーク・アントニーとの不幸な恋愛の結果、アドリア海アクティウムの海戦で決定的な敗北を喫した。彼女の死によって、アレキサンドリアはローマ帝国の支配下に入った。それ以来、帝国はナイル沿岸農業の生み出す富を握っている。

マキシマはグラウクスと腕を組んで街を歩きながら、兄にエジプトの歴史を教えた。二人は他のローマ人観光客に混じって名所巡りを楽しんでいた。兄妹は宿をとり、風呂に入って着替えた。マキシマはアレキサンドリアを隅々まで見たいと言った。この都市の歴史はグラウクスも知っていたが、マキシマの知識の豊かさには驚かされた。確かに、アポリナリウスは素晴らしい教師だ。彼女といるととても楽しかった。この美しく、教養に溢れ、元気一杯の若い女性は見るもの全てに歓声を上げた。

マキシマは兄を横目で見た。「エジプトでは、きょうだいでも結婚出来たのよ。知ってた?プトレマイオス二世のフィラデルファス王は妹のアルシノエと結婚したの。プトレマイオス三世のイウゲトスは従姉妹のベレニスと結婚したわ。ギリシア人は感心しなかったみたいね。」

「近親相姦だな。」

「今の基準ではそうでしょうけど、権力を家族内に留めておくためだったのよ。」

マキシマはきょろきょろした。「ねえ、見てよ、グラウクス。本当にいろんな人がいるわね…いろんな肌の色の人がいるわ。みんな、どこから来たのかしら?」

「帝国中からさ。それと、多分東方からも。ローマもこんな風だね。世界中から人が集まってるんだ。」

「ローマに行った事はあるけど、母は限られた範囲しか連れて行ってくれなかったの。その時は訳がわからなかったけど、今はわかるわ。私の安全を考えて…私の事を皇帝に知られたくないと思っていたんだわ。何て素敵なの…ローマやオスティアからこんなに遠くまで来られたなんて!」彼女は舗道をスキップした。まるで、初めてお出掛けした小さな子供のようだ。「ねえ、もう一日か二日いてもいいでしょう?」

「もちろんいいよ」グラウクスは言った。早くマルシアヌスを見つけたかったが、こんなに長く待ったのだ。もう一日や二日待っても変わらないだろう。そこで二人は、ただの観光客のように、ローマ人の団体に混じってファロス島の大灯台へ向かった。ファロス島は、今はもう島ではなかった。防波堤で本土と繋がっていて、簡単に歩いて行くことができた。灯台の構造は帝国でも随一のものだった。土台は四角形で、上部三分の一は八角形、その上は円形になっていた。炎の上、一番頂上にはゼウスの彫像があり、太陽の動きと共に回転していた。灯台の頑丈な土台は大理石の柱廊に囲まれ、一方にはイシス・ファリア(エジプトで信仰されていた女神)の優雅な神殿があった。

初冬の風が海水を撒き、島の上は涼しかった。この季節、船の往来は止まり、大小の帆船は港の中に繋留されていた。灯台はアクアマリン色の空っぽの海を空しく見張っていた。ファロス島から港を挟んで反対側には、純白の柱が輝く巨大な宮殿が立ち、夥しい数の花が咲き乱れていた。

灯台長は客を歓迎した。短い冬の間は暇なのだ。彼の主な仕事はもちろん、炎を絶やさぬようにすることだ。彼は観光客に、灯台の下部を占領している巨大な燃料の山を見せた。「木材、動物の糞、紙、石炭…燃える物なら何でもいいんです」彼は説明した。「ここに燃料を貯蔵して、あのバケツで引っ張り上げます。」彼はロープを指差した。ロープの先は空に消えているようだった。

冒険心にかられた若い二人は、灯台の頂上までぐるぐると続いている階段へと向かった。マキシマはきらきら輝く目でグラウクスを見て、「競争する?」と言った。

グラウクスは今にも駆け出しそうにしている妹の手を取って引き戻した。「やめておくよ。ずいぶん高そうだし、ゆっくり歩いて行く。」

「負けるのが怖いんでしょう?」彼女はからかった。しかし、階段の終りにさしかかって弱音を吐き出した妹の手を取って引っ張り上げたのはグラウクスの方だった。彼女は一番上の段で崩れ落ち、はあはあと息をはずませながら痛む脚をさすった。やっと立ちあがると、目の前に、天まで届きそうな巨大な炎が轟音を上げていた。マキシマはたなびく髪を掴んで結い、ストーラの下にたくし込んだ。髪に火がつくのではないかと思った。濡らした革の服を着た奴隷が炎のそばに立ち、磨いた青銅の鏡を動かしていた。その時初めて、マキシマは灯台長も革の服を着ている事に気づいた。彼は革の帽子も被っていた。騒音がひどくて何も聞こえなかった。彼女は耳を覆い、グラウクスと一緒に手すりの所へ行って、遥か下に広がる都市を眺めた。港の船は、昔マキシマがヴィラの池に浮かべて遊んだおもちゃの様に見えた。円形の港をまるごと見渡すことが出来た。マレオティス湖も、都市を分断している運河も見える。

グラウクスは口に手を添え、彼女の耳元で怒鳴りながら指差した。「湖に浮かんでる船が見えるかい?ナイルへ入るにはあの船が一番速いんだ。その後はラクダで行く。」

マキシマは黙ってうなずいた。声を出しても、炎の轟音に消されてしまうだろう。

「暑いな!」グラウクスが怒鳴った。マキシマはうなずいた。彼は妹の手を取り、二人は長い、曲がりくねった階段を降り始めた。

地面に着くと、彼女は柱廊にしゃがみ込んで少し休ませて欲しいと言った。「私は兄さんと違って体力がないんだわ」彼女は言った。「兄さんなら、あの階段を10回駆け上っても平気ね。」

「それは無理だよ。でも、確かに疲れてはいない。僕は小さい頃からいろんな競技をやってきたから、あのぐらいの階段なら平気なんだ。」

「きっと、マキシマスも平気だったでしょうね。」彼女は大理石のベンチに倒れこみながら言った。

 

その近くの、日陰のベンチにいた男が、聞き覚えのある名前を聞いて身体を起こした。

 

「そうだね。兵士として、父さんがどのぐらい歩いたと思う?帝国中を歩き回っていたんだ。」

「ここに来たことはあるかしら?」

「多分ないだろうな。でも、わからない。マキシマスは主に北方に駐屯していた。父さんが来た場所では、ローマが一番南だろうな。」

 

日陰の男は若い二人を見て、日焼けした顔に訝しげな表情を浮かべ、眉を寄せて考え込んだ。

 

「残念だわ…あんなに若くして死んだなんて。生きていたら何歳ぐらいになったのかしら?」

「50代半ばかな。年寄りだ。」

「あら、そんなに年寄じゃないわ。アポリナリウスはそれより10歳ぐらい上よ。」

「多分ね。でも、僕は若い将軍のマキシマスしか想像出来ないんだ。」

 

彼は背を伸ばし、立ち上がろうとしたが、思い直してベンチに座った。彼は記憶力と注意力が自慢だった。何ヵ月も前に皇帝から届いた手紙の事をまだ憶えている近衛兵は、アレキサンドリア中で彼一人かもしれない。帝国中の全ての近衛兵に、マキシマス・デシマス・メリディアスの息子を捜すように命令した手紙だった。手がかりを掴んだら即座にローマに報告するように。手紙が読み上げられた時、兵たちは欠伸をしていた。エジプトなんかに来るものか。しかし、情報は彼の頭に刻み込まれていた。彼はベンチに座っている若い男を見て、特徴を照合した。20代前半、髭あり、髪は長めで明るい茶色、背は高く、体格良し。スペイン人。これだけでも決定的だ。それに、明らかにスペイン訛りがある。女の事は聞いていなかったが、どこかで道連れになったのだろう。二人が立ち去るまで待って、アレキサンドリアの近衛隊長に報告しに行こう。

 

マキシマはうつぶせになり、頬杖をついた。「私がどんな風に想像しているかわかる?」

グラウクスは首を振った。

「父親としての彼よ。」

グラウクスは首を傾げ、優しい微笑みを浮かべてうなずいた。「父親として、か…おいで、今日はまだまだ見る所がある。」

 

アレキサンダー大王の墓はソマ大通りとカノピック大通りの交差する所にあった。ここは聖なる場所だった。観光客たちは厳かに、ランプの揺れる暗い洞穴へと降りて行った。中央に、黄金の鎧を着け、厚いクリスタルのドームに守られたアレキサンダー大王のミイラがあった。

マキシマは蒼ざめ、目を丸くしてミイラを見つめた。グラウクスはやさしく手を握った。彼は妹が震えているのを感じ、墓から出た。

ソマ大通りの美しい、広い柱廊を歩きながら、マキシマは黙り込んでいた。

「何を考えているの?」グラウクスが静かな声で訊いた。

「マキシマスのこと」彼女は立ち止まって兄を見つめた。「父さんの遺体、どうなったかわからないのよね?」

グラウクスは首を振った。「わからない。でも、あんな風には…」

「どうしてわかるの?父さんの亡骸に何があったのか、誰も知らないのよ。酷いことかもしれない…」

「ああ、わからない。まだまだ、つきとめなきゃならない事が沢山ある。これもその一つだ。」

「アレキサンダー大王の死体をあんな風に見世物にするなんて、酷いと思うわ。残酷よ。大王は死んだ時、若くてハンサムだったのに…あんな風になるなんて…」

グラウクスは妹を慰めようとして言った。「この近くに図書館がある。行ってみよう。」

彼女はたちまち元気になった。「あれは元々の図書館じゃないのよ。最初のは燃えちゃったの。貴重な文献と共にね。今の図書館の本は、マーク・アントニーから恋人のクレオパトラへの贈り物だったのよ。彼はその前に、ギリシアのペルガムン図書館を襲撃して…クレオパトラは図書館を失った事をとても悲しんでいて…」

グラウクスは笑いを噛み殺した。アポリナリウスに習った歴史の知識を披露しながら、妹の機嫌は直ってきたようだ。

 

その夜、二人は静かに食事をとり、それぞれの部屋に戻って床に就いた。グラウクスは翌朝できるだけ早くペトラへ発ちたいと思っていた。

 

第46章〜50章