Glaucus' Story:第46章〜50章

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第46章 ナイル河

翌朝早く、グラウクスとマキシマはマレオティス湖の波止場に立っていた。ナイルの一番西の支流が20マイルほど先にあり、二人の周りはナイルの幸を運び込む漁師たちで賑っていた。ナツメヤシ、パピルス、貴重な木材、スパイス、デルタの葡萄園のワイン−波止場は溢れかえっていた。

運河を行く舟は小さく、客が寝られるぎりぎりの大きさだった。この舟で、メンフィスまでの二日間の旅だ。岸辺のパピルスとイグサの茂みに日が登る頃、二人の舟は順風に乗り、湖を東へ横切った。早朝の風が水面を走り、帆を膨らませた。二人はラー(太陽神)に向かって真っ直ぐ進んだ。湖の反対側、ナイルのカノーポス支流に着く頃には夕方になっていた。葦と巨大な鉢形の葉を持つ豆の茂る岸辺で、船頭は錨を落とした。舟の穏やかな揺れと茂みのコウロギの声に誘われて、二人は穏やかに眠りに落ちた。

その翌朝早く、沼地からまだ霧の立ち上る頃、二人は再び船出し、まもなく狭いカノーポス支流に入った。ナツメヤシと葡萄園が点在する河岸は湿りを帯び、緑豊かだった。エジプトとは思えない。河面には野の緑が映っていた。

泥煉瓦の家々や、畑を潤す何百本もの灌漑水路を眺めながら、マキシマは手を伸ばして水面に指をつけた。この地方のことは、アポリナリウスが詳しく教えてくれた。でも、聞くのとこの目で見るのとは大違いだ。アポリナリウスとも、オスティアとも、こんなに遠く離れてしまった…母さんとも。マキシマはすぐ前に座っている兄の広い背中を見た。彼も岸辺を眺めている。彼女は心が安らぐのを感じた。ここに来て良かったのだ。迷いはなかった。グラウクスについて行くのは正しい選択なのだ。彼は理想の兄だった。夢に見ていた父そのものだ。

グラウクスは視線を感じて振り返り、笑顔を見せた。「すごいな。」

「ええ、本当にすごいわ。」

「一緒に見られて嬉しいよ。」

その言葉だけで、涙が溢れそうになってしまって、彼女は視線を落とした。「ありがとう、兄さん。」

「指に気をつけて」

「どうして?」

「鰐がいる。」

彼女は飛び上がった。小さな舟が大きく揺らいだ。「どこ?どこ?」彼女は胸のあたりでストーラを握りしめた。

グラウクスは笑って、岸の近くを指差した。「葦の中だよ。あの長い、茶色いやつ。」

「河馬の方がタチが悪いんですよ」船頭が言った。「目だけ出して潜ってたかと思うと、いきなり起き上がって上がって舟をひっくり返すんです。お嬢さん、座って下さい。余計、安定が悪くなる。」

マキシマは腰を下ろし、舟の両舷をしっかり掴んだ。それでも危ないような気がして、手を引っ込めて膝の上で組んだ。彼女は兄の方へ身体を寄せて囁いた。「泳げる?」

「ああ。君は?」

「あんまりうまくないの。河馬よ!気をつけて!」

グラウクスは笑い声を上げ、愛情をこめて彼女の膝を叩いた。この素敵な女性のいない人生なんて、今ではもう考えられない。

その夜、二人の舟は岸辺近くで錨を落とした。しかし、マキシマの目には河馬や鰐の姿が浮かび、よく眠れなかった。兄の方はまるで気にならないらしく、静かな寝息を立てていた。

 

彼らは夜明けと共に起き、帆を張った。数時間後、舟は長いカーブを曲がった。7つの支流が合流し、ナイルは突然広くなった。

マキシマは途惑った。「グラウクス、行き過ぎじゃない?東へ行くにはペルーシス支流に入るんでしょ?」

「ああ、わかってるよ。」

「そうなの?でも、それなら戻らないと。」

「ああ、でも、船頭さんが絶対に見る価値があるって。」グラウクスはにっこりした。「右岸を見ていて。」

デルタ地帯の見渡す限りの緑がみるみる狭まり、河の両岸を縁取るリボンになった。そのすぐ向こうには、誰かが線を引いたように、砂漠が始まっていた…平坦な、黄金の砂漠。突然、地平線に三つの尖った物体が現れ、朝の太陽に輝いた。マキシマは息を呑み、河馬のことも忘れて立ち上がった。ピラミッドはぐんぐん大きくなり、高くなり、最後には、その頂上は果てしない紺碧の空に消えているように見えた。舟を繋留し、グラウクスがピラミッドまでの約3マイルの道を行くためのロバを借りている間も、マキシマは目を離す事ができなかった。彼女は興奮を隠しきれず、動きの鈍いロバの尻を叩いた。ロバは頑としてスピードを上げようとしなかった。

焼けつくような陽射の下、彼らは黄金の砂の上をゆっくりと進んだ。まったく同じ色の、3つの尖った山を目指して。マキシマは日除けにストーラを頭から被っていた。グラウクスは額を拭った。日を遮る物はどこにもない。二人とも気づいていた−これから始まる旅に比べれば、これはまだほんの序の口なのだ。

ようやくピラミッドのふもとに着いて見上げると、まるで山のように大きく見えた。固く、恐ろしく、計り知れない山。磨いた石が太陽を反射して、琥珀の鏡のようにぎらぎらと輝いていた。石には隙間がなく、装飾もなかった。平たい、固い石の塊。

突然、マキシマは眩暈を感じた。彼女は目に手を翳し、涼しい場所を探した。しかし、太陽は真上にあり、巨大遺跡は影を落としてはくれなかった。気を失いそうになった彼女は兄を捜した。見えるのは、陽射しの中でゆらゆらと揺れるぼやけた影だけだった。「グラウクス…」膝ががくがくした。

倒れる直前にグラウクスは彼女を抱き止め、日傘をさしかけた。近くの店にこれを買いに行っていたのだ。彼はマキシマの口に水差しを傾けた。彼女は生温い水をごくごくと飲みこんだ。飲み終わると、彼は残りの水を彼女の顔と首にかけた。「来ない方が良かったかな」彼はつぶやいた。「ここは暑すぎる。」彼は妹の顔を手であおいだ。顔に血の気が戻ってきた。しばらく後、彼はマキシマをロバに乗せ、スフィンクスの顎の下のわずかな日陰に向かった。二人はライオンの前足の間、顎の真下の日陰に毛布を広げた。マキシマは目を閉じたまま横たわっていた。グラウクスは心配そうに見つめた。「ここは死の場所だな」彼はつぶやいた。「ここで生きられるものなんかいない。」

「そうよ、ここは墓だもの」マキシマはぱっと目を開き、ピラミッドの歴史について詳細に語り始めた。

グラウクスは微笑んだ。マキシマは大丈夫だ。日が沈み始め、砂の上に長い三角の影が落ちる頃、二人は舟へと戻った。舟は少し戻ってナイル支流へ入った。そこから二人は東へ、恐ろしいエジプトの砂漠へと向かうのだ。

 

第47章 砂漠

グラウクスとマキシマはベドウィンのように布で身体をすっかり覆い、ペトラへの長く困難な旅に備えて水と食料をたっぷり積んだラクダに乗りこんだ。水は、砂漠に点在する貯水池で補充することになるだろう。マキシマはひょろ長い脚をしたむさ苦しい動物を見て最初はしり込みしていたが、やがて果敢によじ登り、ラクダがよろよろと不恰好に立ち上がると、息を呑んで鞍を掴んだ。彼女は早速ラクダに「ブルータス」というあだ名をつけ、その背中で楽しげに揺れていた。彼女はグラウクスよりずっと器用に乗りこなしていた。彼はこの臭くて厄介で乗り心地の悪い動物を呪い、アルターがいたらどんなにいいか、と繰り返した。

案内人はナバテア人で、口数の少ない男だった。ナバテア人はペトラを首都とし、その周囲の砂漠を自分たちの領土だと主張しているアラブ系の民族だ。ナバテア人はローマと東方の貿易によって富と力を蓄えたが、106年にトラヤヌス帝のローマによって征服され、衰退した。彼らの領土は狭められ、貿易の中心は敵対する北の都市、パルミラに移った。

古い隊商の道を辿って南東へ四週間。岩と砂漠の荒涼の地を抜け、給水地から給水地へ、ペトラの南北の城壁をなしている赤砂岩の山脈、その谷間まで。

最初の数日は興奮していた二人だが、単調な風景にだんだん飽き始めた。砂丘の頂上を超えると、また同じ風景が、見渡す限りに広がっている。1週間後には、彼らはすっかり退屈しきっていた。通商の歴史や、ローマへの素敵な輸入品−絹やスパイス−について嬉しそうに語っていたマキシマもやがて、景色やたまに現れる野生動物について短い解説をするだけになった。

グラウクスは案内人との会話を何度か試みたが、聞き出せたのはハムディという名前だけだった。それ以上親睦を深める気はないらしく、グラウクスの質問にも肩をすくめただけだった。グラウクスは諦めてマキシマの後ろに下った。風の音、砂を踏む大きな蹄のしゅぽんしゅぽんという音、波のように漂う砂。2週目の終わりにはマキシマも黙り込んでいた。彼女は頭から足まで麻にくるまり、目や鼻や耳や口に入りこむ赤い砂を防ごうとしていた。空しい苦闘だった。息をするだけで砂が入りこんでくる。食べ物もじゃりじゃりしていた。唾を吐いても、呑みこんでも、砂は次から次へと入りこみ、息を詰まらせた。砂粒は布の織り目から入りこむほど細かく、汗ばんだ肌に貼りつき、引っかき傷を作った。乾いた熱い風に2週間さらされ、肌は乾ききり、唇はひび割れた。グラウクスは妹に定期的に水を飲ませるのを忘れないようにしていた。危険な脱水状態を避けるためだ。布から唇だけ突き出して水を飲み、黙ったままラクダのこぶにぐったりと倒れこむマキシマは、悲しいほど滑稽だった。気分はどうかなどと聞く必要はなかった。顔を見ればわかる。

砂と陽射しを避けるためにずっと目を細めているために、グラウクスは頭痛がしていた。顔の露出している部分は、無数の小さな蜂のような砂に痛めつけられて傷だらけになっていた。後ろを振り向いてばかりいるため、首も痛んでいた。手は服の下で常に剣を握っていた。道を縁取る岩影から、盗賊が飛び出して来るかもしれない。

一行は岩場に木の枠に黒い山羊革のテントを張った。満天の星。夜は暑さから解放されたが…寒さと闘わなければならなかった。陽が落ちると気温も落ち、旅人たちは小さなテントで毛布を重ねて丸くなった。昼の汗が身体を冷やしていた。長く寒い夜、考え事をする時間はたっぷりあった。聞こえるのは風が革を吹きぬける音だけだった。寂しい夜だった。グラウクスは妹のお喋りが聞きたかった。彼女は隣のテントにいたが、まるで別の世界にいるようだった。船で芽生え、アレキサンドリアで育んだ親密な関係が懐かしい。

朝は早く起き、半分砂に埋まったテントを掘り出し、早朝の寒いうちに出来るだけ進んだ。太陽が砂を溶鉱炉のように熱くする前に。3週間の旅ですれ違ったのはラクダの隊商が4組と牛の引く荷馬車が一台だけだった。彼らと交わしたわずかな言葉も、グラウクスには理解できなかった。

4週間目の終り頃、一行は貯水池で水を補給していた。グラウクスはマキシマの事が心配になっていた。彼女が布から顔をのぞかせた時、そのどんよりした目と紫色のくまを見て、グラウクスは驚いた。疲れ切っている。「大丈夫か?」他に言葉が浮かばずに、彼は言った。彼女はぎょっとするほど虚ろな顔で兄を見上げ、黙ったまま水を受け取った。その表情にぞっとしたグラウクスは妹の腕をを掴み、彼女がすっかり痩せてしまっているのにショックを受けた。

 

彼は案内人のところへつかつかと歩いて行って、「ペトラまであとどのぐらいだ?」と訊いた。男は肩をすくめ、水を飲みながら背を向けた。グラウクスは彼の腕を掴んだ。貴重な水が腕にこぼれた。「ちゃんと答えろ。あんたを信頼していたが、僕たちは疲れたし、腹も減ったし、身体も汚れきってる。今すぐ知りたい。妹の体が心配なんだ。あと何日だ?」

茶色い、皺だらけの顔をした小柄な男は砂に唾を吐き、「丘の向こうだ。」と言って背を向けた。どの丘だろう?仕方なく、彼はマキシマを助けてラクダに乗せ、小さい声でののしりながら自分のラクダに乗った。この旅のことを考えると、どんどん不安になる。マルシアヌスは本当にペトラにいるのか?ちゃんと確かめてから来ればよかった。マキシマはアレキサンドリアに置いてくればよかった。いや、母親の船でオスティアに帰せばよかった。もっと愛想のいい案内人を雇えばよかった。それに…

案内人は手を上げて二人を止め、「ペトラ」と言って指差した。

グラウクスは目を凝らした。見えるのは岩山とピンク色の崖、紺碧の空の下で赤金色に輝く砂だけだった。「どこだ?」

案内人は何かぶつぶつとつぶやいて、「そこだ。」と言い、遠い赤い尾根を指差した。

グラウクスはもう一度丘を見回し、文明の印を探した。何もない。誰もいない。建物もない。

案内人の言葉に励まされ、マキシマは頭を上げて顔から麻布を外した。視線を地平線にさまよわせた後、彼女は頭をがっくりと落とし、布を被り直した。

「マキシマ、きっともうすぐだよ。」もっともらしく聞こえているといいのだが。返事はなかった。

遠い尾根にじっと目を据えたまま、彼は砂の上を進んだ。岩壁の前に街の屋根や柱が見えて来るのを今か今かと待ちわびながら。しかし、近づくにつれて、砂岩の山の前に都市などないことが明らかになった。彼は剣を握りしめ、案内人の背中を見つめた。一体どういう事だ?罠か?ハムディは近衛隊の手先か?皇帝の手先なのだろうか?

案内人は赤砂岩の影で止まり、ラクダを降りた。グラウクスは驚いた。「ここからは歩きだ。」彼は言った。「ワディを通るから、ラクダは引いていかなきゃならん。」グラウクスはぽかんとしていた。「ワディってのは、底が岩になってる川のことだ…つまり、雨季は川だが、今は干上がってる。シクへの近道だ。」

「シクって何?」マキシマが数日ぶりに声を出した。グラウクスは安堵のため息をついた。声は枯れているが、口調はしっかりしている。

「ペトラへの通路だ。東から入る。西は駄目だ。」

グラウクスは荷物の紐が緩んでいないか調べるふりをして、妹に囁いた。「本当だと思う?」

「嘘をつくわけでもあるの?」

「わからない」グラウクスは水筒を渡しながら言った。「何だか嫌な予感がするんだ。」彼は水を飲む妹のほっそりした首を見つめた。

「あつい」彼女はそう言って手の甲で口を拭った。「冷たい水が飲みたいわ。ヴィラでは当たり前だと思ってたことが、すごい贅沢だったって事がわかったわ。こんな環境で生きている人もいるなんて、全然知らなかったわ。」彼女は眉をしかめ、兄の言った事を考えた。「悪い予感って、どうして?ペトラにはまだ着かないってだけでしょう?」

「そうだな…たぶん、疲れているだけだろう。」彼はがさがさの指先で彼女の頬に優しく触れた。「心配させてごめん。」彼は目に手を翳し、くねくねと曲がって岩の背後に消えている急な坂道を眺めた。「ラクダに乗ったら?道がでこぼこしているし、尖った岩が多い。足首をくじいてしまうよ。ブルータスを引いてあげるよ。僕のラクダはブルータスの鞍に繋ごう。

マキシマはためらい、道を見て考え込んだ。彼女はうなずき、ため息をついて、この4週間座り続けている鞍を見つめた。「もう体じゅう痛いし、あちこち擦りむいたし、汚いし、喉は渇いたし…これがあと数日続いても、大して変わりはないわね。」

彼女が乗る間、グラウクスがブルータスの鞍を押さえていたが、その必要はなかった。ラクダのまぶたは垂れ、大きな茶色の目が長い、濃い睫毛に隠れていた。若いスペイン人は、頑固な動物を歩かせるのに苦労した。彼は轡を引き、妹を励ました。「山に入ればもっと涼しくなるし、砂も少ないよ。」ラクダは抵抗して鼻を鳴らた。ハムディがゆっくり歩いて来て、黙ったまま手綱を取り、ラクダを立たせた。彼はグラウクスを馬鹿にしたようにちらりと見てから、自分のラクダを引いて狭い道を登っていった。グラウクスはマキシマのラクダを引いて後に続いた。手は父の剣の束を握り、目は道の上に聳える崖を見回していた。

期待に反し、大して涼しくはならなかった。1時間登り続けた後、グラウクスは汗まみれになっていた。狭い道の両側にはぎざぎざの絶壁が聳え、空気は澱み、旅人を焼き尽くす竈のようだった。彼は足を止め、でこぼこの砂岩によりかかって袖で顔を拭い、片足づつサンダルを脱いで中に入りこんだ尖った小石を出した。荷物からブーツを出したほうが良いだろうか。彼は足の裏をさすった。彼の皮膚はこんなことには慣れていなかった。

ハムディは止まらずにどんどん歩いて行った。

「この野郎!」グラウクスの怒鳴り声が岩に反響した。「待て!雇い主を忘れたか!」返事はなかった。グラウクスは急いでサンダルの紐を結び、駆け出した。ハムディは角を曲がったところで待っていた。

案内人は手を上げてグラウクスを黙らせた。「日暮れまでには着く。今夜はペトラで寝られる。」

疲れと怒りが入り混じり、グラウクスは肩で息をしてながら彼を睨みつけた。彼はこの小男が嫌いだった。まったく信用していなかった。しかし、ペトラがどこにあるのかまるでわからない。とりあえず、このナバテア人案内人について行くしかない。彼は水を一口飲み、ハムディに先に進むよう促した。しかし、ブルータスが動こうとしなかったために、引き綱が急にぴんと張り、グラウクスは砂利に足を取られて膝をつき、そのまま少し滑り落ちた。砂岩の上で布が破れて皮膚が擦りむけ、彼は痛みに声を上げた。彼はますます不機嫌になり、立ちあがって綱を強く引いたが、ラクダは頑として動こうとしなかった。突然、ラクダの頭上の尾根で何がが動いた。彼は剣を抜き、上から飛び掛ってくる敵に対して身構えたが、何も起こらなかった。彼は崖の上をもっとよく見ようと頭からフードを外し、身体中の筋肉を緊張させて、ゆっくりと回転した。

「グラウクス、何なの?どうしたの?」マキシマが訊いた。

「崖に誰かいる」彼は囁いた。

マキシマはラクダの上で崖を見上げた。「見えないわ。本当にいたの?鳥か何かじゃないの?」

鳥なんかじゃない。しかし、彼はうなずいて渋々剣を鞘に戻した。ラクダは雰囲気を感じ取って歩き始めた。この道は、待ち伏せにはぴったりの場所だ。両側を高い岩壁でふさがれ、崖の上から攻撃されたらひとたまりもない。

マキシマは揺れるラクダにしがみついていた。グラウクスは恐怖からくるエネルギーで岩だらけの道をどんどん登って行った。彼はハムディに追いつき、荒っぽく肩を掴んだ。「妹に何かあったら、お前の身体を剣が通り抜けることになるぞ。」

ハムディは憤然とした。「あんたがペトラへ連れて行けと言ったから、そうしてるだけじゃねえか」彼は崖の上に見えてきた巨大な砂岩の壁を指差した。「あそこがシクだ。」

「早く連れてゆけ。」彼は崖の上を見つめたまま言った。動きはなく、強烈な陽光だけが彼の顔に突き刺さった。

さらに数時間後、彼らは巨大な赤砂岩の壁の前に立っていた。壁の表面は粗く、ピンクと紫の縞が入っていた。「どこだ?谷はどこだ?ペトラは?」グラウクスの声には絶望がにじんでいた。

「あそこだ。」ハムディは、今度は聳える壁の亀裂を指差した。曲がりくねった黒い亀裂にはほとんど日も射していない。

「あんなところへのこのこ入れって言うのか?待ち伏せされているかもしれない。街なんかないじゃないか!どういうつもりだ?身包みはいで放り出すつもりか?」

マキシマは目を丸くして兄を見つめた。紫のくまが余計に目立った。

ハムディは蔑むように言った。「おれが盗賊なら、何週間も前に殺してる。こんなに遠くまで連れて来て何の得があるってんだ?これがシクだ。ペトラへ続いてる。」

「グラウクス!」マキシマが叫んだ。「あそこ!上!本当だわ!崖の上に誰かいる!」グラウクスはマキシマをさっと抱き上げ、ラクダの下に押しこんだ。彼女は砂利に伏せた。彼は稲妻のような速さで剣を抜き、構えた。彼も気づいていた。二人。亀裂の両側にいた。

ハムディは呆れてため息をついた。「あいつらは衛兵だよ。」

「思った通りだ」グラウクスは唸った。「近衛隊だ。」

案内人はびっくりして彼を見つめ、それから大声で笑い出した。「近衛隊だって?こんなところに近衛隊がいるもんか。」彼は涙を拭いた。「ペトラの衛兵だよ。ナバテア人の。」

グラウクスは警戒を解かなかった。彼は目を細めて崖の上を見つめた。岩の割れ目から物音がして、彼はぱっと振り返り、身体を低くして構え、剣の切っ先をトンネルの出口に向けた。何ともつかない物音はだんだん大きくなり、グラウクスの筋肉は緊張した。しかし、暗闇から現れたのは黒衣の近衛隊ではなく、重い荷物と茶色い肌の少年を乗せた年寄りのロバだった。裸の子供は、剣も、恐い顔で剣を振り上げている男も気にしない様子で、にっこりと笑って明るい声で挨拶した。ハムディもにこやかに挨拶を返した。

グラウクスは自分が馬鹿に思えて、ゆっくり身体を起こして剣を鞘に戻した。後に続いているもう一匹のロバは、もう少し年かさの少年を乗せていた。グラウクスは妹を助け起こした。

ハムディはにやにや笑いながら手招きした。グラウクスは片手で妹の手を、片手でラクダの手綱を握った。根拠もなく怯えて騒いだことに屈辱を感じていた。狭い岩間に入った瞬間、夕方の太陽は遮られ、あたりは暗闇になった。目が慣れると、この数週間で最初の文明の印が見えた。「マキシマ、水道がある。」彼は壁沿いの高いところを走る太いパイプを指差した。

「お風呂。ああ、風呂に入れたら死んでもいいわ。」マキシマはうめいた。遥か上の方に、小さな光が見えた。

「帝国中のどんな建物より高いんだ。」ハムディが誇らしげに言った。「五大寺院より高いんだぜ。」

マキシマは身震いした。両側の壁にが迫ってきて、虫のように潰されてしまいそうだ。そう思うのも無理はなかった。実際、亀裂はだんだん狭くなっていた。並んだ2頭のラクダがやっと通れるぐらいに。彼女は目を閉じ、オスティアのヴィラの広々とした草原を思い浮かべた。呼吸が楽になった。涼しくなったのも助かった。決して日の当たることのない岩から立ち上る冷気が心地よかった。

グラウクスは急停止し、「すごい」と言って息を呑んだ。「信じられない。見てごらん。」

マキシマは目を開け、息を呑んだ。岩の裂け目から、背後の崖に直接刻まれた、赤金色の砂岩で出来た素晴らしい寺院が見えた。それは黄昏の光の中で火のように輝いていた。

「ペトラだ」ハムディが誇らしげに言った。「ちゃんと謝って金を払うんなら、許してやる。」

 

第48章 ペトラ

「グラウクス、」小さい、暗い部屋の入口でマキシマが囁いた。「起きてる?」

グラウクスは目を開けたが、何も見えなかった。「ああ、起きてる。君も眠れないの?」

「こんなに…この宿みたいに暗いところって初めてなの。ヴィラでは…目を閉じていても…こんなに暗くはなかったわ。」

「ここは洞窟の奥なんだよ。この宿屋の正面は砂岩煉瓦だけど、ここはその奥の奥なんだ。自然の光が射したことはないんじゃないかな。松明は?松明を点けようか?」

「いいえ…大丈夫よ。声が聞きたかっただけなの。」

「じゃあ、こっちへ来て座れよ。声のする方へおいで。」グラウクスはベッドから足を下ろしながら言った。

マキシマは手探りで彼の隣に来た。「これじゃ、朝が来てもわからないわ。」

「宿の人が松明を持って来てくれるよ。頭に気をつけて。」グラウクスは注意した。彼のベッドはでこぼこした石の壁につけてあった。壁からは気持ちの良い冷気が立ち上り、湿気はなかった。色鮮やかな織物の絨毯が石の床を暖めていた。ベッドの他には、木のテーブルと椅子が二脚あるだけだった。簡素で清潔な部屋だった。

「コウモリもいるかしら?」マキシマは身震いした。

グラウクスは彼女の手を握り、暗闇に微笑んだ。「いないよ。こんなに人のいるところにはいない。コウモリが住処にするような人のいない洞窟が、まだまだ沢山あると思うよ。」彼は妹の方に顔を向けた。「気分は良くなった?」

「うーん、まだ口の中はじゃりじゃりするし、肌はかさかさだけど…身体を洗えてさっぱりしたわ。髪だけでも、バケツ3杯ぐらい砂が出たわ。」少し黙っていた後、彼女は言った。「グラウクス、私、こんな変わったところ初めてよ。ペトラについてはアポリナリウスが教えてくれたけど、こんなだとは想像もしてなかった。すごいわね。」

「ああ…それに安全だ。ローマ軍が強いと言っても、こんなところでよくナバテア人に勝てたもんだ。マルシアヌスがここに来たのもよくわかる…もし、本当にいるんなら。」

「いつわかるのかしら?」

「ハムディが噂を広めてくれるそうだ。もしマルシアヌスがここにいて…僕たちに会いたいと思うなら…連絡がとれるように。」

「彼に会えないまま、また砂漠を渡るなんて、考えたくないわ。」

「同感だ。でもまあ、悲観的になるのはやめよう。とりあえず、ハムディが通訳兼案内人として一緒にいてくれるそうだ。」

「一体どうやって承知させたの?」

「平謝りに謝ったら、納得したみたいだ。それに、追加料金もたっぷり払った。」

「お金がものを言うのね。」

「ああ。世界の共通語だ。」

長い沈黙が落ちた。

「グラウクス?」マキシマが囁いた。

「んー?」若者は肩を壁にもたせかけ、うとうとしかけていた。

「連れて来てくれてありがとう。」

「どういたしまして。僕の方こそありがとう。」

 

翌朝、グラウクスとマキシマはハムディの案内で街を見学した。案内人はローマ人に同胞の偉業を見せてられて嬉しそうだった。ペトラの街はシャラ山脈の尾根に沿ってくねくねと続いていた。赤砂岩の尾根には薔薇色や紫や薄黄色の縞が入っていた。岩そのものも美しかったが、ナバテア人が砂岩に刻んだものは息を呑むほど素晴らしかった。柔らかい岩に直接彫り込まれた巨大なコリント式円柱の建物が、谷に沿ってずらりと並んでいた。内部は洞窟からなり、外がどんなに暑くても快適な温度を保っていた。戦略的にすぐれた立地と侵略の困難さによって、ペトラは最盛期には三万の人口を抱え、帝国の中心として栄えていた。今はローマの支配下にあり、規模はずっと小さくなった。しかし、美しさは変わらない。街路にはあらゆる肌の色の人々が溢れていた。人々は通商に携わり、平和に暮らしていた。あらゆる肌の色−あらゆる宗教。弾圧された宗教の信者たちが、安全と平和を求めてこの辺境に避難して来ていた。キリスト教徒がここで生活し、信仰を続けている証拠があちこちにあった。山の岩肌に、何百という墓が掘られている。柔らかい砂岩の壁や戸口に、キリスト教徒の象徴である小さな魚が彫られていた。キリスト教徒たちは、ナバテア人と彼らの主神、デュシャラと平和に街を分け合っていた.キリスト教の愛の神とナバテア人の血の神が共存していた。

マキシマとグラウクスは、ハムディの案内でカーブした大通りの砂利の上を歩いた。崖の側面を登り、壁で囲まれた中庭に続いている緑の庭園をハムディが指さし、二人は驚いた。高度な灌漑技術によって、山の泉から真水を運んでいるのだ。あちこちに緑があった。ペトラのまわりの丘は、農業と放牧に使われていたのだ−とハムディが説明した。貴重な雨水を貯め込む技術にかけては、ここの人々にかなう者はいないだろう。崖にしがみつくように立つ夾竹桃や御柳が、赤い砂をかぶりながらも緑の葉を見せていた。

市場には屋台が並び、カラフルな縞模様の日除けが風にはためいていた。ローマの市場のような立派な店はなかったが、代わりにエキゾチックな雰囲気があった。マキシマははしゃいで屋台から屋台へと飛び回り、高価な乳香やミルラを試し、東方の絹に触れ、銀とトルコ石の飾りを眺めた。しかし、一番目を惹いたのは、繊細な花模様のナバテア陶器だった。重い、割れやすい代物だ。しかし、ペトラを離れる時には陶器を山ほど持って帰ることになるだろう、とグラウクスは思った。

市場を楽しむマキシマを通訳を勤めるハムディが見守っている間に、グラウクスは大通りの3メートルほど下を走っている水路の端まで歩いて行った。岩に刻まれたベンチでペトラの老人たちが顔を寄せ合い、街の噂話を交換していた。砂岩に刻まれた階段が下へ続き、同じく岩を彫った美しい橋が、溝を越えて旧宮殿や大寺院のある街の反対側へと導いていた。寺院や宮殿には高い、広いテラスがあり、岩壁に刻み込まれた見事な階段が続いていた。階段は至る所にあった。目も眩むような高さまで壁を登り、岩の向こうへと消えていた。あの上から見たら、街はどんな景色なんだろう。

寺院の円柱やポルティコ、破風や凝った漆喰細工を見れば、ペトラがギリシアの影響を受けているのは明らかだった。しかし、この都市にはまったく独自の個性があり、ローマの支配もそれを廃することは出来なかった。ナバテア人は今でも彼らのデュシャラ神とアル・ウザ女神を信仰しており、その寺院はローマの政府にも撤収されていなかった。しかし、魚の絵の符丁を除いては、キリスト教徒が住んでいるという徴は何もなかった−そもそも、どういう徴を探せばいいのかもわからない。ナバテア人は痩せ型で茶色の肌をしているが、キリスト教徒はどんな姿をしているんだろう?どうやって見分ければいいんだ?

グラウクスは市場の方に視線を戻した。マキシマは美しい刺繍をほどこした、彼女の目と同じ青緑色の絹を身体に巻いて微笑んでいた。マキシマスがこれほど美しい娘を知らずに死んだのは、何て残念なことだろう。きっと溺愛しただろう。マキシマは屋台の老婆と値切り交渉をして、渋々納得したというふりでわずかな代金を払った。彼は大きな笑みを浮かべて、妹に会えたことを神々に感謝した。マキシマは絹の包みを小脇にかかえ、水道の壁にいる兄を見つけた。兄の方へ歩いてくる彼女は、喜びに輝いていた。

マキシマは布を広げた。繊細な絹は熱い風にふわりと靡き、彼女の肩に落ちた。「ねえ、見て!」彼女は笑いながら言った。「見て!私、買い物したのは生まれて初めてなのよ。何て楽しいの!」彼女は小さな女の子のようにくるりと回り、兄の腕を取った。「でも、この暑さじゃ買い物も疲れるわ。ちょっと休まない?」

グラウクスはハムディの顔を見た。ナバテア人は何も言わずに、二人を市場の片隅に連れていった。崖の陰に花の香りの漂う席があり、一行はミントティーと一緒に胡麻のケーキを食べた。

マキシマはまだ興奮していた。「グラウクス…私、こんな街、想像も出来なかったわ。夢の中でも。ある意味、アレキサンドリアよろ凄いわね。ここの人たちは…落ちついていて、幸せそうに見えるわ。せかせかしている人はいないし、ふさぎこんでいる人もいない。ローマとは全然違うのね。オスティアとも。」

「ペトラにとっては良い事なんだろうな」グラウクスが言った。「ローマはこの都市に関心がなくなったんだ。もう経済的な利点がないから、ほとんど忘れているんだろう。」彼はハムディの方を見て言った。「ここの総督はどこにいるんだい?」

ハムディは大通りの端を指差した。大きな扉が、広場と立派な寺院を囲んでいる。「あそこだ。昔、ナバテアの政府があった所だ。あまり見かけた事はない。連中は地元民とはつき合わないんだ。面倒が起きた事はないから、出てくる理由もないしな。」

扉の向こうの広場には、黒衣の近衛兵がいるのだろうか?いや、そんなことはないだろう。ローマの危険は、遥か彼方にある。

マキシマは唇を触ってみて、潤いが戻って柔らかくなっているのを感じて安心した。ペトラの薬局で買った羊毛脂の軟膏のお陰だ。その朝、彼女は香油をたっぷり入れた湯舟で入浴を楽しんだ。彼女はのびをして、あくびを噛み殺そうとしながら兄をちらりと見た。彼はくつろいだ様子で、しかし警戒を緩めずに、近くを行き来する地元民たちの顔を見ながら座っていた。彼女は腕を伸ばして彼の手に触れた。「グラウクス、焦らないで。そのうちにきっと、彼の方から接触して来るわ。」

緑の瞳が一瞬だけ彼女を見たが、すぐ人ごみの方へ視線を戻した。「わかってる。でも、ローマで君のお母さんを見つけるのには何ヵ月もかかった。そんなには待てない…」

テーブルに影が落ち、男が会釈をしてグラウクスに礼儀正しく声をかけた。「マルシアヌスを捜していらっしゃる方ですか?」

グラウクスはぱっと立ちあがった。心臓が飛び上がった。「ええ、ええ。彼はここに?」

男はにっこりしたが、用心深く言った。「身分証明書をお持ちですよね?」

「ええ。」

「拝見してよろしいですか?」

グラウクスは警戒した。身分証明書を失うわけにはいかない。彼は男をじろじろと見た。30代、砂色の髪、灰色の目。痩せていて、飾りのない白のトーガを着て、サンダルを履いている。武器は持っていない。危険には見えないが、グラウクスは見かけを信用してはいけない事を学んでいた。彼は男に目を据えたまま、荷物を手探りして身分証明書を引っ張り出した。彼はゆっくりと起き上がり、書類を注意深く開いて差し出した。

男は微笑んで言った。「そのままでよろしいですよ。読ませていただくだけでいいです。」彼は固い表情で書類を読み始め、やがて驚きに眉を上げた。書かれている名前を知っている様子だ。男は一歩下がってグラウクスを頭から足の先までじろじろと眺め回した。誰だか知らないが、彼を使いによこした人間のために、グラウクスの姿を憶えこもうとしているようだ。彼は軽く会釈して言った。「後程またご連絡します…宝物庫の隣の宿屋ですよね?」

グラウクスはうなずいた。

男は頭を下げ、人ごみに消えた。

 

第49章 山の上で

山を半分ほど登った所で、グラウクスは岩にもたれてぜいぜいと息をついた。マキシマが鋭い角を曲がって追いついて来て、兄が待っていてくれたのでほっとした。彼女は座りこんではあはあと息をした。息と息の間に、もう何度も訊いた質問を繰り返した。「グラウクス、どうしてここなのかしら?どうして彼は、こんな山の上で会おうって言ったのかしら?」

兄は同じ答えを繰り返すのが嫌で、黙って肩をすくめた。謎の相手が会合場所としてペトラの東側の山の頂上を指定してきた理由は、彼には見当もつかなかった。妹と一緒に罠に飛び込むことにならなければいいが。妹には街に残るように懇願したが、彼女は一緒に来ると言って聞かなかった。言い聞かせても時間の無駄なのはわかっていた。

彼らは早朝の風の涼しいうちに出発した。山のワディから都市の主水道に真水を送っている大きなライオンの噴水のそばに、一行は集合した。彼らはくねくねと続くワディの横の狭い急な階段を、山の頂上−ナバテアの神デュシャラの神殿まで登った。最初の一時間は、大変だったが快適だった。夾竹桃や埃だらけのチューリップが階段を彩っていた。しかし、ペトラ市民も植物を植えようとしない山の上の方まで来ると、つむじ風の吹き上げた細かい赤い砂が服や髪に入りこんだ。

身軽なハムディは速く先へ進みたくて苛々していた。足を止める度、彼は恩着せがましい態度をとった−ローマの都会っ子を哀れに思って待ってやっているだけだ。グラウクスはどう思われようとかまわなかった。彼は水筒の水をごくごくと飲んだ。マキシマも飲み、うっかりチュニックで(上品とは程遠い仕草で)口を拭ってしまった。彼女は顔をしかめて砂を吐き出した。兄に引っ張り上げられながら、彼女は押し殺したうめき声を上げた。それから半時間、二人は足を引き摺り、肩で息をしながら黙って歩き続けた。高さが不揃いな段を登るのは注意が必要だった。この急階段を転げ落ちでもしたら、尖った岩壁に叩きつけられるか、崖から落ちてしまうだろう。兄と妹はひたすら足元に神経を集中した。

脚が動かなくなりそうになり、マキシマは頂上に着く前にもう一度だけ休みたいと言った。しかし、兄はすぐにまた歩き始めた。この山の頂上−「礼拝所」で待っている謎の人物に早く会いたかった。しかし、無条件に信用しているわけではない。彼は剣の束がすぐに抜ける位置にあることを確認した。

ようやく頂上に着くと、二人は脚の痛みを忘れた。周囲の岩を掘って作った巨大なオベリスクが二つ並んでいた。聳え立つ塔の近くでは、人間はひどく小さく見えた。グラウクスは急いで通り過ぎ、塔の影を後にした時はほっとした。その向こう側に平屋根の建物があった。高い位置に空気穴が開いているが、入口は見えない。彼は立ち止まって、建物を眺めた。ここが待ち合わせ場所だろうか?しかし、ハムディは急ぎ足で通り過ぎた。グラウクスとマキシマは彼の後にぴったりとついて行った。彼らはさらに登り、ついに風の吹く高台に出た。四方に突き出した岩から、ペトラを囲む険しい山々が見下ろせた。赤い岩を緑の帯が這い登っていた。巨大な楕円形の、三千席のローマ式劇場が谷の一辺をなしていた。谷は山の岩肌に彫り込まれた墓にぐるりと囲まれていた。遠くに見える、階段状の屋根と緑のテラスのついたペトラの家々は、積み上げた煉瓦のように見えた。大寺院の正面を太陽が照らしていた。この高さからだと小さく見える。ここからだとローマの総督府の内部が見える。グラウクスは小さな、蟻のような黒い兜に日が反射したのに気づいた。近衛兵だ。

マキシマが息を呑むのが聞こえ、彼はぱっと振り向いた。気がつくと、剣の先を石の舞台に向けていた。彼はゆっくりと背を伸ばし、腕を下ろして剣を鞘に納めた。舞台の真中には黒い石の高い円柱が立っていた。

「デュシャラ」ハムディはそう言って膝をつき、頭を垂れた。

これが神秘の神、デュシャラなのだろうか?ナバテア人の神の?グラウクスは舞台をゆっくりと一周した。後ろについて来たマキシマが囁いた。「どうしてこんな物を崇拝するのかしら?」

グラウクスは肩をすくめて言った。「別におかしくないと思うよ。山に囲まれて生活しているんだから、山の頂上に神がいると考えても不思議はない。この岩はただの象徴だよ。」彼は出し抜けに立ち止まった。マキシマが背中にぶつかった。「あれ…祭壇だ。」

マキシマは肩越しに覗いた。「どうして…?」彼女は言葉を呑みこんだ。岩の側面を血の跡が流れ落ち、地面にはべとべとした赤いものが溜まっていた。「な…何を生贄に捧げるのかしら?」

「山羊だと思う。」彼はつとめて冷静な声を出した。「山羊だよ、絶対。」彼はマキシマの腕をつかんで引き寄せた。「僕の横を歩いて。ぴったりついて歩くんだ。」彼はマキシマの肘をしっかり掴んだまま辺りを見回した。誰もいないようだ。彼はゆっくり祭壇の方へ歩き、途中で立ち止まった。目の前のベンチに、白髪と白い髭を長く伸ばした老人が座っていた。その周りには、4人の若い男がいた。

聞こえるのは風の音だけだった。男たちは険しい顔をしていた。「近寄るな」と言っているようだ。

老人が口を開いた。「私に何の用だ?」顔には深い皺が刻まれていたが、声は力強かった。

「マルシアヌスさんですか…軍医の?」

「そうだとうしたら、何だ?」

「あなたに会いに来たんです。遠くから。」

「何故?」老人はグラウクスの頭のすぐ上を見て、陽射しに目を細めた。

「僕が知りたい事をご存知かもしれないと思って…」

「君の知りたい事か。それで、そういう君は一体誰だ?」

「あの方に書類をお見せしました…」グラウクスはベンチの右側の男性の方へ頭を振った。彼の顔は無表情だが、敵意は感じられなかった。「あの方に訊いて下さい。」

「君の名は?」老人が訊いた。

「マキシマス・デシマス・グラウクスです。マキシマス・デシマス・メリディアスの息子です。将軍の…」

「嘘だ!」老人は驚くほどの素早さで立ちあがった。まわりの男たちは彼を守るように囲んだ。

「いいえ。嘘ではありません。」

「証明したまえ!」

「書類はお見せしました…」グラウクスが言いかけた。

「あんな物!」彼は唾を吐き出した。「いくらでも偽造出来る。」

マキシマが腕をつつくのを感じて彼は振り返った。彼女は兄の腰の剣を指差した。彼はゆっくりと鞘を外し、両手で差し出した。「この剣に見覚えがおありですか?」

先日会った砂色の髪の男が前に出て受け取った。彼は眉を寄せて、剣を老人に手渡した。老人はベンチに沈み込んで、指と目で剣を詳細に調べた。突然、彼は身を震わせてうめいた。まわりから手が差し伸べられ、彼を支えた。彼は潤んだ目をグラウクスに向けた。「マキシマス」彼は囁いた。「マキシマスの剣だ。マキシマスが殺された夜に従者が持っていた。あの夜以来だ。」

「僕は…僕は息子なんです。」彼は妹を見た。「それから、彼女は娘です。」

「どうしてそんな…どうしてそんなことが?」マルシアヌスは繰り返した。「息子は彼と同じ時に死んだはずだ。彼の家族は殺された。」

「家族全員は殺されなかったんです。それに、彼はあなたが考えている時に死んだんじゃないんです。」

マルシアヌスは困惑したように頭を振った。まわりに立つ男たちは、ようやくほっとした様子を見せた。「私の息子たちだ」マルシアヌスが言った。彼らは一人一人進み出て手を差し出した。老人は震える脚で立ち上がり、グラウクスのところへ来て手を握り、抱きしめた。「君の話を聞きたい」彼はスペインの若者の耳に囁いた。「どうか座ってくれ。」

 

第50章 マルシアヌス

「どこでこの剣を手に入れた?」マルシアヌスは紫色の血管の浮き出た手に美しい剣を置き、しげしげと眺めた。

「偶然なんです。20歳の誕生日のすぐ後、父について知りたくてゲルマニアへ行きました。そこで、ジョニヴァスさんに…ジョニヴァスさんを憶えていらっしゃいますか?」

「ああ、憶えているとも。連隊の技師長だった。まだ生きとるとはめでたい。」

「ええ。この剣は彼が持っていたんです。父の従者のキケロは、父が死んだと思われた時から数ヶ月後にローマへ旅をして、帰って来なかったんです。その後はジョニヴァスが持っていました。いろいろ考え合わせると、父とキケロはローマで会ったんじゃないかと思います。」

「君の父上がローマに?」老人の眉の間に深い皺が現れた。「どういうことだ?」

グラウクスはチュニックの脇に手をこすりつけて落ち着こうとした。「すみません、話が飛んでしまったようです。ゲルマニアへの旅のことからお話させて下さい。」マキシマは石のベンチの端に座り、兄の肩にもたれて顔に風を受けながら、彼がマルシアヌスにマキシマスがゲルマニアで処刑者の手を逃れてから何があったのかを話すのを聞いていた。老人はグラウクスの顔を食い入るように見つめたまま、真剣に聞き入っていた。時々、信じられないと言うように頭を振ったが、何も言わなかった。息子たちは足元に座り、同じように真剣にグラウクスの話を聞いていた。しかし、黒髪を風に靡かせている若く美しい女性にも目を奪われているようだった。

グラウクスの話が終ると、マルシアヌスは霞んだ目で遠い山の頂きを眺め、考えに沈んだ。彼はようやく口を開き、誰にともなく呟いた。「彼はゲルマニアで死んだのだと思っていた…あの恐ろしい夜に。愚かにもそう思い込んでいた。それでは…やはりコモドゥスが彼を殺したのだな。しかし、私が考えていたより何ヵ月も後、まったく違う状況で。」

「コモドゥスか…彼の部下が…致命傷を与えたんです。でも、コモドゥスの命令に間違いありません。おそらく、確かな事を知っているのはクイントスだけでしょう。」

マルシアヌスは唾を吐いた。唾は長男の足のすぐそばに落ちた。息子たちは驚いて父を見た。父らしくない怒り方だ。「クイントス、あの裏切り者め。クイントスはどうなったんだ?」

「えーと、父の処刑を実行した見返りに近衛隊長の地位を与えられたのはご存知ですよね。その後は…僕も知りません。探り出そうとしているところです。」

「どうやって私を見つけたんだ、マキシマス?」マルシアヌスは心配そうに眉をひそめて言った。「ここにいるのは誰も知らないと思っていた。私の息子たちも、その家族もここなら安全だと−迫害を逃れていられると思っていた。」

「すみません…どうか、グラウクスと呼んで下さい。僕がここにいるのを知っている人はほとんどいません。信用できる人だけです。あなたやあなたの家族に危険をもたらしたりしません。とんでもない事です。」

マルシアヌスはうなずいた。「見ての通り、私は老人だ。君のお父さんよりずっと年上だ。残り少ない年月を平和に過ごしたいと思ったんだ。個人が自分の信じる神を自由に信仰出来る所で。」

「ええ、わかります。」

マルシアヌスは口を歪め、首を傾けた。「私の信仰について知っているのか…グラウクス?」

「えーと…少しだけです。あなたの信じる神は唯一無二の神で、愛と慈しみの神です。何百年か前に、ここの北の方に住んでいたイエスという人が神の子だと信じていて、その人はキリストと呼ばれていて、だからあなた方はキリスト教徒と呼ばれている…」

マキシマは天を仰いだ。呆れるほど大雑把な答えだ。

マルシアヌスは笑い声を上げた。息子たちは微笑んだ。「まあ、基本的にはそういうことだ。ローマ軍に残っていたら、君のお父さんが最期を迎えた同じアリーナで死ぬことになっていただろうな…私の息子たちも、その妻と子供たちも。」

「それで避難したんですか?」

「君のお父さんが死んだと思ったとき、軍に残る理由はなくなった。彼がいたからこそ、その時まで残っていたんだ。彼は良い人間だった。寛容な人間だった…君のお父さんは。私の信仰の事を知っても、彼は変わらなかった。私を同等の人間として扱ってくれた。彼のような人間はほとんどいなかった。」彼は深いため息をついた。「しかし、残れば良かったのかも知れないな。あの夜連隊を去った時、それがマキシマスのために一番良い事だと思っていた。しかし、もしかしたら助けられたかもしれない。」

グラウクスは少し途惑った。「父がどこに行ったのか、誰も知らなかったんです。何千人もの兵が、何日も父を捜したんですが、見つからなかった。彼は消えてしまった…みんなそう思った。あなたがいても、何か出来たとは思えません。」

「軍を去るのが父のために一番いいことだと思ったって、どういう意味ですか?」黙っているのに疲れてきたマキシマが訊いた。これは訊いておきたかった。兄が腕をつついたが、彼女は無視した。

マルシアヌスは寛大に微笑んだ。彼は若者の正直さが好きだった。「隊を去るとき、私はマキシマスの私有物を持ち出した。手紙や書類を…」

「まだお持ちですか?」グラウクスが口を挟んだ。彼は立ち上がりかけ、妹は倒れそうになった。「それを捜していたんです。僕の母との手紙を持っていますか?」

「ああ、持っている。この気候の割にはきれいに保存してある。」

グラウクスの胃は興奮のあまりきりきりと痛んだ。彼は無理に腰を下ろした。妹を見ると、目を丸くしてマルシアヌスを見つめていた。「見せて頂けますか?そのためにここまで…」

「グラウクス、手紙も書類も君のものだよ…それと、妹さんのものだ。全部持って行くといい。」

スペインの若者はぱっと立ち上がり、チュニックをなでつけた。マキシマも立ち上がった。「それじゃ、早く降りましょう。」彼は待ちきれなかった。

マルシアヌスはくすくすと笑いながら立ち上がった。息子たちも立ち、グラウクスが祭壇で待っていたハムディの所へ走って行くのを見ていた。マキシマが数歩遅れてついて行ったが、老人と息子たちがついて来ないのに気づき、途惑って立ち止まった。「グラウクス!」彼女は呼んだ。彼は祭壇の向こうから現れた。

マルシアヌスは、髪と同じく真っ白な歯を見せて笑った。「君たちの案内人は近道を通って来たようだな。」

「は?」グラウクスが言った。

マルシアヌスは手招きし、長男の後について反対側へ歩き始めた。「グラウクス、こっちだ。」マキシマはもうマルシアヌスの隣にいた。彼は彼女の手を取り、その青い瞳を愛情のこもった目で見つめた。「こっちの道の方がずっと楽なんだ。距離は長いが、なだらかな道だ。実際、こちらを通った方が早い。」

グラウクスは小走りで、足早に山を降りる老人と息子たちについて行った。彼らはこの砂漠の山の隠れ家にすっかり馴染んでいるのだ。

グラウクスは街を見下ろし、道が総督府広場の扉近くに続いているのに気づいた。彼はマルシアヌスの砂色の髪の息子、ゴルディアヌスに追いついた。「ここの総督は誰ですか?」道が広くなったところで並んで歩きながら、彼は訊いた。

「ペトロニウスという男だが、めったに姿を見ない。」ゴルディアヌスは軽蔑をこめて手を振った。「ペトラは嫌いらしい。世を拗ねて、愛人どもと壁の中に閉じ篭っている。」

「近衛隊がいますよね?」

「もちろん。連中は時々顔を出す。ナバテア人に、誰がここを支配しているのか思い出させるためだ。ほとんど何もする事がないもんだから、ナバテア人の居酒屋で飲んだり戦車競走に賭けたりしている。連中の事はあまり気にしていない。ここはローマじゃないからね。」

しかし、グラウクスは近衛兵のいる所では油断するまいと思った。近衛隊はローマ領の隅々までに行き渡っている。どんな辺境でも。その情報網は速く能率的だ。プローティアヌスが僕がまだローマにいると信じ込んでいるといいのだが。

 

第51章〜55章