Glaucus' Story:第51〜55章

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第51章 手紙

ローマ
セプティミウス・セヴェルスは大宮殿の回廊を歩き回っていた。新装の巨大なテラスから見えるサーカス・マキシマスの景色にも、召使がテーブルに置くなりそそくさと影に逃げ戻った菓子やチーズや果物にも、まるで無関心な様子だった。彼は重い足を引き摺っていた。お抱えマッサージ師プロクルスの努力も空しく、腰と膝の痛みは怒りによってますます悪化していた。「どうして逃がした?何故だ?」革椅子にだらしなく凭れている男に向かい、彼は怒鳴った。「今ごろは帝国のどこかに逃げおおせて、我々を嘲笑っているだろう!」

プローティアヌスは肩をすくめてチーズを取り、判決を待つ重罪人を見るような目で眺め、口に放り込んでゆっくりと噛みながら、次の犠牲者を選ぶように盆を見つめた。手を伸ばそうとしたとたん、指の下で盆がひっくり返り、大理石の床に激突して粉々になった。かけらが部屋の隅まで飛んで行った。近衛隊長は紫色の顔をした従兄弟を大儀そうに見上げた。肩越しにセプティミウスの最新の大理石像を見て、彼は密かに冷笑を浮かべた。薄くなりつつある灰色の髪は大理石の豊かな巻毛に置きかえられ、石の髭は長いウェーブをなし、マルクス・アウレリウスの正当な後継者であるだけでなく、血の繋がりもあるという彼の主張に相応しい姿になっていた。セプティミウスを実際に見た人々は騙せない。しかし、皇帝を直接見ることのない何百万というローマ人たちにとっては、アフリカからゲルマニアまでのあらゆる公共建造物を飾る大理石像こそが皇帝の姿なのだ。プローティアヌスは幼なじみに目を戻した。「とりあえず出来る事はすべてやった。マキシマスの餓鬼を見失った能無しどもはテュリアン刑務所で腐っている。帝国中の兵士と総督に、奴を捜すように通達を出した。いずれ見つかる。」

皇帝は激怒した。「いずれでは困る!奴は私に嘆きをもたらす…奴が契約書を見つけたら…」そこから先は言えなかった。「予言だ。予言に書いてある。星が知っている。奴が何をしているか神々はご存知だ。」

プローティアヌスは葡萄に手を伸ばし、半分に噛み切って甘い汁を吸い、酸っぱい皮を噛み潰した。「見つけるさ。」

「見つけたら、今度は奴を止めなきゃならん。おい、聞いているのか?」

近衛隊長は眉を上げた。「先に契約書を手に入れたいんじゃなかったのか?」彼は軽い調子で言った。「ただ殺したいんなら、とっくにゲルマニアで殺せたのに。生かしておくと決めたんじゃなかったのか。」

「その大事な契約書を見つけそこなったのはお前の部下だろうが!」この護衛兼相談役に対するセヴェルスの不満は、例の書類を見つけられなかった事だけではなかった。この男はますます放埓になっている。贅を尽くした食事を貪り、その後、男女両方に対する欲望を満たしている。贅沢な新しい軍服が贅肉を隠していた。彼には良心というものがない。娘の召使にするために、成人男性を百人も去勢した。しかし、セプティミウスが最も苛立ち、憂慮しているのは、ローマのあちこちに姿を現している近衛隊長の像の多さだった。いや、ローマだけでなく、帝国中にあるに違いない。彼の権力欲と増大する力の象徴だ。しかも、皇帝と同等の敬意を払うように要求している。弟のゲタが言う通りかもしれない。プローティアヌスは危険になっている。セプティミウスがプローティアヌスと同等の司令官に指名したイミリウス・サテュルニヌスは、テベレ川に浮かんでいるところを発見された。プローティアヌスによると、不幸な馬車の事故だそうだ。近衛隊長は他の人間が彼の頭越しに皇帝と接触するのを好まなかった。彼は近衛隊の副官の権力を縮小した。司令官の候補者が現れないようにするためだ。あそこで椅子に凭れている男は、唯一の司令官、終身の司令官になりたいのだ。

プローティアヌスはようやく立ち上がり、伸びをした。毎晩こうやって皇帝の長広舌を聞くのはうんざりだ。皇帝は星に行動を支配されているのだ。プローティアヌスは現実的な男だ。彼に言わせれば、死人は脅威になり得ない。あの下らん契約書はどちらにせよ永遠に見つからないだろう。契約書の写しが送られて来たのは何年も前だ。その後、書類の持ち主からは何の連絡もない。セプティミウス・セヴェルスはローマ皇帝なのだ。皇帝の長男、アントニヌスと、プローティアヌスの娘である婚約者が、いずれローマを支配する。未来は薔薇色だ。そもそも、セヴェルスの体調であとどれだけ生きられるというのだ?しかし、セヴェルスはまだ生きている。近衛隊長は気を遣っている振りをした。「マリウス・ヴェプサニウス・アグリッパはちゃんと見張っている。ほら、カッパドキア総督の息子だ。しかし、友人と連絡は取っていないようだな。相変わらず、図書館に篭っている。奴は放っておいても…」

その時、近衛兵が音もなく部屋に入って来て恭しく頭を下げたので、彼の言葉は中断された。

「何だ?」プローティアヌスが苛々と言った。

「この手紙を、隊長に直接お渡しするよう命令を受けております。」彼は巻物を差し出した。

プローティアヌスは何も言わずに手紙をひったくり、広げてランタンの方へ傾けて読んだ。その顔にゆっくりと笑みが広がった。彼は勝ち誇った顔で友人を見た。「我々の獲物が二週間前、アレキザンドリアに現れた。若い女を連れてナイルへ向かったそうだ。」

セヴェルスは頭を振って衛兵を下がらせた。背筋に寒気が走った。「アレギザンドリア?どうしてエジプトなんかへ行ったんだ?」

「さあ?観光したかったのかもな。何年か前、おれたちも行ったじゃないか。どこかで女を拾って楽しんでいるらしい。」

「我々は観光に行ったのではない!帝国の不安定要素を取り除きに行ったのだ!忘れたのか?エジプトは私の政敵のニジェールを支持していた。マルクス・アウレリウスの時代にはアヴィディウス・カシウスを支持した。エジプト人は信用ならん。怪しげな伝説、儀式…グラウクスめ、エジプトで味方を集めて私に対抗する気だ。あそこなら集まるだろう。第二にアレギザンダー大王になる気だ。ニジェールと同じだ。エジプト人の魔法を使って神々の声を聞く気だ。」

プローティアヌスは苛立ちのあまり歯噛みをしたが、何気ない風を装って肩をすくめた。「魔法はお前が禁止しただろう?違反すれば死刑だ。」

「その通りだ。東方の全ての都市、町、村に奴を捜すように命令を送れ。逮捕して即、ローマに連れ戻すんだ。」

「契約書がなくてもか?」

「契約書か…奴は契約書を持っている。私には分かる。」

ペトラ
マルシアヌスの家は大きな二階建ての砂岩造りで、階段状のテラスには緑が溢れていた。彼の妻は遠い昔に亡くなり、今は長男のリアトゥス、その妻のヘレナ、3人の幼い孫息子と暮らしていた。グラウクスとマキシマは二階にある二つの小さな寝室に移った。寝室には、それぞれにテラスがついていた。鎧戸の隙間から日が射し、絨毯とベッドカバーに黄色い光を投げていた。壁は埃がつかぬよう白く磨き上げられていて、部屋は明るい雰囲気を醸し出していた。ローマ建築の影響が見えるのは入口のアーチだけだった。マキシマはこの家の異国情緒と簡素さが気に入った。オスティアの家とは全然違う。

マルシアヌスとリアトゥスとヘレナは一階の二部屋で眠った。三人の男の子は大きな部屋を共有していて、夜はテラスで寝るのを好んだ。子供たちはグラウクスをヒーローのように思っているようだった。祖父に「偉大なマキシマス将軍」の話をよく聞いていたからだ。三人はグラウクスの剣を畏敬の目で見つめ、夕食の席で彼を質問ぜめにした。一方で、マキシマのことも好もしげにちらちらと見ていた。ヘレナは久しぶりに女性の話し相手を得て、大喜びでマキシマと話しこんでいた。

夕食の後は、寒い夜を暖めている炉火を囲んで、ローマやペトラや天気や食べ物の話をした。子供たちが聞いている間は、マキシマスの最期についての話はしなかった。グラウクスは無意識に椅子の腕を小刻みに叩いているのに気づき、指を押さえた。台所でヘレナを助けて忙しそうにしているマキシマが羨ましかった。ようやく、リアトゥスが息子たちを寝室に追いやった。男たちは子供が寝静まるまで静かに話していた。

ようやく、マルシアヌスは摩り減った革の椅子から立ち上がり、ゆっくりと寝室へ歩いて行った。グラウクスは彼の腰がわずかに曲がっているのに気づき、本当は何歳なんだろうか、と考えた。マキシマスよりずっと上だ、と言っていた。ということは、60代だろうか?70代?ジョニヴァスと同年代?

彼はすぐに、柔らかい革の大きな包みを抱えて戻ってきた。マルシアヌスは包みをテーブルに置き、慎重に開き始めた。グラウクスは身を乗り出した。「君のお父さんは、全部大事にしまっていたんだ。」マルシアヌスは言った。「私の知る限り、君のお母さんからの手紙は全部ここにある。とても古いものだから、気をつけて扱ってくれ。」

グラウクスは震える指で手紙を広げた。中から子供の顔が現れ、彼は息を呑んだ。男の子だ。6歳か7歳ぐらいだろう。兄のマルクスだ。「ああ、すごい」彼はかすれた声で言った。「こんな顔だったのか。知らなかった。」彼は顔を上げずに、リアトゥスに向かって言った。「マキシマを呼んで来てくれますか?」

「もちろん」リアトゥスは立ち上がり、台所へ行った。

マキシマがすぐに現れ、興奮した様子で兄の椅子の横に駆け込み、絵を手に取った。

「気をつけて」グラウクスが言った。「木炭画だから、こするなよ。」

「これ、私たちの兄さん?」

グラウクスはうなずいた。

彼女は目を細め、鼻に皺を寄せた。「私たちには似てないわ。」

「私の記憶では、彼はオリヴィアの方に似ていた。」マルシアヌスが言った。「可愛い坊やだった。いたずらっ子だったが、本当に可愛かった。君のお母さんと一緒に基地に来たんだ。お父さんの自慢の息子だった。あの子が小さな将軍みたいな恰好をして、お父さんと大きな馬に乗って基地を廻った日のことは忘れられないよ。あの子は、みんなに好かれていた。」

他の絵の端に目をとめたマキシマは、その絵を引っ張り出した。グラウクスはまだ兄の顔を見つめていた。「こっちの絵は、それよりもっと小さい時だわ。子馬に乗ってる。グラウクス、あなたのお母さんは才能があったのね。背景の建物を見て。これは農場?」

「そうかもしれない。今はもうないんだ。石以外は全部焼け落ちてしまった。」

マキシマは手紙の山を探った。

「気をつけて」グラウクスが言った。

「ほら!」彼女は嬉しそうに言った。「お母さんよ。」彼女は一瞬ためらった後、微笑んでいる女性の肖像を兄に手渡した。「綺麗なひとね。」マキシマは小さな声で言った。ほんの少し嫉妬を感じ、いくらか興奮が静まっていた。

グラウクスは何も言わずに母の自画像を見つめていた。母の顔を見るのは初めてだ。マキシマの言う通り、美しい女性だった。大きな黒い瞳、流れる黒髪、ふっくらとした唇。彼女は腰に手を当てて家の前に立っていた。見る者をからかうような、誇り高く、屈託のない表情。初めて本当の両親の事聞かされた時から、彼は何度も、母の顔を兄弟の顔から想像しようとしてた。しかし、ぼんやりした影以上のものはどうしても浮かばなかった。今初めて、母は目の前に現れた。顔立ちまではっきりと。彼は黙ったまま絵を見つめ続けた。その姿を頭に焼き付ようとするように。

羊皮紙の端はもろくなっていて、隅に木炭が少し擦れた所があった。父の指が絵を掴んでいた所だ。右下の隅に、薄い指紋が残っていた。グラウクスは父の指が触れたところに、そっと親指を乗せた。

突然、マキシマが息を呑む音が聞こえて、彼は物思いから覚めた。マキシマは震える手で羊皮紙を広げていた。彼は母の肖像をそっとテーブルに置き、妹の肩に手を置きながら手元を覗き込んだ。どうしてこんなに動揺しているのだろう?

絵の中で、礼装を身につけたローマ将軍がスペインの我が家の前階段に立っていた。彼の妻が記憶から描き出したものだ。グラウクスは妹の震える手を握り、落ち着かせようとしたが、彼の手も痺れていた。

「とても正確な絵だ。彼にそっくりだよ。」マルシアヌスが立ち上がりながら、やさしく言った。「私は席を外そう。二人でゆっくり見るといい。」

その絵は他の絵よりはっきりしていて、端もほつれていなかった。広げられることが少なかったのだろう。グラウクスは父が若く見えることに気づいた。おそらく二十代後半、マルクス・アウレリウスから将軍に任命された直後だろう。彼は誇り高く、しかし厳しい顔をして、わずかに眉を寄せて階段の向こうを見つめていた。これから始まる長い旅のことを考えているのだろう。髪は短く刈り込んであった。飾りのついた鎧と長いケープを着け、広い肩に二つの狼の毛皮が揺れていた。絵の父はハンサムで、逞しかった。怖れるものなど何もないように見える。しかし、そうではなかったのだ。彼は殺されたのだ。息子と娘を残して逝くことさえ知らずに殺されたのだ。グラウクスの目が涙で霞んだ。マキシマス。とうとう、父の顔を見たのだ…僕の顔と、こんなに似ているなんて。

 

第52章 契約書

翌日一日中、二人はマキシマの部屋でオリヴィアの手紙に読みふけり、彼女の絵を繰り返し眺めて過ごした。亡くなった家族の姿を見ることが出来るなんて、何て幸運な事だろう。

オリヴィアの夫への手紙は気軽なお喋りのようで、農場のことが詳しく書かれていた。作物を植えた事、収穫した事、動物の子供が生まれた事。グラウクスの目の前に、燃え尽きた農場の在りし日の姿が生き生きと浮かんだ。農場が失われた事が、余計に辛く感じられた。母はよくマルクスの話をしていた。息子はすくすくと成長している…文字の間に、簡単なスケッチが散りばめられていた。夫が恋しくてたまらないという気持ちが文面に滲んでいた。マキシマスに余計な心配をさせないよう、寂しさを隠そうとしていたが、その辛さは想像するにあまりあるものがあった。

手紙の一通に、彼らの姉が埋葬されているポプラの木のことが書かれていた。オリヴィアは子供の名前は出していなかった。代わりに、その根元に作った花壇のこと、よくその花のそばで長い時間を過ごしていることが書いてあった。娘の像を作って欲しいというマキシマスの望みに「まだ早すぎる」と答えている手紙があった。グラウクスはマキシマに説明した。「母は絵だけじゃなくて彫刻も上手だった…素晴らしい彫刻が残っている。小さい頃、母の作った馬の彫刻で遊んでいたんだ。誰が作ったのかは知らなかったけど。父さんが持ち歩けるように、自分とマルクスの像を作ってあげたみたいだ。」

「その像はどうなったの?」床の上のいつもの場所から、マキシマが訊いた。

「父さんの従者のキケロが持っていた。キケロが行方不明になった時、剣はジョニヴァスが受け継いだけど、彫刻はなくなってしまったらしい。キケロが持って行ったんだろう。多分、もう見つからないだろうな。見つかるのなら、何を措いても手に入れたいけれど…」

「不思議ね…父さんが手にした手紙を、こうして手にしているなんて…父さんが読んだ文字を読んでいるなんて。なんとなく、父さんに近づいた気がするわ。顔も見られたし。」マキシマは常に目に入るようにテーブルに広げたままの父の肖像を見つめた。「夢に見ていた通りの姿だわ。」

グラウクスは黙ってうなずいた。父のスケッチは他にもあったが、これが一番はっきりしていて、威厳に溢れていた。宝物だ。彼はゲルマニアの塗りつぶされた肖像のことを思い出した。さぞ、素晴らしい絵なのだろう。

「グラウクス、これを見て。前の手紙から、ずいぶん時間が空いているわ。お母さんは具合が良くなかったって書いてる。手紙が来なかった間、父さんはずいぶん心配したでしょうね。」

グラウクスは眉を寄せて手紙を受け取り、日付を見て蒼ざめた。「僕が生まれた後の最初の手紙だ。」彼は小さい声で言った。

「でも…兄さんの事は何も書いてないわ。」

「ああ。」グラウクスは立ち上がり、髪をかきあげながらテラスへ行った。それが疲れている時、心が乱れている時の兄の癖であることにマキシマは気づいていた。

少し後、マキシマは彼の腰に腕を廻して背中に頬を当て、「ごめんなさい」と囁いた。「忘れていたわ。どうしてこんな大事なことを黙っていたのかしら?」

「わからない…当時の母の気持ちを理解するのは難しいよ。多分、心配でたまらなかったんだと思う。手紙からは想像できないぐらいに。この何ヵ月か前に、母は夫と息子を失いかけた。多分、まだショックから立ち直っていなかったんだ。それに、娘はポプラの木の下に埋葬されていたし。」

「でも、後になってからでも…」

「伯父がそう説得しようとしたんだけど、断られたみたいだ。こんなに大事な事を隠したまま時間が経ちすぎてしまって、マキシマスに許してもらえないと思ったのかもしれない。」彼はゆっくりと首を振った。「母の本当の気持ちは、誰にもわからないよ。」

マキシマは兄の横に、それから前へ回って、テラスの手すりにもたれて立った。「コモドゥスが皇帝を殺さなければ、すべてうまくいったのかもしれないわ。マキシマスはゲルマニアでの最後の戦いを終えて、故郷へ帰って、可愛い息子に初めて会うことになったでしょうね。彼が二度と戻って来ないなんて、思ってもみなかっんでしょう。」

兄の言葉には、わずかに怒りが滲んでいた。「父は危険な仕事をしていたんだ。母はよくわかっていた筈だ…自分の目で見たんだから。戻って来れないかもしれないという事は、よくわかっていた筈だ。僕の事を知りもせずに、戦場で死ぬかもしれないって。」

「そうはならないっていう方に賭けていたのよ。」

「そして負けた。」

「みんな負けたわ。私たち、みんな負けたのよ、グラウクス。」

 

在りし日のオリヴィアの想い出に浸って、長く感情的な一日を過ごした兄と妹は、すっかり疲れ切って夕食のテーブルについた。マルシアヌスは二人を落ち着かせようと、天気や子供たちのいたずらの話をしたが、マキシマとグラウクスは黙り込んでいた。老人はグラウクスの手に触れた。「大丈夫か?」彼は優しく訊いた。

若いスペイン人はうなずいた。「死んだ母の考えていたことを読むというのは…母の人生と、父や兄の人生を、許しもなしに覗くみたいで…なんだか辛いです。」

老人は同情をこめてうなずいた。「そうだろうな。」

「マルシアヌスさん…何か、父のことを話してくれませんか?」マキシマが言った。「あの手紙で、オリヴィアの生活は少しわかったけど、父の生活はわからないわ。」

「父の手紙は、農場が焼かれた時になくなってしまったんです。」グラウクスが言った。

マルシアヌスはもう一度うなずき、微笑んだ。「喜んで。どこから始めようか?」

「初めて会った時から。」マキシマが言った。無意識にリアトゥスの三人の息子を真似た仕草で、彼女はソファに腰を落ち着けた。偉大なマキシマス将軍の話が始まりそうなのに気づいた三人はケンカをぴたりと止め、祖父の顔をじっと見ながら座っていた。

「そうだな、ずいぶん昔の話だ。私はまだ若かった…マキシマスはもっと若かった。その前から、彼のことは聞いていた。知らぬ者はいなかった。英雄的な活躍の噂は、すぐにローマ軍じゅうに広まるからね。しかし、実際に会ったのは彼が将軍に昇進してフェリックス第三連隊に赴任して来た時だ。私はそこの軍医長だった。彼は黒い、素晴らしい駿馬に乗って…」

「名前はスカルト!」一番年かさの男の子が声を上げた。

「そうだよ」マルシアヌスは笑った。「ああ…スカルトだ。そして、素晴らしい礼服を身につけていた。流れるようなケープ、狼の毛皮。まだ若かったのに、将軍の威厳に溢れていた。それに、マルクス・アウレリウス陛下が自ら選んだ将軍だった。馬から降りる前から、我々の尊敬を一身に集めていた。最初から尊敬されていた…そして、すぐに愛されるようになった。」

マキシマはスカートを直すふりをして涙を隠した。兄の目も潤んでいるのを見て、彼女はにっこりした。

いつの間にか影が長くなり、ヘレナが静かに暖炉に火を入れたが、彼らは気がつきもせず、マキシマス将軍の冒険物語に夢中になっていた。マルシアヌスは彼の将軍について畏敬の念をこめて話した−彼の偉業、彼の負傷、彼の頑固さ、真面目さ、寛大さ、優しさ。彼がかけがえのない親友の死を深く悲しんでいることが、マキシマにはよくわかった。自分やグラウクスとほとんど同じぐらい深く。

暖炉の薪が燃え尽き、リアトゥスが息子たちを寝室に連れて行った頃、マルシアヌスは静かに立ち上がって自分の寝室へ向かった。彼は手紙の包みより小さい革の包みを持って帰ってきた。彼は少しためらってから、グラウクスに差し出した。「これを君に渡すべきかどうか、ずいぶん悩んだんだ。それが賢明なことなのか、それともいっそ燃やしてしまうべきなのか…今でも確信はない。しかし…決めるのは私ではない。君が決断する事だ。」

マルシアヌスは包みを開き、中に隠されていた公式書類を慎重に取り出した。正式な書式に則って書かれた文字が見えた。そして二つの署名…印璽。公式の印璽。皇帝の玉璽だ。彼は目の前に置かれた書類を黙って見つめた。マキシマも、書類をひったくって読みたい気持ちを押さえておとなしく座ったまま、妙に無表情な兄の顔を見つめていた。

マルシアヌスが腰を下ろし、静かに訊いた。「見ないのか?」

「内容は知っています」グラウクスはつぶやいた。「あなたが持っていたんですね。セプティミウス・セヴェルスに手紙を送ったのはあなたなんですね。」

老人は呆然とした。「どうして…一体、どうしてそんな事を?この契約書のことをどうして知っているんだ?」

マキシマが答えた。「父が私の母のジュリアに話したんです。オスティアで一緒に過ごした時に。マルクス・アウレリウスがマキシマスを皇帝に選んだ事は知っていました。でも、証拠がなかったんです。」彼女は人差し指を伸ばし、書類をゆっくり自分の方へ引き寄せた。「これで証拠も手に入ったわ。」

グラウクスは動かなかった。「これは皇帝が持っていた契約書ですね?」

「ああ。皇帝の遺体から取った。マキシマスも一通持っていた筈だ。そちらがどうなったのかは知らない。」

グラウクスがようやく顔を上げた。「スペインの、母の墓の中です。」

マルシアヌスは震える息を吸った。「ああ、そうか。」

「この書類が父の死の原因なんですね」グラウクスがぽつりと言った。「こんなに沢山の悲しみを引き起こした物だから、何かもっと…こんな、ただの羊皮紙だとは思っていなかったんです」

「何に書いてあるかではなく、内容が問題なんだ。」

「もちろんそうです」グラウクスは言った。彼はようやくマキシマから書類を取り、両手で持った。「軽いな」彼はつぶやいた。「こんなに重い内容なのに。」

マルシアヌスの顔はいっぺんに年をとったように見えた。翳りゆく光の中で、皺がますます深くなった。「とうとう君に渡してしまえて嬉しい。私は…君の父上の名誉を挽回するためにその書類を使おうとした。しかし、無駄だった。書類の写しを皇帝に送ったが、手紙が届いたかどうかもわからない。」

「ちゃんと届いてます」グラウクスが言った。「この書類のせいで父は死に、僕も危うく死ぬところだったんです。」マルシアヌスが怪訝そうな顔をしていたので、グラウクスは説明した。「最初はわからなかったんです…セプティミウス・セヴェルスが何故僕の事を気にするのか…ジュリアがこの書類の事を話してくれて、初めて意味がわかりました。皇帝はこれをひどく欲しがっていました。僕もこれを探していると思っていたようです−ある意味では、そうだったのかもしれない。これで、あなたが試みたように、父の汚名を晴らすことが出来ます。父がマルクス・アウレリウスの後継者で、皇帝を殺したのではないと証明することが。老皇帝は死にかけていた。父が皇帝を殺す理由は何もない−帝位を望んだとしても、少しの間待つだけでよかったのだから。コモドゥスには充分な動機があった。」グラウクスは、ほとんど邪悪といっていいような微笑みを浮かべた。「ああ、本当に何て重い書類なんだろう。父を殺し…今は、皇帝の地位を奪う事もできる。」

「それが君の望みなのか、グラウクス?帝位を要求する事が?充分に根拠のある要求だが…セヴェルスには敵が多いしな。」マルシアヌスが言った。若者が何を考えているのかわからなかった。「君を支持する者は沢山いるだろう。君の父上に忠実だった者たちだ。父上の遺産だ。」

グラウクスは首を振った。「父の遺産は農場です。母の手紙を助けにして、完全に元に戻すつもりです。でも、それとは別に…僕はこの旅の目的を果したいんです。父に何があったのかつきとめること…これは、ほとんど成し遂げました。 なぜそうなったのかつきとめる…これも終った。そして、父の汚名を晴らし、仇を討つこと…これは、これから始めるつもりです。」

「コモドゥスは死んだ…」マルシアヌスが言いかけた。

「でも、クイントスは生きているかもしれない。ローマへ戻ります。」

長い沈黙が落ちた。

ヘレナがようやく口を開いた。「しばらく滞在してくれると思っていたのよ。ペトラの外からお客が来るなんてめったにない事だし。」

マキシマは友達になったばかりのヘレナに悲しげな笑顔を見せた。彼女も、出発の時が来た事を悟っていた。

「ルシアスもいる。彼も探すといい。」リアトゥスが言った。

「ルシアス・ヴァレスですか?ええ、それも考えました。彼もクイントスも、父が死んだ時アリーナにいました。最後の闘いについて、まだ僕が知らない事を知っているかもしれない。でも、どこにいるのか知らないんです。」

「多分、亡命しているのだろう。」マルシアヌスが言った。「死んだかもしれん。」

「生きているようです」グラウクスが答えた。「セヴェルスは帝位を確かなものにするために、自分がマルクス・アウレリウスの親戚だと主張していて、だからその孫を虐待するわけにはいかないようです…少なくとも、大っぴらには。ルシアス・ヴァレスは多分生きています。この帝国のどこかで。」

「帝国は広いぞ」リアトゥスがつぶやいた。

「ええ。」グラウクスは疲れた笑顔を浮かべた。「広さを実感しているところです。ここへ来るのに通った道は、とても忘れられません。でも、時間がかかり過ぎました。海へ出るのにもっと早い道はありませんか?アレキザンドリアへ行く船に乗れる所は?アレキザンドリアで僕たちの船が待っているんです。」

「西へ行く代わりに北へ向かえば、砂漠越えの道はずっと短い。マサダから海岸までのローマ街道はよく整備されている。セプティミウス・セヴェルス自身が作らせた道だ。天気に恵まれれば、数日で行ける。」リアトゥスが言った。「君たちの案内人が道を知っているだろう。」

「明日ハムディに、隊商と同行できないか訊いてみます。その方が安全だ。」グラウクスは妹を見た。

 

グラウクスが望みを説明すると、ハムディはうなずいた。小柄なナバテア人ガイドは、二日で準備を整えると約束した。約束通り、二日目の夜明けに、マキシマとグラウクスはマルシアヌスとその家族に悲しい別れを告げ、再びラクダに乗った。ずいぶん小規模な隊商だ、とグラウクスは思った。牛の引く荷馬車が二台、ラバが数頭と、縞のフードのついた長い白いローブにしっかりくるまった男が6人。徒歩の者とラクダに乗っている者がいた。

シクと呼ばれる巨大な暗い亀裂−ペトラの出口−に近づくと、グラウクスとマキシマは振り返り、宝物庫の陰に集まった人たちに手を振った。彼らは手を振り返した。グラウクスの耳に、「神が共にありますように!」という叫び声が何度も届いた。兄と妹はたちまち暗闇に包まれ、ペトラの街は幻のように消えた。反対側から出ると、焼けつく陽射しと何マイルも続く岩だらけの砂漠が二人を迎えた。砂漠は、彼らが愛するようになった柔らかい花びら色に彩られていた。しかし今回は、砂漠を横切って行くのではなく、長い砂岩の崖の陰を辿って行くので、いくらか楽だった。

道連れになった男たちは様子が変だった。彼らはローブに頭まで隠れ、一言も喋らなかった。グラウクスに話しかけないのは理解できたが、仲間同士でも、お互いに無視しし合っているようだ。ナバテア人の習慣なのかもしれない。

数時間もしないうちに、マキシマの口にまた砂が入り始めた。彼女はまたローブの中にうずくまった。その日は何事もなく、夕方にはテントを張った。グラウクスとマキシマはナバテア人たちからは離れて、入口を向かい合わせにしてテントを張った。誰かがマキシマに近づけば、必ずグラウクスの耳に届く。

テントに入ると、グラウクスは荷物を探って二つの革の包みを取り出し、ぽんぽんと叩いて、また隠し場所に戻した。彼はでこぼこの砂を叩いてならし、毛布にくるまって眠りについた。

彼が眠りに落ちかかった時、ハムディがテントの戸を開けた。「一緒に来てくれ。」

「何…何故?どこへ行くんだ?どうした?」グラウクスはつぶやいた。

「水を汲むんだ。」

グラウクスは身体を起こした。完全に目が覚めていた。「水は充分あるじゃないか。あと数日は汲む必要ないだろう?」

「汲めるうちに汲んでおかなきゃ。崖の上にワディがあるんだ。さあ、早く来てくれ。」

ずっと後になって、グラウクスは思った−ハムディの切羽詰った様子から危険を察知すべきだったと。しかし、その時は気づかなかった。

 

第53章 待ち伏せ

グラウクスはケープを踏まないように気をつけながら、両手に壺を持ってハムディの後につき、岩だらけの険しい丘をを登って行った。彼はテントの方をちらちらと振り返った。三つの焚き火が野営地をやわらかく照らしていたが、動く者は見えなかった。聞こえるのは風の音と、遠くで薪のはぜる音だけだった。それにしても、どうして水を汲む必要があるんだろう。しかし、案内人は自分より砂漠についてはずっと詳しいはずだ。彼は案内人の判断を信用することにした。

グラウクスは丘の中腹で止まって息を整えた。もう日が暮れかけていた。「それで、あとどのぐらいだ?」

「ここまで来れば充分だろう」大きな岩の後ろから男が現れ、完璧なラテン語で言った。グラウクスはぱっと振り返った。水差しが手から落ちて砕けた。目の前に、隊商の一人が立っていた。脱ぎ捨てられた白いローブの下には、近衛兵の黒い鎧を着けていた。すぐにもう一人現れた。下の方にも誰かいる。素早く目を走らせると、もう二人近衛兵がいた。ハムディの姿は見えない。

グラウクスはじりじりと後ずさりして、四人全員を視界に納めた。黒いケープの下で、彼の指は父の剣を掴んでいた。「どういうことだ?」彼は深い、しっかりした声で言ったが、心臓は早鐘を打っていた。「ペトラで法を犯した覚えはない。」

「余計なお喋りはなしにしようじゃないか」四人のリーダーらしい男が言った。最初に現れた男だ。「早く命令を遂行してペトラへ戻りたい。砂漠というのは我慢ならん。特に夜は。どんな危険が潜んでいるかわからんからな。」彼は冷笑を浮かべた。

「命令?」グラウクスは訊いたが、命令の内容はよくわかっていた。

「そうだ。ここが貴様の旅の終点だ。死体は狼がすみやかに片付けてくれるだろう。女はペトラに連れて帰って、兵士の気晴らしに使わせてもらう。」男は肩の力を抜いて、さりげない様子で立っていた。他の兵士たちもそうだった。簡単に片付く仕事だと思っているのだろう。

「僕を殺すつもりか?」

冷笑が広がった。「そのつもりだ。」

「誰の命令で?」

「貴様には関係のない事だ。」

「皇帝か?セヴェルスが命令したのか?」グラウクスは剣をしっかりと握り、鞘から少し抜いた。

「ローマから来た命令だ。それだけ言えば充分だろう。」

「皇帝は僕を生かしておきたいんじゃないか?命令をちゃんと確認したのか?焦って殺したら後で後悔することになるぞ。」

黒衣の男は鼻で笑った。しかし、他の三人は不安そうに隊長をちらりと見た。隊長はグラウクスに近づいた。「命令は一字一句憶えている。しかし、一つだけ訊いておきたい。貴様は本当にマキシマス将軍の息子なのか?」

「ああ、そうだ。」

「そうか…マルクス・アウレリウスを殺した反逆者の息子を、おれが殺すことになるとは光栄だな。」近衛兵は皇帝の名を口にしながら剣を抜き、突いた。グラウクスは身をかわした。彼は切れ目のない滑らかな一動作でケープを脱ぎ捨てて剣を露にし、構えた。近衛隊長はバランスを取り戻し、他の三人も剣を抜いて構えたた。

瞬きするより速く、グラウクスは状況を判断し、くるりと背を向けて逃げ出した。ここでは、剣を持った四人の敵と闘うことはできない。自分がどこへ向かっているのかさっぱり分からなかったが、とにかく、一度に一人づつ相手に出来る場所が必要だ。彼は小石に足を滑らせながら、だんだん狭くなる山道を駆け登った。でこぼこした坂の側面はほとんど垂直になっていた。自分の荒い息の音が、すぐ後ろについて来る男たちの息の音をかき消していた。誰かの手が足を掴もうとしているのを感じ、急いで角を曲がったとたん、何か柔らかい物にぶつかった。一瞬のためらいもなく、彼はその身体を力強い腕で掴み、くるりと回転した。二本の剣がハムディの腹を貫き、彼は悲鳴を上げた。グラウクスはナバテア人の身体を盾にして思いきり下へ押し、ハムディの死体と、バランスを失った二人の近衛兵を崖から突き落とした。二人は叫び声を上げながら落ちていった。

自分も滑り落ちそうになり、彼は道に片手をついた。赤い石の破片が手に突き刺さった。辺りはますます暗くなり、どれが岩なのか、どれが人間なのか、判断するのは難しかった。おそらく、あと二人の衛兵が彼の後を追って登って来ている。岩の間に朝まで隠れていることも出来るだろうが、そんなことをしたら近衛兵たちはその怒りと苛立ちを妹にぶつけるだろう。想像もしたくない方法で。駄目だ…隠れるわけにはいかない。殺さなければ。

グラウクスはだしぬけに広い、平らな場所へ出た−山の頂上だ。反対側を降りる以外、もう行き場所はない。反対側は切り立った崖だ。彼はさっと振り返った。ちょうどその時、山道から近衛兵が現れた。仲間を殺された怒りが、男にさらなる力を与えていた。彼は怒りの叫びと共に、剣を高く掲げてグラウクスに突進した。グラウクスは剣をかわし、男の胸に向かって思いきり剣を突き出した。暗闇の中で、相手の鎧の事を忘れていた。剣は金属をかすめただけで、逆に隙ができてしまった。肩を斬られたのを、彼は見るというより感じた。しかし、傷は浅い。焼けつくような痛みが、身体中の感覚を極限まで覚醒させた。彼は今度は低く構えて回転した。しかし、近衛兵は身体をかわし、彼の剣はぎりぎりの所で空を切った。

グラウクスは後ずさりし、暗闇の中に目を凝らした。何も見えない。彼は微かな音も聞き逃すまいと、息を静め、ぴくりとも動かずに立っていた。すぐに、左側で何か呟く声が聞こえた。しかし、姿は見えない。頭からつま先まで黒ずくめの近衛兵は、夜に溶けこんでしまっていた。彼は自分の服を見下ろした。彼も黒いチュニックを着ていたが、むき出しの腕と脚が位置を明かしていた。外套を脱ぐんじゃなかった。

「貴様の姿は丸見えだぞ」歌うような、嘲けるような声が聞こえた。「格好の標的だ。おい…どんな気持ちだ? 私の部下は、貴様を簡単に殺せると言っているぞ。」

グラウクスは黙っていた…耳を澄まし…全身の筋肉が緊張していた。ブーツの微かな足音が聞こえた。二人の男は離れ、彼の両側に立った。彼は動かなかった。

「今夜の貴様を見たら、パパは嘆くんじゃないか?運がよかっただけだ…あの二人を殺せたのはただの幸運だ。あるいは…二人は死ななかったかもしれん。いまごろあの女の所へ行っているかもしれないな。」

グラウクスは身震いしたが、そのままじっと、黙って立っていた。そう、こちらの姿は見えている。両側から同時に襲うつもりだ。

「勝ち目はないぞ。降伏するなら、速やかに殺してやる。ほとんど痛みもない…一瞬ちくりとするだけだ。」

「お前は父親とは違うな」もう一人が言った。「マキシマスなら、今ごろは我々全員を殺していただろう。奴は凄腕だった。伝説的だった…伝説の反逆者だ。息子が腰抜けとは残念だな。」

グラウクスは歯軋りしたが、動かなかった。突然、雲間から月が現れ、銀色の柔らかい光が溢れた。「ほら、」グラウクスはゆっくりと笑みを浮かべた。「良くなった。これで互角だな。そっちは二人…体中がっちり武装して…マキシマスの息子は鎧もなし、剣が一本。ああ、これで互角だ。」

近衛兵たちが嘲笑を浮かべる間もなく、グラウクスは彼の腕を斬った男に向かって攻撃した。今度はどこを狙えばいいかわかっていた−咽喉だ。突然の動きに、男は一瞬たじろいだ。グラウクスには充分な時間だった。重い鎧に妨げられていないグラウクスは稲妻のようなスピードで動き、咽喉から迸る獣じみた雄叫びが遠い山にこだました。脚を開き、剣を構えて立つ男に向かって、彼はそのまま突進し、直前で膝をつき、剣を思い切り上に突き上げた。剣は鎧のすぐ上に命中した。彼は剣の先が頭蓋骨の真下に突き出すまで深く刺し、首を刎ねた。グラウクスの顔に血が迸った。彼は地面に倒れて回転し、もう一人の近衛兵の剣をぎりぎりでかわした。一瞬後、彼は死んだ男の剣を掴んで立ち上がっていた。

近衛隊長は両手で剣を振りかざししているグラウクスの前に立った。彼は若者の腕を認めたようだったが、嘲るような口調は変わらなかった。「二本の剣を扱えるのか?ええ?貴様の父親なら出来ただろうがな。」

「父を知りもしないくせに」グラウクスはうなった。雲が流れ、兵士はまた闇に消えた。

「それが知っているんだ」暗闇から声がした。「彼が二本の剣を使うところはちょっとした見物だったな。ズッカバールと言う、汚らしい小さい街だった。もちろんその時は、それが悪名高いマキシマス将軍だとは知らなかったが。彼は『スペイン人』と呼ばれていた。」彼は少し間を置いてから言った。「聞きたいか?」

グラウクスはしばらく黙っていた。近衛兵は、鼠をなぶる猫のように、我慢強くじっと待っていた。「ああ」ようやく、彼は言った。

「そうだろうな。そう…たしか20年前、コモドゥスが皇帝になったばかりの頃だ。」男は普通の会話のような口調で話していた。油断させる気だ。「辺境の連中が反乱を起こさぬように、近衛兵は、平時なら派遣されぬ様な所に行かされた。運悪く、俺は…」彼は鼻を鳴らした。「…ズッカバールという埃だらけの砂漠の街に送られた。ここと同じぐらいひどい所だった。」

グラウクスはいつでも動けるように身体を柔軟に保とうと努力したが、筋肉はこわばっているか、力が抜けているかのどちらかだった。

「唯一の娯楽は、街の真中にある小さなアリーナだった。毎日、客が押し寄せていた。マキシマスは、みすぼらしい奴隷の一団の一人だった。持ち主は…持ち主の名は…」

「プロキシモ。」

「そう…プロキシモだ。この話を知っているのか?」

グラウクスは答えなかった。

「奴が他の奴隷と違う事はすぐに知れ渡った。観客は奴に夢中になった。連中にとって、あんな剣闘士は初めてだったんだ…剣の腕はずば抜けていて…容赦なく、凶暴だった。奴は敵を弄ばなかった。敵を処刑した。客はどの剣闘士が勝つかではなく、『スペイン人』がアリーナ中の敵を全部片付けるのに何秒かかるかに金を賭けていた。」

グラウクスは腕を下げたが、緊張は解かなかった。

「一番よく憶えているのは、奴が革紐で出来た鎧みたいな物を着けてアリーナに現れた時のことだ。」

ジュリアの所へ来た時の鎧と同じ物だろうか?

「敵は5人か6人だったと思う。奴は頭を下げて敵に敬意を表わした。そして、次々に片付けて行った。もちろん、観客は興奮して叫んでいた。連中は血が大好きなんだ。そして…ちょっと待て、今思い出す…そうだ…奴は死体から剣を取って両手で振り、次の敵の腹に二本の剣を突き刺したんだ。それから両方引っこ抜いて、その男の首を刎ねるのに使った。砂に転がる首が今でも見えるようだよ。あれは見世物としてやったんだ。相手はもう死にかけていたからな。あの男は観客を操るコツを知っていた。凄腕だった。」

長い沈黙があった。

近衛兵は静かな声で続けた。「しかし、貴様は違う。長い間、戦闘と死に鍛えられてきた父親とは違う。二本の剣を扱えると思っているかもしれんが、貴様には無理だ。剣を捨てろ、グラウクス。」

グラウクスは再び剣を上げた。近衛兵の語ったアリーナが見えるような気がした。この丘の頂上に比べて、さほど広くはなかったかもしれない。観客が見えるような、その歓声が聞こえるような気がした。そして、黒革の鎧を身につけたマキシマスが見えるような気がした−奴隷の身にもかかわらず、強く誇り高い姿が。マキシマスは決して諦めなかった。その息子も諦めない。「今夜死ぬ運命なら、剣を握って死ぬ。父がそうだったように。」彼はそう言って、叫び声を上げながら最後の近衛兵に突進した。しかし、ぎりぎりでフェイントをかけて身をかがめたので、近衛兵の剣は空を切った。

「馬鹿め」彼は唸った。しかし、グラウクスは気づいていた−重い鎧を着けている近衛兵より、自分の方が遥かに速く動けるという事に。これで、相手の姿さえ見えれば…その時、まるで魔法のように、月が再び姿を見せた。右手のマキシマスの剣を使って、グラウクスは突き、踊るように身をかわした。傷は与えなかったが、さっきの近衛兵と同じように心理的優位に立とうとしているのだ。彼は踵で弾みをつけながら、一瞬も動きを止めず、敵の周囲を回った。近衛兵は渦の中心で身体を回転させた。興奮が彼に力を与えた。彼は上から、下から近衛兵を突いた。刺しはしなかったが、剣の起こす風を敵が感じているのは確実だった。

ついに、男はグラウクスの動きと逆方向に動いてしまった。グラウクスは鋭い、短い突きで近衛兵の右肩を刺し、相手が刺されたことに気づかぬうちにさっと離れた。敵が思わず肩を押さえている隙に、グラウクスは無防備の膝を斬りつけた。男は呻いた。グラウクスは相手を苛立たせるために声を出して笑い、右に左に素早く動きながら突き、狙いの外れた反撃をかわし、男に隙ができるのを待った。怒りと疲労と苛立ちに近衛兵の判断が鈍るまで、長くはかからなかった。彼はグラウクスの腹を下から突こうとしたが、若者は優雅な曲線を描いて剣を動かし、近衛兵の手首に深手を負わせ、相手の剣が近づく前に飛び退いた。彼は右手を突き出し、近衛兵が自分の左側を庇って動いた瞬間、鎧の下から右脇腹を突き上げた。刃が柔らかい肉に柄まで沈んだ。

近衛兵は呆然として、言葉もなく空を見つめた。彼の口に血の泡が吹き出した。グラウクスはゆっくりと剣を抜いた。男はよろめいたが、倒れなかった。グラウクスは近衛兵の濁った目の真正面に立って、両手の剣を前後に振り、恐ろしいリズムで交差させていた。何が起ころうとしているのか、近衛兵にはわかっていたが、防ぐ術はなかった。グラウクスの二本の剣が素早く交差した。次の瞬間には、近衛兵の見えない目が地面からグラウクスを見上げていた。首のない体が、切り倒された木のようにどさりと倒れた。

グラウクスは肩で息をしながら死体を見つめた。「ズッカバールで見たのはこれかい、近衛隊長?こんな感じだったか?」彼は唾を吐いた。ようやく視線を上げると、平らな岩に大きな銀色の狼が静かに座り、真剣な瞳で彼を見つめていた。月光の下、その目は不気味に光っていた。グラウクスは肩と剣から血を滴らせながら、その場所にじっと立ったまま大きな獣を見つめた。恐怖は感じなかった。人間と獣は、暗黙の敬意と理解をこめて見つめ合った。

甲高い女性の悲鳴が、下の砂漠から山を駆け登って来た。彼は振り返って山道の方を見た。後を振り返った時、狼は消えていた。グラウクスはためらいがちに一歩前へ踏み出し、来た道を駆け下り始めた。再び、悲鳴が彼の耳に届いた。

 

第54章 逃避行

グラウクスは闇の中、岩にぶつかりながらほとんど滑り降りるように山道を下った。途中、脱ぎ捨てたケープを手さぐりで拾い上げ、ふもとの砂に飛び降りた。身体も顔も闇に溶けていた。

消えかけの小さな焚火の光で、ぼさぼさの髪をしたマキシマが二人の近衛兵に捕えられているのが見えた。近衛兵は彼女の腕を両側からぎゅっと掴み、暗闇に目を凝らして他の兵士たちを探していた。剣は抜いていた。何か喋っていたが、聞き取れなかった。しかし、気を揉んでいるのは様子からわかった。

グラウクスはじりじりと前に進んだ。わずかでも足音を立てぬよう、慎重に足場を選んだ。兵士に向かって悪態をついているマキシマの声が聞こえる所まで近づくと、彼は身を屈め、石を探した。大きくて重い石が見つかるまで、手探りで選んだ。彼は立ち上がり、渾身の力をこめて、三人の向こうの闇の中に向かって石を投げた。石は岩にぶつかって音を立てた。マキシマは息を呑み、二人の男は音のした方向を見た。少し相談した後、一人がマキシマの腕を放し、焚火から松明を灯して音のした方へ向かった。もう一人は剣の切っ先を、脅すようにマキシマの胸に向けた。

その間、グラウクスは密かに、素早く動いてテントの後を廻り、マキシマと兵士の背後に現れた。彼は近衛兵の足の間に石を投げた。兵が下を向いた瞬間、グラウクスは剣を彼の兜の下、首の後ろに刺した。切っ先が顎の下に現れた。ほぼ同時に、彼はマキシマが叫び出さぬよう手で彼女の口を押さえた。近衛兵は咽喉からごぼごぼという音を立てただけで、地面に倒れた。

「シーッ!」グラウクスは鋭い声で囁いた。「あと何人いる?」

彼が手を離すと、マキシマは震える息を大きく三回吸いこんだ。「音の方へ行った一人だけよ。」彼女は彼の腕の中で向きを替え、彼の顔を見た。「グラウクス、何…」

「後だ」彼は囁いた。「そっちの暗い所へ行け。」彼は妹を自分が来た方向へ向かせ、軽く押した。「地面に伏せて静かにしていてくれ。終ったら迎えに行く。」

震える脚で、マキシマは言われた通りに低く伏せたが、いざとなったらすぐ立ち上がれる体勢を保った。グラウクスのテントにハムディが来て、水を汲みに行くと言ったのは聞いていた。その後、彼女は眠りに落ち、おそらく数時間後、遠くの叫び声で目を覚ました。兄の名を呼びながらテントを出た所で、二人の近衛兵の腕の中に飛び込んでしまった。何があったか教えて欲しいと懇願したが、無視された。彼女は両側から腕を掴まれ、二人の間に立って、山の頂上から聞こえてくる叫び声と、その後の不安な静けさに耳を傾けた。一人の手がゆるんだのを感じると、彼女はもう一人の手を振りほどいて道の方へ駆け出した。しかし、直に後ろから捕えられ、怒りと恐怖に思わず悲鳴を上げた。焚火の方へ引きずり戻されながら、彼女はもう一度叫んだ。その後すぐ、兵の一人が物音のした方を調べに行った。もう一人は死に、誰かの手が口を覆った−兄の手だった。そして今は地面に伏せ、ペトラまで聞こえるんじゃないかと思うほど心臓をどきどきさせている。月がだしぬけに雲間から現れ、砂漠は柔らかい光に包まれた。マキシマは身体を低くして、岩の陰に隠れた。

しばらく後、兄の呼ぶ声が聞こえた。彼女は震える脚で立ち上がり、押さえた声で「ここよ!」と言った。数秒後、兄の腕が彼女を息もできぬほど強く抱きしめていた。彼はやさしく妹の手を取り、テントと焚火のところへ連れて帰った。近衛兵の死体は消えていた。その場所には、砂に黒っぽい染みができていた。彼女の手は神経質にストーラを撫でていた。彼女は掌を見て、べたべたしているのに気づいた。彼女はぎょっとして「グラウクス!」と叫んだ。「怪我を…怪我をしているのね!血まみれじゃないの!」彼女はケープを外して傷を探そうとしたが、彼は手を上げて止めた。

「血まみれだけど、ほとんどは僕の血じゃないんだ。大丈夫だよ。」殺戮が終って、彼は疲れ切り、何も感じなくなっていた。今までに人を殺した事は一度もなかった。今夜は、数時間で6人の人間を殺したのだ。昔からずっと、人を殺すのはどんな気持ちだろうと考えていた。マキシマスが敵を倒した時、どう感じたか…今、分かった。何も感じない。興奮も、絶望さえも…何も感じなかった。彼はマキシマスの剣を上げ、入り混じった6人の血に染まった刃を黙って見つめた。「父の手を離れてから、この剣が血に染まったのは初めてだ」彼は静かに言った。兵士は敵を殺した後、喜び祝うのだろうかと考えたことがある。いや、喜びも祝いもしないだろう。今ならわかる。喜びはない。彼はため息をついてトーガで刃を拭い、鞘に収めた。「すぐに出発しないと。ハムディ以外の隊商はみんな近衛隊だったんだ。ハムディが手引きしたんだ。罠だったんだ。」

「彼はどこ?」マキシマには答えがわかっていた。

「彼も死んだ」彼はぶっきらぼうに言った。「荷物をまとめるんだ。ラクダを2頭連れて行く。荷物は必要最小限にする。出来るだけ早く、馬を探そう。その方が速く動ける。一瞬も無駄にはできない。」

「グラウクス、道はわかるの?砂漠で迷ったら死んでしまうわ。」

グラウクスはもうテントを畳み始めていた。「山すそを辿って行けば、そのうちに街道に出るだろう。ここには止まらなかったように見せかけるんだ。君はここを片付けて、他のラクダを隠してくれ。僕は足跡を消して、死体を片付ける。明日になれば、ペトラから近衛兵がやって来る。死体の発見を遅らせたいんだ。時間を稼ぐ必要がある。」

マキシマは言った。「グラウクス、私たちだけで行くなんて無茶だわ。案内人が必要…」

「マキシマ」グラウクスが口を挟んだ。「今まで皇帝は父のことで僕を追っていたけど、これからは、この殺しの犯人としても追われることになるんだ。わかるかい?二人だけで行くより他に方法はないんだ。」

マキシマは黙ってうなずいた。恐怖が彼女の胃に、冷たい食べ物の塊のように居座っていた。

 

夜明け前、ラクダの蹄の音が変わり、うとうとしかけていた二人ははっと目覚めた。街道に出たのだ。夜明けまでに、オアシスと小さい村も見つかった。二人は粗末な地元民の衣装を買い、血で汚れた元の服を焼いた。食事を取り、少し休んだだけで、二人は出発し、足の速い馬を買えると聞いた町へ向った。馬を買ったら、荷物の大半を捨てて、とにかく出来る限り速く進もう。

夕刻、二人は素晴らしい白い牡馬に乗っていた。ローマの基準からすると小さく、くぼんだ顔を敏感な鼻を持っていて、砂の上を風のように走った。山での虐殺の噂も、ペトラからの近衛隊も追いつけない速さで動いているだろう。そう思って、グラウクスとマキシマは少し安心した。それでも、二人は少しでも明かりがあれば夜も移動し続け、人里離れた場所で野営した。

数日後、汚れ切り疲れ切った二人は海辺の街、カエサリア・マリティマに着いた。二人は漁師に金貨を一掴み渡し、アレキサンドリアまで連れて行く事を承知させた。グラウクスとマキシマは久しぶりにほっとした気分になった。二人は魚臭い甲板に横になり、船の揺れにも構わずにぐっすりと眠った。

T疲れ切った旅人たちは、アレキサンドリアの灯台を懐かしく思う余裕もなかった。軍隊と皇帝の手先が街をくまなく巡回している。グラウクスは妹を、港のそばの、船乗りと女が一時間単位で借りている粗末な宿に入れ、ドアに閂を下ろして誰も入れないようにと念を押して、オスティアまで連れて帰ってくれるイミリウス船長を捜しに行った。彼は船乗りの溜まり場を一日中苛々と歩き回り、ようやくアレキサンドリアに来た時の船員の一人を見つけ、まもなくイミリウスも見つけた。船長はグラウクスのひどい格好に驚いた様子だったが、数時間で出航する事を承知した。但し、こことオスティア両方の港を開けてもらうための賄賂はとても高くつくだろう−彼はグラウクスに警告した。グラウクスは目立たないようにと船長に警告したが、その必要はなかった。イミリウスは部下を集めに行った。

 

彼らは夜の帳に隠れ、二艘の引き船に曳かれて出航した。引き船の船長たちの懐は豊かになっていた。船は真直ぐクレタ島に向かい、そこで急いで食料を積み込んだ。翌週の3日目には、オスティアの灯台がイタリアの海岸に光っているのが見えた。船は沖合いで錨を下ろし、二人は小さなボートでジュリアのヴィラに近い海岸まで行った。マキシマは胃がきりきりと痛むのを感じた。数ヶ月ぶりに会う母は、このわがまま娘に何て言うだろう?

 

第55章 オスティアへの帰還

薄暗いアトリウムでばつが悪そうに立っている、薄汚れた旅人たちを見て、ジュリアはぽかんと口を開けた。顔からゆっくりと血の気が退いていった。一瞬後、彼女はマキシマを固く抱きしめていた。二人の女は暗がりの中で静かに涙を流した。グラウクスは落ち着かず、ぼさぼさの髪を指でかき上げた。ジュリアは娘の顔を見て安心したようだ。あまり怒られないですむだろうか?ジュリアはようやくマキシマを放し、彼女の髪を撫でて何か囁いてから、召使たちに風呂を用意するように言った。娘が風呂に向かうのを見送ってから、ジュリアはグラウクスの方を向いた。

彼は避けられない攻撃をかわすために先制攻撃をしようと決めた。「ジュリア…お久しぶりです。」その声は広いアトリウムに空ろに響いた。

彼女は首を傾げ、考え深げに彼を見つめて、静かにゆっくりと言った。「グラウクス…あなたたちが発ってから何週間か、私は怒り狂っていたわ。主にあなたに対してね。あなたが嘘をついたんだと思ったの。あなたがマキシマと船で待ち合わせをしていたか、あの子を船に隠していたか…あなたが危険な旅に娘を誘ったんだと思ったの。」ジュリアは緊張をほぐそうとするように、深いため息をついた。「アポリナリウスが、そんな事はないだろうって…マキシマなら一人でこのぐらいの事を計画してもおかしくないし、あなたも私同様だまされたんだって…私もようやく納得したの。」彼女は目を細めた。「そうなの?」

グラウクスはためらいがちにうなずいた。彼女の目を真直ぐ見る事が出来なかった。「出航して三日後に、イミリウス船長が彼女を見つけたんです。ちょうど、引き返せない所まで来た時でした。船倉の樽に隠れていたんです。」彼はいたずらしている所を見つかった子供のように足をもじもじと動かした。「ジュリア…すみませんでした。判断を誤りました。引き返すべきでした。風を逃して、アレキサンドリアまで漕いで行くことになっても。責任は僕にあります。」

一瞬の沈黙が落ちた。彼女は「私がどんなに心配だったかわかる?」と言った。

「わかります。」

「いいえ、あなたにはわからないわ」ジュリアはグラウクスに向かって歩きながら、怒りを含んだ声で言った。「想像もできないでしょう。」

グラウクスはうなずき、足元の白黒の大理石の床を見つめた。ジュリアは彼の髭の伸びた顎をやさしく掴んで持ち上げた。彼はようやく、縁の赤くなった彼女の目を見た。

「二人とも生きて帰ってこないんじゃないかと思ったこともあったのよ。」

グラウクスはうなずき、「僕自身、生きて帰れないんじゃないかと思った時もありました。」と告白した。

ジュリアは短く、しかし心をこめてグラウクスを抱きしめ、形のよい鼻に皺を寄せて、「あなたもお風呂に入った方がいいわね。」と言った。

「ええ…しばらく入っていません。」

「お風呂に入って、すこし寝るといいわ。その後で、これまでに何があったか全て詳しく話してもらいますからね。わかった?」

「わかりました、ジュリアさん。」グラウクスは堅苦しく答えた。今はなんとなく呼び捨てに出来ないような気がした。彼はまだ、いたずらを見つかって叱られて、その後無条件で許してもらった小学生のような気分のままだった。全てを聞いた後でも、ジュリアは許してくれるだろうか?

 

グラウクスとマキシマが話を終えるのに一時間以上かかった。二人の聞き手は、たまに詳しい説明を求める他は、黙って二人の話に集中していた。グラウクスが近衛兵たちを殺して砂漠に逃れた時の事を話すと、それまで落ち着いていたジュリアは動揺して手をひねり始めた。

マキシマが気がついて、母親を安心させようとして言った。「ママ、私は無事よ。ご覧の通り。」マキシマは母親が、娘が危うく死ぬところだったという事を心配しているのだと思った。

ジュリアが何を心配しているか、グラウクスにはわかっていた。「ジュリア、マキシマがマキシマスの娘だという事は、近衛隊は知りません。名前も知らないんです。マキシマのことは僕の『女』と呼んでいました。ハムディに聞きもしないで、勝手にそう思っていたようです。連中が捜しているのは僕だけです。マキシマはこの家にいれば安全です。」

「何ですって!?」マキシマは叫んだ。彼女は表情を固くしてグラウクスと母の顔を見比べた。「ここに残るなんていやよ!」

「残るんだ!」三人は声を揃えた。

グラウクスは厳しい声で言った。「ここからは君を連れて行くわけにはいかない。危険なんだ。もうわかっただろうけど。今度は隠れる樽はないよ。」

マキシマは何か言いかけたが、母親が口を挟んだ。「グラウクスの言う通りよ。言う事をおききなさい。ここにいれば安全なんだから。」

アポリナリウスが賛同の言葉を口にしかけると、マキシマは反抗的な口調で言った。「ええ、クイントスとルシアスを捜す旅が私には危険過ぎるのはわかっているわ。本当は、山での待ち伏せの一件以来、しばらくおとなしくしていたい気分なのよ。」

安堵のため息が聞こえた。

「でも、ここにはいたくないわ。ここには何もないんだもの。ローマのアパートメントへ行くわ。」

ジュリアは一瞬ためらったが、ここは妥協した方がいいと思った。「そうね…それならいいわ。」

「でも、また閉じ込められるのはごめんだわ。好きな時に外出するわよ。」

「必ず付き添いを連れてゆくのよ。」ジュリアが念を押した。「ローマでは、あなたの年頃の女性は付き添いなしで外出したりしないわ。」

護衛などその気になればいつでも撒く自信があるマキシマは、即座に同意した。「私たち、あれを見つけたのよ。」彼女は秘密めかした囁き声で言った。

「何を?」アポリナリウスは疲れていて、謎謎をする気にはなれなかった。「何を見つけたんだい?」

マキシマは兄を横目で見た。彼はうなずいて、先を続けるよう促した。「例の契約書…それと、グラウクスのお母さんからマキシマスへの手紙。絵もあったのよ。マルシアヌスが持っていたの。」母の驚いた顔を見て、マキシマはにっこりした。

「マルシアヌスが契約書を?ペトラにあったのね?」ジュリアは自分を納得させようとするように繰り返した。どうしてそんな事が?

マキシマは話を続けた。「近衛隊が父さんを処刑するために連行した夜、マルシアヌスとキケロは、父さんの形見を分けたの。マルシアヌスは、今までずっと大事にとっておいたのよ。」

「皇帝の持っていた方の契約書です。」グラウクスが説明した。「マルクス・アウレリウスの遺体のそばで一人になったとき見つけたそうです。それが重要な物だと悟って、持ち去ったんです。今は僕たちの手にあります。」

「だからね、」マキシマが得意そうに言った。「行くだけの価値はあったのよ。」彼女は立ち上がり、それ以上何も言わずに母のアパートメントを出て行った。

ジュリアは渋々うなずいた。「グラウクス、契約書をどうするか、よく考えるのよ。その書類は大きな力を持っているわ。」

アポリナリウスはうなずいた。「君が原本を持っている事に皇帝が気づいたら、何をしても奪い取ろうとするだろう…そして、君を始末しようとするだろう。」

「わかってます。でも、これは父の汚名を晴らす道具なんです。」

「隠さないといけないわ。それを使う時が来るまで。」ジュリアが言った。「許可なしでは誰も近づけない所に。持ち歩くのは危険だわ。捕まった時に取られてしまう。証人を立てて写しを作って、そっちを持ち歩くのよ。」

グラウクスは考え込んだ。確かにその通りだ。「ここには置いておけない…」

「もちろんよ。」ジュリアがきっぱりと言った。「でも、安全な隠し場所があるかもしれないわ。」

「どこですか?」

「ヴェスタの神殿よ。」ジュリアが答えた。

「そうだ、あそこなら完璧だ!」アポリナリウスが大声を出した。「君は何て頭がいいんだ。ヴェスタの神殿…あそこしかない。君には謁見を願い出る方法もあるし。」

「どうしてですか?」グラウクスは少し混乱していた。

アポリナリウスが嬉しそうに答えた。「ヴェスタの巫女はね、聖火を守っているだけじゃないんだよ、グラウクス。ローマの最重要書類は、みんな巫女が守っているんだ。」彼は回りを見まわして、秘密めかして囁いた。「神殿には、国家機密まであるんだよ。ローマの金持ちの家庭はあそこに遺言をしまっている。皇族でさえ、ヴェスタの巫女には秘密を話しているんだ。」

「そんな所には置けませんよ!」グラウクスが叫んだ。「セヴェルスに話すかもしれない…」

グラウクスが勝手に動揺する前に、アポリナリウスが口を挟んだ。「この書類は、ヴェスタの祭司長の手に直接渡さなければならない。彼女以外の目に触れさせぬように。彼女はマルクス・アウレリウスの従妹なんだ。彼女は今でもマルクス・アウレリウスに忠実で、セヴェルスを嫌っている。もう相当なお歳だが、まだ矍鑠としているそうだ。君を裏切ったりしないよ。」

「でも、僕なんかがどうやったら祭司長に謁見できるんです?」

ジュリアとアポリナリウスは目配せを交わした。「つてがあるの…」娘が戻って来たのを見て、ジュリアの言葉は途切れた。マキシマは重い包みをぴかぴかの大理石に引きずっていた。彼女はいつのまにかスリッパを脱ぎ捨てて裸足になり、白いローブを引きずっていた。ぴかぴかの顔と流れる髪が、若さと興奮に輝いていた。

「全部この中にあるのよ。見たい?」出て行った時からそのまま会話が続いていたように、マキシマは言った。二人は熱っぽくうなずいた。マキシマが包みの中身を二人の間に空け、膝をついてかき回す間、ジュリアとアポリナリウスは身を乗り出した。目当ての物を見つけるまで、マキシマは比較的重要でない物をせかせかと取り除いて腕に積み上げていった。やがて彼女は恭しい表情になり、慎重な手つきで契約書を広げて、待ち構えている母の手に乗せた。

ジュリアとアポリナリウスは羊皮紙の書類をのぞき込んだ。一字一句を三、四回読んだ後、老人が顔を上げた。「こんなに簡潔な言葉が」彼は驚嘆の思いを込めて言った。「これほど簡潔な書類が、これほどの力を持っているとは。信じられない。」

「これを最初に見た時、僕もまったく同じ事を考えました。」グラウクスはそう言ってジュリアに目を向けた。彼女は書類をじっと見つめていた−正確に言うと、契約書の下の方を−マキシマスの大きな、力強い署名を見ていた。彼女はようやく顔を上げ、何も言わずに書類を巻き戻した。

マキシマは心配そうに母を見ていたが、すぐに新たな興奮に顔を輝かせ、改めて包みをかき回した。彼女はアポリナリウスが手を伸ばしてジュリアの手をぽんぽんと叩いたのも、ジュリアがおぼつかない微笑を返したのも見ていなかった。

「ほら、これよ!」マキシマが嬉しそうに言った。「手紙よ、ママ。これを見てもらわなくちゃ!」

グラウクスは心配だった。「それはまた後にしたら…」

マキシマは彼を無視して言った。「ねえ、ママ、見たいわよね?」返事も待たず、彼女は大切な手紙を母に手渡し、座って反応を待った。

ジュリアは深呼吸して、羊皮紙をゆっくりと広げ、文字でなく木炭の影が現れたのを見て驚いた。絵は下の方からゆっくりと開いていった。最初は緻密に描かれた植物しか見えなかった。どこの街道沿いにもあるような種類だ。そして階段が、続いてそこに立つブーツの足が現れた。ブーツとたなびくケープの裾を見て、ジュリアはこれが何かを悟った。マキシマスの絵だ−彼が死んでから、初めて見る顔−いつも心にある面影を除いては。

母親がためらっているのを見たマキシマが急かそうとしたが、兄が腕を痛いほど強く掴んで止めた。彼女は歯を食いしばり、無理に肩の力を抜こうとしながら、鼻に皺を寄せて兄を睨みつけた。

軍服が見えた−力強い膝と濃い色のチュニック−狼の頭の刻まれた鎧、膝をかすめる長いケープ−さりげなく肩に掛けられた二頭の狼の毛皮。初めて彼に会った時とまったく同じ服装だ。ジュリアは目を閉じた。ちゃんと見ることができるだろうか−彼がその人生で最も愛した女性の手で描かれた、愛する男の姿を?それでも、彼女は指に力をこめて絵を広げた。ついに顔が現れた。若く、力強く、ぼんやりと遠くを見ているような…とても、とてもハンサムな顔。

覚悟は出来ていると思っていた。何の絵なのか分かっていたのだし…しかし、夢や追想以外で彼の姿を見たショックで頭がくらくらした。彼女は頬が熱くなるのを感じ、椅子の腕にすがりついた。何分にも…何時間にも思える時間が過ぎた。彼女とマキシマスは一緒にいた…モエシアで。宴の席…ジュリアは逞しい男にぴったりと寄り添い、彼女の誘いに抵抗する彼をからかいながら、手足が震えるの押さえようとしていた。カーテンの後…二人きりで…

頭の中に複数の声が響き、彼女ははっと現実に戻った。目の前に、心配そうな青い瞳があった…娘だ。目の焦点が戻り、部屋が現れた。暖炉の炎がパチパチと音を立てていた。

「ママ…ママ、大丈夫?」マキシマが不安げに言った。こんな母を見るのは初めてだった。グラウクスも心配そうに何かつぶやいた。アポリナリウスは黙って彼女の腕を撫でた。彼はこの中の誰よりも、ジュリアの気持ちを理解していた。

ジュリアは唇をなめ、手の中の絵を見下ろした。完璧だ。彼にそっくりだ。でも、これはただの羊皮紙で、温かい血は通っていないのだ。「大丈夫…大丈夫よ。ただ…彼の顔を見て動揺してしまったの。もう二度と見ることはないと思っていたから。」その言葉を裏付けるように、彼女はおぼつかない微笑みを浮かべて見せた。丁寧に絵を丸め、グラウクスに渡しながら彼女は「グラウクス、素晴らしい宝物ね。いろんな意味で、契約書より大切な物だわ。」と言った。

「その通りです。ジュリアさん、ありがとうございます。」彼はそう答えて大切な絵を受取り、チュニックの中にしまった。

「あなたのお母さんは才能があったのね。」

「ええ。ありがとうございます。」

ジュリアはチュニックを撫でて手の震えを押さえた。「今夜はもう疲れたわ…いろいろあったから。あなたたちはさっき寝たけど、それでも疲れたでしょう。」彼女は立ち上がりかけた。

「ジュリア、待って下さい」グラウクスが言った。「さっき、何か言いかけてましたよね。ヴェスタの祭司長との謁見がどうとか…」

マキシマは興味津々の顔で兄を見たが、珍しく黙っていた。

「ええ…ええ。」ジュリアが答えた。「みんな、ちょっと待っててくれる?すぐ戻るわ。」三組の瞳がほっそりした後姿を見つめていた。二人は好奇心をあらわに、一人は訳知り顔で。

 

第56章〜60章