Glaucus' Story:第56〜60章

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第56章 指輪

ジュリアが捧げ持つ古い金の指輪に、炎がちらちらと反射した。彼女は全員に見えるように指輪をゆっくりと回した。宝石の深紫に黄色い光が混ざり合った。これは、権力者のために造られた指輪だ…皇帝にふさわしい指輪だ。玉璽は大きく、マルクス・アウレリウスの指に嵌っていた時には、手の甲まで届いていただろう。ジュリアの憶えている皇帝の指は長く細く、どこか繊細だった。皇帝や戦士と言うより、詩人や学者に相応しい指だった。

玉璽は完璧な円形の石に刻まれ、磨きぬかれていた。希少な紫色の瑪瑙だ。職人の高度な技がうかがえる素晴らしい沈み彫りだった。人間の手で彫られたとは信じられぬ程の繊細な線。玉璽の大きさが持ち主の指の細さと対照をなしているように、紋章の素朴さは金の重みや宝石の豪華さと対照的だった−薔薇をあしらった一束の麦。文字も、神や女神の像も、ローマ軍の勝利を表す徴もない。気取りのない、つつましやかな麦の束と、美しい薔薇の花。帝国の隅々までの、あらゆる階級のローマの民を養っている、豊かに実った麦。シリアからブリタニアまで、あらゆる所に咲く何百万もの薔薇。シンプルで、自然だ。しかし、世界一の権力者が自分の紋章としてこの二つを選んだのだ。それは簡素であるが故に、なおさら神秘的だった。孤高の人、マルクス・アウレリウス皇帝に相応しい紋章だった。戦士であり、哲学者であり、強く、慈悲深く−絶対権力を持ちながら、その力をローマの民衆に返そうとした人物。マキシマスを唯一の後継者として選んだ人物。

「すごいわ」きらめく色に見惚れていたマキシマが言った。「誰にもらったの?」

「ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス陛下からよ。」グラウクスが息を呑んだのを見てジュリアはにっこりした。「モエシアで、あなたのお父さんはとても危険な立場にいて、私は彼の命を守る手伝いをしたの。皇帝はとても感謝して下さって、この玉璽入りの指輪を下さったの。何かあった時、これを使って助けを求める方法を教えて下さったわ。」ジュリアは指輪を掌に乗せ、その重みを感じた。「ローマでマキシマスが奴隷になっていると知った時、彼の命を救うのに使えたかもしれないわね」彼女は言った。「でも、間に合わなかったの。」

「マルクス・アウレリウスが死んじゃった今となっては、何の意味もないんじゃない?」マキシマが言った。彼女は母親から指輪を受け取り、手の上で何度も何度もひっくり返した後、中指にはめた。指輪は指を丸ごと覆ってしまった。

ジュリアが答えようとしたが、グラウクスが口を挟んだ。「ヴェスタの祭司長。彼女ならこの指輪の意味がわかるんですね?」

ジュリアは笑顔でうなずいた。

グラウクスが言った。「その指輪を見れば、彼女は助けてくれる。ジュリア…その指輪を僕に貸してくれるんですか?」

彼女の笑みが広がった。「あなたのお父さんが生きている間に、彼を助けるために使えなかったのなら、死後の彼のために使うわ。皇帝もそうお望みになった筈よ。」

「ほら…受け取って!」マキシマが叫んで兄に指輪を放った。グラウクスは空中から指輪をつかみ取り、大きな手で握り、宝石を掌に感じた。彼は指輪をぎゅっと握りしめて、ゆっくり指を開いて、掌に残った紋章の跡を見つめた。

「ニュースもあるのよ。」ジュリアが笑顔のアポリナリウスを見ながら言った。「ルシアス・ヴァレスの居所がわかったわ。」

「どこ?」マキシマとグラウクスが声を揃えた。マルクス・アウレリウスの孫の名前が出たとたん、貴重な指輪の事は一瞬忘れ去られた。

「彼はアルペン属州、アルプス・アトレクティアネ・エ・ポエニネのアイユーデス・セレクトス・クエスティオニスを勤めているわ。名前は長いけど、帝国中で一番小さい属州のひとつかもしれないわ。とにかく、一番不便な所だと言う事は確かね。アルプスの高地にあるんだから。」

「体よく追っ払われているわけだ」グラウクスが言った。

「その通りね。」マキシマが言った。「そのアイユーデ…何とかって言うのは何?」

アポリナリウスが会話に加わった。「アイユーデス・セレクトス・クエスティオニスはね、小さ過ぎて総督が置かれていない属州の最高権力者だよ。地方における司法をつかさどる執政官だ。要するに、座って苦情を聞き、裁決を下す役だ。どうでもいい役職と言うわけじゃないけど、あまり仕事はないんじゃないかな。アルプスの高地には羊飼いぐらいしか住んでいないから。」

「それにしても、セヴェルスは利口ですね。」グラウクスが言った。「ローマ市民には、マルクス・アウレリウスの孫に重要な役職を与えたように見える。でも、その実、邪魔にならないように追っ払っただけなんだ。」

「まったくその通りだ。」アポリナリウスが言った。「道が通れるのは夏だけだし、あの若者は外の世界から孤立しているみたいなもんだ。北部や西部の属州に続く街道はアルプス・アトレクティアネ・エ・ポエニネのある峰を通らないし。3つあるアルペン属州のうち、一番北にあるんだ。」

「彼はどのぐらいそこにいるんですか?」グラウクスが訊いた。

「わからないわ」ジュリアが答えた。「ローマから離れてずいぶんになるけど、元気でいる筈よ。」

「そこに行きます…気候のいいうちに出発しないと。ジュリア、アポリナリウス、本当にありがとう。感謝の言葉もないくらいです。」

「明日あなたが発つ前に、しておきたい事があと二つあるの。」ジュリアが言った。「何ですか?」「見つかりにくくするために、あなたの外見を変えるの。それから、あなたの正体を知られてしまうおそれのある場合に、代りに雑用をしてくれる道連れが要るわ。マキシマを生むとき助けてくれた女性に−私の親友なんだけど−マキシマより1つか2つ年下の息子がいるの。頭のいい、勘のいい子よ。マキシマ同様、ヴィラの生活に退屈しているらしいの。ラテン語とギリシア語は完璧に話せるし、読み書きも得意よ。もう彼の母親に話してあるの。あの子はきっと、喜んでついて行くわ。」

「乗馬は出来ますか?」グラウクスが訊いた。旅路を遅らせるような足手まといの少年なら、連れて行く気にはなれなかった。

「あなたがいない間、あなたの馬を世話していたのはあの子なのよ。もうすっかり仲良しになっているわ。ええ…乗馬はとても上手よ。」

「名前は?」

「ブレヌスよ。背はあなたと同じぐらい。豊かな黒髪の巻毛で、深い茶色の瞳よ。」

「ブレヌス…ああ、わかったわ、ママ」マキシマが言った。「子供の頃一緒に遊んだわ。ママが私を屋敷の奥に閉じ込めることにする前。きっと気に入るわよ、グラウクス。」

「そうですか…それなら、仰る通りに。ありがとう、ジュリア。」グラウクスは深呼吸した。「これで、しばしのお別れですね。明日、早朝に出発します。皇帝の手先に見つかる前に。まだずっと遠くにいると思いたいけど、砂漠の殺しの噂はあっという間に広まるでしょうから。」

「ローマで会いましょうね。」マキシマがきっぱりと言った。

「だめだ。」グラウクスが一切の反論を拒む声で言った。「何もかも終るまで、何があっても会わない。」

マキシマは口をとがらせた。「でも…」

「だめだ!」グラウクスが言った。「この話はもう終りだ。同じローマにいても、会うのはだめだ。」

マキシマは唇を引き結び、話題を変えた。「ママ、外見を変えるって、どうするの?」

ジュリアは何も言わずに微笑んだ。

 

灰色の朝霧の中、馬に乗った二人の男の影がヴィラから続く道をゆっくりと進んで行った。甘い香りを放つ満開の夾竹桃を越え、爽やかな香りのレモンの木の下を通るとき、刺だらけの枝が二人のケープにひっかかった。まるで、行かないでと引きとめているように。オスティアとローマを繋ぐ街道に出る頃には、雨がしとしとと降り始めていた。ブレヌスはケープを耳まで引っ張り上げた。豊かな黒い巻毛が濡れそぼり、頭に貼りついていた。びしょ濡れの茶色いケープも、若者の細い、しなやかな身体を隠しきれてはいなかった。とても若い−まだ少年と言っていいほどの−青年は、ヴィラから離れて初めての長旅に出る興奮を隠してはいなかった。彼は鹿毛の雌馬を急がせて、マイペースで進む大きな黒い雄馬と並んだ。アルターはご主人とようやく再会出来、また旅に出られたのが嬉しくて鼻を鳴らした。坂を降りるにつれて、周りの沼地から立ち昇る霧は濃くなり、頭上に聳える糸杉の木から水滴がこぼれた。まだ商人の姿も見えない。しかし、二人はうっかりもらした言葉が敵の耳に届かぬよう、黙って馬を進めた。

ブレヌスは駿馬に乗った男を横目でちらりと見た。昨夜会った時のグラウクスは親切だったが、どこか距離を置いていた。会ったばかりの少年に心を明かすつもりはないようだった。ブレヌスは彼の信頼と友情を勝ち取りたかったが、べらべらと喋りかけるのがいい方法とは思えなかったので、黙っていた。彼は道連れになった青年に、少し気後れしていた。何と言っても、あの伝説的な将軍マキシマスの息子なのだ。馬に跨った彼は、威圧的な姿に見えた。広い肩に掛けられたケープが馬の逞しい背中に垂れていた。美しい剣と鞘を腰につけ、その手はさりげなく束に乗せられていた。

冷たい小雨も気に留めず、グラウクスはぴんと背筋を伸ばしてアルターの背に座り、真直ぐ前を見ていた。平静な心、研ぎ澄まされた感覚。彼の目はわずかな音にも反応して動いていた−鳥の声、動物たちが道端の草を揺らす音。昨夜はあまりよく眠れなかったので彼は少し不機嫌だった。マキシマとの別れは辛かった。彼女が母親の保護の元で安全に過ごしているのは安心だが、妹に会えないのはとても寂しかった。それにジュリア…彼女に会えないのも。ジュリアのアパートメントお気に入りの椅子の横のテーブルに、彼はマキシマスの絵をそっと置いて来ていた。あれを見つけたら、彼女はどんな顔をするだろう?彼はそっと微笑んだ。きっと、マキシマスも彼女に持って欲しかっただろう。それに、彼はあの絵を隅々まで覚えこんでしまっていた。父の顔は脳にしっかり焼きついていた。グラウクスは鞍に座り直し、腰に心強い重みを感じた。指輪と、ジュリアとアポリナリウスを証人にした契約書の写しがしっかりとくくりつけてある。

冷たい水滴がフードの下から首のつけねに流れ落ち始めた。彼はうなじに手をやって、髪がないのに一瞬驚いた。ジュリアが、彼の長い巻毛と髭を短く刈り込むように言ったのだ。今では父の髪型に近くなっている。鏡を見たときの驚きは忘れられない。これで髪に油をつけて前に梳かし、色をもうすこし暗くしたら、父と言っても通るだろう。ジュリアはわかっていたのだろうか?肩越しに鏡に映った彼女はショックに蒼ざめ、手を口に当てて目を潤ませていた。いや…彼女も驚いている。気持ち悪いほど、父に似ていた。鎧とケープを着けたら、絵の中の若い将軍そのものになるだろう。これは有利な事なのか?不利なのか?今はまだわからない。

 

ローマ
図書館の高窓から射す陽に踊る埃を眺めながら、マリウスはため息をついた。調査には飽き飽きしていた。政治の勉強にも…グラウクスに会ってからの、冒険に満ちた毎日が懐かしい…彼が行ってしまって、興奮はあっという間に消えてしまった。マキシマス将軍の息子と友達になるまで、それまでの生活がどんなに退屈だったか気づいていなかった。まあ、完全に元の生活に戻ったわけではない。グラウクスが万一戻って来た場合に備えて、衛兵がインシュラを見張っている。しかし…本当に戻ってくるのだろうか?どことも知らぬ辺境で朽ち果てているのではないだろうか?

マリウスは追想から覚め、近くのベンチに座ってテーブルに巻物を積み上げている青年を見た。よっぽど大事な勉強なんだろう、とマリウスは思い、漂う埃に目を戻した。彼はため息をついて、ようやくペルシア戦争の勉強に戻った。マリウスと青年は長い間、黙って座っていた。青年が彼の肘をつついた。

「すみません、ちょっと教えてくれますか?これ、どういう意味なんでしょうか?」見たことのない青年だった。マリウスは彼をじろじろと見て、害のない子供だと判断し、テーブルの上の羊皮紙を見下ろした。マルクス・アウレリウスのゲルマニア戦役の年表だ。

マリウスはうんざりした。「どこがわからないんだい?」

「ここです」少年は巻物の中に隠した小さな蝋の書字版をマリウスに見せた。

「何…」そこに書かれた言葉を読んで、マリウスはあわてて口を閉じた。「ああ、そうか…えーと、これに関しては、あそこの書棚にいい文献があるよ」左側の壁を指差しながら、彼は部屋を素早く見まわしてグラウクスを探した。グラウクスは三列目の書棚で文献を探す振りをしながら立っていた。討論したり、文献を読んでいる熱心な学生たちには背を向けていた。

「ありがとうございます。あ、どうか座ってて下さい。自分で行きますから…すぐ戻ります。この席、取っといてくれますか?」

「ああ…もちろんいいとも」マリウスはペルシア戦争の文献を見下ろし、立ち去る若者の方を見ないようにした。数分後、彼は大きなあくびをして伸びをし、背骨が元の位置に戻る音を聞きながら、髪を短く切ったグラウクスのすぐ近くで文献を調べている少年の方をこっそり盗み見た。二人はぶつかり、謝罪の言葉を交わしていた。少年は戻って来た。グラウクスは暗い隅の一人掛けの席についた。

「見つかったかい?」マリウスは自分の声がかすれているのに気づいた。

「ええ、見つかりました。これでしょう?」青年が巻物を広げると、グラウクスの伝言が書かれた書字版が現れた。マリウスは素早く読んだ。

「えーと…君、ローマは初めて?」さりげない会話で重要な情報を伝える方法を考えながら、マリウスは言った。

「はい、今朝着いたばかりです。勉強をしに来たんです。」少年は手を差し出した。「ブレヌスと申します。」

「よろしく、ブレヌス。僕はマリウスだ。」ブレヌスはにっこりして、文献に視線を戻した。さて、これからどうしたらいいのだろう?グラウクスの伝言は、危険なので近づくなと告げていた。

ブレヌスが唐突に彼の顔を見て言った。「僕、下宿を探したいんです。田舎者でも安全な所を教えてくれませんか?」

言葉が自然に出てきた。「僕が住んでいる所は安全じゃない。とても危険なんだ。来てはいけない。えーと…そうだな…サビュラの近くならいいかもしれない。ああ…それがいい。あそこならいい部屋が見つかるよ。行き方を説明しよう。」

 

その夜…
ブレヌスは目を皿のようにまん丸にして、グラウクスの後をついて行った。狭い、曲がりくねった道を照らすのは、自分たちの松明と、石畳と汚らしい壁を微かに照らし出しすまばらなランタンの光だけだった。こんなローマは想像したこともなかった。ローマは隅々までがフォーラムみたいだと思っていた…買い物客や実業家、元老院議員などが歩き、神殿と公共建造物が並び、光が溢れている…こんなのは想像もしていなかった−彼は少しでも悪臭を防ぎ、吐き気を抑えようと、鼻にケープを当てた。尿と排泄物、吐寫物の臭い。彼はグラウクスについて歩きながら、もごもごと謝罪した−これで10回目ぐらいだ。グラウクスに怒られても、彼の側にいたほうが安心だった。彼のランタンと剣の側に。それに、グラウクスは道を知っているみたいだ。ブレヌスはここがどこなのかもわからなかった。それにしても、グラウクスは何でこんな所で平気なのだろう?動物も住めないような場所に人間が住みついている。

グラウクスは角を曲がった。ブレヌスはあわててついて行き、ドアの前で急に止まったグラウクスの背中にぶつかった。彼がまた謝ると、グラウクスは彼の手首を掴んで自分の横に引っ張った。「いいかげんに謝るのはやめろ!」グラウクスが言った。「気持ちはわかる。僕も、ここに初めて来たときは同じように感じた。ただ…謝るのはやめてくれ。苛々するんだ。」

「すみませ…」ブレヌスはそう言いかけてあわてて手で口を押さえた。彼は言いかけた言葉を必死で否定するように、黒い巻毛を揺らしてぶんぶんと首を振った。

グラウクスはため息をついた。ブレヌスは確かに役に立つし、心から好きだが、この世間知らずぶりには時々うんざりする。まあ…僕にくっついていれば、そのうち嫌でも世慣れてくるだろう、とグラウクスは思った。グラウクスはもう一度ため息をつき、剣の束で傷だらけの木のドアを叩いた。ドアはたちまち開いた。彼はブレヌスに手招きして先に入らせ、少年がドアの横にある巨大な石の男根像にぎょっとしているのを見てくすくすと笑った。ああ…世慣れてくるのも時間の問題だ。

中に入ると、彼らの鼻腔はこの種の部屋独特の甘ったるいにおいに襲われた。隅々から立ち上る体液の臭いをごまかすための香りだ。若い女が出てきて、一言も喋らずに少し開いているドアまで案内した。二人はわびしいアトリウムを後にして、さっさと部屋に入った。

「グラウクス、グラウクス…わが友よ!」マリウスが叫び、スペインの若者を固く抱きしめた。「もう会えないかと思っていたよ。図書館では、君だとわからなかった。髪がなくなって、お供がついたみたいだな。」

グラウクスはにやりとした。「ああ。ブレヌスだ。ジュリアの友達の息子なんだ。」

マリウスが驚いているのを見て、グラウクスは続けた。「もっと驚かせることがある…僕に妹がいたんだ、マリウス。妹だ!」

「妹だって?」

「妹ですって?」入り口の所に、でっぷりした腰に手を当てたユーゲニアが立っていた。三人は一斉に振り向いた。彼女は両手を上げてマリウスの抗議の言葉を止めた。「はいはい…ごめんなさいね。邪魔しないって約束したし、お金ももらったのにね。でも…妹ですって?ジュリアとマキシマスの子供じゃないでしょうね?」

グラウクスはユーゲニアをやさしく部屋から押し出し、ドアをしっかりと閉めた。「ありがとうユーゲニア、あとで話すよ。」彼はにやにや笑っているマリウスの方を振り向いて言った。「いいから座れよ、貴族の坊ちゃん。驚かせることがあるんだ。」

「こっちにも話すことがある。」もうこれ以上は黙っていられない、と言うように、マリウスが勢い込んで言った。「クイントスの居場所がわかったんだ!」

グラウクスは頭から足の先まで電流が走りぬけるのを感じた。手足が指の先まで震えた。しかし、彼の声は感情を完全に隠していた。「どうやって見つけたんだ?」

マリウスは友人の平静さに拍子抜けした。「ええと…ローマ人の記録好きは知っているだろう?ちょっと掘り起こしてみたんだ。でも…どこにいるのかを聞きたくないのか?」

「もちろん聞きたいよ、マリウス」グラウクスは腰を下ろし、3つのゴブレットにワインを注ぎながら言った。「誰よりも会いたい相手だ。あまり遠くないといいが。」

「うーん、あまり近くはないな…ガリアだ。やせた土地からなんとか生活の糧を得ようと頑張っているよ。」

「農夫になったのか?」グラウクスは驚いた。

「ああ。」マリウスが得意そうに言った。「皮肉な話だろ?彼が売った農作物の量と払った税金の額から判断して、どうも、あまり向いていないらしい。セヴェルスが権力を握って、近衛兵を全部…生き残った近衛兵を全部追放した時、クイントスはガリアに逃れたんだ。」

「何年前のことだ?」

「セヴェルスがローマに進軍したすぐ後だよ。7年前かな。あの時の事を覚えているかい?セヴェルスは近衛隊の副官と百人隊長全員に、武器をおいて礼装を着て、ローマの城門の外に集まるように命令したんだ。近衛隊の連中は、そこで忠誠を誓えば地位に留まることが出来ると思って、いそいそと従った。クイントスは新皇帝を完璧に迎えようと、わざわざ近衛隊の閲兵式までやったんだ。連中がめかしこんでいる間に、セヴェルスの遠征軍の分隊が武器庫を制圧し、城門を固めた。そして別の分隊が丸腰の近衛隊を包囲したんだ。セヴェルスはペルティナクスを裏切った罪で近衛隊を告発した。皇帝を殺したわけじゃなくても、暗殺者を阻止出来なかっただけで同罪と言う訳だ。そして、形式的に放免した。近衛隊は軍服を脱がされ、馬を奪われて追放され、ローマから百標石以内に近づいたら死刑だと宣言された。自殺した者もいたが、クイントスはこっそりガリアに逃げたんだ。そこで落ち着いてから、娘を呼び寄せた…」

「娘?娘がいるのか?」グラウクスが驚いて訊いた。

「ああ。短い結婚の忘れ形見だ。確か、妻は出産の時亡くなって、娘は妻の親戚に育てられていたんだ。クイントスがその気の毒な女の子を連れて行ってしまうまで。クララって名前だったと思う。」

「よくやってくれた、マリウス。すぐガリアに向うよ。奴とは決着をつけなきゃならない。聞く事を聞いてからな。」グラウクスの声は奇妙に感情を欠いていた。自分の妙な冷静さが友人を心配させているのに気づき、彼は微笑んでみせた。「疲れているだけだよ。この数ヶ月というものの、冒険の連続だったから…でも、収穫はあった。この部屋はいつまで借りられるんだい?」

「いつまででも好きなだけ。ローマにいる間は、ここにいたら安全なんじゃないかと思ったんだ。」

ブレヌスはがっかりして下を向いた。

「それがいい。マリウス、冴えてるな。さあ、まずワインでも飲んでくれ。驚かす事があるんだ。」

 

第57章 神殿

三日後、グラウクスとブレヌスはフォーラムを抜ける大通り、ヴィア・サクラをぶらぶらと歩いていた。二人はのんびりと散歩を楽しんでいるローマ住民、という感じで、朝の光に輝くカストルとポルクスの神殿、シーザーの神殿、そしてヴェスタの神殿の前を通り過ぎた。グラウクスはまた外見を変えた。もう誰も彼だとわからないだろう。彼の髪は漆黒になっていた。ユーゲニアのところの、増え続ける白髪をごまかすために始終髪を染めている女性のお陰だ。眉と髭まで少し暗くした。お父さんに瓜二つよ、とユーゲニアは言った。しかし、ローマの人々がそんなに昔の事と結びつけて考えるとは思えなかった。黒い髪と明るい茶のトーガは、同じような外見の人々に溶け込むだろう−グラウクスはそう望んでいた。

既にマリウスが、表向きは神殿の倉庫に家族の大事な書類を預けるという理由で、ヴェスタの館に正午の会見を予約してくれていた。扉が開いたら、グラウクスはどうしても祭司長に会いたいと言ってねばるつもりだった。しかし、どうやって誰にも疑われずにそこまで行けばいいのだろう?彼は頭を下げ、道の陰になっている方を歩いた。ブレヌスが近衛兵がいないかどうか見張っていた。近衛兵を見つけると、彼は合言葉をつぶやき、二人は建物の陰に隠れて危険が去るのを待った。建物の陰が短くなり、ついにはなくなってしまった頃、ブレヌスはヴェスタの館に歩いて行った。グラウクスは少し離れて立っていた。

ヴェスタ神殿はローマで最も古く、最も重要な神殿で、ヴェスタの巫女たちが住んでいる館の正面、広場から少し奥まった所に立っていた。神殿は家庭と暖炉の女神、ヴェスタ教の創始者にしてローマの二代目の王、ヌマ・ポンピリウスによって建てられた。この神殿の中で、ヴェスタの巫女たちが都市の生命の象徴である聖火を守っている。神殿の中にはトロイがアテネから奪ったと言われているパラディウム像−アテネの象徴−もあった。

この数日というものの、マリウスは大得意でグラウクスとブレヌスに神殿と巫女たちの事を説明していた。本当は正式な神殿じゃないんだ、と彼は言った。ヴェスタの像があるわけでもない。しかし、ローマにおけるヴェスタ神殿の重要性は否定できない。6人ヴェスタの巫女の最も重要な仕事は、聖火が決して消える事のないように守ることだ。

グラウクスはブレヌスが消えた建物を見た。神殿は周りの建物より小さく、大理石の円柱の他は煉瓦造りで、正方形の土台の上に立っていた。神殿と大神官の住むレギアはヴィア・サクラから分かれた道、ヴィカ・ヴェステで隔てられていた。神官長はヴェスタの精神的リーダーと見なされていたが、実際の儀式には参加しない。それはローマの大貴族の家庭から選ばれた6人の巫女だけに許されている。美しさと若さと体力の絶頂に選ばれた乙女たちは、心と身体の純潔を象徴する純白の衣をまとい、国家機密や皇室の書類の保管者、神聖なローマ連邦の徽章の忠実な守り手となる。任期は30年間。その後、36歳から40歳ぐらいになったヴェスタの巫女たちは家に帰ることを許され、結婚するのも自由になる。任期は10年づつの3期間に分かれている。最初の10年は見習として先輩巫女に神殿の神秘を学び、次の10年は実際に儀式をつかさどり、最後の10年は後輩を教育する。

任務が終っても、ヴェスタの館を出て俗世に帰る巫女はほとんどいない。巫女としての名誉、特権、富は、市井の生活や結婚生活の利点を遥かにしのぐからだ。彼女たちは大金持ちだ。広大な土地を持っていて、そこからの収入もあり、各家族から、また各州総督からの特別な寄付もある。ヴェスタの巫女は通常の法の支配化になく、家父長制からも解放されている。劇場やコロシアム、戦車競技場には彼女たちのための特別席が用意されている。彼女たちはいつでも、どんな種類の乗り物でもローマの街路を走らせる特権を持っている。他の者は、たとえ執政官であっても、彼女たちには道を譲らなければならない。専用の厩を持っていて、馬はよりどりみどりだ。

ヴェスタの巫女たちは国家の儀式で重要な役割を果たし、皇帝の遺言状や国家機密書類が彼女たちに委ねられる。内戦や連邦の重大な危機の際には、彼女たちは敵対勢力間に和平をもたらす使者に選ばれることがある。

乙女たちが誘惑に落ちぬよう、細心の注意が払われている。夜間に男性がヴェスタ神殿に近づく事は許されない。どんな理由があっても、男性がヴェスタの館の敷居をまたぐことは許されない。召使も秘書も全員女性である。医者すら例外ではなく、どんな緊急事態でも侵入を許されない。実際、この厳重に守られた純潔の砦の中では、病気そのものが許されていない。深刻な病気の最初の兆候が現れたとたん、患者はアトリウムに移され、両親か信用できる女性の保護者の世話を受けることになる。どちらの場合でも、医師の行動は厳重な監視を受ける。

この花園に存在する唯一の棘は大神官長だ。彼は乙女たちに少しでも怪しい兆候がないかどうか、油断のない目を配っている。彼女たちの生活は、館の侍女から選ばれた密告者によって、細々とした所まで彼に報告される。

実に面白い話だったが、グラウクスが興味がある巫女は一人だけだった−聖職に生涯を捧げた高齢の祭司長、キリア・コンコルディアだ。彼女はマルクス・アウレリウスの従妹で、彼の後に数多くの皇帝が現れては消えた今でも、彼とその後継者に密かに忠誠を誓っているのではないかと言われている。

突然ブレヌスが現れ、グラウクスを手招きした。少年は館の西側のノヴァ・ヴィアに消え、スペインの若者は急いで追いついた。外側からは厳粛に見えるこの巨大な館が、豪華絢爛な内部を隠しているのだろうか。扉へ向かって歩きながら、彼は背筋を伸ばし、顔を上げた。入口の両側に、二人の重武装した衛兵が立っていた。少しでも疑われるような真似はしたくない。年配の女性秘書が階段に立ち、彼を手招きした。衛兵は彼を無視していた。

透き通るように白い手が入口から差し伸べられた。「さあ、書類をお渡しなさい。」

ヴェスタ巫女の秘書を何と呼んだらいいのだろう?グラウクスはちょっと頭を下げ、慇懃に、しかしきっぱりと言った。「すみません、この書類は祭司長に直接お渡ししなければならないんです。」

女性は手をひっこめ、腰に当てた。「とんでもない。そんな前例はありません。私が適切な人に渡します。」彼女はまた手を伸ばし、苛々と振った。

「適切な人物は祭司長、キリア・コンコルディアだけなんです。祭司長とお話したいのですが。」

「そんな事、無理ですよ。」彼女は最後通告のようにそうつぶやいて、扉を閉め始めた。

「待って下さい」グラウクスはそう言って、閉まりかけた扉の隙間から、掌を上にして手を差し出した。「これをお渡しして下さい。僕に会うかどうかは、祭司長ご自身がお決めになります。」

老女は目を細め、興味深そうに指輪を見つめた。彼女は指輪を彼の手からつまみあげ、目の近くに持って来てためつすがめつした。表情が微妙に変わり、声が柔らかくなった。誰の玉璽かわかったようだ。「ここでお待ちなさい。すぐに戻ります。」彼女はグラウクスの前で扉を閉めた。

長い、張り詰めた時間が経った。グラウクスとブレヌスは二人の衛兵の間に並んで立ち、黙って樫の扉を見つめていた。ようやく扉が開いた。先ほどとは別の、ずっと若い女性が立っていた。明らかにヴェスタの巫女ではない。しかし、さっきの秘書のような厳しい顔つきではなかった。彼女は衛兵たちに向かって、きっぱりと言った。「下がってよろしい。」

衛兵たちは振り向き、けげんそうに眉を上げた。

「聞こえたでしょう?下がってよろしい。今すぐに。この方たちの用件が済むまで戻らないように。」

衛兵たちは不満そうにグラウクスをじろじろと見たが、命令に従って建物の隅に下がった。成り行きが気に入らないことは、衛兵の態度に表れていた。二人の平民が、巫女を傷つけたり侮辱したりするそぶりでも見せればすぐに守れるよう、彼らは警戒を緩めなかった。ブレヌスはグラウクスと背中合わせに立ち、衛兵たちが声の聞こえるところに戻って来ないように見張っていた。

女性は親切な微笑を浮かべた。「私はキリア・コンコルディア様の個人秘書です。祭司長様はお会いになります。部屋に入ってはなりません。間違っても、敷居に足をかけてはいけませんよ。わかりましたね?そんなことをすれば、たちまち衛兵に斬り捨てられます。」

グラウクスはうなずいた。腰には剣をつけていないのに、右手が自然に動くのを感じた。彼は感謝をこめて頭を下げた。「わかりました。」

女性は闇に溶けた。グラウクスとブレヌスが廊下に立っていると、誰もいないと思っていたところからいきなりまた別の女性の声がした。

「どこでこの指輪を手に入れたのです?」その威厳ある声は、薄暗い部屋の中から聞こえた。純白のストーラと灰白色の髪だけがぼんやりと見えた。彼女の後に、灰色がかった人影がいくつか見えた。

グラウクスは衛兵の方をちらりと見た。かなり遠くにいるにもかかわらず、低くおさえた声で答えた。「それを貸してくれた女性は、マルクス・アウレリウス皇帝から直接賜ったのです。カシウス将軍の反乱の後、陛下がモエシアにいらした時に。」彼は返事を待った。長い間があった。

「『あらゆる出来事は、春に薔薇の咲き、夏に穂の実るごとく、全て変わらぬなじみ深きこと』」巫女は恭しく暗誦した。

「何ですって?」

「陛下の『自省録』の言葉です。この言葉から紋章を決められたのでしょう。」

「わかりました。えーと、この指輪の持ち主の女性は、マルクス・アウレリウスの重用した将軍、マキシマス・デシマス・メリディアスの命を救う手助けをしたんです。モエシアで。僕は将軍の息子で、父の事について情報を求めているんです。」

「彼は死にました。」そっけない返事が聞こえた。

グラウクスは彼女の冷たい言葉に受けたショックを隠して言った。「ええ、知っています。父に何があったのかはもう知っています…ローマで死んだと…剣闘士として…コモドゥスを殺した後に。父はマルクスアウレリウスの娘、ルッシラの腕の中で死にました。」

「それなら、わたくしに何の用です?」

「大事な書類を預かって欲しいのです。僕の父が皇帝を殺したという疑いを晴らす書類です…まだそんな疑いを持っている人々に対して…そして、僕の命を守ってくれるかもしれない書類です。マルクス・アウレリウスと父が署名した正式な国家の書類です。皇帝の印璽もあります。」

「見せて御覧なさい」幽霊のように白い手が陽光の中に現れ、巻物を受け取るとすぐに消えた。その後は、巻物を広げる微かな音しか聞こえなくなった。やがて、息を呑む音が聞こえた。「この目でこれを見る日が来るとは。」巫女はつぶやいた。

「あなたは…この契約書のことを知っているんですか?」グラウクスは困惑した。どうして知っているんだろう?セヴェルスが言ったのだろうか?

「わたくしに預けることにしたのは賢明なことです。その書類の持つ力は、帝国を混乱に陥れかねません。」

グラウクスは疑いを持ち始めていた。「安全な所に保管して欲しいだけなんです。必要な時使えるよう、写しを二通取りましたが、原本は安全な所にしまっておかないと。後で返して欲しいんです。」

長い沈黙の後、声が聞こえた。「あなたはお父上によく似ています。」

突然優しくなった彼女の声に、グラウクスは何と答えていいのかわからなかった。「父をご存知だったんですか?」

「個人的に知っていたわけではありません。わたくしは普段は剣闘を見ませんし。しかし、コモドゥス皇帝はヴェスタの巫女たちに、彼が開催した、亡くなった皇帝を称える剣闘試合を見るように命令しました。それで、あなたの父上が闘うのを見たのです。」

「そして、死ぬのを。」

「そうです。ローマにとって悲しい日でした。」

グラウクスは安心した。「指輪を返して頂けますか?持ち主に返さなくてはなりません。」

「安全に保管します。」扉が閉まり始めた。

「ああ…お願いします。指輪は返して頂かないと」グラウクスは狭まりつつある暗い空間をのぞき込んだ。「僕の物じゃないんです。」

彼女は隙間から手を出して、指輪を彼の手に落とした。「この書類の安全はわたくしが保証します。怖れる事はありません。」大きな音を立てて、扉はしっかりと閉まった。グラウクスは混乱したまま扉を見つめた。これだけなのか?

「シーッ!」ブレヌスが囁いた。「衛兵が戻ってきます。」

グラウクスはくるりと方向転換して、ゆっくりと歩いて道に出た。その時になって初めて、暑い日でもないのに背中に汗が流れ落ちているのに気づいた。彼はトーガで掌を拭き、ブレヌスと角を曲がってヴィア・サクラへ出た。二人は急ぎ足になって、神殿から離れて屋台と居酒屋の並ぶ方へ向かった−人ごみに混じるとほっとした。グラウクスは真直ぐ、官庁の谷間にある小さな居酒屋に向かい、真直ぐ一番奥のテーブルへ向かい、食べ物を満載した盆を肩にのせた給仕女をよけた。頭に合っていない茶色の巻毛のカツラで変装したマリウスが、約束の場所に座っていた。二人はほっとして、彼の隣に腰を下ろした。マリウスは北方からの輸入品のエールを注いだ。ブレヌスは苦味に顔をしかめたが、グラウクスはごくごくと飲み干した。

「終わってほっとしたかい?」マリウスは友人がゴブレットを空にするのを見ながら訊いた。彼はおかわりを注いだ。

「何故か、底のない井戸に全てを放り込んだような気がする。もう二度と取り戻せないんじゃないかって気がして落ち込んでいるんだ。」

「大丈夫だって。僕の父は重要書類をヴェスタに預けている。身分さえ証明出来れば、返してもらうのは簡単だよ。受け取り証はもらったんだろ?」

グラウクスは蒼くなった。「いや。彼女はそんなもの必要ないと言ったんだ。」

「そうか…まあ、お前の場合は特別なのかもな」マリウスは肩をすくめた。「まあ、気にするな。ここの料理はなかなかいけるぜ。田舎風だけど。注文するか?」

「不気味な所でした」ブレヌスはさっきの冒険にまだ少し動揺していた。

「たしかに、ちょっと不気味だな」マリウスはカツラの事を一瞬忘れて頭を掻いてしまい、あわてて真直ぐに直した。「男があそこに足を踏み入れる事は許されないんだ。乙女たちの純潔を汚す輩がいるといけないからね。あの中で、本当は何をやっているんだろうってよく考えるんだ。神聖冒涜的な考えだけどな。」

「まったくだ」グラウクスは居酒屋の壁に掛った岩板にチョークで書かれたメニューを読みながら言った。

「そう言えば、君たちを待っている間暇だったんで、あの道に面した席に座っている美女に関して『神聖冒涜』な考えをたっぷり巡らしていたよ。」グラウクスは混み合った昼食時の居酒屋を見回してその女性を探した。「しかも、連れがいないみたいなんだ。ローマでは見かけた事のない…」

彼の言葉は、グラウクスの怒りのうなり声にかき消された。友人がテーブルを蹴って立ち上がったので、彼はあわててエールのゴブレットを押さえた。グラウクスは彼女の方へ、人ごみをかき分けてつかつかと歩いて行った。

「どうしたんだ?」マリウスはにやにやしているブレヌスに訊いた。

「彼の妹なんです」ブレヌスが答えた。

「何だって?」ショックと喜びの混じった声でマリウスが言った。あの美女を紹介してもらえるだろうか?「あれがマキシマ?」

「マキシマです。」ブレヌスが答えた。

マリウスの胸に可笑しさが湧き上がり、深い、喜びに満ちた笑いとなって溢れた。「彼女を連れて来いって言ってくれよ。」屈託なく微笑んでいる妹に近づく友人を眺めながら、彼はブレヌスに言った。「あいつが彼女を殺す前に止めてくれ。彼女にぜひご挨拶したい。」

グラウクスはマキシマの上腕をぎゅっと掴んで彼らのテーブルに引っ張って来た。目に怒りが溢れていた。しかし、彼女はひるむことなく、微笑を浮かべたまま兄と幼なじみの間に座った。

「こんにちは、ブレヌス。ローマを満喫しているかしら?」彼女はにこにこ笑いながらそう言って、ストーラを引っ張って兄の手を振り払った。

「こんにちは、マキシマ」ブレヌスが答えた。彼はゴブレットをぐるぐる回して、中身が蒸発してくれないかと思っていた。

「ここで何をしてるんだ?」グラウクスがうめくように言った。

「フォーラムで待っていれば、遅かれ早かれ通るだろうと思ったのよ。話をしたかったの。」

「お母さんは知っているのか?」

「もちろん知らないわ。」彼女は首を傾げた。「それ、似合うわね。最初わからなかったわ。」彼の黒髪のことだった。彼女は兄の連れの方を見た。「紹介してくれないの?」

グラウクスはまだ妹を睨んでいたので、マリウスが自己紹介した。彼は立ち上がって深々と頭を下げた。カツラが転がり落ち、彼のサンダルに当たった。彼はカツラを蹴り上げて受けとめ、頭に戻した。「お嬢さん、僕はマリウス・ヴェサニウス・アグリッパと申します。お目にかかれて大変光栄です。」彼は笑った。「この妙な変装をお許し下さい。」

グラウクスは嬉しそうに笑っているマリウスを睨みつけた。「まあ、そう怒るなよ。ヴェスタ巫女の堅物がうつったか?」

「こんにちは、マリウス」マキシマは答えた。「お噂は伺ってますわ。私のことはご存知なんでしょう?」

「ええ、でも、もっといろいろ知りたいですね。ねえ、あなたのように美しく賢く優しい女性に、どうしてあんな兄貴がいるんです?」彼はグラウクスを指差した。グラウクスの顔は怒りで紫色になっていた。マキシマはくすくす笑った。ブレヌスは忍び笑いをもらした。

「遊びのつもりなのか?」グラウクスはうなった。「冗談のつもりか?こうしている間にも、我々の命は危険にさらされているんだぞ。今にも近衛兵がやって来て、全員逮捕されるかもしれない。そうなったら、テュリアン刑務所の地獄穴の底で恋愛ごっこを続けるといい!」彼の声は一語ごとに大きくなった。彼ははっとして、周りの客が聞いていなかったかどうか辺りを見まわした。近くの客たちは、すっかり頭に来ている様子の男とかかわり合いになりたくなくて、あわてて目をそらした。

「ごめんなさい、グラウクス」マキシマが宥めるように言った。「アルプスに出発する前に、どうしてももう一度会いたかったの。」

「その前にガリアへ行くんだ。」マリウスがそう言ったとたん、テーブルの下でグラウクスに思いきり向うずねを蹴りつけられた。

手遅れだった。マキシマには何の話かよくわかっていた。「クイントスね?クイントスを見つけたのね?」

「あー…そうなんですよ」もう隠しても仕方がないので、マリウスが説明した。「クイントスはガリアで農夫をやっているんです…あなたのお父さんやお兄さんのように。」そう言ったとたん、マリウスはまずい事を言ってしまったのに気がついた。

グラウクスが振り向いた。「あんな男と父を比べるなんて、どういうつもりだ?」

「別に…」

「僕とマキシマスの名を、あんな男の名と同時に口にするな」彼の怒りは爆発寸前だった。彼は妹の方を向いて「護衛はどこだ?」と言った。

「トラヤヌス市場で私を探しているわ。」マキシマは満足そうににやにやと笑った。兄の不機嫌にはもううんざりだ。「私が飾りものを眺めていたら、店の外で喧嘩騒ぎがあって、護衛が気を取られている隙に逃げ出したの。あの市場は素晴らしいわ。帝国中の珍しい物が集まっていて…エジプトやギリシアやペトラの骨董品まであるのよ。それに、絹も!ママがあそこで絹を買うはずだわ。世界中で一番楽しい場所ね。ローマって素敵!」

マリウスは彼女が喋るのをうっとりと眺めていた。ブレヌスはエールが蒸発してくれないことに気づき、なんとか味に慣れようと少しづつすすっていた。グラウクスはテーブルに肘をついて、急な頭痛を抑えようとこめかみをさすっていた。彼がようやく顔を上げると、マリウスとブレヌスは席を替わっていて、マリウスとマキシマは楽しそうに話し込んでいた。うなじの辺りまで痛みが広がった。紫色の霞みの向こうに、親友が妹に言い寄っているのが見えた。「またお会いしましょう」という言葉が耳に入った。

「だめだ」グラウクスは断言した。彼は辺りを見まわしてから言った。「マリウス、君は僕とガリアに行くんだ。忘れたのか?」

マリウスは驚いてグラウクスを見た。「僕がいると進みがのろくなるから来るなって、今朝言ったばかりじゃないか!」

「それは誤解だよ」グラウクスはわざとらしく言った。「君に一緒に来て欲しいんだ。」

マリウスは皮肉な笑いを浮かべて考えた。「僕をローマから遠ざけたいだけだろう?というより、妹から遠ざけたいんだ。」彼は目を伏せているマキシマの方を振り向いた。その表情がどんなに魅惑的か気づいているのだろうか?「マキシマ、残念だけど、友人を裏切るわけにはいかないようです。僕たちが帰ってくるまで、ローマにいてくれますか?」

「もちろん。出発はいつですか?」

グラウクスが口を挟んだ。「ローマで片付けなくちゃならない仕事があって、1週間はかかる。」

「そう、それじゃ、出発までにもう一度会えますね。」マキシマがマリウスに甘ったるい声で言った。

「お嬢さん、僕はあなたのしもべです。風に囁いてくれさえすれば、すぐに飛んで行きますよ。まあ、それが効かない場合は、僕のインシュラに使いをよこして下さい。」二人は声を合わせて笑った。

ブレヌスはエールを飲み干し、勝ち誇ったようにゴブレットを上げ、マリウスがおかわりを注ぐ前に、あわてて手でふたをした。

グラウクスは出し抜けに立ち上がって言った。「さあ、もう家へ帰るんだ。召使が戻って、君を見失った事をジュリアに報告する前に。ジュリアが知ったら大騒ぎになる。」

マリウスが立ち上がって美女に手を差し伸べた。「僕に送らせて下さい。」彼は恭しく言った。

マキシマがその手を取ると、グラウクスがぶっきらぼうに言った。「いや、僕が行く。」

マリウスはマキシマの手をしっかり握って自分の肘に置き、出口に向かった。「それは賢明とは言えないな。君と一緒のところを見られたら、妹さんに危険が及ぶ。」

その事実は認めざるを得なかった。他に方法はないだろうか?ブレヌスはほろ酔いだし、ローマをよく知らない。彼は歯噛みした。この慇懃無礼なローマ人の友人に議論で負けてしまった。グラウクスは顔に笑みを貼り付けていた。妹は別れの印に手を振り、マリウスと一緒に午後の陽射しの中をフォーラムの雑踏に消えた。

グラウクスはブレヌスを引っ張って立たせ、少年が追いつけないようなスピードでユーゲニアの家へと帰った。数時間後にマリウスが戻ってくるまでには、荷物も馬も準備が整っていた。翌日の夜明け前、三人はガリアに向かって出発した。マリウスは楽しそうに口笛を吹いていた。三人はポルタ・フラミニアを渡り、ローマ郊外へ出た。

 

第58章 ガリア

涼しい海風から離れてローヌの谷間に入ると、蚊とサシバエの攻撃はほとんど耐えがたくなった。馬たちはひっきりなしに尾を振り、狂ったように頭を振りたて、繊細な鼻腔や目を害虫から守ろうとしていた。

乗っている人間たちにとっても、それは同じだった。彼らはトーガを頭の上まで引っ張り上げたが、小さな虫たちは隙間から入りこみ、首筋や耳の後の皮膚を貪っていた。夜、彼らは毛布の下にちぢこまり、掻けば余計に痒くなる皮膚を掻かないように我慢していた。

三人はアルプスを避け、なるべく海岸沿いを通って北へ向かっていた。しかし、いずれは通らねばならない。時間を節約するために、ピセからニケアまで船で行くことも考えた。しかし、グラウクスはアルターがどう反応するか心配だったので、愛馬の安全のために船は避けることにした。ここ数週間で馬と主人は以前の親密さを取り戻していた。その絆を危うくするような事はしたくなかった。

ブレヌスは旅路を満喫していた。都合のいいねぐらが見つからなかった夜、星空の下で寝るのも気にならなかった。谷間の暖かさにもかかわらず、まだ雪を被ったままの遠い峰。あの荘厳さに比べれば、ローマのフォーラムさえ色あせて見える。剣を着けていないのはブレヌスだけだったが、それも気にならなかった。代りに、彼は鋭い目と耳を役立てていた。ブレヌスが雷鳥の声や鹿の姿に敏感に気づくので、三人は定期的に良い食事にありついた。獲物をしとめるのは、弓矢の名手であるグラウクスの役だった。

マリウスはと言えば、どこを通っているのかもほとんど気づかずに、美しいマキシマのことばかり考えていた。青い海は彼女の瞳を思い出させた。小鳥の歌は彼女の笑い声を、ヴェルヴェットの夜空は彼女の髪を…あまり彼女の話ばかりするので、グラウクスはうんざりして、とにかくこれからの仕事に集中してくれ、と言った。しかし、マリウスはすっかり夢中だった。マキシマも彼に好感を持っているようだ。この熱情がもっと深いものに発展してゆくかどうかは、いずれ分かるだろう。

マキシマの相手として、マリウスはマシな方かもしれない、とグラウクスは考えた。マリウスは頭がいいし、いい奴だし、まあ、だいたいにおいては礼儀正しい男だ。彼の家族は金持ちで、ローマの貴族社会で尊敬されている。グラウクスは突然身体を起こした。アルターはびっくりしてよろめき、ブレヌスの馬の脚を蹴ってしまった。ブレヌスの馬はマリウスの馬にぶつかり、三人はあわてて急停止した。

「ど…どうしたんだ?」マリウスが剣を抜き、辺りを見回しながら言った。

「君は僕の妹とは結婚できない!」グラウクスは叫んだ。

マリウスは彼の顔を覗き込んだ。気でも狂ったのだろうか?「一体、何の話だ?」

「君は妹と結婚できない」グラウクスは顔から蠅を払いながら言った。

「妹さんには会ったばかりだ。結婚するなんて誰が言った?」マリウスは笑った。「しっかりしろよ。」

「いや…マリウス、君はわかってない。妹は元奴隷の娘だ。君が妹と結婚する事は、法律上許されない。」

「彼女は君のお父さんの娘だろう?だったら、僕と同じ元老院階級だ。」

「ジュリアはマキシマが生まれる前にアポリナリウスと結婚したんだ。正式には彼の娘ということになっている。アポリナリウスも解放奴隷だ。君とは身分が違う。」

グラウクスの言葉の意味を悟って、マリウスの顔は暗くなった。マキシマと正式に結婚出来ないのなら、交際を申し込む資格はない。もう二度と会う事はできない…少なくとも、ちゃんとした交際相手としては。これはまずい。大いにまずい。「君はどうなんだ?」彼は訊いた。「伯母さんと伯父さんの養子になっているのか?」

「いや…伯父たちは僕の生まれつきの特権を失わせたくなかったそうだ。」

「それなら、君は貴族で妹は違うのか。」マリウスは憂鬱そうに言った。

グラウクスは黙ってうなずいた。

三人は黙って馬を進めた。二人は真直ぐ前を見たまま、それぞれの憂鬱な考えに沈みこんでいた。ブレヌスは不安そうに二人の顔を見比べた。三人きりの道連れの間で、諍いが起こるのは困る。

タラスコの村に着くまで沈黙は続いた。村に着いても、事務的な言葉を交わしただけで、仕事に気持ちを戻した。クイントスの居場所を訊ね始める頃合だ。噂話の温床、地元の居酒屋から始めるのがいいだろう。しかし、村人たちはぽかんとした顔で肩をすくめるばかりだった。

次の町に着いた時には夕方になっていた。三人は真直ぐ、ヴァレンティア唯一の居酒屋へ向かった。そして、ここでは収穫があった。

「ああ、知ってるぜ」居酒屋の主人が言った。「あんまり良くは知らねえが。1年に1回か2回会うだけだ。たいがい、穫り入れ時だな。東の丘のてっぺんに、嫁き遅れの娘と住んでらあな。」男はローマから来た客を感心させたくてうずうずしているようだったた。

「作物を売りに来るんですか?何を売ってます?」グラウクスが訊いた。

「大したもんはねえな」男は鼻を鳴らし、にやりと笑った。歯はほとんど全部が抜けているか、抜けかけているか、黒くなっていた。「奴ぁ、百姓ってもんをわかってねえのさ。だから、ロクなもんが穫れねえ。ま、どっちにしろ畑仕事はほとんど娘がやってるんだ。」

「友達はいないんですか?」グラウクスが訊いた。

「いるもんかい。丘の上で、娘と二人きりで住んでるよ。誰とも喋らねえし、何か訊いたって答えやしねえ。愛想のない奴だよ。」主人はこれだけ聞けば充分だろう、と言うようにテーブルを拭き始めた。

「彼の家にはどう行けばいいんです?」マリウスがテーブルに情報代として金を置きながら言った。

「宿屋の前の道を真直ぐ行くと、右に丘を登る道がある。草ぼうぼうだから、わかりにくいけどな。」主人は片手で北側の壁を指差し、片手で金をポケットに入れながら言った。男が腕を上げると、その体臭にブレヌスはひるんだ。「丘を登るのに半日はかかるぞ。下の方が土地がいいのに、何で降りて来ねえのか、わけがわからねえ。ここじゃみんなブドウを作るんだ。そうすりゃ結構な金になるのに、麦なんか作ろうとしてるんだ。馬鹿じゃねえのかな。頭がおかしいんだって言っている奴もいるな。」

「彼の人相は?」グラウクスがそう訊くと、男は初めて疑わしそうに目を細めた。

「知り合いじゃねえのか?奴に何の用だ?」彼は訊いた。ブレヌスは口臭に我慢できず、新鮮な空気を吸いに外へ出た。

「我々はローマのある事務所のものでして、彼はローマに住んでいた頃に我々に資金を借りたのです。」マリウスがすらすらと嘘をついた。「最近、事務所の持ち主が替わりまして、新しい持ち主は返済の滞っている貸付金を回収しようとしているのです。」

借金と言うのは、居酒屋の主人にとってなじみ深いものだった。「なるほどね。この前奴を見た時には、髪が薄くなって白髪が増えていた。凄く痩せてて、服は洗ってあったけど、新しくはなかったな。どこがどうって事もねえ、目立たねえ奴だよ。」

「宿屋はどこにあるんでしたっけ?」マリウスが訊いた。「丘に向かうには、今日はもう遅いようです。」

「角を曲がってすぐそこだよ。クリーサスは正直者だ。清潔な、良い宿屋だよ。兵隊が贔屓にしてるぐらいだ。」

「兵隊?」グラウクスは警戒した。

「ああ。ここから馬で数日行ったラグデューナム(リヨン)に連隊の基地があるんだ。南へ行く兵隊がよく途中でここへ寄ってる。休みで来る奴もいる。」

グラウクスの笑顔がたちまちしかめっ面に変わった。マリウスは主人の気をそらすためにあわてて背中を叩き、手に金をすべりこませて、グラウクスを連れて外に出た。ブレヌスが低い石の壁に座っていた。

「そんな近くに軍隊がいるなんて知らなかった」グラウクスがうめいた。「ゲルマニアに近い方にいるんだと思ってた。」

「そうだな…もうちょっと遠くにいてくれた方がありがたい事は確かだな。君は父親そっくりになってるし。」マリウスが言った。「若き日のマキシマス将軍を見たら、兵士たちはどう反応するかな?君のことは全軍に指令が回っているだろうしな。」

「父を覚えていて、僕と結びつけて考える兵士が、その連隊にどのぐらいいると思う?」グラウクスが疑わしそうに言った。

「一人いれば充分ですよ」ブレヌスが言った。

「その通り。グラウクス、ここは用心しよう。」

「今、その宿屋に兵士がいるとは限らないだろう?宿屋を素通りして丘の道に出て、どこか野宿できる所を探せばいい。問題ないよ。さあ、ぐずぐずしてないで行こう。」

その後すぐ、三人は小さな宿屋を見つけた。泥煉瓦と木と枝と藁葺き屋根のちぐはぐな建物で、道から少し奥まった所に立っていた。高い木に囲まれていて、夏には陽射しから、冬には寒風から守られていた。暑い日だったが、暖炉の火が燃えている匂いがした。ローストビーフの美味しそうな匂いが彼らの鼻腔に漂って来た。近くに立つ厩は、宿屋そのものと同じぐらい大きかった。外には誰もいなかったが、鎧戸を開けた窓から声が聞こえて来た。中は混み合っているようだ。

グラウクスとマリウスとブレヌスは余計な注意を引きたくなかったので、ゆったりしたペースで進んでいた−と、突然グラウクスが手綱を引いた。

「何をしてるんだ?」マリウスが囁いた。「止まるなよ。中の連中は兵士かもしれないぞ。」

「兵士だよ」グラウクスが低い声で答えた。「厩の外の馬をみてみろよ。兵士じゃなければ…騎兵隊じゃなければ、あんな馬は持っていない。」グラウクスがアルターの方向を変えて道を降り、宿屋に向かって行ったのでマリウスは驚いた。グラウクスは馬に乗ったまま身体をかがめて窓を覗き込んだ。友人たちは訳がわからぬまま後をついて行った。

突然ドアが開き、兵士が現れた。兵士はふらふらと茂みに向かい、ズボンをまさぐって、安堵のため息と共に長い黄色の流れを放出した。ただの兵士ではない。士官の身分を示すワイン色の羊毛の軍服を着ていた。今は非番なので、ケープと鎧は着けていない。彼は用を済ませて、馬上の三人の男たちの方を真直ぐ見た。男は愛想良くうなずいてみせ、仲間の兵士たちの所へ戻った。

マリウスはアルターの轡を取って引っ張って行こうとしたが、馬はぴくりとも動こうとしなかった。背中に乗っているご主人以外の命令を聞く気はさらさらない。焦ったマリウスはグラウクスに囁いた。「お父さんの剣。それを見られてなきゃいいが…早くここを離れた方がいい…他のやつらが出てくる前に。」

グラウクスは考えに沈みこみ、アルターが他の二頭について行くにまかせた。少し後、三人は街道から東へ向かう急な坂道を登っていた。道が険しく、岩だらけになって、夕闇の中を登るのが危険になってくると、松の根元に比較的平らな草むらを見つけて、そこで一夜を過ごすことにした。近くには小川が音を立てていた。暖かい夜で、空も晴れていたので、三人は小さな焚火を囲んで乾肉とビスケットとチーズとワインの食事をとり、毛布にくるまっただけで横になった。

マリウスはたちまちいびきをかき始めたが、グラウクスは落ちつかなかった。尖った石が腰に当たり、彼は毛布の中で身じろぎした。今度は肩が固いものに当たり、彼は柔らかい草の地面を探してもじもじと動いた。いつもなら彼を眠りに誘う音が、今夜は気に障った。小川のせせらぎは滝のように響き、コオロギの声はカラスの鳴き声のように聞こえた。彼は寝返りを打ってうつぶせになり、組んだ手にあごをのせた。ブレヌスももう眠っていた。彼の寝息がマリウスのいびきと一緒になり、調子っぱずれのラッパのようだった。

グラウクスは身体を起こした。どうも眠れそうにもない。心は揺れ動き、身体はこわばっていた。物心ついた頃から憎んできた男が近くにいるという意識のせいだろうか? もうほとんど手の届きそうな所に、クイントスがいるのだ。同じ空気を吸い、同じ星を見ている。今夜水を汲んだ同じ小川の水を飲んでいるのかもしれない。グラウクスが今座っている、この同じ場所に座った事もあるかもしれない。一度ならず二度までも、父を裏切った男。あの近衛兵がすぐ近くにいるのだ。彼の死が近い事を思い、グラウクスはほろ苦い思いにとらわれた。

しかし…娘はどうなるのだろう?子供の事など考えていなかった。クイントスが結婚していたなんて、思ってもみなかった。クイントスを殺したら、彼女はどうなるのだろう?

どうして気にすることがある?

しかし、気になった。彼はマキシマのことを考えた…どうしても気になる。最初の計画では、ただ彼と対決し、何をしたか説明させ、アリーナでマキシマスが死ぬ前に何があったか聞き、その後はらわたに剣を突き刺す…それだけのつもりだった。こうなってみると、もっと時間が欲しい気がする。どうするか決める前に、クイントスと娘を観察して、二人の関係を見定めたい。

それに…正直に認めると…あの男の苦しみを長引かせたかった。これから死ぬのだと−ガリアの寂しい山奥で死んでゆくのだと悟った時の苦しみを長く味あわせたかった。 使い物にならない農場の岩だらけの地面に葬られ、誰も−娘さえも−悼んではくれないという事を思い知らされ、あの男が苦しむのを望んでいた。ああ…それが望みだ。あの男の目の前で、娘を父親に背かせてやりたかった。そのために時間が欲しい。時間が。

グラウクスは岩に腰を下ろし、地面から草を1本引き抜いて歯の間にはさんだ。彼は髪をかき上げ、短くなっているのにまた驚いた。前になでつけると、短い、やわらかい前髪が額を縁取った。父もこんな髪型をしていたのだ。グラウクスは髪を平らにして、掌で前になでつけた。つややかな髪が額にかかった。自分の見かけのことなどあまり考えている暇のないローマ将軍にふさわしい、飾り気のない髪型。父の絵がまざまざと頭に浮かんだ。彼は立ち上がって肩に毛布を掛け、裾が膝の辺りに来るように調節した。父はケープを着けていた…それに、狼の頭の飾りのついた真鍮の鎧。父の軍服が手に入ったらどんなにいいだろう…羽毛飾りのついた兜と、銀の毛皮も。それらはもう存在しない。失われてしまった。

しかし、父の軍服は現在のローマ軍士官が着ているものとさほど変わらない…宿屋にいたあの男のような。彼のチュニックの色は、下の谷で作られるワインの色だった。

グラウクスの頭に、ある計画が形を取り始めていた。自分の裏切った上官が、そのままの姿で生きて現れたら、クイントスはどう反応するだろう?ずっと昔に死んだと思っていた男が現れたら?必要なのはちょっとした準備と、度胸だけだ。

度胸の方ならたっぷりある。

 

第59章 クイントス

目蓋の上で踊る木漏れ日に、マリウスは目覚めた。彼は目を閉じたまま、贅沢な気分で伸びをした。白い柔らかい肌と海より青い目をした女性の幻を消したくなかった。マリウスは微笑んだ。彼はよく難しい問題を眠りながら考えるのだが、今夜は身分差の問題を考えながら眠り、明確な解決法と共に目覚めた。マキシマの幻が彼に微笑み返した。「グラウクス、」彼は友人を呼んだ。「解決法が見つかったぞ。簡単だ。君が彼女を養女にすればいいんだ。かなり変わった方法だけど、きっと何とか出来るだろう。」

マリウスは目を開け、彼の頭の良さに驚く友人の顔を見ようと寝返りをうった。しかし、逆に、ショックのあまりそのまま立ちあがってしまった。グラウクスはワイン色のチュニックとケープ、自分の黒いブーツと父親の剣を身に着け、真鍮の鎧を手に持って立っていた。

「な…な…」言葉が出てこなかった。

「兵士みたいですね」ブレヌスが起き上がり、目をこすりながら分かりきった事を言った。

「その服はどこで手に入れた?」マリウスが怒鳴った。答えはわかっていた。

グラウクスは満足そうに微笑んだ。「簡単だったよ。兵士は間抜けにも、装備一式を馬に置いていったんだ。厩番の少年が眠るまで待って、頂いて来ただけだ。」

「気でも狂ったか!」マリウスは叫んだ。自分の声が岩にこだまして帰って来たので、彼はびくりとした。「何と言う無茶なやつなんだ」彼は抑えた声で言った。「兵士のものを盗むなんて…兵士に化けるなんて…それだけでテュリアン刑務所行きは確実だ。」

「捕まったりしない。それに、ちょっと借りるだけだ。後で返すよ。」

「かわいそうに、その厩番は大変な目に遭いますね」ブレヌスはその気の毒な少年の気持ちになっていた。

「そうだな…まあ、これを返す時に埋め合わせするよ。クイントスを死ぬほど怖がらせてやりたいだけなんだ。君の顔から判断して、効果はあるみたいだな。」

「お前は無茶苦茶だよ。そのためにこんなことまでするなんて!」マリウスは叫んだ。

「今までだって、充分無茶をやってきた。今さらこのぐらい、どうって事ないだろう?」グラウクスは荷物をまとめ始めた。これ以上反対されたくなかった。彼は手を止め、背筋を伸ばした。「なあ…ずっと考えていたんだけど…これからする事には君たちを巻き込みたくないんだ。これは僕だけの問題だ。ブレヌス、特に君は。マリウス、頼む。ブレヌスを町に連れて帰って、そこで待っていてくれないか?」

マリウスは腕を組み、足を広げて立って、断固拒否する姿勢を示した。

二人とも一歩も譲らない構えで、長い間睨み合っていた。ようやく、グラウクスはゆっくりと口を開いた。「養女の件は忘れた方がいい。そんな事をしたら、ジュリアはマキシマの親権を失うことになる…」

マリウスは肩を落とした。「それは考えなかった。たぶん…」

「…ジュリアは絶対彼女を手放さない。彼女にそんな事は頼めない。」

「何か方法があるはず…」マリウスはそう言いながら、グラウクスの方へ一歩踏み出し、懇願するように手を伸ばした。

友人の自信が揺らいだのを見て、グラウクスはきっぱりと言った。「その事はまた後で話さないか?ブレヌスを町へ連れて帰って、僕が戻るまで居酒屋で待っていてくれ。」グラウクスはアルターの背に荷物を乗せ、手綱を引いて丘を登り始めた。怒りに燃えた二組の目が背中を焼いているのを感じながら。

 

クイントスはいつものように、娘が竈から今日のパンを出す音と匂いに目覚めた。彼は夢を見ていた−いつもの夢−別の時代…別の場所の夢。目を開けた瞬間、自分がどこにいるか、夢の中の時間から今までに何があったかを思い出すと、彼はいつもショックを受け、憂鬱になった。

彼は目をこすった。目の周りの皮膚はたるみ、皺が寄っていた。彼は自分の姿を見るのを避けていた。ある明るい日に、小さな池に映った自分の姿を偶然見て愕然として以来、家の中に鏡を置こうとしなかった。きちんと刈り込んだ兵士らしい髪は薄くなり、完全に白髪になっていた。きれいに髭を剃った顔はやつれていた。眉の間に縦に走る傷跡は後退した生え際まで伸び、額に横に走る深い皺と交差していた。鼻と口の両側にも深い皺があり、彼の顔にいつも怒っているような表情を与えていた。彼は痩せていた−痛々しいほど痩せていた。岩だらけの泥土に畑を作る苦労から、少し腰が曲がっていた。皇帝の兵士を率いる強く、堂々とした指揮官として自分の姿を思い描いていた男にとって、その姿は大きな衝撃だった。あの日、池に映った姿は、彼の幻想を打ち砕いた。軍人としての日々…規律と進軍、作戦と戦闘、栄光と富の日々は遠い過去になった。今の俺を見て、昔どんなに高い地位にいたか−どんなに転落したか−想像できる者はいないだろう。その方がいい。彼は今でも、毎朝身体を洗って髭を剃っていた。娘以外には誰にも会わないのに−娘すら、もうほとんど彼の方を見ない。しかし、兵士なら当然の習慣だ。マルクス・アウレリウスのフェリックス第三連隊の兵士なら。

クイントスは寝返りを打ち、背骨全体に広がったいつもの痛みに顔をしかめながらベッドから降りた。不快感は毎夜、彼が目を覚ますずっと前に始まった。同じ夢ばかり見るのは多分そのせいだろう。動き出してしまえば楽になるのは分かっていた。しかし、年を追う毎に悪くなっている。彼は痛む腰を無理にまっすぐに伸ばし、兵士のようなしゃんとした姿勢になった。完全に足腰立たなくなるまで何年あるだろう?

クララは父親が起きる音を聞き、熱い粥の鉢をテーブルに置いた。彼女はもう粥を食べ終わっていた。夕方に仕事が終るまで、二人が食べるのはこれだけだった。少なくとも、父の仕事が終るまで。クララの方は目を覚ました瞬間から寝る瞬間まで働き続けていた。眠る時には疲れ切っていたので、ローマでの子供時代の夢を見ることもなかった。ペルティナクス皇帝が死んで、父が失脚する前の生活。彼女はその頃の事はほとんど覚えていなかった。時折、大きな建物や綺麗な服を着た人々のぼんやりしたイメージが頭をかすめる。あれは現実だったのだろうか?それとも憧れを思い描いているだけなのか?

彼女も鏡が欲しいとは思わなかった。彼女も、自分が昔のままの姿だと思っていたかった。「父」と呼ぶ事になった見知らぬ男に怯えながら、初めてガリアに着いた時の姿−輝く栗色の髪と茶色の目をして、えくぼのある、いつも微笑みを浮かべている美少女の姿で。彼女の白い肌は太陽に焼かれて色黒になり、輝く髪はひっつめにして革紐で結んであった。髪など邪魔なだけだった。

後でドアが閉まる音がした。クイントスが、小さな二間の家の大きい方の部屋に入って来て、テーブルについた。一緒に食事しないことにして良かった。お互い、話すことなど何もなかった。食事を終えても彼はまだ空腹だったが、慣れていた。初夏の今でも食料を節約しなければ、冬に飢え死にしてしまう。彼は立ち上がり、皿を水につけ、ベッドと粗末なテーブルと椅子が置いてある小さい部屋に戻った。彼はいつものように剃刀を取り、小さな歪んだ窓から外を眺めた。彼はいつものようにぼろ布でガラスを拭いた−ガラスはこの辺りでは貴重品で、彼の生活の中では唯一の贅沢だった。そしていつものように、道沿いの木々を眺めながら顎に生えたわずかな髭に剃刀を当てた。それは一日の内で、土に言うことを聞かせようと苦闘することを忘れ、この地の美しさを純粋に楽しむことの出来る唯一の時間だった。彼は道の頂点にある一番高い松の木に目を留め…髭を剃る手が途中で止まった。彼は身を乗り出して目を細め、もう一度窓を拭いた。今日は何かが違っている。根元の影がいつもより濃い。確かに、濃くなっている。それに、あの影は脚がある。

クイントスは注意深く剃刀を置き、顔を拭いた。彼は玄関の横に置いてある剣を掴み、ドアをゆっくり開け、隙間から外を覗き見た。馬に乗った男がいた。もうはっきり見える。この辺りには、馬に乗る人間はほとんどいない。大きな、力のありそうな馬…軍馬だ。背筋を冷たいものが駆け下り、彼は身震いした。兵士が何の用だろう?兵士には丸腰で近づいた方がいいと思い、彼は剣をドアの横に戻して朝の光の中へ踏み出した。

「クイントス・クラルスか?」影から深い声が聞こえた。

クイントスは背筋を伸ばして胸を張り、顎を上げた。「そうだ、クイントス・クラルスだ。私に一体何の用だ?」

「マルクス・アウレリウス帝治世下の将軍、マキシマス・デシマス・メリディアスの副官だったクイントス・クラルスか?」

クイントスは不安になった。こんなに若い兵士が、どうして知っているのだろう?この兵士の声は…マキシマスに似ている。心臓が早鐘を打ち、息が苦しくなってきた。マキシマス?この距離から見ると、マキシマスそっくりだ。もっとよく見ようと、彼は手を目に翳した。

クララが家の後から歩いて来て、驚いて足を止め、手で口を押さえた。

「その通りです」クイントスは用心深く答えた。「そちらはどなたですか?何の用ですか?」

グラウクスはアルターを歩かせて陽射しの下に出た。巨大な黒い駿馬は前脚を跳ね上げた。筋肉が震え、尾が波打った。「私は貴様の悪夢だ。」

クララは息を呑んだ。

「マキシマスか?」クイントスは息がつまり、喉を掴んだ。「いつか…いつか来ると思っていた。あの夢が…そうだ…わかっていた…」クイントスは泥に膝をつき、攻撃を防ごうとするように手を上げた。身体中が震えていた。

馬が近づいて来た。「私が怖いのか、クイントス?何故だ?」

「ゆ…夢だ。毎晩、お前の夢を見る。若い頃…一緒に軍にいた頃の。楽しかった頃の夢…でも不吉な夢だった…わかっていたんだ…」クイントスは言った。言葉の最後は恐怖のあまり、ほとんど泣き声になっていた。彼は震える手で顔を覆った。

クララが父の横に膝をつき、庇うように腕を回した。彼女は馬上の兵士を見上げた。「あなたは誰ですか!?父に何の用なんです?」彼女の声は冷静で、堂々としていた。

グラウクスは、父親と彼の間に雄々しく身を投げ出した女性を見た。彼女は小柄で、痩せた父親の身体にやっと腕が回るぐらいだった。服装はごく簡素で、農婦の着る茶色のスカートをはいていた。スカートは擦り切れ、あちこちにつぎが当ててあった。彼女の肌は泥で汚れていた。彼が二人の生活にずかずかと乗り込んで来た時、ちょうど朝の仕事を始めたばかりだったようだ。手と顔は日焼けしていた…グラウクスと同じぐらい色黒だった。つんと上を向いた鼻には、みっともないそばかすが散りばめられていた。「美人だ」とグラウクスは思った。「でも、みじめな恰好だ。」彼は余計な感情を急いで押し殺した。彼はゆっくりと剣を抜き、目の前に縦に構えて腕を伸ばした。彼は出来る限り低い声を出して言った。「私はマキシマス・デシマス・グラウクス、マキシマス・デシマス・メリディアスの息子だ…父の仇を打つために来た。」

クイントスは娘の泥で汚れたスカートを掴んだ。彼女は侵入者をののしり続けた。「うちから出て行って下さい!出て行って!私たちのことは放っておいて!ここに何の用があるって言うの!」

グラウクスはアルターを前に進め、恐怖にうずくまっている男のすぐ近くに立った。しかし、クララは勇敢に抗議を続けていた。「あなたは誰なの?」彼女はグラウクスに向かって叫んだ。「父にそんな事を言うなんて!すぐに出て行って!」

「これは僕と君のお父さんの問題だ。君は関係ない」グラウクスは言った。

「でも、あなたは誰なのよ?見たことないわ。どうして父にそんな事が言えるのよ?」

グラウクスはアルターをゆっくりと歩かせ、二人の周りを回った。クララは彼から目を離さないように身体をねじらなければならなかった。「娘は知らないのか、クイントス?娘には話していないのか?」彼は嘲るように言った。「上官で、友人だった男を、一度ならず二度までも裏切った事を…彼を殺した事を?」

「娘は何も知らん」クイントスは小さな、震える声でつぶやいた。「俺がしたことは娘には関係ない。放っておいてくれ。」

「それでは認めるんだな!」グラウクスは叫び、クララに向かって言った。「お父さんは教えてくれなかったのか?彼が将軍を裏切った事を…ローマ皇帝に指名された将軍を…自分の欲の為に裏切った事を?それに…」

「命令に従っただけだ。皇帝の命令を遂行しただけ…」

「貴様は自分の父親を殺した男の命令を遂行したんだぞ!皇帝を殺した男の!」

「いや…それは違う。皇帝は自然死だったと思っていた。本当にそう信じていたんだ。」

グラウクスは脅すのが嫌になっていた。それより、答えが聞きたかった。彼はクイントスから目を離さぬまま馬を降りて、馬の背を叩いて木陰に行かせた。彼は父の剣の切っ先をクイントスの歪んだ顔に向けた。「この剣がわかるか?」

「ああ」地面に座った男が言った。娘はゆっくりと立ちあがった。「どこでこれを?」

「質問するのはこっちだ。聞きたいことが山ほどある。最初から始めよう。ゲルマニアでマルクス・アウレリウスが殺された夜、何があった?詳しく聞きたい。」

突然、クララが彼に飛びかかり、肩をつかんで父の顔に向けられた剣の狙いを外させようとした。グラウクスは本能的な防御反応で腕を上げた。肘が顎にぶつかり、彼女は後向きに泥に倒れこんだ。彼はあわてて彼女に謝ろうとしたが、クララは一瞬で立ちあがって彼の顔に掴みかかった。爪が彼の頬に食い込んだ。彼はやっとの思いで振り払った。彼女は泥の中に倒れた。今度はグラウクスは手を貸さなかった。「そのまま動くな」彼は頬ににじんだ血を手の甲で拭きながら言った。彼は剣をクララの方に向けた。二人のうちでどっちが危険なのだろう?「父親の横に行け。二人同時に見張れるように」

「やめて」クララは父の横に這って来て座った。父親は静かに泣いていた。

「答えを見つけると父に誓った。」

「お父さんのためなんかじゃないでしょう。あなたの言う通りなら、お父さんはもうずっと前に死んだんでしょう?自分のためだわ!」クララが言った。

「君のお父さんは復讐を好まなかった」クイントスが言った。

「それは違う。」グラウクスはクイントスの方へ剣を戻しながら言った。「父は妻と息子の…僕の母と兄の復讐のためにコモドゥスを殺した。」

「違う。そういう理由じゃない」かなり落ち着きを取り戻したクイントスが言った。

「黙れ!」

「俺はその場にいた」クイントスは言った。「俺は知っている。」

グラウクスは怒りにかられてクイントスの髪を掴み、顔を上げさせて頸静脈に剣を押しつけた。「何を知っているんだ?話せ!」

「首に剣をつきつけられてちゃ話せないわ」クララが言った。「立たせてあげて。」

グラウクスはゆっくりと剣を下ろた。切っ先が土に触れたが、彼の拳はクイントスの髪を握ったままだった。「さあ、話せ!」彼は命令した。

「立たせてあげて!」クララが立ちあがりながら、断固として言った。「話を聞きたいなら、まず立たせて。」

グラウクスは荒っぽく手を放した。クイントスは泥の中に倒れた。クララは父に駆け寄り、助け起こした。農夫は震えながらグラウクスの前に立った。「ちゃんと座って話そう。文明人らしく、ワインでも飲みながら。」

「貴様の出す物など飲まない。裏切り者め」グラウクスは押し殺した声で言った。

「あなたの思い通りにしたらいいわ。でも、せめて座らせてあげて。」クララが懇願した。グラウクスはうなずいた。彼女は父を助けて小さな家に向かった。ドアの近くで老いぼれた驢馬が、無関心な様子で草を食んでいた。三人が近づくと、数羽の鶏が逃げて行った。ドアに着くと、グラウクスは二人に止まるように命令し、クイントスの首に剣を当てて彼のチュニックを引っ張り、少し後ろに下がらせた。グラウクスは用心深く覗き込み、状況を判断しようとした。誰もいない。グラウクスが家に入ると、足が何か金属製の物に触れた。彼は剣を部屋の向こうに蹴飛ばした。ドアの横にあった箒も同じように蹴飛ばした。彼はぶっきらぼうにうなずいた。クララとクイントスが部屋に入り、クイントスは椅子に座り込んだ。

あばら家だった。主室全体でも、彼がローマで借りていたインシュラの寝室と同じぐらいの大きさだ。一隅にベッドが寄せてあり、色とりどりの端布を縫い合わせ毛布できちんと覆われていた。この家の中にある数少ない色だった。部屋は土間で、岩のように固く、二枚の手編みの敷き物だけが固さをやわらげていた。一枚はテーブルの近く、一枚はクララのベッドの横に敷かれていた。藁葺屋根の下、壁から壁まで渡っているでこぼこした梁から、黒ずんだ鍋が下がっていた。その下に小さな暖炉があり、消えかけの火が音を立てていた。家具といえば、粗末なテーブルと椅子が二脚だけだった。客が来る事などほとんどないようだ。主室の一方に、ずっと小さい部屋があった。寝台と小さなテーブルと椅子だけで一杯だった。クイントスの部屋だろう、とグラウクスは思った。少なくとも、娘をより暖かい場所で眠らせてやっているようだ。彼は武器になりそうなものがないか部屋を見回した。鍋と火掻き棒ぐらいしか見当たらなかった。

グラウクスは部屋に背を向け、腕を組んでクイントスの方を向いた。「話せ」彼は命令した。

 

第60章 クイントスの話

「まず、君は誰なのか教えてくれ」クイントスは兵士を見上げて言った。兵士は足を大きく広げ、腕を組んで立っていた。挑むように。脅すように。

「もう言った」グラウクスはうなった。

「ありえない」クイントスは反論ようとした。「マキシマスに子供は一人しかいなかった…息子のマルクスだ…マルクスは死んだ…」彼の声は途切れた。クイントスはもう何にも確信を持てぬようだった。

「ああ、そうだ、彼は死んだ。僕は父と父の妻オリヴィアの次男だ。あの恐ろしい日、近衛隊は僕を見つけられなかった。僕は生き残った。」

「しかし、マキシマスはよく家族の話をしていた。二番目の息子の事は聞いたことがない。娘が死んだことは聞いたが…息子のことは何も…」

この男に説明する気にはなれなかった。彼は暖炉の横に立ち、苛々と足踏みしながら割れた窓から射す光を見ていた。「僕の顔を見ればわかるだろう。」

クイントスはゆっくりと首を振った。途惑った表情に、額の皺が深くなった。「君はマキシマスに生き写しだ。しかし…」

グラウクスは口から出る前に質問を止めた。「ゲルマニアのあの夜。詳しく知りたい。」

クイントスは居心地悪そうにもぞもぞと動いていた。軽い体重にもかかわらず、椅子が軋んでいた。クララが立ちあがって二人の男に背を向け、窓へ歩いて行って鎧戸を開けた。彼女は細い腕で胃の辺りを抱え込んでいた。いつもは単調な自分の生活に、突然割り込んで来た侵入者から身を守ろうとするように。

「座れ」グラウクスが怒鳴った。「立っていいと言うまで動くな。」

クララは振り向いて彼を睨みつけ、急ぎ足でテーブルの横の戸棚の方へ行った。「ワインを出すだけよ。父は腰を痛めているの。ワインが効くのよ。」

この女性はしっかりしている。僕だろうと、他の誰だろうと、簡単に怯えさせる事は出来ないだろう。彼はワインを注ぐクララがよく見えるように身体を少し動かし、武器になるような台所用品をポケットに忍ばせていないか見張っていた。彼女はいくつなのだろう?僕より年上なのは確かだ。目じりに微かな皺があった。痩せているが、大人の女性の体型だ。20代後半というところか?

クララは父の前にワインを置いて、椅子に座った。彼女は黒髪を背中に払い、父の顔を見た。彼女も、父の話を聞きたかった。

グラウクスは炉棚に手をかけて、クイントスの方へ注意を戻した。クイントスはカップを見つめていたが、飲もうとはしなかった。「皇帝が死んだ夜の事だ」グラウクスは促した。「あの夜、父がマルクス・アウレリウスの寝室に呼ばれる前に何があったか話せ。」

クイントスは不揃いな泥煉瓦の壁を眺めていたが、その目が見つめているのは過去だった。「俺は近衛兵に起こされて、軍服を着るように言われた。それから、マルクス・アウレリウス陛下のテントに連れて行かれた。コモドゥスとルッシラがもうそこにいて、父親を悼んでいた。皇帝は…前皇帝は…ベッドで安らかに眠っていた。争ったり抵抗した跡はなかった。父帝は眠っている間に亡くなったとコモドゥスが言って…俺はそれを信じた。何と言っても、マルクス・アウレリウスはずっと以前から重いご病気だったんだ。疑う理由はなかった。コモドゥスは、新しい近衛隊長に俺を選んだと言った。すぐに任務を引き継いで欲しいと。人々に愛された皇帝の死が公になれば、帝国は混乱するだろう、と彼は言った。コモドゥスは、自分の若さゆえ、王座を奪おうとする者が現れるだろう、そうすれば帝国は内戦状態になる、と言った。コモドゥスは早急に権威を確立し、反逆する可能性のある人間を淘汰する必要があった。」

クイントスは土器のコップからゆっくりとワインを飲んだ…不自然なほどゆっくりと。グラウクスが先を促そうとした時、彼は話し始めた。「最初に呼んで来いと言われたのはマキシマスだった。彼はマルクス・アウレリウスを愛していて、その死に動揺していた。コモドゥスはマキシマスに手を差し出して、忠誠を誓うように言った。コモドゥスは間違いなく、マキシマスが北部軍総司令官の地位に留まる事を望んでいた。しかし、マキシマスはその手を拒み、彼に背を向けて、俺について来るように言った。彼は怒っていた。俺は失望した。マキシマスは自分で自分の運命を閉ざしたんだ。」クイントスはワインをもう一口ごくりと飲んで、コップをクララに渡した。彼女はすぐにお代りを注いで腰を下ろし、テーブルに肘をついて手にあごをのせた。

クイントスは話を続けた。「俺は近衛兵を集めてマキシマスの部屋へ行った。彼はもう鎧を着けていた。従者のキケロに元老院議員を呼べと命令している声が聞こえた。コモドゥスの言った通り、マキシマスは要らざる厄介事を起こそうとしているのだと思った。コモドゥスとマキシマスは、子供の頃から仲が悪かった。マキシマスは分別をなくしているのだと思った。彼は俺にマルクス・アウレリウスが殺されたのだと信じさせようとした。俺は彼をたしなめようした。そんなことを言うの思慮に欠ける、と俺は言った。」クイントスはグラウクスの方を見た。彼は朝の焚火の残り火がくすぶるのを見つめていた。「軍はマキシマスに絶対の忠誠心を持っていた…軍の全員が。彼が望めば、コモドゥスと帝国に対してたいへんな面倒を起こす事が出来ただろう。内戦だ。内戦を防がなくてはならなかった。」クイントスはクララの方を振り向いた。娘がわかってくれたかどうか確かめるように。彼女は無表情に父を見た。

「それで、父の処刑命令を出したのか。父の…父の戦友で、仲間だった貴様が。」グラウクスが言った。

「そうだ」クイントスは静かに言った。「正義の行ないだった。皇帝が命令したんだ。命令に従うのが俺の義務だ。」

「義務か」グラウクスが嘲笑うように言った。「まがい物の正義だ。」

「その時は知らなかったんだ!君も兵士なら、服従しなければならないことはわかるだろう…?皇帝に対する義務だ。」

グラウクスは居心地悪そうに身体を動かしていた。鎧が急に重く、暑く感じられた。彼は暖炉を離れてゆっくりと、脅すようにテーブルに近づいた。「父はマルクス・アウレリウスが殺されたのを知っていた。どうしてわからなかったんだ?」

「俺は…マキシマスの話が信じられなかったんだ。馬鹿げた話だと思った。コモドゥスには父親を殺す理由などない。何もしなくても、数ヶ月の内には父親が死んで帝位を継承できたはずだった。」

クララは目を丸くして二人の男の顔を見比べた。信じ難い語だった。彼女の眉間には小さな皺が寄っていた。

「それで、父が正しかったと分かったのはいつだ?」グラウクスが訊いた。

「ずっと、ずっと後だ。」

「父の死んだ後か。」

クイントスはがっくりと下を向いた。「死の直前だった。」

グラウクスは満足げにうなずいた。「それで、どこまで知っているんだ、クイントス?知っているか?貴様は正当なローマ皇帝を処刑する命令を出したんだぞ。マルクス・アウレリウスは死ぬ直前に、父を後継者に指名し、契約書に署名した。知っているか?」グラウクスはテーブルに拳を打ちつけた。ワインのコップが跳ね上がり、こぼれた。赤い染みが広がったが、誰も気にかけなかった。「知っているのか、クイントス?」グラウクスは怒鳴った。「それだけでは足りないと言うように…家族を殺す命令まで下した!妻も、罪もない息子も…スペインにいて…何の関係もない二人を!」恐怖の目で見つめるクララを気にも留めず、グラウクスはテーブルの両端を掴んで持ち上げた。クイントスは床に倒れ、砕けた椅子の上、逆さになったテーブルの下に這いつくばった。倒れたままの彼を、グラウクスは責め続けた。「母も、兄も!父も!僕の家族はみんな死んだ!貴様のせいで!」

クララはグラウクスがテーブルを掴んだ瞬間に後に飛び退き、膝がベッドに当たるまで後ずさりして、そのまま呆然と座り込んだ。この怒り狂った兵士は、次は何をするつもりだろう?ローマ史の陰で父がそんな役割を果していたなんて、とても信じられない。何もかも信じられない。

グラウクスはテーブルを横に放り投げ、ブーツの足でクイントスを仰向けに転がした。彼は再び剣を抜き、男の咽喉元に押し当てた。「しかも、マキシマスを裏切ったのはそれが最後じゃないだろう?自分が間違っていたんじゃないかと思い始めてからも、貴様は役を演じ続けた。そうだろう?邪悪なコモドゥスの近衛隊長。野心に判断を曇らされていた。何度も、何度も。」

クイントスは目を閉じ、黙り込んでいた。咽喉にこみ上げたものを呑み込もうと、首が痙攣した。

「父の最期の日の事だ、クイントス。逃亡計画の事、捕まった時の事、アリーナでの最後の闘いの事を話せ。」グラウクスは剣を捩った。血が一滴、ひれ伏した男の首筋を転がり落ちた。

クイントスは深く息を呑みこみ、咳き込み、話し始めた。

 

第61章〜65章