Glaucus' Story:第6章〜第10章

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第6章 旅立ち〜198年5月

グラウクスは最後の荷物を袋に詰め込み、皮紐を引いて口を閉めながら、窓から空模様を見た。空は晴れ渡り、良い旅を約束してくれていた。それに、これから始まる猛暑を逃れて北へ向うのだ。彼は埃を払うように手を叩き、ほっそりした腰に当てて、鞍の後ろにつける袋に詰めた荷物を頭の中でチェックした。荷物はたいして必要なかった。短いチュニックが4枚−色は黒−今着ているものと同じ。少しフォーマルな長いトーガ。これも黒。それから、気候が厳しくなった時のための黒いケープ。ふくらはぎまでの黒いブーツ、予備の革サンダル。それに洗面道具と下着−これで、一つめの袋はいっぱいだった。もう一つには食糧が入っていた。節約すれば3週間はもつ。多分、そのぐらいで目的地に着けるだろう。道中は、できれば旅篭に泊まるつもりだが、それが無理な時は、どこなりと雨露しのげる所を見つけて寝なければならないだろう。彼は何週間もかけて、ペルシウス叔父からスペイン−ゲルマニア間の道や街の情報を引き出した。彼はもう、何があろうと大丈夫という気になっていた。

彼の犬、ゼウスはドアの前に寝そべり、すっかり寛いでいるように見えたが、その耳はぴくぴく動いていた。グラウクスには犬が空気の動きや物音をちゃんと警戒しているのがわかった。旅の道連れ兼護衛として、この犬を連れて行くようにと勧めたのはペルシウスだった。グラウクスは犬がそんな長旅について来られるかどうか不安だったが、最後には叔父の勧めに従うことにした。彼は髭の生えた顔をなでながら、もう一度、これから出発する旅のことを考えた。準備は整っている−準備万端だ。5年もかけて準備してきたのだ。明日の早朝、彼はナイフと剣を−豪華な金銀細工の鞘とブロンズの柄のついた剣を−腰に下げ、弓を肩に背負い、アルターに鞍を置いて旅路につく。準備は完璧だ。

ドアにノックの音がした。彼は顎をなでる手を止め、「入っていいよ」と答えた。

オーガスタが−彼を我が子として育ててくれた女性が、肩でドアを押して入ってきた。(ゼウスは慌てて邪魔にならない場所に移動した。)彼女は手に焼きたてのパンの匂いのする包みを持っていた。「丁度、お前の好きな薄焼きパンが焼き上がったところなの。持って行ったらいいんじゃないかと思って。」オーガスタはそう言いながら袋の置かれたベッドの方へ急いだ。「あとひとつぐらい入るでしょう、グラウクス?」彼女は視線を落としたまま、袋の紐を開けようとしたが、慌ててしまって上手く開けられなかった。

若者は彼女の側まで行って、震える手からパンの包みを取った。「ありがとう、ママ。あとで入れるよ。僕のために焼いてくれたんでしょう?おいしそうな匂いだ。」彼は包みをベッドに置いて伯母を抱き寄せ、喪服を着た体を胸に抱きしめて額にキスをした。それが引き金になったように、彼女はこの数日間溜め込んでいた涙を洪水のように流し始めた。彼女はグラウクスのチュニックを掴んでしくしくと泣いた。感情をはき出してしまった方がいいと思い、彼は伯母をしっかり抱きしめた。彼女の義父であるマルクスは先週亡くなった。それは同時に、グラウクスが行ってしまうことを意味していた。二重の悲しみは彼女には耐えられなかった。彼は伯母を抱きしめ、宥めるように言った。「必ず帰ってくるよ。約束する。旅に出るだけだ。ちゃんと帰ってくる。」

伯母の頭越しに、伯父のタイタスがドアのところに立っているのが見えた。彼は手招きした。伯父は妻がおいおい泣いているのを見て、しょうがないな、と言うように悲しげに微笑み、肩をすくめた。伯父も手に何か持っていた。彼はベッドに座った。グラウクスはオーガスタから優しく手を放し、彼女は鼻をかんで赤くなった目をこすった。彼女はまだ涙を流しながら夫の隣に座った。夫は彼女を守るように肩に腕を回した。

グラウクスはため息をついた。こんなに悲しい思いをさせていると思うと辛かった。「ごめん…」彼は言いかけた。

「謝ることなんかない」タイタスが口を挟んだ。「この日が来るのは何年も前から分っていた。ただ、それが1日でも先へ伸びればいいと、はかない望みを持っていただけなんだ。お前はもう大人だ。もうすぐ21になるんだから。するべき事をする時だ。分っているよ。でも、だからといって寂しくないわけじゃない。」彼は息子として育てた若者を誇りを持って見つめた。グラウクスは背の高い、逞しい若者に育っていた。何年も重い剣を振り、弓矢と乗馬の練習に励んできたお陰で、日焼けした身体はしなやかで筋骨たくましかった。変わらないところもあった。豊かな茶色の髪は今でもくしゃくしゃで、前髪が額に落ちかかっていた。緑の瞳はエメラルドのようにきらきらと光っていた。彼の花嫁候補だった多勢の女の子たちは、彼の出発を嘆くだろう、とタイタスは思った。もう少し年上の、花嫁候補ではなかった女性たちも嘆くだろう。

タイタスはグラウクスの方へ手を伸ばした。小さな箱が掌にのせられていた。

「これは何?」

「持って行きなさい。お前のために作らせたんだ。」

グラウクスはためらいがちに包みに手を伸ばした。彼の家族は、よっぽど特別の時でない限り贈り物をする習慣はなかった。彼は少し落ちつかない気分になった。「開けていい?」

タイタスは興奮を隠しきれない様子でうなずいた。「ぜひ開けてくれ。」

グラウクスは後に数歩下がって窓辺の椅子に腰を下ろした。この寝室のことなら、掌を指すようによく知っていた。伯母のすすり泣く声を耳元で聞きながら、彼は指の震えを抑えてリボンを引いた。今の今まで、彼はしっかりしていた。旅の準備に没頭していたので、感情は抑えられていた。しかし今は…どうやら、避けて通る道はないようだ。彼は深呼吸し、咽喉元にこみ上げてきたものを押し殺しながら綺麗なエナメルの箱を開き…息を呑んだ。中には、白いサテンのクッションの上に、宝石を散りばめた丸い金のフィビュラがのせられていた。グラウクスは茫然とした。彼は装飾品など身につけたこともなかったので、この贈り物は予想外の感激だった。彼は口を開けたまま贈り物を見つめていた。

「それは外套留めだよ」タイタスが教えた。グラウクスがまだぼんやりしていたので、タイタスは「外套を着る時に…その…とめるためのものだ。」と言って、肩を指差して着けるところを教えた。「ゲルマニアでは外套が必要だろう。夜は寒くなるからね。」

グラウクスはうなずいて震える息を吸いこみ、高価な品を慎重に箱から取り出した。それはとても重かった。純金に違いない。「わざわざ作らせたんだね?」他に言葉が見つからなかった。彼の普段は低い声は、自分の耳にも妙に弱々しく聞こえた。

「ああ。これはビュラの代りだ。旅の間のお守りだよ。お前に力と安全を与えてくれるように。」タイタスは立ち上がってグラウクスの横に立った。彼は午後の日差しに瞬いている5つの宝石を指差した。「ほら、5つの宝石が輪になっているだろう?」彼はそう言ってひとつひとつを指差した。「グラウクス、これはお前の家族の象徴だ。ルビーはお前の父親、マキシマスだ。ルビーは強さと力と勇気の象徴だから。」グラウクスは黙ったままうなずいた。伯父は続けて言った。「オパールはオリヴィアだ。オパールの美しさは「黒き炎」と言われるからね。お母さんにぴったりだ。黒玉はマルクスだ。母親に似て黒髪だったから。琥珀はマキシマだ。この石はまだ熟成していないから…マキシマは育つ前に死んでしまったからね。そしてもちろん、お前がエメラルドだ。理由は分るだろう。」

タイタスは若者の震える手を握りしめ、続けた。「そして、真ん中の大きなサファイアは家族全員…私たち、残りの家族全員だ。サファイアは『静かな愛』の象徴だから。お前がどこまで行こうと、どんなに長く離れていようと、私たちはいつもここにいて、お前を待っているからね。」

グラウクスは美しいフィビュラをそっと握って、ぎゅっと目を閉じた。感動のあまり言葉もなかった。

「気に入ったか?」タイタスが訊いた。

グラウクスはうなずくのが精一杯だった。「ありがとう」と言おうとしたが、咽喉が詰まって声が出てこなかった。

若者の思いつめた様子を心配して、オーガスタが手を振りながら口を挟んだ。「もし…もしお前がどうしても黒しか着ないって言うんだったら、ほら、少しは彩りをと思って…」

グラウクスは笑ったが、そのかすれた笑い声はだんだん泣き声に似てきた。グラウクスの見てくれの事なら、オーガスタに任せておけば心配ないのだ。

オーガスタは立ち上がって夫の手を握り、ドアの方へ引っ張った。グラウクスはしばらく独りになりたいだろうと思ったのだ。ドアを閉めるとき、小さな、涙を含んだ声が「ありがとう」と言うのが聞こえた。

 

グラウクスはマキシマスの家−今は彼自身の家−でアルターにまたがり、手綱をしっかりと握って若い雄馬を抑えていた。馬は鼻を鳴らして前脚を跳ね上げ、舌を鳴らして抗議したが、騎手は許さなかった。グラウクスは毛並み艶やかな黒い首をぽんぽんと叩いた。「アルター、静かにしろ。運動なら、もうすぐ嫌と言うほどできるよ。」アルターはまだ2歳だったが、スタミナでもスピードでも精神力でも、既に農場の馬の中で群を抜いていた。この馬はその父親の父親−マキシマスの2頭の馬、アルジェントとスカルトの父馬−によく似て、皇帝の馬にふさわしいほどの駿馬だった。しかし、この馬が皇帝に献上されることはなかった。この馬が生まれたばかりの時、グラウクスが自分の馬にすると宣言し、厳しく暖かい手で訓練してきた。その結果、この黒い雄馬は手に負えない、ただひとりを除いては他の誰の言うことも聞かない馬に育った。

遠くから見れば、若者と馬は恐ろしい姿に見えただろう。黒衣に身を包んだグラウクスは馬と溶け合い、まるで半人半馬の神、ケンタウロスのようだった。その姿の中で彩りと言えるのは日焼した顔と、豊かな茶色い髪−それに宝石を散りばめたフィビュラだけだった。それは朝日の中で輝き、炎のような、氷のかけらのような光を空に投げ返していた。

過去5年間、グラウクスは家業の繁殖牧場を手伝いながら、少しでも時間が出来るといつも自分の農場で過ごしていた。彼は愛情をこめて、取り憑かれたようにこの農場を手入れした。180年初頭のあの日…彼の人生を根底から変えてしまったあの恐ろしい日の前の姿に戻そうと、彼は懸命に働いた。彼は家の煤をこすり落とし、桃色石や白大理石、磨いた木材、赤瓦などを使って家を建て直した。雇われた作男たちが農地から雑草を根こそぎにした。果てしなく続く晴天の下、果樹たちは蘇り、麦は黄金色に輝く波となった。この農場はグラウクスの誇りであり、収入源でもあった−おそらく父の望んだ通りに。

しかし、整った外観とはうらはらに、家は空っぽだった。グラウクスはまだ、死んだ家族の霊魂が息づいているこの家で寝起きする気になれなかった。怖いわけではなかった。ただ、まだその資格がないような気がしていた。彼はまだ、家族と一緒になるには値しない。その前に、やらなければならないことがある。

グラウクスはアルターの手綱を引き、この世で我が家と呼べるただ一つの場所へと続く道を戻って行った。彼はそこを通り過ぎて、ゲルマニアに向かって行くのだ。ゼウスは馬の足元をついて来た。彼の祖父は一週間前に亡くなった。若者は、祖父の生きている間は家を出ないという約束を守り通した。彼は祖父を悼むために黒い服を着ていたが、ずっとこの色を着続けることにしていた…母と兄と姉のために。今まで、3人の死を悼む徴を身につける機会がなかった。今はもう、隠しておくべきではないのだろう…彼の怒りも、悲しみも。そして、父のためには…この黒衣は彼の耐え難い喪失感の表れだった。父に会いたいという思いは、激しい痛みとなって彼を焼き尽くさんばかりだった。生きているにしろ、死んだにしろ…マキシマスはここにはいない。帰るべきところ帰っていない。

誰かが、その報いを受けることになるだろう。

 

第7章 ゲルマニア

ヴァンドボーナ

グラウクスはヴァンドボーナの居酒屋の重い木のドアを開けた。たちまち、彼の鼻腔にスパイスと玉葱の美味しそうな匂いが漂って来た。匂いに反応して胃が音を立てた。彼は急いで、昼飯をかきこんでいる人々をかき分けて空いているテーブルに向った。外も暖かかったが、天井の低い居酒屋の中はさらに暑かった。窓は開けてあったが、ほとんど風は入ってこなかった。彼の服装は好奇の目を集めた。同情の印に会釈をしてくる人もいた。彼はもう慣れていた。男性が黒いチュニックを着るのは珍しい。喪中であっても、普通、黒にするのはトーガだけで、チュニックまで黒にすることはない。彼の恰好は珍しかった。しかし、暑いので、ケープは肩から外して後に押しやっていた。腕と脚は出して、筋肉質の脹脛に革サンダルの紐を結い上げていた。

給仕女はこの新顔にすかさず目をつけ、他の客を注文の途中で放り出してそそくさとやって来た。客は不満の声を上げた。「いらっしゃいませ。お客さん、ここは初めてね?前に会ってたら絶対憶えてるもの。」彼女は歯を見せてにっこりしたが、あいにく見えたのはがたがたの茶色い歯だった。

「この町に着いたばかりだ」グラウクスは答えた。この女の子とあまり話したくはなかった。

「それなら、宿をお探しね?市場の向う側に旅篭があるわよ。日が暮れる前に行けば、まだ空き部屋があるかも。」

「清潔なところ?」グラウクスは彼女のしみのついたエプロンを見ながら訊いた。この子のお薦めは当てになりそうもない。

「ええ、もちろん。ぴかぴかにきれいよ。それに、お客さんみたいな男性には色んなサービスがあるわ。」彼女は片目をつぶった。「意味わかるかしら?」

グラウクスは無視した。「今日のお薦めは?」

「えーと、上等のひき肉パイがあるわ。松の実と粒胡椒で味付けしてあって美味しいわよ。焼きたてのパンがついていて…」

「それでいい。」

彼女はあまり上品とは言えぬ表情で口をとがらせ、三つ編みにした金髪を揺らした。「他の料理もあるけど?」

「いや、ひき肉パイでいいよ。それからワインを頼む。よく冷えたのを。もしあれば。」

彼女は抜け目ない目つきで彼をじろじろ眺め、まず彼の腕、それからテーブルの横から見える左脚を値踏みした。「好みのはっきりした男って好きよ。」

グラウクスは脚を引っ込めた。「軍の基地はここから遠い?」

「誰を捜しているの?」彼女は一歩下がって、彼を改めて眺めまわした。「あなたは兵隊じゃないわよね?兵隊には見えないもの。」

「そう?」

「ええ。」

「どうして?」

「そうねえ…まず、服装が違うし、髪がきれい過ぎるし、とってもきれいな緑の目をしてるし…」

「目が緑だと兵隊になれないのかい?」彼はこの女に少々苛立ち始めていた。

彼が無愛想なのは喪中のせいだと思っているらしく、彼女はまるで気にせずに身体をすりよせて来た。汗のにおいが鼻をついた。「親しい人が亡くなったのね。かわいそうに」彼女は真面目な顔で言った。

グラウクスは思わず身を引いた。「ありがとう。あの…そろそろ注文を伝えてくれないかな?」

彼女はもう一度にっこりしてみせてから、腰をはじめとする身体のあらゆる部分を大げさに揺らしながら歩み去った。腹を空かした客たちが一斉に手招きしたが、彼女は無視し、彼の注文を伝えに真っ直ぐ厨房に向かった。

グラウクスは隅に押し込まれた。彼は椅子を傾けて後の2本の脚だけでバランスを取った。彼はすっかり寛いで見えたが、その目は情報を提供してくれそうな客を探して店内を見回していた。ほとんどは地元民のようだ。商人か農民だろう。非番の兵士のようにも見える男もちらほらといた。ローマ風のトーガを着ている者もいれば、地元風にズボンとシャツを着ている者もいた。彼は失望を感じている自分を嘲笑った。何を期待していた?彼が昔のローマ将軍、マキシマスに似ているのに誰かが気づいて、このテーブルにやって来るとでも?

トーガを着た男が一人、彼のテーブルに来て座った。

グラウクスは椅子の前脚を音を立てて降ろし、招かれざる客を眺めた。男は手を差し出し、グラウクスはその手をためらいがちに握った。「君、ここは初めて?」すこしろれつの廻らぬ口調で、男は訊いた。彼の昼食は主に液体だったようだ。

「この街に着いたばかりです。」

「私はカリウス。ヴァンドボーナの長官だ。君は?」

「僕の名前はグラウクスです。」

「グラウクス…変わった名前だね。」

彼は肩をすくめた。「僕には似合っていると思います。」

「スペイン人かい?」

「…そうですが。」

「訛りでわかるよ。この近くに、スペイン人の将軍がいたことがあった。あまり街には来なかったがね。」

グラウクスは興奮が湧き上がるのを感じ、落ち着けと自分に言い聞かせた。こんなに早く、父を知っている人と接触出来るとは思わなかった。彼は慎重に言葉を選んだ。「イスパニアは広いですから。ここにもスペイン人はたくさんいるんでしょうね。」

「あまりいない。軍人だけだね。イスパニアは気候がいいっていうから、わざわざここに来る理由はないんじゃないかな。どの道を通って来た?」

「アルプスを越えて来ました。」

カリウスは唸った。「それは最短距離だが、時々ひどい天気になるだろう。」

「僕は運が良かったようです。」

「外にいるのは君の馬かい?あの黒い雄馬は?」

「アルター?そうですが、どうして?」

「軍のお偉方以外で、あんな馬に乗っている人はめったにいないからね。」

長官は探りを入れているようだ。詮索好きな男なのだろうか?「僕の家は軍馬を育てているんです…皇族の馬も。」

「ああ、それでここまで来たのか。馬を売りに来たんだね。」

グラウクスはにっこりしただけで何も言わなかった。好きなように信じさせておけばいいだろう。

カリウスは血走った目を若者の上等の羊毛の黒いチュニックに走らせ、金のフィビュラをしげしげと眺めた。「儲かる仕事みたいだな。私が君なら、そのぴかぴかしたやつには気をつけるがね。」

「気をつけてますよ。ガリアでこれを欲しがった盗賊がいましたが、そいつは指を三本失いました。」

カリウスはこの言葉の意味を考えるようにしばらく黙っていた後、「君は喪中なのか?」と訊いた。

「はい。」

「親しい人かい?」

「はい。」あの給仕の子は何をしてるんだろう?

「それはご愁傷様。わたしの父も死んだ。母も。悲しいことだ。」彼はそう言って椅子に沈み込んだ。丁度その時、ワインが到着した。

給仕女は盆を頭の上に乗せて、グラウクスの顔の近くに自分の揺れる胸が来るように身体を寄せた。彼女は彼を眺めるのに忙しかったので、盆からワインのゴブレットを取る時、少しこぼしてエプロンにまた新たなしみを加えてしまったのには気づかなかった。「旅篭に使いを遣って、お客さんのために一番いい部屋を押えさせましたよ。」

グラウクスは渋々、荷物を探って小銭を取り出し、彼女に渡した。

「まあ、ありがとうございます」彼女は甲高い声で言った。「お金なんか、いいですのに!」そう言いながらも、彼女は急いで小銭を襟元につっこんだ。小銭は大きな胸の間に挟まっているようだ。

「こちらの長官にもう一杯頼む。食事もすぐ来るんだろうね?」グラウクスは言った。

「すぐ持って来ます。」

グラウクスは自分のワインを長官に差し出した。彼は何も言わずに受け取った。若者は彼が半分を一気に飲み干すのを見ながら、さり気ない調子で訊いた。「今の将軍はどなたですか?」

「ヴェスニウスだ。彼は皇帝の右腕でね。だから、セプティミウス・セヴェルスはよくここに来る。皇帝は以前ここの将軍だったんだ。その後、自分の連隊を率いてローマへ進軍した。」長官はげっぷをした。「まあ、今の将軍も長くはここにいないだろう。」

「そうなんですか?どうして?」

「野心があるからね。あの将軍は。最近の軍の指揮官はみんなそうみたいだが。外敵より、政治的な敵と戦うのに忙しくて、軍はほったらかしだ。」

「良い将軍ではないってことですか?」

「まあ、他の将軍と変わらないだろうね。部下には支持されてるよ。まあ、当然だが。近頃、兵士たちには金と暇がたっぷりあるようだ。こんなことは初めてだね。」

「あなた方にとっては良いことですね。」

「まあね。ヴァンドボーナにとっては良いことだ、間違いなく。しかし、昔とは違う。以前は、兵士は自分の能力に従って給金を受け取り、将軍が立派な人だからこそ忠誠を誓っていた。ああ、昔とはすっかり変わってしまったよ。」

「今、連隊は基地にいますか?」

「いや。どこだかへ出かけて留守だよ。何をしているのやら。いつ戻るかは知らん。連隊はあっちこっち動き回っていて、我々には何も教えてくれない。」

「砦は街からは遠いんですか?」

「いや、すぐそこだよ。一番大きい道を真っ直ぐ北へ向かえば、すぐ着く。川のすぐそばだ。」

グラウクスのワインと食事が到着した。給仕女は皿を置きながら、彼の顔のすぐそばで胸を揺らしたが、彼は無視した。 「昔からずっといる兵士もいるでしょうか…20年ぐらい?」

「ほとんどいない。」

グラウクスはがっかりした。

「でも、ジョニヴァスじいさんがいる。じいさんはもう引退したんだが、ここに戻ってきて住むことにしたみたいだ。ここに息子の墓があるかららしい。道沿いの小さな家に住んでいる。簡単に見つかるよ。じいさんはマキシマスの時代に軍の技師長だったんだ。その話ばっかりしているよ。そう、あの時代こそ、いい兵士の時代だった。」

「ワインをもっといかがですか?」長官は首を振ったが、グラウクスは給仕女に合図してもう一杯づつ注文した。彼の話をもっと聞きたかった。

「マキシマス将軍をご存知でしたか?」グラウクスは出来るだけさりげない口調で訊いた。

「知り合いだったわけじゃない。あの頃は、将軍は地元民とはあまりつき合わなかったんだ。でも、何かあった時にはいつでも頼りになった。部族民軍がヴァンドボーナに猛攻撃をかけて、本当に危なかった時があったんだが、マキシマス将軍は自分や部下の心配をする前に、まず町民を全員避難させてくれた。彼はいい人だった…いや、いい人だと思っていた。」

グラウクスは美味しそうな匂いのパイにかぶりつきかけていたところだったが、それを皿にゆっくり戻し、カリウスを睨みつけた。「それはどういう事ですか?」

「はあ?」

「マキシマス将軍はいい人だと『思っていた』とおっしゃいましたね。どうして考えを変えたんですか?」

「うーん…」ほろ酔いの長官は背筋を伸ばし、何とか自分の地位に相応しい威厳を取り戻そうとした。「我々もショックを受けたんだが、彼は皇帝を倒して帝位を我が物にする陰謀を企んでいたそうだ。それで処刑された。皇帝ご自身が亡くなったすぐ後のことだ。」カリウスは若者にもっと近くへ寄るように合図した。グラウクスは顔を近づけ、臭い息をもろに浴びた。「先に死んだのは皇帝の方で、マキシマスが殺したんだって噂もある。」

グラウクスはぱっと身を起こした。彼は拳を握り締め、爪が掌に食い込んでいた。「そんなのおかしいじゃないですか」彼は唸るように言った。「そんな事をしても何の得にもならないでしょう?帝位を継いだのはコモドゥスだ。彼じゃない。」

カリウスは見知らぬ若者の剣幕に驚き、両手を上げて言った。「私は噂に聞いた事を話しているだけだよ。」

グラウクスはすっかり食欲を失って皿を押しやった。

カリウスは悲しげに首を振った。「多分、ああいう地位にいる人は皆、そういった野望を持つようになってしまうんだろうな。ただ、マキシマス将軍だけは違うと思っていたんだ。だけど、結局彼も他の連中と同じだったってことだ。」

グラウクスは顎をなでていた。緊張しているか、疲れているか考え込んでいる時の癖だった。こんな話を聞くのは耐えられなかった。「ジョニヴァスって人はどこにいるんですか?」

「砦の方へ向って行くと、道の左側に家がある。すぐにわかるよ。」

グラウクスは立ち上がり、握手も求めずに「ありがとうございます。お話を聞かせていただいて感謝します」と堅苦しい声で言った。

「馬が売れるといいな。アルター(報復者)?君の馬の名前はアルターって言ったっけ?」カリウスは笑った。「どうしてそんな名前を?復讐でもするつもりか?」

「あなたにはわかりませんよ」グラウクスは苦々しげにつぶやいた。彼は荷物を肩に背負って居酒屋の人ごみをすり抜けて行った。

 

第8章 ジョニヴァス

グラウクスはアルターに乗った。めったに見ないほどの駿馬を見物に集まってきた野次馬は無視した。彼が馬を回して大通りを北へ向うと、人だかりは散って行った。他のローマの都市と同じく、ヴァンドボーナも城壁に囲まれていた。道は計画的に格子状に引かれ、2本の大通りと城壁が交差する四ヶ所に門があった。街の中心には賑やかな市場があった。女たちが今日の食事の材料を買いこみ、布や小動物、武器に至るまであらゆるものを売っている商人たちが大声を上げていた。金属や革や陶器を扱う地元の職人達は市の外側に屋台を並べていた。しかし、明らかにローマやギリシアで作られた品を売っている商人もいた。帝国はこんなに広いのに、どこも本当によく似ている。グラウクスは驚いていた。ヴァンドボーナの街の中心にある公共の建物さえ、ほとんどは石造りで、赤い瓦屋根と装飾的なコリント式の柱で支えられた柱廊がついていた。ケルトの馬の女神、エポナの石やブロンズの彫像が、馬に横乗りをしたりニ頭の馬の間に立ったポーズで建物を飾っていた。アルターが人気を集めるわけだ。

石灰岩の高い円柱が街の中心近くに立っていた。その土台は大きな四角い石で、ローマの神、ユノの像が刻まれていた。手の込んだ彫刻をほどこされた円柱の天辺には、上半身が人間、下半身が絡み合った二匹の蛇である神の騎馬像があった。

しかし、北へ行くにつれ、建物は変わり始めた。ローマ式の公共の建物は消えた。道沿いには個人の家がぽつぽつと建っていたが、人々は昔ながらの建材と様式を守っているようだった。家々は木で出来ていて、太い柱が丸太の壁を支え、屋根は藁葺きだった。長方形の家々の中には、湿気や風を防ぐために外側を泥をつけた枝で覆っているものもあった。ヴァンドボーナの街に入る前に通った道沿いの農家と似ていた。

グラウクスは川の方へ向いながら石畳の道を見回した。これとまったく同じ道を、父は何度辿っただろう?父の馬もこの同じ石に触れたのだろうか?グラウクスは顔を上げた。父も同じ木々を見ただろうか?同じ風を感じ、同じ野の花の甘い香りをかいだだろうか?なぜかスペインにいるよりも、ここに−マキシマスのいた基地の近くにいる方が、父を近くに感じた。おそらくそれは、ここがマキシマスが大人になってからの年月のほとんどを過ごした場所だからだろう…あるいは、ここが彼が裏切りを受けた場所だからかもしれない。

グラウクスはアルターを急停止させた。馬は不満そうに鼻を鳴らした。目の前に、頑丈そうな石造りの家が立っていた。赤い瓦屋根の平屋建てで、壁には小さい高窓がいくつかついているだけだった。ローマ式の家だ…それは間違いない。ジョニヴァスという技師の家に違いない。その家は道からかなり奥まった所、大きな樫と松に囲まれた草ぼうぼうの空き地に建っていた。外見には手入れされているようには見えず、そのつもりで見なければ、うち捨てられた空家だと思っただろう。グラウクスは馬を降り、道からかなり入ったところにアルターを繋ぎ、ゼウスに馬と一緒に待っているように命令した。

彼は警戒しながら、膝まである雑草をかき分けて建物に近づいた。まるで砦みたいだ。客を歓迎する雰囲気とは言い難い。火のついた矢でも降って来そうだ、と彼は思った。片足で立ってサンダルにはさまった雑草を引き抜きながら、彼は頑丈な樫のドアを三度叩き、チュニックについた雑草の種を取りながら待った。数分待っても返事がなかったので、彼はもう一度ノックした。やはり、返事はない。ジョニヴァスは留守なのだろうか?

グラウクスは背の高い雑草をかき分けて家の南側に回った。南側の壁も、正面と同様にがっしりとしていた。中に人がいるかどうかはまったくわからなかった。しかし、物音が聞こえたので、彼はゆっくりと家の裏手に向った。彼は日光に温まった壁に手を置いて、角から裏庭をのぞきこんだ。老人が一人、小さな野菜畑のみすぼらしい作物を絞め殺しそうになっている雑草を腹立たしげに掘り返していた。驚かせたくなかったので、グラウクスは咳払いした。反応はなかった。ごほごほと咳をしてみた。何の反応もない。この老人も、晩年の祖父の様に耳が遠くなっているのだろうか?老人がようやく腰に手を当てて背を伸ばし、こちらを振り向くまで、彼は家の角のところでじっと待っていた。老人はずんぐりと背が低く、腹は出ていて腕と足はがりがりだった。真直ぐこちらを見ているにもかかわらず、ジョニヴァスは彼に気付いていないようだった。60代ぐらいだろう、とグラウクスは思った。灰色の髪は薄くなり、髭をきれいに剃った顔には深い皺が刻まれ、あごはたるんで鼻にはいぼが出来ていた。流行後れの長い麻のチュニックは泥で汚れていた。彼は脇に手をこすりつけてさらに汚れを加えた。グラウクスは少し近づいた。ジョニヴァスはとうとう訪問者の姿に気づいた。彼は身を守るようにさっと鍬を構えた。グラウクスは笑いを噛み殺した。彼は老人に声をかけた。「僕はあなたのお話を聞きたくて来たんです。友人として。」

老人は耳に手を当てた。グラウクスは今度はもっと大きな声で同じ言葉を繰返しながら、ゆっくり前に進み出た。ジョニヴァスは鍬を下ろして目を細めた。グラウクスは、危害を加える気はないということを示すために腕を少し開いたままゆっくりと動いた。「あなたはジョニヴァスさんですね?」

「そういうあんたは誰だ?」その声は力強く、老人特有の震えは微塵もなかった。

「グラウクス…僕の名はグラウクスです。」彼はゆっくりと近づいた。

「グラウクス?そんな名前があるか。姓は?」彼は怒鳴った。

「お話をお聞きしたくて来たんです。」彼は老人に近づいた。午後の陽が彼の顔を照らし出していた。

ジョニヴァスは目を細めて彼を見た。彼は途惑ったように眉をしかめ、ためらいがちに言った。「名乗らんやつとは話はできん。」

グラウクスは老人に手が届く所まで近づき、深い、よく響く声で言った。「スペインから来ました。僕の姓はデシマスです。」

ジョニヴァスは目を閉じてよろめいた。倒れそうになった彼をグラウクスの力強い腕が受けとめた。彼は「話せ」と囁いた。目を閉じたまま、「続けろ」と言った。

「知りたい事があって来たんです。ヴァンドボーナの長官が、あなたなら教えてくれるんじゃないかと…」

ジョニヴァスは目を開き、まばたきをした。目には膜がかかっていた。彼は関節炎で節の出来た手でグラウクスの顔をはさみ、ためらいがちに囁いた。「マルクス?」

グラウクスは息を呑んだ。「いいえ。僕はマルクスじゃありません。」

老人は白濁した目を瞬き、胸が触れ合うほど近くまで来て若者の顔を精一杯見つめた。「君の声は彼の声だ。君は彼にそっくりだ。」

グラウクスは咽喉がつまるのを感じ、何度も息を吸いこんでからやっと言った。「マルクスは兄です。ずっと前に死にました。」

ジョニヴァスは見知らぬ若者の上腕をつかんだ。老人の曇った目は彼の顔を見つめ、真実を探していた。「君の父親だ。君には、父親の面影がある。声も同じだ。君のフルネームは?」

「マ…マキシマス・デシマス・グラウクスです。」グラウクスは思わずつかえながら、生まれて初めてこの名を名乗った。彼は手をぎゅっと握りしめて震えを抑えた。「僕は…マキシマス・デシマス・メリディアス将軍の末息子です。」

ジョニヴァスは節くれ立った手でグラウクスの腕をぎゅっと握り締めた。彼は若者を荒っぽく抱き寄せ、頭をグラウクスの心臓のあたりに押しつけた。「嘘じゃないだろうな。この老いぼれに、そんな性質の悪い嘘はつかんだろうな?」

「嘘じゃありません。僕はマキシマス将軍の息子です。」

ジョニヴァスはもう一度彼の顔を見つめた。「君のお母さんの名前は?」彼は必死の形相でそう訊いた。

「オリヴィアです。あなたがここで会った時、兄のマルクスは5歳でした。兄はもうすぐ8歳になるという時に死にました。母と一緒に。殺されたんです。」

ジョニヴァスは自分の庭を見回したが、彼の目に映ったのはぼんやりした影だけだった。彼はグラウクスの腕を引きながら囁いた。「中に入ろう。その方が安全だ。ついて来なさい。」彼は高い石の壁についた木のドアを押し開き、グラウクスを連れて小さな庭園に入った。庭園は色と香りに溢れ、蝶や蜂が舞っていた。この家は外からは恐ろしげに見えたが、中は意外にも暖かい雰囲気だった。花園の向うに、石のテーブルとベンチのある簡素な中庭があり、その向うにはタイル張りのアトリウムが見えた。アトリウムの右側には小さな台所があり、左側には寝室らしい部屋が2つあった。すべてが小さくまとまり、きちんと整えられていた。

中庭に着いた時には、ジョニヴァスは疲労と興奮に息を切らしていた。彼はグラウクスに座るように合図したが、若者はまずジョニヴァスが座るのを手助けした。この老人が目の前で死んでしまうのではないかと心配になっていた。ジョニヴァスは石のテーブルの上で彼の手を握りしめた。「彼の手にそっくりだ…大きくて、形のいい…声も同じ、顔も同じだ。」彼は感に堪えぬ様子で首を振った。「こんな日が来るとはな。マルクスが殺された時、彼の家族は滅ぼされたと思っていた。」彼は突然怒った声になった。「コモドゥス!」彼は吐き出すように言った。「あの人でなしめが、君のお母さんとお兄さんを殺したんだ。」

「そうです。それは知っていますが…父に何があったのかわからないんです。父について知りたくてここまで来たんです。」

「君はいくつだ?」

「20歳です。来月21になります。」

「20歳か。わしは君のお父さんが20歳の時を知っている。」ジョニヴァスは椅子の背に凭れて空を見上げた。濁った目に映っているのは光だけだった。グラウクスは老人の心が父の若い頃に戻っているのに気づいた。彼はその話を聞きたくてたまらなかった。「わしが初めて会った時、お父さんはまだ少年だった。頭の良い子だった…力も、技も優れていた。それにハンサムだった。ただ、気が短かった…それは大人になるにつれ、直ってきたが。彼は偉大な人間になる運命だった−誰もがそれを知っていた。マルクス・アウレリウスも知っていた。我々みんながだ。彼が階級を駆け上がって行くのを、わしほど喜んだ人間はいない。我々のうちの何人かはこう思っていた−彼には、将軍になるよりもっと偉大な運命が待っていると…」

グラウクスは途惑った。「どういう意味ですか?」

ジョニヴァスは悲しげに首を振った。「しかし、それは叶えられなかった。コモドゥスが彼を破滅させた。コモドゥスという男は、触れるもの全てを破滅させてしまう奴だったんだ。」ジョニヴァスは怒りをこめてテーブルを叩いた後、ころりと気分を変え、満足げな微笑みを浮べた。「奴はマキシマスの家族を滅ぼしたと思ったが、君を見逃したんだな?」彼はグラウクスの方へ身を乗り出し、囁いた。「君はお父さんの仇を討つんだ。彼の汚名を晴らすんだ。」

「そのつもりです…でも、まずは何があったのかつきとめないと。」

「彼が死んだ時、君はいくつだった?」

「父がいつ死んだのか知らないんです。どこで死んだかも…そもそも、死んだかどうかもわからないんです。母と兄が殺された時には2歳でした。」

「マキシマスは2人めの息子のことを何も言っていなかった。彼は家族を誇りにしていたから、言わなかったのはおかしいな。君は本当に私生児じゃないのか?」

グラウクスは思わず笑ってしまった。「いいえ。僕は嫡出です。母は父の妻、オリヴィアです。父は僕の事を知らなかったんです。母が隠していたので…僕は21年前の7月に…父が最後にゲルマニアに帰った7ヶ月後に生まれました。」

「そうか…それで君は生き残ったんだな。マキシマスが君の事を知っていたら、君も殺されていた筈だ。」

「時々、その方が良かったんじゃないかと思うことがあります。家族みんなと一緒に…たとえ、死んだとしても…」

ジョニヴァスはグラウクスの手を取り、ぎゅっと握りしめた。「何事にも理由があるんだよ。君が生き残ったのにも理由があるはずだ。」

「誰か、父に何があったか知っている人はいますか?」

「残念だが、いない。」ジョニヴァスは若者の失望を感じて優しく微笑んだ。「わかっているのは、彼が武装した近衛兵を3人やっつけたってことだ。武器も持たず、手を縛られていたのに。さすがはマキシマスだ!」ジョニヴァスは満足そうに微笑んだが、すぐに真面目な顔になって言った。「しかし、その後はわからない。」

グラウクスは黙っていた。

ジョニヴァスは彼の手を優しく叩いて言った。「君はここに答えを探しに来たんだな。」

若者はうなずいた。それから、うなずくだけでは老人が見えないかもしれないと思い、声に出して「はい。」と言った。

「この18年間、わしは答えを探しつづけていた。そしてついに、神々が君をよこして下さった。」

「僕は答えを持っていません」グラウクスは憂鬱そうに言った。「質問ばかりです。」

「君はお父さんの頭と直感と強さを継いでいる。答えはきっと見つかるだろう。諦めずに探し続ければ。」

「父がここで処刑を逃れたとしたら、その後どこへ行ったか見当つきませんか?」

「噂はいろいろ飛び交っていたよ。君のお父さんは、行方不明になった後ブリタニアからアエギプトスまであらゆる所で目撃されたことになっている。ゲルマニア人に捕まって奴隷にされたという噂もあった。ブリタニアに渡って、小さな王国の王になったという噂も。ガリアで結婚して、新しい家族と暮らしているという噂も。アエギプトスで駱駝を売っているとか、奴隷剣闘士になってローマへ行ったとか、アフリカにいるとか…」ジョニヴァスは大きく手を振った。「根も葉もない、くだらぬ噂ばかりだ。他にも山のように噂はあった。もっと馬鹿げた噂だ。」

「どこから始めたらいいのか…」グラウクスは小さい声で言った。

「ここから始めればいい。君はいいところへ来た。ここはお父さんが愛と尊敬を集めた場所だ。あんなに敬愛された人間は他に知らんよ。彼を憶えている人は、今でも敬愛している。」

グラウクスは下唇の内側を噛んで庭を見つめた。「ここの人たちは、父が裏切り者だと思っていると聞きました。」

「そんな事を信じるのは阿呆だけだ!お父さんを知りもしなかった馬鹿どもだ。わしはよく知っていた。基地にはもう行ったか?」

「いいえ。今日着いたばかりなんです。街で、長官にあなたの事を聞いて来ました。」

「それじゃ、是非行こう。今日はここに泊まればいい。明日、連れていってやるよ。お父さんのためにわしが建てた家を是非見せなきゃな。あの家はまだちゃんとある。」

「入れてくれますか?」

「連隊は留守だ。この家は基地に近いんで、連中がいるときは物音でわかるんだ。もちろん衛兵はいるが、近頃の衛兵は手なずけるのも簡単でね。賄賂も効く。君のお父さんの時代は、こんな風じゃなかったがね。」

「叔父のペルシウスが…」

「ペルシウスは憶えているよ。いい若者だった。」

「はい。叔父が、あなたが父のために建ててくれた家に母が壁画を書いたって言ってました。それが見たくてたまらないんです。僕は…父がどんな顔をしていたか知りたくて。」

ジョニヴァスはにやりとした。その歯は驚くほど白く、丈夫そうだった。「坊や、それなら、鏡を見ればいい。わしの霞んだ目でも、似ているのは分かる。君がお父さんみたいに髪を短くしたら、みんな怖がるぞ。お父さんの幽霊だと思って。」

「ジョニヴァスさん…」

「ジョニヴァスでいいよ。お父さんもそう呼んでいた。」

グラウクスはうなずいた。「ジョニヴァス…」彼はためらった。この質問の答えを聞くのが怖かった。「父はもう死んだと思いますか?」

答える代りに、ジョニヴァスは立ち上がって小さな台所に消えた。彼はワインときれいな色のグラスを手にすぐ戻って来た。「何て言って欲しい?」

「本当のことを。」

老人はワインを注いだ。石のテーブルにこぼれたのはほんの少しだけだった。「いや…違うね。君はこう言って欲しいんだろう?『マキシマスはきっと生きているよ、どんなに長い年月が経ってしまったとしても』と。」

グラウクスはまた庭を見た。「ええ、たぶん。」

「そう言えたら、どんなにいいかと思うよ。」

グラウクスはため息をつき、グラスを唇につけた。胃の中はまるで沸騰しているようだった。ワインが毒になるのか薬になるのか、よくわからなかった。ふたりはしばらく黙って座っていた。グラウクスが言った。「きれいな庭ですね、ジョニヴァス。」

「わしには大切なものなんだ、この庭は。ここはわしの息子が倒れて死んだ場所なんだ。昔、蛮族がヴァンドボーナを攻撃した時に。」彼は淡々と言った。時が痛みを和らげてくれたとでもいうように。時が僕の痛みを和らげてくれる事があるだろうか、とグラウクスは考えた。

「お気の毒です。」

「気の毒ではない。息子はこれ以上ないほど立派な理由で死んだのだから。心から敬愛していた人を救うために死んだんだ。」

グラウクスは黙ってうなずいた。誰のことを言っているのかには気づいていなかった。ジョニヴァスも言うつもりはなかった。夕日が木々の向うに隠れ、老人は少し身震いした。グラウクスは自分のケープさっと脱ぎ、老人の曲がった背中に掛けた。高価なフィビュラはついたままだった。「ありがとう、マキシマス」彼は言った。

グラウクスははっとして彼の横に立ち尽くした。老人の心はまた昔に戻ってしまったのだろうか?ジョニヴァスは若者が途惑っているのを感じて彼を見上げた。「どうした?君の名はマキシマスだろう?」

「はい、そうです。でも、この名を使ったことはないんです。父の名前で…僕のではありません。」

「君の名前でもある。」

「そう呼ばれたことはないんです。いつもグラウクスと呼ばれているので。育ての両親が、僕の身を案じて本当の名前を隠していたんです。」

「賢いことだ。わかった、君のことはグラウクスと呼ぼう。しかし、いつかは父親の名を…自分の名を…誇りを持って名乗れるようになるんだぞ…この旅が終ったら。」

「僕にその名を名乗る資格があるかどうか…」

「あるとも。君もいつかわかる。」ジョニヴァスは優しく微笑んだ。「ヴァンドボーナにいる間は、もちろんここに泊まってくれるだろうね。わしのところにはめったに客など来ないし、このあばら屋にマキシマスの息子を迎えるなんて…そう、本当に光栄なことだ。」

「ありがとう、ジョニヴァス。馬をおいておける所はありますか?とてもいい馬なんで、目立ってしまうんです。犬もいるんですけど。」

「もちろん。裏庭に小屋がある。君の馬にぴったりだと思うよ。犬の方は…家に連れてきなさい。君のお父さんがいなくなった後、わしが彼の犬の面倒をみていたんだ。名前は…」

「ハーキュリース。」

「そうだ…大きな灰色の狼だった。お父さんの従者のキケロがハーキュリースの面倒を見ていたんだが、我々がオスティアに駐屯していた時、キケロはローマに旅行に行って、そのまま帰って来なかったんだ。お父さんがいなくなった数ヶ月後のことだ。だから、わしが引き取ってここへ連れて帰って来た。いい友達だったよ。庭に埋葬されてる。」

「僕の犬も同じ血統なんです。僕の馬の祖父にあたる馬は、父の二頭の馬の父親です。」彼は誇らしげに言った。

ジョニヴァスは立ち上がってグラウクスの肩を叩いた。「血統の良さというのは、自ずと表われるものだ、坊や。君もお父さんに似て馬には目がない方かい?彼が馬を助けるために危ない橋を渡って、連隊が総出で助けに行った時の事を知ってるか?あの時は皇帝ご自身が指揮をとられたんだ。マルクス・アウレリウスご自身がな。他の者にまかせてはおけなかったんだ。マキシマスは随分叱られたよ…まあ、当然だな。」ジョニヴァスは笑った。「ああ、話すことが山ほどある…」

「全部聞かせて下さい。」

「もちろん。君のお父さんの話なら何年分もある。馬を小屋に入れて、犬を連れてきなさい。腹ごしらえをしたら、夜通しお喋りをしよう。」

ジョニヴァスがそう言い終わる前にグラウクスは庭に出ていた。「すぐ戻ります」彼はドアから外へ出ながら言った。「僕が戻るまで始めないで下さいよ!」彼は壁越しにそう叫び、愛犬と愛馬のところへ全速力で走っていった。ゼウスは尻尾を振り、べたべたの舌でご主人に挨拶しようと待ちかまえていた。

 

第9章 基地

グラウクスとジョニヴァスは徒歩で砦の近くまで来た。若者は、父のゲルマニアにおける家であり、職場でもあった建物を感嘆の目で見つめた。樫のドアは木の太さと同じぐらいの厚さがあるように見えた。重々しいドアと、聳え立つ石の塔の上の武装した兵隊たちが近づく者を威圧していた。巨大な石の城壁が両方向に広がり、四隅にも塔があった。何と大きな、威圧的な場所だろう。城壁のふもとの、尖った杭と茨を仕掛けた深い掘には、彼はほとんど気づいていなかった。

「父の時代にも、こんな感じだったんですか?」グラウクスは小さい声で訊いた。

ジョニヴァスは笑った。「ああ、外見はマキシマスがいた頃と全然変わっていない。」

グラウクスはようやくちゃんと声が出るようになった。「あなたが建てたんですね?」

「ああ、その通り。」老人は誇らしげに言った。「君が気づいていない仕掛けも沢山あるんだぞ。色々な防御装置が隠してあって…ここを攻撃してきたのはよっぽどの勇者か…でなければよっぽど向こう見ずな馬鹿だけだ。」ジョニヴァスは搭を見上げた。「何人いる?」

「えーと…20人ぐらいだと思います。」

「わしの知っている奴がひとりぐらいいるといいが。」ジョニヴァスはそう言って、両手を口に添えて怒鳴った。「わしはジョニヴァス、マキシマス将軍の下でここを作った技師だ!ここに用がある!」

兵士たちは顔を見合わせ、一人が前に出て見下ろした。彼は他の衛兵にうなずいてみせ、大声で言った。「ジョニヴァス、一緒にいる男は誰だ?」

「友人の息子だ。グラウクスというんだ。わしの仕事を見せたい!」

兵士たちはしばらく話し合っていたが、やがて巨大な門がゆっくりと音を立てて開き、グラウクスの目に基地の内部が少しづつ見えてきた。彼が最初に目を留めたのは、城壁からかなり離れた所に並んでいる兵舎だった。兵舎は長方形で、屋根の低い石造りだった。兵舎は両方向に、果てしなく並んでいるように見えた。グラウクスはもっとよく見ようと足を踏み出したが、突然、胸に手が当てられて押し戻された。彼は兜を被り、腰に剣を揺らしている兵士の目を真直ぐ見返した。

「そこから動くな」衛兵が唸るように言った。

「動きません」グラウクスは丁重かつ従順な声で答えた。相手にもそう聞こえているといいのだが。

「お前は何者だ?」

「僕は…グラウクスといいます。スペインから来ました。ジョニヴァスは僕の家族の古い友達なんです。ここには初めて来ました。」

衛兵は彼の頭からつま先までをゆっくりと眺めまわし、途惑ったように少し眉をしかめた。彼はグラウクスを見つめたままジョニヴァスに言った。「じいさん、この男に何を見せたいんだ?」

「この基地ですよ、ご許可いただければ。」

「見ての通り、今ここには誰もいないんだ。どこでも見せていいが、士官兵舎と本営は立ち入り禁止だ。」

「えーと…出来ましたら、この子に私がマキシマス将軍のために建てた家を見せたいんですが。あれはローマ軍の基地には珍しい建物で、私の自慢でしてね。」

「ヴェスニウス将軍はご不在だが、もうすぐ戻られる。」

「それなら丁度いいじゃないですか。将軍のお邪魔をしないですみます。」

「民間人の士官兵舎への立ち入りは禁止されている。ジョニヴァス、知っているだろう。」

「私はただの民間人じゃありません。退役軍人です、ご存知の通り。」

「そっちの若いのは違うだろう」衛兵は黒いチュニックを見やった。「この条件が守れないのなら、帰ることだ。」

グラウクスは衛兵と口論を始めそうな様子の老人の腕を引っ張った。「それで結構です。基地の見学をご許可頂きありがとうございます。さあ、ジョニヴァス、行きましょう。」

「1時間だぞ」衛兵はそう言って背を向けた。この老人と若者にはまず害はなさそうだ。

二人は壁沿いの道を歩き始めた。ジョニヴァスが囁いた。「お父さんの絵が見たいんじゃなかったのか?」

「見たいですよ」グラウクスは囁き返した。

「それなら、わしがあいつと交渉してやったのに…」

「放り出されるところでしたよ。今は見られるところだけ見せて下さい。後でもう一度頼んでみましょう。」グラウクスは周りを見まわし、感激の面持ちで首を振った。「ここに来られたなんて信じられない。ここが父の基地なんですね。どこを見ても同じですね。同じ真直ぐな道と石の建物の連続だ。街と同じように格子状になっている。」

「基地というのは能率を旨として設計されているんだ。美観を考えているわけじゃない。おいで。まず周りを歩いて、そのあと士官兵舎に近づいてみよう。わしの知り合いもまだ残っている。誰が士官兵舎の番をしているか見てみよう。」

「父の部下だった兵もいるんですか?」

「少しいる。しかし、今日はいないかもしれん。」

「その方がいいのかもしれません。」

「士官兵舎に入りたいのなら、いた方がいい。」ジョニヴァスは歩きながら石造りの厩や工房、浴場や牢を指差して説明した。しかしグラウクスの目は、基地の中心にある小高い壁で囲まれた場所、壁越しに見える瓦屋根に引きつけられていた。あの石造りの家が父のものだったのだ。 今の兵舎は後に建てられたもので、君のお父さんの時代には兵士はテントに住んでいた、とジョニヴァスは説明した。当時、軍は常に動き回っていたからだ。若者は父の時代から変わったことがあるというだけで嫌な感じがした。 それが馬鹿げたことだとわかってはいたが。 マキシマスがいなくなって18年も経っているのだ。世の中は彼なしで動いている。

「おい、聞いているのか?」ジョニヴァスが叱った。

「ごめんなさい。僕は…何だか…興奮してるんです。緊張しているんです。この日をずっと夢見て来たので、本当にここに来たなんて、何だか信じられなくて…」彼はもう一度士官兵舎の方を見た。「当時、あの中には父の他に誰が住んでいたんですか?」

「お父さんの従者のキケロが住んでいた。それから、軍の幹部。お父さんが常に意見を聞いていた人たちだ。」ジョニヴァスはためらった後、付け加えた。「クイントスも住んでいた…お父さんの副官だ。」

グラウクスは立ち止まった。若者はけげんそうに眉を寄せた。「クイントス…聞いた事のある名前です。思い出せない…」

ジョニヴァスが彼の腕をつかんで引っ張った。「クイントスのことは今夜うちで話そう。ここではまずい。ついておいで。」二人は士官兵舎と本営の横を通っている中央路に入った。本営は連隊の中心で、司令官の執務室があり、軍旗もここに収められていた。「ゆっくり歩け」 ジョニヴァスが静かに言った。「古い友達の目に入るかもしれん。」

こう言い終わらぬ内に、士官兵舎の衛兵の一人が彼に声を掛けてきた。「ジョニヴァスじいさんじゃないか。何しに来たんだ?」

「アビトか?わしは目が悪くなっちまってな。」

「ああ、おれだよ。」

ジョニヴァスの皺だらけの顔に笑みが広がった。「スペインから来た友達にわしの作った基地を見せているところなんだ。アビト、グラウクスを紹介するよ。マキシマス…デシマス…グラウクスだ。」彼はわざと一語一語区切って、ゆっくり、はっきりと発音した。

グラウクスははっとして老人を見た。しかし、ジョニヴァスの顔は落ち着きはらっていた。衛兵に目を戻すと、彼は驚いた様子で持ち場を離れて近づいて来た。グラウクスはじっと立ったままだった。武装した男は真直ぐ歩いて来て、彼の髭のある顎をつかんだ。兵士は目をむき、陸に上げられた魚のように口をぱくぱくさせた。ようやく声が出るようになると、驚きにたえない様子で、「彼の息子が生きていたのか?」と訊いた。グラウクスがうなずくと、男は歓声を上げた。他の衛兵たちが一斉に彼の方を見た。彼はグラウクスの肩をつかんで揺さぶり、勝ち誇った笑い声を上げた。「坊や、」彼は言った。「君のお父さんは世界で一番素晴らしい人だったよ。」

グラウクスはまた咽喉がつまって声が出なくなりそうだった。彼は息を呑みこんで、やっと言った。「ありがとうございます」

アビトはこそこそとあたりを見まわし、グラウクスを士官兵舎の方へ引っ張った。「ほら、入った、入った」

「あの…門衛が…」グラウクスが言いかけた。

「喜んで。」ジョニヴァスが口を挟み、グラウクスの背中を軽く押した。「アビト、お前は衛兵隊長になったんだろう?ここではお前が一番上官なんだろう?」

「もちろんだ。何も心配はいらんよ。グラウクス、君のお父さんが住んでいたところを見たいだろう?」

「はい、とても。」

「案内するよ」アビトは言った。彼は他の衛兵たちに向って声を出さずに「マキシマスの息子だ」と言いながら、グラウクスを連れて士官兵舎の門をくぐった。

 

 

グラウクスの胃は痛んでいた。5年間待ち続けていた瞬間がついに来たのだ。アビトがローマ軍基地の歴史についてべらべらと喋っている横で、彼の目は石造りの家の樫材のドアに釘づけになっていた。アビトはようやくドアを開き、グラウクスを家のアトリウムに招き入れた。彼はモザイクの床に足を踏み入れた。この同じ床を、父は何度踏んだだろう。きっと数え切れないほどだろう。彼は息を深く吸いこみ、ゆっくりと吐き出しながら笑顔でジョニヴァスを振り返った。

「嬉しいか?」老人は訊くまでもない事を訊いた。

グラウクスはうなずくのが精一杯だった。彼はジョニヴァスが自分の建てた家の特徴を説明するのに礼儀正しく耳を傾けた。ローマの設計図に基づいている、と彼は言った。それは一目瞭然だったが、グラウクスは興味深そうにうなずいた。石材は地元産の石灰岩で、金属の部分はヴァンドボーナの職人たちの手になるものだ。しかし、赤い屋根瓦はガリアからの輸入品だ。このあたりではこのような物は手に入らない。

小さな中庭に向って歩きながら、ジョニヴァスはヴァンドボーナが攻撃された時、このアトリウムが病院として使われたことを話した。その戦闘で父が瀕死の重傷を負い、ジョニヴァスの息子が死んだことはもう知っていた。その後、兄も病気になってここで手当てを受けたのだ。彼は空っぽのアトリウムを見回して、ここにベッドが並び、患者と医者で一杯だった時の様子を想像してみようとした。今は静かなこの場所を満たしていた騒音とにおいを想像しようとした。

中庭には雨水をためる池があり、その横に2つのベンチと石のテーブルが置かれていた。中庭は石の円柱で支えられた柱廊に囲まれていた。グラウクスの目に、ここで遊んでいる兄と、ベンチに座って寛いでいる両親の姿が浮かんだ。

「…全部、下から暖めているんだ。」ジョニヴァスの言葉が聞こえた。彼は幻想を追い払って彼の言葉に集中した。「あの頃は、このあたりでは珍しいものだった。最近は多少普及しているが。わしはヴァンドボーナの公共の建物を沢山建てたからよく知っている。」

ジョニヴァスはとうとう、頑丈そうな、彫刻を施された樫のドアの前に立ち止まった。グラウクスは気づいた−これが、父の寝室なのだ。父の肖像があのドアのすぐ向うにあるのだ。ジョニヴァスは彼の耳元で「入ったらすぐ右を見てみなさい」と囁き、ドアを開けて若者に先に入らせた。グラウクスが部屋に一歩足を踏み入れるなり止まってしまったので、ジョニヴァスは彼の背中にぶつかった。

若者は黙っていた。感激のあまり言葉が出ないのだろう、とジョニヴァスは思った。

「ない」グラウクスは生気のない声で言った。「両方ともない。塗りつぶされている。」

「何だと!」ジョニヴァスは叫び、彼を押しのけて部屋に入った。彼は壁に向かって目を細めたが、壁に掛かったタペストリーの周囲が白く見えただけだった。ジョニヴァスはかっとなって、アビトの方を振り向いて言った。「一体誰がこんなことをした?」

「これが見たかったとは思わなかった」衛兵は言い訳がましく言った。「そうだと知っていたら、言っておいたんだが。もうずっと前に塗りつぶされてしまったんだ。セプティミウス・セヴェルス皇帝が、昔ここの将軍だった時に塗りつぶさせた。ローマに進軍する前に。マキシマスの後、多勢の将軍たちがここに住んだんだ。」

グラウクスは動けなかった。彼はやっとの思いで真っ白な壁から目を離し、部屋の家具を見た。家具はどれもごてごてと飾りがついていて、表面は金箔で覆われていた。父がこんなものを好んだとはとても思えない。彼の考えを裏付けるように、アビトが言った。「ここにはお父さんの物は何もないよ。セプティミウスが、お父さんの家具を全部燃やすように命令したんだ。」

グラウクスは怒りに全身が震えるのを感じた。「そうか。将軍も『反逆者』と顔をつき合わせて暮らすのは嫌だったんだろうな」彼は吐き出すように言った。「触りたくないんだろう、裏切り者の物なんて!」

「そんな事、信じているやつは…」アビトが言いかけた。

「いるよ!そう思ってるやつは沢山いる。」グラウクスは唸るように言った。彼はゆっくりと壁に近づいた。ここにあった母と父の想い出が、わずかな塗料と刷毛によって完全に滅ぼされてしまったのだ。「ジョニヴァス、母は漆喰が乾いた後に描いていましたか?それとも湿っているうちに?」

ジョニヴァスには彼が何を考えているのかわかった。「湿った漆喰に描いていたよ。お母さんがフレスコ画を描けるように、漆喰を塗りなおしたんだ。」

グラウクスはもう膝をついて白い塗料を爪で引っ掻き始めていた。しばらく引っ掻くと、塗料が少し剥がれて下の絵の色が見え始めた。グラウクスは立ち上がり、壁を見つめたまま後にいる二人に言った。「父はまだここにいます。覆われて…隠れているだけだ。まだここにいる。じっくり時間をかければ、また見ることもできる。」グラウクスは唐突に笑い声を上げた。この壁が、父を求める旅の象徴のように思えたのだ。「ジョニヴァス、壁画の大きさは?顔はどのあたりでした?」

「肖像は等身大だ。壁の中心で、馬に乗っていた。」

グラウクスはタペストリーを持ち上げてその後を覗きこんだ。

「おい、ちょっと待ってくれ」アビトが注意した。「壁を剥がしてもらったりしちゃ困るよ。この部屋は、今はヴェスニウス将軍の部屋なんだ。見せるのはかまわないが、触ってもらっちゃこまる。」

グラウクスはタペストリーから手を放した。タペストリーは静かに漆喰壁の上の元の位置に戻った。「この家を見せて頂いて感謝しています。本当に。もう何も触りません。父の名残はこの家そのものだけですね。父を思わせる物は、他には何もない。」

ジョニヴァスは打ちのめされた様子で立っていた。グラウクスはその肩を優しく叩いて言った。「時を戻すことは、誰にもできないんですよ、ジョニヴァス。父はもうずっと昔に、ここからいなくなってしまったんだ。」

「この家は彼のために建てたのに…」ジョニヴァスの言葉は途切れた。

「わかってます。行きましょう。」グラウクスはジョニヴァスの腕をとり、この家をずっとよく知っているはずの老人を導いて外に出た。

外に出ると、グラウクスは新鮮な空気を肺に吸い込んで胃にこみ上げるむかつきを抑えようとした。彼は士官兵舎を後にした。彼を見に集まって来た衛兵たちは無視した。彼の姿を見てひそひそと囁き合っている門衛たちも無視した。馬丁も鍛治も、革職人も彼を驚きと畏敬の目で見つめていたが、彼は無視した。

二人はジョニヴァスの家へ向った。基地を大分離れた所まで来ると、彼は崩れ落ち、苦しげに涙を流した。

 

 

その夜、二人はジョニヴァスの中庭に座り、ほとんど生のままのワインを飲んで二人ともほろ酔いになっていた。ゼウスは砂利の上に横になり、二人の酔っ払いを無視しようとしていた。

「悪かった。知らなくて…」ジョニヴァスは何度もそうつぶやいていた。「わしが知らなかったなんて…」

「いいんですよ、ジョニヴァス」グラウクスは彼を慰めようとしていた。「いいんです。いつか、あの壁画を復活させます。いざとなったら…僕が軍隊に入ります。夜にあの家に忍び込んで…ヴェス…ヴェンス…将軍が寝ている間に、一人で塗料をこすり落としてやりますよ。」彼は深いため息をついた。「ジョニヴァス、今日、クィヌスとかいう人の話をしていましたよね。彼の事は後で話してくれるって。父とはどういう関係の人なんですか?どこかで聞いた名前なんですが。」ジョニヴァスが突然地面に唾を吐いたので、グラウクスは驚いた。

「クイントス、あの野郎!どっかで野垂れ死んでいるといい!いや…それよりも…どっかの牢屋で腐りかけて、早く死にたいと思っているといい。」ジョニヴァスの白濁した目が血走って、奇妙なピンク色になっていた。「やつはお父さんの副官だったんだ。入隊したばかりの子供の頃からの友達同士だった。クイントスはずっと君のお父さんを嫉んでいたんだ。マキシマスは将軍になったのに、クイントスはなれなかったからな。やつはローマの偉い家の生まれで、未来をショク…ショクボウされていたからな。わかるか?」グラウクスはうなずき、げっぷをした。「出世するためならどんなことでもする奴だったんだ。だから、君のお父さんがコモドゥスに逆らった時、あの餓鬼はクイントスにお父さんを逮捕させた…奴は従った。コモドゥスはクイントスを近衛隊長に取り立てて、真夜中にローマへ逃げて行った。兵士たちがお父さんに何があったのか気づく前に。あの卑怯者めが!残っていたらわしらに殺されるのを知ってたんだ。」ジョニヴァスは怒りをこめてテーブルを叩き、はずみであやうくベンチから落ちそうになった。

「父はコモドゥスに逆らったんですか?」ジョニヴァスはきっぱりとうなずいた。「なぜです?」

「奴が皇帝を殺したからだ。お父さんは知っていたんだ。マキシマスは絶対にあんな奴を支持したりしない。君のお父さんが奴の代りに皇帝になるべきだったんだ。」

「コモドゥスは自分の父親を殺したんですか?本当に?」ジョニヴァスは力強くうなずいた。「見つけなきゃ…その…クインナスを。」すっかり酔っ払ったグラウクスは、精一杯強がった声を出して言った。「やつはローマに?」

「コモドゥスとローマに行った。その後はわからん。」

「ぼくが殺しますよ…クイ…ナスを。父さんを裏切った報いだ。」

「わしからも頼む」ジョニヴァスは目を閉じ、頭をテーブルにのせたままつぶやいた。

「酔ってますね!」グラウクスは笑いながら言った。

「酔ってなどおらん」ジョニヴァスはむっとしたようにそう言った直後、ベンチから滑り落ちた。グラウクスは、自分も同じぐらい酔っていたのに、驚くほど素早く反応して彼を受けとめた。彼は老人を抱き上げて寝室まで運び、ぐったりとした身体を藁布団の上に横たえて毛布を掛けた。彼はよろめき、ベッドの横の床に倒れこんだ。彼の身体は絨毯が受けとめた。彼はすぐに丸くなって、ジョニヴァスと声を合わせていびきをかき始めた。ゼウスは入口のところから二人を眺め、充分離れた静かなアトリウムで寝ることにした。

 

 

グラウクスはうめき、寝返りを打った。口の中には綿でも詰まっているような感じだった。頭は割れるように痛み、おまけに背中はすっかりこわばっていた。重い目蓋を開けようとしていると、濡れた舌が彼の顔を舐めまわした。彼は腕を持ち上げ、隣に寝そべっている犬のふかふかした毛皮の上に下ろした。彼はまたうめき声を上げ、顔を舐められた。彼は片肘をついて頭を持ち上げ、ベッドの上を覗いた。ジョニヴァスはまだぐっすりと眠っていた。彼は床に崩れ落ち、うなった。こんなに酔っ払ったのは、16歳の誕生日に兄たちに生のワインを瓶ごと飲まされて以来だった。あの時は、次の日一日中吐き通しで、もう二度とこんな真似はしまいと誓ったのだが。彼はまたうとうとしかけたが、ゼウスが耳元で吠えたのでびっくりして床から飛び上がった。犬は玄関へ走って行った。グラウクスは無理矢理身体を起した。吠え声は続いていた。彼はやっとのことで立ち上がり、よろよろとアトリウムに歩いて行ってドアを開けた。朝の光に一瞬目が眩んだ。彼は手を目の上に翳した。すると、光の中に若い女の姿が現れた。綺麗な女性だった。それに引きかえ、自分は何と言う恰好だろう。彼はきまり悪くなって足をもじもじと動かした。いつの間にか、サンダルをどこかに脱ぎ捨ててしまったらしい。

「ふうん…本当だったんだ。」歌うような声が聞こえた。

「は?」

「マキシマス将軍の息子がゲルマニアに来たって言うのは本当だったのね。」

グラウクスは無意識にジョニヴァスの真似をして、目を細めてその女性を見た。彼女は17か18ぐらいで、長い栗色の巻毛を首筋の飾り櫛でとめて背中に垂らしていた。その肌はクリーム色でしみひとつなく、ぽっちゃりした唇はピンクに塗られていた。

「あなたの事は街中の噂になっているわよ…グラウクス、だったわね?」

「はい、そうです。で、あなたは…?」

「カタリナ。」

彼は彼女がフルネームを名乗るのを待ったが、彼女が言ったのはそれだけだった。

「カタリナ…僕に何か御用ですか、カタリナさん?」

「昨夜は大変だったみたいね」彼女はにっこりして手を伸ばし、スカートをくんくん嗅いでいるゼウスを撫でた。「見たとこ、噂とはちょっと違うみたいね…でも、お風呂に入って着替えたら噂通り恰好良くなるでしょうね。」彼女はかがんで大きな木のかごを持ち上げ、彼の手に押しつけた。「ジョニヴァスの洗濯物よ。着替えがないなら、この中のものを着ればいいわ。」

「えーと…申し訳ありませんが、ジョニヴァスはまだ寝ているんです。まだまだ起きそうもなくて…」

「ジョニヴァスに会いに来たんじゃないの。あなた、ヴァンドボーナにはどのぐらいいるつもりなの?」

「多分、あと数日ですが。」

「あら、そう。その間にうちへ来てくれないかしら?いろいろお話することがあるんじゃないかと思うの。」

グラウクスは積極的な女性に言い寄られた経験は豊富だったが、これほどの美人はめったにいなかった。彼は髪をかき上げ、額に落ちかかってくる前髪を押し戻そうと無駄な努力をした。カタリナは前髪がすぐまた落ちて来るのを見てにやにやと笑った。彼女は顔を近づけて囁いた。「あなたの身体、髪以外のところはちゃんと言うことを聞くんでしょうね?」

聞き間違いだろうか?「何ておっしゃいました?」

「グラウクス、うちへ来ない?今夜なら都合がいいわ。夕食を作ってあげる。」彼女はもう一度彼を眺め回した後、背を向けながらこう付け加えた。「私の父はあなたのお父さんの部下だったの。」

彼女の狙い通り、この言葉は彼の注意を引いた。「何時に行けばいいんですか?」

「いつでも、あなたの好きな時でいいわよ」彼女は思わせぶりに腰を振って歩み去りながら、肩越しに言った。「一日中いるから。」

「どこですか?」

「道の右側の、街に入る前の最後の家よ。」

 

第10章 カタリナ

カタリナの家の裏手に立つ木々の向うに太陽が落ちる頃、グラウクスはドアをノックした。彼女はまるで待ち構えていたようにすぐドアを開けた。彼は軽く会釈してジョニヴァスの花壇で摘んで来た花を差出した。ジョニヴァスが怒らなければいいが。グラウクスが出かける時、ジョニヴァスはまだいびきをかいていた。彼は出かける先と理由を走り書きし、ゼウスについて来ないように命令して出てきた。

彼女は薔薇と百合に鼻を埋めながら彼を眺めた。今朝とは大分変わっていた。風呂に入ったようだ。まだ少し湿っている豊かなウェーブは後になでつけてあった。それでも、頑固な髪が一房飛び出し、ぴょこんと額に落ちてきた。明るい茶色の髭はきれいに刈りこんであった。彼は黒の短いチュニックの上に黒の外套をはおり、宝石を散りばめたフィビュラを左肩につけていた。形のよい膝よりかなり上方にあるチュニックの裾とブーツの間に、力強い、日焼した脚がのぞいていた。彼女は後れ毛を払い、満足げに微笑んだ。街に広がっている噂は本当だった。彼は『恰好いい』なんてものではない。彼は光輝いていた。

グラウクスは彼女について家に入りながらあたりを見回した。この家はこの地方によくある、枝を組んで塗りこめた造りだった。家の中も泥で固めた枝がむき出しになっているのかと思っていたが、壁は滑らかな漆喰壁で、鈍い赤に塗られていた。この家は統一性がなく、あちこちをつぎはぎしてある感じだった。長年、増築を重ねてきたのだろう。今立っている天井の低い土間が、元々の家だったのだろう。向うにもっと広い部屋が見え、その手前の台所から美味しそうな匂いが漂って来た。朝から何も食べていなかった彼は、大きな音を立てた腹をあわてて押えた。

カタリナは笑った。「恥ずかしがることはないのよ。誉められていると思うことにするわ。グラウクス、こういう家の中に入ったことはある?」彼を台所に案内しながら、彼女は言った。

「いいえ、道から見ただけです…カタリナさん。」

カタリナは花を青い縞模様の陶器の壺に生け、色と高さを考えて丁寧に整えた。「ねえ…カタリナって呼んでちょうだい。敬語を使う必要はないのよ。」彼女はにっこりした。輝くように美しい微笑で、彼もつられて微笑んだ。「この家はもう相当古いのよ。父が母と結婚した時に買って、部屋を増築していったの。父はローマ軍の兵士で、もとはイタリアの出身だったの。母はゲルマニア人よ。この家は、元は一つの大きな部屋で、人と家畜が一緒に住んでいたの。」グラウクスが途惑っているのを見て、カタリナは笑った。「ええ…私も想像できないわ。でも、田舎の農民は今でもそういう暮しをしているのよ。」

「ご家族はどちらに?」

「今は私ひとりなの。」グラウクスがびっくりした顔をしたので、彼女は説明した。「私、14歳の時にずっと年上の人と結婚したの。彼も兵士だったわ。夫は落馬事故で死んだの…父はもっと前に死んだわ。あなたのお父さんがいなくなった数年後に。それで、母も私もひとりぼっちになってしまったから、私はここに戻って母の世話をすることにしたの。母は去年亡くなったから、今は独りよ。洗濯や裁縫をして暮らしているの。」

「ここでひとり暮しなんて寂しいでしょうね。」

「時々、誰かそばにいてほしいとは思うけど…自分で自由に何でも決められるのは楽しいわ。私の歳でそういう自由を持っている女はめったにいないものね。」

「あなたの歳で未亡人になっている人は少ないでしょうからね。」

「ええ。未亡人ってとても自由でいいわよ。いろいろ困ったこともあるけど。どこでも好きな所へ行けるし、好きな所に住めるもの。いつかローマへ行くつもりよ。行った事ある?」

「いいえ、カタリナさ…カタリナ。スペインを離れたのもこれが初めてなんです。」

「あなたの家族は馬の牧場を経営しているのよね。」

グラウクスは眉を上げた。「ええ。どうして知っているんですか?」

「冗談でしょう?」カタリナは笑い声を上げた。「街中、偉大なるマキシマス将軍の息子の話で持ちきりよ。将軍の家族は皆殺しにされたって噂だったから、みんなびっくりしているわ。あなたに会った人は皆、噂を広めているわ。あなたに会ったと言い張っている人はもっと沢山いて、適当な話を山ほどでっち上げているわよ。」

グラウクスは急に用心深くなった。「今夜僕を招いてくれたのはそのため?噂話の裏を取るため?」

カタリナは腰に手を当てて首を傾げ、にっこりして言った。「まあ、ずいぶんひねくれているのね。いいえ…ただ、たまには美味しいものを食べてほしいと思っただけよ。ジョニヴァスは天才だけど、料理の才能はないでしょう?それと…あなたに会いたかったの。私が小さい頃、父はあなたのお父さんの話ばかりしていたのよ。」

グラウクスは腕を組んだ。「本当?誉めていたの?それとも悪口?」

「え?」

「ここの人たちは、両極端に分れているみたいだ。父が偉大な人間で、不当に罰を受けたんだと思っているか…裏切り者で当然の報いを受けたんだと思っているか。」

「私は父の言葉を信じるわ。父はあなたのお父さんを敬愛していたの。勇敢で、誠実で、公平な人だったって。将軍が死んでしまって、連隊はすっかり意気消沈してしまったの。あまりにも士気が低くなってしまって、兵士はほとんど全員ゲルマニアの外に転属になったわ。父は皆と一緒に行くより、引退する方を選んだの。結局、連隊は完全にばらばらになってしまったみたいだから、父は賢い選択をしたんでしょうね。グラウクス、ワインをいかが?」

「はい。ありがとう。」

カタリナはいたずらっぽく笑って、赤い液体を2つのきれいな色のグラスに注いだ。「昨夜みたいに飲みすぎないように気をつけないとね。」

「ジョニヴァスと僕は基地に行ったんだけど、思うようにいかなかったんだ。がっかりした気持ちを、酒で洗い流してしまいたかったのかもしれない。」

「あなたのお父さんの後にも、たくさんの将軍がいたのよ。グラウクス、座って。」

彼は先にカタリナの椅子を引いて、それから自分が腰を下ろした。彼女が煮立っている鍋から目を離さないでいられるように、二人は台所の木のテーブルに座った。「わかっているよ。僕はただ、何も変わっていなければいいって思っていたんだ。馬鹿な子供みたいに。」

カタリナは彼をじっと見つめた。「あの壁画が見たかったんでしょう?」

グラウクスは驚いた。「どうしてあの絵のことを?」

「一度だけ、見たことがあるの。コモドゥスが死んだ後、ローマの権力者がころころ変わって、しばらくこのあたりは大混乱だったの。私たちには何もわからなかったけど、とにかく、皇帝が交替する度に将軍も次から次へと替わったわ。何度か、将軍がいない時期もあって、その時に父が連れて行ってくれたの。ローマ式の石造りの家がどんなものか私に見せるために。」彼女はにっこりした。「あの壁画を最初に見た時は怖かったわ。大きくて、迫力があって…」彼女は身震いした。「お父さんが馬に乗ったまま壁から飛び出して来そうな感じだったのよ。」

グラウクスは考えに沈み、グラスの中で赤い液体が揺れるのを見つめていた。「あの絵が見たいと思って来たんだけど、塗りつぶされていた。みんな、僕が父さんに似ているって言うけど、僕は父さんの姿を見たことがないんだ。」

「みんなの反応から見て、あなたはよっぽどお父さんに似ているんでしょうね。カタリナは手を伸ばしてグラウクスの手を優しく叩いた。彼女は手を彼の手の上にのせたまま引っ込めようとしなかった。しばらくしてから、彼は手を返して掌と掌を合わせ、指を握りしめた。「あなた、結婚しているの?」彼女はさりげない風を装って訊いた。

グラウクスは首を振った。「いや、していない。」

「あなたのような身分の人が、その歳で結婚していないなんて変じゃない?」

「そうでもないよ。15歳の時から、僕にはいろいろ考えなくちゃならないことがあって…妻を娶ることなんか考える余裕もなかった。」

「15歳の時何があったの?」

「その時初めて、僕の本当の家族の事と…母と兄に何があったのか知ったんだ。父に何があったのかは今でも知らない。」彼は彼女の指を撫でた。こんな仕事をしているとは思えないほど、柔らかくなめらかだった。

「知らないって、辛いことね」彼女は囁いた。

「多分、真実を知らない方が辛いだろう…たとえ、真実がひどい事だったとしても。」彼は彼女の指を撫でた。「僕と二人きりでいて心配にならない?」

「あら、どうして?」

彼女がどういうつもりで言ったのかはわかっていたが、彼はわざとはぐらかした。「人は口さがないからね。何を言われるか心配じゃないのかい?ここに座って、お喋りをして食事をしているだけでも、人は勝手な噂をでっち上げて君の評判を貶めてしまうよ。女性が男と二人きりでいると…」

「グラウクス、私は嫁入り前の娘じゃないわ。未亡人よ。処女を失ってしまった女には、妻にする価値はなくなってしまうのよ。若くても…まあまあ可愛い方でも。」

「可愛いどころか、君はすごい美人じゃないか。」

カタリナはこの誉め言葉を笑って受け流そうとしたが、首がピンクに染まってきた。彼女は手を引っ込め、シチューをかき混ぜに行った。

「子供はいないの?」彼女の表情が固くなったのを見て、グラウクスは訊いた事を後悔した。

「女の子を産んだけど、死産だったの。私がまだ15歳の時よ。」

「気の毒に」グラウクスは小さい声で言った。子供のことを言い出したのを心から申し訳なく思っていた。

「いいのよ。もういいかげんに忘れなきゃいけないんだけど…忘れられないの。私は過敏すぎるんだわ。」彼女はもうかき混ぜる必要のないシチューをかき回し続けていた。「この街にはあなたみたいな人はめったにいないわ。兵隊か、農夫か、旅の商人ぐらいね。」

グラウクスは笑った。「がっかりさせて悪いけど、僕も農夫だよ。父も農夫だった。マルクス・アウレリウス皇帝の北部軍を指揮していない時はね。母は農夫の妻だった。」

カタリナは戻って来て、テーブルに腰をもたせかけて言った。「でも、あなたは違うわ。」

グラウクスは立ち上がり、彼女の側に行って手を取った。彼女は逃げなかった。「どう違うの?」彼は彼女の髪の中に囁いた。

彼女は身体を寄せ、頭を彼の唇につけた。「あなたは教養があるし…どこか洗練されているわ。育った所のせいかも。こことは全然違うんでしょうね。」彼女は手を離し、脱ぐのを忘れていた彼の外套の下に腕を回した。彼女の指は、彼のチュニックの柔らかい、上等の生地をまさぐり、さらにその下の暖かい、固い筋肉に伸びた。「あなたは使命を帯びた人…自分の望む物を知っている人よ。どうやって手に入れるかも…」

「最後のところが本当だったらいいのにな」グラウクスは彼女の口元で囁いた。彼は彼女の上唇を自分の唇で優しくはさみ、それから下唇へ移った。彼女はキスを受け入れようと口を開いた。彼は片手で彼女の頭を支え、もう一方の手で彼女の腰を自分の身体に押しつけていた。彼女の身体は彼の身体に溶けこむようで、抱き上げて丈夫な木のテーブルの上に座らせた時も無抵抗だった。彼はスカートをめくり上げ、脚を広げさせてその間に立った。二人はキスを深めていった。彼女はむさぼるように彼の舌を自分の口に引き入れた。彼の手は彼女の尻を掴み、彼女を自分の身体にぎゅっと押しつけた。彼女は身体を引くどころか逆にすりよせて来た。グラウクスはテーブルをちらりと見て、急いで決断しようとした−これをここで中断して陶器の皿を一枚一枚片付けるか、それともかまわずに全部床に払い落として、明日新しいのを買ってあげるか…後の方にしよう、と決めたその瞬間、炎が燃え上がり、シチューが吹きこぼれて炎の上に飛び散った。カタリナは一瞬で脚を上げ、彼の腕を飛び出してテーブルの上に立ち、皿を踏まないように気をつけて横切って煮立っている鍋の方へ飛び降りた。彼女は鍋つかみを取って重い鍋を持ち上げ、これ以上こぼれる前に石の床に置いた。

その間、グラウクスは何とか情熱をコントロールしようとテーブルの角を握りしめていた。目を上げると、彼女は隠しようのない欲望をこめた目で彼を見つめていた。「あなたの目、綺麗ね」彼女は囁き、一瞬でテーブルを越えて、待ち構えている彼の腕の中に飛び込んだ。

彼は彼女を胸に抱き上げてつぶやいた。「寝室はどっち?」彼は彼女の視線を辿って歩いた。彼女はドアを蹴った。ドアは寝室の壁に当って撥ねかえり、グラウクスの肩にぶつかった。

「ちょっと待って!」彼女はそう言って彼の腕を押え、耳を澄ました。「あれ何?」

「何も聞こえないけど」グラウクスはそう言ってまたキスをした。一瞬、彼女も情熱的にキスを返したが、その後急に口を離したので、彼の頬の内側が引っ張られた。

彼女は暴れ始めた。「グラウクス、降ろして!玄関に誰か来てる!私がいるのはばれてるわ。」

彼は渋々、彼女を床に降ろして言った。「追っ払ってくれよ。ベッドで待ってる。」

彼女はうなずいてドアへ駆けて行った。彼女は髪を整える間だけ立ち止まった。ドアを開けたとたん、大きな黒い犬が飛びこんで来た。その後を、飛び跳ねたりしたのは遠い昔、という感じの老人がついて来た。

「ジョニヴァス!」彼女は寝室のドアの向うのグラウクスに聞こえるように大きい声で言った。

「洗濯物を持って来てくれたろう?金を払ってなかったのに気がついてな。借りを作るのは嫌いなたちでね。」ジョニヴァスは彼女の肩越しに家の中を見ようとしたが、彼の目ではほとんど見えなかった。「グラウクスの書置きがあったんだ。ここに夕食に来てるとか?」

「ええ、ええ、来ているわ!グラウクスは夕食を食べに来たの!」カタリナはジョニヴァスに言ったが、顔は寝室の方を向いていた。

「怒鳴らんでよろしい。わしは耳は悪くない。」彼はくんくんと鼻を鳴らした。「うーん、うまそうな匂いだ。」

「シチューよ。シチューを作ったの。」彼女はジョニヴァスが帰ってくれるのを待っていたが、彼は期待をこめてにこにこ笑いながらじっと立ったままだった。「えーと…あの…ジョニヴァスさんも一緒にいかが?」

「もちろん喜んで。ご招待ありがとう。」彼は案内も待たずに家に入り、びっくりするほど素早く台所に向った。台所で、ちょうど寝室から出てきたグラウクスとぶつかった。グラウクスははしゃいでいるゼウスを宥めようと苦労していた。

「ジョニヴァス…あの…えーと…ベッドに外套を置いていたんです。」少なくとも、嘘ではなかった。彼はもう外套を脱いでいた。チュニックの方はなんとかちゃんと着ていた。「何しに来たんですか?」

「夕食に招かれたんだ」ジョニヴァスは陽気に言って、手を伸ばして若者のチュニックの襟元を直した。グラウクスは時々、老人の目は実は見かけよりもずっとよく見えているんじゃないかと思うことがあった。ジョニヴァスはテーブルまで行って腰を降ろした。カタリナはグラウクスを見て、やれやれというように肩をすくめた。

 

夕食の間、カタリナはジョニヴァスとぽつりぽつりと話をした。グラウクスは直接なにか訊かれた時以外は黙っていた。彼はジョニヴァスに腹を立てていた。冷たい態度をとることで、それを悟らせたかった。夜は更けていった。グラウクスは何度も、夜更かしは身体に悪いとジョニヴァスにほのめかしたが、老人は忠告を無視して言った−わしは一日中寝ていたので今は気分爽快だ。それから…ワインをもう少しくれないかな。

とうとう、カタリナは少し休みたいと言って席を外した。ジョニヴァスはケープの中を探って、小さい包みをグラウクスの前にぽんと置いた。「ほら、」彼は囁いた。「どうしてもあの女と寝るつもりなら、せめてこれを使え。君のお父さんは父なし子を残したりせんように気をつけていた。君も気をつけろ。」

グラウクスは唖然とした。何と答えたらいいのかわからなかった。「大丈夫ですよ…カタリナが海綿を使うでしょうし…」

「念のためだ。」

グラウクスは包みを開いてみた。彼は最初びっくりしたが、すぐに大声で笑い出した。それが何なのはよく知っていた。その魚の皮の袋はひどく使いこまれていてぼろぼろだった。彼は笑いが止まらなかった。

「何が可笑しい?」ジョニヴァスは怒って言った。「使え!」

グラウクスはまだ笑っていた。「ジョニヴァス、僕は自分のを持ってますよ。これよりずっと新しいやつを。」彼は細長い、半透明の袋をランプの光に翳してよく調べるふりをした。「穴が開いてますよ。一体いつのもんです?父さんが使っていたって聞いても驚きませんよ。」

「お父さんにはそんなものは必要なかった」ジョニヴァスは憤然と言った。

「そうなんですか?」グラウクスはくすくす笑った。「危ない橋を渡る方を好んだってわけですか?」

「違う。お父さんは君のお母さんを裏切ったことはなかった。一度も。」

グラウクスがこの言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。「まさか…それは…女なしだったってことですか?何年も?」

「そうだ。」ジョニヴァスが言った。グラウクスが信じないのに苛々していた。

「何で…」グラウクスはすっかり面食らっていた。「どこか悪かったんですか?」いいところを邪魔された後の20歳の若者の身体と心には、そんな事は到底理解できそうになかった。

「どこも悪くなんかなかった。彼はあらゆる意味で正常で、普通の…」

「ジョニヴァス」グラウクスが口を挟んだ。「それは普通じゃないですよ。あなたが知らなかっただけじゃないですか?ドナウ沿岸の各基地に美女をひとりづつ隠していたのかもしれませんよ。それであんなにしょっちゅう行っていたのかも」グラウクスは大笑いした。

ジョニヴァスは石のように硬い表情になり、同じように硬い声で言った。「君はお父さんだけでなく、お母さんも侮辱している。お父さんに惚れていた女は数え切れないほどいたよ…君には想像もつかんぐらいだ。それも身分の高い、高貴な女性たちだ…つまらん洗濯女なんかじゃない。君のお父さんは正直な、誠実な人間だったんだ。君のお母さんと結婚したとき、彼は貞節を守ると誓いを立てたんだ。そしてそれを守った。お父さんが君ぐらいの歳で、独身の時は大分違ったがね。君もいつか、結婚したいと思うような女性に出逢ったら、お父さんがお母さんを愛したようにその人を愛せるといいな。」

グラウクスはテーブルに肘をついて指を口に当てて座っていた。すっかり意気消沈していた。「ジョニヴァス、ごめんなさい」彼は口に当てた手の向こうから言った。「父さんが母さんに忠実だったというのは、もちろん嬉しいです。ただ…これでますます、僕は父さんには永遠に追いつけない気がして…」グラウクスはテーブルを見つめて言った。「父さんは完璧な人だったんだ。」

「君にも出来るさ。相応しい女性に出逢ったら。」

「何年も?無理ですよ。」彼はため息をつき、スプーンを手に取った。彼はその裏に映った歪んだ自分の顔をじっと見つめた。「ジョニヴァス、あなたが言っていた女性って誰ですか?身分高い高貴な女性で…父さんに惚れていたっていうのは?」

「彼女はお父さんを愛していたんだ。」

「彼女って?誰なんですか?」

「明日話す」ジョニヴァスは立ち上がった。「もう疲れた。家に帰る。」

「送ります。」グラウクスが言った。

「必要ない。いいからここにいろ。」

グラウクスは立ち上がって老人の腕を取った。「もちろん戻って来るつもりですよ。ただ、あなたが石にでもつまづいて腰でも折って、道に倒れてたりしたらと思うと心配なんです。」寝室のドアの前を通る時、彼はカタリナにウインクした。彼女はドアを少し開けたままにしていた。「つまらん洗濯女」は二人の話をどのぐらい聞いていたのだろう?彼はちょっとだけ立ち止まって彼女のなめらかな頬を撫でた。彼女はその指にキスをした。話を聞いていたにしろ、いないにしろ−戻って来たら歓迎してくれるようだ。

 

第11章〜15章