Glaucus' Story:第61〜65章

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第61章 手枷〜180年

鉄格子と手枷からようやく解放されて、マキシマスは棕櫚の葉陰から用心深く外を覗いた。何ヵ月もの監禁の後の、芳しい新鮮な空気にもほとんど気づく余裕はなかった。彼は聳える城壁の陰をそろそろと前に進み、キケロが木の下で馬にまたがっているのを見た。頭上の濃く茂った葉が月光から彼の姿を隠していた。マキシマスは左右に視線を走らせた。辺りは静寂に包まれている。彼はそれでも警戒を緩めず、葉のない枝の後で止まり、キケロが知っているはずの節を口笛で吹いた。

キケロははっと顔を上げ、大声で警告した。「マキシマス!」同時に馬が引かれた。首に巻きつけ、上の枝に結び付けてあった縄に引きずられ、キケロは馬から滑り落ちた。マキシマスは駆け寄り、首にかかる重みを和らげようと彼の脚を掴んだ。キケロは謝罪の言葉をつぶやいたが、一瞬後、6本の矢が彼の胸を貫いた。

「やめろ!!」マキシマスは叫んだ。友の死に、計画の失敗に、束の間の自由が失われようとしている事に抵抗するように、彼は叫んだ。彼はくるりと振り返り、剣に手を伸ばしながらどの方向に危険が潜んでいるのか見定めようとした。見上げると、弓矢をもった兵士たちが頭上の反り橋に並んでいた。さらに数十人が、松明と剣を持って、怒れる蜂の群れのように彼に襲いかかった。裏切られた!裏切られた!四方八方から押さえつけられながら、彼の頭にこの言葉が響いた。彼は闇雲に剣を振り回した。刺すような痛みが腕を走り、彼は剣を取り落とした。彼は拳と足で必死に抵抗した。裏切られた!この言葉が頭を貫いた。兵士たちに拳と剣の束で容赦なく殴りつけられ、彼は倒れかけた。裏切られた…意識を失いかけ、言葉は朦朧と霞んだ。ルッシラの顔が目の前に浮かんだ…そして、全ては暗黒に沈んだ。

目を覚ました時、それはほんの数秒後のことのように思えた。ぐったりとした身体が持ち上げられ、冷たい鉄の手枷が手首にはめられた。支えていた手が急に放され、彼は床に倒れかけたが、ぴんと張った鎖に止められた。手を大きく広げて吊るされて、肩と腕が引き裂かれるように痛んだ。彼は苦痛にうめき声を上げ、無理に片目を開いた。辺りは真の闇だった。松明さえなく、どこにいるのか見当もつかない。彼はうめいた。顎を持ち上げただけで、頭がさらに激しく痛んだ。彼は顎をゆっくりと胸に落とし、目を閉じて痛みを堪えた。彼は力を奮い起こし、脚で体重を支えた。それでも、腕は肩より高く上がっていた。明かりがなくても、どこにいるのかわかった。この暗さ、死体の腐敗臭。コロシアムの地下のどこかだ。

裏切られ…捕えられ…再び奴隷となった。絶望の熱い涙が瞼の中に溢れ、紫の痣になった頬を流れた。何があったのだろう?逃亡し、軍を率いてローマに戻る計画が、なぜ兵士たちに漏れていたのだ?しかし、彼の理性は答えを知っていた。他に可能性はない−ルッシラが弟に話したのだ。皇帝は計画を阻止するため、近衛兵を送りこんだ。ルッシラはおれを裏切った。割れるように痛む頭で、筋道立った考えをまとめるのは難しかった。ルッシラ…ほんの数時間前、おれに愛を告白し、やさしくキスをした女。ルッシラ…かつておれを愛し、今もなお愛している女。ルッシラ…弟を怖れ、息子を傷つけられる事を怖れていた…マキシマスは少し顔を上げた。ああ…それが答えだ。彼女は無理やり密告させられたのだ。コモドゥスが息子をたてに脅したのだろう。マキシマスはため息をついた。彼女を責める気にはなれなかった。彼女の立場なら、おれだって同じ事をしたかもしれない…息子を守るためなら、何でもしただろう。

手首と肩の痛みは続いていた。足を動かして体勢を変えようとしたが、足も鎖で繋がれていた。身体を動かす余地はほとんどなかった。これほどの絶望と無力さを感じたのは、奴隷市場に並べられてプロキシモに買われた時以来だ…ジュリアのアトリウムに繋がれていた時以来だ。

プロキシモ…おそらく、彼は死んだのだろう。ハーケンとジュバも。犬死にだ。

コモドゥスが勝ち、おれは負けた。ローマ帝国は負けた。

マキシマスは身震いし、衣服をほとんど脱がされているのに初めて気づいた。ほとんど裸で、手枷をつけれれ、独りで…コモドゥスの邪悪な心が考え出す拷問と死を待っている。

「残念だ」闇の中で、彼は呟いた。「残念だ」彼は繰り返した。何もかもが心残りだった。妻と息子の死、キケロの死、彼がアリーナで殺した全ての剣闘士たち…マルクス・アウレリウスの夢を叶えられなかったこと。皇帝は歴史的偉業を彼に任せたのだ…彼は失敗した。彼はがっくりと顔を落とし、声を出さずに泣いた。

「マキシマス?お前なのか?」闇の中で囁く声がした。

彼はぱっと顔を上げ、耳を澄ました。誰だ?

「マキシマス、お前なのか?」

「ジュバ?ジュバ?生きていたのか?」マキシマスは息を呑んだ。「どこだ?何も見えない。」

「近くの牢にいる。お前の声が聞こえた。誰か連れてこられたのは見えたんだが、お前かどうかよくわからなかったんだ。」

「そこに誰がいる?誰が一緒にいる?」

「おれたちのほとんどはここにいる…グラックス議員もいる。」

「ハーケンも?」

「いや…彼は死んだ。」

マキシマスは闇の中で悲しげにうなずいた。「議員、コモドゥスは何をするつもりだ?」

「ここに連れてこられたと言うことは、公開処刑だろうな。状況から考えて、間違いなく君には特別な事を用意しているだろう。」彼はしばらく間を置いてから言った。「マキシマス、ルッシラを責めないでやってくれ。他にどうしようもなかったんだ。」

思った通りだった。「わかっています、議員。おれが責めているのは自分だけです。」

「自分も責めるんじゃない」グラックスは言った。「君は私の知るうちで最も勇敢な人間だ。こうなったのは君のせいじゃない。」

ゆっくりとドアが開き、マキシマスの返事はドアの軋む音にかき消された。松明のかすかな明かりにマキシマスは目を細め、火を彼の顔につきつけながら近づいてくる男が誰かを見ようとした。近衛兵だ。近衛兵の軍服を着ていた。男はマキシマスの前の、手を伸ばせば届くほどの位置で足を止め、ゆっくりと松明を下ろした。揺れる不気味な影が、マキシマスが二度と見たくないと思っていた顔を照らし出した。クイントス。近衛兵と囚人は一瞬だけ目を合わせた。クイントスは背を向け、壁の腕木に松明を差した。しかし、マキシマスは彼が恥ずかしさに視線を落とすのを見た。

マキシマスは攻撃を仕掛けた。「勝利の味をかみしめに来たか、クイントス?長年の望みが叶ったんじゃないのか…おれが辱められるのを見られて?こんな恰好で牢に吊るされて、お前のご主人の気まぐれを待っているおれを見られて?」

クイントスは牢をうろうろと歩き回り、マキシマスが自分を見る事が出来ぬよう、彼の背後で立ち止まった。「そんな事を望んだことはない」彼は小さい声で言った。

「いい役につけて得意満面だろう?お前は権力が何より好きだ…富と…特権が。」

「いや…違う。」

「お前はついに手に入れた−ずっと、自分に相応しい思っていた地位を。邪魔者のおれはもうすぐ永遠に消える。昔から望んでいたことだろう、クイントス?おれを負かすことが。お祝いを言っておこう。皇帝はお前に耳を貸し、人民はお前を怖れる。宿願が叶っただろう?」

「違う」クイントスは囁いた。「お前のこんな姿を見たいと思った事などない。」

「なるほど、痛し痒しというわけだな。おれがこんな姿でなければ…監禁されているか、死んでいるのでなければ…おれはコモドゥスに挑み続ける。お前にも…命の尽きるまで。お前がどんなに臆病か暴いてやる。」

「おれは臆病じゃない。」

「なら、こっちを向け!」マキシマスが怒鳴った。

クイントスはマキシマスの右側をゆっくりと回り、彼の前に立った。ブーツの足音が石の壁に響いた。彼はマキシマスと胸をつき合わせて立ち、ゆっくりと視線を上げた。言葉は発しなかった。

マキシマスは鎖を引いて少しだけ前に身体を傾けた。「クイントス、お前なら事態を正すことができる。コモドゥスがどんな人間か、もうわかっただろう。マルクス・アウレリウス陛下はあんな男を皇帝にするつもりはなかった。だから、それが公になる前に奴は自分の父親を殺したんだ。お前も心の底では分かっているはずだ。」

「お前の言う事には証拠がない。」

「おれを信じろ。自分の勘を信じろ。おれの言うことを信じてくれ。おれを解放しろ。おれとオスティアへ来い。一緒にローマに乗りこもう!」

クイントスは黙っていた。

「お前が愛し、身を捧げている国家のためだ、クイントス。おれを解放しろ。手遅れになる前に」マキシマスは熱をこめて言った。

「お前がちゃんと縛られているかどうか確かめろと命令されただけだ」彼はマキシマスの左手首に手を伸ばした。

マキシマスはその手を振り払った。「馬鹿が。お前は分かっていない。コモドゥスの頭がどんなに歪んでいるか。自分では分かっているつもりかもしれんが。お前もいずれおれと同じように、ここに吊るされることになる。見ていろ。」

「任務を果しているだけだ」クイントスは言った。

マキシマスは怒りにかられてクイントスに唾を吐いた。唾は磨きぬかれた鎧の胸当てに落ちた。「その軍服がそんなに大事か。糞食らえだ、クイントス。お前がかつて大事にしていたもの全てを、その軍服が裏切っている。名誉こそ、何より大事なものだ、クイントス。名誉だ。任務じゃない。殺された皇帝のため、皇帝の理想を守るという名誉だ。」

クイントスは袖でマキシマスの唾を拭き、くるりと背を向けてドアへと向かった。牢を出る前に、彼は振り返り、マキシマスをちらりと見て少しためらうような仕草をした。そして出て行った。

マキシマスは首を回して頭の上で交差する太い木の梁を見上げた。「心配することはないさ、クイントス」彼は誰にともなく言った。おれはどこにも行きやしない。

 

不思議なことに、マキシマスは少し眠ったようだった。突然目が覚めて、両肩と両手首の鋭い痛みに気づいた。頭痛はほとんど治まっていたが、長時間に渡って不自然な姿勢を強いられていたために、身体中が悲鳴を上げていた。しかし、彼を目覚めさせたのはその痛みではなかった。遠くに、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。何度も、何度も、寄せては返す波のように。コロシアムにつめかける群集が合唱に加わっている。「マキシマス、マキシマス、」人々は彼を呼んでいた。自分たちの座っている席の下で繰り広げられているドラマには気づかずに。

彼が眠っている間に、厚い壁の高窓から昼の日光が牢に射していた。振り向けば、他の囚人たちが見える。しかし、彼は群集の声と目の前に浮かぶアリーナに気持ちを集中させた。人々は席に座り、にこやかに噂話を交換し、お気に入りの剣闘士の名を呼びながら今日のお楽しみを待っているのだろう。観客はおれの試合を見るつもりだろう…しかし、おれが死ぬところを見るとは思っていないだろう。マキシマスは皮肉な微笑みを浮かべた。彼らはたいへんなショックを受けるだろう。無敵のマキシマスが、なすすべもなく死を迎えるのだ。コモドゥスはどんな風にやるつもりだろう?キリスト教徒のように、縛りつけられて飢えたライオンにゆっくり食われるのだろうか?力と脅威を誇示したがっているコモドゥスが、それで満足するだろうか?

突然ドアが開き、牢に光が溢れた。コモドゥスが微笑みを浮かべて入って来た。敵の死を目前にして、彼は上機嫌のようだった。この特別な日に、彼は頭から足の先まで純白に身を包んでいた。彼はマキシマスの手を頭の上に吊り上げ、梁に固定されている鎖をちらりと見て、満足した様子だった。

マキシマスはうなじの毛が逆立つのを感じた。肩がこわばった。彼は無理やり肩の力を抜き、手枷をつけられた手をだらりと下げた。戦いに敗れても、自ら屈服はしない。

コモドゥスは囚人の前に立ち、皮肉な表情で群集の叫び声を聞いた。「マキシマス、マキシマス、マキシマス、」彼は群集を真似てつぶやいた。「お前を呼んでいる。将軍が奴隷になり…奴隷が剣闘士となり…剣闘士は皇帝に反逆した。」彼の言葉は毒を含んでいた。「驚くべき物語だ。人々は物語の結末を知りたがっている。名高い死に方をしてもらわなければ困る。」

マキシマスはコモドゥスの彫刻の施された鎧を見つめていた。皇帝は囚人にちゃんと自分を見させたかった。彼は手入れの行き届いた人差し指で、マキシマスの髭の伸びた顎を持ち上げた。マキシマスはひるむことなく、唇を歪めて笑った。

「大アリーナで、他ならぬ皇帝に挑む。これほど栄光ある死はあるまい。」

マキシマスはコモドゥスの目を真直ぐ見つめた。「お前がおれと闘うのか?」

「当然だ」若者は虚勢を張った。「私が怖がるとでも思うのか?」

子供じみた言葉に驚き、マキシマスは苦い笑い声を上げた。「生まれてからずっと、お前は怖がってばかりだ。」

「誰でも怖れは持っている。無敵のマキシマスは別だろうが。」

マキシマスは大胆に嘲笑った。「おれの知っているある人が言った。『死は全ての者に微笑む。人に出来るのは微笑み返すことだけだ。』」

「その友達は、自分が死ぬときにも微笑んだのか?」

マキシマスは嘲笑を浮かべたまま、コモドゥスを真直ぐ睨みつけた。「お前が知っているだろう。お前の父上だ。」

泣くまいとしている子供のように、コモドゥスの上唇が震えた。しかし口を開いた時には、その声は落ち着いていた。「お前は父上を愛した。しかし、私も父上を愛していたのだ。だから、私たちは兄弟じゃないのか?」突然、彼はマキシマスに近づいて固く抱きしめた。「さあ、兄弟、私に微笑みかけてくれ」彼はマキシマスの耳元に囁いた。

突然の激痛にマキシマスはよろめいた。左の肩甲骨の下を鋭く、深く刺されたのだ。彼はショックに目を見開いた。コモドゥスが引き抜いたナイフの穴から、左の肺に空気が流れ込んだ。息ができない。彼は必死で空気を求めてあえいだ。皇帝は、兄弟愛を茶化してみせるように彼の首筋にキスをして、落ち着き払ってクイントスの方を振り向いた。クイントスは口もきけなかった。「鎧を着けて傷を隠せ」彼は邪悪な満足感のこもった目でマキシマスを振り返った。

マキシマスは天を仰いだ。彼は無傷の方の肺に空気を送り込み、なんとか倒れずにいたが、死が迫っているのを感じていた。兵士時代に同じような傷を何度も見た。死が避けられないのは分かっていた。コモドゥスは利口だ。彼は刃に沿って細い管のついている暗殺者用のナイフを使った。肺に少しずつ空気が流れ込み、多量の内出血と外出血が起こり、肺から噴出する空気が内臓を圧迫するように。抜け目のないコモドゥスは、彼の腕を頭より高く上げさせていた。強制された姿勢によって肋骨が開き、ナイフが簡単に肩甲骨と一番上の肋骨の間に入りこむように。全て計画していたに違いない。マキシマスは死ぬが、コモドゥスが彼を弄び、ローマの民衆の目の前で彼を処刑するまでは生きているだろう。偉大なるマキシマスを倒せるのは皇帝だけ、というわけだ。彼の服は既に生温かい血で濡れいていた。コモドゥスの行なった全ての非道への復讐は、夢となりかけている。

二人の近衛兵によって鎖を外された囚人はよろめいた。近衛兵は彼の胸に荒っぽく包帯を巻き、彼の青いチュニックを頭からかぶせた。鎧が胸にきつく当てられ、脇のストラップが留められた。彼はたじろいだが、うめき声は上げまいとした。マキシマスの頭は割れんばかりだったが、この責め苦の間、倒れぬように足を踏みしめた。革の鎧の下、脇腹を血が流れ落ち、チュニックを濡らして脚をつたうのを感じた。終りはもうすぐやって来る…しかし、最後にもう一度コモドゥスを狙うまで、引き伸ばす事ができるだろうか?彼の圧制からローマを救う最後のチャンスはあるだろうか?彼をアリーナへ運ぶ昇降台に乗せられながら、マキシマスは愛する父と全ての守護神に、声にならぬ祈りを囁いた。

勝ち誇り、全身を鎧に包んで、コモドゥスは彼の隣に立った。クイントスはどこか近くにいるはずだ。マキシマスには見る力も残っていなかった。

縄と滑車が軋み、昇降台がゆっくりと昇り始めた。アリーナの落とし戸が開いた。頭上のアリーナから、赤い薔薇の花びらがマキシマスの足元に舞い降りた。急に光が遮られた。武装の近衛隊が闘士たちを観客の目から隠す体勢を取った。最も劇的な瞬間を狙って、興奮をかき立てる光景を満場の観客に明かすのだ。

ルッシラはおれが死ぬところを見るだろうか?

ジュリアも見るだろうか?

マキシマスは下を向いたまま、右の肺に空気を送り込むことだけに集中し、焼けつくような激痛に耐え抜こうとしていた。

 

第62章 最後の闘い〜180年

近衛兵たちが盾を引いてそれぞれの持ち場に走り、二人の闘士を囲む輪が出来た。マキシマスの左腕は筋肉の酸素不足によってひりひりと痛んでいた。昇降台がアリーナに到着し、観客は歓声を上げた。彼は少しふらつきながら無理にかがみこみ、感覚のなくなりかけた手でいつものように一握りの砂を取って指の間にこすりつけた。体を起こすと、クイントスの軍服が見えた。彼はゆっくり起き上がりながら昔の友人を睨みつけた。クイントスは彼と目を合わせた。が、傷ついた男が武器を受け取ろうと近づくと、彼は剣を砂に投げた。マキシマスは痛みをこらえて身体を曲げ、剣を拾い上げた。この期に及んでも、クイントスは態度を変えようとしない。皇帝の卑劣な行動をその目で見たというのに。マキシマスにはわかっていた。クイントスは勝ち馬に乗りたいのだ。どちらが勝つか見極めるまで待とうとしているのだ。

マキシマスは振り返り、最後の敵と向き合った。二人の剣のぶつかり合う音が、アリーナの壁に響いた。群集は歓喜の叫び声を上げた。二人は剣を突き、かわし、攻め、引き、互角の闘いをしていたが、マキシマスが不意を突いてコモドゥスのバランスを崩し、剣の束で痛烈な一撃を与えて後ろ向きに砂に倒した。しかし、マキシマスは素早く動けず、振り下ろした剣はコモドゥスが回転して立ち上がった後の砂を空しく噛んだ。この動きは、マキシマスの身体にひどくこたえた。彼は左腕を邪魔にならぬよう腰に押し当てた。腕を思うように動かすことが出来なくなっていた。彼は腰を曲げ、荒い息をつき、再び剣を振るった。頭が泳いでいた。脇かすめた剣に、マキシマスは直前まで気づかなかった。剣は彼の脚を横に斬り、深く大きい傷を残した。彼は苦痛と混乱に身体を屈め、後へよろめいた。絶好のチャンスを逃すまいと、コモドゥスが襲いかかった。マキシマスは身体を引いて剣を避け、身体の奥底から力を奮い起こして、鋭い突きを返した。コモドゥスは自信を得て、以前の試合で見たマキシマスの真似をして回転した。気がつくと、自分より大きい敵と胸をつきあわせていた。彼は背の高さを利し、最後の力を奮い起こして右腕で皇帝を押し戻し、白い衣に包まれた腕に逆手で思い切り斬りつけた。コモドゥスは剣を取り落とし、血の滴る傷を手で押さえた。観客はお気に入りの剣闘士の技に歓声を上げた。この分なら楽勝だ。コモドゥスは腕を押さえた。敵は後によろめいている。

マキシマスには、コモドゥスが腕を押さえているのも見えなかった。若者がけげんな顔をして彼に近づいて来たのも。肩と首の感覚がなくなってきていた。脇も。ありがたいことに、焼けつくような激痛は鈍痛に変わっていた。突然、目の前でアリーナが傾き始め、遠ざかって見えた。トンネルの向こうに見える風景のように。空ろな声が聞こえた。「クイントス、剣だ。剣をよこせ」誰の声だ?「剣を!剣をよこせ!」声はもう一度叫んだ。

「剣を鞘に収めろ!剣を…鞘に!」マキシマスの感覚は混乱していた。今の声はクイントスか?クイントスはどこだ?トンネルは閉じ始めた。入り口が縮み、向こう端に小さな光が見えるだけになった。マキシマスの震える指から剣が落ちた。彼はトンネルの向こうに手を差し伸べた。その向こうには、懐かしい光景が広がっていた。ここがどこか分かった。スペインだ。おれの農場の門の前だ。オリヴィアがいるに違いない…マルクスも。

突然、観客からブーイングと叫び声が湧き上がり、マキシマスは苦しい現実に引き戻された。ちょうどその瞬間、暗い嘲笑を浮かべたコモドゥスが血に染まったナイフで襲いかかって来た。コモドゥスはマキシマスの無防備な首を狙って来た。マキシマスは後へよろめいた。武器を失ったマキシマスは、兵士として培った戦闘技術と最後に残った力をふりしぼり、右腕を上げて肘でコモドゥスの顎を一撃した。コモドゥスはぐらついたが、立ち直った。マキシマスは拳を固め、甲で彼の顔を殴った。コモドゥスは倒れたが、立ち上がり、マキシマスの咽喉元めがけて激しくナイフを振った。しかし、マキシマスは彼の動きを読んでいた。彼は痺れた左腕でナイフを防ぎ、腕をハンマーのようにコモドゥスの鼻に叩きつけた。二人の間に血が飛び散った。マキシマスは腕を皇帝の顔に叩きつけ、力強い右の拳で一撃した。コモドゥスは崩れ落ちた。マキシマスはもう一度右手で殴り、膝で顔を蹴って皇帝を砂に倒した。

劣勢になっても、コモドゥスは諦めず、必死で立ち上がった。彼はよろめくマキシマスに近づいた。何としてもこの剣闘士を倒し、民衆の愛と崇拝を奪い取るつもりだった。彼はみたびナイフを振りかざした。マキシマスは右の拳で防いだ。マキシマスは左腕をコモドゥスの腕の下に楔のように差し込み、それを梃子にして皇帝の手首を逆に向けた−皇帝は必死で彼の背中を殴りつけたが、彼は動じなかった−ついに、ナイフの刃がコモドゥスの咽喉に触れた。マキシマスは仇の頭を、まるでいとおしむように抱えた。憎んでいた男の目に浮かんだ衝撃と恐怖に満足し、彼は容赦なく刃を沈めていった。青い瞳で、皇帝の青い瞳をじっと見つめながら。頸静脈に、さらに深く、音を立てて脊椎に当たるまで、彼は刃を沈めた。コモドゥスはマキシマスの−自分を殺した男の体にしがみついたまま崩れ落ちた。その空しい人生を、一秒でも引き延ばしてほしいと乞い願うように。彼はがっくりと膝をついた。既に死んでいた。マキシマスがゆっくりとナイフを引き抜くと、コモドゥスは砂に倒れた。

仕事は終った。

再び、闇が彼を包んだ。今度は、トンネルはさらに長くなっていた。マキシマスはそこへ漂い降りた。空気のように軽く。彼は我が家の門の前にふわりと降り立った。今度は躊躇わない。彼はドアを押し開け、門をくぐった。愛するポプラの木々が、わが家へと続く道の両側に並んでいる。彼は微笑んだ。もうすぐ故郷だ。

「マキシマス!」聞き覚えのある声が彼を呼び止めた。トンネルはまぶしい光に溶けて消えた。ここはどこだ?

「マキシマス」ここはアリーナだ…人々は呆然とし、静まり返って、彼らの英雄が死にかけているのを見つめている…死んだ皇帝の近くに立つクイントスが、彼の名を呼んでいた。彼らはまだ、無言の近衛兵たちに囲まれていた。

マキシマスは目を瞬いた。「クイントス、おれの仲間を解放しろ。グラックス議員を復権させる。かつて、夢があった…ローマという夢が。今、実現させる。マルクス・アウレリウスの望みだ。」

クイントスはすぐに従った。「囚人を解放しろ」彼は衛兵たちに命令した。「行け!」

暗闇が、今度は素早く彼を包み込んだ。いつの間にか、マキシマスは自分の農場の小麦畑を歩いていた。金色の穂に指をすべらせながら。

「マキシマス!」柔らかい女性の声が彼を呼んだ。オリヴィア?彼は必死で目を開けようとしたが、少ししか開かなかった。ルッシラが傍にいた。泣いていた。彼女の後で小麦畑が、磨きぬかれた黄金のように輝いていた。彼女の顔が霞んで消え、また現れた。わかっている−ルッシラを失おうとしているのだ…命を失おうとしているのだ。

「ルシアスは安全だ」彼はつぶやいた。その簡単な一言が、多くの事を語っていた。彼は仕事を成し遂げたのだ。帝国を狂人コモドゥスの手から救い、共和国への道をひらいた。愛する皇帝、マルクス・アウレリウスの望んだ通りに。そして皇帝の孫、ルシアスの帝位を保証した。素晴らしい母親が、彼を導くだろう。その母は今、倒れた戦士のために涙を流している。慰めてやりたかった。が、もう言葉が出てこなかった。彼の身体にはもう、ひとかけらの力も空気も残っていなかった。

「行って。家族のところへ…」彼女は涙を流しながら囁いた。マキシマスはふたたび、苦痛のない暖かな暗闇に漂い、帰りたかった所へ辿り着いた。故郷。そして、彼は独りではなかった。遠くに見える。二人が道に立っている。オリヴィアとマルクス。彼を待っている。会いたかったと微笑んでいる。息子が駆け寄ってくる。彼は二人に向かって歩き出した。愛するスペインの農場に育つ、麦の穂に指をすべらせながら。

故郷に帰ったのだ。

 

第63章 余波

「たったそんな事だけか…遅過ぎた!」床にうずくまっている男に向かって、グラウクスは叫んだ。「そんな事…手遅れだった…」乾いた嗚咽に言葉がつまり、彼はつまずきながらドアへ向かい、外に飛び出して息を吸った。しかし、二歩歩いたところで、彼は泥にがっくりと膝をついた。心の苦しみが体の痛みに変わり、彼は腰を曲げ、胃のあたりを抱えこんで体を揺らした。少し後、彼は体に細い腕が回されるのを感じた。振り払おうとしたが、彼女はしっかりと彼を抱きしめた。彼女は頭を彼の肩にのせた。二つの孤独な魂は、それぞれの不幸に沈みこんでいた。

クララは囁いた。「私は何も知らなかったの。親戚の人は、父は近衛隊長だったけど、何の落ち度もないのに解雇されたんだって言ったわ。ずっと…ずっと父は被害者だと思っていたの。不当に扱われたんだって。親戚が私をさっさと厄介払いしたはずだわ。悪い血を追い払いたかったのね。一族の恥なんだわ。」

グラウクスは目的の一つを達成した。クララが父親に対して抱いていた幻想を打ち砕いたのだ。なのに何故、全然嬉しくないんだろう?彼は顔をそむけた。彼女の顔を見たくなかった。

「お父さんの仕事を継げてよかったですね。大きな慰めでしょう。」クララは彼の横の、固い地面に座った。

グラウクスは途惑って顔を上げた。彼女は軍服を指差した。「ぼくは兵士じゃないんだ」彼はそう白状しながら、体の力を抜こうとした。彼は鎧の留具を外して頭から脱いだ。ケープも外した。「僕の軍服じゃないんだ。ただの普通の男だ。父親について、真実を探しているだけなんだ。」

「そうなの?」クララが言った。隣に座っているこの男、身分を偽っていたことを告白した男−一体どういう人なんだろう?でも…どこか惹かれるものがある。根っから正直で、無防備とさえ思えるところが。彼女は指で土に輪を描きながら横目で彼の男らしい横顔を見た。「あなたは…今まで、お父さんがどうやって死んだか知らなかったの?」

グラウクスは足首を交差させ、手を膝にのせて楽な姿勢になった。「最後の日、アリーナに出る前に致命傷を負わされていたのは知っていた。誰がやったのかは、今日まで知らなかった。」

「父がやったと思っていたの?」クララは彼をじっと見つめながら言った。

「クイントスかコモドゥスのどちらかだと思っていた。これで分かった。お父さんの話は辻褄が合っている。彼を信じる。」

クララは服が汚れるのもかまわず泥の上を摺って回りこみ、彼の正面に座った。彼女は彼の手に触れようとしたが、自分の日焼けした、汚い肌と折れた爪を見てあわてて手を引っ込めた。彼女は色あせたスカートの折れ目に手を隠した。「これからどうするつもり?」

「クイントスを殺すつもりだった」グラウクスはためらわずに言った。

クララは驚いた様子は見せなかった。「そうだと思ったわ。それで、どうするつもり?」彼女は冷静に訊いた。

彼は借り物のチュニックのワイン色の布地をいじって、ため息をついた。「わからない。」

「あなたの名前は?」彼女は訊いた。彼に触れたいと思った。彼に触れて欲しいと思った。

「グラウクスだ。僕のフルネームは、マキシマス・デシマス・グラウクスだ。」

「緑の瞳から?」

「そうだ。」

「グラウクス、父が死んでも何も変わらないわ。」

グラウクスは表情を固くした。「今度は彼を庇うのか?」

クララは宥めるように微笑んだ。「いいえ…父には、庇ってもらう資格はないわね。でも、ほら、見てよ」彼女は岩だらけの風景を見回した。「こんな所でこんな生活をしているのよ。千回死ぬより悪いわ。ここでは、生きてゆくのがやっとなの。」

「じゃあ、君はどうしてここにいるんだ?どうして、せめて村へ行って、結婚相手を見つけて、ここを逃げ出さないんだ?」

彼女はためらわずに答えた。「父には私が必要なの。一人娘として、面倒を見るのは私の義務だわ。」

「義務か。お父さんみたいだな。」

クララは遠い丘の頂上を眺めた。「本当は、他にどうしようもないだけなの。」彼女はグラウクスに視線を戻した。「あなたのお父さんの事で、父は間違ったことをしたわ。あなたが怒るのも無理はないわね。でも、きっとその時には正しい事だと思ったのよ。後から振り返ってあれこれ言うのは易しいけれど。」

グラウクスは頑固に首を振った。しかし、この魅力的な、誇り高い女性を見つめずにいられなかった。自分の幸福より、誰にも愛されない父への義務を選ぶ女性。二人の目が合い、見つめ合った。

「ローマから追放された時、お父さんはどこへでも行けた。もっと得意な事を生活の糧にする事も出来たのに。どうして、やったこともない農業を始めたりしたんだ?どうして、失敗してもまだ続けているんだろう?」

「私も、いつも不思議に思っていたの。今日、初めて分かったわ。」

グラウクスは不思議そうに彼女を見た。

「あなたのお父さんと私の父は、軍隊で一緒に育ったのよね?」

グラウクスはうなずいた。

「お父さんは将軍にまでなった…」

「父は北部軍の総司令官だった…将軍の中の将軍だ」グラウクスが口を挟んだ。

いかにも誇らしげな様子に、クララは微笑んだ。「私の父は副官だったわ。父もすごくプライドの高い人なのよ。多分、マキシマスの下にいるのが嫌だったんでしょうね。多分、父がしたことは、それが理由かもしれない。」グラウクスが口を挟もうとしたが、彼女は手を上げて止めた。「お父さんの死は父の責任ね。それは認めるわ。多分…多分、父が農業をやっているのは、マキシマスが農夫だったからね。多分、うまくやれるかどうかやってみたかったのよ。マキシマスは農夫としても成功していたから…でも失敗した。あなたのお父さんには敵わない事が、また証明されたの。それでもまだここにいるのは、自分を罰しているのかもしれない。」

「君も罰を受けている。」

クララは肩をすくめた。「女っていうのはそういう立場なのよ。女は男親や夫の付属物なの。」

それは事実だった。彼は慰める言葉を思いつかなかった。

クララは微笑んだ。同情されるのは嫌だった。グラウクスに同情されるのは真っ平だ。「グラウクス、お父さんは麦を育てていたの?」

「色んなものを育てていたけど、麦は主要作物の一つだった。僕も育てている。」

「ねえ、この土地は麦にはまるで不向きなのに、どうして父は麦を育てようとしているのかしらね?」

クイントスがマキシマスに嫉妬?クイントスが自分を罰する?グラウクスは唐突に立ちあがり、驚いているクララを引っ張って立たせた。彼は小さな家に向かった。

「どうするの?」彼女は小走りに彼を追いながら訊いた。

「もっと詳しく聞く…それから、君を解放する。」

 

クイントスはテーブルを元の位置に戻し、壊れていない方の椅子に座って、空っぽのカップを静かに見つめていた。クララは急いでワインを注ぎ、もう一杯注いでグラウクスにすすめた。グラウクスは今度は受け取ったが、飲まずに炉棚に置いた。

彼はクイントスに唐突な質問をぶつけた。クイントスは目の前で年老いてしまったようだった。縮んで、小さくなってしまったようだった。「父が死んだ後、アリーナで何があったか話せ。」クイントスは空ろな目で見つめるだけだった。グラウクスは椅子を蹴り、質問を繰り返した。

疲れ切った男は、ぽつりぽつりと話し始めた。「部下たちが俺の命令で囚人を解放した。彼らがアリーナに入って来ると、ルッシラ様が人々にマキシマスを称えるように命令した。グラックス議員、ジュバ、それに他の男たちが、彼を肩にのせて運んだ。俺も加わった。近衛兵たちが儀仗兵として、アリーナの外へ先導した。崩御した皇帝を送るように。ルッシラは弟の亡骸とアリーナに残ったが、息子のルシアスは我々の後をついて来た。皇太子が父帝を送るように。」

グラウクスは、その行列が目の前に見えるような気がした。この話はもう知っていたのに、咽喉が詰まるのを感じた。「それから何があった?」かすれた声で、彼は訊いた。

「群集がアリーナから退き始めると、ルッシラが牢に来た。人々は嘆き悲しんでいた。街で泣き叫んでいる声が一晩中聞こえていた。彼女はマキシマスの遺体を宮殿に運ばせた。そこで皇帝にふさわしい、壮麗な葬儀をするはずだった。」

「でも葬儀はなかった。」

「ああ。」

「なぜだ?」

クイントスは黙っていた。グラウクスはまた椅子を蹴った。クイントスはたじろいだ。「なぜだ?」

「マキシマスが望んだようにはいかなかった。ルッシラと息子は追放された。グラックスはマルクス・アウレリウスの望みを叶えようと最善を尽くしたが、軍が協力しなかった。ペルティナクスが皇帝に選ばれた。最も職位に相応しいと思われたんだ。」

「最も懐が豊かだった、だろう。クイントス、本当の事を言え。近衛隊は−あんたが率いていた近衛隊は−まだ少年だったルシアス・ヴァレスと、元老院の両方から権力を奪った。それから、権力を競売にかけて、一番たくさん金を払う男に売り払った。皇帝は金と力を握った近衛隊の傀儡に過ぎなかった!ローマは共和国になる筈だったのに!」

「それは無理だった。マルクス・アウレリウスの見果てぬ夢だ。それぞれ違う意見を持った元老院議員なんかに治めさせるには、帝国は大き過ぎる。もしマキシマスが臨時の皇帝になっていたら、彼だってそう思っただろう。そうなったら、彼はルッシラと新しい王朝を創設したに決まっている。帝国には強力な指導者が必要だ…独裁者だ…でないと、内戦になる。我々はペルティナクスを選んだ。」

「貴様らはルッシラを殺した!彼女が、正当な後継ぎが帝位につくのを助ける事が出来ないように!」

「違う。彼女は何年も後に、亡命中に病死したんだ。誰も彼女を傷つける気なんてなかった。」クイントスは首を振った。そのわずかな仕草がグラウクスの怒りに火をつけた。彼はテーブルに身を乗り出し、クイントスが彼から目をそむけられないようにした。

「コモドゥスでさえ滅ぼせなかったのものを、貴様が滅ぼしたんだ−アントニン王朝を。」

「それが彼の祖父の望みだったんじゃないのか?ルシアスは皇帝には幼すぎた。たとえ臨時の皇帝でも。反乱や戦争が起こっただろう」クイントスは言い張った。

「元老院が権力を引き継ぐまで、ルッシラとグラックスが彼を導いたはずだ!共和国が確立するまで、人々は彼を暫時の皇帝として受け入れた筈だ。」

クイントスは頑固に唇を引き結び、首を振った。

グラウクスは一歩下がり、彼をじろじろと見た。「それとも、他に何か理由があるのか、クイントス?幼いルシアスから、ほんのわずかな権力も残さず奪い取りたかった理由が?」

クイントスは縁の赤くなった目を光らせて彼を睨んだ。

こんな質問がどんな答えをもたらすのか、グラウクスには見当もつかなかった。しかし、心の底にぼんやりした考えが浮かんでいた。

クイントスは急に、取り澄ました表情になった。クララは狼狽した様子で父を見た。「君の名前はマキシマスだと言ったね?」クイントスが訊いた。

「ああ、父の名を継いだ。でも、グラウクスと呼ばれている。」

「そうか…」クイントスはゆっくりと言った。「俺は前から、マキシマスには二人目の息子がいるんじゃないかと思っていた。しかし…息子の名はルシアスだと思っていた。」

グラウクスがクイントスの胸倉を掴み、壁に叩きつけた。乾いた泥が飛び散り、クララは悲鳴を上げた。「よくもそんな事を!嘘だ!」

クイントスは息を呑みこんだ。「ルッシラがルシアスを身篭った頃、マキシマスはゲルマニアで彼女と二人きりになった。」彼は何度も頭を打ってぼんやりしていたが、言う事を言ってしまうつもりだった。「彼は息子を救うためにコモドゥスを殺したんだ。」

「ルシアスは兄と同い年だ!」グラウクスは怒鳴った。「父はその頃、ルッシラでなく母と一緒にいた筈だ!」

「ルシアスはマルクスより2ヵ月以上早く生まれた。充分有り得る。」

怒りからくる力で、グラウクスはクイントスをつかみ上げて背中をテーブルに叩きつけた。テーブルは砕け、二人は木の破片にまみれて床に這いつくばった。「この嘘吐きめ!」グラウクスは彼の下で床に倒れている男に向って叫んだ。しかし、彼の心には冷たい恐怖が広がっていた。マキシマスとルッシラ−二人は愛し合っていた。マキシマスがオリヴィアに出会う直前、二人は一緒にいたのだ。クイントスがあれほど熱心にルシアスを帝位から遠ざけようとしたのは…マキシマスをローマ皇帝にさせまいとあれほど苦労した後に、マキシマスの息子が皇帝になってしまうのを防ぐためだ。それに、父の最後の言葉は…母や兄のことではなく…ジュリアのことでさえなく…ルシアスのことだった。「ルシアスは安全だ」父はそう言った。

ルシアス。

グラウクスの指は、それ自体の意志を持っているように、クイントスの首に巻きつき、締めつけた。クララの懇願を無視して、彼は老人の目が飛び出し、舌が口からはみ出て顔が紫色になるまで締め上げた。クララは彼の手を引っ掻いて、やめてと懇願したが、彼は指を緩めなかった。

「グラウクス!グラウクス!」彼女は彼の耳元で叫んだ。「父にはそんな価値はない!殺す価値はないわ!殺させたがっているのよ!あなたが後で悔やむのを望んでいるのよ!相手は無抵抗なのよ、グラウクス!」彼女はグラウクスの指が緩むのを感じた。彼は指を一本づつ外していった。彼女は驚くほどの力で彼を押し退け、父を支えて座らせた。クイントスの首は死人のように、胸にだらりと垂れていた。彼女は父の頬を叩いた。クイントスは息を吹き返し、咳こんだ。ぜいぜいと喘いでいる父を起こし、彼女は自分も床にへたり込んだ。

ほとんど同時にドアが開き、二人の男が駆け込んで来た。「何があった?!」マリウスが友人に駆け寄りながら叫んだ。「大丈夫か?君の叫び声が森まで聞こえたぞ。」

「大丈夫だ」グラウクスはつぶやいた。マリウスとブレヌスは彼の手を引いて立たせた。彼は動揺していた。彼は借り物の軍服のほこりを払い、髪をかきあげた。背後で、クイントスが荒い息をしているのが聞こえた。この男は命拾いした。彼は心臓を落ち着かせようと深呼吸した。彼はまだ動揺していて、どうしていいか分からなかったので、とりあえず無難な礼儀作法に助けを求め、クララに友人たちを紹介した。この数分間の暴力と混乱はなかったことのように。

「例の嫁き遅れ…」ブレヌスがそう言ったので、グラウクスとマリウスはたじろいだ。

クララが気を悪くしたとしても、そんな様子は見せなかった。彼女は冷静に言った。「父をベッドに運ぶのを手伝って下さい。」

マリウスが彼女を手伝う間、グラウクスはめちゃめちゃになった部屋を眺めた。クララには気の毒な事をした。

彼女はすぐに戻って来て、スカートで手を拭った。「お客様に飲み物でもお出ししたいところだけど、今ちょっと家具と食器を切らしているみたいで」彼女は明るく微笑んだ。今までの事はなかったかのように。

「ありがとうございます。でも、もう行かないと」マリウスは頭を下げた。彼はグラウクスの方を向いて、小声で言った。「怒れる兵士たちが村中で軍服を探し回っているぞ。さっさとここを離れた方がいい。」

グラウクスはうなずいて、クイントスの部屋へ向かった。クララがさっと彼の前に立ち、ドアを身体でふさいだ。「もうやめて」彼女は懇願した。

「一つだけ。もう一つだけ訊きたいんだ。あと一つだけ。部屋の外からでいい。」

クララは彼が本心から言っているのを感じて横に下がった。

「クイントス」グラウクスはベッドの上の影に向かって言った。「父の遺体はどうなった?」

クイントスが身動きして、ベッドが軋んだ。「火葬された」彼は弱々しい声で答えた。

「それなら、灰を入れた壺があるはずだ。どこにある?」

「知らない。本当に知らないんだ。」

「そこまでよ」クララがそう言いながら、グラウクスを押してドアから離し、ドアを静かに閉めた。

「馬の準備をしないと」マリウスが言った。「ぐずぐずするなよ」彼はクララに丁重にお辞儀をして、ブレヌスと一緒に出て行った。

グラウクスは小さな部屋の残骸をもう一度見回した。「クララ…あの…すまなかった。この家をきちんとしておくのに、君がどんなに苦労しているかわかるよ…」

「いえ、あなたにはわからないわ」クララはため息をつき、自分の椅子に座り込んだ。「あなたは私たちの家にいきなりやって来て、無茶苦茶にして、ただ去って行くのね。」

「僕は…」グラウクスが言いかけた。

クララが遮った。「父もあれで、妙な所で誇り高いの。グラウクス、父は嘘を吐かないわ。真実を捻じ曲げて受け取る事はあっても、分かっていて嘘を吐いた事はないわ。私たちのみじめな作物を売るためにさえ、嘘は吐かないの。ルシアスがマキシマスの息子だって言ったのは、そう信じているからよ。それが本当とは限らないけど…そう信じているんだわ。父が信じている事が気に入らないからといって、殺すのは筋が通らないわ。父を殺せば、その時はすっきりするかもしれないけど、良心の痛みに一生苦しむ事になるわ。」

彼女の言う通りだった。グラウクスはうなずいた。もう何も言えなかった。彼はちょっと頭を下げ、家を出て、既に馬に乗っているマリウスとブレヌスの方へ行った。「ちょっと待って」彼は荷物を探りながら言った。彼は小さな革の袋を取り出して、玄関で見送っているクララのところへ戻った。彼は彼女に袋を差し出して言った。「ほら。これで、僕が壊した家具の代わりを買ってくれ。それから、一人でローマまで行く船賃もある。これは君に。お父さんが亡くなって、君が義務から自由になったら、故郷に戻るといい。それからもう少し…これは君が好きに使ってくれ。」

クララはしばらく革袋を見つめていたが、仕方ないとでも言う様に、金を受け取った。「あなたはいい人ね、マキシマス・デシマス・グラウクス」彼女は静かに言った。

「どうかな。時々わからなくなる。」

「グラウクス、父が言ったことは気にしないで。ただの気難しい老人なのよ。」

しかし、疑いの種は蒔かれてしまった。まずマキシマ、それから…ルシアス?グラウクスは無理に微笑んだ。彼女は微笑み返した。

マリウスは玄関まで馬を連れて来ていて、ロバが嫌がってけたたましく鳴いていた。グラウクスは騎乗した。マリウスが訊いた。「街道に続く道以外に、ここから出る道はありますか?」

「ええ」クララが答えた。「でも、岩だらけの険しい道よ。」彼女は家の後の、みすぼらしい作物の育つ畑を指差した。「丘に入って、そのままずっと行けば、海辺のルリイ広場に続く道に出るわ。途中にいくつか、小さい村があるわ。」

「ありがとうございます」マリウスはそう言って、東へ向かった。ブレヌスが後に続いた。

グラウクスは後に残っていた。「僕はまたいつか君に会いたい。君はもう会いたくないかもしれないけど。出来れば、ここじゃないどこかで。」

クララは微笑み、急に照れたような顔になった。「そうね、会いたいわ、グラウクス。またいつかね。あなたは女の人生に刺激をもたらす人ね。それは認めざるを得ないわ。」彼女は声を上げて笑い、ふいに黙り込んだ。自分の陽気な笑い声に驚いていた−もう何年も聞いた事のない声だった。「これからルシアスを探しに行くんでしょう?」

「ああ。どうしてわかった?」

彼女は肩をすくめ、さりげない風を装ってドアの横の柱に肩をもたせかけた。「さあ、勘かしら。」

アルターが跳ねた。うるさいロバから離れて、早く他の馬たちのところへ行きたかった。グラウクスは別れの印に微笑み、ゆっくりと去りかけた。

「グラウクス!」クララが呼んだ。

彼は振り返った。

彼女はそこに立って、髪をいじり、スカートを撫でながら彼を見送っていた。彼を呼び戻して、もう少しいて欲しいと言いたかった。彼のこと、彼の父親のことを話して欲しかった。でも、引き止める術は何もないのだ。食事すら出せない。唇から言葉が出かかったが、急に自信がなくなり、途中で消えてしまった。彼女は唇をなめ、うなずいて手を振った。

彼は手を振り返し、心の片隅に渦巻く理不尽な罪悪感を振り払った。彼は次なる旅路についた−ルシアス・ヴァルスを探すアルプスへの旅に。登りはじめて5分もしないうちに、グラウクスは手綱を引いて振り返った。「先に行ってくれ。追いつくから」彼は友人たちにそう叫んで、アルターの方向を変えた。

彼女は先ほどと同じ場所に、根が生えたように立ち尽くしていた。彼が戻って来たことに驚いたとしても、そんな様子は見せなかった。彼は馬に乗ったまま彼女の側まで行き、身を乗り出して手を差し伸べ、指を広げた。「僕と一緒においで。ローマへ連れて行くよ。君はこんな暮らしをするべき人じゃない。僕の後ろに乗ればいい。アルターなら、僕ら二人ぐらい軽々運べる。」

彼女は何も言わなかったが、その目に感謝の気持ちが表れていた。彼女は差し伸べられた手を取り、キスをして、ゆっくり首を振った。彼女は目に涙を浮かべて微笑んだ。「あなたが私を必要としているなら、一緒に行くわ。でも、そうじゃない。父には私が必要なの。父と一緒にいるわ。」彼女は彼の手をぎゅっと握りしめ、放し、後へ下がった。最後に心からの微笑みを彼に送り、彼女は背を向けて家に戻った。その足取りがこんなに軽かったのは、もう何年もなかったことだった。

 

第64章 アルプス

数日後、三人の旅人はイゼール川の谷間の道をとぼとぼと進んでいた。クラロの街を迂回した後、彼らは北東に向かって進んだ。ルシアス・ヴァレスがアイユーデス・セレクトス・クエスティオニスを勤める、長い名前の小さな街に向かって。一行はレメンカムでローマの主街道に出て、イゼール川の谷間を東へ向かった。聳える花崗岩の峰、草の生い茂る深い谷間。ここでローマからガリアまでの旅のペースを保つのは無理だった。進むほどに道は登りになり、空気は薄く、冷たくなった。三人は馬たちに無理をさせず、好きな速さで進ませた。ご主人たちの寛大な態度に乗じて、馬たちは道からそれ、膝までの深さの冷たい小川を歩いたり、緑の野をピンクや黄色や白で彩る野の花を食んだりと楽しんでいた。信じられないほど美しい光景に、三人は圧倒されていた。太陽の降り注ぐ、雪をかぶった峰、麓を緑のモザイクで覆う森、花の咲き乱れる坂、雪解け水の早瀬。高台から滝がカーテンのように落ちて谷間を深く抉り、底知れぬ鏡のような湖が、果てしない青空を映していた。道を曲がる度に、ブレヌスはため息をついた。これほどの絶景は想像したこともなかった。蚊はもういなかったが、虹色に光る蜻蛉が、馬たちをからかうように前髪を掠めて飛んだ。アルターは特に苛立っているようで、そばを飛ぶ大きな4枚羽の昆虫に噛みつこうと口をぱくぱくさせた。

イゼール川と谷がようやく南へ去ると、道は急な上り坂になり、また狭くなった。彼らはしばしば、西へ向かう牛車を通すために道の端に寄らなければならなかった。ロバの引く小さい荷車もあった。高地では、ロバの方が便利に使われいている。ロバに乗っている人もいた。アルペ・グライアと呼ばれる狭い山道を、三人は一列縦隊で進んだ。時々止まり、岩壁にくっついて、西のガリアへ行く旅人を通さなければならなかった。もう何日も見ているモンブラン(白い山)の巨大な峰が、今や彼らの真正面に聳えていた。山の名の由来である大氷河が、夏の太陽の中でも白く輝いていた。三人は山の南側の岩だらけの道を通り、オーガスタ・プリトリアの街へと登り続けた。山道は曲がったり狭くなったり、突然下ったり上ったりと当てにならなかった。三人は不安定な足場で馬に怪我をさせる危険を避けるため、降りて引いて行く事にした。特に危険なのは、不注意な旅人を道から落とそうと待ち構えている、日陰の凍った水溜りだった。ブレヌスはもう二度滑り、しりもちをついていた。少年は雪を見たことがなかったので、この凍った白い雨の塊に魅せられ、張り出した岩の陰に雪溜まりを探していた。彼は雪に手形と足形を残したり、雪を食べてみたり、丸めて友人たちにぶつけたりした。しかし、雪が当分消えそうもないとわかると、だんだん飽きてきた。彼は足踏みをしてつま先を温め、こんな所に住んでいる人がいるなんて信じられない、と思った。そう思うのはこれで百回目だった。

マリウスは周囲の景色の美しさに気づいてはいたが、スペインの友人の方が気になっていた。グラウクスはクイントスのところを発って以来、むっつりと黙り込んだままだった。何を悩んでいるのか話してくれと言っても無駄だった。グラウクスは考えに沈んだままとぼとぼと歩いた。その顔を様々な表情がよぎったが、どれも陰気で憂鬱そうだった。彼は自分の服を着ていた。軍服はヴァレンティアの厩番の少年に送った。お詫びの金を添えて。グラウクスは相変わらずマキシマスそっくりではあったが、軍服姿の父の分身のような薄気味の悪さは消えていて、マリウスはほっとした。しかし、グラウクスは何か悩んでいる。その悩みを友人たちに話すべきだ、とマリウスは思った。二人は彼を助けるために大変な危険を冒しているのだから。しかし、くる日もくる夜も沈黙は続いた。三人は小さな山村に宿屋を探し、なければ手近なねぐらに野宿した。

翌朝は薄暗く、霧雨が降っていた。午前10時頃には、濃い霧が道を覆っていた。三人は見えない崖から落ちるのをおそれ、一時の避難所を探した。地面から突き出した大きな半円形の花崗岩が、彼らの避難所になった。人間三人と馬三頭に充分な大きさだった。気温は下がる一方だった。重ね着した服は湿っていて、彼らは身震いした。グラウクスは湿った木で火を起こそうと躍起になっていた。火はなかなか点かず、グラウクスはだんだん苛立ってきた。彼はわめき声を上げて洞穴を歩き回り、役立たずの焚き木を蹴りつけた。マリウスは木切れで火を起こしたことなどなかったので、雨の当たらない平らな石に座ってただ彼を見ていた。

「それですっきりしたか?そうだといいが。」彼はのんびりと言った。

グラウクスはもういちど木を擦ったが、無駄だった。「ああ、くそ!もう知るか。糞食らえだ、火も、雨も、山も!」

「何もかも糞食らえ、か」マリウスがグラウクスの口真似をして言った。マリウスもいい加減うんざりしていた。友人が怒っても構わない気分だった。

グラウクスが振り向いた。「ほっといてくれ。」

マリウスは隣の石を、ふかふかのソファか何かのようにぽんと叩いて言った。「いいから座れよ。」

「ずっと座ってるじゃないか。もう何時間も。それに、夜はもっと寒くなるから、火を起こして服を乾かさないと凍死するぞ。三人とももう、乾いた服は残ってないし。」彼はマリウスを見て、懇願するように手を伸ばした。「もう家に帰った方がいいのかもしれない…君はローマ、僕はスペインに。もう充分つきとめた。誰が父を殺したかもわかった。ひょっとしたら、これ以上知るべきじゃないのかもしれない。」

「それで、誰がマキシマスを殺したんだ?」

「コモドゥスが刺したんだ。アリーナの最後の闘いの前に。マキシマスは鎖で繋がれていた。抵抗できなかった。」

「教えてくれてありがとう。」マリウスはそう言ったが、グラウクスが背を向けてまた黙り込んでしまったので、軽率な言葉を後悔した。「グラウクス」しばらく冷たい雨が岩を打つ音を聞いていた後、マリウスが言った。「コモドゥスがお父さんを刺したんじゃないかって事は、前から分かっていただろう?それで落ちこんでいる訳じゃないな。クイントスを殺せなかったからか?」

「いや」グラウクスは灰色の雨に向かって言った。「あれで良かったんだ。」

「僕もそう思う。それなら…その事はいいんだな。それで、一体何を悩んでいる?最後の答えに近づいているのに、ここまで来てどうして、何もかも諦めるなんて言うんだ?」

グラウクスは動かなかった。

突然、沈黙は破られた。洞窟のどこか奥の方から、ブレヌスの歓声が聞こえた。暗がりから、焚き木を腕いっぱい抱えた彼が現れた。焚き木は乾いていて、彼の腕から落ちて跳ね、小気味良い音を立てて割れた。

グラウクスがやっと微笑んだ。「よくやった、ブレヌス。よくやった。ほら…僕が持つよ。すぐに暖かくなる。」彼は慣れた手つきで木を積み上げ、手早く火花と煙を起こした。やがて炎が吹き上げ、洞窟中が明るくなった。彼はブレヌスに言った。「明るくなったから、もう少し乾いた木を探してくれないか?湿ってると煙しか出ないんだ。」

役に立てるのが嬉しくて、ブレヌスは駆けて行った。

グラウクスはようやく腰を下ろし、棒で火をかき立てた。マリウスは黙っていた。ようやく、グラウクスは静かに話し始めた。「クイントスが、ルシアスは父の子供だと言った…僕の兄だと。マキシマスとルッシラの子だと。」

マリウスが肩をすくめただけだったので、グラウクスは驚いた。「以前から、その可能性はあると思っていた。君は考えなかったのか?」

グラウクスは呆然と首を振った。「どうしてそんな事考えるんだ?」

「二人は若かった。二人は恋をしていた。」

「でも、ルシアス・ヴァレス皇帝と婚約していたんだぞ。」

「マキシマスは知らなかったのかもしれない。皆が知っていたわけじゃない。ルッシラの結婚は急だった。僕の記憶が確かなら、ゲルマニアから帰る前に式を挙げたはずだ。急がなきゃならない理由があったのかもしれない。」

グラウクスは、急な頭痛に襲われたように目をこすった。

「そんなに悪い事じゃないだろう?」マリウスが優しく言った。「お兄さんが出来ることになる。妹に加えて、兄も。」

「兄なんかいらない」グラウクスは掌の下で言った。「僕の兄は死んだ。他の兄なんていらない。」

「グラウクス、そうだったとしても、ルッシラが身篭ったのはお父さんがスペインへ帰る前、お母さんと出逢う前だ。お母さんを裏切ったわけじゃない。」

グラウクスは立ち上がり、うろうろと歩き回った。「ややこしくなる一方だ。」

ブレヌスがまた薪を抱えて戻り、まだはぜている火の横に落とした。「乾いているのはもうこれだけです。朝までこれでもつでしょう。」

グラウクスはにっこりした。この若者がとても好きだった。「そうだね、ブレヌス。」ブレヌスが木を積み上げるのを見ながら、彼は罪悪感にとらわれた。自分はかたくなだったかもしれない。ブレヌスとマリウスに悪い事をしたかもしれない。彼はため息をついて、背中を温めながら雨を見つめた。罪悪感のせいで、ますます不機嫌な顔になっていた。

彼は突然、ぱっと振り向いて、焚火の残り火を地面に蹴散らした。「待て…待って…それなら、どうしてセヴェルスは僕のことをあれほど気にかけるんだ?父の息子でマルクス・アウレリウスの孫なら、アントニン王朝の正当な後継ぎはルシアスだ。僕じゃない。ぼくより6歳は年上のはずだ。」

マリウスはじっくり考えた。ブレヌスはわけがわからない、という顔をしていた。「その通りだ」マリウスは言った。「でも、皇帝はルシアスの事は掌握している。この山に閉じ込めている。君は予測のつかない存在だ。君に…あるいはルシアスに…帝位をもたらすかもしれない契約書を、帝国のどこかで探しているのは君だ。だから、問題は君の方なんだ。」

「もしルシアスが兄だったとしたらの話だ。」

「ああ。」マリウスが言った。「それを確かめる方法は一つしかない。そうだろう?」

 

本章と次章に関する調査をしてくれたドミニク、スザンヌ、ヘーベに感謝します。アルプス・アトレクティアネ・エ・ポエニネ(おおむねスイス低地部)が、現在の国ではどこに当たるのか、ルシアスがどの街に住んでいたのか、そこへ続くローマ街道、途中の街や道のローマ名を調べるのは大変でした。

 

第65章 山道

三日後、帝国でも最も高い山を巡る坂道を登り続けて疲れ切った三人は、オーガスタ・プリトリアの街に着いた。そこはルシアスの住むオクトデュルスへ続く山脈大街道の南端だった。オーガスタ・プリトリアは二百年以上前にアウルス・テレンティウス・ヴァロの軍事基地として作られた。彼はケルトの部族、サラッシを制圧するためにこの地へ派遣され、部族の中心地に近かったここに部隊を駐屯させていた。しかし、現在のオーガスタは比較的小さな街で、オーガスタ門を中心とした城壁に囲まれ、疲れた旅人たちのための旅篭や居酒屋、革や毛皮のブーツやケープなどの防寒着を売る店で成り立っていた。劇場やアリーナは、今ではめったに使われない。アリーナは市場になっていた。かつての兵舎は、目先の効く商売人によって旅篭に姿を変えていた。街はイタリアへ向かう旅人や、スンモ・ポエニノを通る順番待ちをしている旅人で溢れていた。行商人、季節労働者、郵便配達人、職人、物乞い、観光客。混んだ居酒屋のテーブルの多くは、兵士に占拠されていた。

旅篭のほとんどには順番待ちの長いリストが出来ていた。グラウクス、マリウス、ブレヌスの3人は、険しい岩壁に貼りつくように立っている小さな宿屋を見つけた。ここの順番待ちはずっと少なかった。少ない訳はよくわかる、とグラウクスは思った。今にも山を転がり落ちそうだ。この旅篭は、村の他の建物もそうだが、山から直接掘り出したように見えた。ローマ式の真直ぐな交差路に逆らうように、坂の上に無秩序に並んでいた。灰色の花崗岩で造られた、ずんぐりした不規則な形の建物群が旅人に必要なものを全て提供していた。骨まで冷えた身体を癒す熱い風呂、暖かい服、暖かいベッド、温かい食事。来たばかりの旅人たちは湯気を上げる食事をかきこみながら、土器の鉢に手をつけて白くなった指に血行を戻そうとしていた。これから出発する旅人たちは、最後の温かい食事と部屋と名残りを惜しんでいた。

グラウクス、マリウス、ブレヌスの三人は、宿屋の小さな居酒屋の、すすで黒くなった丸天井の下を歩いて奥のテーブルにつき、部屋が用意できたと呼ばれるのを待った。大きな暖炉に一番近いテーブルはもうふさがっていた。彼らは、暖かい炉辺から遠く離れた暗い隅のテーブルに落ちついた。「考えてみると、」グラウクスは言った。「ほんの数ヶ月前、僕は砂漠で暑さのために死にそうになっていたんだ。それが今は凍死しそうだ。」しかし、その居酒屋はかなり居心地が良かった。やがて三人はケープやトーガを一枚づつ脱いでいった。やっとのことで腰を下ろすまで、どんなに疲れていたか気づかなかった。彼らは言葉もなく赤ワインを飲み干し、こくのある鹿肉のシチュー、固いチーズ、バターをたっぷりつけたパンを平らげた。

「こんな美味しい食事は初めてだ」ようやく一息ついて、マリウスはつぶやいた。

ブレヌスはうなずいて、食べ物を噛みながら他の客たちを見回した。「ここにいるのは、どういう人たちなんでしょう?」連れの二人がやっと会話する気分になったようなので、彼は声に出して言った。「みんな、どこから来たんでしょう?」

「帝国中のあらゆるところからだな、外見で判断して」マリウスが答えた。「暖炉の反対側の隅にいるのは、」彼は頭を振って方向を示した。「ケルト人だ。」

「どうしてわかるんです?」底無しの好奇心を持っているブレヌスが訊いた。

「肌と髪の色だ。金髪、青い目。赤毛もいる。そして、背が高い。わかるか?」マリウスは、ちょうど立ち上がった男を見て言った。男は低い天井に頭をぶつけないように屈んでいた。「髪を長くして、編んだりしている。髭も伸ばしている事が多い。寒い地方から来ているから、この気候に合わせた服装を心得ているんだろう。」その男は頭から足の先までを革の服で覆い、長い毛皮を肩に掛けていた。

「髪と肌の色がジュリアさんと同じですね。」ブレヌスが言った。

「そうだな」グラウクスはそう答えながら、ジュリアの先祖はケルト人なのだろうか、と考えた。

「ケルト人をなめてはいけないんだぞ」マリウスはシチューの残りをパンで拭き取りながら言った。「戦士の女王ボウディカは、ブリタニアで反ローマ勢力を集めて兵を上げた。わが方はもうすこしで負けるところだったんだ。」

ブレヌスは興味をそそられ、女の戦士を想像しようとしながら彼をしげしげと見た。

帝国史に詳しい事が自慢のマリウスは、これをきっかけにして語り始めた。「本当だよ。今から140年前ほど前、ブリタニアと呼ばれるわびしい片田舎での話だ。」

「もっと前じゃなかったっけ」グラウクスは言った。

「クローディアスがブリタニアを植民地にしたのはもっと前だ。でも、ローマはブリタニアを扱いかねていた。ま、実際のところ、あんな所に住みたがるやつはいなかったからな。まあ無理もない。雨ばっかり降っているところだからな。」聴衆を得て気を良くしたマリウスはゆったりと椅子にもたれた。「土着民たちは、自分たちを帝国民だとは思っていなかった。これは、全面的にローマのせいだ。いい扱いは受けていなかったからな。だから、プラスタガス王が死んだ時…」

「どうして王がいたんですか?」ブレヌスが口を挟んだ。「皇帝がいるのに。」

「いい質問だ。部族は自分たちの王族を持ちつづける事を許されていたんだ。それが合意の一つだったんだ。いい考えだったかもしれないが、それがまずかった。だから、プラスタガスが死んだ時、合意は終った。王はネロに王国の半分を遺した。ローマを懐柔するつもりだったんだろう。あとの半分は娘たちに遺された。もちろん、そんなことでは済まなかった。『全てかゼロか』がわれわれローマ人のモットーだ。ブリタニアのローマ人は−兵士も奴隷も−娘たちに遺された土地を荒し、人々を虐待した。拷問やレイプだ−いつものことだ。王の家族も奴隷のように扱われた。」マリウスはブレヌスの方へ身を乗り出した。「王の未亡人、ボウディカ女王は、自らの民から軍を組織し、反乱を起こした。他の部族も反乱軍に引き込んだ。」マリウスはブレヌスの熱心な顔に満足してうなずき、椅子にもたれた。「反乱軍はカムロデュナムの街を制圧し、ローマ兵が避難していたクローディアスの神殿を破壊した。彼らは南からそこへ向かうローマ軍を待ち伏せして、全滅させた。ボウディカはロンディニウム(ロンドン)へ進軍した。誰も彼女を止められなかった。」マリウスは一口ワインを飲んだ。グラウクスも話に引き込まれていた。「ローマ軍は街を守ることを諦め、生き延びるために戦った。でも、ほとんどが戦死した。」

「総督はどこにいたんだ?」グラウクスが訊いた。

「スエトニウス・ポーリヌスはモナにいた。北部カンブリア沖にある島だ。そこは亡命者の聖域だったが、ドルイド教の中心でもあった。ドルイド教は、その頃までは許されていたんだ。ボウディカの民は岸に並んで呪いの言葉を叫び、彼らの神に生贄を捧げた。ローマ軍が進軍して、全員を虐殺した。そして、神聖な木や祭壇を破壊した。ポーリヌスは残った連隊を連れてロンディニウムへ急ぎ、都市を取り戻そうとした。しかし、ロンディニウムは反乱軍のものになっていた。反乱軍に対抗するには兵力が足りなかった。そこで、ポーリヌスは退却し、決戦に備えて一万人の兵を結集した。ボウディカは数十万の軍勢を率いて現れた。」

ブレヌスは息を呑んだ。

「ああ…そして、彼女は自軍を戦車で駆け回り、民を鼓舞し、激励した。ローマ軍が先手を取った。ローマ軍の組織力は無敵だった。槍、盾、剣…武器も揃っていた。敵は威嚇をこめ、歩く速さでゆっくりと前進した。ポーリヌスは敵を充分引きつけてから、突撃の命令を下した。大虐殺だった。8万人に及ぶボウディカの民が死んだ。ローマ側の死者は数百人に過ぎなかった。」

「女王はどうなったんですか?」ブレヌスが訊いた。

「女王はまた奴隷になるぐらいならと、自らの手で命を絶った。」

ブレヌスは考え深げにうなずいた。「ジュリアさんがその女王様と同じ事してる所が想像できます。」マリウスもグラウクスも笑った。

「僕もだ」グラウクスはそう言いながら、忙しそうな給仕にシチューのおかわりを頼んだ。「僕も想像できる。」グラウクスは背の高い男が部屋から出て行くのを見つめていた。「革の服と毛皮を買ったほうがいいかな。君たちはどうか知らないが、僕は5枚重ね着しても風が身にしみるんだ。それに、これ以上着たら詰め物をした豚みたいな気分になっちまう。ここで部屋の順番待ちをしていてくれないか。僕が探しに行くよ。」

 

 

一時間後、グラウクスはある店で列に並んでいた。山の方から来た旅人たちは、革服を返している様に見えた。彼は不思議に思って、横に立っていた背の低い、色の黒い男に訊いた。「あの人たちは何をしているんです?服を売っているんですか?」

「あの連中はオクトデュルスで革を買ったんだ。山道のあっちとこっちで同じ店が支店を出しているから、ここで返して、料金の一部を戻してもらうのさ。」

グラウクスは考え込んだ。「でも、僕は何日か後に、でなければ何週間か後に、この道を帰って来る予定なんです。」

男は肩をすくめて、カウンターの方へ歩いて行った。「俺なら迷わずあれを買うね。」

少し後、グラウクスが宿屋に戻ると、マリウスとブレヌスは既に二つの寝台のある小さな部屋に通されていた。ブレヌスは年上の二人に寝心地の良い所を譲るつもりで、石の床のわずかな隙間に荷物を並べて寝床を作っていた。グラウクスは重い、臭い山羊革を見せ、二人がひるむのを見て笑った。「明日になれば気が変わるよ。最近、山道の天気は変わりやすいそうだ。それに、今は一番混んでる時期だから、何晩かは野宿しなきゃならないかもしれない。」

 

 

翌朝、三人は夜明けに出発した。荷物はオクトデュルスに着くまでの5、6日分の食料で一杯だった。夏にもかかわらず道は雪で滑りやすく、息は白かった。山羊革の服を着るのはまだ早いと思い、グラウクスは鞍の前に掛けて下につま先を突っ込んでいた。アルターはその方が暖かいので嬉しそうだった。他の二人も同じようにした。

道は急速に狭くなった。道というより、暗い谷間に真直ぐ落ちこんでいる絶壁に張りついた出っ張りという感じだ。ブレヌスは深淵を覗き込んで、馬の上で身体を石のように固くしていた。マリウスはそれを見て、少年を落ち着かせようと、陽気な口笛を吹き始めた。今までは、もっと狭い道を通っている時でも大丈夫だったのに…しかし、その時は谷の底が見えていた。陽気な口笛は固い、垂直に切り立った壁に反響し、底知れぬ谷に呑み込まれて行った。その音が谷がどんなに深いかが強調していると気づき、彼は口笛を止めた。

「反対側から来る人にあったらどうしたらいいんでしょう?」ブレヌスが心配そうに言った。

「端に寄って通せばいい」先頭を行くグラウクスが答えた。

「どっちの端に?」ブレヌスが震える声で訊いた。彼は切立った岩壁に少しでも寄り添っていたいらしく、馬を岩に近づけすぎて、馬体と岩に脚を挟まれそうになっていた。

グラウクスはひょいと肩をすくめた。「外側に行ってくれるように頼めばいい。」

「どうやって?」ブレヌスが訊いた。

「金に決まっているだろう?」グラウクスはそう言って、にやにやしているのが声に出ていなければいいが、と思った。

「反対側から荷車が来たら?」

「同じ事だ。」

ブレヌスはしばらく黙っていた後、「荷車同士がかち合ってしまったらどうするんです?」と言った。

グラウクスは笑った。「それは僕たちには関係ない。」

マリウスが口を挟んだ。「ブレヌス、北の国から南へ行く人たちは太古の昔からこの道を使っているんだよ。ガリア人が最初に通った時は、馬が一頭やっと通れるぐらいの広さだった筈だ。二百年前、ローマ軍がゲルマニアやガリアに連隊を進軍させるためにこの道を広げて、ポエニヌス街道と呼び始めた。狭いところでも、二人の人間が横に寝られる幅に広げた。ジュリアス・シーザーが軍を率いてここを通った。だから、僕たちぐらい余裕で通れる。荷車だって並んで通れるはずだ。まあ落ち着いて、景色を楽しめよ。こんな綺麗な景色を楽しめる人間は、あまりたくさんはいないぞ。」

「谷底には、ガイコツがたくさん転がってるんでしょうね。」ブレヌスがつっかえながら言った。

グラウクスも同じ事を考えていた。墜落し、ばらばらになった骨−人間や馬やロバや牛の骨。

「ほら、見てみろよ」マリウスが指差した。「これから行く道が見える。」

ブレヌスは見ようとしなかったが、グラウクスには見えた。道はつづら折になり、ごつごつした山肌を登ったり降りたりしていた。下には森、上には岩と空しかなかった。どのぐらいの高さにいるのだろう?薄い雲が谷底低く垂れこめていた。まるで、果てしない空の一部になったようだ。その通りだと言う様に、突き出した岩壁を回ったとたんに突風が吹き始めていた。風のあまりの強さに馬がよろめき、数歩下がった。グラウクスのケープは風にばたばたと靡いていた。彼はは急いで馬から降り、ブレヌスがパニックを起こす前に彼の馬の手綱を掴んだ。「すこし馬を歩かせよう。」突風の中でグラウクスが叫び、ブレヌスに手を差し伸べた。

少年はこわばった身体を無理に動かし、震える足をでこぼこの地面に片方づつ降ろした。彼は興奮している馬の鞍にすがりついたまま、そこに立ち尽していた。服が旗のようにぱたぱたと靡いていた。

「隣においで、ブレヌス。歩きながら話そう」グラウクスが優しく言った。「僕が外側を歩く。じゅうぶんな広さがあるよ。壁を撫でながら歩くといい。」彼は少年の細い肩に腕を回し、彼を馬から離した。「マキシマの子供の頃のことを話してくれよ。昔からあんなに偉そうだったのかい?」

歯をがちがちいわせていたブレヌスは、この言葉を聞いて微笑んだ。彼はしっかりと安定した岩に辿りついた。壁とグラウクスの間にはさまれていると、揺りかごの中の赤ん坊のように安全な気分になった。彼はマキシマについてとうとうと語り始め、話は最初の宿屋を見つけるまで続いた。宿屋は大きく口を開けた渓谷を見下ろす所に危なっかしく建っていた。まだ早い時間だったので、石造りの宿屋の小さな部屋を簡単に見つけることが出来た。しかし、その夜は厳しく冷え込み、三人は山羊の革に感謝した。たとえ臭くても。グラウクスは、今夜外で寝なければならない人に同情した。

 

それから数日は最初の日と同じような感じだった。急坂が続き、ほとんど馬を引いて歩かなければならなかった。三人の脚は筋肉痛に悲鳴を上げていた。疲れ果てた三人は、夜は寝床に倒れこみ、夢も見ずにぐっすりと眠った。朝起きると、三人の髭は息で白くなっていた。ヴァレンシアを出てから剃っていないマリウスの髭も。細い髭が数本生えているだけのブレヌスの顎さえ白くなっていた。彼はその顎を誇らしげに見せびらかした。

 

彼らは何度か反対側から来た人や荷車と会ったが、なんとか無事にすれ違った。三人はジュピターを祀った神殿に立ち寄り、空と天気を司る神に道中の無事を祈った。しかし、それ以外は、ただただ脚を動かし続けることに集中していた。厳しい、狭い道を、一歩一歩、繰り返し繰り返し。

最後の宿屋に着いた時、三人は旅の最も厳しい部分が終わったのを知った。彼らは比較的なだらかな谷へ入ろうとしていた。そこを越えればもうオクトデュルスだ。二日目の午後3時ごろには、彼らは岩棚に座って眼下の広大な緑の谷に広がる見事なローマ式の都市を見下ろしていた。それがエリジアムだったとしても、三人の目にこれほど美しくは見えなかっただろう。

 

第66章〜70章