Glaucus' Story:第66〜70章

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第66章 オクトデュルス

夕方の早いうちに、彼らは衛兵も立っていない石の門をくぐり、城塞都市オクトデュルスに入った。入口に続く道にごちゃごちゃと固まっている掘建て小屋のような宿より、街の中で部屋を見つけようと思った。オクトデュルスはローマの都市のあらゆる特徴を備えていた。真直ぐに交差した石畳の街路、劇場、広いアリーナ、商店、工房、宿屋、居酒屋、公共の建物と神殿。羊の群れる緑の丘と雪を頂いた山々に囲まれたこの街は、他の街の及ばぬ美しさを持っていた。建物はみな、この地域特有の灰色の石で造られていたが、屋根は木か瓦だった。流れの速い川が街を二分し、無限の水資源を供給していた。川の源である滝が岩を打つ音が遠くに聞こえた。いくつもの石橋が優雅なアーチを描き、川を横切って、商業地域と住宅地域を結んでいた。住民は居酒屋の外の席に座り、太陽の最後の恵みを味わい尽くしていた。極寒の山道の後、日光は意外なほど暖かかった。魅力的な都市だった。

「セヴェルスはルシアスを流刑にしたんだと思っていたけど」商業地域に向かって馬を進めながら、マリウスが言った。「でも、ここは悪くないじゃないか。何と言っても、ローマと違って昼のうちも街中で馬に乗ってもいいって所が気に入ったよ。とても文化的な街だ。」

「そうかもしれないけど、僕らの馬は目立ち過ぎる。」グラウクスはそう言って、アルターを止めた。「ここらはロバばかりだ。城壁の内側で厩を見つけて、宿屋へは歩いて行こう。」彼は馬の向きを変えた。

「君の剣は?」マリウスは、剣があまりにも目立っているグラウクスの腰をちらりと見て言った。「馬が駄目なぐらいなら、武器が持ちこみ可ってことはないだろう。」

「これを手放すつもりはないよ。」

「そう言うと思った」マリウスは言った。三人は先ほど通り過ぎた厩の方へ戻っていた。「せめて、もう少しちゃんと隠せ。剣を持っている人なんて他にはいないみたいだぞ。」

少し後、馬を安全な厩に預けた三人は、徒歩で商業地域に向かっていた。この1ヵ月間にさまざまな宿を経験したが、あれよりは快適な所が見つかるといいが。グラウクスはチュニックの上にトーガを着ていた。トーガはうまく剣を隠してくれたが、暖かい太陽の元では暑苦しかった。彼はズボンとブーツを脱ぎ、サンダルを履いて、荷物を全部肩から下げた大きな袋に入れていた。彼は顔を上げ、山から吹き降ろす涼しい風をありがたく受け止め、マリウスを喜んで先に行かせた。

ほどなく、マリウスはまともな宿屋の二階に広い、風通しの良い部屋を見つけた。グラウクスは木の鎧戸を開け、石の壁に日光が溢れた。彼は強い松の匂いのする爽やかな空気を吸い込み、街と周りの丘の素晴らしい景色を楽しんだ。彼らは荷物を床に放り出し、早速ベッドに寝てみて、ふかふかのマットレスに満足のため息をついた。すっかり満足した三人は、重い荷物を部屋に置き、大きな鉄の鍵をかけ、浴場に向かった。彼らは無尽蔵に湧き続ける熱い湯につかり、身体から山羊革のにおいを落とした。ここ数週間の緊張と疲労は湯気の中に蒸発した。さっぱりとして元気の出た三人は、近くの居酒屋に行って、開いた窓の近くの席に落ち着いた。グラウクスは窓に背を向けて座り、うなじに当たる涼しい夕方のそよ風の感触を楽しんでいた。

「どうやって捜そうか?」壁に掛った石板にチョークで書かれたメニューを読みながらマリウスが言った。

「彼がここにいるなら、そんなに難しくないだろう。そんなに大きな街じゃない。人口はせいぜい数千人ってところだ。この時期は、山道を通って行く旅人で一杯だけど、僕らにはその方がありがたい。目立たなくなるから」グラウクスが言った。

彼らは塩味のきいた鶏肉のスープから始めた。スープには玉ねぎやにんにく、豆、人参、道沿いの岩陰に生えているのを見かけた巨大なキノコの厚切りが入っていた。その後三人とも、店のお薦め料理−羊肉のローストと初夏の野菜−を注文した。

三壺目のワインを飲みながらすっかり寛いだ気分になっていた頃、突然、男が三人のテーブルに椅子を引いて来た。背の高い男が椅子の向きを変え、脚を両側に下ろして座り、感じの良い顔に微笑みを浮かべた。彼は椅子の背にさりげなく腕を乗せた。「みなさん、オクトデュルスへようこそ。私はルシアス・ヴァレス、アルプス・アトレクティアネ・エ・ポエニネのアイユーデス・セレクトス・クエスティオニスです。」

マリウスは喉を詰まらせた。

ブレヌスは息を呑んだ。

「舌を噛みそうな名前でしょう?」ルシアスは彼らの反応を誤解して言った。「でも要するに、ここの平和を守る責任者ということなんです。私は、トラブルは芽のうちに摘み取る事にしていましてね。」

グラウクスは彼をじっと見つめた。マリウスはなんとか声が出るようになり、ブレヌスが声を出しませんように、と祈りながら言った。「トラブルですって?」マリウスはルシアスの肩越しに二人の兵士が扉の近くに立って、注意深くこちらを見ているのを見た。

「ええ。」すらりと痩せた男はにこやかに言った。「ご存じなかったようですが、民間人が城壁の中へ武器を持ちこむのは禁止されています。あなた方は山道へ行く途中か、山道から来たばかりか、どちらかでしょうが、剣を持ち歩くつもりなら城壁の外に泊まって頂かなくては。よくある間違いです。普通はこういった事は衛兵が処理するのですが、単なる誤解からあなた方三人が牢に入れられるのは見るに耐えませんからね。」彼は真直ぐグラウクスを見ていた。グラウクスの背後で日が翳り、彼の顔は陰になっていた。「あなたがトーガに隠して剣を持っているとの情報があったのです。」

グラウクスは彼を値踏みするようにじろじろと見ていた。すらりと背が高く、髪は茶、瞳は青。祖父に似た端正な顔立ち、祖父譲りの威厳ある雰囲気。

マリウスは身を乗り出して手を差し出し、フルネームと住所を言って自己紹介した。

ブレヌスも彼にならった。

グラウクスはぴくりとも動かず、観察を続けていた。ルシアスの髪は細く、真直ぐだった。彼自身の−マキシマスの−濃い、ウェーブのかかった髪とは違う。瞳は明るいブルー・グリーン。色白で、鼻の上に細かいそばかすが残っている。マキシマスにはまったく似ていなかった。

グラウクスは無言で、ルシアスの目を見つめたまま、トーガの中に手を入れた。ルシアスは緊張し、彼が剣を抜いたらすぐに避けられるように構えた。扉の脇の兵士たちが一歩近づき、すぐに行動できる体勢を取った。窓際の男は剣の代わりに小さな物体を懐から取り出し、でこぼこの木のテーブルに置き、ゆっくりと手を引いた。

指輪だった。ルシアスは指輪を見て眉を寄せ、もっとよく見ようと顔を近づけた。彼は息を呑み、必死で無表情を保とうとしながら椅子にもたれた。彼は指輪に触れなかった。触れる必要はなかった。「ずっと、ずっと昔に聞いていた−いつか君が来だろうと」ようやく、彼はつぶやいた。急速に翳ってゆく光の中で、彼は目を細めてグラウクスを見つめ、その顔立ちを確かめようとしていた。

今度はスペインの若者の方が驚く番だった。

優秀な政治家らしく、ルシアスは何度か深呼吸しただけで落ち着きを取り戻した。「みなさん、食事をお続け下さい。この店はこのあたりでは最高です。その後…お会いしましょう。どうやら、話し合わなくてはならない事があるようです。」彼は声を低くし、囁いた。「暗くなるまで待って、フォーラムの一番大きな建物の横の扉から入ってくれ−一番高い円柱のある建物だ。誰にも見られないように気をつけて。」彼は立ちあがった。グラウクスも立ち、初めて顔を明るい方に向けた。

ルシアスはだまって見つめ、彼に向かって一度だけうなずき、背を向けて去った。扉の横の兵士たちは彼の後をついて出て行った。

 

二時間後、月の光に導かれ、三人は言われた場所に立っていた。間抜けな虫を狙って飛んでいる蝙蝠たちの他には誰もいなかった。罠に落ちたくはなかったので、グラウクスは剣の束をしっかり握り、三人は背中合わせに身構えて立っていた。

「彼は君が誰だか知っているのかな?皇帝が命を狙っている事も?」マリウスが囁いた。

「ああ、知っている」ルシアスがそう言いながら重い扉を開けると、目の前に剣の先がつきつけられていた。「私一人だ。」彼は脇によけながら言った。グラウクスは手を伸ばし、先に入るように合図した。彼はほとんど空っぽの薄暗い部屋に用心深く入り、衛兵たちの姿を探した。衛兵はいなかった。彼は少し緊張を解き、他の二人に入るように合図した。ルシアスは扉を閉め、閂をかけて、グラウクスの方を見た。

「君の名前はマキシマスだね。お父上にそっくりだ。君が警戒するのも無理はない。」

「僕の名はマキシマスですが、グラウクスと呼ばれています。マキシマス・デシマス・グラウクスです。」

「声も同じだ」ルシアスは三人を安心させようと微笑んだ。「数ヶ月前、皇帝から、君の名前で君の特徴の男を探せという命令を受けた。想像がつくだろうが、私はとても驚いた。その時は、名前は偶然の一致だろうと思っていた。偶然ではなかったんだね。」ルシアスは部屋の端の高窓の下、木の椅子が並べてある所へ行った。彼は椅子を丸く並べ、手を伸ばして座るように言った。「無作法を許してくれるね。普通、客は家でもてなすのだが、私の家には信用できない人間もいてね。家に行くのは賢明ではないと思った。さて、聞いていいかな?どうしてわざわざこんな山中の小さな街に来んだ?」

「あなたに会いに」グラウクスが答えた。

ルシアスが驚いたとしても、そんな様子は見せなかった。「そうか。私に用か。何の用だ?」

「僕は父に関する情報を探していて、あなたなら教えてくれると思ったのです。父が剣闘士としてローマにいた時、あなたは父に会ってますね?」

「ああ…私が子供の頃…人生が変わる前のことだ。あれからいろいろあったので、もう随分昔のことに思える。私は彼をとても尊敬していた。今まで会った誰よりも尊敬していた。多分、祖父と同じぐらいに。」

「マルクス・アウレリウスですね。」マリウスが言った。

ルシアスは彼を見た。暗い部屋の中でほとんど見えなかった。「その通りだ。」

「ここの人たちは、あなたが誰か知っているんですか?」グラウクスが訊いた。

ルシアスはにっこりした。「私は単に、ここで法律問題を扱うためにローマから派遣されて来た人間というだけだ。ここでは法律問題なんかほとんど起きないしね。見ればわかると思うが、ここは世間から隔絶した街だし、人口も多くない。ここの人たちにとっては、ローマの政治などどうでもいいんだ。この土地から何とか生活の糧を得て、厳しい冬を生き延びることだけで精一杯だ。私の名は知っているが、先のローマ皇帝と結びつける人はほとんどいない。私にはその方がいい。」彼はグラウクスを見た。淡い銀色の月光の中で、その表情は読めなかった。「癖まで同じだな。マキシマスを知っていた人なら、君が息子だと一目でわかるだろう。」

「はい」グラウクスは答えた。「それは祝福でもあり、呪いでもあります。」

ルシアスは首を傾げた。「亡命生活をしていた頃、母がよくマキシマスの話をしていた。彼には私と同じぐらいの息子が一人いて、私の叔父に殺されたと言っていた。君は私より若そうだから、その人とは違うね。」

「それは僕の兄のマルクスです。あなたと同い年でした。兄は母と一緒に死にました。僕はその時親戚の所にいたので難を逃れたのです。僕は6歳下です。」

「しかし…」ルシアスは拘った。「母は確かに、マキシマスには息子は一人しかいないと言っていたはずだ。」

「父は僕の事を知らなかったんです。僕の存在を知らないまま死んだんです。」

「ああ、そうか。君にとっても、お父上にとっても、何て悲しいことだろう。それもまた、私の叔父の悪行のせいだ。」ルシアスはため息をついた。「私からどんな情報が欲しいのかな?」

「あなたは父をご存知でした。僕は会ったこともないんです。僕は何ヵ月も…もう何年もかけて、父を知っていた人々を訪ねて帝国中を旅して、父の後半生のかけらを集めようとしてきたんです。つまり、僕は…15になるまで…彼が父だということも知らなかったんです。僕を育ててくれた人が…母の兄ですが…父だと思っていました。知った時はショックでした。ご想像いただけると思いますが…」

ルシアスはうなずいた。

「スペインでは、父がそこで過ごした時のことしかわかりませんでした。ほんの少しです。それ以外には、父の軍での成功のごく大雑把なところと、あなたの祖父上が亡くなった夜に行方不明になったという事だけでした。それだけです。」

「今はもっといろいろ知っているんだね?」

「はい。ゲルマニアから始めて、そこからローマへ行きました。ペトラや、他の所にも行きました。長い時間をかけて、ほとんどの情報を手に入れました。今ではほとんど全て知っています。」

「でも…?」ルシアスが促した。

「でも、全てを残らず知りたいんです。」

「そして、残る情報は私が持っていると思っているんだね。」ルシアスが言った。

「はい。」

「彼に会った時、私はほんの子供だったし、ほんのわずかな間だった。会う前から噂は聞いていた。叔父は剣闘が好きで、あちこちの試合の話をよく聞いていた−だから、私は他の人より先に、『スペイン人』と呼ばれる凄い剣闘士の噂を聞いた。彼は神のように強いと言われていた。」ルシアスは微笑んだ。「実際、それは当たらずと言えども遠からずだった。」

「初めて会ったのはいつですか?」

「彼のローマでの最初の試合の前、私はお付きの者と一緒に、コロシアムの外をうろうろしていた。そして、彼が牢の奥に一人で座っているのを見た。私は8歳だった。どうしてだか、彼が誰だかすぐにわかった。彼は何か考え込んでいたが、私が鉄格子の所で手招きしたら、来て話しかけてくれた。『スペイン人』と呼ばれる剣闘士か、と私は訊ねた。その時の彼の顔が忘れられない。とても穏やかで優しかった。彼は微笑んだ。男性があんな風に微笑むのを、私はあまり見たことがなかった。私はとても安心した。恐ろしい噂のある大男なのに、全然怖くなかった。私には雲つくような大男に見えたんだ。本当は普通の人だったんだろうけどね。私は彼について噂に聞いていたことを話した。彼は私をからかった。何を言われたか正確には憶えていないが、私をからかっていたのは憶えている。」楽しい思い出に、ルシアスは微笑んだ。「私はすぐに彼を好きになった。彼を応援すると言った。彼が、私の父は私が剣闘試合を見るのを許しているのか、と心配していたのを憶えている。」ルシアスは少し間を置いた。「ああ、そうだ…馬の話をした。馬を持っていたけど、奪われた、と彼は言った。その時は、どういう意味かよくわからなかった。正直に言って、あの頃は奴隷制というものがよくわかっていなかったんだ。剣闘士は囚人で、命がけで闘うことを強いられているということがわからなかった。8歳の子供にとっては、ただ恰好よく思えたんだ。マキシマスは自分の鎧を指差して−黒い革の鎧で、銀の馬の浮き彫りがついていた−その二頭が失った馬だと、彼は言った。馬の名前は憶えていない。」

「アルジェントとスカルト」グラウクスが言った。

高窓から射す月のほのかな光の中で、ルシアスの顔が輝いた。彼はよく微笑みをうかべた。とても自然な笑顔。彼に好意を感じないでいるのは難しかった。「そうだ、そうだ…その名前だ。アルジェントとスカルト。忘れていた。彼はもっと長く話していたかったと思うが、私はお付きの者に呼ばれて行かなければならなかった。彼は私の名前を訊き、私は答えた。その時、彼の表情が変わった。警戒心に満ちた顔になった。その時は理由がわからなかった。つまり、彼は皇位継承者と話していたのを知らなかったんだ。愛してた女性−私の母−の息子と。」

「彼の試合を見ましたか?」マリウスが訊いた。グラウクスに、じっくり考えて心を落ち着かせる時間を与えたかった。

「ああ、何度か見た。素晴らしかった…すごい腕だった。ローマへ来て最初の試合で、彼はみすぼらしい寄せ集めの剣闘士たちをたちまち小さな軍隊に変え、ずっと強い敵を倒したんだ。ローマは彼の足元にひれ伏した。私の叔父も…『スペイン人』の正体がわかるまではね。」ルシアスは少しの間黙って、記憶を呼び起こしていた。誰も彼の邪魔をしなかった。「驚くべき対決だった。他の事と同様、私には後になるまで理解できなかった。しかし、緊張が稲妻のようにつき抜けるのを感じたよ。私はその日、そうとは知らずに叔父の命を救ってしまったようだ。ずっと後になって、母が説明してくれるまで知らなかったんだ。」

「僕にも説明して下さい」グラウクスが言った。

「コモドゥスは『スペイン人』の技に感服して、彼に会うために貴賓席を出てアリーナまで降りて行ったんだ。めったにないことだった。私は叔父を追いかけて行って、叔父に背中をくっつけて二人の間に立ったんだ。『スペイン人』は緊張しているようだった。でも、あんな試合の後なら当然だろうと思った。私は馬鹿みたいに、にこにこと彼を見上げた。彼に夢中だったんだ。彼は私をじっと見ていた。私の事がわかったからだ、と思っていた。後で、彼はその場でコモドゥスを殺すつもりだったのに、私が邪魔をしていたのを知った。彼は私を傷つけたくなかったんだ。だから、そこでは何もしなかった。間違いない。しかし、彼は堂々と叔父に挑んだ。彼は名を名乗るのを拒否して、背を向けた。叔父は怒り狂っていた!彼は剣闘士に、顔を見せて名乗れと命令した…剣闘士は名乗った。彼はゆっくりと振り返り、兜を取った。私は叔父が震えるのを感じた。叔父は私を脇へどかせた。 私には、何が起きているのかわからなかった。マキシマスは叔父の前へつかつかと歩いて来て、本名と地位を明かした。北部軍総司令官、フェリックス連隊の将軍。彼がただの男ではないのは私にもわかった。アリーナは死んだように静まりかえっていた。一番上の列の客でも、彼の声が聞こえたと思う。何が起ころうとしているのかわからなくて、私は怯えていた。しかし、マキシマス・デシマス・メリディアスが死ぬのはいやだと思った。観客もそう思った。観客は一人残らず立ち上がり、親指を上に向け、声を揃えて「殺すな!殺すな!」と叫んだ。あの光景は忘れられない。母の方を見ると、母も立ち上がっていた。叔父は怒りに燃えてアリーナから出て行った。私は叔父の後を追いかけて行った。どうしていいかわからなかったんだ。宮殿への帰り、私は母の隣にいた。母は震えていた。何も言わなかったが、嵐の中の木の葉のように震えていた。」

「死んだと思っていた人が生きているのがわかったんですから、さぞショックだったでしょうね。あなたの祖父上に信頼されていた将軍が…」マリウスが言った。

「その通りだ。翌朝に母の目を見た時、一晩中泣いていたのがわかった。しかし、その時には、その訳はわからなかった。」

「今はわかっているんですか?」グラウクスが慎重に訊いた。

「母は彼を愛していたんだ。激しく愛していた。少女の頃から。他の誰も、あれほど深くは愛さなかっただろう。夫でさえも。」

グラウクスは息が詰まるのを感じた。「でも、彼を裏切った。」

マリウスは思わず目をつぶった。ルシアスを非難するのはまだ早過ぎる。

ルシアスは気にしなかった。「母は私の命を救うために仕方なくやったんだ。私は皇位継承者で、取引材料に使われる立場だった。当時の私自身は知らなかったが。マキシマスが死ぬのを見た日は、母の人生で一番悲しい日だった。彼が息を引き取った時、母は彼を腕に抱いていた。泣いていた。彼は母を責めなかったよ、グラウクス。君も責めないで欲しい。」ルシアスは立ち上がり、落ち着かない様子で暗い部屋を歩き回った。「何年も後、亡命していた頃、私がかなり大人に近くなった時、母と私は何でも包み隠さず話すようになった。母が弟の元でどんな目に遭っていたか、誰も知らなかったんだ。皇帝は、彼の側についてマキシマスの逃亡計画を打ち明けなければ私を殺すと脅した。それだけじゃない。母を『妻』として側に置き、強姦して子供を作って後継ぎにする、とも言った。」彼は三人の方を振り返った。初めて、声に苦さが感じられた。「叔父は狂っていたんだ。誰にも、どうにもできなかった。君の父上は、あの日彼を殺すことによって、母と私と、帝国すべてを救ってくれたんだ。その時は、もちろん、私にはわからなかった。憧れの英雄が死んで砂の上に横たわるのを見ただけだ。私は彼のようになりたかった。私は彼を…愛していた。子供じみた考えだが、いつか彼が父親になってくれればいいと願っていた。その人が、目の前の地面に横たわり、死んでいた。母の腕の中で。」彼はグラウクスの方を見た。その顔には生々しい痛みが隠しようもなく表れていた。「少し後、我々は追放され、何年も亡命生活を送った。そして母を病に失った。」彼は声を詰まらせた。「しかし、私の人生でもっとも辛い出来事は、マキシマスが砂の上に倒れて死ぬのを見たことだった。」

ルシアスは顔を背け、手のひらで目元をぬぐった。彼はちゃんとした声が出るようになるまで待ち、振り返って続けた。「さあ、今度は私が質問をする番だ。」

グラウクスはうなずいた。「公平ですね。」

「皇帝はどうして君を逮捕させようとしているんだ?」

「僕がローマ皇帝としての彼の地位に対する脅威だと思っているのです。」

ルシアスは眉を上げた。「なぜそう思っているんだ?」

「皇帝はあなたのお祖父さんが僕の父を後継者に指名した事を知っているからです。あなたの叔父さんが皇帝を殺した日に。僕が正式な跡取りとして地位を要求すると思っている…マキシマスの生き残った唯一の息子として。」

ルシアスは最後の言葉には反応しなかった。「それで、君は本当にそうする気なのか?セヴェルスは軍に嫌われている。彼の頭に冠を置いたその軍に。マキシマス・デシマス・メリディアスの息子なら、地位を奪うのも可能だ。」

「いいえ。僕はただ、真実を知って、父の汚名を晴らしたいだけです。父が皇帝を殺したとまだ思っている人がいるんです。」

ルシアスは悲しげに首を振った。「信じられない。」

「それに、ペトラの近くで近衛兵を沢山殺したんです。僕を殺そうとしたので。」

「なるほど。皇帝の目から見れば、死刑に値する罪だ。」

「僕の事を報告はしませんよね?」

「もちろん、そんなことはしない。」

「この街にも兵士がいますね。」

「もちろん。しかし、彼らの任務は、何より私をここに留めておくことなんだ。つまり…私はまだ亡命者なんだ、ある意味では。」ルシアスは腕を組んだ。もしグラウクスが彼の顔をはっきり見ることが出来たなら、その目に反抗の光が宿るのを見ただろう。「ここは比較的安全だ。私に何が出来るか教えてくれ。」

 

第67章 ルシアスの話

「正直に言って、」ルシアスは近くのテーブルの燭台に火を灯しながら言った。「君の顔を見ていると落ち着かないよ、グラウクス。君のお父さんが蘇ったみたいだ。お父さんに会えなかったなんて、本当に残念な事だね。」小さな炎に彼の影が長く長く伸び、背後の壁画のある漆喰の壁に落ちた。

グラウクスは顎の髭を撫で、髪をかき上げた−落ち着かない時の癖だった。「その通りです…僕も正直に言うと、父に会えたあなたに理不尽な嫉妬を感じます。」

ルシアスはテーブルにもたれた。揺れる炎に影が踊っていた。彼は腕を組み、瞬くオレンジの光でマキシマスの息子をじっと見つめた。「理不尽じゃないよ。君の立場だったら、私も同じように感じただろう。私は君のお父さんについて知っていることを正直に話した…しかし、なぜか君は満足していないように感じるんだが。」

グラウクスは落ち着かなげに身じろぎした。はっきりさせる頃合だろう。「クイントス・クラルスという男を憶えていますか?あなたの叔父の近衛隊長です。」

その名前が呼び起こした不快な記憶に、ルシアスは少したじろいだ。「ああ、憶えている。私と母が追放の身になったのは彼のせいでもある。なぜ?」

「ここに来る前、彼に会いに行っていたんです。」

「そうなのか?死んでいればいいと思っていたが。彼はどこに?」

マリウスとブレヌスは顔を見合わせた。二人とも、会話の行方を固唾を飲んで聞いていた。

「ガリアです。痩せた土地でやっと生活している貧農で、過去に取り憑かれて生きています。娘が…」突然、クララを庇う気持ちがわき、グラウクスは言葉を切った。彼は自分の足を見つめ、どの程度話していいのか迷い、ゆっくりと言った。「もう少しで彼を殺すところでした。」

ルシアスは理解のある態度を取った。「彼がお父さんにした事を考えれば、無理もない。」

グラウクスは顔を上げ、ルシアスの優しい目を真直ぐ覗きこんだ。「でも、殺そうとする程怒ったのはそのせいじゃないんです。」

「何のせいだ?」

グラウクスは深く息を吸い、歯の間からゆっくりと吐いた。「彼は、あなたの父親はルシアス・ヴァレス皇帝ではなく、マキシマスだと言ったんです。僕とあなたが兄弟だと。」

ルシアスは唇を噛みしめて、テーブルの上の揺れる炎を見つめた。「おかしなものだね。私も、同じ事を母に訊ねた事がある。」

グラウクスは目を閉じた。心臓が止まりそうだった。

ルシアスは腰を下ろし、真剣な態度でグラウクスの方へ身を乗り出した。過去のさまざまな出来事や感情を、彼に理解して欲しかった。「さっきも言ったように、私はマキシマスが父になってくれることを夢見ていた…母が彼と結婚することを。ルシアス・ヴァレスは私がとても小さい頃に死んだので、はっきり憶えていなかった。だから、私は自分自身の父親像を創り上げた…優しい微笑みを持った英雄的な男を想像していた。マキシマスに会ったその日、彼こそが理想の人だと思った。母と彼が昔からの知り合いだと言う事がだんだん分かってきて、私の希望はふくらんだ。その時は、どういう知り合いかは知らなかったのだが。彼が死ぬまで、私は夢を見続けていた。追放されて、私は毎日一日中空想に耽るようになった。現実を直視するより、その方がずっと楽だったんだ。私は母とマキシマスの物語を勝手に創り上げた。私の物語の中では、二人は秘密の恋人だった。結婚する事の出来なかった秘密の恋人だ。私の想像の中では、二人の愛が実を結んで私が生まれた事になっていた。その夢想がどれほど現実に近かったか、その時は知るよしもなかった。近かった…しかし、正確には違っていた。」ルシアスはまた立ち上がった。想い出に心をかき乱されていた。彼は少し歩き回り、ワインか何か出せればいいのに、と思った…少しの間、皆の気持ちをそらしてくれる物ならなんでもいい。「私がマキシマスの妄想に取り憑かれているのに母が気づき…私は自分を彼の名前で呼んだりし始めたので…母は彼と出会った時の事や、二人の関係について話してくれた。」

「僕にも話して下さい」グラウクスはかすれた声で言った。彼は出し抜けに立ちあがり、神経の昂ぶりを紛らわそうと歩き回った。彼は幽霊のように、影に溶けてはまた現れた。

ルシアスも立ち上がったが、テーブルの反対側に行って、揺れる蝋燭を二人の間に置いた。彼はまだ、この激情的なスペイン人に少し不安を抱いていた。気に入らない言葉を聞いた後、クイントスを殺しかけたと言うこの若者に。「母がまだほんの少女の頃、二人はゲルマニアで出逢った。父親の連隊視察旅行について行っていたんだ。コモドゥスも一緒だった。一家はマキシマスの連隊を訪れた。彼は少年兵で、彼女の馬の面倒を見る役を命じられた。彼は将軍の飼っている大きな犬を押さえようとしていたそうだ。多分、一目惚れだったんだろう。でも、彼女は皇帝の娘で、彼はただの見習い兵士だった。母は彼を忘れようとした。でも、完全には忘れられなかった。何年も後、二人はゲルマニアで再会した。ローマで疫病が猛威を奮い、マキシマスは軍の出世の階段を駆け登っていた。彼女の情熱に再び火がついた。そして、彼のほうも同じように感じているのに気づいた。二人は暇を盗んでは一緒に過ごしていた。二人きりで過ごすために兵士に変装して基地を抜け出した話を、母は可笑しそうに話してくれたよ。でも、情熱のひとときには邪魔が入った。ゲルマン人の一団が夜に基地の偵察に来たんだ。言うまでもなく、マキシマスは軽々と全員を倒し、たちまちヒーローになった。抜け目のない祖父は−ちなみに、彼は既にマキシマスを気に入っていたのだが−二人の気持ちを察し、共同統治帝のルシアス・ヴァレスと婚約している事を母に思い出させた。母はマキシマスを愛している事を訴えたが、彼はその時点ではただの平民だった。元老院階級ですらなく、望みはなかった。そのうちに、ルシアス・ヴァレスが基地に来た。再びマキシマスと会った時、母は愛しているが結婚は出来ないと言った。彼はとても動揺した…彼女が守れもしない約束をして彼を振り回したように…裏切ったように感じたんだ。祖父は母とルシアス・ヴァレスをゲルマニアで即座に結婚させた。マキシマスは休暇でスペインに帰された。そこで君のお母さんに会ったのだと思う。祖父は後でこの決断を後悔するようになったと思う。」ルシアスはグラウクスを真直ぐ見て、拳をついて身体を前に傾けた。「グラウクス、二人の愛は結ばれる事はなかったんだ。何度かすれすれまで行ったが、結ばれなかった。彼が剣闘士としてローマにいた時でさえ、彼女は何度か夜に牢を訪ねた。それでも、キスより先には行かなかった。彼は母の一生の恋人だったのに。彼は私の父ではない。君には大きな安堵だろうけど、私には大きな悲しみだ。」

グラウクスは頭が痺れたようになっていた。彼はぼんやりとルシアスの顔を見つめていた。彼の言葉が頭の中に反響していた。「私の父ではない。私の父ではない。」突然、強い感情が波のように押し寄せて、顔が紅潮した。

ルシアスは一歩後ずさりした。漆喰壁にぶつかってそれ以上は下がれなかった。

「ほっとするところだと思うんですけど」グラウクスは深呼吸した。「答えが『イエス』だったらどうしようかと何週間も心配していたのに…今は何だかがっかりしています。」

ルシアスはほっと息を吐き出し、微笑んだ。「ありがとう」彼は小さい声で言った。

グラウクスはうなずき、唇を噛んだ…自分のせいで要らざる緊張を招いたことが恥ずかしかった。「あなたは良い兄弟になった思います」彼はつぶやいた。

ルシアスは笑った。「君もね。母が君のお父さんに抱いていた気持ちを君に言ったら、ひょっとしたら気を悪くするんじゃないか心配していたんだ。」

「いいえ…それはもう知っていましたから。ただ、その愛が…どこまで行っていたのかは知らなかったんです。」

マリウスがグラウクスの肩に腕をまわし、愛情をこめてぎゅっと抱き寄せた。「よかったな、これで安心しただろう。」

グラウクスはうなずき、また赤くなった。暗い部屋の中でも、顔が真っ赤になっているのはわかった。

マリウスは腕を組み、ルシアスに向かって言った。「ルシアス、あなたは皇帝のご子息です。あなたの父上は善良な、有能な皇帝でした。誇りに思っていいと思います。」

「ああ、もちろん誇りに思っている。でも、マキシマスは私の子供じみた想像力に火をつけて、理想の人間像を示してくれたんだ。私が何よりも理想を必要としていた時期に。彼はコモドゥスの影響を払拭してくれた。彼は、男は強く誇り高く、同時に優しく逞しくあることが出来ると教えてくれた。」彼はグラウクスを見た。「彼はその美点を息子に残したようだね。」ルシアスはテーブルを回って、まだ心乱れている様子のグラウクスのそばまで行った。

「あなたは父と親しかった。僕は会う事も出来なかった。あなたは父を知っていた。僕は知らない。」グラウクスはかすれた声でつぶやいた。「この事実をどうしても受け入れることが出来ないんです。」

ルシアスはスペインの若者の腕を掴んだ。この旅が彼の心にどれほどの傷を残したか、よく分かった。「彼に逢えたのは嬉しいけど、君のためには悲しく思う。でも、過去は変えられない。もし神々が私に過去を変える事をお許しになるなら、私はマキシマスが生きて、元気でアリーナを出て行って、祖父の望みを叶えるようにしたい。そうすれば…もしかしたら結局、我々は兄弟になっていたかもしれない。」

グラウクスはジュリアの事を考え、何も言わなかった。

「君はマキシマスの黒髪は受け継いでいないんだね」ルシアスはさりげなくそう言って、にやにやしながら相手の頭を調べ、ぎょっとした振りをして後ずさりした。

グラウクスはびっくりして髪に触った。まるで、まだあるかどうか確認するように。「どうしてわかったんです?」

「根元の方が毛先より明るくなっている。居酒屋にいた時、君の後髪に光が当たっていたんだ。」ルシアスはふざけて、ツートンカラーの巻毛を指ではじいて、楽しそうに腹を抱えて笑いながら座った。

グラウクスは笑った。「鋭いですね。これはクイントスを騙すためです。僕が父だと思わせようとしたんです。」

「うまくいったかい?」

「死ぬほど怖がっていましたよ。」

「それはよかった!」

二人は声を揃えて笑い、マリウスとブレヌスも加わった。ようやく、部屋の緊張感が完全に消えた。ルシアスはトーガの懐を探った。彼の目は優しくなっていた。彼は革紐を取り出し、指から下げた。全員の目が、蝋燭の光にゆらゆらと揺れる紐に集まった。「母が大事にしていたものだ。マキシマスが死んだ時、これを身につけていた。」彼はそれを差し出し、スペインの若者の手にそっと置いた。「多分これについては、、私より君の方がよく知っているだろう。」

グラウクスは手をぎゅっと握りしめて唇に当て、目を閉じた。「父がいつも身に着けていたものです」彼は囁いた。「父の弟が子供の頃に拾った狼の歯です。火事があって、家族が死んで持ち物も全て燃えてしまった後、父が見つけた家族の形見はこれだけだったんです。父は命拾いしました−僕とまったく同じ、たまたまその時別の場所にいたからです。」彼は紐を首に掛け、歯をチュニックの上に置いた。「ありがとう、ルシアス。僕にとってはとても大事な物です。」彼は狼の歯に触って、言った。「もう一つ質問があるんです。」

ルシアスは微笑み、掌を上にして手を差し伸べ、続けるように促した。

「父の遺体はどうなったんです?」

「あ…ああ。」ルシアスはグラウクスの声の底に流れる絶望を感じ、背筋を伸ばした。「彼の死の直後、母は国葬を計画していた。マキシマスをマルクス・アウレリウスの『養子』、後継ぎとして、すぐ隣に埋葬するつもりだった。母は記念碑を注文した。ブロンズの騎馬像で、祖父の像の近くに置くはずだった…大理石の胸像も。ローマじゅうが彼を悼んでいた。人々は、皆が彼を称えられるよう、公共の記念物を作るよう求めた。彼を神格化すべきだという声すら高まっていた。既に、彼を神として−ローマの救世主として崇める教団が広がっていた。母はそれには激しく反対していた。グラックスもそうだった。彼は元老院がそれを検討することも許さなかった。母はマキシマスに、生きていた時と同じでいて欲しかったんだ…特別な男、でも神ではない。しかしそれは、帝国に急速に広がっていた不安定さの兆候−小さな兆候の一つ過ぎなかった。皇帝がいなくなって、人々は失われた英雄にすがりついていた。元老院は即座に共和制を確立する準備を始めたが、この案は広い支持を得られなかった。元老院議員の間にさえ反対があった。議員たちはすぐに派閥に分かれ、ものごとの進め方、目指すべき目標、全てにおいて反対しあった。マキシマスのような強い人間が指導すべきだった。でも、その時いたのは私だけで、私はほんの子供だった。マキシマスの死から数時間もしない内に、野心を持った権力者たちが勢力争いを始めていた。そういった理由で…それから、街には説教者や扇動者が溢れていたために…国葬は時期に合わなかった。それで、母は内輪の葬儀にしようと即決した。私はさんざん頼みこんで、やっと参列を許してもらえた。ローマに、皇室や帝国の英雄だけを扱う火葬場がある…マルクス・アウレリウスのコロンナのすぐ近くに…マキシマスの死の翌朝早く、私たちはそこに行った。夜明け前だった。遺体の準備は、私にはショックが強過ぎるだろうということで見せてもらえなかったが、母とグラックス議員と、マキシマスの解放した剣闘士たちは、ずっと彼の側にいた。私は最後に彼を一目見る事を許され、家の庭で摘んだ花を彼の手に捧げた。母は短い時間で特別のものを用意していた…彼の頭に皇帝の冠を置いたんだ。生きている間には受けられなかった名誉を、せめて死んでから受けられるように。彼は紫と金の皇帝の服を着ていた。奴隷の徴は全て取り去られていた。」ルシアスは話を止めた。「グラウクス…大丈夫か?」

グラウクスは光る頬を拭い、ルシアスにうなずいて続けるように促した。

「グラウクス、君のお父さんは安らかに眠っていた。本当に眠っているように見えた…もう苦痛も、隷属の身分もなく。君のお母さんとお兄さんと一緒に。」

グラウクスはうなずいたが、声が出なかった。

ルシアスは話を続けた。「グラックス議員が追悼頌徳を言った。母の顔はヴェールで覆われていたが、顎から涙がぽろぽろと落ちていた。涙がドレスに落ちるのを見て、私は母の嘆きに動揺した。私自身も嘆いていた。母は私の手を握ってくれたが、だめだった。私は積み薪を見るのが耐えられず、お付きの者と控えの間で待った。でも、香煙と香水の匂いはわかった。誰が灰を集めたのかは知らない…多分、グラックスだろう…出てきた時、みんなは疲れ切っていたが、厳粛な顔をしていた。解放された剣闘士たちが専用の台に乗せた壺を運び、元の場所に納めた。壺は黄金…純金だった。」

「珍しいですね」マリウスが袖で目許を拭いながらつぶやいた。

「皇帝には珍しくない。美しい壺だった…長方形で、葉のついた枝と円柱の飾りがついている。翼を広げた鷲もついていた。とても印象的だった。私たちは宮殿に戻ったが、ローマはすぐに大混乱に陥った。帝国ははっきりした指導者を失ってさまよっている−そう考えた人々が、経済の崩壊や失業を予想して、街で示威活動を始めていた。そして、近衛隊の登場だ。その時街に溢れた恐怖は想像出来るだろう。連中は、とにかく何もかもを乗っ取った。彼らは我々を宮殿に隔離したので、その後どうなったのかほとんどわからない。約1ヵ月後、我々はヴィラに連れて行かれ、そこで何ヵ月も厳重な監視の元に置かれた。その後、着のみ着のままで追放された。」

グラウクスは眉をしかめた。「それで、その壺はどうなったんですか?」

「私の知る限りでは、まだそこにある。」

「宮殿に?!」三人が同時に叫び、自分たちの声の大きさに驚いてひるんだ。

「ああ。多分そうだ。」ルシアスは肩をすくめて言った。「壺はうまく隠してある。彼の革の鎧もそこにある…彼が倒れた時、着けていたものだ。」

「今まで誰も気づかなかったなんて、何でそんな事が?」グラウクスが訊いた。頭がぐらぐらしていた。こんなに重要な事を、こんなにさり気なく言うなんて。

「グラウクス、君はあの時の混乱を知らないから…ローマは内紛のさなかで、役立たずの皇帝が何人も現れては消えた。その内の誰も、宮殿に長くはいなかった。せいぜい、1部屋か2部屋しか使う時間はなかっただろう。宮殿がどんなに大きいか、君には想像もつかないだろう…何百という部屋があるんだ。埃をかぶった、布をかぶせた彫刻や家具で一杯の巨大な貯蔵室がいくつもある。」

グラウクスは顔をしかめた。「壺は貯蔵室にあるんですか?」

「いや、母のアパートメントの寝室の隠し部屋にある。壁の一部がスライドするようになっていて、その後に上手く隠してあるんだ。壁は見ただけでは他の壁とまったく区別がつかない。誰も気づいていないと思う。母はまったくの偶然でそこを見つけたんだ。他の誰にも言っていないと思う。私が知っているのは、母とグラックスがそこに壺を隠すところを見たからなんだ。もちろんデスマスクも作らせて、母はマキシマスのために祈りを捧げた。彼には家族はもう残っていないと母は思っていた。もし知っていたら、母は君に送っただろう。デスマスクも隠し部屋にある。そのために特別に作らせた小さな戸棚にしまってある。」

グラウクスは呆然としていた。最後のかけらが納まり、パズルが完成したのだ。

 

第68章 ルシアスの話(続)

「ルシアス、亡命生活ってどんな感じでした?」マリウスが訊いた。「僕には想像もつきません。」

蝋燭は短くなり、部屋は再び暗くなりかけていた。窓の外からは蝙蝠の羽ばたきと、遠いコウロギのやさしい孤独な歌が聞こえた。ルシアスは消えかけた炎を見ていたが、彼の目が見つめているのは過去だった。「マキシマスの葬儀の後の数週間は、比較的落ち着いていて、母は希望を取り戻しかけていた。母は私を、軍が新体制に忠誠を誓うまでの暫定の皇帝にする準備を始めた。正直に言って、私は自分の仕事が短く済みそうなのでほっとしていた。私は叔父の狂気をよく憶えていたので、何故か彼のようになる気がして恐ろしかったんだ。しかし、皇帝がいなくなれば、近衛隊は用済みになる。富と権力をもたらしてくれる地位を失うんだ。そんな事をすんなり納得する近衛兵はほとんどいなかった。彼らが、共和制などとんでもないと言う結論に達するのに長くはかからなかった。彼らは元老院の実権を握り、自分たちの懐を最も沢山の金で満たしてくれる男−ペルティナクスに皇帝の地位を売った。軍は近衛隊を支持した。普通の兵士も給料が上がったし、皇帝不在の時に野心を持った軍の幹部たちの影響を受けていたからだ。ローマは大混乱だった。我々は宮殿に軟禁されていて、ペルティナクスが来た時に、さっきも言ったように丘のヴィラに移されて何ヵ月も厳重に監視された。そして、母も私も、ペルティナクス治世の安定を脅かす存在という事になった−どのみち、安定などしていなかったのだが。近衛隊が皇帝を説き伏せ、我々をカプリに追放させた。それからは悪くなる一方だった。あの卑劣なファルコが、クーデターを企てた。我々が追放されたすぐ後、ペルティナクスが殺された。サルピシアヌスとユリアヌスが帝位を競売にかけ、ディディアス・ユリアヌスがその地位を買い取った。セヴェルスが軍の後ろ盾を得て帝位を奪うまで。グラックスは元老院の力を保とうと努力したが、政治的実権を奪われ、何年か後に絶望した、気難しい老人として死んだ。」

ルシアスは膝に足を置いて両手で掴んだ。「私の母は影響力のある女性だった。近衛隊は母を警戒していた。母を追放する事で、もちろん、私も追い払う事が出来た。簡単な決断で、一石二鳥というわけだ。私たちはカプリの遠い西の端に追いやられた。岩だらけのみじめな小島だ…冬は寒くて、霧が立ち込めているんだ。我々は真夜中に密かにヴィラから連れ出された。母と私はカプリで、数少ない島民からも隔離されて過ごした。会ったのは食料を運んでくる数人だけだった。ずっと私の面倒を見てくれていた女性だけは一緒だった。ルファだ。彼女は来なくても良かったのだが、自分からついて来てくれた。」

「カプリにはどうやって行ったんですか?」マリウスが訊いた。

「馬車でオスティアまで連れて行かれ、そこからカプリまでは船だ。子供の頃の記憶というのはおかしなものだね…ルファがオスティアの港で知り合いの女性と会って話していたのを憶えている。彼女は赤ん坊を抱いていた。その女性が私に優しくしてくれたのを憶えている。綺麗な赤い髪をしていた。」

グラウクスとマリウスは驚いて顔を見合わせた。

「船旅はひどかった。私はずっと船酔いで、船を降りてからも何日も気分が悪かった。母は私のために強くあろうとしていたが、最初の何週間かは泣き暮らしていた。夜には、寝言でマキシマスの名を叫んでいた。その涙のほとんどは彼のために流したものだと思う。さっきも言ったように、私は空想の世界に逃げ込み、マキシマスが一緒にいて私の父親になってくれている夢を見ていた。言うまでもなく、最初の数ヶ月は最悪だった。その後はそこの生活に慣れ、母は歴史や法律や哲学を教えてくれた。絵を描いて地理を教えてくれたりもした。そして、物語を聞かせてくれた…蛮族を倒して帝国を守った、勇敢で気高い将軍の物語。夜には、二人ともマキシマスの夢を見た。」ルシアスは何か思い出したように首を傾げた。「そう言えば、いつか誰かが助けを求めてくるだろうと言ったのはルファだった。馬鹿げていると思った…子供に助けを求める人がいるだろうか?君が指輪を見せるまで、そのことはすっかり忘れていた。はっきり言って驚いたよ。」

「ルシアス、あの指輪はオスティアの赤い髪の女性のものなんです」グラウクスがやさしく言った。「名前はジュリアと言って、彼女と父は、父がカシウス将軍の反乱を鎮圧するためにモエシアへ行っていた時に出逢ったんです。その時は恋愛関係ではなかったのですが…何年も後、父が奴隷の身になってローマに来た時再会したんです。彼女は父を救う事ができませんでした。愛していたのに…救う事はできませんでした。あなたの母上と同じです。」

ルシアスは瞬きした。「あの赤ちゃんは…?」

グラウクスはうなずいた。「父の子供です。彼女はマキシマという名前で、今はローマにいます。」

ルシアスはため息をついた。「君の妹か。彼女に会った後、母がひどく動揺していたのはそのせいか。母は知っていたに違いない。追放されるせいだと思っていた。君の妹は君に似ているかい?」

「いいえ、ちっとも似ていません」マリウスが口を挟んだ。「美人で、頭が良くて、ユーモアのセンスがあって、洗練されていて優しい女性です。兄とは大違い。」

グラウクスは目をむいた。

ルシアスはにやにやした。一人の女性の愛情を争う親友同士の、ちょっとしたライバル心の表れだったのだろうか?「君は運がいいね、グラウクス。子供の頃、兄弟や姉妹がいたらどんなにいいかと思っていた。ずっと寂しい思いをしていた。衛兵とよく遊んだよ。他には誰もいなかったからね。」

「他には何がありましたか?」マリウスが訊いた。彼は話の続きを聞きたかった。

「母はその後何年か生きていたが、とうとう結核で亡くなった。母が恨みを抱いていたとは思わないが、孤独な人生だった。母が発病したとき、私は病気が感染しないように引き離された。母が死んだ時、私も死にたいと思った…でも、死ななかった。セプティミウス・セヴェルスが皇位を奪い、マルクス・アウレリウスの養子だと主張し始めたとき、私はようやく島から解放された。何と言っても、彼の主張によれば私は甥だ。邪険にするわけにはいかない。しかし、いずれにしても、ローマの人々のほとんどは私はとっくに死んだと思っていただろう。私は母の灰を持って帰って皇室の墳墓に納めると主張した。彼は同意した。断るわけにはいかなかったのだろう。彼女は義姉だと主張しているのだから。彼は私を元老院に連れていって−私はまだとても若かった−帝国の一致団結や融和の精神について、ご大層な演説をした。今思えば、元老院の彼に反対する勢力が、私を救い出して帝位につけようとしていたのかもしれない。もしそうなら、皇帝は彼らを非常に効果的に牽制した。彼は私をローマ郊外の丘のヴィラに行かせ、私は2年間、基本的に自宅軟禁状態に置かれた。私の市民権は回復され、私はセヴェルス派の元老院議員に法律家としての訓練を受けた。そして『元老院議員候補生』として現在の地位を与えられた。追放されていたことを考慮され、兵役義務は免除された。そして、私は妻になる若い女性と引き合わされた…オルテンシアだ。彼女は、皇帝傘下の力の弱い元老院議員の娘だった。翌日にもう結婚させられたので、私も彼女もショックを受けた。その後すぐ、私はここに送られた。彼女は数ヵ月後に来た。それ以来、私たちはずっとここにいる。私たちはお互いに慈しみ合うようになり、二人の息子が出来た。」ルシアスは肩をすくめた。「私の話はこれで終わりだ。」

「そうじゃないかもしれません」グラウクスが言った。

三組の目が彼を見た。

「どういう意味だい?」ルシアスが訊いた。

「父の遺灰をスペインに持って帰って、妻と息子のそばに葬りたいんです。父もそう望んだはずです。父のデスマスクも取り返して、父の家の−僕の家のしかるべき場所に、名誉と敬意を持って納めたい。母と兄をあんな風に失ったせいで、僕は先祖の遺品棚を持っていないんです。先祖のデスマスクも、父の両親のものもありません。僕は父のを手に入れたい…どうしても。」

ルシアスは両足を床につけた。「無理だよ。どこにあるか言っただろう。」

「でも、あなたが手を貸して下されば…」グラウクスは言い張った。マリウスは、気でも狂ったのかと言うように彼をまじまじと見つめた。

「私が?」ルシアスは言った。「どうやって?宮殿の正確な見取り図を書くことすら出来ない。私がいた頃から変わっているかもしれないからね。」

「それだけじゃなく、一緒にローマへ来て、僕たちが宮殿に忍び込む手助けをして欲しいんです。」

マリウスがぱっと立ち上がった。「僕たちだって?『たち』って誰だ?セヴェルスはお前の処刑命令を出しているんだぞ。それなのに、彼の家に押し入ろうってのか?ついに完全にいかれたか?」

ブレヌスは心配そうに目を丸くし、熱をこめてうなずいた。

ルシアスが懸念を口にした。「兵士が私を見張っている。私の家にもスパイがいて、兵士に報告している。兵士は私の行動を直接ローマに報告するんだ。私が怪しげな行動をすれば、数週間でセヴェルスに伝わる。」

「あなたはずっとこの街を離れたことがないんですか?何年も?」グラウクスが訊いた。

「もちろん公用で街を出たことはあるが、この地方を離れた事はない。この季節になると時々、象牙の高官椅子に乗って、あちこちの小さい街へ法律関係の裁定をしに行く。ここまで私に会いに来られない人もいるからね。たいていの場合、数週間以内で終わる。武装した兵士が少なくとも一人ついて来る。通常二人だ。」

「それじゃその『公用』に出掛けて、代わりにローマへ行きましょうよ。」グラウクスが言った。

「家族を危険にさらすわけにはいかないんだ、グラウクス。どんな理由があろうと。たとえ、マキシマスのためでも。」

「そんな事はお願いしません。でも、何か方法があるはずです。あなたの留守中、ご家族が安全に過ごせる方法が。」

ルシアスは膝に肘をついて額を手に乗せた。

部屋は沈黙に包まれた。

長い時間が経った後、彼はゆっくりと言った。「おそらく…おそらく、大丈夫だろう。しかし、ついて来る兵士を何とかしなくてはならない。殺したくはない。」

「それは何とかなります」グラウクスの興奮は高まっていた。

ルシアスは背を伸ばした。「それぞれの町の友人に頼んで、ごまかしてもらわないと…私に最近会ったが、今はどこにいるか知らないと言ってもらわなくてはならない。それで少しは時間が稼げるだろう。しばらくの間山に消えるのは簡単だが、ローマまで往復するとなると何ヵ月もかかる。そんなに長い間公用の旅に行っているとは、誰も信じないだろう。家族を巻き込みたくない。」

「もちろんです」グラウクスが同意した。

「北の方に妻の友人がいる。家族はそこへ行かせよう。」

「それでは、やってくれるんですね?」グラウクスは希望を持ちすぎぬよう、心を押さえていた。

「わからない。確かに、マキシマスは命の恩人だが…しかし、いずれはセヴェルスに知られてしまう事を覚悟しなければならない。妻と相談しなければ。とても危険なことだ。家族を危険にさらすわけにはいかない。」

「そんな事をお願いするつもりはありません。でもルシアス、僕はセヴェルスと取引きできる材料を持っているんです。」グラウクスが秘密めかして囁いた。彼は荷物を探り、羊皮紙の巻物を引っ張り出し、広げてルシアスに渡した。ルシアスは燃えつきかけた蝋燭の明かりにかざして読んだ。やがて彼は、驚きに眉を上げた。

グラウクスはにっこりした。「マルクス・アウレリウスの玉璽のある原本は、ローマの安全な所にしまってあります。」

 

ローマ、5週間後
四人の男が、サーカス・マキシマスの影に立って巨大な宮殿を見上げていた。宮殿はパラティンの丘の、ほぼ平らにならした3つの頂上の上に立ち、まるで巨大な蛸のように幾多の翼棟を広げ、下に広がるローマの町に触手を伸ばしていた。

「彼はずいぶん増築したな」ルシアスがつぶやいた。「新しい翼棟が出来ている…宮殿競技場の右の翼だ。中に何があるんだろう?」

マリウスが答えた。「セヴェルスは皇室用に凝った浴場と、サーカスの見えるテラスを作ったそうです。」

「一体どうやって入ったらいいんだ?」グラウクスが言った。「宮殿って、まるで要塞だ。どこもかしこも衛兵だらけだ。」

「ああ」ルシアスが言った。「でも、宮殿の周りがこんなに騒がしいなんて初めて見たよ。大勢の人が出たり入ったりしている。何かあるみたいだな。」

「宮殿に入り込むには内部から手引きがいるかもしれません。」グラウクスが言った。

「ああ、そうだね」ルシアスは言った。「私が子供の頃に宮殿にいて、私を憶えている奴隷か召使がまだいるかどうか見てみたい。宮殿の使用人は、皇帝が替わったからといって替わるわけではないんだ。私を助けるためなら喜んで命を賭けるという使用人を見つけることさえ出来ればいいわけだ。」

「大変なお願いだ」グラウクスが言った。

「ああ、時間がかかる。私は山道が閉鎖になる前に家に帰らなきゃならない。早速とりかかるとしよう。」

 

第69章 計画

グラウクスはブレヌスと一緒にまたユーゲニアのところに泊まることにした。ブレヌスは文句たらたらだったが、グラウクスは居心地よく感じていた。ユーゲニアは二人の母親役をすることに無上の喜びを感じているようだったし、女の子たちとも友達になった。マリウスは自分の家にいた方が疑いを招かないと思ったので、戻ることにした。ルシアスも始めはユーゲニアの所にいたが、祖父の旧友が見つかり、彼を喜んで受け入れて決して人には話さないと言うので、そこに泊めてもらう事にした。

夜には、グラウクスはローマのもっと上等の娼館で働く女たちの身体に苛立ちを沈めた。彼女たちはジュリアを捜していた時の彼を憶えていて、再び彼に会えて喜んでいた。昼は宮殿の周囲を歩き回り、大きな門を行き交う人々を観察し、定期的に出入りする人を見つけようとしていた。無駄なことだった…とにかく人が多すぎる。徒歩の人、馬車、荷馬車、駕籠。ルシアスの言う通りだ。何かあるのだ。あまりいつまでも宮殿の外にいると疑いを招くのではないかと心配になり、彼はパラティーンに並ぶ豪華な屋敷の陰に溶け込み、ジュリアのアパートメントを見上げた。彼女はあそこにいるだろうか?マキシマは?危険な計画に巻き込みたくなかったので、会うつもりはなかったが、二人がひどく恋しかった。

ブレヌスは連絡係を勤め、伝言を書きつけた小さい蝋板を持って三人の間を飛び回ったり、会合の場所を口頭で伝えたりした。少年はその仕事を心から楽しんでいた。

四人は毎晩、あらかじめ決めた場末の居酒屋で会い、それぞれの進展を報告し合った。ローマに着いて三日目の夜遅く、三人の待つ暗い隅のテーブルに、大きな笑みを浮かべたルシアスがやって来た。「ご成婚だ。」彼は言った。

「何ですか?」グラウクスが訊いた。

「セプティミウス・セヴェルスの長男で後継ぎのカラカラ、またの名をマルクス・アウレリウス・アントニウス、あるいは単にカエサル…彼が結婚する。セヴェルスの近衛隊長、プローティアヌスの娘と。三日後だ。花婿はたった14歳。花嫁の名はパブリア・フルヴィア・プローティラ、間違いなく、オーガスタの称号を受けるだろう。彼女は16歳だ。あの大騒ぎはそのためだ。ローマにやけに人が多いのもそのせいだ。もちろん、婚礼の日は休日になる。その前の日も。その後三日間はお祝いだ。祝い酒、お清め、祝いの歌、踊り、行列…宮殿の中も外もだ。絶好のタイミングだ。ローマ中が大宴会になる。群集に紛れれば、誰も私たちには気づかないだろう。安心して好きなように街を歩き回れる。皇帝は今は君のことなど考えている暇はないはずだよ、グラウクス。」

「ええ、僕も結婚式のことは聞きました」マリウスが口を挟んだ。「薔薇の花輪があっちにもこっちにもあるのはそういうわけなんだ。もう街中花輪だらけですよ。」

ルシアスはにやりとして続けた。「帝国中の総督が集まっているに違いないどうして私のところには招待状が来なかったんだろう?」

「郵便の遅れでしょう」グラウクスは冗談を言った。

「ふーむ…おそらく、サモ・ポエニノ峡谷の谷底に落ちたんだろう。」ルシアスが答えた。彼はこの冒険を心から楽しんでいた。彼は心から寛いでいる様子で、椅子の背にゆったりともたれた。

「マリウス」グラウクスが言った。「君のお父さんは来てるのか?たしか、どこかの総督だったと…」

「カッパドキア。カッパドキアの総督だ。ああ、ローマに来ている。」

「お父さんが協力してくれないかな?」グラウクスが言った。

「冗談だろう」マリウスが答えた。「僕がこんな事に関わっていると知ったら、父は自分の手で僕をテュリアン刑務所に閉じ込めるよ。」

「でも、招待状を持ってる」グラウクスはねばった。

「ああ…なぜ?」マリウスは用心深く訊いた。このスペイン人の友人は時々とんでもない事を言い出す。

「ちょっと借りて偽造できないかな。招待状があれば、堂々と入れる。」

「どうやって偽造するんだ?招待状を見たけど、豪華な浮き彫りの金の銘板だ。純金だぞ。皇帝の玉璽入りだ。金の銘板なんて、どこで手に入れる?」

グラウクスはルシアスに視線を移した。

「私を見られても困る」彼は言った。「一枚作る金だって持っていない。ここにいる間は、ほとんど人の好意に頼っているんだ。他の方法があるはずだ。」

「いい記念品になりますね」ブレヌスがつぶやいた。「金の招待状なんて。」

「ローマは変わりましたか?」ワインのゴブレットを満たしに給仕が近づいて来たので、マリウスは素早く話題を変えた。

「いや、あまり。」ルシアスはマリウスの意図をすぐに察して答えた。「相変わらず、威張った貴族と腹を空かせた平民…それに奴隷で一杯だ。建物も変わっていない。どんなに大きいか忘れていた。」

「懐かしいですか?」グラウクスはそう訊きながら、給仕が不自然な好奇心を示していなかどうか注意深く見た。

「いや。またローマを見られたのは嬉しいが、私は私の帝国の片隅を愛している。今やあそこが故郷だ。それに、以前は存在すら知らなかった地域も目にしている…サビュラのような。以前はこの貧しさや絶望を知らなかった。ローマは正反対の二つの都市の複合体のようだ。一つは豊かで、一つは貧しい。」

給仕が立ち去り、グラウクスはすぐに計画の話に戻った。「皇族の結婚式ってどんな感じでしょう?どうやったら、気づかれずに宮殿の中に入る事が出来るでしょう?」

「皇族の結婚式は、途方もない贅沢の限りを尽くす行事だ」ルシアスが答えた。

「試合をしたりするでしょうか?」グラウクスが言った。

「試合?剣闘試合のことか?」ルシアスが訊いた。「有り得なくはないが、かなり悪趣味だな。」

「プローティアヌスは悪趣味な男です」グラウクスはきっぱりと言った。

「まさか、みんなで剣闘士の恰好をしようってんじゃないだろうな?」マリウスは唖然とした。「剣闘士らしく見えるのはお前だけだし、お前は誰かさんにそっくりになるぞ。そりゃ、大騒ぎになるだろうな。忘れろ。」

「それじゃあ、他に誰が宮殿に入れるんだ?誰が入るんだ?」グラウクスが言った。

「セヴェルスは重要人物を残らず招待する筈だ。招待しないで敵に回すような危険は冒さないだろう。政治家は帝国の隅々から全員、ヴェスタの巫女、軍の幹部、主要な実業家たち。もちろん、家族全員だ。おそらく数千人になるだろう。その世話をするためには、さらに大勢の召使がいる。たくさんの貴族の家庭が、準備と祝宴のために召使を宮殿に貸し出しているだろう。」

「召使の身元はどうやって確認するんですか?宮殿の衛兵は、入っていい人とよくない人をどうやって区別するんでしょう?」グラウクスが訊いた。

「最初のうちは見慣れない人間を見つけるのは簡単だろうが、式の日が近づくにつれてさらに人が増えるし−召使も、客もだ−ほとんど不可能になるだろうな。」ルシアスが答えた。「少なくとも、宮殿の公共の区画では。皇族のアパートメントには、皇帝の家族とお付きの召使以外は絶対に入れないんだ。」

マリウスは興味深そうに二人を見た。「召使に化けようっていうのか?」

「多分。」グラウクスが言った。「召使なら金の招待状は要らないだろう。それなら少なくとも内部には入れる。そこからはそこからの事だ。」彼は最年少の仲間の方を見た。「ブレヌス、明日、宮殿の門の外で、召使の身元確認方法を調べてくれないか?目立たないように?」

ブレヌスは熱心にうなずいた。「もちろんです。」

「マリウス、宮殿の設計図の方はどうなった?」グラウクスが訊いた。

「図書館の書庫で見つかった設計図はとても古かった。あれから随分改築されているはずだ。役に立つかどうかわからない。」

「ルシアス、宮殿の事を話して下さい。どんな事を憶えていますか?」グラウクスが訊いた。

ルシアスは胃のあたりを指で押さえ、心を過去に遡らせた。「入り組んだ、だだっ広い所だ。そこに住んだ主な皇帝は、みんな何らかの手を入れている。最初はどんな構造だったのか、もう想像もつかないぐらいだ。長年に渡って皇帝たちが、前任者の作ったものを改築し、増築し、取り壊し、再建し…もちろん公費でね。とても古い部分もあれば、かなり新しい部分もある。元のアウグストスの家は残っている。私のお気に入りの場所だった。入口は、一つのアーチから成り立っている。ひとつの大理石のかたまりから彫り出した、アポロとディアナの乗った四頭立て馬車の素晴らしい彫像がついている。そこから、白い大理石で覆われた広い中庭に続いている。金色の円柱があり、彫刻や胸像でいっぱいだ。そして、大きな読書室で隔てられたギリシア語とラテン語の図書室があり、中心にはアウグストスの彫像がある…これがおかしいほどアポロにそっくりなんだ。近くにアポロの神殿がある…もちろん、大理石だ。彫刻のついた象牙の扉がついている。神殿の破風には、アポロの戦車のブロンズ像があり、内部のアポロ像はアレキサンダー大王が所有していたと言う歴史的価値のあるものだ。信じられないだろうが、これらすべてを合わせても、丘のほんの一部にしかならないんだ。」

ルシアスはワインを一口すすり、椅子にもたれた。「現在の宮殿は建築家のラビルスが設計して、ドミティアヌス帝が建てた。ネロの神殿跡と、パラティーンの家をそのために何軒か取り壊した上に建てられている。ドミティアヌスの宮殿は増築や改築を重ねられてきたが、建て替えられてはいない。それは設計図からもわかっただろう、マリウス。ラビルスは、皇帝の輝かしい地位は建築においても表現されるべきだと考えいていた。だから、あんなに部屋が広いんだ。元々の宮殿は基本的に三つの区画に分かれていた。皇族のアパートメントと生活空間、公共の広間、それに競技場だ。この複合施設の中心には、ペレスタイルと呼ばれる広い屋根のない空間がある。八角形の噴水があり、周りを部屋が囲んでいて、円柱で隔てられている。巨大な謁見の間は北側の中央にある。宮殿への正式な入口…円柱に囲まれた中庭…は、大広間に続いている。大広間は謁見の間の隣で、北に向いている。私の記憶では、謁見の間の壁は緑の大理石のパネルで飾られていて、円柱が並び、それぞれの壁龕には黒い玄武岩の神々の巨大な彫像があった。小さい頃、私はその彫像が恐かった。しかし、あの部屋にはあまり入れてもらえなかった。皇帝の謁見はその部屋で行なわれる。皇帝は端にあるアプス(※)の玉座に座り、神のごとく見える。東側にはバシリカがある…とても美しい、金色の円柱が並んで、身廊と二本の通路とアプスに分かれている。それは皇帝が法律問題を聞いて決断を下すときに使われる。書庫も二つある。ペレスタイルの南端は巨大なバンケット・ホールに続いている。披露宴はそこで行なわれるに違いない。ホールには大きな窓が二つあって、左右対称に作られた二つの庭に続いている。庭には噴水がある。本当に、素晴らしい部屋だ。反対側は八角形の噴水と円柱のあるペレスタイルに続いているのだから。私の記憶にあるバンケット・ホールは金と白だ…金箔飾りをつけた白い大理石、至る所、レリーフで飾られている。きらきらと光り輝いている。」

ルシアスはまたワインを味わい、かつての我が家の廊下、部屋、庭園に心をさまよわせた。「宮殿の私的区画、皇族のアパートメントがある部分は、国家行事の行なわれる部屋と続いている。西側の二階で、丘のカーブに沿って続いている。一番北には、中庭を囲んで部屋が並んでいる。中庭は、中心にミネルヴァの神殿のある池があり、円柱で囲まれている。私の寝室は二階にあった…母のアパートメントの一部だ。私はよく、その池と小さな神殿を上から眺めていた。鮮やかに覚えている。大きなアラバスターの壺と、花が並んでいた。それぞれのアパートメントには、寝室がいくつもあり、居間と書斎と一人用の浴室があった。主要居住区画には、大きな食堂と、さらに何部屋もの居間や書斎。下の階は、母親や伯母やいとこなど、皇室の血筋の者たちのための部屋だった。居住翼棟の南側は低い位置に建てられていて、部屋はやはりペレスタイルを囲んでいる。ペレスタイルには半円形の池が向かい合わせに四つあって、空を映している。これらの部屋はほとんど客間だ。南側に、宮殿への入口がもう一つある。知っての通り、サーカス・マキシマスに面した側だ。立派な、威圧的な門だ…円柱が半円形に、何重にも囲んでいる。客に感銘と恐怖を与えるために作られたものだ。でも、おそらく、結婚式の客は北側から入るだろう。」

「競技場はどんな所ですか?」グラウクスが訊いた。

「競技場は東側にある。皇帝の個人的な娯楽のために作られたものだ。楕円形で、端が半円形になっている。二階建てのポルティコがぐるりと囲んでいて、きわめて豪華なものだ。皇帝とその家族は二階の居心地の良い貴賓席から見て楽しむことが出来る。サーカスやコロシアムと同じだ。」

「どんな娯楽ですか?」グラウクスが訊いた。

「まあ、ほとんど何でもある。しかし、叔父はよく自分だけのための剣闘試合を催していた。叔父の事だから、他にどんな下劣な事をやっていたのか知れやしないが。叔父はそこで剣闘士のレッスンを受けたりもしていた。そして、競技場の横が、さっき君が言っていた、セヴェルスが私室と凝った浴場を作った所だ。皇族のアパートメントの風呂には満足できなかったんだろう。実を言うと、古くなっていて水漏れがするし、冬はすきま風が入って寒いんだ。もっと近代的なものが欲しかったんだろう。そのためには丘を広げなくてはならなかっただろうな。私の記憶では、競技場は坂の縁にあったはずだから。」

「召使たちはどこに住んでいるんですか?」グラウクスが訊いた。

「一部は皇族のアパートメントの中の小さい部屋に住んでいる…それは子供たちの乳母とか家庭教師とか、皇族つきの使用人たちだ。宮殿の召使は、宮殿内の別の建物に住んでいる。」

「だいたいイメージが掴めました」グラウクスが言った。「我々の狙いは西側の上階ですね。」

「ああ。母のアパートメントは南西の隅にあった。とても日当たりが良くて、素晴らしい谷の景色が見渡せた。」

「警備は厳重でしたか?」マリウスが訊いた。

「ああ、とても」ルシアスが答えた。「子供の頃はそんなふうには思っていなかったが、実際には要塞に住んでいたようなものだ。私の記憶では、母のアパートメントには色が溢れていた…壁の騙し絵は黄土色、青、黒…そして素晴らしい赤。赤茶に近い。円柱は床と同様、大理石だった。あちこちに壁龕があって、ギリシア製のブロンズ彫刻や黒とオレンジの素晴らしい花瓶…すごく大きい物もあった。しかし、アパートメントは柔らかい感じで、薄いカーテンがいつもそよ風に揺れていた。大理石の床は冷たいので、色とりどりの東方の絨毯がベッドの横に敷かれていた。」

「例の隠し場所は、正確に言うとアパートメントのどこにあるんですか?」グラウクスが訊いた。

「さっきも言ったように、壁には、柱や壁龕を模した騙し絵が描かれていた。部屋を一層広く見せるためだ。そういう絵柄の中に動くパネルを隠すのは簡単だ。二本の円柱の絵の間の、ただの赤い壁のように見えるパネルが横に動くんだ。念のため、その前にはブロンズの彫刻が置かれている。その小部屋は元々、いざと言うときの隠れ場所として作られたものだ。どこからか空気も通っているんだ。でも、母は自分の宝物を隠す場所として使っていた。書類とか、そういうものだ。宝石も少し。私が見たのは一度だけ、母がマキシマスの遺灰壺と形見をそこに入れた時だけだ。」

「母上の個人的な書類は、まだそこにあるかもしれません。もしかしたら、形見も。」マリウスが言った。

ルシアスはうなずいた。それは既に考えていた。

「あとは、中に入る方法さえ見つかればな」グラウクスは眉をしかめた。

四人はこの問題を考えながら黙って座っていた。

突然、マリウスの顔が輝いた。「ここは、昔からの伝統ある手法を採用するべきだろうな。」

「伝統ある手法って?」グラウクスが訊いた。

「賄賂だよ。」

「賄賂か」グラウクスは考え深げに繰り返した。いい考えだ。

※アプス:後陣、建物の端にある、通例、丸天井のある半円形[多角形]の部分

 

第70章 宮殿

翌日、動きやすいチュニックを着た四人の召使が、警備の厳重な宮殿の通用門をくぐった。あたりは結婚式の準備で活気に溢れていた。関係者は皆、身分を証明するブロンズのバッジをつけていた。衛兵は顔を見もせず、胸元をちらりと見ただけで手を振って四人を通した。同じ服を着て同じバッジをつけた数十人の男女が一緒に通った。

その頃フォーラムでは、別の四人の男が、不慣れな白いトーガを着てたっぷり金の入った財布を持ち、足取り軽く朝市を抜けていた。これから居酒屋に行って、思いがけない幸運をたっぷりと祝うのだ。

中に入ると、グラウクス、ルシアス、マリウス、ブレヌスの四人は安全のため二人組に分かれた。ルシアスとグラウクスはまっすぐ宮殿の使用人入口に向かった。マリウスとブレヌスは、前の二人が無事に中に入るまで少し待った。

ルシアスとグラウクスは何十人もの召使と一緒に、列に並んで待った。ローマ皇帝の家に入ろうとしている人々を、衛兵が先程より厳重に調べていた。手を振って通される召使もいれば、止められて質問される者もいた。「何を訊いているんでしょう?」グラウクスが囁いた。

「多分、今までに見たことのない者だけに質問しているんだろう…誰に仕えているかを。」

「あなたを覚えているでしょうか?」

「いや。セヴェルスは衛兵を全部替えたんだ。忘れたかい?ここの兵士で私を知っている者はいない。ヴィラで私を警備していた兵士がいれば別だが、それはまず有り得ない。君の方が気づかれる可能性が高い。私が答えるから、下を向いていてくれ。」二人は前にゆっくり、そろそろと歩き、ルシアスが衛兵の前に立った。グラウクスは少し後に立ち、友人の陰に溶け込もうとしていた。

黒衣の近衛兵はルシアスの顔をちらりと見て、胸元を見た。「初めて見る顔だな。お前たちの主人は…?」

ルシアスはお辞儀をした。グラウクスは一緒に頭を下げ、少し顔を背けた。「マルクス・クローディアス・セイアヌスのところより参りました。このめでたき華燭の典、私どもがお役に立てる事でしたら、いかようなりともお使い下さい、と主人は申しております。」ルシアスは再び頭を下げた。グラウクスも真似をした。

「名前は?」衛兵は、ルシアスの顔をじろじろ見ながら訊いた。

「ルシアスと申します。」彼はためらわずに答えた。

衛兵は少し身を乗り出し、グラウクスをちらりと見た。「お前は?」

「ユリウスと申します。」

衛兵は鼻で笑った。「二人とも、奴隷のくせに気取った名だな。セテルクリヌスの所へ行け。」衛兵は蝋板に印をつけた。ルシアスとグラウクスは日光の中から涼しい、暗い廊下に入った。近くの貯蔵室では、男たちが忙しそうにワインの箱を運び込んでいた。

「セテルクリヌスって誰でしょう?」グラウクスが訊いた。

「わからないが、まあ、どうでもいい。忙しい振りをしながら、私について来なさい。」ルシアスは、運んでいる女性が埋もれてしまうほど大きな布の山から二枚取り、一枚をグラウクスに投げた。二人は狭い階段を登り、石の壁に張りついて忙しそうに降りてくる召使とすれ違い、広い大理石の廊下に出た。ルシアスは即座に、緑の線の入った大理石の壁を磨き始めた。大理石は既に鏡のようにぴかぴかと光っていたが、グラウクスも友人にならって磨き始めた。二人は、ゆっくりと動き、衛兵が歩いて来ると立ち止まって、彫刻や花瓶のくぼみをことさら丁寧に磨いた。グラウクスは思わず仕事に熱中し、頑固な汚れに息を吹きかけて、力強い腕と肩の筋肉を総動員してきれいにしようとしていた。布を下ろしたとたん、彼は大理石に映った自分の顔が見返しているのに気づき、その真剣な顔に笑いそうになった。その時、自分の後ろに立っているぼんやりとした影に気づいた。その影は皇帝の服を着ていた。彼は凍りついた。

その時にはルシアスはかなり先まで行っていたが、グラウクスが固まっているのを見て急いで戻って来た。「どうしたんだ?」彼は囁いた。

グラウクスは途惑った。なぜルシアスは落ち着いているんだろう?やがて彼は肩を落とし、同時に首に血が上ってくるのを感じた。顔が燃えるように赤くなった。彼はゆっくり振り返って、大理石の台座から睥睨するセプティミウス・セヴェルスの胸像を見た。グラウクスは恥ずかしさをごまかすために肩をすくめ、胸像を指した。「あまり似てないでしょう?皇帝の髪はこれとは似ても似つかないし、髭も。」

ルシアスは大理石の顔の方を見ようともしなかった。目の前の赤くなった顔の方が面白かった。彼は笑いを押し殺し、スペインの若者の腕を掴んで、彫刻の目の届かないところへ連れて行った。二人は磨いたり、円柱の一本一本に飾られている豪華な花輪を直したりしながら、皇族のアパートメントにじりじりと近づいて行った。二人はゆっくりと動いていた。どちらを向いても圧倒されるような豪華さで、グラウクスは口を開けて見惚れたい衝動を必死で押さえていた。大理石と黄金。それが、宮殿の印象だった。大理石と黄金。

二人は角を曲がり、別の廊下に出た。疲れ切った召使が、ちょっと座って休もうと皿を積んだ盆をテーブルに置いた。ルシアスは歩調も替えずにそれをさっと取った。その気の毒な女性は、振り返えると荷物が消えていたので仰天していた。「じろじろ見るな」ルシアスはグラウクスに注意して、盆を肩に乗せ、バランスのよい位置に微調整した。彼はまた角を曲がった。「あの端に見える扉が…」

「おい!そこのお前!」近衛兵が叫び、ルシアスは立ち止まった。急に止まったので、皿が危なっかしくかたかたと揺れた。グラウクスは手を伸ばして皿を押さえ、曲げた肘の陰に顔を隠した。衛兵は剣を振りかざし、必要とあらばためらいなく斬り捨てる、と言うように睨みつけた。衛兵の相棒は少し離れた所に立って、同じように恐い顔をしていた。

「はい、何でございましょう?」ルシアスは頭を下げ、従順な口調で言った。

「この廊下は立ち入り禁止だ。知っているだろう。向こうへ行け。」近衛兵は怒鳴った。

「申し訳ございません」ルシアスはそうつぶやいてお辞儀をした。「バンケット・ホールはこちらではございませんか?」

衛兵はため息をつき、奴隷の馬鹿さ加減についてぶつぶつとつぶやいた。「引き返せ。右側の最初の廊下だ。」

ルシアスは荷物にもかかわらず、ごく丁重なお辞儀をした。「ありがとうございます。」グラウクスもお辞儀をし、頭を下げたままくるりと方向転換して、衛兵の目の届かないところに急いで逃げた。

ルシアスが囁いた。「アパートメントは、近衛兵が固めているあの廊下の端のブロンズ扉の向こうだ。」

「他に入口はないんですか?」グラウクスが訊いた。二人は召使の群れに溶け込んだ。召使たちは麻布の山や薄いガラスのゴブレット、磨き上げた銀食器などありとあらゆる品物を忙しく運んでいた。

「厨房を通るか」ルシアスが答えた。「あるいは、中庭を通って行けるかもしれないが、多分そっちも衛兵が固めているだろう。」二人はワインのアンフォラを乗せた台車を押す召使をよけたが、ソファを運ぶ二人の男にぶつかりそうになった。「間違いなく、皇帝の家族は今アパートメントの中にいて、結婚式の準備をしている。今入れるのは皇室付きの召使だけで、衛兵は全員の顔を知っているはずだ。今は危険過ぎるが、披露宴が始まれば入れるかもしれない。皇族のアパートメントは空になるし、ほとんどの衛兵は公共区画に動員されるだろう。客が備品を盗まないよう見張るために。」

突然、召使たちの働く部屋や廊下に近衛兵の怒鳴り声が響き渡り、全員がその場で動きを止めた。「注目!仕事を止めて聞くんだ!注目!注目!全員手を止めろ!」

グラウクスは身震いした。一体何だ?宮殿は静まり返り、全員が仕事の途中で凍りついて、様々な仕事の見本帳のようになっていた。

「男の召使は全員、即座に謁見の間に集合!」衛兵が命令した。「男の奴隷は全員、謁見の間に即時集合!急げ!さっさと行け!」

グラウクスとルシアスは何も言わずに、指示通りの場所に向かって北へ進む男たちの列に加わった。「何だと思います?」グラウクスが囁いた。

「シーッ」ルシアスが注意した。「わからない。でも、悪い予感がする。」

二人が着いた時には、巨大な部屋は男たちで埋まりかけていた。全員が奴隷の印である同じ服を着ていた。グラウクスはこっそりとあたりを見回し、マリウスとブレヌスを探した。二人は壁際に立ち、彼と同じように陰気な顔をしていた。

すぐに、近衛兵が何十人も部屋に入って来た。大きなブロンズのドアがばたんと閉められ、その反響がグラウクスの心臓の鼓動にこだました。彼は何とか落ち着こうと、肩の力を抜こうとした。近衛兵が集まった召使の間をゆっくりと歩き回り、一人一人の顔を調べている。今、疑いを招くのはまずい。しかしグラウクスの胃はきりきりと痛み、胃のあたりをぎゅっと掴みたい衝動を押さえるため、彼は手を開いたり握ったりしていた。衛兵は1メートル毎に止まって、男たちを頭からつま先までじろじろと眺め回していた。召使の一部は下がるように言われ、残りは反対側の壁に集められた。「お前はそっちへ行け。お前は下がれ。お前は向こうだ。お前はどけ。」一人の近衛兵がグラウクスの正面に立った。臨時の召使は大胆に睨み返した。衛兵はグラウクスを平然と睨み続け、ついにグラウクスは視線を落として不躾な視線に値踏みされるにまかせた…しかし、つま先を反抗的にねじっていた。「そっちだ」近衛兵は怒鳴った。グラウクスは、既にマリウスとブレヌスがいる集団に加わった。すぐにルシアスも来た。

下がっているように言われた男たちは、すぐに外へ連れ出された。グラウクスは成り行きを恐怖の目で見守っていた。何のために選ばれたのだろう?僕が宮殿にいることがばれたのだろうか?プローティアヌスが僕を探しに入って来るのだろうか?

男が謁見の間に入ってきたが、プローティアヌスではなかった。左目を神経質にぴくぴくさせている、せかせかした小男が入って来た。広い部屋は墓場のように静かだったにもかかわらず、彼は手を叩いて注意を引いた。それだけでは足りずに、彼は黒い玄武岩の彫刻が乗せてある台の下の段に登り、もう一度手を叩いた。「聞いて!みんな、お聞き!お前たちは特別な仕事に選ばれました。明日…お喜びの日に…街では沢山のお祝い行進が行なわれます。お前たちはそのうちの特別な行進、偉大なる行進に参加するのです。花嫁の父、我らが近衛隊長、偉大にして情け深きガイウス・フルヴィウス・プローティアヌス様は、ご息女にそれはそれは素晴らしいお輿入れ道具をお持たせになります。あの方の偉大さと、帝国史上未曾有の偉大なる結婚式に相応しいものです。」

プローティアヌスが「偉大」だと言われるのをもう一度聞いたら、吐き気がするだろう、とグラウクスは思った。彼は隣の男をつついて訊いた。「あれは誰だい?」

「新入りかい?」召使は訊いた。

グラウクスはうなずいた。「結婚式のために宮殿に貸し出されたんだ。」

「あいつはセテルクリヌス、召使のまとめ役だ。虫の好かん小男だが、あれで有能なんだ。言う事を聞いた方がいいぜ。」

セテルクリヌスは続けた。「お前たち奴隷は、この素晴らしい贈り物を運ぶという偉大なる名誉に預るのです。明日正午、フォーラムを通って行列します。この行列は年代記に記され、永遠に歴史に残るでしょう。」

グラウクスはルシアスの脇腹をつついて、囁いた。「セテルクリヌスって何の名前か知ってますか?」ルシアスは首を振った。グラウクスはにやにやしながら続けた。「肥やしを撒く神様ですよ。」

「ぴったりだね」ルシアスはにやりとした。二人は笑いで窒息しそうになり、衛兵に睨まれた。

「贈り物は、」セテルクリヌスは続けた。「今はここ、宮殿に、一つ一つ厳重に包装されて置いてあります。これからコロシアムに運んで今夜はそこで保管されます。もちろん、厳重な警備つきで。お前たちは宮殿に戻り、今夜はここの使用人部屋に留まるように。明日の朝、お前たちは宮殿から続く地下道でコロシアムへ行くのよ。我らが偉大なる皇帝、セプティミウス・セヴェルス陛下のアーチをくぐり、フォーラムを通って、割り当てられた品物を宮殿に運び戻すのです。その後、贈り物は偉大なる結婚式のお客様にお見せするため、大広間に飾られます。フォーラムを通るときは、市民に見えるように、品物を高く掲げるように。」

グラウクスはマリウスと目が合った。友人は肩をすくめた。何と言う意外な展開だろう。宮殿に入るのに苦労していたのに、今度は出られなくなったようだ。

 

第71章〜75章