Glaucus' Story:第71〜75章

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第71章 行列

グラウクスたちはいやらしいほど短い、純白のチュニックを着ていてた。上等の羊毛を縁取る固い金糸が日焼けした首に当たり、グラウクスは不快そうに掻いた。揃いの織物の帯が腰を締めつけていた。同じ金色の革サンダルの紐が膝まで交差していた。部屋を見回してみて、何故この召使たちががこの仕事に選ばれたのかわかった。全員が、見栄えがよく、逞しかった。民衆を圧倒するよう意図されたきらびやかな行進にふさわしい道具というわけだ。

彼らは広い控えの間に連れて行かれた。そこには、すでに百人ほどの男たちがいた。全員が短い金糸のチュニックと金色のサンダルを身に着けていて、動く度にきらきらと光った。全員が似ていた−背が高く、ほっそりとしていて、オリーブ色の肌と黒い髪と目をしていた。エキゾティックだ。「あの人たちは?」グラウクスは隣の男に訊いた。「宮殿にはいなかった。」

「宦官だよ」彼は無表情に答えた。

「何だって?」

「宦官だ。街で近衛隊に捕まって、去勢された男たちだよ。プローティアヌスが娘の結婚祝いにするために。彼女専用の宦官のお付きだ。」

「大人の男性を去勢したのか?」

「そうだ。噂は聞いているだろう?」

「奴隷かい?」

「いや、ローマ市民だ」召使はうめいた。「プローティアヌスは連中をかっさらって、自由を取り上げたんだ…男のしるしと一緒に。」

とても信じ難い極悪非道だった。たとえ相手がプローティアヌスでも。グラウクスはゲルマニアで彼に捕まった時の事を思い出して身震いした。

セテルクリヌスは必死の形相で行列を準備していた。操り人形のように手足を振り回し、宮殿にいた時よりも声が一段階高くなっていた。行列の先頭を飾る、銀と金の延べ棒を満載した金色の荷車の列が位置についた。続いて、櫃を載せた荷車。櫃は蓋が開けてあり、中の貨幣の山が見えるようになっている。その後を、宦官が小さ目の品物−宝石をちりばめた黄金の箱につめた、高価な香辛料や香料など−を抱えて続く。金や宝石の装飾品を運ぶ者もいた。群集が眺められるように、紫のクッションに綺麗に並べられていた。最高級の紫の絹に金糸銀糸で刺繍をほどこしたローブを運ぶ者もいた。花瓶、小さいブロンズのギリシア彫刻、エジプトのファラオの彫刻、北方の毛皮、アフリカの象牙、プローティアヌスが若夫婦のために建てたヴィラの小さな模型…帝国の津々浦々から集められた貴重な品々を群集に見せびらかす行進だった。宦官たちは二列縦隊になり、大きい品物が召使たちに割り当てられるのを待った。召使たちは全員グラウクスと同じ服装だった。一人の男が、象牙と黒檀の象嵌細工の贅沢なマホガニーの椅子を渡された。四人の男が、巨大な櫃に割り当てられた。櫃は四人がかりで持ち上げるのがやっとで、ゆっくり宮殿まで運ぶ事など不可能に思えた。グラウクスと隣の男は寝椅子を割り当てられた。二人はうなり声を上げながら肩まで持ち上げ、列に加わった。彼はちらりと振り返り、マリウスともう一人の男が蓋の閉まった櫃を渡されるのを見た。あとの二人がどこにいて何を運ぶのかは見えなかった。

正午、角笛が鳴り響き、金銀を積んだ荷車がコロシアムの暗がりから明るい陽光の中へ進み出た。何千という咽喉から歓声が迸った。グラウクスとその相棒が外に出るまでに長い長い時間がかかった。この分では、宮殿に着くまでに何時間もかかるだろう。もう肩が痛かった。

フォーラムは人の海だった。人々が行列のルートに押しかけ、サーカスの立見席より混み合っていた。二十列は重なっているだろう。建物の屋上からも、何千人もの人々が見ていた。大勢の人が、フォーラムの中心に並ぶ円柱や彫像の高い土台に登っていた。さらに多くの人が、全てのバシリカや神殿の階段を埋めていた。薔薇の花びらが雨のように降り注ぎ、石畳に赤いヴェルヴェットの絨毯を敷き詰めた。

武装した近衛兵たちが群集のすぐ前に立ち、隊長の財産を守っていた。彼らは行列に近づこうとする者を−豪華な品々に見惚れて手を伸ばしただけでも−荒っぽく押し戻した。群集は不満の声を上げた。庶民はお祭り騒ぎをしに来ているのだ。誰にも邪魔はされたくない。

グラウクスは真直ぐ前を見ていた。この寝椅子が顔を隠してくれていればいいが。しかし、彼はこんな行列を見たことも、ましてや参加したことなどなかったので、群集をちらちら見ずにはいられなかった。街の屋台とスリにとってはかき入れ時だった。居酒屋や娼館も、金に糸目をつけぬプローティアヌスから娘への贈り物の恩恵を被っていた。

人々はワインの杯を掲げて乾杯していた。グラウクスは唇をなめた。暑い真夏の太陽の下で、のどが渇き始めていた。行列は耐え難いほどのろく、運んでいる寝椅子は、上にニ、三人座っているのかと思うほど重かった。額から汗が滴った。彼は寝椅子の布張りの脚で汗を拭いた。しみになればいい、と彼は思った。

フォーラムの端に着く頃には、羊毛が汗ばんだ背中にちくちくと当たり、痒くてたまらなくなっていた。肩はほとんど感覚がなく、のどは渇き切っていた。後のどこかにいる他の三人は大丈夫だろうか?

彼らはようやくシーザー宮殿の涼しい陰に入った。前にヴェスタの神殿がちらりと見えた。もうすぐ宮殿の丘を登り始めなければならない。最後まで脚が持ってくれればいいが。そう思ったとたん、彼のパートナーが坂に足をとられ、地面に片膝をついた。寝椅子が肩から滑り落ちそうになり、彼は必死でバランスを取り戻そうとしていた。群集は息を呑んだ。グラウクスは両手で寝椅子を掴み、自分の側を下げて重みがかかるようにして、パートナーに立ち直る時間を与えた。二人が同時に立ち上がると観衆は拍手した。グラウクスは思わず観衆に微笑みかけ…そのまま凍りついた。彼の目は、妹の怯えた青い目に釘付けになっていた。

マキシマの驚愕はたちまち心配に変わり、彼女は人ごみを押し分けて行列について行った。グラウクスは彼女を無視しようとしたが、彼に遅れまいとした彼女が飛び上がる度に黒髪が跳ね上がるのが見えた。兄の名を呼んだりしないように祈るばかりだった。

残りの行程は限りなく長く感じられた。困った事になった。彼の心は混乱していた。マキシマはどうするつもりだろう?彼女に何が出来るだろう?

宮殿の門をくぐる直前、彼は道の端に並ぶ人々をもう一度ちらりと見た。マキシマスはずっと少なくなった人ごみを押し分け、一番前に出ていた。彼女は手をぎゅっと握り締め、泣きそうな顔をしていた。

彼に出来るのは、少し微笑んでウインクを送ることだけだった。その後、彼は大理石のアーチ門に呑み込まれて行った。

 

その夕方、グラウクスと友人たちは他の召使たちと一緒に、宮殿の敷地内の別棟に分かれて収容された。彼とマリウスは同じ棟になり、階段の下に二つ並んで押しこまれたベッドを見つけた。

マリウスは爆発寸前という感じだった。「君の妹がいたぞ!見たか?」彼は急き込んで言った。

「ああ。マキシマの方も僕に気がついていた。」

「僕にも気づいてた。ひどく動揺していたみたいだ。彼女はどうすると思う?」

「母親とアポリナリウスに言うだろう。それ以外は、わからない。」

「結婚式に来るだろうか?」

「来ないだろう。ジュリアのところに招待状が来たとは思えない。ジュリアは解放奴隷だ。君は都合よく忘れてるみたいだけど。」

マリウスはこれを無視した。「ああ、彼女がどんなに美しいか忘れていたよ。いつもいつも彼女のことを考えているのに…夢にも見ているのに…忘れていた。」マリウスは少し黙っていて、その後静かに言った。「グラウクス、僕は彼女を愛してる。」

「一度会っただけじゃないか。」

「それで充分だよ。」

グラウクスは何と言ったらいいのかわからなかったので、頭の後ろで手を組んで横になり、顔のすぐ上にある傾いた天井を見つめた。今の状況では、結婚は不可能だ。彼は話題を変えた。「ブレヌスが大丈夫だといいけど。心配なんだ。」

「大丈夫だよ。昨日の行列で近くにいたけど、すばらしい冒険だと思っているみたいだ。」

「どんなに危険かわかってないんだ。」グラウクスはマリウスの方に身体を向け、肘をついた。「君たちはみんな、僕に協力することで危険にさらされている。もしかしたら…」

「言うなよ」マリウスが遮った。「乗りかけた船だ。最後まで見届けたい。」

「もし捕まったら、身を守るものは何もない。指輪と契約書の写しはユーゲニアのところだし、原本は神殿だ。」

「じゃあ、捕まらないようにしよう。」

「君の両親は明日の結婚式に来るのか?」

「ああ…僕はどこに行ったんだろうって思っているだろうな。」

「君を見られたらまずいな。」

「わかってる。どんな仕事をさせられると思う?」

「見当もつかないけど、おそらく裏方だろう。それなら、タイミングを見計らって抜け出せる。」グラウクスはあくびをして、痛む肩をなでた。「今日ルシアスとブレヌスが何を運んでいたか、知ってるか?」

「テーブルだ。むちゃくちゃ重そうだったな。こんな贅沢は見たことがない。やり過ぎだな。グラウクス…金づくめの服を着た男たちのこと、聞いたか?」

「ああ。」

「ローマ市民にあんな事をするのは違法だ。」

「プローティアヌスは自分で法律を書いてるみたいだ。セヴェルスも黙認している。結婚式がどんなことになるか、想像もつかないね。」グラウクスはまたあくびをした。「もう寝た方がいい。明日のために頭をすっきりさせておかないと。」

 

第72章 婚礼

翌朝、彼らは夜明け前に起こされ、食事を与えられ、今日の制服を渡された。東方風の流れるような長い白いチュニックで、金糸刺繍の太縞が縦に走っていた。麻の靴も支給された。身体を洗って服を着た召使たちは、オレンジ色の朝日の中、建物の外に整列した。ルシアスとブレヌスがいた。まぶたをぴくぴくさせている例の男も。

セテルクリヌスは背の低さを補うために木箱の上に立ち、全員が注目するまで手を叩いた。今日は両目が痙攣していた。「さあ、いよいよですよ!」彼は叫んだ。「今日こそ、待ちに待った偉大なる日!今日は何もかも完璧にするのよ。完璧に!一人一人が自分の仕事を完璧にこなさなくてはなりません!」

グラウクスは欠伸を噛み殺し、ブレヌスの方向に笑顔を送った。少年は微笑み返した。

男は全員が集中していないことを感じ取り、また手を叩いた。「さあ、披露宴でお客様にお仕えする召使はもう選ばれましたね。お前たちには二つの仕事があります。まず何人かは、大広間に並んで衛兵の手伝いをするのよ。花嫁のお道具をお客様にお見せする時、誰も何も…えーと、借りて行かないように見張るのです。他の者たちは掃除の仕上げ。次に、厨房からバンケット・ホールに料理を運びます。あとは給仕が配ります。それだけよ。簡単な仕事です。」

ルシアスとグラウクスの目が合った。彼らはバンケット・ホールに行くことになる。セヴェルスもプローティアヌスもマリウスの両親もバンケット・ホールに来るだろう。これはまずい。

セテルクリヌスは再び手を叩き、召使たちは宮殿に向かって歩き始めた。四人の共犯者は歩きながら少しずつ位置を替え、並んで歩き始めた。仕事につく場所が一緒になるといいのだが。四人は一緒になった。少し後、四人は後に手を組んで大広間の壁に並んで立っていた。大広間には嫁入り道具が整然と並べられ、広い部屋を埋め尽くしていた。ほどなく、正午に行なわれる結婚式の招待客が到着し始めた。披露宴はそのずっと後だ。

執政官、軍の幹部、主要な実業家が、身分に合った軍服やトーガを着て入って来た。その妻たちが一番上等な絹をまとい、ありったけの宝石に埋もれて、夫に続いた。夫婦たちは三々五々集り、旧友のように挨拶を交わしていた。妻たちは紅を塗った唇にわざとらしい微笑みを貼り付けたまま、他の女性のドレスに嘲笑の眼差しを送っていた。夫たちは同輩の冗談に大き過ぎる笑い声を上げた。自分の家の窓からは行列がよく見えず、街の人ごみに混じる気にもなれなかった人々は、ここで嫁入り道具をじっくり眺めていた。彼らは贅沢な品々の間を歩き回り、誉めそやしたり値踏みしたり、比較したりあらさがしをしたり、お互いの耳元に囁きを交し合った。あれは上物だろうか?これは本物かしら?

グラウクスは女性たちの色とりどりの髪と、その信じがたいようなヘアスタイルに魅了されていた。あっちをねじり、こっちをカールさせ、高々と結い上げてぴかぴか光る宝石をちりばめてある。彼はマキシマのやわらかい黒いウェーブと、クララの茶色のひっつめ髪を思い出した。この数週間で、クララのことを考えたのは初めてだった。彼女はどうしているだろうか?こんな贅沢を見たらどう思うだろう?昨日彼が運んでいた寝椅子だけの値段でも、彼女の1年分の食料が買えるだろう。二年分かもしれない。

10時ごろには、グラウクスも他の召使たちも足をもじもじと動かし、バランスと集中力をなんとか保とうとしていた。最初は興味深かったが、とっくに飽きてしまっていた。それにここは暑く、混んでいて、うるさかった。濃厚な香水の匂いが、うだるような空気を汚染していた。婦人たちは扇を広げ、化粧が流れ落ちないように扇いでいた。脇の下が黒いしみになっている女性も多かった。金と権力があっても、貧乏人と同じように、汗をかくのは避けられない。

突然、マリウスが息を呑むのが聞こえた。彼は頭を下げていた。「僕の親だ」彼はパニックを起こしかけた声で囁いた。「今着いたんだ。」

40代の夫婦が、真直ぐ謁見の間に向うのがちらりと見た。上品で洗練された、これ見よがしでない豊かさ、という印象だった。「こっちには来ないみたいだぞ。でも、頭は下げてろ」マリウスの両親がグラウクスの顔を知るはずもないのに、彼も頭を下げていた。

ずっとその姿勢だったので、彼らはヴェスタの巫女たちが伝統ある純白の衣装をまとって儀式の始まる直前に現れたのを見逃した。一人の実業家が、妻と四人の娘を連れて現れたのも見なかった。娘のうち三人は、興奮してくすくす笑いながら謁見の間に向った。四人目の娘−黒髪の美女−は少し遅れ、真剣な表情で辺りを見回していた。

合図でもあったように、大広間は空になり、夫婦たちは混雑した謁見の間に場所を取ろうと急いで行った。召使たちは大広間から出され、謁見の間に続く広い廊下の両側に並び、赤い薔薇の花びらを一掴みづつ渡された。マリウスとグラウクスは並んで、ペレスタイルの薔薇で覆われた柱の間に立っていた。「これは、いつか孫に話してやれるぞ」マリウスが囁き、グラウクスは笑いで窒息しそうになった。

ぱん、ぱんと手を叩く音がした。「花びらを握りつぶしちゃ駄目よ!」セテルクリヌスが廊下を行ったり来たりしながら言った。「つぶしたら、ふわっと落ちないからね。」小男は、今や顔中をぴくぴくさせていた。「花嫁が近くにいらっしゃるまで投げちゃ駄目。いらしたら、高ーく放り投げるの。こんな風に」彼は爪先立ちになり、空中で優雅に手首を曲げ、ひらりと手を振った。「ぎりぎりまで手を開かないこと。一番高いところで開くのよ。」何人かの熱心な召使が、花びらを落とさずにその仕草を練習しているのを見て、彼は満足げにうなずいた。ブレヌスもその一人だった。グラウクスは唇を噛んで笑いを押し殺した。にやにやでは収まらず、大声で笑い出してしまいそうだった。彼らは八角形の美しい噴水の近くに立っていた。噴水には薔薇の花輪が飾られ、グラウクスは水の音で囁き声が消されたのを感謝した。ブレヌスとルシアスは噴水の反対側、やはり飾りのついた円柱の間にいた。

喇叭が鳴り響き、結婚行進が始まった。廊下の端の暗がりから最初に現れたのはセプティミウス・セヴェルスだった。最高級の紫の絹に身を包み、まばゆい金の鎧を着けていた。従者が、翼を広げた黄金の巨大な鷲を彼の頭上にかざしていた。皇帝は目下の仕事に集中し、真直ぐ前を向いていたので、グラウクスは遠慮なく彼を観察することが出来た。黄金の月桂冠の下で、彼は厳しい顔をしていた。彼はよろめかずに歩く事に集中していた。わずかでも脚を引き摺ったりしたら、権力と威厳に傷がつく。若く立派に見えるように、髪と髭は染められ、巻かれ、ふくらませてあった。しかし、それはかえって皺だらけの疲れた顔を強調していた。それでも、彼には決然とした雰囲気がある。まだまだ危険な男だ。グラウクスはゲルマニア以来こんなに近くで彼を見たことがなかった。彼は思わず身震いした。

皇后ジュリア・ドムナは、手を夫の腕に軽く添えて隣を歩いていた。彼女も真直ぐ前を見ていた。美しい顔には、喜びではなく疲労が現れていた。彼女はゆっくりと、光から陰へ、円柱から円柱へと歩いていた。高く積み上げた巻毛の中にティアラが光り、ドレスは紫と青に輝いていた。

皇后が疲労困憊しているわけはすぐにわかった。二人の後を息子が行進して来た。若き花婿にして未来のローマ皇帝…彼の顔は不快そうに歪み、14歳とは思えぬほど老けて見えた。彼はほとんど父親と同じぐらいの背で、早くも腹の辺りに贅肉がついていた。パグ犬のような顔に浮かんだ表情から判断して、カラカラは結婚が嬉しくないようだ。彼はそれを遠慮なく顔に出していた。彼の両親にとっては試練の朝だったのだろう。

グラウクスはセヴェルスの二度目の妻、ジュリア・ドムナに同情した。彼女は古い王朝、エメサ家の末裔で、シリアで生まれた。野心あふれるセヴェルスは、彼女の星占いに「王と結婚する」と出ていたという理由で配偶者に選んだ。予言は大当たりだった。彼女は夫に二人の息子、カラカラとゲタをもたらし、男の後継ぎを生むという役割を果たした。教養のある彼女は文筆家や哲学者のパトロンになり、夫の富のかなりの部分を、ヴェスタ神殿などローマの神殿の復建に費やした。その功績が認められ、東方系の血筋にもかかわらず、彼女はローマの貴族社会に受け入れられていた。

少年の通った後、さらに角笛が鳴り響き、金に輝く宦官たちが二人づつ並んで歩いて来た。彼らは首と髪に花をつけていた。去勢された男たち−オリーブ色の肌で黒い瞳の、頭に油をつけた男たちは、従順に、優美な篭から薔薇の花びらを掴み上げ、空中高く放り投げて、父の腕につかまって歩いて来る花嫁のために花びらの絨毯を作った。

セヴェルスの頭上に鷲が掲げられていた理由がわかった。プローティアヌスは皇帝より豪華な服を着ていた。彼の鎧はセヴェルスの鎧より飾りが多く、宝石が散りばめられ、強い太陽の光を浴びてきらきらと光っていた。彼の服はとても暗い紫だったが、紫には変わりなかった。皇族のみに許されている色。彼は狡猾な顔に冷たい微笑みを貼り付けていた。グラウクスは驚いた。ゲルマニアで会った時から、何と言う変わり様だろう。彼は太り、たるんだ体型になっていた。鎧は以前の何倍も横幅が広くなっていた。二重顎が揺れ、頬は垂れていた。しかし、目はやはりプローティアヌスの目だった。薄い唇に微笑みを浮かべていても、目は冷たく、厳しく、悪意に満ちている。

娘の手は、父の肘の間にきつく挟まれて青くなっていた。彼は娘をほとんど引き摺るようにして廊下を歩いていた。彼女は尻込みしていた−無理やり結婚させられるようだ−彼女は父の隣を歩くのを拒否していた。サフラン色のヴェールと黄色の絹に覆われた肩に薔薇の花びらが降り注いだ。グラウクスも空中に花びらを投げたが、彼女は目もくれなかった。その目はガラスのように空ろだった。花嫁は彼の前を通り過ぎる時につまづき、その後もよろよろと歩いていた。宝石の重さでほとんど歩けないようだ。宝石は彼女の首に幾重にも巻かれ、ヴェールの下の耳にきらめき、手首と足首と腰も飾っていた。彼女が白を着ていたとしたら、花嫁と言うよりも、堕落したヴェスタの巫女が処刑場に引かれる所に似ていただろう。

彼女の後には花飾りをつけた侍女たちが続いたが、グラウクスは哀れな娘を目で追っていた。謁見の間から歓声が起こった。「花嫁だ!花嫁だ!」彼女はもう終わりだ…父親の野心の生贄になるのだ。こんなに憂鬱な結婚行進は初めて見た。

しかし、結婚式が始まったと言う事は、皇族のアパートメントが空になったと言う事だ。ルシアスも同じ事を考えたらしく、その方向に頭を振っていた。その後のどさくさで、四人がいなくなった事は気づかれもしなかった。

 

第73章 予期せぬ客

「こっちからは入れないようだな」廊下の角の向こうを覗いたルシアスががっかりした声で言った。ブロンズの扉は閂が掛けられ、衛兵が見張っていた。

「なぜまだ衛兵がいるんでしょう?皇族は全員、結婚式に出ている筈でしょう?」グラウクスが囁いた。

ぱん!ぱん!

四人の男は、背後の鋭い音にびっくりして飛びあがった。

「あんたたち、迷子になったの?」顔をぴくぴくさせている男が皮肉たっぷりに言った。「おいで!結婚式の間に披露宴の準備をしなくちゃ。こっちよ。全員、仕事があるんだからね。」

四人は叱られた小学生のようにセテルクリヌスについてバンケット・ルームに入った。ルシアス以外の三人は度肝を抜かれて立ち止まった。その豪華さは想像を絶していた。バンケット・ルームは、二面が仕切りなく庭に続いていて、そよ風が吹き込み、噴水の音が聞こえ、白大理石に反射して二倍になった千の蝋燭の光にきらめいていた。白い薔薇が黄金の円柱を飾り、大理石の台座の上の大きな花瓶に生けられて並んでいた。部屋全体が薔薇の香りだった。巨大な宴会場とその庭園には、千人以上の人間の席が設けられていた。低いテーブルの周りに客の座るカウチがぎっしりと並べられている。カウチの横には、未婚女性や子供たちのためのスツールが置かれていた。席の並びは、皇族の座る場所の近くはかなりゆったりしていたが、そこから遠くなるほど混み合っていた。新郎新婦から遠ければ遠いほど、政治的重要性も低いと言うわけだ。

ぱん!ぱん!

グラウクスはこの癇に障る男を殴ってやりたくなった。

敵意を感じ取ったように、セテルクリヌスはグラウクスの方を見た。「お前の仕事は、全てのカウチがテーブルから等距離にあるかどうか確認する事よ。拳を握って、こんな風に。」セテルクリヌスは手本を見せた。「カウチの端が、テーブルの端からちょうど拳四つ分のところに来るようにするのよ。」

グラウクスは彼の拳と自分の拳を見比べた。ずい分大きさに差があるような気がしたが、それを指摘する気にはなれなかった。彼はにっこりしてうなずいた。早く他の召使のところへ行ってくれ。

イオ、ヒュメン、ヒュメニウス…」伝統的な婚礼の賛美歌が謁見の間から聞こえた。

他の三人は、カウチとテーブルの位置を忙しく調整し始めた。「ルシアス、これからどうします?」マリウスが訊いた。

「披露宴が始まればチャンスがあるだろう。乾杯が始まって酒がまわるのを待とう。その後、歌と余興が始まる。その時になったら、気づかれずに動けるだろう。」

「シ・タメン・エ・ノブリス・アリキド・ニシ・ノメン・エ・ウンブラ
レスタ、イン・エリジア・ヴァレ・ティブルス・エリ
オブヴィウス・ヒュイク・ヴェニアス・ヘデラ・イウヴェナリア・チンクトス
テンポラ・カム・カルヴォ、ドクテ・カテュール、テュオ…」

「あと少しでこっちに来るみたいだな」マリウスが言った。「このソファをさっさと片付けて、出て行こう。親に顔を見られちまう。」

それが合図だったように、小男が戻って来た。「よくできました」四人はほんの一部のソファにしかさわっていなかったにもかかわらず、彼はそう言った。女性の召使の列が彼の後に続いていた。彼は女性たちに、テーブルの横のクッションにひざまづいて給仕の用意をするように指示した。他の男の召使たちが入って来て、部屋の周囲に並んだ。グラウクス、マリウス、ルシアス、ブレヌスの四人も並ぶように言われた。

ぱん!ぱん!「男の召使は、ご婦人客が座る時に手をお貸しするのよ。その後、私の合図ですぐに厨房に行って、ここにいる給仕に料理を運ぶこと。」角笛が鳴った。小男はぴくりとして、手を叩いた。「さあ、さあ、準備はいいわね?位置について!」

グラウクスの左側に立っているマリウスが、うろたえた顔で彼を見た。隠れる所はない。

「君には気づかないだろう」グラウクスは彼を安心させようとした。「ここは人でいっぱいになるんだから。召使の顔なんて見ないだろう。」

そう言い終わると同時に、宦官たちが二列縦隊で部屋に入って来て、新郎新婦の席の後に向かった。一晩中、黄金の彫像のように二人の背後に立つのだ。花嫁と花婿が続いた。花嫁は明らかに泣いていたようだ。彼女は夫の横をぎこちなく歩いていた。夫は彼女に触れようとも、見ようともしなかった。二人は花に飾られた、豪華な彫刻のついた金色のカウチに導かれた。花嫁は、ぎこちなく座り、身体を固くしたままカウチの背にもたれた。しかしカラカラは彼女の隣に座るのを拒否し、他のカウチにつかつかと歩いていってどっかりと腰を降ろし、反抗的に腕を組んだ。その後、皇帝と皇后が来た。二人は周囲には目もくれず、真直ぐ席に向かった。セヴェルスは息子の腕をやさしく掴み、静かな声で説得したが、少年は動こうとしなかった。皇后は両手を握り合わせて懇願したが、駄目だった。プローティアヌスとその妻は子供たちを無視して、顔に微笑みを凍りつかせたまま自分たちの席に座った。

招待客たちがその後に続いた。結婚の困難に関しては身につまされている夫婦たちは、黙ったまま席につき、天気や花について礼儀正しく喋り始めた−先程目撃した結婚式以外の話題なら、何でもいい。客が次々に席に案内され、広間は活気に満ちてきた。マリウスの両親は部屋の反対側、新郎新婦の席からはかなり離れた所に座り、マリウスはほっとした。

グラウクスの右腕に何かがぶつかった。彼は無視した。もう一度、今度はもっと強く、腕を叩かれた。「ローマに帰って来たのに、どうして連絡をくれないのよ?」耳元で女性の声がした。

グラウクスは振り返り、呆然とした。どうしてマキシマがここにいるんだ?どうやって入ったんだろう?

心を読んでいたように、彼女は説明した。「ママの仕事の知り合いと一緒に来たの。娘がいっぱいいる人で、一人がたまたま病気になったの。それで、代わりに来ていいって。大急ぎでいろいろ手配したのよ、兄さん。」

「君を巻き込みたくなかったんだ」グラウクスはうろたえ気味にそう囁いた。客と召使が囁き合っているのに、誰も気づいていなければいいが。

「もう巻き込まれちゃったわ。」

「席につけよ、マキシマ。気づかれてしまう」

「話があるの」

「今はだめだ」

「今話したいのよ」彼女はねばった。

グラウクスは誰と話しているんだ?マリウスは友人の前を覗き込んだ。「マキシマ!」一瞬自分がどこにいるのか忘れて、彼は叫んだ。

「マリウス!」マキシマは責めるように言った。「ローマに帰ったらすぐ連絡くれるって言ったじゃない!」

これはまずい。他の召使たちがじろじろ見ている。客は気づいていないようだが…少なくとも、今のところは。「後で庭で話そう。すぐに抜け出す。」グラウクスが急いで言った。

彼女は鼻に皺を寄せて二人をにらみつけ、二人の横を通って、窓から日の当たる庭へ出て行った。マリウスは彼女から目を離すことが出来なかった。ほっそりした身体は輝く絹に包まれていた。薄紅のかかった白薔薇の蕾の色だった。小さなエメラルドを散りばめた細い金のネックレスがエレガントな首を彩り、同じ宝石が耳を飾っていた。黒髪は高く結い上げられ、金のカチューシャで留めてあり、柔らかいウェーブが背中に流れ落ちていた。後れ毛が額を彩り、耳の前にもやさしく垂れていた。彼はため息をついて、部屋の他の女性を見回した。彼女が一番美しい。比較にならない。

最後の客が席につき、騒ぎはおさまりつつあった。男の召使は部屋を出ろという合図があった。グラウクスとマリウスは頭を下げたまま他の召使について廊下に出た。グラウクスは列を抜け出し、反対側に歩き始めた。マリウスがすぐ後をついて来た。彼は立ち止まった。「マリウス、君は来ないでくれ。妹には僕一人で話す。厨房へ行って、ルシアスとブレヌスに事情を説明してくれ。すぐ行く。」

マリウスは渋々従った。「気をつけろよ」彼はそう言って、男の召使たちの列に戻った。

妹はイチイの生垣の横に立っていた。彼は妹の腕を掴み、生垣の陰に引っ張っていった。落ち着きのない客や、まだ席を探している客が庭をうろうろしていた。「黙って聞いてくれ」彼は囁いた。「父さんの遺灰壺が宮殿の中にあるんだ。手に入れるつもりだ。それで、この結婚式を利用しているんだ。」

「遺灰壺ですって?」彼女の目が丸くなった。「ここに埋葬されてるの?」

「そうじゃないけど、説明している暇はないんだ。披露宴が始まったら、僕たちは皇族のアパートメントに侵入する。そこにあるんだ。」

「僕たちって、兄さんとマリウスのことね。」

「それにブレヌスとルシアス・ヴァレスだ。」

「ルシアス・ヴァレスが一緒にいるの?」マキシマが叫んだ。

グラウクスはうなずき、辺りを見回した。生垣の向こうで、客たちがお喋りをしている。

「どうやるの?」彼女は興味津々で囁いた。

「まだわからない。」

「手伝うわ。」

「絶対だめだ。危険過ぎる。ここで話しているのだって、見られたらまずいんだ。僕が捕まった時、君と繋がりがあるのを知られたらまずい。」

マキシマは彼の言葉をよく考えた。「グラウクス」彼女は言った。「これを持って来たの。必要になるかもしれないわ。」彼女は親指からマルクス・アウレリウスの玉璽の指輪を外した。

「どうやってこれを?」グラウクスは驚いて訊いた。

「昨日の行列の後、すぐ家に帰ってママに話したの。兄さんがユーゲニアのところに泊まっているんじゃないかって、ママはすぐに思いついたわ。兄さんの荷物を探して、指輪を見つけたの。持っていて。必要になるかもしれないわ。」

「だめだ。ポケットがないんだ。指にはめておくわけにはいかない。目立ち過ぎる。君が持っていてくれ。」

「それじゃ役に立たないわ。」

「マキシマ、頼む…そうしてくれ。」

彼女は必要以上の力をこめて指輪を親指に押し戻した。

グラウクスは小声で続けた。「僕は、今日はずっと君の見えるところにいると思う。無視するようにしてくれ。頼む。僕が目をつけられたら、セヴェルスとプローティアヌスに正体がばれてしまって、すぐに殺されるだろう。約束してくれ。」

彼女はうなずき、彼の頬にキスをした。「私が必要になったらいつでも呼んでね。愛してるわ、兄さん。」

「僕も愛しているよ。」

彼は妹の額にキスをした。彼女は生垣の後から突然現れ、驚いている招待客たちに目も眩むような微笑みをふりまいて、ちょっと新鮮な空気を吸いに行っただけ、と言うようにさりげなく席に戻った。

グラウクスはそのまま少し待ち、生垣の向こうの客たちが今の美女は誰だろう、と話しているのを聞いていた。また、角笛が鳴り響いた。全員の注目が新郎新婦に集まった。グラウクスはこっそり生垣を出て宴会場に忍び込み、厨房に向かった。男の召使たちは、忙しい料理人の邪魔をしないように廊下に集まっていた。召使は山ほどいるのに、顔を引きつらせた男は彼に目をつけた。彼は腰に手を当てて、「あんたは一体どこへ行ってたのよ?」と訊いた。

グラウクスは恥ずかしがっているように肩をすくめて、「トイレです」と答えた。

 

第74章 披露宴

それからの三時間、厨房とバンケット・ホールの間の廊下には、客に料理を持って行く召使の列と、汚れた食器を持って帰る列が長く伸び、たいへんな騒ぎになった。グラウクスは召使としての仕事に忙殺されて他の事を考えている余裕がなくなってしまった。他の三人とすれ違っても気づきもしなかった。目の回るほど忙しい湯気だらけの厨房や、お喋りとグラスと食器の音が溢れるバンケット・ホールに比べれば、廊下は比較的静かでほっとする場所だった。

グラウクスの担当するテーブルは、ホール後方のニ本の円柱の間に置かれていた。法務官とその妻、礼装を身につけた引退した将軍とその妻と息子、東方から貴重な香辛料や香料を輸入している裕福な実業家、その妻と二人の娘。その隣のテーブルには、マキシマが実業家の『父親』の未婚の娘たちに混ざって大人しく座っている。彼女は兄が近くにいるのを痛いほど意識していた。庭の大きな縞模様の日除けの下のテーブルを担当しているマリウスのことも。しかし、マキシマはほとんど下を向いたまま、話しかけられた時以外は黙っていた。どちらにしても、若い未婚女性はそうするしきたりなのだ。ひっきりなしに親指の指輪をひねる仕草だけが、内心の心配を物語っていた。

行ったり来りを百回も繰り返したかと思われた後、グラウクスは廊下の壁にもたれて麻の袖で額の汗を拭いた。暑く、疲れる仕事だったが、テーブルの横の若い女性の召使よりましだ。彼女たちは床に座って、客のために料理を皿に盛ったり、一口サイズに切ったりしなければならないのだ。コースの合間には、べたべたの指を濡れたナプキンで辛抱強く拭いた。もちろん、料理人とその助手たちの苦しみとは比べものにならない。気の毒に、彼らは燃えるかまどと火格子のすぐそばで働かなくてはならないのだ。既に何人か気を失って、涼しい草の上に運び出されていた。

招待客も同じようなものだった。何人かの婦人は、隣に設けられた休憩室で休んでいた。ぷんぷん匂う入り混じった香水やきついスパイス、甘い花の香り、料理の保温器の湯気、部屋じゅうに配置された香炉でもごまかし切れない千人分の体臭…生のままのカエクバン・ワインを飲みすぎた人の発するにおい。

マキシマはナプキンで顔を扇ぎながら林檎ジュースをすすり、前に置かれた料理をちょっとづつつまんだ。失礼な事はしたくなかったが、考えただけで胃がひっくり返りそうだった…仔牛のタンのフェネル・クリーム煮、アーティチョークの辛酢漬、雲丹のスパイスソース、スモークレバーのソーセージ、カレイのアスピック…これでも、前菜の一部に過ぎないのだ。メイン・ディッシュからは文字通り顔を背けなければならなかった−白鳥のローストの蜂蜜ソース、卵とヘンルーダを添えたエソ、詰め物をした雌豚の乳房、フルーツソースで煮たネズミイルカとウサギの燻製。焼いた鶏肉や牛肉、蟹や魚、詰め物をした野鳥や豚の甘酢煮といった伝統的な料理さえ、今日は食べる気がしなかった。彼女は心配のあまり、薄切り野菜のヴィネグレットソース添えや詰め物をしたオリーブ、焼き立ての甘いパン位しか手をつける気になれなかった。

花嫁も同じ気持ちらしい、とマキシマは思った。花嫁は前に置かれた料理をすべて拒否し、溺れかけた女が命綱を掴むようにワインのゴブレットを掴んでいた。彼女は頻繁に席を外した。その度に、心配に蒼ざめたお付きがぞろぞろとついて行った。おそらく、がぶ飲みしたワインを吐きに行っているのだろう。帰ってくる度に、彼女の顔は緑色になっていった。酔っ払いたくなるのも無理はない、とマキシマは思った。結婚したばかりの夫は、高座の一番離れた所に座っていた。この距離からでも、彼が花嫁を憎らしそうに睨みつけるのが見えた。花嫁は、今夜の事が恐ろしくてたまらないに違いない。父親は助けてくれない。プローティアヌスは万力のような力で娘の腕を掴み、耳元に厳しい言葉を囁いていた。彼女は縮み上がり、何とか父親から逃げようとしたが、その度に容赦なく引き戻された。花嫁の母は凍りついたように席にじっと座ったままだった。目は後の壁を見つめていた。まるで、どこか他のところにいるふりをしようとしているように。

マキシマは兄を探した。彼は、鉢植えの椰子に隠して壁に並べてある大きなアンフォラからテーブルの小さなアンフォラにワインを注いでいるところだった。彼は高座に背中を向けているよう気をつけていたが、それでも、彼のような体型の男性には珍しい流れるような優雅な動作で動いていた。彼女はグラウクスのような兄を与えてくれたことを神々に感謝した−今日だけでもう百回目ぐらいだろう。それに、兄の可愛い友達、マリウスのことも。マリウスは、急ぎ足で庭から廊下へ歩いて行く時ぐらいしか姿が見えなかった。なぜか兄よりも落ち着かない様子だった。ブレヌスは…可哀想に、ずいぶん苦労している。何をどうしていいのかさっぱりわからないらしく、他の召使の真似をしようとじっと見つめては、神経質そうな小男に動きがのろいと叱られている。年若い友人は汚れた皿が高く積み上げられた盆を持ち上げ、何とか肩に乗せようとしていた。一歩前に踏み出したとたん、彼はうつぶせにばったりと倒れ、皿とその上の残飯が招待客たちの上にぶちまけられた。客たちが呆然と見守る中、皿と盆は大理石の床を音高く転がって行った。

大声のお喋りをも飲み込むような大音響に、部屋中が凍りついた。カーテンの向こうの横笛と竪琴の奏者たちさえ、この混乱を予定外の休憩を取るチャンスとして利用した。マキシマはショックのあまり、口に手を当てて立ち上がり、思わず彼を助けに行こうとした。グラウクスが彼女に追いつき、無作法に体で彼女の行手を阻んだ。「席に戻れ」彼は囁いた。「僕が何とかする。」彼女は数歩後ずさりしたが、背後に集まった野次馬に阻まれてそれ以上下がれなかった。グラウクスはその場を仕切り、汚れたところを掃除する係、料理をぶちまけられて怒ったいる客を宥める係を割り当てた。マキシマは感心しながら−誇らしく思いながら−兄を見つめていた。彼はカウチの下から飛び出して事故の原因になった女性のサンダルを拾い上げた。持ち主の女性は彼の深い優しい声にうっとりして、自分の不注意だったと謝らんばかりだった。興奮はすぐに静まった。客たちは散り、グラウクスは震えているブレヌスを廊下へ連れ出した。

セテルクリヌスが二人の所へ来た。彼はエリニュスの三人姉妹(復讐の女神)を合わせたように怒り狂っていた。グラウクスは壁にもたれているブレヌスをおいて、小男の前に顔と顔を…いや、顔と胸をつき合わせて立ちはだかった。スペインの若者は、彼を見下ろして睨んだ。「放っておけ、セテルクリヌス。ただの事故だ。」

「事故?事故ですって?ロイヤル・ウェディングに事故なんて起こっちゃいけないのよ!恥を知りなさい!」セテルクリヌスは、少年に近づこうとする度に邪魔をするグラウクスの横からブレヌスに向かって怒鳴った。「厨房へ行きなさい!あんたには犬の給仕も任せられない!」ブレヌスがこそこそと去ると、セテルクリヌスは怒りをグラウクスに向けた。「それからあんた!ずいぶん自信たっぷりのようだから、自分のテーブルと彼のテーブル、両方面倒見られるでしょうね。どっちのテーブルのお客からも、苦情は聞きたくないからね!」

グラウクスは肩をすくめた。あとはデザートだけだ。なんとかなるだろう。その後は、スピーチと若い二人に幸福と子宝を祈る乾杯が続く。ほろ酔いの客たちは、皇帝の健康と長寿を祈ってゴブレットを挙げるだろう。それにつき合うつもりはない。

ブレヌスのつまづいたサンダルの持ち主は、グラウクスが自分のテーブルの担当になったのを喜び、彼を横目で見て艶然と微笑んだ。みんなかなり酔っ払っている。彼女の横を通る度に、グラウクスは薄いチュニック越しに指が尻を撫でるのを感じた。水差しとアンフォラは一杯になり、グラウクスは元のテーブルに戻って飲物を補充した。マリウスと目が合い、彼はうなずいた。二人は厨房に向かった。ルシアスがその後に続いた。ルシアスは高座に近いテーブルを割り当てられ、息をつく余裕もなく仕事をこなしながら二人をちらちらと見ていた。不幸な様子をあからさまに見せている新郎新婦だけが、二人の両親の目を客や召使からそらしてくれていた。

厨房では、ブレヌスが不機嫌そうに糖蜜とナッツのケーキを大皿に並べていた。皿には既に、シロップをかけた果物や凝った菓子パン、果物とカスタードのタルトなどが並んでいた。グラウクスは杏のシロップがけを口に放りこみ、やさしくブレヌスの腕を取った。二人はルシアスとマリウスに続いて、まだ熱い竈やフライパン、黒づんだ大鍋や丸型の天火の横を抜けて厨房の後へ出た。

バンケット・ホールからは「フェリシテール(幸福を)!」という声が聞こえ、四人は簡素な木のドアを抜けて、気持ちの良い涼しいところに出た。ルシアスは何も言わずに、三人を連れて長い、狭い通路を歩いて行った。小さな窓が等間隔で並び、そこから射す日が唯一の明かりだった。彼らは暗い階段を降り、ルシアスがドアを細く開けて廊下を偵察する間、身を寄せ合ってそこに立っていた。彼は三人を手招きした。彼らは広い、明るい廊下に出た。

「ここはどこです?」グラウクスが押し殺した声で訊いた。

ルシアスはにやりとした。「あのブロンズのドアの向こう側さ。」彼は首を振って三人に進むように合図し、反対側に曲がった。「ついて来なさい。もう少しだ。」彼らの柔らかい靴は大理石の床にまったく足音を立てなかったが、それでも四人は忍び足で歩いた。ルシアスは廊下の端、複雑な幾何学模様の彫刻のついた重々しい木のドアで立ち止まった。彼はブロンズのノブを廻し、そっとドアを開けた。ドアは音もなく開いた。彼は深呼吸し、足を踏み入れ−急に立ち止まった。

グラウクスの心臓が咽喉まで飛び上がった。「何ですか?ルシアス、どうしたんです?」

「違っている。まるで違っている。」彼は居間に入り、三人も続いた。

「何が違っているんです?」グラウクスはルシアスの隣に行きながら訊いた。

「壁も、家具も…」

「壁が動かされているんですか?」マリウスは途惑っていた。

「いや…そうじゃないだろう。塗り替えられているだけだ。壁画がまるで違っている。色も。家具も全然違う…場所も違う。」

「まあ、二十年も経てばいろいろ変わりますよね」マリウスが現実的なことを言った。

「ショックですか?」ルシアスの表情に悲嘆の色を探しながら、グラウクスが言った。

「いや、別に。分かりにくくなっているだけだ。」彼は肩をすくめた。「どっちにしろ、この部屋じゃないんだ。寝室はあのドアの向こうだ。」

しかし、その部屋も変わっていた。ルシアスは方向がわからなくなっているようだった。

「ルシアス、どの壁ですか?」グラウクスは見回しながら訊いた。彼は部屋の真中の高い台座にのせられているベッドに目をとめた。ベッドには花びらが敷き詰められ、四隅の柱には薔薇とスミレの花輪が飾られていた。床にもベッドにも、ナッツや穀物や乾し葡萄がばらまかれていた。「しまった」彼は言った。

「何だ?どうしたんだ?」マリウスが訊きながらベッドを見た。「しまった」彼も言った。

「新婚用のベッドだ」ルシアスが言った。彼は深呼吸した。「と言う事は、あまり時間がない。」彼はゆっくりと部屋を一周した。「多分、あの壁だ。」彼は指差して言った。「彫刻と壁画で覚えていたんだが、彫刻はなくなっているし、壁画は騙し絵から庭園風景に変わっている。」

「壁のどのへんか覚えていますか?」指を漆喰に軽く滑らせながら、マリウスが訊いた。

「隅のあたりだと思う」彼はうろたえて手を上げた。「すまない、グラウクス。大昔の話なんだ。」

「大丈夫ですよ」グラウクスが言った。「きっと見つかります。マリウス、君はそっちの端から、ルシアス、あなたは反対側から、ブレヌスと僕は真中から始めて、探して行きましょう。ゆっくりと。縦に隙間のある所を…壁に割れ目がありそうな所を探すんです。」四人はゆっくり注意深く壁を辿ったが、お互いの指がぶつかるまで何も見つけられず、がっかりした顔を見合わせた。「もう一度やろう。今度はもっとゆっくり。場所を交換しよう。」グラウクスが提案した。もう一度試みたが、やはりだめだった。「壁画を描き直した時に隙間は埋まってしまたのかも知れない。その前に漆喰を塗りなおしたかもしれない。」

どこか遠くでドアを叩く音がして、四人は息を止めた。しばらく耳を澄ませていた後、グラウクスが言った。「ルシアス、隠し部屋のドアはどうやって開くんですか?」

「えーと…まず押して、それから横にずらすんだったと思う。」

「それじゃあ、壁を押して、横にずれるかどうかやってみよう。」グラウクスが言い、マリウスがうなずいた。「二人が力を合わせた方がいいだろう。マリウス、手伝ってくれ。ルシアス、あなたとブレヌスはどいていて下さい。」

グラウクスとマリウスは壁をそっと押しながらゆっくり辿って行った。

反応なし。

「もう一度、もっと強くやってみよう」グラウクスは額の汗を拭いた。一瞬後、彼は叫んだ。「動いた!何か動いたぞ!手を貸してくれ。」

ルシアスとブレヌスは壁に肩をぶつけた。突然、漆喰にひびが入って崩れ、ほとんど分からないような細い縦の隙間が現れた。四人は必死で、残りの漆喰を爪で剥がした。狭い割れ目が姿を現した。埃に少し咳き込みながら、グラウクスが言った。「よし、横にずらそう。全員で。押して、横にずらすんだ。」

一瞬後、マリウスが叫んだ。「おい、少し動いたんじゃないか?」

グラウクスは隙間を調べた。ほんの少しだけ広くなっていた。「もう一度」彼は言った。壁がみしみしと音を立てながら横に動くと、色を塗った漆喰が四人の上に降り注いだ。

「それでいい!それで通れる。」グラウクスは興奮と疲労に息を弾ませながら言った。「何とか通れる。」彼は胸一杯に息を吸いこみ、出来るだけゆっくりと吐き出し…身体を横にして隙間をすり抜けた。中は狭く、暗かった。部屋から漏れる明かりだけだった。しかし、目の前の大理石の台座の上に、美しい黄金の壺がやわらかい光を発していた。この黄金に光が当たるのは20年ぶりなのだ。黄金に浮き彫りになっている鷲の模様が見えた。琥珀の目が光っている。彼は膝をつき、暗闇を見上げた。「父さん…聞こえるでしょう?一緒にスペインへ帰りましょう…あなたの故郷へ。」彼は目を開けた。涙で霞んだ視界の中に、マキシマスの革の鎧が見えた。それは彼の膝の横に、台座に立て掛けられていた。その横には、金箔飾りと彫刻を施した小さなマホガニーの戸棚があった。

「グラウクス?」

「ああ…ああ、ここにある。全部ここにある。」感激にかすれた声で、グラウクスは答えた。

「私も入りたい」ルシアスが言った。「もう少し開けて光を入れよう。」壁を何度か押した後、彼とマリウスとブレヌスは身体をくっつけあって隠し部屋に立っていた。

グラウクスは鎧を持って立ち上がった。「これがその鎧ですか?父が亡くなった時に着けていたものですか?」

「ああ。」ルシアスが言った。「この馬は覚えている。」彼は目を上げた。「壺もあるね。」

「あなたが言った通りの場所にありました。ありがとう、ルシアス。」グラウクスは囁いた。「ほら、ブレヌス、鎧を持ってくれ。」
グラウクスは壺の方を向いた。
「パルヴィナール・ウェーロ・ゲニアール・ロカトゥール
セディバス・イン・メディイス、インドゥー・クォド・デンテ・ポリタム
ティンクタ・テギト・ロゼオ・コンキリス・プルピューラ・フーコ!」

ルシアスは凍りついた。

「何ですか、あの歌?」ブレヌスが訊いた。

突然、女性の悲鳴が空気を引き裂いた。部屋の中に誰かいる。

 

第75章 追いつめられて

四人は恐怖に固まった。全員が隠し部屋の中にいたので、外の部屋に結婚行列が近づいてくる音に最後の最後まで気づかなかったのだ。

花嫁がまた悲鳴を上げ、その父親の驚いた顔が隠し部屋の入口に現れた。「何だ?泥棒か?泥棒がいたのか?」彼は振り返って怒鳴った。「衛兵を呼べ!」彼は一歩下がり、侵入者たちに向かって怒鳴った。「さあ、出て来い!」

グラウクスは友達に動かないように合図し、背筋をしゃんと伸ばして光の中に踏み出した。何も持たず、武器はないという印に手を上げてた。

「貴様か!」プローティアヌスが叫んだ。娘のヒステリックな声とそっくりになっていた。

グラウクスは彼の紫色の顔を無視して、同じく呆然としている皇帝の目を真直ぐ見つめた。彼の妻、ジュリア・ドムナは今にも気絶しそうな顔をしていた。花嫁は既に気を失っていた。カラカラは新婚の夜に予期せぬ邪魔が入った事に大喜びし、混乱に乗じて逃げ出していた。後には、驚愕の表情を顔に貼りつけた招待客たちが、騒ぎの元を見ようと押し合い、広い寝室に入って来ていた。武装した衛兵たちが客をかき分けて部屋に駆け込んで来た。

「帝国中、貴様を探し回ったのに、よりにもよってここで会うとは!捕らえろ!」プローティアヌスが命令した。グラウクスは荒っぽく手を掴まれ、背中に捩り上げられた。プローティアヌスは三人目の衛兵から剣を取り上げ、囚人の前に振りかざしながら皇帝に言った。「言っただろう、セプティミウス…こいつはさっさと殺した方がいいと。さて…お許し頂けますかな?」

「だめだ。剣を下ろせ」セヴェルスが命令した。その声は冷静で、目には怒りが浮かんでいるものの、感情をコントロールしていた。「彼は降伏した。」彼は隠し部屋の方を見た。「中にいるのは誰だ?」

「全員外に出ろ!」プローティアヌスは暗い入口に剣を向けて怒鳴った。マリウスとルシアスが寝室に出て来た。二人は衛兵に腕を掴まれ、部屋の中央に荒っぽく突き飛ばされてよろめいた。

「ルシアス・ヴァレス?」セヴェルスは驚きに息を呑んだ。「ルシアス・ヴァレス?ここで何をしている?」

「まだ誰かいるぞ」プローティアヌスが言い、ブレヌスを引っ張り出して部屋の中へ突き飛ばした。少年はよろめき、新婚ベッドの薔薇の花びらのなかへ頭から突っ込んだ。

セヴェルスは紫の絹を翻して振り返った。「そいつらを追い出せ」彼は命令した。招待客が次々と部屋に入ってきて、今日一番の傑作になるかもしれない出し物を見ようと押し合いへし合いしていた。衛兵が近づくと彼らは散らばったが、空いた所にまた人が入って来た。

「何故?」グラウクスが大声で言った。「見られるとまずい事でもあるんですか?」

「この生意気な小僧め」プローティアヌスが唸り、囚人を手の甲で殴りつけた。グラウクスの顎に、近衛隊長の指輪の傷がついた。

「それぐらいにしておけ!」怒り心頭の近衛隊長にそう命令しながら、セヴェルスは動こうとしない客たちをちらりと見た。「調査の必要がある」彼は暗い入口に歩み寄った。「ほう…こんなものがあることも知らなかった。」彼はグラウクスの方を振り返って眉を吊り上げた。「お前は知っていた。ここに来るために、ずいぶん危ない橋を渡ったようだな。」彼はくすりと笑った。「まさか、特定の書類を探しているわけではあるまいな?」セヴェルスは暗闇に頭を突っ込んだ。

「いや…それはもう持っている」グラウクスが平然と答えた。

皇帝はぱっと振り返り、顔を真っ赤にした。「やっぱり!どこにある?」

「安全な場所だ…皇帝でも手の届かない所だ。」グラウクスは首を流れ落ちる生温かい血の滴りを無視して言った。

「嘘をつけ。お前が命がけで取りに来るようなものが、あれ以外にあるか?」セヴェルスは隠し部屋に消えた。「松明!」彼は外に怒鳴った。「松明を持って来い!」彼の伸ばした手に、すぐに松明が置かれた。突然、彼の笑い声が小さな部屋に響き渡り、寝室に漏れた。群集は混乱と興奮に顔を見合わせ、静かな声で色々な憶測を囁きあっていた。あのミステリアスな小さな部屋に、何があるのだろう?あの若者は何者だろう?

セヴェルスはまだ笑いながら明るい所へ出て来た。「何と、彼はずっとここにいたのか。私の家の中に!ふむ…誰があの壺をここに置いた?」彼はルシアスに近づいた。「ルシアス、ここは誰の寝室だった?君の母親か?」

ルシアスはうなずいた。

「ほう、死んだ後でさえ、恋人と別れられなかったか?」皇帝は薄笑いを浮かべた。ルシアスは無表情だった。小麦を吹き抜ける夏の風のように、群集を囁きが通り抜けた。

「探せ」セヴェルスの命令に、二人の衛兵が飛んで来た。

「契約書はそこにはない」グラウクスが言った。プローティアヌスの剣が咽喉を突き、彼は息を呑んだ。

「この目で確認したいだけだ」セヴェルスは答えた。

「契約書?契約書?」招待客の間を囁きがさざ波のように駆け抜けた。

二人の衛兵はすぐに出て来た。「壺がありました」一人が言った。「あと鎧と、小さい戸棚です、陛下。革の包みもありました。」

セヴェルスは勝ち誇った笑みを浮かべてグラウクスに顔を近づけた。ワインと玉ねぎとニンニクの入り混じった臭いに、若者は思わずひるんだ。「その包みを持って来い」セヴェルスは勝ち誇って叫び、衛兵に向かって怒鳴った。「客を出て行かせろ!個人的な問題だ!」

執政官や元老院議員、法務官や総督たちは目を伏せ、命令に従い始めたが、ドアの前に立っている引退した将軍は腕を組み、頑として動こうとしなかった。 .彼の周りの他の将軍たちも同じようにし、軍人の壁が出来た。衛兵たちはたじろぎ、助けを求めて皇帝の方を見た。

セヴェルスは歯噛みしたが、これ以上軍を敵に回したくなかった。彼は包みを受け取り、手早く皮紐をほどいて羊皮紙を広げた。皇帝は望みのものを探して書類束をひっくりかえした。彼が必死で探している契約書。彼はここで全てにけりをつけるつもりだった。マルクス・アウレリウスの最期の望みを永久に葬るつもりだった…しかし、なかった。彼はかっとなり、子供じみた癇癪を丸出しにして書類を床に投げつけ、踏みつけ、蹴り飛ばした。

ルシアスは散らばった書類の中の母の筆跡に目をとめた。何だろう?手紙?

「もう沢山だ」プローティアヌスがうなった。「テュリアン刑務所へ連れて行け」彼は衛兵たちに命令した。「そこで始末する。」衛兵たちは囚人たちを縛り、連れて行こうとした。

「おや、今ここで決着をつけるべきだと思いますわ」女性の声がした。セヴェルスが振り返ると、ヴェスタの祭司長が元将軍の前に立っていた。大柄な男性の前で、彼女は一層小さく見えた。他に5人のヴェスタの巫女が横に立っていた…マキシマも一緒にいた。

「キリア・コンコルディア」セヴェルスは落ち着きを取り戻して言った。彼は年老いた女性に頭を下げて言った。「これは政治問題です。ヴェスタとは関係ありません。」

「あら、それが関係あるのです。あなたの衛兵が乱暴をしている若者は、わたくしの友人です。」彼女は威厳に満ちたゆっくりとした仕草で、頭を高く上げてセヴェルスに歩み寄った。彼女が手を開くと、マルクス・アウレリウスの玉璽指輪がのっていた。

グラウクスは妹を見た。彼女の顔は死人の様に蒼白だった。「ありがとう」彼は声を出さずに言った。聞こえたはずはないのに、彼女は真直ぐ彼の目を見て、涙を浮かべて微笑んだ。

「そこに何をお持ちですか?」セヴェルスは自分の肩までも届かない小柄な女性に頭を下げた。しかし、背の低さは彼女の力とは関係ない。

「この指輪は、この若者−マキシマス・デシマス・グラウクス、偉大なる将軍、マキシマス・デシマス・メリディアスの息子が…」

群集は息を呑んだ。

彼女は続けた。「…わたくしに見せて、謁見を申し込んだものです。数ヶ月前に。」

セヴェルスはあえいだ。プローティアヌスは冷笑を浮かべ、グラウクスの咽喉に新たな傷をつけた。

「短い謁見でした。」彼女は言った。「彼はわたくしに契約書を…」

セヴェルスは蒼くなった。

「…渡して、密かに、安全に保管して欲しいと言いました。秘密を明かしてしまってごめんなさいね、マキシマス・デシマス・グラウクス、でも、今こそ、あなたに渡されたものを皆さんに明かすべき時だと思うのです。」

グラウクスは感謝を込めてうなずいた。捩じ上げられた手は痛み、首を血が流れ落ちていた。

「契約書を探していらっしゃいましたよね、陛下?」キリアは訊いた。

セヴェルスは目を閉じた。

「陛下が探しておられる物は、わたくしが持っています。内容も知っています。マルクス・アウレリウス陛下の公式の玉璽がありました。陛下が亡くなられた年の3月17日の日付です。亡くなられた、その日です。」彼女は群集に広がったどよめきがおさまるまで待って、続けた。皺の寄った唇に微笑が浮かんでいた。「陛下がお探しの契約書はそれですか?」

セヴェルスは何も言えずに、皇帝が恥をかかぬよう衛兵が気を効かせてすべりこませた椅子に沈みこんだ。

「さて、あなたには二つの選択肢があります。この書類を元老院で発表することも出来ます。」キリアはゆっくりと言った。「または、ただこのまま…興味深い歴史の遺物として…密かにしまっておくことも出来ます。」

プローティアヌスはパニックを起こして吠えた。「こいつらを追い出せ!」彼は近衛兵に向かって叫んだ。兵たちは、帝国のエリートたちに向かって剣を振りかざして突進した。誰も動こうとしなかった。執政官も、元老院議員も、行政官も、総督も、将軍も、影響力のある実業家も。今度は、誰一人動こうとしなかった。

「何が望みです?」セヴェルスは小さい声で、同情した様子もなく彼を見下ろしている白衣の女性に訊いた。

「よろしければ、まず椅子をいただきたいわ。」キリアは言った。「わたくしの脚には、若い頃の力はありませんから。」

セヴェルスは衛兵にうなずいた。椅子が現れた。

「さあ、その若者たちを放すのです。マキシマス・デシマス・グラウクスにも話に入ってもらいます。」近衛兵はグラウクスの腕を放した。

「駄目だ!」プローティアヌスが衛兵たちに叫んだ。「近衛隊の司令官はおれだ!お前たちが従うのはおれだけだ!」衛兵たちは混乱して顔を見合わせた。一人がグラウクスの方へ動き始めた。誰の命令に従っていいのかわからなくなっていた。隊長か、皇帝か、帝国で一番権力のある女性か?

キリアがしっかりした足取りで立ち上がった。「わたくしは釈放しろと命令したのです。」

近衛隊長は手負いの獅子のように吠え、剣を振り回しながらグラウクスに向かって不器用に突進した。女性たちは悲鳴を上げ、群集は散った。ヴェスタの巫女たちはキリアを安全なところへ引っ張って行った。セヴェルスは二人の衛兵の後ろにさっと隠れた。しかし、プローティアヌスは酔っていた。グラウクスは簡単に避け、剣は空を切った。近衛隊長はよろめき、壁にどしんとぶつかったが、バランスを取り戻して再び敵に向かって来た。若者は父の傷だらけの革の鎧を盾の様に構えていた。

「馬鹿め!」プローティアヌスが叫んだ。「革で身が守れると思うか?」

「父を守っていた鎧だ。」グラウクスは二度の激しい攻撃を鎧で防ぎながら言った。

「あの反逆者!お前の反逆者の父親か?自分の仕えた皇帝、マルクス・アウレリウスを殺した男か?あの裏切り者のことか?」近衛隊長のこめかみに紫色の血管が浮き出した。

グラウクスは大胆にプローティアヌスに近づいた。「レディ・キリアがお持ちの契約書に、それが嘘だという証拠がある。彼は落ち着き払って微笑み、プローティアヌスだけに聞こえる声で言った。「貴様と貴様の皇帝を破滅させることができる契約書だ。」

「この薄汚い売女の息子め」プローティアヌスは吐き出すように言って、よろよろと向きを変えた。「おれを脅す気か?」

「貴様は酔っている、プローティアヌス。」グラウクスは嘲笑った。「僕を攻撃したら、返り討ちにする…ペトラで貴様が僕を殺しによこした兵士たちのように。」

「プローティアヌス!」セヴェルスが怒鳴った。「剣を下ろせ!」

「だめだ!ちょうどいい所で捕まえた。ここで死んでもらう!」

セヴェルスは衛兵たちの方を向いた。「隊長の武器を取り上げろ!」彼は命令した。

彼らはためらった。

私は皇帝だぞ!」セヴェルスは叫んだ。

衛兵たちが彼に近づいた。プローティアヌスは血走った目をむき出し、もう一度攻撃した。

グラウクスは鎧で剣を防いだが、怒り狂った男の力に押されて出口の方へ後ずさりした。彼はブロンズの鎧にぶつかった。彼が給仕していたテーブルにいた引退した将軍の鎧だった。元将軍はにやりと笑い、近くにいた近衛兵のチュニックの下を膝蹴りして剣を奪った。衛兵は苦痛にしゃがみこんだ。「君の父上を知っていた。」彼はグラウクスに微笑みかけ、剣を手渡した。将軍は突進してくるプローティアヌスを押してよろけさせた。その隙に、グラウクスは鎧を着けて剣を構えた。

グラウクスは敵を値踏みしながら、自信に溢れた足取りで部屋の中心へと進んだ。プローティアヌスは汗だくで、息を弾ませ、顔は憎悪に歪んでいた。彼はおぼつかぬ足取りでグラウクスの周りを回った。

「諦めろ、プローティアヌス。僕には勝てない。分かっているだろう。」グラウクスは彼の顔の前で軽く剣を振り、プローティアヌスがあわてて飛び退いたのを見て忍び笑いをもらした。

「この…薄汚い反逆者の息子め!」

「反逆者じゃない。陥れられただけだ。父の無実の罪を晴らしたい。僕の望みはそれだけだ。」

「嘘をつけ!何もかも手に入れたがっているくせに!」彼はグラウクスの胸を刺そうとしたが、若者は攻撃をかわした。剣は硬い革をかすめて狙いを外した。グラウクスはプローティアヌスの腕を自分の腕で挟み、彼を無防備にして、後ろ向きに突き飛ばした。近衛隊長はよろめき、待ち構えていたマリウスとルシアスの腕の中に倒れた。二人は喜んで彼を引っ張り上げ、彼をリングに押し戻した。

酔っている上にめまいを起こしたプローティアヌスは、剣を構えたまま、しかし敵がどっちにいるのかも分からずに立っていた。グラウクスは剣を振り、鋭い切っ先で近衛隊長の鎧の巨大なエメラルドを抉って外した。エメラルドは大理石の床に弾み、ブレヌスの前へ転がって行った。彼は喜んで拾い上げた。

プローティアヌスがうろたえて自分の胸を見ている隙に、グラウクスは剣の先を敵の剣の握りに打ちつけ、彼の手から飛ばした。剣は空中に弧を描き、グラウクスは一歩前に出て、軽々と受け止めた…招待客たちから嵐のような拍手と歓声が沸いた。彼は視線を落とし、二つの剣で威嚇するように空を斬った。

プローティアヌスは部屋の真ん中に立っていた。混乱し、屈辱を感じていた。彼は尚もグラウクスに吠えかかろうとしたが、セヴェルスが衛兵に彼をつまみ出すように合図した。彼らは今度はすぐに従った。群集の中に魔法のように通り道が現れ、近衛隊長の空しい脅しと捨て台詞が少しづつ小さくなり、ブロンズ扉の閉まる音と共に聞こえなくなった。

セヴェルスは深いため息をついた。彼の顔の全部の皺が、縮れた顎鬚と同様に垂れ下がっていた。「今日の運勢が悪いことは分かっていた。星占いに出ていたんだ。しかし、花嫁と花婿のことだと思っていた。二人が憎み合うようになると…それだけだと思っていた。それも当たっていたし、おまけにこれだ。」彼は何とか弱々しい微笑みを浮かべて、椅子を三脚並べ、キリアを丁重に椅子までエスコートた。彼女の周りを他のヴェスタ巫女たちがさっと囲んだ。彼は疲れた顔で、グラウクスに礼儀正しく手を差し伸べ、空いている椅子に座るように言った。

グラウクスはルシアスに剣を渡し、椅子に座った。皇帝が三つ目の椅子に座った。小さい刺繍の座面の、縁に金箔のついた寝室用の椅子−黄金の玉座とは大違いだ。「私も軍人だった」彼はグラウクスに言った。「良い軍人は、武器を下ろして和睦を結ぶべき時を知っている。」

「書記をつけて下さい」キリアが言った。書字版を持った男がすぐに現れた。

「パピルスにして頂戴」彼女が言うと、書記は急ぎ足で去り、相応しいパピルスを持って帰って来た。

「さあ、始めましょう。」難しい交渉に慣れているキリアはにこやかに言った。

 

第76章〜80章