Glaucus' Story:第76〜80章

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第76章 要求

広い寝室は墓場のように静かだった。洒落た寝室用の椅子に座っている三人の会話に、全員が聞き耳を立てていた。

「どうしてプローティアヌスを殺さなかった?」セヴェルスがグラウクスに訊いた。彼の目蓋の垂れた目は全ての感情を押し隠していたが、身体は少し前かがみになっていた。部屋にいる全員が、さりげない口調はただの見せかけだと気づいていた。皇帝であるセプティミウス・セヴェルスが譲歩を強いられる立場になるなど、めったにない事だった。まして、何の権力もない若者によって…結婚式の招待客に多く混じっている皇帝の敵たちは、この成り行きを多いに楽しんでいた。

「彼は正々堂々と闘える状態ではありませんでした。殺人になってしまいます。」グラウクスが答えた。彼は警戒を緩めず、背筋を真直ぐに伸ばして座っていた。一言一言を注意深く聞いている軍の幹部の多くがこちらの味方だと言う事に彼は気づいていた。膝が当たるほど近くに座っている、純白に身を包んだ小柄な老女も。

今や最大の邪魔者と化している尊大な近衛隊長を厄介払いする機会を失ったのをセヴェルスは残念に思ったが、肩をすくめて忘れることにした。しかし、その細めた目は氷の矢を放つようにグラウクスを睨みつけていた。

グラウクスはちょっと身震いしたが、すぐに平静を取り戻し、さりげなく言った。「それに、結婚式の日に花嫁の父を殺すのは礼儀に反していますからね。」招待客の間に忍び笑いが広がった。彼は革の鎧の紐を解いて脱ぎ、新しい傷と古い傷とをそっと撫でてから、マリウスに渡した。一瞬静かになった隙に、ルシアスは床に散らばった母の書類を拾い上げた。彼は書類を丁寧に革の包みに戻した。後で一人になった時に読もう。そして、三人の友人は座っているグラウクスの後に並んだ。セヴェルスはルシアスを睨んだが、若きアイユーデスは皇帝を無視した。彼はグラウクスの椅子の背に手を置いて、どちらの味方かをはっきりと示した。手の暖かさが友人の力になればいいが、とルシアスは思った。

招待客たちがじりじりと近づいて来ていた。マリウスの両親は呆然として言葉もなく、他の客の肩越しに息子を見つめていた。今夜の途方もない出来事に息子が一枚かんでいると知って、二人の顔には恐怖と混乱が浮かんでいた。マリウスは、今は両親に声をかける時ではないと判断して客から目をそらしていたが、マキシマのことは目で探した。ヴェスタの巫女の間に立っている彼女の顔には少し血の気が戻っていた。彼は彼女にウインクした。彼女はおぼつかない微笑みを返した。招待客の中には、手近の椅子に座りこんだり、大胆不敵にも新婚ベッドに腰掛けたりして皇帝への軽蔑をあらわにした。最上のワインが彼らの大胆さに火をつけていた。他の客たちは壁や家具にもたれて、一言も聞き逃すまいと聞き耳を立てていた。

グラウクスは闘いの時に助けてくれた将軍の姿を探した。彼は近くの飾り棚にもたれていた。グラウクスは感謝をこめてちょっと頭を下げた。将軍は丁重なお辞儀を返した。

「さて」指導者の立場に慣れている女性の威厳と自信に溢れた声で、キリアが言った。「始めましょう。まず、わたくしはあの小さな隠し部屋の中に何があったのか知りたいと思います。」彼女は隠し部屋の方を向いてうなずいた。

「祭祀長様、僕はざっと見ただけなんですが」グラウクスが答えた。「父の遺骨壺とデスマスクがありました。それから革の鎧と、先程友人のルシアスが拾った書類です。」

「わかりました。それらの品は、なぜそこにあったのです?」

「レディ・ルッシラが…ルシアス・ヴァレスの母上ですが…」彼はルシアスにうなずきかけ、群集は一斉に息を呑んだ−「父が死んだ後、そこに入れたのです。彼女が息子と共に追放される前に。それがそこにある事を知っていたのは、この世でルシアスだけでした。僕はただ、本来あるべき場所へ持って帰りたかったんです…スペインへ。」

キリアはセヴェルスを見て、綺麗に整えられた眉を上げた。「許可なさいますか?」

皇帝は「そんな些細なこと」と言うように苛々と手を振り、うんざりした声で言った。「持って行け。ジュピターの名にかけて、一体何だって私がそんな事を気するか。」

キリアは今の言葉を書き留めている書記にうなずいて、ちらりとルシアスを見た…愛する従兄の孫だ…そして、グラウクスに視線をもどした。かすかな笑みが唇の端を持ち上げていた。「次は?」

「父の名誉を回復し、ローマ帝国史上の正しい位置にその名が記されることを要求します。将軍の中の将軍、偉大な人物として−奴隷ではなく。父はマルクス・アウレリウス皇帝の北部連隊総司令官で、皇帝に愛されていました。その事を帝国中に布告すること−元老院、全ての連隊の将軍、全ての国の総督に−父が帝国に尽くし、ゲルマニア戦役を終結させ、ローマのために命を捧げたこと、マルクス・アウレリウスの死に一切加担などしていないことを。」

キリアは眉を上げてセヴェルスを見た。

「わかった、わかった。そうする。」彼は苛々した様子で、手を膝に置いて前に屈み、刺すような目でグラウクスを睨み、怒りに歯噛みしているのをほとんど隠してもいなかった。

ルシアスの手がやさしく肩を掴むのを感じて、グラウクスは続けた。「ゲルマニアの…ヴァンドボーナの基地にある父の肖像の壁画を、ローマ最高の職人に修復させることを要求します。母が描いた時のままの状態に回復し、二度と損なわれる事がないように。即座に修復を開始する事を要求します。」

セヴェルスは口を醜く歪めたが、こくりとうなずいた。書記が書き留めた。「他に何かございますかな?」彼は皮肉っぽく言った。

「はい。我々に対して報復が一切行なわれないように…」グラウクスは振り向いて後に立っている友人たちを見た。「…我々の家族にも。現在も、未来にも。我々は一切罪を犯していません。僕に対する逮捕状をすぐに撤回するよう求めます。」

セヴェルスは手をひらひらさせ、そのような些細な要求は皇帝自らが聞くまでもない、という態度をとった。「お安いご用だ。それで終りだろうな?」

グラウクスは深く息を吸った。「いいえ。」招待客たちはこの若者の大胆さが愉快でくすくすと笑った。「僕の妹を、マキシマス・デシマス・メリディアス将軍の実の娘と認めて父の名を与えることを要求します…もし、彼女自身がそう望んで、法律上の両親が同意するなら。彼女の母親を正式な母親としたままで。」

「妹だと?」セヴェルスは唾を飛ばした。「ほお、それはそれは。」彼は眉を上げて、わざとらしく訊いた。「私生児の妹か?」

グラウクスは気色ばんだ。マリウスも同様だった。「彼女は愛情深い両親の娘だ。」グラウクスは唸った。「兄である私と同じく、父親に会う幸せを奪われた娘だ。」

「私にはどうでもいいことだ」セヴェルスが大げさに天を仰ぎながら言った。

「もう一つ」グラウクスが冷静に言った。「ルシアス・ヴァレスが、帝国中どこでも好きな場所に行き、好きなところに住む自由を…」

「今でも彼は自由だ!」セヴェルスはかっとなって叫んだ。「彼を追放の身から救ったのは私だぞ!子供の彼を教育し、生得権に従って政府の地位を与えたのは私だ!まるで逆のような言い方をするな!」

皇帝の怒りを宥めようと、ルシアスが進み出た。「もちろんです、陛下。私は深く感謝しております。しかし、もう少し気楽にローマに来られるようになれば有難いですね。それと、私の家からスパイを引き上げて頂ければ。」

セヴェルスは紫のケープを翻して立ち上がり、マルクス・アウレリウスの孫の前に立った。彼はルシアスの肩を掴み(その拳は真っ白で、爪が若者の肩に食いこんでいた)、固く抱きしめ−『甥』に対する愛情を大げさに見せびらかした。「いつでも来てくれていいんだよ。いつでも大歓迎だ。」彼は招待客に聞こえるように大声でそう言って、この『愛情溢れる抱擁』を見逃す客がいないようにルシアスをぐるりと回した。

ルシアスは調子を合わせ、恭しく答えた。「ありがとうございます、陛下。それから、オクトデュルスの我が家に祖父の胸像を頂けると有難いのですが。この宮殿にはひとつも飾られていないようですから、貯蔵室にたくさんあるのではないかと思いまして。」

ひとつも飾られていない?おお、何とうかつな事だ!」セヴェルスが叫んだ。「もちろん、持って行ってよろしい。好きなのを選び給え。」彼はルシアスをぱっと放し、話は終ったという合図に少し肩を押しやった。「さて、私の方の要求だが」彼はグラウクスの方に向き直り、眉を上げて、話す許可を求める振りをした。「今度は私の番だろう?」若者は真剣にうなずいた。皇帝はキリアの方へ近づいて腰をかがめ、彼女とグラウクスにしか聞こえないように言った。「例の書類は決して日の目を見ぬようにする事を要求する。永遠に封印するのだ。そうでなければ、君の要求はすべて帳消しだ。」

グラウクスとキリアはうなずいた。彼女は言った。「しかし、書類は神殿に保管します。この新たな契約書の全ての条項が守られるための保証です。もし、そのうちの一つでも守られない場合、あるいは破棄された場合、あの契約書を元老院と軍の幹部に公表します。」

書記が書き留めた後、彼女は「お二人とも、これに署名をお願いします」と言った。

二人は署名した。

「そして、わたくしが証人になります。」

彼女も署名した。

セヴェルスは唐突に立ち上がった。あまりに急にケープを翻したので、椅子が大きな音を立てて倒れた。彼は満足げな客たちをかき分けて進んだ。「終りだ!」彼は招待客に向かって怒鳴った。「宴は終った。」

 

第77章 マキシマの贈り物

ジュリアは丁寧に12本の蝋燭を灯し、彼女の家に運ばれた小さなマホガニーの遺品棚と黄金の壺の両側に6本づつ置いた。彼らはジュリアのローマのアパートメントの居間の真ん中にある美しいテーブルを囲んで座っていた。やさしく揺れる小さな炎だけが暗い部屋を照らしていた。小さな真鍮の皿に香が焚かれ、芳香が部屋を満たした。壺の前に置かれたクッションの上に跪いて頭を垂れているグラウクスと娘の横に、彼女も跪いた。彼らが愛した男のために、三人は神々に声なき祈り捧げた。戸棚の閉ざされた扉の奥には蝋のデスマスクが納められていた。あまりに生々しく克明で、三人とも見ることが耐えられなかった。

三人は自分たちの失ったものを考えて、嘆きに沈みこんだ。ジュリアの唇は声を立てずに動き、蒼ざめた頬は涙で光っていた。彼女は目を閉じたまま娘の手を探リ当てて優しく握った。娘は静かに泣き始めた。グラウクスは妹の美しい顔が苦痛に歪んでいるのを見た。彼も妹を慰めたいと思った。何もかもうまく解決して良かったと言ってあげたかった。しかし、彼の心は自分自身の嘆きに押し潰されて、慰めを与えるどころではなかった。彼の努力は全て報いられた。彼は父の人生、父の死について何もかもを知ることが出来た。彼はマキシマスの名誉を回復した。それなのに、まだ心は空しい。自分の中にあるこの暗い空洞が満たされる事があるのだろうか、と彼は思った。生きている父を探し出すと言う彼の子供じみた夢は、石の上に落ちた脆いガラスのように永遠に砕け散った。父の笑顔を見ることも、笑い声を聞くことも出来ない。立派になった息子に目を細める父の顔を見る喜びも許されない。グラウクスは黄色い光に豊かな輝きを放つ黄金の壺を見上げた。それは冷たい金属。温かい肉体ではない。冷たく凍りついた物言わぬ金属−蝋に写し取られたマキシマスの顔と同じだ。グラウクスはデスマスクをちらりと見ただけで、苦しくて顔をそむけてしまった。僕は義務を果す。マスクを職人に渡して、マキシマスの大理石像を作らせるだろう。表情のない大理石。

冷たい大理石。

彼は身震いして、絨毯を見下ろした。絨毯の凝った模様がぼやけて見えた。彼はようやく立ち上がり、ジュリアとマキシマが立つのに手を貸した。跪いていたのと悲しみのせいで、脚がよろよろしていた。グラウクスは妹の腕を取り、中庭に連れて行った。ジュリアは蝋燭を吹き消して静かにドアを閉め、後について行った。

アポリナリウスとブレヌスとルシアスが待っていた。宵の風が涼しく、月と松明が中庭を照らしていた。ルシアスは友の手にワインのゴブレットを押しつけ、彼の目を心配そうに覗き込んだ。死者を悼む事がどれほど疲れるか彼は知っていた。グラウクスが早く元気になって、彼の旅を完成させる最後の一歩を踏み出す事ができるといいが、とルシアスは思った。

6人は腰を下ろし、過去20数年の出来事を思い起こしていた。ある一人の男の死にまつわる謎に終止符が打たれたのだ。彼らが恋人、父、あるいは友人と呼んだ男。

ジュリアが長い沈黙を破った。「グラウクス、マキシマのためにデスマスクの複製を作らせてくれるかしら。いつかあの子が自分の家庭を持った時に重要になると思うの。」

グラウクスはうなずいた。「もちろんです」彼はまだかすれている声で言った。

「ありがとう、グラウクス」ジュリアが言った。召使が全員にワインを注いだ。「しばらくここにいてくれるでしょう?あなたがいなくなったら、とても寂しいわ。」

マキシマが息を呑み、彼の方を振り向いた。彼女は蒼ざめ、心配そうな目をしていた。「行っちゃうの?私…兄さんがずっとここにいてくれるといいと思って…」彼女は黄金のネックレスを着けていた。純金を捩った環が馬蹄型の太い鎖をなしていた。ケルトのデザインだ。マリウスがオクトデュルスで買ったのだろう。あの街で過ごした最後の数日、彼とルシアスがローマへの旅の計画で忙しかった時に。こんなに高価な贈り物を受け取ったという事は、彼女のマリウスへの気持ちが本気だという明らかな証拠だった。

妹にとって彼以上の夫は考えられない…彼自身にとっても、最高の義弟だ。でも、彼女の親権を変更する事にジュリアとアポリナリウスが同意しなければ、結婚の望みはない−マキシマの出生書類からアポリナリウスの名を消して、マキシマスの名を書き入れる事だ。グラウクスは既にこの事を二人に話し、夫婦でじっくり考えて欲しいと言っておいた。

グラウクスは妹の指を掴んで自分の唇へ持って行った。「スペインへ帰らなくちゃならない。それは分かっているよね?早く発てば、それだけ早く戻って来られる。」彼は葡萄の蔓の下のカウチに並んで座っているジュリアとアポリナリウスの方を見た。今この話を持ち出すのは気が進まなかったが、この問題を片付けないと出発出来ない。「あの、前にお話した事、結論は出ましたか?」

マキシマもこの問題を考えていたようだった。「ママ?」彼女はためらいがちに言った。「私の名前を変えること、話し合ってくれた?」親権を変えると言うよりも、単に名前を変えると言うほうが穏かに感じられた。マキシマはアポリナリウスを深く愛していたので、彼を傷つけてしまうのではないかと心配だった。それでも彼女は、生まれついての権利に従ってジュリア・マキシマ・デシマ・メリディア・ポストゥーマと呼ばれる事を心から望んでいた。

「話し合ったよ、愛しい娘や」アポリナリウスが答えた。「私たち二人とも、お父さんの名前と身分を継ぐのはお前にとってとても良い事だと思っている。どんなに愛していても、私には上げられないものだからね。お前は兄さんと同じように、元老院階級の一員になるんだよ。」ジュリアは彼に微笑みかけ、手を差し伸べた。彼は彼女の手を握って胸に押し当てた。「私もマキシマスを知っていたことを忘れないでおくれ。彼の娘が素晴らしい女性に育つのを見守る事が出来て光栄だ。そして、私は…私たちは…お前が生まれつきの権利を取り戻す事をこころから望んでいる。」

マキシマは陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせた。ようやく声が出るようになると、彼女は言った。「ありがとう。二人とも、ありがとう。」彼女は息を呑みこんだ。「それに、兄さんもありがとう。あんなに大変な時に、私の事を考えてくれて。」

グラウクスは肩をすくめた。「本当の事を言うと、あの事はずっと考えていたんだ。ジュリアを正式な母親としたままでこれを認めさせるには、皇帝に契約書を発行させるしかなかったんだ。あとニ、三日で書類の署名を済ませたい。早くスペインへ帰って、父さんをゆっくり休ませてあげたいんだ。母の親戚たちにも何年も会っていないし。僕はもう死んだと思われているんじゃないかな。皆、どんな顔するかな…僕があの壺とマスクと、剣と鎧と…山ほどの話を持って帰ったら。その後はゲルマニアに行かないと。僕がゲルマニアに着く頃には、肖像画の修復が済んでいるといいな。わかった事を全部ジョニヴァスに話したい。彼がいなければ、どこ手をつけていいかわからなくて、何も出来なかったかもしれない。」

「でも帰ってくるわよね?」マキシマは兄の腕を掴み、軽く揺すりながら言った。

グラウクスは優しく微笑んだ。「もちろん帰ってくるよ。スペインからオスティアは、海路なら遠くない。僕の方にも会いに来るといい…みんなで。マキシマスが生まれたところ、住んでいたところを見て欲しいんだ。それから、肖像画を見にゲルマニアにも行かなくちゃね。」

「ありがとう、グラウクス。きっとそうするわ」ジュリアが言った。心が悲しみに押し潰されそうだった。彼女はグラウクスを自分の息子のように感じ始めていたので、いなくなればひどく寂しい思いをするだろう。「船を手配するわね。」彼女はルシアスの方を向いた。家族の問題が話し合われている間、彼とブレヌスは一緒に静かに日陰に移っていた。「彼と一緒にいらっしゃいますか?メッシリアまで船で行ってそこからボートでローヌ川を遡れば、かなり距離がかせげますよ。山道の一番険しい所を避けられますわ。」

「そうですね。お言葉に甘えて、そうさせていただきます。ありがとうございます、奥様」ルシアスはくつろいだ微笑みを返した。「私も早く家族に会いたいです。」

アポリナリウスは3人の若者を見た。「みんな、君たちのような友情は一生ものだよ。何年も会わなくても、再び会えばたちまち蘇る…まるで、さっき別れたばかりのように。」

グラウクスはうなずいた。「ええ。マリウスも。あんなにいい友達を持ったのは初めてです。離れたらとても寂しいでしょうね」彼は笑った。「今夜、彼は今までの冒険を両親に話しているでしょう。壁にとまった蠅にでもなって聞きたいですよ。」グラウクスは片方の眉を上げてマキシマを見た。「多分、彼も一緒にスペインに来るんだろうね。」

「ええ、多分」ネックレスをいじりながら、マキシマの顔が輝いた。「多分ね。」

「それに、ブレヌス」グラウクスは黙って低い石垣にもたれている若者の方を向いて言った。「君が友達でいてくれて本当に有難かったよ。」薄暗い中でも、彼の顔が喜びに紅潮するのがわかった。「ジュリア、あなたのお許しがあるなら、ブレヌスに僕の農場を手伝って欲しいんです。」

ブレヌスは驚いて、仔犬のような目でジュリアを見た。

「ニ、三日したらオスティアに帰るから、お母様にお願いしましょう」ジュリアは微笑んだ。「お母様がいいと言うなら、私にも異存はないわ。」

 

 

4日後、グラウクスは神経質な馬を安全に運べるように特別にしつらえた船の甲板に立っていた。壺と先祖の遺品棚は丁寧に梱包されて船倉に納められていた。同じく厳重に梱包されたマルクス・アウレリウス皇帝の像と一緒に。それはジュリアの船の中でも最大の一隻で、グラウクスとルシアスは小さな船室を分け合い、ブレヌスだけが甲板のテントで寝ていた。グラウクスの旅立ちはほろ苦いものだった。早く故郷に帰りたかったが、マキシマとジュリアとマリウスを置いて行くのは辛かった。数ヶ月後には会えるとわかっていても。オスティアのジュリアのヴィラで過ごした最後の数日には、みんなが感極まっていて、いつも誰かが涙を浮かべていた。グラウクスも感情を抑えられなかった。今でさえ、彼の目は涙で霞んでいた。彼は涙を払おうと繰り返し目を瞬いた。

でも、用がすべて片付いた以上、もうぐずぐずしているわけにはいかなかった。ジュリア、アポリナリウス、マリウス、マキシマの4人は埠頭に並んで手を振り、最後の挨拶をしていた。マキシマは正式にジュリア・マキシマ・デシマ・メリディア・ポステューマになった。彼は妹にそっと耳打ちした−マリウスとの結婚を許す。但し、彼に対する気持ちに確信が持てるのなら。マリウスにも同じ事を言った。あわてて式を挙げてはいけない。だから僕が戻ってくるまで、情熱を抑えるように。彼女は真剣にうなずき、目をきらきらと輝かせた。こんなに幸福そうな妹を見るのは初めてだった。

 

 

船が係留所から曳航され、ゆっくりと灯台の方へ向かう間、グラウクスはその朝の別れを思い出した。ヴィラで最後のキスとハグを交わす前に、マキシマが小さな巾着袋を兄の手に渡したのだ。革袋はすり減り、でこぼこだった。「これ何?」彼は訊いた。

「開けてみて」彼女は答えた。

彼は小さな袋の口に指を差し込んで大きく開き、逆さにして振った。小さな木彫りの人形が二つ、彼の手に落ちた。一瞬、訳が分からなかったが、目の焦点が合うと、彫り方に見覚えがある事に気づいた。母のスタイルだ。彼は手探りで椅子を探した。膝が崩れ落ちそうだった。彼は大きいほうの人形を光にかざした。女性の彫像。片腕の肘を曲げて、こちらに手を差し出している。前腕はぎざぎざにささくれ立っていたし、大きなひび割れが入っていたが、何とかばらばらにはならずにいた。もうひとつは小さな男の子の像だった。女性の像よりはずっと状態が良かったが、くぼみや傷がついていた。

「どこでこれを?」彼は息を呑んだ。

マキシマは彼の前にひざまずき、膝に手を置いた。「父さんのものだと思う?」彼女は熱をこめて訊いた。

「母が彫ったものだよ、確かだ。子供の頃おもちゃにしていた、母が彫った馬の彫刻とよく似ている。同じ木かもしれない。一体、どこでこれを見つけたんだ?」

マキシマは腰を落として得意そうに笑った。「市場よ。兄さんたちがクイントスとルシアスを探しに行っている間、私は退屈だったから、ほとんど毎日トラヤヌス市場をうろうろしていたの。市場で、小さな屋台でいろんな変ながらくたを売っている男がいてね。これを見つけて、兄さんが言っていた人形に似ているような気がしたの。」

「でも、その男はどうやってこれを?」

「いろんな手を経て来ているみたいだけど、多分捨てられたのね。でも、曰く付きの物だったの。父さんが死んだ数日後に、コロシアムの砂の中で見つかったそうよ。行事の合間に砂の手入れをする人が見つけたの。その人が長い間持ってたみたい。偉大な剣闘士のマキシマスの物だと信じて、宝物にしていたんですって。でも彼が死んだ時、家族が二束三文で売り飛ばしたの。それから回りまわって、最終的に市場の男の手に落ちたというわけ。彼はこれにまつわる伝説を全部知っていたわ。」

「でも…どうしてそんな所にあったんだろう?最後の闘いの時も、アリーナへは持って行かなかったはずなのに。クイントスの話では、牢で服を脱がされて鎖で繋がれていたんだ。一体どうしてそんなところにあったんだろう?」

マキシマは肩をすくめた。「それはきっと永遠にわからないわね。」

「これにお目にかかれるなんて、夢にも思わなかったよ。」グラウクスは二つの彫像を光にかざし、何度も何度も回して眺めた。その嬉しそうな目を見てマキシマは喜んだ。彼は小さい方を掌にのせて差し出した。「一つ君が持っていてくれ。マルクスの方を。」

「駄目よ。これは二つで一つだもの。あなたのお母さんと私たちの兄さんよ。お願い…二つとも持って行って。お母さんが父さんのために彫ったものよ。一緒にしておいてあげて。父さんもそう望んだはずだわ。」

グラウクスは二つの彫像に、かわるがわるそっと唇を当てた。その後、妹の輝く髪を撫で、キスをした。

 

 

グラウクスは船の手すりにもたれ、トーガの下で胸に当たる二つの小さな彫像の感触に心を慰められていた。その横には、ジュリアに貰った宝物が下げてあった。

 

 

昨夜、一人でテラスに立ってオスティアの街と港を眺めてると、ジュリアが来た。彼が振り返ると、そよ風に髪がくしゃくしゃになった。「来てくれたらいいと思っていたんです」彼は言った。「言いたい事が山ほどあるのに、どう言ったらいいのかわからないんです。」

「何も言わなくていいのよ、グラウクス。気持ちは分かるから…目的を果した喜びと満足と、好きになった人たちと別れる悲しみ…たとえ、少しの間でも…いろんな感情が入り混じっているのね。」

彼はうなずき、真剣に言った。「ジュリア、父が一人っきりだった時に、側にいてくれてありがとう。父の人生の最後の時を、少しでも幸せなものにしてくれてありがとう。そして、僕に妹をくれてありがとう。」

ジュリアは微笑んだ。「たとえ短い間でも、お父さんと逢う事が出来て、愛することが出来たのは素晴らしい名誉だわ。彼は男の中の男だった。グラウクス、彼はあなたを誇りに思ったでしょう。いえ、誇りに思っているに違いないわ。あなたが成し遂げた事をちゃんと分かっていて、感謝しているわ。彼が心から愛していたマルクス・アウレリウスを殺めたという汚名をそそいでくれたことを。」

「ありがとうございます。僕はただ…父があんなに早く死んでしまったのが悔しくて。生きていれば、マキシマと僕に会えたし、あなたを愛する時間もあっただろうに…あなたは愛されて当然だったのに。」

ジュリアは黙ってうなずいた。咽喉のあたりが苦しかった。突然、マキシマスが死んだ時以来感じた事のないような強い喪失感に襲われて、彼女は動けなくなった。グラウクスとの別れが長い間押さえつけていた痛みを蘇らせていた。

グラウクスは海を眺め、彼女が立ち直るのを待った。「マルクス・アウレリウスに頼まれた仕事を父が成し遂げる事が出来たら、この国は想像もつかないぐらい良くなっていたでしょうね。生きていれば、きっと成し遂げたはずなのに。」

「その通りね」ジュリアは囁いた。「でも、起こってしまった事を嘆いても仕方がないわ、グラウクス。過去は変えられないもの。今は未来を見なくちゃ。未来はとても明るいわ。」

「ええ。本当に…僕たちみんな、先には幸せばかりみたいですね。」

ジュリアは彼の手を取り、掌に何かを押しつけた。「これは何ですか?」彼は金で縁取られた小さな象牙色の楕円を見つめながら訊いた。「ああ…あなたの肖像ですね。」

ジュリアは笑った。「いいえ、私じゃなくてあなたの妹よ。カメオというものなの。」

「すごい…横顔はあなたに生き写しですね。美しいはずだ。一生大切にします。ありがとう。」

月が水平線から顔を出し、静かな銀色に光るティレニア海の上に昇るのを、二人は並んで眺めていた。お互いの存在を心地よく感じながら。今はもういない一人の勇敢な男への愛という絆で、二人は結ばれていた。

 

第78章 帰郷

海に出て二日後、船がコルシカ島の北端を回った時、ルシアスがグラウクスの所へ来た。グラウクスは甲板の二人の船室の陰になった巻いたロープにのんびりと腰掛け、周りで忙しく働く水夫たちも気に留めていない様子だった。彼はマキシマスの革の鎧を膝にのせ、ポプラと女性と子供の銀飾りを指で何度も何度も辿っていた。ルシアスは友人の隣に腰掛けたが、何も言わなかった。

二人は頭上の帆の立てるぱたぱたという音を聞いていた。グラウクスがようやく口を開いた。「これを身につける時、父はどんな気持ちだったんでしょう。胃が絞めつけられるような感じがしたんでしょうか。毎回毎回、これで最後のような気がしていたでしょうね。」

「将軍として戦闘に向かう時とあまり変わりはなかったんじゃないかな。」

「五万人が一挙手一投足を見ているんですよ。違ったはずです。」

「そうだね。でも、彼の心は一つの事に集中していたはずだ…コモドゥスを殺す事に。」

「そうかもしれません…父がアリーナにいた時は」彼は鎧のついた二つの小さな人形に指を這わせた。木彫り像の写しだ。「でも、そうじゃない時は、心は別のところにあったはずです。」

「家族が死んだ事は、さぞ辛かっただろうね。それに、故郷からこんなに遠く離れて」

「その気持はわかります。僕も早く故郷に帰りたいです。」

ルシアスは微笑んだ。「私もだ。」

グラウクスはようやく鎧から目を離し、友人を見た。水夫が引き摺るロープが彼の足の上を通過した。彼は足を上げて、別の水夫が転がしている樽に足を轢かれるのを危うく避けた。「何をしていたんですか?」

「あの隠し部屋にあった手紙を読み終えたところなんだ。」ルシアスはため息をついた。「容易じゃなかったよ。母が今の私より若い頃に書いた、出される事のなかった手紙だ。」ルシアスはまたため息をついた。「全てマキシマス宛だった。」

「そうですか」グラウクスは答えた。他に何と言っていいかわからなかった。彼は午後の陽光にきらめく波頭を見つめた。カモメたちが、海面近くを泳ぐ魚を狙って飛び交っていた。

「母が彼を愛していたのは知っていたけど、その愛があんなに激しいものとは思わなかった。父と結婚した後に書かれたものもあった。そもそも、マキシマスに送る気があったのかどうかわからない。心の底をありのままに書いているみたいなんだ…手紙というより、日記みたいだけど、彼に宛てて書いてある。私が驚いたのはその情熱の激しさなんだろう。母は愛情深い人だったけど、あまり感情を表に出す事はなかった。皇族の女性はたいていそうなんだ。心のままにふるまうのでなく、義務を果すように育てられたんだ。ゲルマニアでのマキシマスとの短い情事は、母の一生のうちで、少女じみた自由への憧れを求めた唯一の時だったに違いない。その後は義務を果した。父と結婚して、皇位継承者を生んだ…私だ。」

その口調に、グラウクスは心配になって振り向いた。「ルシアス…」

「いいんだよ、グラウクス。母が私を愛してくれていたことは分かっている。母は誰よりも私を愛していた、けれど、マキシマスを忘れる事は出来なかった。」彼は手紙の束を何度も何度もひっくりかえした。「彼と別れて、母がどんなに寂しかったか…考えると辛いよ。彼が結婚して、自分とは永遠に離れてしまったことがどんなに悲しかったか…父が死んだ後、手紙はさらに情熱的になっていた。一生の内で、生きているという感じがしたのは、マキシマスと一緒にいた時だけだと書いていた。彼を追いかけようと思ったこともあったけど、皇帝の娘だという事を考えて我慢したらしい。何度も、自分の生まれを呪っていたよ。彼と一緒になれるのなら、何もかも捨ていいと思っていただろうね。」ルシアスは船室の壁に頭を凭せ掛けて目を閉じた。彼の頭は波の動きに合わせてゆらり、ゆらりと揺れた。「君の父上を愛した女性は、一生変わらず情熱的に愛し続けるようだね。それも素晴らしい女性たちばかりだ。悲しいことだと思わないかい?」

グラウクスは黙っていた。

突然、ルシアスはくすくすと笑ってグラウクスの腕を叩いた。「君が罪悪感を感じる事はない。彼女たちの気持は、君にも僕にも何の関係もないんだから。」

「わかってます。でも、母は夫を愛した他の女性たちのことを知っていたんでしょうか?知っていたとしたら、ひどく気になったはずです。」彼はオリヴィアの浮き彫りを指で撫でた。

「それでも、君の父上は母上に忠実だった。その事だけで、彼がどういう人だったかよくわかる。君の母上がどういう女性だったかも。」

「そうですね。」グラウクスは船の手摺から見え隠れする揺れる水平線を見つめた。「いつか、そんな関係を築きたいです…一人の女性と一生幸せに暮らせるような。」

「君なら、女性をみつけるのはとても簡単だと思うけどね。」

グラウクスはその誉め言葉には答えずに肩をすくめた。「今まで忙し過ぎて…父の事で頭が一杯で…考えもしませんでした。」

「もうその必要はないね。答は全て見つけたんだろう?」

「ええ。」

「さて、これからはお父さんは君に何を望むかな?結婚して、彼の名前を継ぐマキシマスたちを沢山作って欲しいと思うんじゃないかな。」

グラウクスは笑った。「考えておきます。」

 

 

二人は喜びと悲しみの入り混じった気持で岸辺を眺めていた−故郷に向かっているという喜びと、もうすぐ別々の道を行くという悲しみと。あとたった二日で、ルシアスはマッシリアで船を降り、ローヌ川を遡り北の山を越える困難な旅の準備を始める。彼らは岸で、短い、しかし心のこもった別れの挨拶を交わした。グラウクスはまた訪ねて行く事を約束し、ブレヌスと一緒に船に戻って、波止場に立つ影が小さな点になるまで手を振り、そして旅を続けた。マルクス・アウレリウスは立派に成長した孫を誇りに思うだろう。

海峡を抜け−『ヘラクレスの柱』を越え−平穏な旅の末、彼らはガデスでスペインに上陸し、川舟を借りてイスパリス目指して北へ向かった。目指す都市に着くと、彼らは大切な壺と戸棚を含めた荷物を頑丈な二頭立ての馬車に積み込み、陸路でエメリタ・オーガスタへ向かった。アルターは故郷が近い事を感じているらしく、グラウクスは始終手綱を引いて押さえなければならなかった。馬は不満そうに鼻を鳴らし、横に跳ねた。真夏の熱い太陽に照らされた緑の丘を飛び越して行きたそうな様子だった。

数日後、グラウクスはアルターにまたがって彼の農場を見下ろす丘の上に立っていた。農場の景色は見渡す限りの緑で、溢れる生命力に輝いていた。農夫たちが忙しそうに黄金の麦の穂を刈り取っていた。梨や桃の樹の枝は、たわわに実った果実に重く垂れ下がっていた。グラウクスは上を向いて目を閉じ、甘い葡萄の実の香る懐かしい空気を吸いこんだ。こんなに故郷を恋しく思っていたなんて、今まで気づかなかった。

「静かですね」ブレヌスが囁いた。この静けさを尊んでいるようなその声に、グラウクスは微笑んだ。聞こえるのは空高く鳥の鳴く声と、落ち着きのない馬が鼻を鳴らす音だけ。「向こうの丘の上の、赤い瓦屋根の、ピンクの石造りの家が見えるかい?」彼は指差した。

「はい。あなたの家ですか?」

「そうだよ。マキシマスが生まれた場所、母と結婚して住んでいた場所だ。連隊から休暇で戻った時にはね。父はここを愛していた。今、前よりもっとその理由がわかるような気がする。軍隊で、父はたくさんの恐怖や絶望を味わった。この農場は父の避難所だったんだ。ここでは、ものが育ったり実ったりするのを見ていられる−死んだり苦しんだりするところじゃなく。任務の重圧をかかえた人間にとって、心の休まることだ。」彼はアルターを押さえてゆっくり歩かせ、野の花や丘の形をじっくり眺めながら、一歩一歩を楽しんだ。以前はここの暮らしを当たり前のように思っていた。でも、これからは違う。農場の南側に、冷たい、流れの速い小川が蛇のようにくねくねと続いていた。馬が川をじゃぶじゃぶと渡り始めた時、彼はようやくアルターの手綱を緩めた。馬は野を飛ぶように疾走した。ブレヌスはその後を追わず、馬車の横をゆっくりと進んだ。

グラウクスは石垣の門の所で馬を降り、ゆっくりと門を開いた。蝶番が「おかえり」と言うように音を立てた。降り注ぐ光の中でポプラが濃い影をを躍らせている長い道を、彼は数年ぶりに眺めた。

農夫の一人が門の音に気づいた。彼は目に手を翳し、首を傾げた。それが誰であるかわかると、彼は驚きに口を開けた。彼はシャベルを落として家の方へ走って行き、一人の少年を呼びとめて、興奮に手を振り回しながら遠い丘にある親戚の家に知らせに行くように言った−若き主人がやっと帰って来たと。

グラウクスは最初のポプラの木の根元の、母が悲しみの中で植えた花のところに跪き、妹に挨拶した。パパを連れて帰って来たよ、と彼は妹に語りかけた。

家の階段のところに太った女性がエプロンで手を拭きながら現れた。彼女は息を呑み、喜びにぴょんぴょんと跳ねたかと思うと、すぐに家に入って若旦那の歓迎の宴を準備するように怒鳴った。

 

 

数時間後、グラウクスは草に覆われた母と兄の墓の前に立っていた。その隣に、新たに掘り起こした父のための穴が開いていた。彼は母の家族に囲まれていた。彼を自分の子として育ててくれた夫婦と、彼が兄のように思っている人たち。家族に、二つの農場の使用人たちと奴隷たちが加わった。大勢の男、女、子供たちは、みな厳粛な顔をしていた。彼らは黄金の壺が土の中に下ろされるのを沈黙のうちに見守った。グラウクスが前に出て、黒い土を一掴み掬い上げ、指の隙間から壺の上に落とした。「ウァレイ(さようなら)」と、彼はつぶやいた。彼の後ろで人々はすすり泣き、別れの言葉を繰り返した。他にも何か言った方がいいような気がしたが、8年ぶりに味わう平穏な気持ちを何と言葉にしていいかわからなかった。それで、彼はただ墓の横に跪いて囁いた。「家に帰って来たよ、パパ。とうとう帰って来たよ−帰るべき場所に。」

人々はゆっくりと散り、家の方へ向かった。彼の波乱万丈の物語を早く聞きたかった。しかし、彼は独りでそこに残り、物思いに沈んでいた。

日が沈みかけても、彼はまだ墓のそばに立って、冷たい土を指の間からこぼしていた。何度も、何度も、しっとりした土の手触りと、清々しい甘い香りを味わいながら。冷たい夜風が彼の巻き毛を吹き抜け、息を白くした。古い方の墓を覆っている草が揺れた。

夕闇が深いヴェルヴェットのような暗闇に変わった時、彼は壺の上の土をゆっくりとならし、手と足を使って隣の墓と同じ高さになるまで土を盛った。その後、星の光を頼りに道端の花を集め、墓の上に置いた。露に濡れた花弁の、月の光に仄かに浮かぶ黄とオレンジと青が土を覆い隠すまで。父の眠る墓の横を見つめる彼の顔に、悲しい、しかし満ち足りた微笑みが浮かんだ。「パパ、誉めてくれるかい?」彼は囁いた。しばらくして、彼は視線を上げ、友人と親戚が彼の帰りを待ち焦がれている家の方を見た−その時、彼の背骨を衝撃が駆け降り、全身が総毛立った。

階段のところに、彼が立っていた−マキシマスが。将軍の礼装を身につけた父は、かりそめの姿とは思えぬほどくっきりと見えた。身体の内側から柔らかい光が射していた。彼は首を傾げ、息子を真剣な目で見つめた。彼はゆっくりと右腕を曲げて胸に交差させ、拳を心臓のところに押し当てて、そのままじっと立っていた。ケープと狼の毛皮がに夜風に靡いていた。息子ははっとして、震える手で敬礼を返した。マキシマスは少しの間、穏かな目でグラウクスを見つめていたが、やがて満足と感謝をこめてうなずいて、息子に優しく微笑みかけた。温かい愛情のこもった、目尻に皺を寄せる笑い方。そして、彼の姿は消え始めた。

「待って!」グラウクスは息を呑み、震える手を父の方へと差し伸べ、よろよろと階段に足を踏み入れたが、そこにはもう誰もいなかった。グラウクスは呆然として、さっきまで父が立っていた所に立っていた。不思議に暖かい空気が彼を包み、優しい手のように頬を撫でた。彼は目を閉じ、ため息をついた。胸が一杯だった。

階段がぱっと明るくなり、ドアを開けたオーガスタ伯母さんが「おやおや、やっと来たのね」と言った。「ずいぶん長いこと外にいたのね。もうくたくたでお腹もぺこぺこでしょう。」彼女は舌を鳴らし、ぷっくりとした腕を彼の筋肉質の腕に回して、心配そうに言った。「まあ、汗をかいているじゃないの。熱を出してしまうわ。外はじめじめしているから…ペルシウス!」彼女は家の中に呼びかけた。「ちょっと来て。あんたの甥を家に入れるのを手伝って頂戴。グラウクス、あんたの好きなビスケットを焼いたのよ。グラウクス?ペルシウス、手伝ってったら…この子、あんまり疲れちゃって震えてるじゃないの。」

ペルシウスは甥の腕を心配性の伯母の腕からそっと外し、グラウクスの腰にしっかりと手を当てて彼を家の中へ導いた。「ほら、来いよ。今日は精神的に疲れただろう。それも何年も苦労した後だ。何か食ってワインでも飲めば気分が晴れる。」

グラウクスは振り向いて空っぽの階段を見た。空気は冷たくなっていた。

「何だ?どうかしたか?何か聞こえたのか?」叔父が心配そうに訊いた。

グラウクスはしばらく闇を見つめていた。「いや…別に…何も。」彼は深呼吸して、晴れた夜空に瞬く幾億の星を見上げた。「何もかも完璧だよ。」彼は唐突に笑い出した。表情ががらりと変わり、蒼白い顔には血の気がさしてきた。「ここにいるんだ。何もかも知っているんだ。全部見ていたんだ。満足しているんだ。」

「何を?誰が?」

グラウクスは途惑う叔父の背中を叩き、笑った。「飯でも食おう、ペルシウス。ビスケットの匂いがする。急に腹が減ってきたよ。」

あちこちから差し伸べられる手が、やさしい声が、彼が家族の腕の中に無事戻って来た喜びを表していた。

 

第79章 ヴァンドボーナへの帰還

グラウクスがゲルマニアへの旅と、その後の全ての出来事を話す間、大人も子供も静かに座って、熱心に聴いていた。皆は彼の冒険に驚いた。旅に出た時には無鉄砲な少年に過ぎなかった彼が、今は父親を思わせる立派な男になっていることに驚いた。マルクス・アウレリウスがマキシマスを信頼し、彼を帝国で一番権力のある地位につけようとしたと聞いて興奮し、その後起こった事を聞いて息を呑んだ…それも、この家のすぐそばで。彼らの妹と幼い甥が殺され、マキシマスが自分の土地で捕らえられた事。奴隷になった事。剣闘士としてのローマでの勝利。ジュリア。マキシマ…この大家族に加わった、新しい素晴らしい一員。マキシマスが裏切られて死んだこと、でもその前に、家族の仇を討ち、ローマをその独裁者、コモドゥスから解放すると言う使命を果したこと。彼らは何一つ知らなかったのだ。彼を助ける事が出来なかった。

でも、彼らが出来なかった事をグラウクスが成し遂げた。謎を全て解き明かしただけでなく、何度も命を危険に晒しながらマキシマスを故郷に連れて帰った。妻と息子の隣で眠れるように。経験を積んだ大人でもなかなか出来ない偉業だ…皇帝に挑んで勝ったのだから。

父親と同じように。

しかし、グラウクスがまたすぐに行ってしまう事はわかっていた。農場が満足に運営されている事を確認し、冒険の疲れを癒す間だけはここにいるだろうが、その後また旅立たなければならない。物語の環を閉じるために。でも、今回は独りではない。ブレヌスと一緒に、叔父のペルシウスとタイタス、従兄のタキトゥスとクローディアスが一緒に行く。彼のために、またマキシマスのために、そうする務めがあるような気がしていた。

 

グラウクスはアトリウムに先祖の遺品棚を置く場所を特別にしつらえ、大切なデスマスクを中に納めた。その両側に、父がとても大事にしていた小さな人形たちが置かれた。彫刻家に依頼してマキシマスの大理石胸像を作らせ、立派な台座の上に飾るつもりだ。

彼はブレヌスに農場を案内した。農夫たちは喜んで、農場がどんなにうまくいっているかを見せた。穀物の収穫は進み、果物は摘まれ羊毛は刈られていた。子馬は生まれ、しっかりした脚で母親の後を跳ね回っていた。牛も羊も山羊も、豊かな牧草地で草を食んでいた。

帳簿はきちんとつけてあり、利益は彼のいない間にずいぶん増えていた。良い事だ。彼は旅に持って行ったかなりの大金を使い果たしてしまっていたから。少し休んだら、すぐにまた旅に出られる。

 

1ヶ月後、6人の男が駿馬に乗り、ゲルマニアを目指して北へ向かった。全員が剣を下げていたが、鎧を着けているのは先頭の男だけだった。彼は珍しい銀製の、木と馬と人の飾りのついた黒革の鎧を着けていた。街道や街中で彼らを−小人数だがどこか決然とした、脇目もふらずに進む一隊を−見かけた者は、あわてて道を譲り、彼らが去ると安堵のため息をついた。彼らは決然としたスピードで進んだ。スペイン、ガリア、ゲルマニアの山を越える時さえ、その速度は緩まなかった。彼らの騎乗するのは、まさにこういう旅のために生まれた馬だった。駿馬たちは力強い蹄で着々と土を蹴り、喜びに鼻を鳴らした。1週間と少しで、彼らはガリアを出てゲルマニアに入り、ドナウ河を辿って目的地に向かった。

 

前に来た時と比べて、ヴァンドボーナはあまり変わっていなかった。これからも変らないだろう、とグラウクスは思った。彼とブレヌスと叔父たちと従兄たちは地元の旅篭を占領した。早くジョニヴァスに旅の成果を話したくて、彼は基地の方へ向かった。彼は心も軽く平屋建ての灰色の石の家に近づいたが、すぐに何かがおかしい事に気づいた。家は荒れていて、雑草が生い茂っていた−前よりもさらにひどく。彼はアルターを家の後に回した。ジョニヴァスが手入れをしていた小さな庭園はなくなっていた−雑草と松や樫の枯れ枝にすっかり埋もれてしまっていた。彼は口笛を吹いてゼウスを呼んだが、返事はなかった。彼は馬を降り、中庭を囲む石垣の樫の扉に近づいて、拳で叩いた。答えはなかった。もう一度叩いたが、やはり答えはない。彼は肩で扉を押した。扉はびくともしなかった。

彼は石垣の上に手をかけ、でこぼこした石を撫でて指をかけられる所を探した。それから足を横に捩って、つま先で探ってぼろぼろの石に亀裂を見つけた。彼はよじ登り、石垣の上に膝をついて反対側に飛び降り、膝を曲げて着地して、ゆっくり立ち上がった。台所に続く廊下は蜘蛛の巣だらけだった。細い銀の糸が廊下全体をほとんど覆いつくしていた。長い間、誰もここを通っていないのだ。彼は枝を拾って蜘蛛の巣を払い、アトリウムを通って台所に入った。ここで何度も、ジョニヴァスとマキシマスの話をしながら夜を過ごしたものだ。今は誰もいなかった。他の部屋にも。何もかもが厚い埃に覆われて、空気はじめじめと黴臭かった。

ジョニヴァスは死んだのだろうか?何故か、グラウクスは今までその可能性を考えようとしなかった。彼は小さな家の中をゆっくり歩き回った。ブーツの足音が空っぽの家に響き、寂しさを強調していた。彼に話したい事がいっぱいで、頭が爆発しそうだった。悲しみと驚きに満ち、最後は名誉回復で終る物語。物語を始めるきっかけを与えてくれた人に、どうしても話したかった。「ジョニヴァス?」彼の声は迷子の少年のように小さかった。沈黙が返って来た。彼は踵を返して急いで家を出て、石垣を飛び越えた。少し後、彼は石畳の道を街に向かって、陰鬱な考えに沈み込み、うなだれて歩いていた。その後をアルターがついて行った。

「あら、あなたに会えるとは思わなかったわ」

真正面から女性の声がして、グラウクスは驚いて立ち止まった。目の前にカタリナの瞳があった。

「ちゃんと前を見て歩かないと、そのでかい馬が誰かを轢いちゃうわよ。」

グラウクスはゆっくりと笑みを浮かべ、肩の力を抜いた。彼は遠慮なく彼女を眺めた。「君は変わってないね。」

「あなたは変わったわ。」彼女も遠慮なく答え、彼の革の鎧や腕や短いチュニックの下の脚を眺め回した。

「そうかい?」この自信たっぷりな女のどこがこんなに魅力的なんだろう?

「ええ。最初、本当にあなたかどうか自信がなかったわ。」彼女は大きな洗濯物の篭を腰の反対側に回し、片方の眉を上げて彼をじろじろと見た。「歳を取った…みたい。大人になったわ。落ち着いたみたい。まあ少なくとも、服装は違うわね。」

「君は変わってない」彼はもう一度言った。本当にそうだった。彼女の美しさは、記憶にあるよりもさらに輝いていた。彼女の肌は今でもしみ一つなく、歯に衣着せぬ態度も変わっていない。しかし、栗色の巻毛は頭の上に結い上げてあり、以前のように背中に靡かせてはいなかった。彼はためらいがちに訊いた。「再婚した?」

「そうよ。どうして分かったの?」

グラウクスはさりげなさを装って肩をすくめた。「君の髪。」彼は微笑んだ。「僕を待っててくれなかったんだね。」彼はからかうように言った。

「あら、待っていて欲しかったなんて知らなかったわ。」彼女は真面目に答えた。一瞬後、彼女は彼の肘を掴んで道の端に引っ張った。野菜を積んだ荷車が基地の方へ通り過ぎていった。彼女は篭を地面に置いて彼の緑の瞳を見上げた。「2年前に兵士と結婚して、男の赤ちゃんがいるの。」

「兵士の娘が兵士の妻になったんだ。素晴らしい。」彼は自分でも信じていないような口調で言った。何もかもが変わらなければいいと、非現実的な望みを抱いていたのだ−ガラスケースの中に保存されて彼の帰りを待っていてくれればいいと。彼は弱々しい微笑みを浮かべ、他に言う事はないか考えた。「なのにまだ洗濯をやっているのかい?」

彼がそわそわしているのを、彼女は鋭く見破った。「ええ。お金は多いほどいいもの。それに、夫は連隊と遠征している事が多いから…連隊は復活したのよ、ずいぶん縮小されたけど…それに、他にもう一つ養わなきゃならない口があるのよ。」

彼は彼女のほっそりしたウエストを見た。また妊娠しているのだろうか?

彼が途惑った顔をしているのを見て、彼女は唇を歪めて笑った。「基地に行ってたの?」

グラウクスは来た道を振り返った。「いや、まだだよ…ジョニヴァスを捜していたんだ。家に行ったけど、誰もいなかったんだ。彼がどうしたか知ってる?」

「ええ、知っているわ。」

「あの…彼は死んだのかい?」

「彼に話でもあるの?」

グラウクスは顔に落ちてくる巻毛をなでつけた。懐かしい仕草に、彼女はにっこりした。「そうなんだ。とてもいい話だ。どこにいるんだい?」

カタリナは洗濯物が溢れている篭を拾い上げ、彼の腕に押しつけた。何年も前にやったのと同じように。彼女は街に向かう道を先に歩き出し、彼を手招きした。「ついて来て。」

 

老人は彼女の台所に座っていた。大きな犬の頭が膝に乗っていて、彼はそばの揺り篭の赤ん坊を見つめながら犬の柔らかい頭を撫でていた。

ドアが開くと、ゼウスは頭を上げて耳をぴんと立てた。犬の濡れた鼻は懐かしい匂いを嗅ぎ付けてぴくぴくと動いた。グラウクスは駆け寄り、「ジョニヴァス…ジョニヴァス、戻って来たよ。」と叫んで腕を広げた。犬はグラウクスの声を聞いて跳び上がり、くるりと回転して、尻尾でも踏まれたような声を出しながら大きな身体を若いご主人の腕に投げ出した。

グラウクスは犬を抱きしめ、誉め言葉を呟きながら、ピンクの舌が顔を舐め回すのを避けようとしていた。彼は心配そうにゼウスの頭の向こうを見た。老人が木のテーブルの角に手をついて、ふらつく脚で立ち上がっていた。

「グラウクス…グラウクス…君なのか?」ジョニヴァスは前へ後へ首をひねりながら、声を頼りにグラウクスの居場所を探そうとした。ジョニヴァスの目がまったく見えなくなっている事にグラウクスは気がついた。元々悪かった視力が、ついに消えうせてしまったようだ。

彼は犬を降ろした。ゼウスはさっさとジョニヴァスの側に戻り、彼を守るように足元に座った。「ええ、ジョニヴァス、僕です。帰って来るって言ったでしょう?」元技師の耳が遠いことを思い出して、彼は大声で言った。

「ずいぶん長くかかったな。」ジョニヴァスは微笑んで手招きをした。「ほら、ほら、この盲目の年寄りを抱きしめておくれ。」

グラウクスはジョニヴァスを抱き寄せた。老人の足は床から離れ、彼はグラウクスの肩に腕を回してしっかりつかまった。ジョニヴァスの身体は重かったが脆かった。腕は骨ばっていて、髪は細く薄く白かった。グラウクスが慎重に彼を放すと、ジョニヴァスは手を伸ばしてスペインの若者の顔を撫でた。顔が濡れているのを感じて、彼は驚き、また喜んだ。「おいおい、泣いてるんじゃないだろうな?」彼は優しく叱った。

「もちろん、泣いてなんかいませんよ」グラウクスは嘘をついたが、そう言いながら鼻をすすり上げ、後ろに一歩下がって目をごしごしとこすった。

ジョニヴァスはにっこりして手探りで椅子を探し、うなり声を洩らしながら座りこんだ。木の椅子が彼の重みに軋んだ。ゼウスが戻って来て老人の膝に頭をのせた。「家に探しに行ってくれたのか?」

「ええ。あなたはいませんでした。」そう言ってしまってから、馬鹿みたいに分かりきった事を言ってしまった、と気がついた。

「一年ぐらい前に、目が全然見えなくなってしまってな。この親切な女性がわしを引き取ってくれたんだ。」彼はカタリナの方を向いて微笑んだ。彼女は息子を揺り篭から抱き上げて頬ずりをしていた。「とても親切にしてくれた。本当に優しいひとだ。」彼は犬の耳を撫でた。ゼウスは気持良さそうに目を閉じた。「息子から離れるのは辛かったが、もう自分の面倒を見られないんでな。彼女はゼウスも引き取ってくれたんだ。」彼の手がぴたりと止まった。「君の犬を迎えに来たんだろうな?」

グラウクスはテーブルに椅子を寄せたが、ゼウスは動かなかった。「僕の犬?もうあなたの犬ですよ。」

「おお…いや、いや、とんでもない。君の代わりに面倒を見ていただけだ。こいつは餌を食べ過ぎる。連れて行ってくれ。」しかし、彼は犬の襟首を掴んでぎゅっと引き寄せた。

カタリナは唐突に赤ん坊をグラウクスの腕に押しつけて言った。「食べると言えば、夕食の用意をする時間だわ。料理している間、ジャスティーニを見ていてくれるわね。泣いたら指の先を口に突っ込んで…でも、その前に手を洗ってよ。あなたの手、馬の味がするんじゃない?」

グラウクスは赤ん坊を抱き上げて、彼の青い目を覗き込んだ。ボンネットの下から、赤っぽい髪が少しのぞいていた。「きみはママ似だね」彼は甘ったるい声で言った。「よかったね」彼が赤ん坊をひょいと肩に乗せ、大きな手に座らせて手馴れた仕草であやし始めたのでカタリナは驚いた。赤ん坊はすぐに安心しきった様子でごろごろとのどを鳴らし、よだれをたらし始めた。

「慣れてるみたいね」野菜をむいて大きな黒い鍋に放り込みながら彼女は言った。

グラウクスはにっこりした。「僕はいとこが沢山いるから、赤ん坊の世話は何度かしたことがあるんだ。」

「自分の子供はまだ?」彼女は振り返って訊いた。

彼女は僕が結婚したかどうか気にしているんだな、とグラウクスは思った。「いや、いや、忙し過ぎてまだ考えてもいないよ。」

ジョニヴァスはとりとめのないお喋りに苛立ち始めた。彼は節くれだった、しみのある手をグラウクスの方に差し出した。「さあ、話してくれ。ここを出てから何があったのか全部話してくれ。」

グラウクスは深く息を吸った。「ジョニヴァス、僕はやりました。父の人生の謎を全て解き明かし、父の遺骨を見つけました。今はスペインで母の横に眠っています。」

ジョニヴァスは目を閉じ、声にならない感謝の祈りを捧げた。「君ならきっと成し遂げると思っていたよ。」

「あなたが最初に適切な情報をくれなければ、旅を始める事も出来ませんでした。帝国中を旅して回らなければなりませんでしたけど、ジュリアもマルシアヌスもルシアスも見つけました。それに…他の人も。」

「誰だい?」

「妹のマキシマです。ジュリアが父の娘を産んでいたんです。ローマにいます。美しくて強い、勇敢な女性です。心から愛しています。」

ジョニヴァスは喜んで手を叩いた。「素晴らしい事じゃないか!さあ、何もかも話してくれ。一言も漏らさずに。」

彼は話した。ローストチキンとニンジンと豆を食べながら。彼がまだ話している間に、カタリナが眠ってしまった赤ん坊を彼の腕から取り上げて、寝かしつけに寝室に消えた。彼女は話を聞き逃さないように扉を少し開けておいた。

暖炉の火は低く燃え、二本目のワインの壺は残り少なくなっていた。最後に、叔父や従兄と共にここまで来た旅の事を手短に説明して、グラウクスは話を終えた。

ジョニヴァスの白濁した目に情熱の炎が灯っていた。「まったく素晴らしい。君は全てを成し遂げたんだな、マキシマス。全てを。」

グラウクスは眉をひそめた。老人は酔っているのだろうか?テーブルの向こうに将軍が座っていると思っているのだろうか?スペインの若者は身を乗り出して、やさしく言った。「ジョニヴァス…僕ですよ…グラウクスです。」

ジョニヴァスは苛々と手を振った。「君が誰かはわかっとる。目は見えんでも、馬鹿ではないぞ!」彼はテーブルに両手をついて、若者と鼻をつき合わせんばかりの所まで身を乗り出した。「我々が初めて逢った時、わしが言った事を憶えているか?」

グラウクスは訳が分からず、黙ったまま座り直した。

「君が自己紹介した時だ。忘れたのか?わしが君をマキシマスと呼んだら、自分はグラウクスと呼ばれている、と君は言った。その時わしが君に言った事を憶えているか?」ジョニヴァスは熱っぽく言った。

グラウクスは眉をしかめ、思い出そうとした。

「考えろ!考えろ!」

突然、グラウクスはその時の会話を思い出した。

「君の名はマキシマスだろう?」

「はい、そうです。でも、この名を使ったことはないんです。父の名前で…僕のではありません。」

「君の名前でもある。」

「そう呼ばれたことはないんです。いつもグラウクスと呼ばれているので。育ての両親が、僕の身を案じて本当の名前を隠していたんです。」

「賢いことだ。わかった、君のことはグラウクスと呼ぼう。しかし、いつかは父親の名を…自分の名を…誇りを持って名乗れるようになるんだぞ…この旅が終ったら。」

「僕にその名を名乗る資格があるかどうか…」

「あるとも。君もいつかわかる。」ジョニヴァスは優しく微笑んだ。

「君の名はマキシマスだ!」ジョニヴァスは言い張った。「自分で勝ち取った名だ。君はあらゆる点でお父さんの息子そのものだ。君の名はマキシマスだ!」

グラウクスは言葉を探した。

「言いなさい!」ジョニヴァスは言った。「言うんだ!『僕の名はマキシマスです』と言うんだ。」

その夜二度目に、彼の目が潤んだ。「できません。とても思えない…」

「思えないか?その名を勝ち取ったとは思えんか?その名に相応しいとは思えんか?」

「あの…わかりません。」グラウクスはゆっくりと答えた。

ジョニヴァスの口調が柔らかくなった。「それでは、わしは君をマキシマスと呼ぶことにするよ、君が慣れるまで。すぐに自分に相応しい名だと思えるようになるさ。」

カタリナが眠っている赤ん坊を抱いて戻って来た。グラウクスは不安そうな目で彼女を見た。

彼女は「ジョニヴァスの言う通りよ」と言うように、しっかりとうなずいた。

 

第80章 壁画

翌日、グラウクスは一人で基地に行った。彼は肖像画を一人で見たかった。修復された壁画を最初に見た時、感情をコントロール出来る自信がなかったからだ。友人と親戚たちは後でゆっくり見ればいい。彼は背筋を棒のように真直ぐにしてアルターの背に座っていた。緊張で背骨がこわばっていた。ここに来たのは、何年か前、基地の牢に幽閉されて、その後セヴェルスとプローティアヌスと対面したあの時以来だ。不快な記憶が期待に影を落としていた。マキシマスの名誉回復を全ての連隊に徹底するという約束を文書で取り交してはいたが、ここでどのような出迎えを受けるか分からなかった。巨大な石の壁と物々しい門が目の前に聳え立つと、彼の指はこわばり、革の手綱から伝わるご主人の緊張にアルターは鼻を鳴らし、前脚を跳ね上げた。

グラウクスは馬を降り、名乗った。彼が誰か分かると、衛兵の顔に笑みが広がった。大きな樫の門が開き、グラウクスは馬に乗ってためらわずに通った。父の革の鎧を胸に、父の剣を腰に着けて。彼は肩の力を抜いた。誇らしさに背を伸ばし、空っぽの石造りの兵舎を抜けて、ヴィア・プリンキパリスを取って士官兵舎へ、父の家へ。そこに着く頃には、衛兵と兵士たちが気をつけの姿勢で立ち、門は招くように開いていた。彼は門を通った。恭しい囁きが細波のように広がるのが聞こえた−「マキシマス将軍−マキシマス将軍だ」グラウクスは馬を降り、兵士に手綱を渡し、衛兵の敬礼を受けた。

「お待ちしておりました。直接ご挨拶出来なくて申し訳ないと、ルフィウス将軍が申しておりました。将軍は連隊のほとんど全員を連れて河の上流の方に橋を修理しに行っているのです。あなたを家にご案内して、心ゆくまで見て頂いてよい、という命令を受けております。いつでもお入りになって下さい。」

「修復は済んでいますか?」グラウクスは訊いた。

「はい。職人は先週ローマへ帰りました。期待なさって大丈夫ですよ。」男は下がった。グラウクスは頭を下げ、階段を登ってひんやりとした暗いアトリウムに入った。

彼はしばらく立ち止まり、目が慣れるまで父の住みなれた家を眺めていた…母と兄も長い時間を過ごした家。彼はモザイクの床に踏み出したが、数歩でまた立ち止まり、柱廊に囲まれた明るい中庭、光を反射している小さな池、二つの石のベンチとテーブルを眺めた。しかし、本当に見たいの物はひとつだった。どのドアを入ればいいかは分かっていた。彫刻を施した樫のドアが、かつて父の眠った寝室に続いている。彼はゆっくりとドアを開きながら深く息を吸った。中に入ると、彼は目を閉じて右を向き、ゆっくりと息を吐きながら目蓋を持ち上げた。

あった…父の等身大の壁画。描かれた時そのままの鮮やかさで蘇っている。彼はまず少し離れた所から見て、壁画全体を頭におさめようとした。壁全体が、ドナウ地方の自然を忠実に再現した絵で埋まっていた−緑の山脈、深く濃い緑の森。空は豊かな青、柔らかい白い雲が浮かんでいる。日光が馬上の男の影を落としている。グラウクスは数歩近づいた。マキシマスは蒼黒色の馬に乗っていた。前脚を跳ね上げている馬は、不思議なほどアルターにそっくりだった。山から吹く風がケープを靡かせ、広い肩にさりげなく掛けた銀の狼の毛皮を揺らしていた。グラウクスはもう一歩前に出た。鎧が日に輝き、狼の頭部やグリフの飾りも、段になった肩当てや脚に落ちる革垂れも詳細まで丁寧に描かれていた。鎧は防御のために作られたもので、栄光の徴ではなかったが、それは王者のような堂々たる風格を湛えていた。対照的に、上腕と太腿をやさしく覆うワインレッドの上質の羊毛のチュニックは、柔らかく、親しみやすく見えた。鉄と革が手を守り、右手は剣を振り翳していた。彼の息子の腰に下がっている、まさにこの剣だ。革のブーツは膝まで紐で編み上げられ、マキシマス膝の温かい肌がわずかに日にのぞいていた。

グラウクスはさらに近づいて父の顔を見上げた。強く、しかし優しい顔−スペインで、あのほんのわずかな時間に目にしたのと寸分たがわぬ顔。彼は誇り高く堂々と背筋を伸ばし、青い目は鋭く、しかしユーモアの光を湛え、唇は僅かな笑みに歪められていた。母は彼の姿を完璧に捉えていた。巨大な力、強さと権威を持ち、しかし思いやりの心を忘れなかった男。

これほどの男が、今はもういないのだ−グラウクスの心は痛んだ。ローマは彼を必要としていた…彼の家族も、彼を必要としていた。そして僕も。何故死ななければならなかったんだろう?グラウクスは目を霞ませそうになった涙をいらいらと拭き取った。彼は手を伸ばし、震える指で冷たい漆喰に触れた。母は高度な技術で絵具を塗っていた。彼はつま先立ちになって、指先で父の唇を辿った。それは冷たい壁ではなく、生命の宿った温かい肉体であると想像しながら。唇に笑みが広がり、瞳の輝きが増したような気がした。彼は指を自分の唇に軽く押し当てた。そして、もう一度背伸びして同じ指で父の頬を撫でた。それから後に下がり、素晴らしい肖像画を魅入られたように眺め続けた。

素晴らしいフレスコ画の隅々までを頭に刻み込もうとしながら、これがスペインの我が家の壁にあればいいのにと思いながら、どのぐらいそこに立っていただろうか。彼はようやく左を向き、母が描いたもう一つの壁画を見た。農場の絵だった。高いポプラの木の下に、小さな人の姿が二つ描いてあった。彼は屈み込み、姉の墓の近くに立っている母と兄の肖像を見た。二人は手をつないでいた。兄は無邪気で可愛らしく、母は美しく優雅だった。

二人の絵に触れようと手を伸ばしたその時、突然、彼の頭の中で白熱の光が爆発した。彼は気を失い、その身体はぐったりと床に倒れた。

 

頭の割れるような痛みがようやく彼を目覚めさせた。彼は転がって横向きになった。少し動いただけで、頭蓋骨がバラバラになりそうだった。彼は頭を抱え、身体が裏返しになったような気分になるまで吐いた。彼は起き上がろうとしたが、竜巻のような眩暈の波が押し寄せて、床に四つん這いになってまた少し吐いた。

ようやくなんとか頭を持ち上げ、苦痛にうめき声を上げた。彼は目を開け、霞む目で周りを見回した。ここはどこなのだろう。薄暗い明りさえ、彼の頭にナイフのように突き刺さった。それでも、彼は無理やり周りを調べた。目の前の床に、黒い縞の入った、傾いた長方形の陽だまりがあった。グラウクスは混乱し、それが何なのか考えようとした。突然、思い出した。苦痛と恐怖にうめき声を上げ、彼は牢屋のドアの鉄格子を見上げた。ドアの向こう側に、冷笑を浮かべた男が立っていた。

プローティアヌス。

グラウクスは、自ら罠に踏み込んでしまったのだ。

 

第81章〜86章