Glaucus' Story:第81〜86章

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第81章 虜囚

「ここに来ると思っていた。ローマでのささやかな勝利を誇りにな」近衛隊長は嘲笑した。「貴様のやる事などお見通しだ。せいぜい今のうちに勝ち誇っていればいい、この薄汚い豚め。ローマで全てが終ったとでも思ったか?馬鹿め!俺に恥をかかせた報いを受けさせてやる。あの間抜けなセヴェルスは好きなように操れても、俺はそうはいかんぞ。俺は誰の命令も受けん!」

グラウクスは苦痛をこらえ、ゆっくりと膝をついて、鉛のように重い身体を持ち上げて革の寝台に座った。宿敵に言葉を返すどころか、視線を返す力もなかった。

「終ったと思っていたか?そうだな、ここで終りだ。貴様の命がな。」プローティアヌスは牢の外を行ったり来りしながら唾を飛ばした。鎧が物々しい音を立てていた。「ローマでの茶番の償いを受けさせてやるぞ…貴様が『どうか早く殺して下さい』と言うまで、ゆっくり痛めつけてやる」

グラウクスは深呼吸して、咽喉元にこみ上げた吐き気をこらえた。彼は胃の辺りを掴んだ−手に触れたのは布だけで、革はなかった。彼はマキシマスの鎧と剣を探した。なかった。彼はうめき、目を閉じた。

「しかし、おれが痛めつけるのをちゃんと感じられる位には目を覚ましてもらわんとな。究極の苦痛を感じてもらう。」突然、プローティアヌスの声から怒りが消え、満足と期待が現れた。「今のうちに寝ておけ。夜になったら戻る。」牢の外側の扉が閉まる重々しい音がした。

グラウクスは寝台に横たわり、腕で目を覆った。他に何が出来ただろう?叫んでも無駄なのは経験から分かっていた。彼の声は、基地の厚い外壁に吸い込まれるだけだろう。プローティアヌスが彼に何をするつもりなのかは考えたくなかった…その腐った心がどんな残虐な拷問を考え出すかなどは。その代わり、彼は親戚たちの事を心配していた。無事だろうか?それとも、他の牢に入れられて同じような運命を待っているのだろうか?彼はローマで見た黄金の服の宦官たちを思いだし、身震いして、頭を空っぽにしようとした。

 

「グラウクス?グラウクス?」

彼は起きあがった。何だ?誰が僕の名を呼んでいるんだ?

グラウクス?

窓の外から聞こえる。彼は頭痛を堪えながら、慌てて寝台の上に立ち上がり、窓の鉄格子に向かって言った。「ここだ!ここだよ!助けてくれ!」

「どの監房ですか?」くぐもった声が聞こえた。

「ブレヌス、君なのか?」

「ええ。あなたが夕食に来なかったので、ジョニヴァスが心配して、旅篭に探しに行くようカタリナに頼んだんです。あなたが前にここに来た時何があったか思い出したそうです。」

「君はどこにいる?」

「基地の外壁の上です。梯子で登りました。」

「何てこった、すぐに降りろ!矢を射掛けられるぞ!」グラウクスは叫んだ。「衛兵に見つかる!」

「みんな呑んだくれてます。だれも見ていません。それに、もう暗いし、よく見えませんよ。」

「ブレヌス、彼らはただの兵隊じゃない、近衛兵だ。僕は罠に嵌ったんだ。プローティアヌスがここに来ている。僕を拷問して殺す気だ。ここから出してくれ!」彼は痛みを堪えるために深呼吸して、「他の人たちは?」と訊いた。

「無事です。旅篭で知らせを待っています。とても心配しています。」

「ブレヌス、武器を持っているか?」

「剣を持っています。」

「剣が必要だ。僕に渡してくれ!」

「受け取ってくれるなら投げます。あなたがどの窓にいるか、見当はつくんですけど、自信がなくて…」

グラウクスはつま先立ちになって伸び上がったが、指先はまだ窓縁のかなり下にあった。もし届いたとしても、鉄格子は内側に嵌っているだろうし、牢の壁は少なくとも腕の長さほどの厚さがあった。剣を掴むには、かなり手を伸ばさなくてはならない。何か踏み台にする物はないかと見回したが、低い寝台以外には何もなかった。彼は跳び上がった。指が窓の縁に届いたが、掴まる事は出来ず、そのまま滑り落ちてしまった。もう一度やってみたが、結果は同じだった。

「グラウクス?」

「窓に掴まろうとしているんだ。ブレヌス、ちょっと待ってくれ。」グラウクスは寝台から降りて鉄格子の方へ行き、廊下を覗いた。 誰もいなかった。その時初めて、彼はここが前回閉じ込められた小さい牢とは別の牢であることに気がついた。ここは前よりずっと広く、扉には上から下まで等間隔に鉄の棒が嵌っている。確か前は鉄の扉で、細長い穴が開いているだけだった。しかし、前の牢と同じく、基地の外壁に沿っているに違いない。彼は息を整えて寝台に跳び上がり、擦り切れた革が床までたわむような勢いで、両足で跳ね上がった。彼は伸び上がって窓の柵を掴んだ。指が冷たい金属に触れた。彼はゆっくりと身体を引っ張り上げた。前腕と膝が石壁にこすれて酷く擦りむけた。彼の身体を支えるには窓の窪みが浅すぎたので、彼は片手に全体重をかけ、柵の間からもう一方の手をできる限り遠くまで突き出した。「ブレヌス!」彼は唸るように言った。「僕の手に向かって投げるんだ。気をつけて」グラウクスは荒い息をした。「僕の手の中に落ちるようにしてくれ。」

「手が見えます。もう少し伸ばしてくれますか?壁に当たって、拾いに行けない所へ落ちてしまいそうです。」

グラウクスは腕の痛みにうめいた。「これ以上は無理だ。そっと投げてくれ。」

「いいですか?」

グラウクスはうなずいた。「いいぞ!」彼は指先を金属がかすめるのを感じて、それを思いきり掴んだ。彼はなんとか刃の先を親指と人差し指で掴み、慎重に手を動かして、しっかりと握った。彼は息を呑み込み、剣を横向きにして腕に沿って平らになるように滑らせた。そしてそのまま崩れるように寝台に倒れこみ、疲労と苦痛にうめき声を上げた。擦りむいた腕と膝から血が滲み出していた。

「グラウクス?」

彼はぱっと立ち上がり、窓に向かって言った。「受け取った。助けを呼んで来てくれ…でも、ブレヌス…」

「はい?」

「忘れるな−ここの兵隊は近衛兵だ。プローティアヌスがここを押さえている。気をつけろ。」

「あなたも。」そう言って、ブレヌスは去った。

グラウクスは剣を寝台と壁の間に縦に刺し、柄が背中に当たるようにした。彼は頭痛を癒やそうと目を閉じて座り…そして待った。

 

第82章 力と名誉

牢の中はほとんど真っ暗闇だった。鉄格子の間から射す銀色の月光が唯一の明りだった。外の茂みでコウロギが孤独な唄を唄い、どこか遠くでフクロウがホーホーと鳴いていた。心乱す声。不吉な前兆だろうか?グラウクスは身体から力を抜いて体力を温存しようとしたが、心臓は早鐘のように打ち、身体中に血を巡らせていた。頭痛はなんとか治まり、代りに耳鳴りがしていた。前腕の血は固まり、かさぶたが出来かけていた。

処刑のため森に連れて行かれる時、マキシマスもこんな気持がしただろうか?手足は痺れ、神経がぴんと張詰めたような気がしただろうか?胃が捩れ、掌に汗をかいただろうか?マキシマスは計画を練っただろうか。それとも、ただ動くべき時をじっと待っただろうか?−今、彼の息子が強いられているように。

マキシマスならどうしただろう?

「父さん、今日は僕のそばにいて下さい」グラウクスは囁いた。「僕の心を静め、手を導いて下さい。」

廊下で鉄の扉が石壁に叩きつけられる音がした。その反響が壁を伝い、寝台を震わせた。グラウクスは反射的に立ち上がったが、無理に膝を折り、座った。待ち構えていたように見えてはまずい。

廊下を薄暗く照らしていた松明がだんだん明るくなり、牢の鉄格子越しの燃える光がグラウクスの目を眩ませた。彼は手を翳して目を細めた。やって来た男たちの中にプローティアヌスがいるものと思っていた。しかし、鉄格子の向こうに集まった、気軽な恰好をした4人の中に近衛隊長はいなかった。それぞれが松明を持っていて、影が長く、気味悪く伸び、悪魔のように踊っていた。

牢の鉄格子にじゃらじゃらと鍵の当たる音がした。「立て!」一人が怒鳴った。

グラウクスは従わなかった。「なぜこんなことをしている?どうして彼に服従しているんだ?僕の父がマルクス・アウレリウスを殺したという嫌疑は晴れたし、僕の逮捕状も撤回されたんだ。知っているだろう?」

衛兵たちはにやにやと笑った。

「なら、なぜプローティアヌスの味方をしているんだ?」グラウクスは訊いた。

「当然だろう?彼は我々の司令官だ」一人が答えた。

グラウクスの鼻腔にワインの匂いが漂って来た。こいつらは呑んだくれていたらしい。「君たちの司令官は皇帝だろう?皇帝が僕を解放するように命令したんだ!」

「馬鹿め」別の男が唾を飛ばした。「プローティアヌスの望みを叶えるのを手伝ったら、体重と同じ重さの金を貰える約束だ。これを断る奴がいるか?」

グラウクスは相手と互角になる方法を探した。剣があろうとなかろうと、武装した相手が4人では勝ち目はない。「僕はここを動かない。」

衛兵たちは笑った。「勇ましいじゃないか。自分の立場を考えろ。」

衛兵の一人が鍵を開けようとしながら、何気なく鉄格子に手を廻した。グラウクスは剣を手に寝台から跳躍し、無防備な指に剣を振り下ろした。血と肉が飛び、男は苦痛の悲鳴を上げて仲間に倒れかかった。彼の松明が床に弾んで、他の二人の脚を火傷させた。残りの一人が激怒のあまり、無謀にも鉄格子越しに剣を持った手を伸ばし、仲間の怪我の復讐をしようとした。仲間の悲鳴に彼の悲鳴が加わった。彼は血の吹き出る肘を押さえた。彼の前腕と剣が牢の床に落ちた。

グラウクスはその剣を掴み、斬り落とされた手を隅に蹴りこんだ。彼は両手に剣を持って立ち、深く息を吸った。顔と手に近衛兵の血が滴っていた。

手を失った兵は恐怖の叫びを上げながらよろよろと牢の外扉に向った。指を失った兵と、脚を火傷した二人の兵がそのすぐ後に続いた。ドアが閉まる音がして、牢は急に静かになった。グラウクスの荒い息だけが静寂を乱していた。これで闘いが終わったとは思わない。最初のラウンドには勝ったが、まだ虜囚の身だ。まだプローティアヌスが有利だ。グラウクスは肘と手首と膝を曲げたり伸ばしたりして、少しでも身体の緊張をほぐしてすぐ動けるようにしようとした。次に何が起こっても対処できるようにしておかなくては。

1分が1時間にも思える時が過ぎた後、ようやく牢の外扉が開き、足音がつかつかと近づいて来る音がした。戦闘準備を整えたプローティアヌスが鉄格子の向こうに立ち、その両側に二人の射手がいた。射手たちはゆっくりと慎重に矢を番え、弓を上げた。「剣を落として廊下に蹴りだせ。柄を向けて」プローティアヌスは冷たい声で命令した。

「断る」

プローティアヌスは手におえない子供を見るような目でグラウクスを見た。「二本の矢が真直ぐ貴様の心臓を狙っている。俺の命令で矢を放つ。」彼は顎を引いて囚人を睨みつけた。「剣を落とせ。」

グラウクスは寝台の辺りの暗がりに身を潜めた。目はプローティアヌスを見つめたままだった。「断る。」

「馬鹿め!」近衛隊長は唾を飛ばした。「そのまま動くな」彼は衛兵たちに命令し、廊下に消えたが、すぐ戻って来た。彼はブレヌスの腕を掴んで引きずっていた。怯えた少年はよろよろと膝をついたが、プローティアヌスが引っ張り上げてナイフを喉に当てた。「さあ、剣を落としてドアの下から蹴り出せ。柄をこちらに向けて」

ブレヌスは目を皿のように見開いて、グラウクスに言葉にならない謝罪を訴えていた。

グラウクスはゆっくりと二本の剣を下ろし、石の床に置こうと背を曲げた。その時、一本の矢が彼の頭上を通過した。しゅっ!矢は射手の一人の無防備な咽喉を直撃し、彼は後ろ向きに壁に激突した。光を失った目を、信じられないと言う様に見開いたままで。しゅっ!もう一人の射手も、避ける暇もなく倒れた。はずみで飛び出した矢は石の天井に当たった。グラウクスは背を屈めながら、牢の窓をちらりと見た。恐ろしいほど正確な矢はそこから飛んで来た。矢がもう一度窓から飛んできて、プローティアヌスはあわてて伏せた。彼は血塗れの床で滑り、どしんと倒れたはずみでブレヌスから手を放してしまった。同時に、牢の鍵が手から落ちた。彼は両方を取り戻そうと焦り、両方を取り逃してしまった。

ブレヌスはプローティアヌスの上に飛び掛り、鍵を牢に蹴り込んだ。その直後、革を巻いた拳が彼の顎に叩き込まれた。少年の身体は隅に吹っ飛び、壁をずるずると崩れ落ちて床にぐったりと伸びた。プローティアヌスは蛇のように這いずり、鍵に手を伸ばした。しかし、鍵は既にグラウクスの手の中にあり、近衛隊長はグラウクスの剣が床に振り下ろされる一瞬前に手を引っ込めた。剣は彼の指をぎりぎりで逃した。

プローティアヌスは激怒して立ち上がろうとしたが、何本もの矢が飛んで来てまたうつ伏せに倒れた。矢は鎧をかすめ、彼は頭を抱え込んだ。一本の矢が左膝のすぐ上に命中し、彼は叫び声を上げた。「衛兵!衛兵!」彼は叫んだ。グラウクスが牢の鍵を開けようと焦る間に、プローティアヌスは膝をつき、立ち上がり、外扉へ向ってよろよろと歩いて行った。彼の手がドアノブに届いた瞬間、グラウクスが彼に飛び掛り、振り向かせて顎に剣の柄を叩き込んだ。プローティアヌスの頭がのけぞり、目が一瞬眩んだ。近衛隊長は呆然と膝をついた。彼はゆっくりとグラウクスを見上げた。鋭い剣の切っ先が目の前を泳いでいた。プローティアヌスは懇願するようにゆっくり腕を広げた。「ひざまずいている男を殺すのか?」

「立て。」

「よく考えた方がいいぞ、グラウクス。この牢を出ようとしてみろ、矢か剣がたちまち貴様を倒すぞ。俺がどうなろうと同じだ。」

「そうは思わないね。」

プローティアヌスは嘲笑した。「貴様の友達が助けに来ると思っているのか?一人はそこの床に伸びているし、他の連中も俺の部下にはかなわない…」

「部下だって?」グラウクスが遮った。「扉の外であんたを助けようと奮闘している連中かい?」グラウクスは頭を少しだけ回し、耳を澄ませているように眉を上げた。「おや、何も聞こえないようだぞ。」彼は意地の悪い笑いを浮かべた。「外で何をやっているのか知らないが、ここはあんたと僕だけのようだ。二人きりだな−そして、僕の方には神々が味方についている。皇帝も。」

「皇帝は貴様のファンではないぞ。」

「多分ね。でも、あんたの事はもっと嫌っている。僕がローマであんたを殺さなかった時、皇帝はずいぶんがっかりしていたみたいだぞ。今殺せば、褒美をくれるだろうな。」

プローティアヌスはゆっくりと立ち上がり、グラウクスは二本の剣を構えて一歩下がった。「貴様に褒美をやる前に、奴は消える。セプティミウス・セヴェルス皇帝は、その地位を得たのと同じ方法で失うだろう。」

「何の話だ?」グラウクスは用心深く訊いた。

「皇帝は軍の支持あってこそ権力を維持できる。今の軍はセヴェルスを嫌っている。」

「それで、誰が代わりの皇帝になるんだ?」

「もちろん俺だ。計画は既に進んでいる。」

グラウクスの笑い声が石の廊下にこだました。「あんたが?!軍があんたを支持するとでも思うのか?どうして?」

「金だ。軍はいい金を払う人間に忠実だ。」

「僕を捕らえた連中を買収したみたいに?」

「当然だ。兵隊は金のためなら何でもやる。」

「そんな兵隊ばかりじゃない」グラウクスは唸った。

「ああ、そうか、忘れていたよ。貴様のかの偉大なる父上殿は別だな」プローティアヌスは嘲った。「アリーナで奴隷として、自分の血に塗れて死んだ男だ。」

「父は高潔な人間だった」グラウクスはうめき、プローティアヌスの鼻の下で剣の先を振った。

「高潔な死人だ。死んでしまえば、名誉など何の役に立つ?」

「名誉こそ全てだ。」

「力こそ全てだ。」

「名誉のない力なんて、何の意味もない!」

プローティアヌスは忍び笑いをもらした。「この点では意見が合いそうもないな。」彼はさりげない仕草でドアにもたれ、腕を組んだ。「それで、どうする?丸腰の男を殺すか?それは殺人だぞ。殺人に名誉はない。」彼はグラウクスが左手で握りしめている剣をちらりと見た。「互角の勝負をしようじゃないか。」

 

第83章 対決

「グラウクス、剣を渡しちゃだめだ」

ようやく意識を取り戻したブレヌスを見るために、グラウクスは少しだけ頭を廻したが、剣の向こうの残忍な顔からも視線を外さなかった。彼はまだ暗闇の中にいる年若い友人に、「大丈夫か?」と訊いた。

「剣を渡してはいけない。危険過ぎる」ブレヌスはグラウクスの質問を無視して答えた。彼はどこかに転がっている筈の松明を手探りで捜しながら闇の中を這い進んだ。見つけても、どうやって灯したらいいのかは分からなかったが。

プローティアヌスは月光の中で嘲笑った。「口だけは勇ましいな。自分は安全な物陰に隠れているくせに」彼はグラウクスの左手の剣の方へ首を振った。「どうする?正々堂々と闘うか?人殺しになるか?」

しかし、ブレヌスは隠れてはいなかった。彼は近衛兵が捨てた松明を探し当てて立ち上がり、中の方でまだ火花がくすぶっているのを見てほっとした。彼は松明をそっと吹いた。松明は一瞬燃え上がったが、すぐにまたぶすぶすとくすぶった。彼は喜んで、石のように動かないグラウクスの方へ駆け寄った。何をしているかも見えない暗闇で、友人をプローティアヌスと闘わせるわけにはいかない。少年はグラウクスの肩の側で松明を上げ、決然と息を吹いて火花を起こした。松明は唐突に大きく燃え上がった。グラウクスは顔を火傷しそうになってぱっと跳びのいた。首に当たっていた剣の先が離れたのを感じて、プローティアヌスは急いで閂を外して牢の扉に体当たりし、闇の中に転がり出た。でっぷりとした身体に似合わぬ素早さで、彼は牢の建物の陰に駆け込み、高く茂った草むらに消えた。松明の光で一瞬目を眩まされたグラウクスは、ドアの音が聞こえて冷たい夜風が脚に当たるまで、プローティアヌスが逃げたのにも気づかなかった。彼は申し訳なさそうな顔をしているブレヌスを横に押しやり、剣を手に階段を飛び降りた。辺りは真っ暗で何も見えない。彼は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。コウロギさえ、突然の侵入者に驚いて黙り込んでいた。グラウクスは悔しさに歯軋りしたが、待ち伏せされているかもしれない場所に敵を追って行くのは無謀だ。「くそっ!」彼は毒づいた。「くそっ!くそっ!」

ブレヌスは彼の後から小さい声で言った。「気を散らせてしまったんですね。あの…ごめんなさい。助けようと思ったんです。」

グラウクスは闇の中を空しく見回した。「君は勇敢だった。僕の命の恩人だよ、ブレヌス。何も謝る事はない。」

「ぼく…あなたは誇り高い人だから、奴に剣を渡したりするんじゃないかって…」

もう少しでそうするところだったとは言えなかった。グラウクスはブレヌスに剣を渡し、話題を変えた。「僕の親戚たちはどこにいる?窓から矢を射込んでくれたのはタキトゥスかい?」

「そうです。あなたの次に弓矢が上手いのは彼だそうです。」

「タキトゥス、まだそこにいるかい?」グラウクスは大声を出した。「僕は外に出た。もう降りていいよ。でも気をつけて。プローティアヌスがどこかに隠れている。」彼はブレヌスの方を向いて声を低くした。「他の人たちは?」

「あなたの伯父さんのタイタスは馬で河の上流に行きました。連隊を探しに。ペルシウスとクローディアスは、この近くのどこかにいます。」彼は目を細めて門のあるあたりの暗がりを見つめた。「二人は他の近衛兵たちを足止めしているんです。何があったのか知らないけど、妙に静かですね。」

「多勢に無勢だ」グラウクスが静かに言った。

「ああ、でも二人は素面だ。」牢の陰から現れたタキトゥスが陽気な声で言った。「近衛隊の方は、とても素面とはいえなかったな。」彼は弓を肩に担いで、弟のように愛している従弟を抱きしめた。

「ありがとう、タキトゥス」グラウクスがつぶやいた。

「いいんだよ。君も私のために同じ事をしてくれただろう。」タキトゥスは弟分の髪をくしゃくしゃにした。

「どうやってあんなに難しい射撃を…」グラウクスが言いかけたが、ブレヌスが興奮して遮った。

「ほら!あそこ!」彼は基地の門を指差しながら言った。「松明だ!二つ!松明を振っている!」

三人は誘うように揺れえる炎を見つめた。「罠かもしれない」グラウクスは言った。「またのこのこと罠にかかるのは気が進まないな。こちらは黙っていて、向こうから声を掛けさせよう。」

「そうだな。」タキトゥスは賛成した。ブレヌスは賢明にも黙っていた。

三人は肩を並べて立ち、揺れる炎が近づいて来るのを黙って見つめていた。ようやく声が聞こえた−「タキトゥス?グラウクス!」

「クローディアスだ」タキトゥスは笑い、弓を下ろした。グラウクスは肩の力が抜けるのを感じ、従兄と叔父を暖かく迎えた。三本の松明に照らされて、男たちは手短に挨拶を交わした。グラウクスは牢の中で何があったか話したが、プローティアヌスに逃げられてしまった経緯は省略した。彼は他の人たちが何をしていたか訊いた。

「まあ、わりと単純なことだよ」ペルシウスが笑った。「近衛兵たちはべろべろに酔っていたから、騙すのは簡単だったよ。連隊の兵士たちを見つけたんだ。門を守っていた兵士たちだけど…縛られて、さるぐつわをされていた。僕たちが解放して、もう持ち場に戻っている。代りに近衛兵たちを縛って置いて来た。」

「それじゃ、門は安全なんだね?」グラウクスが訊き、ペルシウスはうなずいた。「じゃあ、連隊の兵士たちに、誰も基地から出さないように言って。絶対誰も逃がさないように、全部の壁を見張ってくれって。プローティアヌスがどこかにいるんだ。必ず見つける。ここで決着をつけなければ、いつまでも祟られる−どちらかが死ぬまで。」彼はもう一度、牢の裏の草むらを見つめた。「怪我をしているが、まだ危険だ。」グラウクスは親戚たちの方に振り返った。「ペルシウス、門に戻って、そこにいてくれ。ブレヌスも一緒に行ってくれ。クローディアス、馬で街まで行って応援を呼んで来てくれ…連隊が戻るまでどれぐらいかかるかわからない。タキトゥス、僕と一緒に来てくれ。弓の達人がいると助かる。」全員がうなずいた−親戚の内で一番若いグラウクスが指示を出しているのを疑問に思う者はいなかった。彼らはそれぞれの仕事に向かった。

「グラウクス、どこへ行くつもりだい?奴はどこにいると思う?」タキトゥスが従弟の横を歩きながら訊いた。

「プラエトリアム(総督幕舎)だ。多分、武器が置いてあるのはそこだ。」

「奴は君と対決するつもりだと思うか?ずっと隠れているつもりじゃないのか?」

「隠れても無駄だとわかっていると思う。僕が草の根を分けても捜し出すという事はわかっているだろうから。」

 

従兄弟たちはしゃがみこんで、銀色の月光に照らされたプラエトリアムの閉ざされた門を見つめた。プラエトリアムは砦の中の砦だ。将軍とその副官が住み、武器が収納されている所。プローティアヌスがそこにいるなら、連隊が残していった武器は全て手に入れられるはずだ。聳え立つ壁は厚く、強固で、内側にいる人間は圧倒的に有利だ。壁の上にじっと横たわって、入ろうとする者を襲う事もできる。

「門から入るわけにはいかないな。奴が待ち伏せしているかもしれない。」グラウクスは囁いた。「何とかして壁を越えなきゃ。」

「どうやって?私の身長の三倍はあるぞ。登れるような木もない。」

「別の入口がある筈だ。侵入者が砦に入って、この中に将軍を追いつめたら?逃げ道がある筈だ。ここを建てた人は、それを考えていた筈だよ。」

タキトゥスはうなずいた。「筋が通ってるな。でも、簡単には見つからないんじゃないか?真っ暗だし。」

「ジョニヴァスがいたらなあ。彼なら教えてくれるだろう。ここを建てたのは彼かも…待てよ!父の家を建てたのはたしかに彼だ。地下に暖房炉があるのを見せてくれた。基地が侵略された時、母と兄がペルシウスと一緒に隠れていた所だ。」グラウクスは突然嬉しくなって従兄の肩を叩いた。「タキトゥス、正門に行ってペルシウスを呼んで来てくれ。彼の助けがいるんだ。」

タキトゥスはためらった。グラウクスを一人にしたくなかった。「わかったよ」彼は気が進まないそぶりで言った。「でも、私たちが戻ってくるまで何もするなよ。」グラウクスはうなずいた。タキトゥスは背をかがめてゆっくりと歩いて行き、その姿は闇に溶けた。

 

一人になったグラウクスはプラエトリアムの壁の陰に潜んでいた。壁のでこぼこした表面が仄かな月光に浮かんでいた。父はこの中に住んでいたのだ。母と兄も、しばらく住んでいた。父の家の中には、母が描いた大切なフレスコ画がある…彼女の夫への愛の証しだ。グラウクスはぱっと立ち上がった。壁にぶつかって頭がくらくらした。あのフレスコ画。プローティアヌスは腹いせにあの壁画を壊したりしないだろうか?

するに決まっている。

グラウクスはゆっくりと座り込み、冷たい石に背中を押しつけた。心臓が早鐘を打っていた。あのフレスコ。大切な、大切な絵だ。父が存在した事を世に示す証拠はあれだけなのだ。マキシマスの偉大さと、彼がローマのために払った犠牲を人々に思い出させる物は、あれしか残っていないのだ。

グラウクスは立ち上がり、木の門へ方へそろそろと動き始めた。彼は立ち止まり、頭に矢が降り注いで来るのを覚悟しながら上を見上げた。

辺りは静寂に包まれていた。

彼は断固とした足取りで歩み寄り、門を押した。錆びた蝶番が調子っぱずれの歓迎を唄った。

 

第84章 プラエトリアム

グラウクスは混乱していた。頭の半分は自分の愚かさを咎め、あとの半分は早く行けとそそのかしていた。それでも、フレスコ画への心配が身の安全への心配に勝ち、彼は門をくぐった。後で門が勝手に閉まり、蝶番の軋み音が彼の到着を知らせていた。彼は素早く近くの建物の陰に駆け寄り、壁にはりついて息を整えた。拳が白くなるほど剣の柄を握り締めていた。近衛兵の剣…父の剣ではない。

マキシマスの剣。

あの剣も、プローティアヌスが持っているのだろうか?

新たな心配が、彼をまたしても行動に駆り立てた。彼は何にも妨げられることなく陰から陰へと走り、すぐ向こうに将軍の家の角が見える建物まで行った。彼は手の甲で目にしみる汗を拭おうとして、自分が拳を固く握り締めていたのに驚いた。彼は無理に指を広げ、曲げたり伸ばしたりした。それから膝の屈伸をしてリラックスしようとした。いざという時、緊張で身体が動かないのは困る。彼は三回深呼吸し、建物の角からジョニヴァスが父のために建てた家を覗いた。家は静寂に包まれていた。衝動が彼をつき動かしたが、今度は理性が勝ち、彼はじっと立ったまま状況を把握しようとした。

仄かな輝きが東の空を染め始めていた。もうすぐ夜明けだ。明るくなったら、プローティアヌスが有利になるだろうか?グラウクスは何度かここに来た事があるが、プローティアヌスのようにこの家の隅々までを知り尽くしてはいない。夜が明ければ不利になるだろう、とグラウクスは考えた。再び行動に駆り立てられ、彼は道を駆け抜けて父の家の壁に身体を押しつけ、灰色の石壁をゆっくりと這うようにして反対側の角まで行った。彼は父の寝室の高窓を見上げた−中にほのかな光が見える。

プローティアヌスが中にいる。もう間違いない。

グラウクスは忍び足で窓の下を歩き、家の正面に出た。ドアは開いていた。開いた入口は、誘惑の唄を唄うセイレーンのように彼を誘った。胸に剣を構えたままの彼を、脚がひとりでに玄関へと運んだ。アトリウムの床の真ん中に、父の剣闘士時代の鎧があった。革に銀の飾りを施した鎧が、父の寝室の開いた扉から漏れる黄色い松明の明りに照らされて、黄金に光っていた。プローティアヌスが狙いをつけられるように置かれた罠だ。グラウクスは敢えて無視した。

彼は用心深く、つま先を使って片足づつサンダルを脱ぎ捨てた。少しでも足音を立てたくなかった。彼は音もなくアトリウムに忍び込み、漆喰の壁にはりついた。体中に力が湧いていた…湧き上がっていた。戦闘準備は万全だ。彼の五感は開いた扉と瞬く黄色い光に集中していた。今夜、この家を生きて出て行くのは二人のうち一人だけだ。それは良く分かっていた。彼の筋肉は弛緩し、同時に増強された。呼吸は深く、規則的になった。彼は腹の底まで酸素を吸いこんだ。血液が血管を駆け抜け、顔が熱くなるのを感じた。準備はできている。彼は豹のように密やかに動き、父の寝室の開いたドアの横まで行って、ドアと枠の隙間から覗き込んだ。プローティアヌスは入口に背を向け、いかにもさりげない様子で立っていた。彼は向こう側の壁を見つめていた。マキシマスのフレスコだ。

「いい絵じゃないか、ええ?」プローティアヌスはフレスコ画に向かって言ったが、グラウクスは自分に向けられた言葉だとわかっていた。「駿馬に騎乗した栄光溢れる姿。王者の威厳だ。彼はいい皇帝になっただろうな。そう思わないか?」プローティアヌスは嘲るように言った。

これも罠だ。グラウクスは乗らなかった。

プローティアヌスはゆっくりと振り返った。近衛隊長の手に父の剣が握られているのを見て、グラウクスの心臓は飛び上がった。プローティアヌスは剣をゆっくりと回した。松明の光が柄に反射し、純金の閃光を散らしていた。「この剣もまた、立派な形見じゃないか。マキシマスの剣だと言う事は、誰の目にも明らかだ−フレスコに永遠に証拠が残っている。最愛の将軍への、」プローティアヌスは冷笑を浮かべた。「皇帝からの感謝の印だ。マルクス・アウレリウスと、彼が選んだ後継者。素晴らしい物語だ。しかし、我々は物語のその後を知っている。そうじゃないか?偉大なる男の形見は、今やこのフレスコと、将軍の武具が少しだけだ−この剣とかな。残念だが、その二つともが今夜葬られる。生き残った唯一の餓鬼と一緒にな。ローマ帝国の歴史から永遠に消されるのだ。まるで、存在もしていなかったように。」

グラウクスの頭に一気に血が昇った。彼は激怒のあまり歯噛みをした。

「しかし、貴様は父の名を名乗ってもいないじゃないか。貴様は『グラウクス』と言う無名の男であることを選んだ。貴様が死んでも、貴様の父の血が耐えた事に気づく者は少ない。それを悼む人間は、もっと少ない。」プローティアヌスはフレスコの方を向き、グラウクスの視界から消えた。彼は喋り続けた。「ああ、フレスコや剣を壊すのは簡単だ。」彼は耳障りな笑い声を上げた。「考えてもみろ、他ならぬ貴様の父親の剣が彼自身のフレスコ画の脆い漆喰を剥がすんだ。皮肉じゃないか?その後で、この家は松明の火が燃え広がって全焼し、その火でこの剣も溶けることになる。」

色のついた漆喰がひとかけら、空を飛んで大理石の床に跳ね、見えない所へ滑っていった。グラウクスはとうとう怒りを抑えられなくなり、ドアから飛び込み−低い位置に張ってあった針金につまづいてばったりと倒れた。彼は素早く転がり、狂人の振るう父の剣がものすごい勢いで振り下ろされるのをぎりぎりで避けた。彼は攻撃をかわした。刃と刃が、鍛練された鉄の完璧なハーモニーで響き合い、脇に逸れた。グラウクスは唸り声を上げながら何とか立ち上がり、次なる攻撃に備えた。攻撃はすぐに来た。近衛隊長は両手で剣を持ち、満身の力をこめて振った。グラウクスはかわし、プローティアヌスの胸に向かって突いたが、剣は鎧に阻まれた。

グラウクスは床を転がり、敵に勝る動きの速さを利して、プローティアヌスが息を整えている間に彼の右側に立った。彼は敵の防御の隙を探しながらつま先で跳ねた。そして敵の脚の、タキトゥスの矢が命中したところに包帯が巻かれ、血が滲んでいるのに気づいた。グラウクスは身を屈めて突進し、同時に剣を突き出した。剣は肉を突き抜け、骨に当たった。プローティアヌスは悲鳴を上げ、屈みこんで無防備な首筋を晒した。グラウクスは少しバランスを崩していたが、露出している皮膚に刃を振るって深く大きい傷をつけた。真紅の血が吹き出した。近衛隊長の手が空を泳ぎ、マキシマスの剣が飛んで、大きな音と共に床に落下し、部屋の反対側の壁まで滑って行った。グラウクスは急いで剣に這い寄ったが、プローティアヌスが彼の背中に飛び乗り、腹ばいに床に叩きつけた。どしんという音と共に激痛が走った。彼は息をしようともがいた。近衛隊長の重い体に押し潰され、剣は自分の身体の下に挟まれ、もう一本の剣にはもう少しのところで手が届かない。プローティアヌスはグラウクスの髪を掴んで頭を引っ張り上げた。無防備な咽喉が晒されたが、プローティアヌスが持っている武器は自分の拳だけだった。彼はグラウクスの頭を大理石の床に叩きつけた。もう一度。さらにもう一度。

目の前に文字通り星が散った。グラウクスは父の剣を手探りした。目の前は真っ白で、見えるのは額を流れて目に入ってくる血だけだった。頭が再び後に引かれた。もうすぐ意識を失う。そうすれば、二度と目覚めることはないだろう。しかし、彼の指先は目当ての物を探り当てた。彼は残った力を全て使って、自分と敵の身体を前に引き摺り、剣の柄を握ってプローティアヌスの顔に逆さに叩きこんだ。プローティアヌスは叫んだが、グラウクスの髪を掴んだ手は放さなかった。若者は足を後に蹴り上げて、敵の身体が露出している部分を探した。つま先が柔らかい皮膚に触れた。彼は脚の傷につま先を思いきり突っ込んだ。プローティアヌスは痛みに屈し、手を放した。グラウクスは彼を振り払い、横に這ってよろよろと立ち上がった。彼は眩暈に襲われ、痛みに膝をついたが、本能的に後ずさって、彼を倒そうと蹴ってきたプローティアヌスの脚を避けた。

グラウクスは必死で目から血を拭い、近衛兵の剣を探した。剣はプローティアヌスが握っていた。しかし、重い鎧を着けて疲れ切った近衛隊長は立ち上がる事が出来ず、鎧を床に引き摺って後ろ向きに這った。脚と首の傷から滴る血の跡が残った。

もう一度、眩暈の波が襲ってきたが、グラウクスは剣を構えて闇雲に突進した。手応えがあり、プローティアヌスの悲鳴が聞こえた。グラウクスは急いで目を拭った。一瞬、武器を失ったプローティアヌスが右手を押えているのが見えた。深い傷から血が吹き出していた。彼は終りだ。二人とも、それは分かっていた。グラウクスはゆっくりと腕を伸ばし、剣の先がプローティアヌスの震える咽喉に当たった。突然、彼は部屋の中に他の人たちがいるのに気づいたが、振り返って見はしなかった。彼の全神経は、目の前の追いつめられた男に集中していた。

僅かに残った力で、プローティアヌスは最後の侮辱をしぼり出した。「臆病…グラウクス…臆病者グラウクス」

グラウクスはさっと頭を上げた。狼のように鋭い彼の鼻は、間違えようのない匂いを嗅ぎ取っていた−迫り来る死の匂い。「グラウクスはもういない」彼は唸った。「おれの…名は…マキシマスだ!」彼の言葉は家中に、プラエトリアムの外まで響き渡った。彼は父の絵を一瞥し、剣を近衛隊長の首に突き立てた。切っ先が固い大理石の床に触れるまで。そして彼は、温かな暗闇に身をまかせ、崩れ落ちた。やさしい腕が彼を抱きとめたのも知らずに。

 

第85章 回復

グラウクスは圧しかかる霧を必死で払いのけ、ゆっくりと意識を取り戻した。覚醒の瞬間、苦痛が押し寄せた。あまりに激しい痛みに、嘔吐するのではないかと思った。彼は自分を包み込んでいるもやもやとした物と闘い、寝返りをうって胃のあたりを抱えこんだ。その後、やっとのことで目を開けよう試みた…が、目は開かなかった。

「馬鹿だな、腫れ上がってて開かないんだよ。お前がそんなに酷い有様じゃなけりゃ…そんなに青黒くてぶくぶくじゃなければ…私が自分の手で殴ってやるところだ。私が戻るまで待っていると言っただろう?」タキトゥスは若い従弟に腹を立てていた。

「ごめん」グラウクスはうめいた。彼は吐き気をこらえようと息を呑んだ。

「本気で言ってないだろう。でも許してやる。少し良くなったら、どうしてあんな馬鹿な事をしたか、みんなに説明するんだぞ。」

「どこ?」グラウクスはうめいた。

「お前は将軍のベッドに寝ている。お前の父親の部屋だ。」クローディアスが答えた。「連隊は今朝帰ってきて、ルフィウス将軍が親切にここにいていいと言って下さった。お前は将軍の家を血だらけのぐちゃぐちゃにしたのにな。」

「プローティアヌスは?」グラウクスはやっと言った。

「死んだ。お前が殺した。死体はローマへ向かっている。連隊がニ個小隊ついて行っている。他の近衛兵たちも、一緒に捕虜として連行されている。」ペルシウスが答えた。「ルフィウス将軍は副官を派遣してくれた。皇帝の近衛隊長を殺したのは正当防衛だったと、セヴェルスに説明してくれるそうだ。」

「皇帝は気にしないよ」グラウクスはかすれた声でつぶやき、歯を食いしばった。まだ胃がむかむかしていた。

「気分が良くないか?」今度はタイタスが彼を叱る番だった。「こんな無鉄砲に育てた覚えはないぞ。」

グラウクスは怯んだ。

「でも、お前の言う通りだ」タイタスは続けた。「ルフィウス将軍によると、セヴェルスは何週間か前に、プローティアヌスを逮捕せよという命令を発したそうだ。お前は皇帝が自ら彼を処刑する手間を省いてやったようだよ。」

グラウクスはやさしい手が肩を掴むのを感じた。「でも、今は静養する必要がある。」タイタスは優しく言った。「軍医の話では、お前は脳震盪と、もしかしたら頭蓋骨折しているかもしれない。鼻も折れてる。しばらくは動けない。私たちは兵舎に泊めてもらっているから、毎日見舞いに来るよ。スペインに使者を送って、家族に全て終ったと知らせた。おやすみ、マキシマス。」

グラウクスの目が腫れた目蓋に塞がれていなければ、皿のように丸くなっただろう。「マキシマス?」

「ああ。覚えていないのか?やっと本当の名前を名乗る気になったようだね。私たちも賛成だ。これからはそう呼ぶ事にするよ。明日また来る。もう寝なさい。」

グラウクス・マキシマスは、足音が遠ざかりドアがそっと閉められるのを聞いた。

マキシマス。そうだ。それが自分の名前だと叫んだのを覚えている。マキシマス。本来の名前で呼ばれる時が来た。自分の力でその名を名乗る資格を得たと、父も認めてくれるに違いない。

マキシマス。マキシマス・デシマス・グラウクス。

マキシマス。

彼は眠りに落ちた。

 

1週間後、彼はカタリナの台所に座り、彼女とジョニヴァスに最後のお別れを言っていた。彼は火を背にして座っていた。顔が影になって感極まった表情が少しは隠れればいいと思ったが、どちらにしても声に表れてしまっていた。三人とも、咽喉にこみ上げる固いものと必死で闘っていた。また来ると約束したが、次に来る時までジョニヴァスが生きてはいられないだろうとわかっていた。カタリナは、緑と紫に腫れ上がった目をからかって悲しさを紛らわせようとしたが、彼の腫れ上がった目に涙が浮かぶのを止めることはできなかった。自分の目にも。

「故郷へ帰るのか、マキシマス?」ジョニヴァスが訊いた。彼を新しい名前で呼ぶのが嬉しくて、何度も何度も呼びかけていた。

「ええ。農場をほったらかしにしすぎました。スペインが恋しいです。妹に会いたいです。スペインで待っているんじゃないかな。婚約者を連れて。ジュリアもきっと一緒です。僕が帰ったら、きっとすぐに結婚式だ。」

「あなたはどうなの?」カタリナはごろごろとのどを鳴らしている息子を膝であやしながら訊いた。「あなたの結婚式は?あなたもそろそろ、帝国中をさまよい歩くのは止めて落ち着くべきじゃないかしら。」

彼は魅力的な笑みを浮かべて肩をすくめた。「そのことは考えていたんだ。1週間も寝込んでいたから、考える時間はたっぷりあった。まあ、いずれわかるさ。」

「どうするつもりか知らんが、坊や、神々が君に微笑むよう祈っているよ。」ジョニヴァスがつぶやいた。彼は愛する若者を胸に抱き寄せた。おそらく、最後の抱擁だった。

 

2週間後、朝靄の中、グラウクスは道端の茂みでアルターに跨り、ガリアの丘に立つ今にも倒れそうな農家を見つめていた。静かだった…誰もいないようだ。ロバはいなくなっていた。庭で鳴いていた鶏もいない。アルターは時々筋肉をぴくりと動かしてうるさい蝿を追う他は、岩のようにじっと立っていた。馬の静かさは、辺りの不気味な空虚さを強調するばかりだった。グラウクスの心は沈んだ。彼女がここにいなければいいと思っていたのに、いないと分かったらひどくがっかりしている。

彼は馬を道に乗せ、空き地の方へ戻ろうとした。丁度その時、重い木の桶を腰に乗せた女性が森から現れた。かなり遠くにいたが、見覚えのあるつぎの当たった茶色の服が見えた。彼の心は踊った。

彼女ははっとしたように立ちすくみ、ゆっくりと顔を上げて彼の目を真直ぐ見つめた。聞こえたはずはない…彼は声も音もたてていないのだから。彼女は額に落ちる栗色の後れ毛をかき上げ、屈んで水桶を地面に置いて、彼をじっと見つめたまま、心臓に手を当てた。

彼は馬を進めて彼女の横まで行った。目と目を見つめ合ったままで。

「もう会えないと思っていたわ」クララは彼を見上げて言った。

「僕は会えると思っていた」彼は答えた。

彼女は感慨深げに彼を見た。「あなたは目的を果たしたのね?」

「ああ。終わった。」

「故郷に帰るところなのね。」

「そうだ。」

「グラウクス」彼女は囁き、手が心臓から胃に滑り落ちた。胃の中で蝶々が舞い始めていた。

彼は馬を降りて手綱を放し、そばまで行って、記憶にある通り小柄な彼女の頭の天辺を見下ろした。「君がここにいればいいと思っていたけど、いなければいいとも思っていたんだ。お父さんは?」

クララは家をちらりと見た。「病気なの。重い病気よ。何ヶ月か前に、溝に落ちて腰の骨を折ったの。それから寝ついてしまって、肺に水が溜まる病気になったの。息をすると音が聞こえるほどよ。ひどい咳をするようになったわ。」彼女の言葉は、彼の目を見上げている視線と同じぐらい直截だった。「この冬を生き延びるのは無理だろうって医者は言っているわ。」

「それは残念だ。」

「残念なの。どうして?」

「彼が死んだら君が悲しむだろう。君に悲しんで欲しくないから。」

「わからないわ…その時が来たら、自分がどう感じるのか。何より、ほっとするんじゃないかと思うの。」彼女は赤くなり、首を振った。「まあ、私、酷い事を言っているわね。」

「そんなことはないよ。クイントスは君の父親かもしれないけど、君に愛されるような事は何もしていないじゃないか。君は娘として出来ることをすべてやっている。それ以上だ。父親を愛さなかったからといって、罪悪感を感じる理由はない。」

彼女はもう一度、家をちらりと見た。「もう寿命なのよ。充分長生きしたわ。」彼女は突然あわてたような表情で振り向いて言った。「父に水を持って行くところなの。待っていてくれる?ポリッジを作っているの。あなたも食べる?」

「ああ、待ってる。でも、朝食は宿屋で食べた。」彼女の乏しい食料に余計な負担をかけたくなかった。「僕が来たこと、お父さんに言う?」

「いいえ。言わない方がいいわ。父は動揺するでしょうから。」彼女は森の端に二つ並んでいる大きな岩を指差した。「あそこに座っていて。もうすぐあの辺りに日が射すから、暖かくなるわ。」

「水を運ぶの、手伝うよ。」

彼女はようやく微笑んでくれた。「大丈夫。慣れているから」彼女は器用に桶を腰に乗せ、家に向った。彼が本当にそこにいるかどうか確認するように、何度も振り返りながら。彼女は最後にもう一度微笑み、三つ編みの髪をひるがえしてドアをくぐった。

彼女がいない間にグラウクスは農場の様子を見回した。前にいたロバが見当たらないが、鶏は数羽残っていた。納屋の後の小屋の中にいた。今日はまだ、放して餌を与えていないようだ。鶏小屋も納屋も修理が必要だ。ひどく傾いていて、今にも崩れ落ちそうだ。冬の深い雪が重くのしかかり、屋根の一部が崩れてしまっていた。屋根板は釘が外れ、めちゃくちゃに滑り落ちている。他には家畜の姿はない。彼女も彼女の父親も、鶏の二三羽だけでこの冬を生き残れるとは思えない。彼女があんなに痩せているわけだ。きっと彼女は、まず父親に食べさせてから、わずかな余りを自分で食べているのだろう。病気の老人は生活がこれほど貧窮している事に気づいていないのではないか。

家の方も似たり寄ったりの状態だった。彼女は屋根に枝や藁を補って修理しようとしたようだが、一雨降れば中の部屋は水浸しになり、常にじめじめと寒いだろうと想像できた。壁の板張りもいくつか腐って白黴に覆われていた。彼はドアに近づき、ある物に気付いて立ち止まり、しげしげと眺めた。歪んだドア枠から突き出している釘に、ドライフラワーの小さな花束がぼろぼろのリボンで結び付けられている。生活に僅かでも華やかさを加えたいという努力だろうか?美しさを加えたいという?

この悲惨な小農場をまともな状態に戻すには大変な労力が要るだろう。グラウクスはアルターを探した。馬は放たれたのをいいことに、森の端の草むらに柔らかい若草を探して、鼻面で硬い雑草をかき分けていた。彼はクララの指差した二つの岩に歩いて行って、家の方を向いて大きい方の岩に腰掛けた。彼は曲げた膝に腕をまわし、僅かに眉を寄せて考えに沈みこんだ。

 

第86章 クララ

ドアの蝶番が軋む音で、グラウクスは物思いから覚めた。目を上げると、別人のようなクララがこちらへ歩いてくるのが見えた。彼女は髪を解き、耳の後で結んだ青いリボンで後に流していた。髪は背中に流れ落ち、ほっそりしたウエストまで届いていた。豊かに輝くマホガニー色のウェーブが、彼女の歩みに合わせて揺れた。彼女は肩に掛けた空色のショールを両手でおさえ、房飾りが手首をくすぐっていた。その色は彼女の髪の色によく映え、引き立てていた。頬には赤みがさし、糖蜜色の瞳は輝きを増し、足取りも軽くなっていた。

グラウクスは彼女を立ち上がって迎え、手を取って岩に座るのに手を貸そうとした。彼女はその優しさを受け入ようとしたが、ふと唇を噛んで、手を引っ込めてショールに隠した。毎日働きづめのせいで、手が荒れて爪が割れているのを恥ずかしがっているのだ。彼はクララを励ますように微笑んだ。「綺麗だ」彼は腰を下ろしながら言った。「その色、とてもよく似合う。」

クララはためらった。目を合わせようとも、褒め言葉に返事をしようともしなかった。「あなたがくれたお金を少し遣ったの。あんまり高くなかったわ。春に、街で行商人から買ったの。着けるのはこれが初めてよ。」

「あのお金は、自分のものを買って欲しかったんだ。君には良い物が相応しい。」彼はぼろぼろの納屋を見て訊ねた。「ロバはどうしたんだい?死んだの?」

「いいえ…売らなきゃならなかったの。」

グラウクスは少し眉をしかめた。クララは言い訳をするように言った。「父の腰を直すのに、長い間医者に診てもらわなければならなくて…それに痛みが続いて、薬がたくさん必要だったの。ものすごく高かったの。あなたのくれたお金全部でも足りなかったわ。」彼女は話題を変えた。「私の暮らしの事なんか話したくないわ。あなたの旅の事を話してよ。あれから何があったの?ルシアスは見つかった?」

「ああ、見つけた。」

「それで?」

「彼とはいい友達になったけど、僕の兄弟じゃなかった…マキシマスの息子じゃなかったよ。」

「じゃあ…父は嘘をついたのね。」

彼はうなずいた。「どうしてあんな事を言ったのか、僕には分からないよ。でも、もういいんだ。全ての真実をつきとめたんだから。」

グラウクスが話す間、クララは彼の顔を見つめていた。口の両側と眉間に前にはなかった皺ができ、額には傷跡があり、鼻はわずかに曲がっていた。どこに行って何をしていたにしろ、彼の旅は容易ではなかったようだ。「もっと話して」彼の横の岩に腰を下ろしながら、クララは言った。

「ああ、全部話すよ。細かいところまで全部。でも、今はだめだ。君の事の方が心配なんだ。」

クララは無理に笑ってみせ、髪を背中に払った。「私は大丈夫よ。」

「いや、大丈夫じゃない。前に見たときより痩せているし、この農場はぼろぼろだし、冬を乗り切るだけの食料もない。クララ、ここにいちゃだめだよ。」

「でも、父が…」彼女は言い返そうとした。

「お父さんを置いては行けないのはわかる。置いて行けなんて言うつもりはないよ。だけど、彼を街に移したらどうかな?その方が医者の所にも近い。」

「街のどこへ?」

「宿屋へ。」

クララは信じられないという顔をしていた。「グラウクス、宿屋に泊めるお金なんてないわ。医者を呼ぶお金もね。」

「そうだね。でも、僕なら払える。」

彼女は突然立ち上がり、背を向けた。頑固な拒否の姿勢に身体を固くしていた。「どうしてそんなことをするの?父を憎んでいるんでしょう?」

「いや、憎んではいない。僕はもう誰も憎んでない。」

彼女は少し力を抜いた。

「もう全て終わったんだ。過去の事だよ。過去は変えられない。全て忘れて、未来を見る時だ。」

彼女はショールをしっかりと身体に巻きつけた。「施しは受けたくないわ。」

「施しじゃない。僕はただ、父の友人だった人を助けたいだけだ。それから、彼の美しい娘が微笑むのを見たいだけなんだ。」

彼女は頭を少しこちらに向けて彼の言葉を聞こうとしていたが、申し出を受け入れるかどうかは決めかねていた。

グラウクスは手を伸ばして、クララの絹糸のような髪に優しく指を滑らせた。彼女は震えた。「君と僕には、共通点が多い。僕らの父親たちの人生はどうしようもなく絡み合っている。それに僕らの人生は、今までは、父たちの人生に支配されていた…彼らの選択や、失敗や、成功に。僕たちは、父親たちと違って、自分の人生を自分で決めることが出来なかったんだ。僕は父に何があったかつきとめなくてはならなかった。だから、何年もあちこちを彷徨った。君の方はお父さんの世話をしなければならなかった。こんなガリアの辺境で。でも、もう二人とも義務を果たした。今やっと、自分で決めることが出来るようになったんだ。」

彼女がようやく口を開いた時、その声は涙に濡れていた。「私は自由じゃないわ。」

「まだね。でも、もうすぐだ。」

「あなたのお父さんは英雄として死んだわ。私の父は不名誉のうちに死ぬのよ。」

「僕たちには関係ない。」

「そうかしら?あなたはお父さんの名を誇らしく名乗ることができるけど、私は父の名を隠さなきゃならないわ。自分の名を恥じているのよ。」

グラウクスの手は彼女の髪からショールへと動き、布を優しく引いた。ようやく顔を上げた彼女の目には涙が浮かんでいた。「なら、名前を変えたらいい」彼は囁いた。

「何ていう名前に?」

「僕の名前に。」

クララはとうとう顔をくしゃくしゃにして泣き出した。「あなた、自分が何を言っているのかわかってないのよ。」

「ちゃんとわかっているさ。前にここに来て以来ずっと、よく君のことを考えていたんだ。どんな女性を見ても、ジュリアか、妹か…君と比べてしまうんだ。」

彼女は震えだした。彼は抱き寄せようとしたが、クララは抵抗した。

「クララ、君はいろんな素晴らしいところを持っている。強いし、頭も良いし、機転がきくし、しっかりしているし、勇気があるし、とても忠実だ。」

「それ、兵士を褒めているみたい」彼女はしゃくりあげながら言った。

グラウクスは笑った。「とても美しくて、暖かくて、やわらかくて愛情深い…完璧な女性だ…兵士じゃない。」

それでも、彼女は逃げ腰だった。

彼はやさしく続けた。「ローマで会ったような、甘やかされた、香水や口紅をつけた女性なんか、僕は興味はない。僕たちはすごく相性がいいんだ。二人とも農民だ。でも、僕は農業が好きだけど、君は大嫌いだろうね。」

「嫌いじゃないわ」彼女は小さい声で言った。「ただ、今までずっと、あんまり辛くて、寂しくて…」

グラウクスは岩から立ち上がり、両手で彼女の肩を掴んで、耳に唇を寄せて囁いた。「農業は辛くて寂しいばかりじゃないよ。僕の農場には人がたくさんいて仕事を分担できるし、家は女性や子供たちでいっぱいだ。」

「子供たち?」

「ああ。うちで働いている人には、結婚している人も多いんだ。男たちは野良仕事、女たちは料理や家事をしている。子供たちは、うちの地所内にある学校に通って、勉強の後で親を手伝っている。それから馬や羊や山羊や鶏…ありとあらゆる動物がいるよ。畑は小麦で埋め尽くされて、りんごや梨がたわわに実って、葡萄の香りが漂っている。美しいところだ。ここよりずっと暖かいし。」

「素敵な所みたいね。」クララは徐々に彼の胸に身体を凭せかけた。彼は腕をまわして抱きしめ、彼女の頭に頬をのせた。

「素敵だよ…でも、それを分かち合う人が欲しいんだ。」

「あなたは子供が欲しくなるわ。」

「できれば二、三人欲しいね。」

彼女はため息をついた。「グラウクス、私は年をとり過ぎているわ。」

彼はクララを軽く揺さぶった。「そんなことは絶対ない。」

「あなたより年上よ。」

「それがどうかした?」

「あなたには、これから何十人も子供を生めるような若い女の子が必要よ。」

「何十人なんていらないよ。妻が子供たちで手一杯になってしまう。僕は妻と一緒に過ごしたいんだ。」

クララは目を閉じ、彼の胸に頬をこすりつけた。「信じられないほど素敵ね…まるで夢みたいだわ。」私の見ていた夢みたいだ。彼が行ってしまってから、毎日彼の夢を見ている。起きている時も、寝ている時も。

「夢じゃないよ。ちゃんと信じられる現実だ。伯父と従兄と友人が一緒に来ているんだ。宿屋に泊まっている。みんなの助けを借りて、お父さんを街まで運ぼう。残された日々を、暖かい湿気のないところで快適に過ごさせてあげようよ。お父さんを見てくれる看護婦を雇うよ。君も宿屋に泊まるといい。」彼は振り向いて家を見た。「この家は修理する価値はない。」 彼は葉がかすかに黄色くなり始めた梢を眺めた。「もうすぐ寒くなる。宿屋なら暖かいよ。ちゃんとした食事もできる。」

「それで…あなたは…スペインへ帰るの?」

「いや、僕は君とここに残る。親戚たちはスペインへ帰る。家族の元へ。一緒に散歩したりして、お互いのことをもっとよく知り合うことができる。今まであったことを全部話すよ。僕の妻になってくれって、君を説得する時間もいるみたいだしね。」

彼女はぽろぽろと涙をこぼし、彼の胸に顔を埋めた。「いいえ…いいえ…」彼女は泣きながら言った。

彼はがっかりした。「いいえって…街に来てくれないの?」

「いいえ」彼女はしゃくりあげた。「時間をかけることなんてないわ。あなたと一緒にいたい。あなたの妻になりたいの。」

 

二日後、ブレヌスの先導で、タイタス・ペルシウス・タキトゥス・クローディアスの四人は、農場から村へと続く曲がりくねった急坂を、布で包まれたクイントスを乗せた帆布の担架を支えて用心深く降りて行った。クイントスは目を閉じ、じっとされるがままになっていた。グラウクスとクララが後に続いた。グラウクスは背中に袋や箱を満載したアルターの手綱を引いていた。農場から、いくらかでも価値や想い出のあるもの−クララの手編みのぼろ絨毯のような−をすべて持ち出したのだ。二人はだんだんと遅れて行った。道に並んで歩けるだけの広さのある所では手と手を繋いで歩き、始終立ち止まっては素早くキスを交わしていた。

アルターはご主人たちの馬鹿げた行動に呆れ、鼻を鳴らした。

二人は声を合わせて笑った。その声は道をふわふわと漂い、木々の梢まで届いた。グラウクスは思った−あの空のどこか高いところで、マキシマスがこの笑い声を聴いているに違いない…そして、微笑んでいるだろう。