Chapter 1 シェルマーストン港


シェルマーストンは私掠船と密輸船の基地

シェルマーストン港に停泊中の私設戦闘サプライズ号のジャック・オーブリー船長は、船尾甲板に立ち、今日合流するはずの船医(彼が船の持ち主でもあることは、大半の乗組員には秘密)スティーブン・マチュリンを待っていました。

…そう、海軍を離れたので、サプライズ号はじゃなくて船、ジャックは艦長じゃなくて船長、スティーブンは軍医じゃなくて船医…なんですよね。めんどくさい。英語では同じship、quaterdeck、captain、surgeonなんだけどなあ。

それはともかく。シェルマーストン港は、ポーツマスから少し離れたところにある架空の港ですが、航路の真ん中にやっかいな砂洲があるせいで軍艦や商船に敬遠され、代わりに私掠船・密輸船の母港になっている港です。

そういうわけでこの港は、ジャックが若い頃、このサプライズ号で訪れたカリブ海の海賊基地と似た雰囲気を持っています。強い陽光や椰子の木こそないけれど、自由な雰囲気と、叩き上げのプロで束縛を嫌う船乗りたちと、陽気な娼婦たちで溢れています。強制徴募隊も、よっぽど覚悟を決めた連中でなければ入り込めないほど。

伝説のキャプテンが巡航に出ると聞いて、シェルマーストン中のプロの私掠船乗りたちや、どうやってか徴募を逃れたジャックのかつての部下たちが、続々と志願してきています。プリングズたちが厳しい念入りなテストを課し、とびっきり腕のいい者だけを厳選しています。

そう、プリングズも、待てど暮らせど艦をくれない海軍から無期限休暇を取り、サプライズ号の副船長として愛するキャプテンの補佐を続けているのでした。

乗員だけでなく装備も、お役所仕事の海軍工廠と違って、金さえ払えば、優秀なシェルマーストンの民間ヤードが良い品をきっちり届けてくれます。何事も、意外と民間の方が優秀だったりするのは昔からか…

ジャック自身、長い海軍生活でこんなに順調な出航準備は経験したことがなかったのですが…そのことさえ、彼はちっとも嬉しく感じないのでした。

ジャック、海軍を追い出されてからすっかり性格が変わっている

海軍を除隊になってから、ジャック・オーブリーはまるで別の世界に生きているような気がしていました。こうして同じ船の甲板にたち、同じ潮の香をかぎ、同じ作業を監督しているというのに…

指揮する船もあり、とりあえず借金に追われてもいない自分は、軍法会議や何やらで海軍を追い出された他の士官たちに比べればずっと恵まれている。頭ではそれがわかっているのですが、心はちっとも喜びを感じないのでした。

というのは、ジャックはあらゆる感情に対して「不感症」になっているからです。(「感情面ではeunuch=宦官」という言葉が使われています。…まあ、こういう意味かと。)自分の身に起きたことがあまりに辛かったので、防衛本能として心を閉ざしてしまったのですね。

ジャックは元々、感激屋さんで涙もろいタイプです。ソフィー号を初めて指揮した時もマストのてっぺんで泣いてたし、オペラやコンサートで感動して泣いたり、バイオリンで悲しい調べを弾きながら自分で泣いてしまったり。もちろん戦友の葬式などでは、悲しみの涙をぼろぼろと流していたものですが…

そういう彼が想像もつかないほど、今の彼は泣かなくなっていました。今や彼の顔は、生まれてから一度も泣いたことも、笑ったこともないような、厳格な表情をたたえています。前より老けこみ、しわが多くなり、体重もだいぶん減ったのですが、それがかえって精悍さと迫力が増していて…

元々ジャックはでかくて逞しく、外見だけで他の男に一目置かれるタイプなのですが…その風貌をやわらげていた子供っぽさや陽気な笑顔も今は消え、恐れ知らずのベテラン私掠船乗りさえ、即座に「この人は怒らせてはいけない」とびびるような、ひたすら怖そうな風貌になっています。

かつての海軍の仲間は、少数の敵を除いておおむね彼に同情的で、声をかけたり食事に招待したりしてくれているのですが…それほど親しくない相手から礼儀正しく同情を示されるのが、彼はことのほか耐え難く感じ、招待もほとんど断ってしまっています。

しかし今夜は、ラッセル提督という恩のある人に招待されているので断るわけにはゆかず、スティーブンと一緒に出席することにしています。ラッセル提督はもう引退しているし、昔からの友人なのでいいのですが、食事の席に他のあまり知らない海軍士官がいたら…と思うと気が進まないジャック。

とはいえ、彼が居心地悪く感じるのはあまり親しくない人の同情だけで、以前からの親しい友人たちには感謝しつつ変わらずにつき合っています。「私設戦闘船」サプライズ号には、もちろんプリングズだけでなくソフィー号・サプライズ号以来の「いつものメンバー」が参加しています。キリック・ボンデン・ジョープライス・デイヴィス。彼らは、「下層甲板流のデリカシー」で、以前とまったく変わらぬ態度で彼らのキャプテンに接してくれています。キリックはいつものように…いつにも増して不機嫌な態度ですが、それは「何も変わっていない」ということを示すためなのでした。

さて、スティーブンを待っていたジャックですが、彼は例によって約束の時間に大幅に遅刻。潮を逃しそうなので、諦めて錨を上げる命令を下すジャック。

スティーブン、マーティンを連れてサプライズ号に遅れて現れる

さて、その頃スティーブンは、マーティン牧師の住む村まで彼を迎えに行っていました。

というのは、ジャックとほぼ時を同じくして、マーティンさんも海軍を実質追放状態になっているからです。以前から彼は、海軍の残酷な刑罰(絞首刑や鞭打ち刑)、一部の暴君のような艦長たち、黙認されている艦上への娼婦の出入り、などに熱烈に反対してきたのですが、その気持ちが高じて、「海軍の悪徳」に反対するパンフレットを作って配るという行動に出てしまいました。

その主張は正当なもので、まことに勇気ある行動なのですが…おそらく、海軍はもう二度と彼を従軍牧師として雇ってはくれないだろうということです。というわけで、彼には教区もなく、財産もなく、新婚の妻をかかえて失業の身。そこでスティーブンが助け舟を出し、サプライズ号で彼を雇うことになったのです。

もっとも、私掠船…いや、私設戦闘船に牧師は無用なので、マーティンは軍医助手として乗艦することになります。彼は医学には素人ですが、博物学者として多くの解剖をこなしているので、外科医としての腕は海軍のほとんどの軍医より良いぐらい。10巻で既に軍医助手の仕事をかなりこなしていましたね。今回は、完全にそちらの職での採用となりました。

さて…スティーブンですが、大金持ちなんだから馬車をチャーターして行けばノンストップでシェルマーストンまで着けるのに、節約して郵便馬車に乗ったり、野原を歩いたりのノロノロ行程。彼は金持ちになってからかえってケチになってしまっているようです。…というか、金持ちになったことになぜか気がとがめていて、罪悪感をおさえるために時々発作的に節約したくなったり、かと思うと発作的に贅沢をしたくなるみたい。まあ贅沢といっても、新しいブーツとかカシミアのストッキングという程度の、ささやかなものなんですが。

というわけで…途中でノガンの巣を見に寄り道したり、マーティンさんの村で馬車がなくて立ち往生したりで、すっかり遅刻してしまった二人。シェルマーストンの港で漁船に乗せてもらってサプライズ号を追いかけてもらい、ジャックに向って必死でハンカチを振って、なんとか乗艦できたのでした。

またしても遅刻したことを、ジャックに平謝りに謝るスティーブン。…船も装備も全部スティーブンの持物なのに、だからと言って態度を変えたりしないところがいいよね。

ジャックとスティーブン、友人のラッセル提督に招待される

その夜、ラッセル提督のギグが迎えに来て、ジャックとスティーブンは晩餐会へ。

ジャックの心配は無用で、出席者はジャックかスティーブンの気心の知れた友人ばかりで、気詰まりなことはない楽しい食事でした。

ラッセル提督はジャックに、「海軍の友人を避けるな」と忠告します。あまり人との接触を避けていると、有罪のしるしだと思われるから。しかしジャックとしては、招きに応じることで、その友人の海軍内での立場を悪くしてしまうことを心配している面もあるのでした…

食事の終わりに、ラッセル提督からジャックに、特別なプレゼントがありました。それは1803年に、提督がネルソン卿から受け取った手紙。「君はネルソンの思い出をとても大切にしているから、この手紙が今度の航海に幸運をもたらすといいと思ってな。まず読み上げさせてくれ。左手で書かれているので、読み取れないといけないから…

…君はいつ会っても、気持ちのいい人間だ。ジョンストン提督がメドウズ将軍に言ったように、『戦いの日に君がともにあることは、友にとってはこよなき喜びであり、敵にとってはこの上ない呪いであることを私は固く信じている。』親愛なるラッセル、君が私を最も誠実なる友と思ってくれることを心から願う。("I have no doubt but your company would be delightful on the day of battle to your freinds, but damned bad for your enemies. I desire, my dear Russell, you will always consider me as one of the sincerest of the former.")

「何という素晴らしい手紙だ」ジャックは感激して言いました。「こんなに素晴らしい手紙は他にありません。本当に頂いてよろしいのですか?心から感謝します。宝物にします。」

ラッセル提督は実在の人物で、フルネームはトーマス・マクナマラ・ラッセル(1740?-1824)。彼は…名前がいいですね(笑)。(もちろん、提督のはラストネームですけど。)

あっ、そうだ。みなさん、11巻ラストシーンの続きはどうなったのか…レイとレッドワードは捕まったのかとか、デュアメルさんは亡命できたのかとか、気になってますよね?でも、その説明は2章にならないとないんです。お待ちください…