Chapter 4-1 消息


ロンドンに戻ったスティーブン、薬品の買出しをする。アヘンチンキの効果が薄れていると言う

というわけで、4章はいきなり英国に戻っているところから始まります。スティーブンはマーティンと薬品の買出し。

「マチュリン、アヘンチンキは?」「まだ十分在庫がある。この薬局のアヘンチンキは非常に品質がいい。しかし、私自身は耐性ができたのか、効果が薄くなっていてね。それでも通常の使用量に抑えているから、最近は眠れない夜を過ごすことも多いんだ。」「通常の量とはどのぐらいですか?」「千滴程度は超えないようにしている。」マーティンはアヘンチンキの通常の処方量が25〜60滴なのを知っていたので、その量に仰天するのですが…口には出しませんでした。

ロンドンに戻ったスティーブン、再建なったグレープス亭を訪ねる

その後、スティーブンはグレープス亭を訪れました。パディーンがロンドンの病院で抜歯の大手術を受けるので、手術後グレープス亭に置いて欲しいと頼みに。

グレープス亭は、かつての姿と寸分の違いもなく再建されていました。新築ピカピカですが、前から掃除が行き届いてピカピカだったので、まだ二階の窓ガラスが入っていないことにさえ気づかなければ、火事などなかったかのようです。

二階から、ミセス・ブロードが職人を怒っているような声がしたかと思うと、ペコペコと謝っているガラス職人に続いて彼女が降りて来ました。「お客さん、まだここは開いていないんです。こんな調子じゃ、いつ開けられるか…まあ、ドクターじゃないですか!ようこそいらっしゃいました。どうぞ、おかけになって下さい。キャプテンはお元気ですか?ご活躍は新聞で読みましたよ。すみません、ドクターのお部屋、まだガラスが入っていなくて、まったく、近頃の職人ときたら…」ミセス・ブロードはドクターにウイスキーとケーキを出し、スティーブンと新グレープス亭に乾杯した後、「最近、北の方から便りはありますか?」と聞きました。

「北の方」とは、ダイアナのことです。ミセスとダイアナは、スティーブンの「世話焼き仲間」として仲良しでした。というか、「彼にきちんとした服装と健康的な食生活をさせる」という、勝ち目のない戦争における戦友というか…。ですからもちろん、彼女はダイアナについて真実を知っています。しかし「ダイアナは夫が海に出ている間、北へ静養に行っている」という表向きの話を、礼儀正しく信じるふりをしてくれています。ミセス・ブロードって、なんかいいなあ…しみじみします。

ミセスは「大使館の人が届けてくれた」という包みを彼に見せました。それはミセス・ブロード宛ての小包で、毛皮のコートを着たスウェーデンの人形と一緒に「ロンドンの店に防水のボートクロークを注文しているから、取りに行くように伝えて下さい」という手紙が入っていました。「実は、もうすぐ北へ行こうかと思っているのです」と、スティーブンは言いました。

ここで、スティーブンの独白を引用。「ダイアナのことはきっぱり忘れた方が、どんなに賢明だろうか−彼女の馬鹿げた大きなダイアモンドを、お守りか何かのようにポケットにいれたまま歩き回り、彼女の名前を聞くたびに心をわしづかみにされるような思いをしているより。彼は過去に、たくさんの手足を切り落としてきた。そしてそれは、文字通りの意味だけではない。

He had amputated many a limb in the past, and not only literally. これだけで、スティーブンの今までの人生に対して一気に想像が広がるような、すばらしい一文だとは思いませんか。

スティーブン、サー・ジョセフを訪ねる

「ロンドンの母」を訪ねた後は、「ロンドンの父」…ということで、スティーブンはサー・ジョセフを訪ねます。(いえ、二人とも多分、親子ほどはスティーブンと年が離れていない事は分かったのですけど…それでもなんとなく。)

サーは相変わらず、「彼の他の知り合いが見たら信じられないほど」ニコニコと彼を迎えました。"Welcome, welcome home again. Come in, my dear Maturin, come in." まったく、こういう姿を見ていると、他の人に対しては氷山のように冷たいというサーの方が信じられないのですけど。

サーは海軍諜報部の実権を完全に取り戻したどころか、以前より強力なボスになっています。しかし、レイとレッドワードにまんまと逃げられてしまったことを非常に悔やんでいるようでした。二人はパリに逃げたようです。がっちり手配されていたはずなのに、なぜ国外脱出できたのかは謎ですが、サーは非常に高い地位の人物が糸を引いていたのではないかと考えています。それが誰かは、まだ分からないのですが。

スティーブンが何より気にしているのは、これがジャックの復権に与える影響。で、サーに見通しを訊ねるのですが−まだまだ道は遠いようです。今ではみんなが多かれ少なかれ、ジャックの裁判は大きな誤りだったと思っている。「いずれは」復権できるのは間違いない。しかし問題は、何時かだ。レイたちが捕まらない限り、裁判をやり直してジャックの判決を正式に覆すのは難しく、あるとすれば恩赦だろう。彼の支持者たちがそのための非公式な運動を始めているが…政府は間違いを認めたがらないので、二十年後、次の王が戴冠する時か、内閣のメンバーが入れ替わった時になるかもしれない。それでは意味がないだろう。

「サプライズ号の今回の大成功は、好影響を及ぼしませんか?」「残念ながら、相手が私掠船ではだめだろう。フランスかアメリカの軍艦で、戦力が同等あるいは上の艦を拿捕するか、彼がそれで重傷を負うか−あるいは両方なら、影響は大きい。1年ぐらいで復権できるかもしれない。私掠船同士の戦いは、金銭的な成果だけと見られてしまう…それにしても、凄い成果だ!水銀の相場からして、今や彼はあらゆる船乗りの中で一番の金持ちだろう。」「確かに、もう二度と借金に追われることはないでしょう。しかし彼にとっては、海軍への復帰に比べれば取るに足らぬ事です。」

「乗員たちは喜んでいるだろうな。」「シェルマーストン中の船乗りが彼を崇拝しています。」「ロンドンでもそうだ。彼を褒め称える新聞やチラシがたくさん出回っている。ほら、君に見せようと思って取っておいた。」スティーブンは、サーがチラシの束から一枚抜いて、テーブルの下に隠したのに気づきましたが、何も言いませんでした。そのチラシには、色刷りで気球の絵が描いてあるのがちらりと見えました。

スティーブンはサーにスパルタン号の航海日誌と、捕虜の尋問記録を渡します。スパルタンはアメリカやフランスのエージェントを運ぶことが多かったので、なかなか興味深い情報があったようで、サーは喜んでいます。「オーブリー氏に礼を伝えてくれ。それにしても、見事な成功だった!しかし、これだけの金が入っても、南米への航海には変更はないのだろうね?」「もちろん。どんなに金があっても、海軍に戻れない限り、彼は陸上では幸せに暮らせないのです。」

スティーブン、サーとダイアナのことを話す

二人は相変わらず素晴らしいミセス・バーロウ(サー邸のコック兼家政婦さん)のディナーを楽しんだ後、暖炉の火をはさんで語り合うのですが、そのうち会話が途切れ、「二匹の猫のように」黙って一緒に火を見つめていました。(<表現が気に入ったので)

しばらく後、スティーブンは「デュアメルの死は本当に残念です。」と言いました。(やっぱりデュアメルは本当に死んだのか…)「彼はダイアナのダイアモンドを届けてくれたのです。」彼はポケットからブルー・ピーターを出し、サーに見せました。「南米へ行く前に、これを彼女に返しにスウェーデンへ行こうと思っています。」彼は薄い色の眼で、サー・ジョセフを真っ直ぐ見つめて言いました。「ブレイン、教えて下さい…スウェーデンの状況について、何か情報をお持ちですか?」

「誓って言うが、ミセス・マチュリンに関して、諜報のプロとしては調査をしたことは一切ない。しかし、普通の社交的人間として、噂は聞いている。また、巷の噂の他に、大使館の人間から聞いていることもある。ヤゲロはスウェーデンの若いレディと結婚する予定だそうだ。また、これははっきり聞いたわけではなく、推測も混じっているが…私の受けた感じでは、ヤゲロと彼女は人が思っているような関係ではないらしい。それから、彼女は今では裕福とは言えない状態らしいな。もちろん、純粋な冒険心から気球に乗る人もいるだろうが…」サー・ジョセフはテーブルの下から、先ほど隠したチラシを持ってきてスティーブンに見せました。

サー、ダイアナが気球に乗っているチラシをスティーブンに見せる

チラシには、青空高く浮かぶ真っ赤な気球の絵が、色鮮やかに描かれていました。ゴンドラには馬に乗った女性がいて、スウェーデンとイギリスの旗を振っています。文章はスウェーデン語で、さすがのスティーブンも読めないのですが…中には間違いなく「!ダイアナ・ビリャズ!」という名が、感嘆符つきで3度繰り返されていました。

ダイアナ・ビリャズ。ビリャズは彼女の最初の夫の苗字ですが、スティーブンが知り合った時の名前でもあり…実は今でも、スティーブンが心の中で彼女を呼んでいる名前でした。彼女と同じく彼も、司祭なしの軍艦上の結婚式だけでは、どこかでこの結婚を完全なものでないと思っていたので…

下手な、大雑把な絵でしたが、事も無げな無表情な顔で堂々と馬に腰掛けている絵の女性には、どこか不思議にダイアナを思わせるところがありました。スティーブンはサーに礼を言い、「私もいつか気球に乗ってみたいです」と言いました。

「戦前にフランスで、ピラトール・ド・ロジェが気球で飛ぶのを見たことがある。水素ガスを使った気球だったが、上空で火を噴いた。イカロスの墜落もかくやという感じだったな。」サーは言った瞬間にこの言葉を後悔しましたが、何と言っても事態を悪くするだけなので、ワインを注いでごまかしました。

気球が発明され、初めての有人飛行が行われたのは1783年のフランス。その後、気球は主にフランスでブームになり、発展しました。熱くなると軽くなる空気の特性を利用した熱気球と、水素ガスを利用した水素気球があったようですが、サー・ジョセフが言うとおり、水素気球はたいへん危険なものであったようです。詳しくはこちらを。気球の歴史

ダイアナがやっているのは、「女性が馬に乗ったまま気球で上昇する」ことを目玉にしたショーのようです。この数十年後には再び気球ブームになり、客を乗せて上昇するアトラクションも登場しますが、この頃はまだ危険が大きすぎて、観客は地上から眺めるだけだったようです。初の有人飛行の翌年1784年には女性気球乗りが登場しているので、ダイアナは気球に乗った最初の女性ではないようですが、馬に乗ったまま気球に乗った女性としては世界初でしょうね。

告白しますと、私は彼女が初登場した瞬間から、どちらかと言えばダイアナびいきでした。しかし、決定的に大好きになったのはこのあたりからだと思います。彼女が出奔した時から、ひょっとしてヤゲロとの仲は何でもないのかな〜とは思っていましたが…久々に消息がわかってその疑いが晴れたと思ったら、いきなり異国の空から(?)こんな風に登場するなんて。かっこいいというか、唐突というか、彼女らしいというか…いろんな意味で、彼女を象徴していると思います。