Chapter 4-2 銀食器


サー・ジョセフ、スティーブンが保険に入っていないと聞いて呆れる

スティーブンが帰る時、サーは「そのでかいダイアモンドをポケットに入れて一人で帰る気か?何かあっても保険会社が金を払ってくれないぞ。」「保険?」「…掛けてないのか。次はまさか、船にもかけていないと言うのではないだろうな。」「…ああ。海上保険というものは聞いたことがあります。考えてみます。」サーは呆れて両手を上げました。「ピカデリーまで送ってゆこう。たいまつ持ち(※夜道を歩く時のボディガードに雇った少年)が客待ちしているだろう。…ところで、さっき『敵国の軍艦を拿捕すれば』と言ったのは、当てのない話ではないんだ。オーブリーはセント・マーティン港を知っているか?」「測量したことがあるはずです。」

ジャック、わが家でくつろいでいる

アッシュグローブ・コテージ。アゾレス諸島での大成功のおかげで、急に裕福になったオーブリー家。例のキンバーの裁判も、ようやくこちらに有利な形で決着し、ソフィーは長く続いた経済的な苦労から解放されました。夫が家にいてくれることもあって、余裕と満足にすっかり若返った彼女。

しかし、完全に幸せではありません。どんなに金があっても、夫が幸せでない事に気づいていたから。彼は表面上、家族と一緒にいられて幸せそうに見えますが、以前に比べると人生に対する『食欲』がなくなっている。大金持ちになったというのに、大好きな馬も買おうとせず、狩もせず、人を招待したり招待に応じたりすることもほとんどない。よっぽど恩のある相手か、裁判の時に明らかな友情を示してくれた親友としか会おうとしないし、今はそういう友はみんな海に出ているので、ほとんど引きこもり状態。

「人生への食欲」だけではなくて、文字通りの「食欲」も少なくなってるようで…かなり痩せてしまっています。まあそれは、スティーブンに言わせれば体にいいんでしょうけど…体が細くなった分内面も繊細になっているのか、ちょっとした事で傷つきやすくなっています。先日も、西インド貿易商会がスパルタン号を拿捕してくれた事への感謝に銀食器を贈呈すると言うのですが、ソフィーは物分りの悪い担当者と交渉し、食器に刻む言葉から「元海軍」とか「私掠船」とかいう言葉を削らせるのにさんざん苦労したのでした。

とは言え、家族水入らずで過ごすこの貴重な時間を彼が楽しんでいることは確かなようで。アッシュグローブの森から庭にブラックバードが来て美声を聞かせ、ジャックが「あんな風に歌えたらなあ」と感嘆すると、ソフィーは彼の手を握って、「あなたの歌の方がずっとずっと素敵よ、マイ・ディアレスト・ラブ」…

一緒に過ごせる時間が短いせいか、この二人、今だに新婚ラブラブ状態を持続しているようです。それと、裁判の件が二人の絆を深めた面もあるかな。

子供たち、すっかり水兵言葉になっている。

そこへ、子供たちが大騒ぎしながら駆けて来ました。「おいジョージ、とっとと来い、このでかっ尻ののろまめ(you fat-arsed little swab)。こっちへ手え貸せ!(Bear a hand, there)」と、リーダー格のシャーロット。「今行くってばよ(I'm a-coming, ain't I?)、待っとくれよ。」と、小さなジョージ。「家の近くで、そんなでかい声を出もんすんじゃねえよ。お上品じゃねえし、聞こえちまうよ。」と、双子の片割れファニー。

子供たちはパパやママに聞こえないところでは、船乗り言葉を使っているのでした。オーブリー家では引退した水兵が召使をしていて、子供たちの面倒を見ているので。ここ、日本語にすると単に乱暴な言葉みたいになってしまうのですが、キリックやプライスが使うような水兵言葉を使いこなしている子供たちは、なんとなく可愛いかったり。

ところで、子供たちが何歳なのかが気になるのですが…例の大人の事情(笑)により時間の流れが矛盾するので、はっきり書かれてはいません。まあ多分、双子が8歳、ジョージが5歳位かな。

3人は窓に駆け寄り、ぴょんぴょん飛び跳ねながら叫びました。「来たよ!来たよ!」

西インド貿易商協会から銀食器が来る

「来た」のは、例の西インド貿易商会からの贈り物でした。大きな木箱が二つ。大量の詰め物をかきわけ、大きな銀のスープサーバーを引っ張り出すジャックを、ソフィーははらはらしながら見守っていましたが…刻まれた献辞はソフィーの希望通りになっていました。「高名なる海軍指揮官、ジョン・オーブリー様へ…わが国にとって生命の源である貿易への、変わらぬ支援と保護への感謝の印として、ここに贈ります…

子供たちは「私にもやらせて!」と騒ぎ、宝探しのように詰め藁を掘り返し、順番に食器を一つずつ釣り上げました。ソースサーバー、レードル、サイドディッシュ、蓋、巨大な盛り皿、平皿…金属磨きが大好きなキリックは、磨き甲斐のありそうな大量の輝く表面をうっとりと眺めています。ジャックは銀のスプーンを3本出して、子供たちに「これは君のだよ」と1本ずつあげました。

ジャックは子供たちに、ダイニングルームに銀食器を並べさせました。14人がけのテーブルは、これから豪華なバンケットでも開かれるかのように、煌々しく輝いていました。

スティーブンから速達が来る。その後、スティーブンが来る

その時、ジャックに速達が届きました。使いの少年が落馬したとかで、封筒が血に染まっています。ミセス・ウィリアムズは「何と縁起が悪い。ミスタ・オーブリーの銀行がつぶれた知らせに違いないわ。」…彼女にとって世の中で最悪の知らせはそれらしい。

もちろんそうではなく、スティーブンからの「すぐに短い航海に出るかもしれないので、準備を整えて欲しい」という知らせ。「ソフィー、これからちょっとシェルマーストンに行ってくる…」

間もなく、今度は四頭立ての立派な馬車が来て、スティーブンとまだ顔に包帯をしているパディーンが降りて来ます。パディーンの歯痛はロンドンで大抜歯手術を受けて全快しましたが…これはブラックスの召使室で、ウサギ包帯をからかわれて大喧嘩をやらかし、相手3人をこてんぱんにのした時の怪我。パディーンは前から力は強いけど、穏やかで大人しい性格だと思っていたのに…やっぱりアヘンの影響が出ているのか?(スティーブンもジャックも気づいてないけど)

「君がまだいてよかった。もうとっくにシェルマーストンへ行ったかと思った。」「君の速達が届いたのはほんの2時間前だ。」「何だって?速達に16シリング8ペンスも出したのに、全く無駄になってしまった。」「まったくですわ。」ミセス・ウィリアムズが『我が意を得たり』というように同意しました。「この国をダメにしようという政府の陰謀に違いありません。」

スティーブンって、金持ちになってからかえって金銭感覚がシビアになってますね(笑)。計らずもミセス・ウィリアムズと話が合ってしまっているのが可笑しい。何となく関西人みたい。(<関西人の皆様ごめんなさい。私もルーツは関西人です。)

「せっかく銀食器を広げたのだから、午餐会をしよう。ソフィー、何かあるかい?」「ええ。1時間あれば、全部の食器に何か入れるわ。」「サー、」ジョージがスティーブンを見上げて言いました。「ぼくの銀のスプーン、見せてあげる。」

「銀のスプーン」は豊かさの象徴で、金持ちの家に生まれることを「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」と言いますね。子供が自分の銀のスプーンを持っていることは、何不自由ない生活の象徴…かな。ジャックが子供たちに銀のスプーンをあげたのは、お守りの意味がありそうですが。

スティーブン、セント・マーティン港のディアンヌ号拿捕作戦をジャックに説明する

食事の準備の間、ジャックとスティーブンは書斎にこもり、スティーブンが速達の件を説明しました。(サー・ジョセフが言っていた「敵国軍艦との戦闘の見込み」の件です。)

フランスのセント・マーティン港に、ディアンヌ号(Diane)というフリゲート艦が停泊している。情報によれば、ディアンヌ号はまさに我々と同じ目的でチリとペルーに向う予定だと言う。阻止しなければならないのだが、現在その付近の沿岸艦隊は別の重要な作戦のために出払っていて、セント・マーティン港を封鎖しているのはタルタロス号(バビントンの艦)と輸送艦とドルフィン号だけ。敵は英国海軍が手薄なのに気づいて、出航するつもりでいる。作戦は、ディアンヌ号を待ち伏せて拿捕することだ。重要な諜報員と書類を乗せていることは間違いないので、無傷で捕獲できれば非常に価値がある。

「確かなことは言えないが、これに成功すれば…『名誉ある失敗』でさえも…君の最終的な海軍への復権に当って、たいへん良い影響があるということだ。」「そういうことなら、右腕を失ってもいい。」「頼むから、そういう縁起の悪いことを言わないでくれ、マイディア。」「こんなに嬉しい知らせはないよ。ソフィーに言ってもいいか?」「もちろんダメに決まってる。他の誰にも言うな。…それと、現地の海軍士官ともめないために、書類をもらってきた。まあ、今あの海域のシニアオフィサー(最先任士官)はバビントンだから、あまり心配ないけどね。」スティーブンが見せた書類は、第一海軍卿メルヴィル卿から、海軍の全提督・艦長・士官へ宛てた命令書でした。

…ジョン・オーブリー氏は国王陛下の雇用艦サプライズ号を率い特別任務を遂行するよう命じられ…従い、各位に対しここに命ず…氏に上記任務命令書の提示を求めることなく、いかなる理由においても氏を抑留することなく、また上記任務の遂行においては氏に全面的に協力されたく…

ジャックはその書類を、まるで神聖な物のようにおしいただき、目に涙が浮かんでいました。スティーブンは、イングランド人がすぐに表に出す「気恥ずかしい感情」が苦手なので、慌てて実務的な説明に入りました。「セント・マーティン港の地図はあるか?」ジャックは測量した海図を全てきちんと分類整理してしまってあり(さすがはジャック)、即座に出して机に広げました。「この通り、狭くて深い湾で、入り口に砂洲がある…」

ジャック、子供たちのためにもこの任務に成功したいと思う

ひと通り海図と拿捕作戦の検討を終えたジャックは、是が非でもこの作戦を成功させたいと心に誓っていました。今日、ジャックは子供たちの尊敬が自分にとってどんなに大切なものかを初めて実感した。今までの一連の事件を子供たちがどの程度理解しているのか、どう思っているのかは分からない。しかし、父に贈られた素晴らしい銀の食器に目を輝かせている子供たちを見て、自分がこれほどの喜びを感じるとは思っていなかった。このためにだけでも、本当に右腕を失っても惜しくない…

キリックが「食事です」と呼びに来て、ジャックとスティーブンがダイニングルームに行き、ミセス・ウィリアムズとソフィーはジャックのただならぬ様子にはっとしました。「お酒のボトルをミスタ・オーブリーから遠ざけておくようにキリックに言わないと」と、ミセス・ウィリアムズは密かに思いました。(多分、ジャックの目許が赤くなっていたので酔っ払っているのかと思ったのでしょう。)