Chapter 5 訓練


いきなり余談:12巻を初めて読んだ時のこと。読みながら先が気になるあまり、つい先のページをめくってちらちら眺めてました。で、「あ、ダイアナの名前がいっぱい出てる。彼女は登場するんだ!」と思ったのですが…その後、ここまで読んで「なーんだ、DianaじゃなくてDianeか。艦の名前だったのか」と(以下ネタバレ自粛)

今回のターゲットとなるフランス軍艦、ディアンヌ号は30門フリゲート艦。仏艦なので仏語読みにしましたが、ジャックたちは間違いなく「ダイアン」号と呼んでいるでしょう。彼女が停泊しているフランス北部の港は、仏語読みだと「サン・マルタン」ですが…こちらはジャックたちの呼び方に合わせて「セント・マーティン」にしました。一貫性ないな(汗)

さて。Diane(ディアンヌ/ダイアン)とDiana(ダイアナ)は、ギリシア・ローマ神話の女神ディアナを起源とする同じ名前です。ジャックの最初の指揮艦ソフィー号がジャックの妻ソフィーと同じ名前であったのが偶然ではないのと同様に、このディアンヌ号の名前にも、もちろん象徴的な意味があります。

とは言ってもそこはオブライアン氏、艦と女性が同じ運命を辿るとか、そういう単純なことではないんですけどね。(そうだったら、ジャックはソフィーをフランス人に取られていた筈だし。)

それにしても、ありふれた名前とはいえ、ダイアナが「銀の鎖で潮を操る月の女神にして、怒らせると怖い狩猟の女神」って、イメージぴったりですね。(「永遠の処女」というところは違うけど。)

ジャック、ディアンヌ号を待ち伏せるのではなく「切離し作戦」を行うことにする

海軍側が当初想定していたのは、出航したディアンヌ号を海上で待ち伏せて拿捕することでした。しかしジャックは、悪天候になった場合などは、どんなに気をつけていてもすれ違ってしまう可能性があると考えます。その点、出航前に港で襲撃すれば、少なくとも相手がそこにいることは確実。

切離し作戦(cutting-out expedition)」とは、港に停泊している敵船に斬り込み、文字通り「切離して」奪ってくること。敵の港からの切離し作戦は、相手が他の艦船や砲台に守られているので非常に困難ですが、相手を取り逃がすよりはその方がいい、とジャックは考えます。これから即座に出航し、目立たない湾に停泊して、斬り込みの予行演習を徹底して行うことにしよう。

「素晴らしいアイデアだ」スティーブンは賛成しました。「この作戦用に余分な人員を雇って行かないのか?サプライズ号は海兵隊の分定員に足りないだろう?」「いや、そこらのゴロツキを雇うのはやめておくよ。必要ならバビントンが貸してくれる。海軍の規律に慣れている水兵をね。唯一の心配は…」ジャックはそこで思い直して、口をつぐみました。

彼の心配は、バビントンが純粋な友情と熱意から、自ら斬り込みに参加を申し出る事でした。バビントンが斬り込みに参加すれば、少なくとも名目上は、彼が作戦を指揮することになる。成功の暁には、ディアンヌ号は「バビントン艦長率いる英国軍艦タルタロス号が(僚艦及び私掠船一隻の協力を得て)拿捕した」ことになってしまう。これはバビントンの勅任艦長への昇進を確実にする手柄だ。バビントンにとって一生を左右する重要事なので、参加の申し出があれば、断れない。しかし、バビントンは強力なコネがあるので、遅かれ早かれ確実に昇進する。一方、自分にとっては、このようなチャンスは二度とないかもしれない…

バビントンがジャックに変わらぬ忠誠心を抱いてくれているのは間違いないが、こういう微妙な事情に気づいてくれるだろうか?でも、これをスティーブンに話すのはよくない。バビントンが自分で気づいてくれるか、でなければ…

サプライズ、ポルコム湾で切離しの予行演習をする

シェルマーストンを出航したジャックは、早速乗員を集め、甲板にセント・マーティン港の地図を書いて作戦を説明しました。その後サプライズ号は、イギリス南部の人里離れた小さな湾ポルコムに錨を下ろし、ブイを浮かべてセント・マーティン港の「実物大海図」を作りました。ここでディアンヌ号への斬り込みを、じっくりシミュレーションするためです。

セント・マーティン港は入り口が狭く奥の深い湾で、湾口に向って右側が細長い半島になっています。サプライズ号は半島の外側に停泊し、夜にそこから斬り込み隊がボートを連ねて半島をぐるっと回り、湾に入り込んでディアンヌ号に奇襲をかけ、切離して外へ持ち出す−という作戦。

それから数日、サプライズ号は毎晩2回「攻撃側」と「防御側」に分かれて斬り込みの練習をしました。攻撃側が、実物大海図の「湾」の外側の位置からボートを漕いで「岬」を回り、ディアンヌ号に見立てたサプライズ号に「斬り込む」と、防御側がモップの柄で「防戦」。ジャックは厳しい目で各自の動きをチェックし、ディアンヌ号を持ち出すまでの時間を正確に計測しました。錨索を斧で切断する係、マストに登って帆を張る係、舵輪を乗っ取る係…それぞれが自分の役割を完全に体で覚え込むまで、演習を繰り返すつもりでした。

サプライズの乗員たちは、この訓練を嫌がるどころかむしろ楽しんでいるようで、いささか過剰なほどの熱意で取り組んでいます。攻防戦の演習に熱が入りすぎて、海に落ちる水兵が続出し、ジャックは一日に何人も海から引っ張り上げるはめになりました。

しかし、こうして毎日忙しく身体を動かしていることは、ジャックの身心によい影響を与えました。眼前の仕事が忙しすぎて、過去や未来を深く考えている時間がないことが良かったらしく、かなり食欲も戻っています。まあそれは、金持ちになったおかげで上等の食糧をたっぷり積み込んでいる上、腕の良いコックを雇ったせいでもあるのですが。

数日後の夜は荒天になりましたが、ジャックは豪雨の中でも訓練を行いました。これまでも毎晩、多少の怪我人が出ていたのですが、その夜スティーブンとマーティンは、重傷者(脚の骨折)を含む多くの負傷者を手当てすることになりました。

スティーブンは、この訓練にかけるみんなの熱意に驚いていました。この作戦に多くのものを賭けているジャックはともかく、他の乗員たちは、ディアンヌ号を拿捕してもそれほど金が入るわけではない。アゾレスで儲けた莫大な賞金とは比べ物にならない。それなのに、嵐の中を何マイルもボートを漕ぎ、甲板で同じ動作を繰り返す苦労も危険も、文句一つ言わず耐えている。その驚きをマーティンに話すと、彼は「君は長い間、あまりにも彼の近くにいたから、君の友人が船乗りたちにとってどんなに偉大な存在がわからなくなっているんだ。」と答えました。「どんな事でも、キャプテン・オーブリーがやるなら自分もやる。彼らにとってはそれが当然なんだ。」

パディーン、アヘン依存症になっている

サプライズの全員が忙しくしている中、スティーブンとマーティンだけは、怪我人の手当て以外に用がなく暇でした。天気のいい間、二人は湾の入り口にあるオールド・スクラッチと呼ばれる自然豊かな小島で、動植物を観察したり、日光浴したりと楽しく過ごしていました。

スティーブンはこの時ならぬ休暇を楽しんでいましたが、最近、不眠症が悪化しているのが悩みの種。睡眠薬代わりのアヘンチンキが効かなくなっているのです。自分の体に耐性ができてしまったせいだと思い、自分が定めた量を超えないように気をつけていますが…アヘン自体が日に日に薄くなっている事には、まるで気づいていないのでした。

アゾレスの拿捕賞金は莫大だったので、割当分をもらったパディーンもかなりの金持ちになっています。彼はロンドンでこの薬を買おうとしたのですが、ラベルの文字が読めない彼は薬局で薬の名前を言えず、買うことができませんでした。彼は代わりに高級ブランデーを買い、今度は自分の酒でアヘンチンキの減った分を補充しています。

スティーブンは彼がブランデーの瓶を隠し持っているのを発見し、彼が配給酒以上に酒を飲んでいるのではないかと心配して、何とか止めさせたいと思っています。…が、彼が耽溺しているのが酒でなくアヘンであるとは夢にも思いませんでした。

スティーブン、ボートを出して鳥の観察をする

アヘンが薄まるにつれ、寝起きは良くなっているスティーブン。嵐が過ぎた気持ちの良い朝、彼は早起きして甲板に出ました。掃除中で水浸しの甲板上で、長ズボンを膝までまくってキャプスタンに腰掛けているプリングズが彼に挨拶しました。(<いや、こんなこと詳しく書かなくてもいいのだけど…朝に相応しい爽やかな光景だと思ったので。)

スティーブンはプリングズに自分の専用艇(「ドクターのスキフ」と呼ばれている小さいボート)を降ろしてもらい、自分で漕いで小島に向いました。進行方向をむいてカヤックみたいにバチャバチャするヘンな漕ぎ方で。彼は「過去を見るより未来に目を向ける方がいい」から、この漕ぎ方が理に叶っていると言い張っているのですが、実は普通に漕ごうとするとボートがぐるぐる廻ってしまうのでした。(<わかる!私もそう。多分、「左右の腕で同じ力を加える」という器用なことができないのよ。)

彼は小島の崖に昇り、さまざまな種類の鳥が朝の活動にいそしんでいるところをうっとりと眺め、しみじみと幸せを感じていました。ふとサプライズに目を向けると、ジャックが服をすべて脱ぎ捨てて海に飛び込むのが見えます。(…おお、朝に相応しい爽やかな光景がもう一つ。少し痩せたジャックの全裸姿を、存分にご想像下さい。)彼がこちらに向って泳いでいると、どこからか二匹のアザラシが現れ、興味深そうに彼の両側にくっついて泳ぎ、前に回って彼の顔を覗いたりしていました。(<仲間だと思ったのね(笑)。イギリスに分布するのはハイイロアザラシという種類。)

「おめでとうジャック。アザラシは縁起がいいんだ。みんなそう言っている。」「アザラシは好きだ。もし口をきけたら、何か可愛いことを言うんだろうな。しかしスティーブン、朝食を食べないつもりか?このままでは、午後まで帰れないぞ。」ジャックは、潮が引いて砂浜の高い位置に取り残されているスキフを指差しました。「何てこった、海が後退した!」「専門用語で『潮の満ち干』と呼ばれるものだよ。このへんでは、1日に2回こうなるらしいぞ。」

スティーブンは「潮の満ち干がない」地中海で育ったので、なかなか潮の概念に慣れないそうです。潮の満ち干がないなんてことがあるかな?と少し調べたのですが、無いわけではないようです。しかし地中海は湖みたいなものなので、場所によっては満潮と干潮の差が10センチぐらいにしかならないそうです。それにしてもスティーブンは、そろそろ慣れてもよさそうなもんですけどね。

二人はボートを海に戻し、船に帰りました。朝食を取り、コーヒーを飲んでいる間、サプライズ号は錨を上げています。「出航するのか?」「ああ。これからフランスへ向い、夜に沿岸艦隊と合流してバビントンに計画を相談する。彼の賛成を得られたら、サプライズを砲台の射程距離外に碇泊させる。ボートで斬り込み隊を出した後、空砲を撃ちまくって、岬の反対側から攻撃すると思わせる。バビントンに相談するまでは、細かいことは決められないけどね。」「バビントンの善意を信じていないのか?」「信じている。でも、彼が部下だった頃とは、いろいろ事情が変わってしまったからな。」