Chapter 7-2 根回し


スティーブン、またまたサー・ジョセフ邸を訪ねる

ところ変わってロンドン、例によってサー・ジョセフを訪ねたスティーブン。サーは再び、ニコニコと勝利のお祝いを言うのですが、スティーブンはなぜか浮かない顔。「どうした?ディアンヌ号は我々が思っていたような艦ではなかったのか?」「いいえ、まさに考えていた通り、我々と同じ目的で南米へ行こうとしていた艦でした。この書類には、フランス諜報員が接触する予定だった人物リストから、すでに配られた賄賂の額まで記されています。」「素晴らしい!My angelic Doctor(私の天使のようなドクター)、欲しいものは全て手に入れたのに、どうして悲しそうなんだ?」「『赤い提督』を取り逃がしました。」

『赤い提督』とは、本名はポール・セグラと言うフランスの大物スパイだそうです。元海軍士官で、冷酷・非情・残虐で知られており、海軍時代も、諜報員になってからも、血腥い事件にかかわっているところから『赤い提督』と呼ばれているようです。

彼はディアンヌ号でブリーチを脱ぎ、スカートをはいて、頭にぼろ布を被って女たちに紛れて逃げたそうです。あの「やり手ばばあ」が彼だったのでしょうね。婆さんでも女に見えたのが不思議だけど、きっとサプライズ乗員たちは娼婦たちに気を取られて、碌に見てなかったのでしょう。まったく…彼がスカートを借りた女は、当然スカートなしだったはずですが…「仕事中」だったし、怪しまれなかったのね。残虐非道で怖れられるスパイにしては、女装して逃げるなんてお茶目じゃん、とか思ってしまうけど。

そんなことは露知らぬスティーブン、ディアンヌ号を隅々まで探して「ポール・セグラ」というネームのついたブリーチを拾い、はじめて彼が「赤い提督」だったこと、まんまと逃げられたことに気づき、以来、意気消沈しているのでした。

「気持ちはよく分かるが、そう落胆するな。捕まえたとしても、この書類に書いてある以上のことは絶対に喋らないだろう。…それにしても、またしても見事な成果だ!アゾレスでの活躍に続いてフランス艦の拿捕、ロンドン市民たちの間では『キャプテン・オーブリーを称える歌』が流行っているよ。」「海軍に復帰できそうですか?」「それが…残念ながら、すぐにとはいかないようだ。レッドワードたちが海外逃亡した状況には妙なところがあると、前に話したが…どうも、それと同じ力がオーブリーの復帰を阻む方向に働いているようなんだ。今回の敵艦拿捕と、大衆の圧倒的な人気で、今は両方の力が均衡している状態と言える。」

スティーブンとサー・ジョセフ、クラブに夕食を食べに行く

その後二人は、ブラックスに夕食に行きました。スティーブンがクラブに入ると、メンバーたちが「おめでとうございます」と声をかけます。メニューはサーの大好物、「茹でた鶏のオイスターソース添え」。

昼食を食べ損ねて空腹のサー・ジョセフが、好物にかぶりつこうとしたその瞬間、二人のテーブルにクラレンス公爵(ウィリアム王子)が駆け寄って来たので、二人は(仕方なく)立ち上がりました。プリンスは興奮した様子で「マチュリン!セント・マーティンの件を聞いたぞ。これほど見事な勝利は聞いたことがない!まったく完璧そのものだ!君はいたのか?オーブリーと一緒にいたのか?おーい、椅子を頼む。詳しく聞かせてくれ。でも、君はオーロップにいただろうから、あまり見てはいないのだろうな…」

食事を邪魔されたサーは、悲しげに鶏を見つめ、そっとヨダレを拭いました。…あのー、前巻からサーのイメージがどんどん変わってきているんですけど(笑)。スティーブンとより親しくなって、地を出すようになったのかな?(てことは、サーの地はこれ?)

幸い、公爵は急ぎの用事があるあらしく、長居はできませんでした。「私もそこにいたかった!オーブリーに伝えてくれ−ロンドンに来ることがあったら、是非会って、彼の口から直接聞きたいと。」

「やれやれ、あと5分待たされたら、『大逆罪』を犯すところだったよ。さて、私もぜひ聞きたい。詳しく話してくれ…」スティーブンはサーに、セント・マーティン港の切離し作戦を、パンを船に見立てる海軍士官のやりかたで詳しく説明しました。(彼も海の男らしくなってきたな〜。あ、いや、そう見えるのは、サーのような完全な「陸の人」と比べた時だけですけど。)

話がジャックの負傷に及ぶと、サーは「それは好都合だ」と言いました。「冷血だと思わないでくれ。赤い顔のヒーローより、蒼い顔のヒーローの方が人の興味を引くものだ。」…いや、やっぱりサーは、スティーブン以外に対してはかなり冷血だと思います。でも、それがあなたの魅力のひとつよ(笑)。

「彼をロンドンに連れて来られるか?ディナーに出ても大丈夫だろうか?」「馬車で、ゆっくり静かに移動すれば大丈夫だと思います。大人数の集まりでなければ…」「12人以内にとどめる。と言うのは、今こそ彼を前面に出す時だと思うのだ。一般大衆から圧倒的な賞賛が寄せられている今ほどの好機は望めない。ここで南米に行ってしまったら、この効果を逃してしまう。南米中の仏艦と米艦を全て拿捕したとしても、帰国する頃には熱狂は薄れてしまう。今やらなければ、潮を逃すことになる。

「潮を逃す」ことではよくジャックに怒られているスティーブンは、重々しく「潮を逃すことになったら、それはたいへんまずいですね」と答えるのでした。

サー・ジョセフ邸で午餐会が行われる。

シェパーズ・マーケットのサー・ジョセフ邸の古風なダイニングルームは、めったに使われることはありませんでしたが、今日はここで、オーブリーの海軍復帰に影響しそうな重要人物を招いてディナーが行われます。サーは入念な準備を整えて…というか、心配そうにうろうろ歩き回り、テーブルクロスのあっちをいじり、こっちのスプーンの位置を変え、料理や席順のことで細かくしつこく口を出してミセス・バーロウをうんざりさせています。「あと5分これが続いたら、料理を全部窓からぶちまけてやる」とミセスが思ったその瞬間、ブラックスから臨時に雇った執事が(サーの家に常駐している使用人はミセス・バーロウと若い黒人が一人だけなので)客の到着を告げました。

今日の客のうち、二人はホワイトホールの役人、一人は政治活動に熱心な司教、シティの財界人が二人、残りはCountry Gentleman(地方の土地持ち貴族・紳士)。全員が、議員であるかまたは議会に大きな影響力を持っている人々です。中の一人、メイリック卿はバビントンの伯父。

ここで、「議会に影響力を持つ」とはどういうことか、少し解説したいと思います。(この先、関わってくることなので…)Gunroomの投稿の引用ですが。

英国議会は貴族院(House of Lords)と、選挙で選ばれる下院(House of Commons)から構成されていますが、当時の下院には「腐敗選挙区(rotten borough)」とか「懐中選挙区(pocket borough)」とか呼ばれる選挙区が多くありました。ほとんどは、選挙区になってから人口が激減した地域で、定数是正がまったく行われていなかったので、実際に投票する有権者はせいぜい数十人、中には数人なんていうところもありました。有権者はみんな、そこの地主である貴族・紳士のところで働いているか、所有地を借りて農業しているかなので、その地主が推薦した候補者なら絶対に当選確実。(というか、ほとんど対立候補はいない。)その名士自身が代々議員をするか、自分の認めた人を候補者に立てるか、ひどい時は議員になりたい人にその権利を売っていました。これにはもちろん批判も多く、1832年の議会大改革で廃止されました。

そのような名士(パトロン)がポケットに入れて所有しているような選挙区なので「pocket borough」と呼ばれます。バビントンの一族はそのような選挙区を5、6個所有しているはず。

招待客たち、ジャックを大歓迎する

さて、スティーブンと共に、今日の主賓が登場しました。痩せたせいで大きなコートの中で身体が泳いでいるジャックは、蒼白く、厳しい表情をしていました。それは怪我のせいもありますが、単に空腹のせいでもあり、また未知のお偉方連中に対し、馬鹿にされまいと身構えているせいもありました。

しかし、その場の全員がオーブリーに率直な賞賛と祝福を送りました。特にメイリック卿は、甥の英雄に会えて心から嬉しそうでした。元々3ヶ月前までは彼の性格になかった厳格さや近寄りがたさは、たちまち消えうせてしまいました。

ディナーの席では、メイリック卿がジャックの赫々たる戦歴を、ソフィー号から始めてひとつひとつ正確に披露してゆきました。他の人々は、新たな尊敬のまなざしで彼を見ています。司教を皮切りに、ひとりひとりが彼と乾杯しました。メイリック卿の話が「レパード号のワークザームハイド号撃沈」(5巻)に及んだあたりで、ジャックの顔色が(おそらく望ましいレベルを超えて)良くなり、ご機嫌になっているのを、スティーブンは懸念とともに観察しました。

スティーブン、気球に乗ったことのある人から話を聞く

さて、ディナーの客にはロイヤルソサエティのメンバーが何人か含まれていたのですが、ひょんなことから彼らの話題は気球になります。私の感想では省略したのですが、1章のラッセル提督の会食でも気球の話が出ていました。1780年代頃の最初のブームは過ぎているとはいえ、学者と軍人の間ではよく出る話題なのでしょう。気球では進んでいるフランスは軍事利用にも成功していて、陸軍が上空から敵軍の配置を把握して勝利したこともあるようです。英国の科学界は賛成派と反対派に分かれているようで、今も激しい議論が交わされています。

賛否の論議に興味はないけれど、最近(例の理由で)気球には特に興味が湧いているスティーブンは、戦前のブームの時に気球に乗ったことがあるという人の話を、熱心に聞いていました。「…まったくの別世界です。雲の上に出た時、心に沸き起こった喜び、とても言葉になりません。青い青い空が広がっていて…地上では見たことがないほど、深い、純粋な青なのです。音のない世界で…あの不思議な感覚は、とても忘れられません。」

翌日、役人のソームズ氏がジャックを訪ねて来る

機嫌よく食べ、喋っていたジャックですが、コーヒーが出される頃には顔色がだんだん蒼白くなって、スティーブンは「そろそろ患者を休ませなければ」と宣言して会食を後にしました。帰り際、役人の一人ソームズ氏が「明日、相談したことがあるので宿を訪ねてよろしいですか」と訊いたので、ジャックは承諾しました。

翌日にグレープス亭を訪ねて来たソームズは、ジャックにとって意外なことを告げました。「実は、私どもであなたの特赦の請願書を出そうとしているのです。そこで、文面や手続きについて事前にあなたと話し合いたいと思いまして…」

「特赦の請願ですって?しかし、私は自分が無実であると、名誉にかけて誓ったのです。」怒気を含んだ声で、ジャックは言いました。「やってもいないことに対して、赦しを請うことはできません。特赦を願い出ることは、赦されるべき罪があると認めることになります。」「形式だけのことですよ。」「私には形式だけとは思えません。あなた方に悪気がないのは分かっていますが、お断りするとお伝え下さい。」「しかし、今すぐ結論をお出しにならなくても…誰かに相談するか、しばらく考えては?」「いいえ。」ジャックはきっぱりと言いました。「これは、人間が自分ひとりで決めなければならない事柄です。」