Chapter 8-2 オールド・レパード


こうしてジャックは、南米に行く前にめでたく海軍への復帰を確実にしたのですが…

実はですねー、ジャックの海軍復帰がこういう理由で叶ったことに、私はちょっと不満でした。だって、この目的のために、スティーブンは散々苦労して、コネと金を使ってあちこち走り回り、サー・ジョセフもいろいろと援助して、ジャック自身も命をかけ、痛い思いもして頑張ってきたのに…いきなり出てきた「従兄エドワード」とかいう人の一存が、決め手になるなんて。

でもまあ、考えてみればエドワードさんも、セント・マーティン港のジャックの活躍があったからこそ、父親のことは水に流してジャックに選挙区を譲ろうという気になったのだろうから、ジャックたちの苦労も無駄ではなかったということかな。そう思うことにしよう。

スティーブン、レパード号に乗っている。ダイアナのことを考えて悩む

さて、良いニュースとシャンパンとオペラに送られて旅立ったにもかかわらず、スティーブンは落ち込んでいました。

スティーブンがレパード号に乗艦した時、ちょうど抜錨中の忙しい時で、「邪魔だ」と言わんばかりの(いや、実際言われた)冷たい態度で迎えられました。懐かしのレパード号は、彼が乗っていた頃に比べてもさらにボロくなっていて、水兵たちは暗く、士官たちも雰囲気が悪く、二つの派閥に分かれ、食事の時も離れて会話し、乗客たち(スティーブンの他に商人が数人)の事は完全に無視、艦長のことも馬鹿にしているのがありありと分かります。

スティーブンは、自分でも意外なほどレパード号に愛着を感じていたので、彼女が汚い、不幸な船になっているのを悲しく感じていました。彼はかつてバビントンの部屋だったところでコットに横になり、サー・ジョセフと行った素晴らしい「フィガロの結婚」を思い出していました。最後の歌のコーラス、"Ah tutti contenti saremo cosi"(「ああ、それからみんな幸せに暮らしました」)を、頭の中で何度も繰り返すけれど、どうしてもうまく歌えませんでした。彼の気持ちは、この歌詞とはかけ離れていたから。

レパード号の惨めな姿は、この旅の行く手を象徴しているように思えました。彼はどうしてもこの旅に明るい見通しを持てませんでした。ダイアナは彼が来た事をどう思うだろうか。ブルー・ピーターを返すという口実があるにしても、大使館を通じて返すこともできた。直接持って行く事は、図々しく感謝を強要しているように思われるかもしれない。

サー・ジョセフの言う通り、ダイアナとヤゲロが恋人ではないとしても、他に恋人がいないとは限らない。他の、貧しい、目立たない男が恋人なのかもしれない。ダイアナは情熱的な女だ。しかしスティーブンに対しては、友情や愛情はあっても情熱はない。情熱を抱いているのは彼の方だけだ。それは、初めからずっと。

彼女は本当は、言うほど贅沢な暮らしを愛しているわけではない。もちろん贅沢は好きだが…何より嫌いなのは束縛されることだ。金のために、自分の気に入らないことは決してしない。彼女にとって何より大事なのは独立独歩であること、自由であることだ。どうすれば、その一部でも与えてもらえるのだろう?金はできたが、金を出しても解決にはならない。心がこもっていなければ、キスはキスではない。

彼は公然と浮気して、ダイアナに恥をかかせたことになっている。実際には浮気はしていないが、恥をかかせたという点では同じだ。考えれば考えるほど、この旅がみじめな失敗にしかならないように思えてくる。一方で、これほど強く成功したいと望んでいることはない…

あれこれ思い悩むスティーブンは、ついにストレスで気分が悪くなり、アヘンチンキを余分に飲んでしまいました。が、今や彼のアヘンチンキはほとんど純粋なブランデーになっているので、まったく効果はなく、彼が眠りについたのは精神的疲労からでした。

ソフィー、シェルマーストンの日々を楽しむ

その頃、サプライズ号はシェルマーストンで出航準備をしていました。もう一度だけ、今回はバルト海方面に試験巡航を行い、ストックホルムでスティーブンを拾って戻った後、いよいよ南米へ出発する予定。

ソフィーは、新任の主計長スタンディッシュを手伝って、サプライズの装備積込を確認していました。スタンディッシュはマーティンの学生時代の友人で、主計長としてはまるで素人なのですが、どうしてジャックが彼を雇ったかと言うと、彼がバイオリンの名手だからでした。マーティンはビオラを弾くので、スティーブンと弦楽四重奏がしたかったのです。スティーブンと二人だけの合奏も十分楽しいけど、たまには目先を変えてみたい…と思ったのかな。ラジオもレコードもない時代は、音楽を聴こうと思ったら生で聴くしかないから、楽器の出来る人は貴重なのですね〜。にしても、彼は主計長としてはまるでダメダメで、ソフィーに計算を手伝ってもらわなければどうにもならないほど。ソフィーが主計長になれたらねえ。絶対、有能だと思うけど…

サプライズはあと二日で出航するので、ソフィーは寂しく思っていました。夫と別れるのももちろん悲しいのですが、シェルマーストンを離れることも寂しさの一因でした。シェルマーストンは、英国の上流婦人が見ることが出来る中では最もカリブの海賊基地に近いものでした。そういう危険な雰囲気があるのに、ソフィーは「伝説的艦長の妻」として街中に尊敬されているので、どこでも安心して歩けるし、船乗りたちはニコニコと敬礼するし、娼婦たちは子供たちに親切にしてくれるし。ほとんど故郷を出ずに育った(バースとロンドンとブライトンへ数回行ったぐらいで)ソフィーにとっては、シェルマーストンにいること自体が冒険のようなもので、すっかり魅了されているのでした。

オーブリー夫妻は、またラッセル提督の招待で食事に行くところ。ジャックがもうすぐ海軍に戻ることは既に公然の秘密なので、彼はもう海軍仲間の招待を断らなくなっていました。「スティーブンがいなくて残念だ。」「かわいそうなスティーブン…今頃はもうスウェーデンね。」(ソフィー、スティーブンに「かわいそうな」とつけるの癖になってない?まあ、この場合何がかわいそうなのかは分かるけど。)「旅が順調なら、そうだな。」

レパード号、砂洲に乗り上げて数日止まる

スティーブンの旅は、ちっとも順調ではありませんでした。途中でレパード号が砂洲に乗り上げてしまい、修理を要することになったので、乗客たちは最寄りのマントン港(イングランド東北部)で数日待たなければなりませんでした。

しかし、スティーブンは目的地に着くのを怖れていたので、この猶予にむしろほっとしました。マントンに住む友人の牧師と、繁殖地のエリマキシギの求愛行動を観察して、楽しく数日を過ごしていました。

修理が終わり、スティーブンの荷物を再び積み込んだ時、レパードの乗員たちはシーチェストに彼がかつて乗った艦の名が書いてあることにようやく気づきました。「あなたはレパード号に乗っていたのですか?」「そうです。」「どうして言ってくれなかったのです?」「聞かれませんでしたから。」(<出た!)「あなたが乗ってらした時は、まだ軍艦だったのですか?」「50門艦としての最後の航海でした。この艦がオランダの74門艦ワークザームハイド号を沈めた時です。このことは、あまり知られていませんが…」

それからというものの、スティーブンはレパード号の全員に、その時のことを根掘り葉掘り聞かれるようになりました。どんな状態であるにせよ、やはり彼らにとってレパードは「われらが艦」。50門艦が74門の敵艦を沈めたのは、彼女にとって輝かしい栄光の歴史で、彼らにとってはじめて聞いた誇らしい話なのでした。スティーブンはせっつかれて、何度も何度もその話を詳細に渡って繰返し、艦長室に招かれて、その甲板に今も残る艦尾迎撃砲を置いた跡を指差したり、艦尾甲板で話を繰返し、細かいところを間違えると皆に逆に突っ込まれたり。(お気に入りのおとぎ話を聞く子供みたい。)

数日はそうやって気が紛れていたのですが、艦がスウェーデンに近づくにつれ、彼の緊張は募ってきました。

レパード号がサプライズ号と行きあい、スティーブンはサプライズでストックホルムに向う

大ベルト海峡を抜けてバルト海に入った時、レパード号は私掠船を発見。見かけは大きいけれどろくに砲を載せていないレパード号は、小さい私掠船にも対抗できないので、乗員たちは慌てるのですが…スティーブンが望遠鏡で見ると、それはサプライズ号でした。

スティーブンはレパードの艦長に、サプライズ号に近づいて信号を送って欲しいと頼みました。彼とサプライズ号はストックホルムで落ち合う予定だったのですが、ここで乗り換えれば時間の節約になるので。今やスティーブンは「一番古株のレパード号乗員(The oldest Leopard)」として一目置かれているので、レパードのみんなは手間を惜しまずやってくれるのでした。

サプライズ号に移ったスティーブンは、しばらく会わないうちにすっかり元気になったジャックに迎えられました。昔の「内なるエネルギー」を復活させた彼の輝く顔を見ながら、つもる話を交換しているうちに、スティーブンは心の奥に重くのしかかる憂鬱を忘れました。

それでも、レパード号よりずっと快速のサプライズ号がどんどん目的地に近づいているのを意識すると、心配でまた気分がふさいでくるスティーブン。彼が落ち込んでいて、10歳も年を取ったように見えることに気づいて、その理由を重々承知しているジャックは心配するのですが、何と言っていいやらわからず…

相変わらず、ダイアナがらみの時だけは、他のことではあれほど強くて勇敢な人とは思えないほどだらしなくなってしまうスティーブンです(そこがいいんだけど)。考えてもしょうがないことを考えつづけたり、避けられないことが数日先に延びたことでほっとしたり、スティーブンみたいな人でもそうなってしまうのが恋愛というものなのか、恋愛関係ではそういう面があるのがスティーブンらしさなのか…書いてるうちにわけわかんなくなってきた。

スティーブン、ストックホルム港に上陸する

翌朝サプライズ号はストックホルム沖まで来ますが、風の都合で入港できず、そのままリガ港に行くことになりました。「スティーブン、もしすぐ上陸するのなら、水先案内人のガレー船で行くといい。それとも、リガまで一緒に来て、ストックホルムには帰りに寄るか?」スティーブンはきっぱりと「ガレー船で行く」と答えました。いよいよ覚悟が出来たというか、これ以上先延ばしにするのは逆に耐えられなくなったというか…

上陸前に(ダイアナに会う前に)、彼は身だしなみを整えようとしますが、髭を剃ろうとした時、自分の手がひどく震えていて、顔を切ってしまいそうなのに気づきます。「情けない、ばかげたありさまだ、まったく。」彼は髭を剃るのを諦め、アヘンチンキを飲もうとして、瓶を落として割ってしまいました。アヘンでなく、純粋なブランデーの香りが船室に広がったのを少しいぶかしく思いますが、気にしている時間とエネルギーがありませんでした。オーロップの薬棚から代わりを持ってくるのも面倒だったので、「ストックホルムで買おう。髭は床屋で剃ろう。」と思って、そのまま出かけました。

ストックホルム港の水先案内船に、思いつめた顔で乗り移るスティーブンを、ジャックは心配そうに見送りました。「従妹のダイアナによろしく伝えてくれ。」