Chapter 9-1 スウェーデンの田園にて


12巻は9章まで。いよいよ大詰めですが、この章が長くなりそうな気がする。4回ぐらいにはなるかも…ストーリー的にも重要で省ける部分がないし、何よりここらへん、いろいろ細かい点が私のツボにはまりまくりで、思い入れて書いているとキリがないのですよね〜。ほんとに好きなんだよなあ私はこの…これが。だらだら長くなるかもしれませんが、まあ、生温かく見守ってやって下さい。(<この表現が割と気に入っているらしい。)

スティーブン、ストックホルムに上陸する。薬局でアヘンチンキとコカの葉を買う

ストックホルムに上陸したスティーブンはホテルで薬局の場所を聞き、早速アヘンチンキを買いに行きました。薬局の主人はスティーブンと同じ趣味の持ち主で、店にはツチブタやカンガルーの標本など、いろいろ珍しいものが飾ってありました。自分は店があるので旅に出ることはできないが、知り合いの船乗りたちに珍しい動植物があったら送ってほしいと頼んでいる、と店の主人は言いました。「南米産のコカというものを知っていますか?」「ええ、先日送ってもらいましたよ。」「1ポンド下さい。」スティーブンはアヘンチンキとともにコカの葉を買い込んで行くのでした。

スティーブンは薬局でダイアナの住んでいる屋敷の場所を訊ね、地図を書いてもらいました。「歩いて行けますか?」「1時間はかからないでしょう。」

スティーブン、ダイアナの住む家に向う

スティーブンは地図を片手に、ダイアナの住む家に向いました。彼の計画では、まず家の位置だけを確認してホテルに戻り、床屋を呼んでひげを剃ってもらって、きれいな服に着替え、昼食を食べた後に使いをやって「これから訪ねていいか」と聞くつもりでした。(何となく彼らしい。)いきなり彼女の戸口に現れる気は、まったくなかったのですが…

ストックホルムの旧市街を後に、スティーブンがのんびり歩いて行くと、周りに広がる田園風景は緑に溢れていました。彼の故郷のアイルランドを思い出させる風景で、あたりを飛ぶ背中が灰色のカラスさえ、アイルランドと同じ種類で、彼の心をなごませました。たまにすれ違う人々が彼にスウェーデン語で挨拶しましたが、彼はアイルランド語で「神と聖母マリアと聖パトリック(アイルランドの守護聖人)が共にありますように」と、挨拶を返すのでした。

地図にしたがって、両側に溝のある狭い道に入った時、向こうから二頭立ての馬車が走ってくる音がしました。道に余地がなかったので、馬車を避けようと溝の外側の土手に飛び上がったスティーブンは、馬車を操っているのがダイアナであるのを見て驚きました。ダイアナは馬車を急停車させ、「まあ、マチュリンじゃないの!会えて本当に嬉しいわ。」彼女は土手から飛び降りるスティーブンを受け止め、両頬にキスして、「乗って。私の家まで送るわ。」と言いました。「あなたは全然変わってないわね。」「君は綺麗になった。"jeune fille en fleur"(花盛りの若い娘)だ。」

それは本当でした。日光が少なく湿気が多い北欧の気候と食事のおかげで、彼女はずっと肌がきれいになり、黒髪と青い瞳のコントラストを引き立てて、今まで見たことがないほど美しくなっていました。(でも彼女、インドで会った時も「きれいになった」と言われてなかった?要はイギリスが合わないだけだったりして。)

ダイアナはいつもの見事な腕で馬車を飛ばし、大きな寂れた屋敷に入りました。それはヤゲロの祖母の伯爵夫人の屋敷で、広い広い庭の隅に、塔のついた古い小さめの家がありました。ダイアナはそこに住んでいるそうです。これは古い貴族の邸宅にある"Dower House"というもので、母屋が代替わりした後、未亡人が自分の資産としてもらって住む小家屋だそうな。

この屋敷は継ぐ息子がいないらしく、伯爵夫人が母屋に一人で(もちろん使用人はいる)住んでいるのですが。伯爵夫人は相当なお年で、かなりケチで、少々ボケ気味。多分、ヤゲロが祖母を心配して、ダイアナに近くに住んでもらうようにはからったのでしょうね。ダイアナはちゃんと家賃を払ってここに住み、馬車で伯爵夫人を教会に送ってあげたりしているようです。

ダイアナ、スティーブンを明るく歓迎する

ダイアナは彼を家に招き入れ、ソファを勧めました。「私から見えるところに座って、スティーブン。」彼女は愛情のこもった視線で彼を見つめ、話を始めました。

「本当に久しぶりね。何から話したらいいかわからないわ。ああ、最初にヤゲロのことでひとつ言っておくわね。説明が必要なわけじゃないけど−でも、彼はもうすぐここに来るから、あなたが彼の喉を掻き切らなきゃならないとか思ったら可哀想だから。

「私がスウェーデンに来るとき、彼の保護を喜んで受け入れると言ったけど、それは侮辱や非難や不当な扱いから守って欲しいということだけだったの。はっきりそう言ったわ。もちろん、生活費は自分で払うし、欲しいのは文字通りの保護だけで、ベッドに入る友達を求めているわけじゃないって。彼、最初は信じなかったけど−男がよくするように、馬鹿にして作り笑いを浮かべていたけど−そのうち納得せざるを得なくなったみたい。

「私は誓ったの−もう二度と、どんな男にも、私を傷つけさせない、そういう立場に自分を置かないって。…そんな顔しないで、スティーブン、あれはもう終わったことよ。もう乗り越えたから大丈夫。お互いを好きでいる障害にはならないでしょう?とにかく、ヤゲロは納得してくれて、今はまた友達よ。でも彼、私が気球に乗るのをしつこく止めるのだけど。

彼はもうすぐ、とても可愛い、すごい良家のお嬢さんと結婚するのよ。私もこの縁組に一役買ったから、彼のお祖母さまに気に入られているの。伯爵夫人が覚えてらっしゃる時にはね。時々、お忘れになるのだけど…ねえ、あなたの話も聞かせて。今回はどこから来たの?ジャックと一緒?大使館にはイギリスの新聞があるから、あのひどい裁判のことは全部読んだわ。ヤゲロも私も凄く怒っていたのよ。彼は大丈夫?」

スティーブンは、海軍を除隊になった時にジャックがひどく落ち込んで別人のようだったこと、しかしセント・マーティン港の勝利と、議員の座を獲得したことで海軍への復活が確実になり、今は元気になっていることなど、今までの経緯をざっと説明しました。

「ダイアナ…ひとつ聞きたいんだが、僕がレイに託した手紙を読んだかい?」「まあ、スティーブン、まさか、アンドリュー・レイみたいな下司野郎を信用したんじゃないでしょうね?あいつがロンドンに帰って来てからニ、三度会ったけど、あなたがマルタで『いろいろお楽しみのようだ』と言ったぐらいで、手紙のことなんか一言も言っていなかったわよ。

まったく、レイのやつめ。(11巻5章参照)思えば、この夫婦喧嘩の原因の相当部分は、彼の悪意と嘘からきているような。というか、ダイアナの言う通り、レイなんかを信用したスティーブンが悪いのですけどね。

ダイアナ、今までのことを話す

この家の様子から、ダイアナは貧困にあえいでいるというわけではないが、裕福とも程遠い状態らしい、とスティーブンは思いました。おそらく、気球に乗るのはお金のためだというサー・ジョセフの推測は当っているのだろう。

二人が話していると、孫が来ているのかと誤解した伯爵夫人が、ダイアナの家をのぞきに来ました。スティーブンが立ち上がって挨拶すると、ダイアナはフランス語で彼を「ヤゲロの友達のムッシュー・マチュリン・イ・ドマノーヴァ」だと紹介しました。…自分の夫であるとは言わずに。

伯爵夫人が母屋に帰ると、ダイアナは話を続けました。「伯爵夫人は結構がっちりしていて、私は凄く高い家賃を払っているのよ。アラビア種の馬を育てたいと思っているのだけど、ここの牧草地はほとんど近所の農家に貸し出されているから、私が飼えるのは二頭きり。去勢馬と牝馬だけど、牝馬の方は素晴らしい馬なのよ。後で見せてあげるわね。

「最初、英語を教える仕事をしようと思ったの。でもうまくいかなかったわ。スウェーデン人は元々英語を話せる人が多くて。そのうちに、おかしな興行師が現れて、気球に乗れば結構なお金をくれると言われたの。今度はスパンコールの衣装で乗って欲しいと言われているのだけど…」

二人は、この家の唯一の使用人が作ったトナカイ肉の昼食を食べながら話していました。スティーブンの緊張がうつったのか、ダイアナもどこか落ち着かず、そのせいかワインのデキャンタを床に落として割ってしまいました。「まあ、これが最後のワインだったのに。でも、せめて美味しいコーヒーは淹れてあげるわね。私にできる家庭的なことは、コーヒーを淹れることだけね。」事実、彼女が淹れたコーヒーは素晴らしく、二人が少しリラックスしていると、庭に面した窓から覗きこむ可愛い顔がありました−ダイアナの牝馬です。

「この子、私の行くところには、犬みたいにどこにでもついて来るのよ。一緒に気球に乗れる馬なんて、この子だけよ。」ダイアナの肩に頭をのせて甘える美しい馬は、彼女の美しさを引き立てていて、スティーブンの心は、どこか痛みの混じった喜びに満たされました。

スティーブン、アヘンチンキを飲む

スティーブンは「薬を飲むので、ちょっと一人にさせてほしい」と言って別室にさがり、身体に貼り付けていたブルー・ピーターを外し、ポケットに入れました。そして「いつもの量の」アヘンチンキを飲みますが…その強さにぎょっとしました。「アクアヴィット(「命の水」:スウェーデンのめちゃくちゃ強い蒸留酒)で割っているのか?」味と強さが違うのは、割っているアルコールの種類が違うせいだと思ったのですが…実際はもちろん、パディーンのおかげで薄いアヘンチンキを飲みつづけたせいで、すっかり体からアヘンが抜けているせいなのです。

とりあえず、アヘンチンキで気持ちが落ち着いた(と思った)スティーブンは部屋に戻り、言いました。「ダイアナ、僕は許しを請いに来たんだ。」…