Chapter 9-2 気球とダイアモンド


ダイアナ、スティーブンを「とっくに許している」と言うが…

久々にはっきりとアヘンチンキの効果を感じ、かなり冷静な気分で一度の試みに自分の幸せの全てを賭ける覚悟を固めたスティーブンは、部屋に戻って言いました。「ダイアナ、僕は許しを請いに来たんだ。」

「でも、スティーブン、もうとっくに許したわ。あなたが好きだし、恨みや悪意はこれっぽっちもないのよ。」「そういう意味じゃないんだ、ハニー」「スティーブン、それ以上のことはね…私たちの結婚は、そもそもの初めから馬鹿げていたのよ。愛しているけど、お互い傷つけあうだけだわ。二人とも、猫みたいに独立しているもの。

「そばにいて欲しいだけだ。僕は拿捕賞金と相続財産で金ができたし−こんなことを言うのは、単に、君のアラビア種を、イギリスの牧場でいくらでも育てられると言いたいからなんだが…」「スティーブン、ヤゲロに言ったことと同じよ。もう、自分を男の力の支配下におくことはしない。でも、もし私が誰かの妻として一緒に暮らすとしたら、それはあなた以外にはいない。これが私の答だと思って。

スティーブン、気球に乗った夢を見たと話す

「これ以上しつこくは言わないよ」スティーブンはそう言って、しばらく窓から庭を眺めた後、「今朝、とても鮮やかな夢を見たんだ。気球の夢だ。果てしなく広がる雲の上にいて、頭上に広がる空は、信じられないほど純粋な、濃密な青で…」「ああ、そう、そう!その通りよ!」「僕は地上を離れたことはないから、これは乗ったことのある人に聞いたんだ。でも、夢で見て初めて分かったのは、あのとても強い『生きている』という感覚と−雲の上の世界の沈黙の深さと−光と色の、信じられないような鮮やかさだった。

「雲の切れ目から、遥か下に地上が見えて、それがどんどん遠くなって−いつの間にか岩と氷だけになるんだ。喜びの中に、恐怖が忍び込んで…死ぬことへの恐怖ではない。もっとひどい、肉体も魂も完全に消えてしまうような恐怖だ。」「夢の結末は?」「そこでジャックに起こされたから、結末はないんだ。」

「ヤゲロがいつも、どんどん上空に上がってしまって帰ってこれなくなった人のことを言っているわ。でも、私のは熱気球だし、ロープで地上の錨につないであるから大丈夫なのよ。」「ディア・ビリャズ、君を怖がらせたり、乗るのをやめさせようとして言っているんじゃない。ただの夢の話で、説教やたとえ話じゃない。ただ、あの色の鮮やかさを…気球は真紅だった…伝えたかっただけなんだ。こんな言葉ではとても伝えきれていないけどね。あと、さっき話した件と、これから話す件との間に、この話を挟みたかったということもある。二つの話が、まったく無関係だと言うことをわかってほしいからだ。

「パリで会った、ラモットの友達のダングラールを憶えているかい?彼は君のダイアモンドを取り返してくれると約束していた。約束通り、送ってくれたんだ。」スティーブンはポケットからブルー・ピーターを取り出し、ダイアナに渡しました。

スティーブンが渡したブルー・ピーターを見て、ダイアナは泣き出す

ダイアナって、行動パターンから見れば、明らかに理性より感情で動くタイプですが、その割にあんまり感情を爆発させて、泣いたり怒ったりすることは少ないような気がします。…いや、怒鳴り合いのケンカは、スティーブン以外の男(最初の夫、キャニング、ジョンソンなど)とは結構してたかな。でも、泣いたのは、3巻で決闘したスティーブンを見舞った時ぐらい。あと、2巻でフランスに行くスティーブンを馬で追ってきた時…あの時泣いてたのはスティーブンだけだったか。

それなのに、窓から差す日光にきらきらと輝いているダイアモンドを見たとき、ダイアナは最初に驚きの、次に喜びと畏れの表情を浮かべ…やがて堰を切ったように泣き出しました。彼女はしばらくほろほろと涙をこぼし、「…もう二度と見られないと思っていた。私、これを罪深いほど愛していたわ。今でも、罪深いほど愛している。…何てお礼を言ったらいいの。私はあなたに、こんなに冷たかったのに。許してね。」

実は私は、モノをここまで愛する気持ちが−女性が宝石を愛する気持ちも、コレクター(主に男性)がレアものアイテムを愛する気持ちも−イマイチ理解できない人間なのですが…

でも、ダイアナが愛しているのは(執着しているというより、愛しているという感じ)、宝石そのものより、それが象徴する「何か」なのだろういう気がします。それが何であるかは、よくわからない−ダイアナ自身にも、わかっていないのではないかと思いますが。スティーブンと違ってダイアナは、自分の感情をゆっくり分析したりするタイプじゃないしね。(その点、彼女はジャックに似ている。違うところもあるけど…)

いずれにしても、この宝石に対する彼女の思い入れは、私の想像以上に深いことは間違いないようです。それを考えると、7巻でダイアナがスティーブンを救うためにブルー・ピーターを手放したことを、私は過小評価していたかなあ。宝石を手放したこと自体は、あまり大した事とは思っていなかったのです。それより、その行動によって危険に身をさらしたことの方を評価していたような…でも、ダイアナにとっては、危険より宝石を手放すことの方が大変だったのでしょう。

ヤゲロと婚約者のロヴィサが来る

ダイアナがとめどなく涙を流していると、ヤゲロが予定通り婚約者のロヴィサを連れて現れたので、彼女は化粧がぐちゃぐちゃになった顔を、あわてて直しました。

ヤゲロはスティーブンがいるのを見て、一瞬よろこびに顔を輝かせ、しかしその後でひどく不安そうになりますが(わかりやすいやつ)…スティーブンがにこやかに挨拶して結婚と昇進(ヤゲロは大佐の軍服を着ていたので)のお祝いを言ったので、ほっとしたようでした。

ロヴィサは若い、本当に美しい良家のお嬢様で、あまり頭は良くなく、外国語はほとんど喋れず、ヤゲロに首ったけで、彼の誉めるダイアナのことを素直に崇拝していました。天然お嬢様はヤゲロとお似合いですよね。彼は超ハンサムだけど、プレイボーイってタイプではないし、いい奴だし、幸せになれるのではないでしょうか。

ダイアナはヤゲロにジャックの最新情報を手短に話した後、二人を早く追い払いたくて「伯爵夫人が探していた」と言うのですが、空気の読めないロヴィサは、自分の花嫁衣裳のことをどうしてもダイアナに聞いてもらいたいようで…刺繍のことをスウェーデン語で延々と喋る彼女を、ダイアナが渋々相手をしている間、スティーブンは二杯目のアヘンチンキを飲みにこっそり部屋に戻りました。彼は再度、その強さに驚くのですが…

スティーブン、パディーンのおかげでもう身体からはアヘンがすっかり抜けていて、肉体的な依存は脱していると思うのですが…精神的依存が大きいのかなあ。必要だという思い込みっていうか。

ダイアナとスティーブン、気球を見に塔に登る

ヤゲロとロヴィサがようやく母屋に去った後、ダイアナは「やれやれ、やっと帰ってくれたわ。でも今回は、ヤゲロも気球のことで一言も文句を言わなかったわ。日曜にまた乗ることは言ってあるのに。」「今度の日曜?一緒に乗ってもいいかい?」「もちろんいいわよ。今度は大きい方の赤い気球だから、あなたが乗るスペースはたっぷりあるし。もう空気を入れ始めているの。見る?」「ここにあるのか?」「まさか、すごく大きいのよ。近くの鋳物工場だけど、この家の塔から見えるの。スティーブン、なんだか気分が悪そうだけど、大丈夫?」「少しぼんやりしているようだ。今朝、夜明け前に起こされたから…でも、塔に駆け上がるぐらいは平気だよ。」

スティーブンはダイアナについて、狭くて急ならせん階段を登りました。「壁の方にくっついて登ってね。上の方は手すりがないから気をつけて…」二人は最高部の小さなドアから外に出て、ダイアナは彼に望遠鏡を渡しました。「ほら、あそこに大きな赤い丸いものが見えるでしょう?あれが私の気球よ!」「すばらしい。」「ねえスティーブン、降りてお茶でも飲みましょうか。あなた、顔色が紙みたいよ。さあ、先に降りて。私はドアの錠を下ろしてゆくから…」

スティーブンはドアを開け、日曜のことについて何か聞き取れない事をもごもごとつぶやいた後、頭からまっさかさまに虚空へ墜ちてゆきました。