Chapter 9-3 青の世界


スティーブン、ダイアナと気球に乗っている

様々なトラブルや、事故や負傷があったにもかかわらず、予定通り気球は飛び、ダイアナとスティーブンは一緒に雲の上にいました。

不思議になつかしい、深い深い青の空。夢で見たよりずっと鮮やかなすべての色…まるで、何年も失っていた視力を回復した直後のようだ。真っ赤な気球、ダイアナの緑色の乗馬服。長い睫毛を伏せて、膝に置いた手の上のブルー・ピーターを見つめているダイアナ、その頬の色の完璧さ。スティーブンは息が止まる思いで見つめていました。

それは夢で見たとおり、深い沈黙の世界でした。ダイアナとスティーブンは一言も口をきかず、それでも、心は完璧に通じ合っていて、話す必要はないのです。音もなく、時間もなく…いや、時間はあるけれど、「期間」の感覚がなく、何時間、何日間、こうして雲の上にいるのか、スティーブンにはわかりませんでした。

ダイアナは目を伏せたまま、眠りに落ちたようです。スティーブンも眠くなり、目を閉じ、いつしか夢に落ちました…


…夢の中で、彼はどこかわからない部屋のベッドに横たわっていました。

部屋の中には、ダイアナとヤゲロがいて、明らかに医者だとわかる三人の男が、ラテン語で話し合っていました。胸に星型の勲章をつけた医者のひとりが、あとの二人に説明しているようでした。「…この脚は単純な骨折だから、『アンダーセンのバスラ法』で処置すれば問題ない…たしかにこの身体には、悪い習慣、栄養不足、それに鬱病の初期症状が認められる。しかし、肉体自体は痩せているが頑丈であるし、まだいくらか若さの名残りもある…」

夢の中に特有な、理屈に合わない直感で、彼はここがダイアナの部屋であり、彼が寝ているのは彼女のベッドであり、彼女はつきっきりで看病してくれていることを悟りました。勲章をつけた医者は、ヤゲロが呼んでくれた国王の主治医だと言うことも、なぜかわかりました。

…いつの間にか、部屋にはダイアナは一人になっていました。ダイアナは彼の手に自分の手を重ねて、「ああ、スティーブン、スティーブン…あなたに私の声が聞こえたらいいのに。」

ところが、夢の中の夢のように、再びあの邪悪な気球が現れました。今度は、気球がぐんぐんと空高く上昇しているのが分かり、彼は今までに感じたことのないほどの恐怖を感じていました。

ダイアナは、手にダイアモンドを持って顔を伏せたままでした。その顔はいつの間にか、ひどく蒼白くなっていて、まだ息はしているものの、かろうじてしているだけでした。空気は刻一刻と薄くなり、ついに彼女の息が止まり、その手からダイアモンドがころりと落ちました。「ノー、ノー、ノー!」悲痛な叫び声を上げ


身体を起こした彼を、彼女のやさしい腕が抱きとめました。「静かに、スティーブン。大丈夫よ。」彼女は、まるで馬をなだめるように彼をなだめ、やさしく寝かせました。「マイディア、あなたのかわいそうな脚、痛めないように気をつけて。」

彼女の温かい胸にもたれて、スティーブンはゆっくり現実に戻ってゆきました。

スティーブン、目覚める

このあたり、ヘンな書き方ですみません…夢と現実をうろうろするこのシーン、すごく気に入っているのですよね。最初読んだ時はだまされて、「ほえ?私、意味を読み違えてた?」と、前項の最後の文章("pitched headlong into the void")を何度も読み返してしまいました。

オブライアン氏は映画がお嫌いで、ほとんど観なかったということを考えれば、ちょっと不思議ですが、彼の小説にはときどき、ものすごく映画的なシーンがあります。これもそのひとつで、夢と現実のシーンの、画質や色合いや光の微妙な違いまで目に浮かぶようです。

あ、医者が言っていたことですが…『アンダーセンのバスラ法』とは、要するにギプスのことらしい。石膏で固めて骨折を治す療法はこのころ普及したようですね。しかし、「鬱病の初期症状」って…本当に?問診もなしでなぜわかるんだろ?寝ていてもわかるほどひどい寝言だったのか?

その夜スティーブンは、そのままうとうとしながら、彼女が優しく手際よく自分の世話をやいているのを感じ、その優しさに深く心を動かされました。彼女を長い間知っているけれど、「優しさ」というものが彼女の性格にあるとは知らなかった。勇気や覇気、寛大さ、気立ての良さはあっても、優しさがあるとは思っていなかった…心も体も弱りきっている彼は、暗闇の中でじっと横たわったまま、静かに涙を流しました。

朝が来ると、スティーブンは彼女に声をかけました。「ダイアナ、起きているかい?」ダイアナは彼にキスをして、「スティーブン、正気に戻ったのね。よかった。また気球の悪夢を見ているのかと思った。」「そんなに寝言を言っていたかい?」「ええ。可哀想に、どんなに慰めても止まらなくて…長かったわ。」「何時間も?」「何日もよ。」

彼の脚には、くりかえし激痛が走っていました。「僕のポケットに入っていた瓶(アヘンチンキの)は無事だった?」「いいえ、割れたわ。あの瓶のせいで、あなたは死ぬところだったのよ。脇腹がざっくり切れて。」彼の片脚は石膏で固められ、腹には包帯が巻かれていました。

「彼がもっと心弱い状態だったら、このことを何かの警告だと思っただろう。」…って、警告だと思えよ!(思わずつっこみ)しばらくアヘンを摂取していなかった(本人は知らなかったけど)ところへ、いきなり強いのを二回も呷ったから、オーバードーズでひっくり返って階段を落ちたのですから…

スティーブン、医者にアヘンチンキの処方を拒否される

ヤゲロが呼んでくれた、胸に勲章をつけた医者はドクター・マルセニアスと言う国王の主治医で、間違いなくスウェーデン最高の、おそらく全ヨーロッパでも有数の医者。スティーブン、自分より権威の高い医者にかかるのは(少なくともこのシリーズが始まってからは)初めてじゃないかな。

余談:医者のマルセニアス(Mersennius)、という名前で、以前に訳した「グラディエーター」ファンフィクションに出てきた医者を思い出してしまいました。彼は「マルシアヌス(Marcianus)」でしたが。(「グラ」DVD収録の未公開映像に登場する軍医に、作者のスーザンさんが名前をつけたキャラです。)名前が似ているのは偶然?

とにかく、その朝にまた診察に来たマルセニアス医師は、スティーブンの傷の経過に満足しているようでした。スティーブンが脚の痛みを訴えると、マルセニアスは先回りして、「アヘンチンキは処方しません」と宣言しました。

ドクター・マルセニアスは賢明にも、彼が転落した状況と、脇腹に破片が刺さっていた瓶のラベルから、彼がアヘン依存症か、少なくともそうなりかけていると判断しているのですね。

しかしスティーブン自身は、長年飲み続けながらも、自分が中毒だとは思ったことないのです。意志によって完全にコントロールできていると思っているし、実際、ジャンキー世界の縁をギリギリで彷徨っていながら、完全に足を踏み入れたことはないような…

特に今は、パディーンのおかげで肉体的な依存はなくなっているはず。それなのに、飲みたいという渇望はますます募っているようで…そのことを自覚した彼は、マルセニアスに反論することはできませんでした。

スティーブンのアヘンに対する渇望は、感情を落ち着かせたいという願望でした。肉体的苦痛には耐えられるけれど、ダイアナの前で泣たり、弱い態度をとったりしたら、絶対に自分を許せない…

スティーブンはアヘンチンキの代わりに、薬局で買った「コカの葉」を持ってきてもらって噛むことにしました。ダイアナは「スティーブン、その葉っぱ、本当に害はないの?」と心配しますが、彼は例によって「大丈夫、ペルー人はみんなこれを始終噛んでいる。煙草と同じぐらいありふれたものだよ。」と答えるのでした。

スティーブンは実際に意志の強い人だから、本当に「止めるべきだ」と思ったら麻薬を止められるのではないかと思うけど…止めるべきだとは思っていないところが問題なのよね。

ダイアナ、献身的にスティーブンの看病をする

その後三日間、ダイアナはスティーブンのベッドの横に置いた簡易ベッドで寝起きを続け、彼を優しく献身的に看病しました。その三日間で、今までの長年の付き合いで一度もなかったほど、二人の絆は強く深くなりました。

三日後の朝、ダイアナはスティーブンに薬を飲ませた後、落ち着きなく部屋を歩き回っていたかと思うと、恥ずかしそうに言い出しました。「スティーブン、あなたに会った日、私はどうかしていたんだわ。私は前から、日付とか、物事が起こった順番とか覚えるのが苦手だけど、いくらなんでもこれはひどすぎるわね。さっき、階段を駆け降りている時、やっと気がついたのよ。『ダイアナ、あんたは何て大馬鹿なの、それが返事だったのよ。』って…」

あと一回。