Chapter 10-1 〜 吉報と決裂


ジャック、勝手に艦を捜索されて激怒する

その後、スティーブンとマーティンは観察旅行に出かけました。見たいと思っていた動物は(カモノハシ以外は)全部見ることができ、山ほど標本を持って上機嫌で帰ってきた二人。

スティーブンが艦に戻った時、ジャックは艦を訪れていた陸軍将校を追い返しているところでした。「こんな失礼な手紙は受け取れない」と言っているようです。

スティーブンが帰ったことは喜んでいるジャックですが、どうやら激怒している様子。「ああ、怒っている。トムと工廠へ出かけて留守にしている時、陸軍が艦に来て、『逃亡した囚人を探す』と言って、勝手に艦を捜索して隠れていた囚人を連れて行った。艦長の許可なしで軍艦を捜索するとは何事だ!抗議したら、サプライズは正式な軍艦ではないとか弁解してきた…海軍に雇われ、海軍艦長が指揮している船は軍艦と同等なのに…」

「抗議した相手は陸軍か?」「民間人だ。ここで幅を利かせているマッカーサー一派で、副総督に書類を出せば、何でもサインさせられる。さっきの若者は『今後このような事態を防ぐため、艦の渡り板に衛兵を置く』という手紙を持ってきた。自分の艦に乗り降りするのに、陸軍兵に見張られるなんてとんでもない。だから、埠頭を離れて湾の中に艦を移動させることにした。」

ジャックは決して怒りっぽい方ではないけど、海軍への侮辱となると人一倍敏感なので、この件ではかなり怒り心頭のようです。沖に出た後も、カッターが当局に止められて捜索されそうになったりして、ジャックの怒りはますます募るのですが…

スティーブン、総督夫人を訪問し、そこでフィッツジェラルドの親戚に会う

スティーブンは、総督夫人のところへもう一度謝りに行ったのですが、面会を待っている時、偶然に親戚の一人に会いました。彼は司祭で、ジェームズ・フィッツジェラルドという名前。しばらく家族のニュースを交換した後、ジェームズは気になることを言いました。

「スティーブン、君はウールー・ウールーを通って北へ旅行する予定だと聞いたが…それなら、十分に注意してくれ。ユナイッテッド・アイリッシュメンの逃亡者の一群がニューカッスル周辺にいて、君は敵に寝返ったと思われている。君はゴフを追跡した英国船の甲板で目撃されている。ゴフが絞首刑になった後、彼の仲間の何人かがここに送られてきている。」

「それは私を知らない者たちだろう。私は暴力を使うことに反対で、従兄エドワード(※)に対して武装蜂起をやめてくれと頼んだ。私はボナパルトの帝国を倒すためなら、誰とでも協力する−ボナパルトに手を借りることはアイルランドにとって致命的だ。しかし私は決して、決して密告者の役割を演じたことはない。」

サプライズ号には捕まらなかったゴフですが(13巻2章)、別の英国艦に捕まってしまったようです。それで絞首刑に…うーん、そうだったんだ。もちろん、スティーブンは確固たる考えに基づいて英国側に協力しているわけですが、UIの人から見れば、仲間を裏切って権力の側についたとか、敵側に寝返ったとか、そういう風に見えてしまうのかな…辛い立場だと思います。

現実に、英国政府がアイルランド人たちに対して不当な扱いをしているのは確かなので、「敵の敵は味方」だし、いろいろ甘い約束をしてくるフランス皇帝の方につきたくなる気持ちも理解できる。でも、スティーブンはそれが祖国にとって今よりもっと悪いことになると信じていて、皇帝を倒すためなら英国軍とでも協力する。

本当は、どちらの道が正しいかなんて、絶対的に決めることはできないけど…同胞や親しい人と袂を分かっても、自分が正しいと思った厳しい道を一人で歩むことのできるスティーブンは強い人だと思います。

総督夫人と面会したスティーブンは、サラとエミリーのことを謝りました。「鷹のようにワイルドな子たちでしたわね。世話係の手を噛んで逃げました。女の子たちといるのは嫌で、お船で男たちといたいそうです。もう一度連れて来てみますか?」「いや、それはやめておきます。寒いところでは羊毛に包んでおいて、ロンドンに戻ったら、グレープス亭のミセス・ブロードに預けるしかないでしょう。」

※エドワード・フィッツジェラルド:スティーブンの父方の親戚であるフィッツジェラルド家の一員。ユナイテッド・アイリッシュマンの中心メンバー。1798年の反乱で捕らえられ獄死。

スティーブンとマーティン、二度目の観察旅行。ポールトンの農場でパディーンに会う

さて、前回とは別の方面にまた観察旅行に出かけたスティーブンとマーティン。鳥を追いかけて迷ったりしながら、何とか無事にウールー・ウールーに辿り着き、ポールトンの農場に歓迎されました。早速パディーンの様子を訊ねると、来た時は骨と皮だったが、今は食欲も戻ったそうです。

ポールトンはパディーンが一人で住んでいる羊飼い小屋に二人を案内してくれました。小屋の前に座り、通りすがりのアボリジニの若者二人に、アイルランドの歌を歌っているパディーン。どうやら元気出たようで、一安心。スティーブンは彼に、「数日後に川の河口にボートで迎えに来る」と話しました。

「これからすることに、ポールトンを巻き込みたくない」帰り道、スティーブンはマーティンに言いました。「でも、彼は重々承知していて、協力してくれている。巻き込まないのは無理じゃないか?」「それでも、直接話したわけではないから、彼は『知らなかった』と言い張ればいい。法的には安全だ。」

どうやら、パディーンを脱走させること決めた様子の二人。いつ決めたかは不明ですが…やっぱり病院に会いに行った時でしょうか。

スティーブン、マドラスから来た男に嬉しいニュースを聞く

シドニーに戻ると、サプライズ号は沖から埠頭に戻っていました。その後には、マドラスから入港した軍艦が停泊しています。

標本を持って艦に帰るマーティンと別れ、用済みになった馬を売りに行ったスティーブン。商談をすませてホテルのバーで一休みしていて、ふと視線を感じて顔を上げると、海兵隊の軍服の男がこちらを見つめていました。

「ドクター・マチュリンでいらっしゃいますね?」「そうですが…」「覚えていらっしゃらないでしょうが、以前、海戦の後で私の脚を救って下さいました。ヘイスティングスです。」「覚えています。膝でしたね。ちょっと見せてくれますか?…ああ、きれいに治っている。おめでとう。」「あなたにも、おめでとうございます、ドクター。」「ありがとう。…膝のことですか?」「お嬢さんのことですよ。…でも、女の子の誕生はめでたくないと感じる方もいるようですから…どうも失礼しました。」

「おっしゃることが分からないのですが…」と言いながらも、スティーブンは心臓がどきどきしてくるのを感じていました。「マドラスにいた時、入港した艦の友人に海軍広報を貸してもらって、人事欄を読んでいたらあなたのお名前を見つけたのです。別の方だったかな?」「何月で、何と書いてありましたか?」「4月でした。(※)ポーツマス近郊、アッシュグローブ・コテージにて、海軍ドクター・マチュリン夫人、女児を出産。

スティーブンはヘイスティングスの手を握りしめました。「この上なく嬉しい知らせを持ってきてくださいました!主人、この店で最高の酒をくれ!」

こんな世界の裏側で、ずいぶん間接的に娘の誕生を聞くことになったスティーブンですが…とりあえず、ドクター、待望の女の子、誕生おめでとう!

※マチュリンが最後に英国を出航した時が5月で、ダイアナは妊娠4〜7ヶ月ぐらいだったから、4月というのはどう考えてもおかしいのだけど…??これはヘイスティングスの記憶違い?…ということにしておこう。

艦で総督たちを招待してディナーが催される

娘が生まれて世界はバラ色、天にも昇る気持ちでウキウキと艦に戻ったスティーブンですが、艦上はなんだか忙しそうで、ジャックは相変わらず疲れた顔をしていました。

「ジャック、僕は英国に帰るのが待ちきれないよ…」「おれもだ。これから総督たちを招待して送別ディナーをする。急いで着替えてきてくれ。」ジャックはそう言うと、忙しそうに行ってしまったので、スティーブンは吉報を伝えそこねました。

キリックが用意した服に着替え、ガンルームに行くと、正装したトム・プリングズが座っていました。「ドクター、無事にお帰りになってよかった。なんだか嬉しそうですね。ドクターが艦に幸運を運んできてくれたのならいいのですが…

「今週は本当に大変だったのです。上陸した水兵たちが、喧嘩はするわ泥酔はするわ、女は連れ込むわで…総督が戻って、役人たちの態度は多少マシになったのですが、艦の評判はめちゃくちゃです。あんなに機嫌の悪い艦長は初めてです。そろそろディナーの時間ですね。もう一度見回って来ます。ドクターもブリーチを履いた方がいいですよ。」「…ああ、ありがとう、気が付かなかった。艦の評判をさらに落とすところだった。」

…カツラや髭剃りを忘れるならまだわかるけど…ブリーチ履き忘れるなよ!嬉しさに上の空なんだな(笑)。ここでスティーブンがプリングズに娘のことを言わなかったのは、やっぱりジャックに最初に言いたいと思っているからでしょうね。

ディナーにはドクター・レッドファーンも招待されていて、彼と隣席になったスティーブンは、もっぱら彼とばかり話していました。「ドクター・レッドファーン、カモノハシをご覧になったことは?」「動物には詳しくないので…多分、見たことがないと思いますが。ここではカモノハシではなく『水モグラ』と呼ばれているのですが…」

心ひそかに幸せに浸っている上に、レッドファーンとの会話を楽しんでいたスティーブンは、ディナー全体の雰囲気があまり良くなかったことも、料理がマズかったことも、まったく気になりませんでした。

スティーブン、パディーンを巡ってジャックと対立する

ディナーの後、レッドファーンを病院に送り、上機嫌で艦に戻って来たスティーブン。

「素晴らしいディナーだったな。」「そうか?重苦しい雰囲気だったと思うが…」「全然。ジャック、実は今日な、艦に戻る前にマドラスから来た人に会って…ああ、その前に聞いておきたいんだが、この風はもつかな?」「ああ、確実だ。」「明日の早朝、カッターを貸してくれないか?出航する時、バード島の沖で拾ってくれ。」「いいとも。バード島に何があるんだ?」「もちろん鳥がいるが、そこへ寄ってる暇はないんだ。」「なら、何をしに行くんだ?」

「パディーンを迎えに行くのだが、いけないか?」スティーブンは当然のように言うのですが、ジャックの答えは、彼には意外なものでした。「もちろん駄目だ!

「でも、もう彼にそう言ってしまったんだが…」「スティーブン、何てことを言うんだ。脱走しようとする囚人のために、今までどれだけ苦労したと思っている?どれだけ役人に悩まされたか?埠頭を離れて艦を沖に出さなければならなかったために、どれほど艦の準備が遅れたか。

「艦が無断で捜索された件を総督に抗議しに行ったら、総督は不適切だったことを認めて、謝罪が必要かと訊いてきた。おれは、謝罪はいらないが、あんなことは二度と起こらないと約束して欲しいと言った。それを約束してくれるなら、こちらは、私の艦ではシドニー湾から一人の囚人も脱走させないと約束すると。その条件で総督と合意した。だから、艦を埠頭に戻せたんだ。」

「彼はシップメイトなんだぞ。約束したんだ…」「こっちも約束した。どうして海軍艦長にそんなことを頼めるんだ?パディーンのためにはできるだけのことをしてきたが、脱走を認めるわけにはいかない。もう何人もの囚人を追い返しているんだ。」「パディーンにそう言えというのか?」「約束は破れない。総督に誓ったんだ。」

スティーブンは、しばらく黙ってジャックを見つめていました。その視線には嫌悪と哀れみがこもっているような気がして、深く傷つくジャック。スティーブンは何も言わずにキャビンを去り…