Chapter 3 〜 いとしの「ナツメグ」


ジャックたち、ジャンクに乗せてもらってバタヴィアに向かう。ワン・ダの船に会う

台風と海賊の襲撃を生き延びた元ディアンヌ号の乗員130名余は、鉱石運搬ジャンク船の客人となり、バタヴィアへ向かっていました。ジャンクは見かけによらず積載能力抜群で、英国船とはまるで構造が違うものの、防水障壁で仕切られた船倉が10個もあることに、ジャックは感心していました。「ディアンヌにこんな船倉があったら、まだ浮いていただろうな。」

食事も良く、皇帝でも食べたことのないような上等のツバメの巣スープもつき、まずは快適な航海でしたが、問題はこの海域には海賊がうようよしていること。食事中にジャンクが停船し、アーメッドが「海賊に捕まりました」と言うのですが−海賊というのは、このあたりを仕切って「保護料」を徴収しているワン・ダの船でした。

ワン・ダはプロ・プラバンの王宮の官吏で、スティーブンと仲良くなった人ですが、母方がダヤクで、パートタイム(?)で海賊もやっているのでした。リー=ポーはいつもの「料金」として、銀貨とツバメの巣3カゴを差し出しています。ワン・ダはスティーブンを見て大喜びで、彼を船に招き、その後のプラバンの様子を教えてくれました。

フランス艦コルネリー号は、ようやく修理が終わって出航できるようになった。砲の一部とか士官の時計とか、売れるものは何でも売って食糧を調達したが、火薬はまだ手に入れていない。火薬は王宮が独占的に押さえているので…サルタンは新しい愛人に夢中で(妊娠中の妃が夫にあてがったらしい。今度は女だが、少年のような外見とか。まったくこの人は…)政務はほったらかしなので、大臣と交渉中だそうです。(しかし、いいのかねこんなサルタンで…)スティーブンは彼にワイロを渡し「フランスに火薬を売らないように大臣に頼んでくれ」と言いました。

バタヴィアに着いたスティーブン、ラッフルズ総督を訪ねる

バタヴィア。多忙なジャワ総督のラッフルズ氏が、貴重な自由時間に蘭のスケッチを楽しんでいると、「おかしな男が総督を訪ねて来ています」と告げられました。「手紙を直接総督に渡すと言い張っています。医者だと言っているのですが、カツラもかぶっていないし…顔も服も汚くて、ひげも伸び放題です。」「マチュリンという名前か?」「すみません、聞き損ねました」「すぐに入るように言ってくれ。」

「マイディア・マチュリン、君のことを諦めかけていたよ!」「衛兵に『4ペンスやるからあっちへ行け』と言われましたよ。」「すまない、人を入れ替えたんだ。」「こんな格好ですみません。鉱石運搬船の船倉にいたのもで…艦長には、海軍の恥だからそんな服装で行くなと言われたのですが、こっそり出てきました。」彼は今までの経緯をざっと説明しました。「フォックスの消息はありましたか?」「何もない。あの台風では多くの船が遭難した。無蓋のボートに望みはないだろう。」

マチュリンは総督に条約の写しを渡しました。総督は内容には満足しますが、同封の報告書には眉をひそめました。「気の毒なフォックス。いつかこんなことになるのではないかと怖れていたのだ。信じられないかもしれないが、フォックスも若い頃はいい人間だった。この報告書が公開されたら、彼の評判は失墜し、友人はみな失望するだろう。本当に残念なことだ。」

スティーブンは条約が締結された経緯を、かいつまんで説明しました。「君は個人的に金をつぎ込んだようだな。英国政府は返してくれんぞ。」「かまいません。レッドワードとその友人を失脚させると言う個人的な意図もありましたし…」「彼らはどうなった?」「ああ、ケンカで殺されたようです。私はここで船を買って、サプライズ号とのランデブーに向かう予定です。コルネリー号と会う可能性もありますし。」

スティーブン、銀行がつぶれて財産を失ったことを知る。ラッフルズ、ジャックに艦をプレゼントする。

それを聞いて総督は、心配そうな表情になり、言いにくそうに切り出しました。「実は、悪い知らせがあるのだ。君は全財産をスミス&クローズ銀行に移したと言っていたね。あの銀行は破産して、預金を回収する望みはまったくないそうだ。

スティーブンはアジアに出航する直前、ジャックのすすめで銀行を替えていました。ポーツマスで、弁護士が作った委任状を自筆で写し、代理執行者にサー・ジョセフを指名し、サインして郵送したのですが…

「良いニュースもある。君たちの船のことだが…ちょうど、沈没していたオランダ艦を引き上げて、新品同様に修理したところだ。20門艦だからコルネリー号には敵わないが、サプライズ号とのランデブーには間に合う。」「それは素晴らしい!すぐにオーブリーに知らせていいですか?」「もちろん。士官たちをディナーに招待したいのだが、何人生き残っている?」「死んだのは、主計長と書記と士官候補生ひとりだけです。ただ、副長とベネットはひどい怪我をしたし、リードは片腕を失いましたが…」「それは気の毒に。リードとはあの巻き毛の少年か?」「いいえ。巻き毛の少年は死にました。」(ハーパーくんかな。ベネットは「明日までもたない」と言われていたけど、結局助かったのね。若さってすばらしい…)

スティーブン、女の子たちに人形をプレゼントする。

スティーブンは女の子たちにお礼のプレゼントを買うことにして、帰りにおもちゃ屋に寄りました。唯一あったオランダ系の店には、ロクな品がなかったのですが、なんとかマシな人形を3つ選んで買うと、店員はおまけだと言ってそれぞれの人形に「陶器のおまる(chamber-pot)」をつけました。

人形をあげると、女の子たちは礼儀正しくお礼を言いますが、人形が(特にその「おまる」が)気に入らなかったのは明らかで、スティーブンはがっかりしました。…まあ、女の子たちの気持ちわかるわ。当時の西洋のレディには室内用便器は必需品だったのでしょうけど…人形に「おまる」がついているって何事?って感じよね。西洋人の感覚?

…まあ、スティーブンが小さい女の子にプレゼントをして、女の子がそれを気に入るのは縁起が悪いので、これでよかったのではないでしょうか。

女の子たちと違って、ジャックの方はプレゼントに大喜びしました。

ラッフルズが士官と士官候補生の全員を招待したディナーの後、ジャックとフィールディング副長はそのオランダ艦Gelijkheid号(<オランダ語で「平等」という意味らしい)の設計図を熟読しました。

スティーブンがクマイ話をすると、総督は「ここを離れられたら、サルタンに挨拶する口実でプロプラバンに行くのに…忙しくて行けそうもない」と残念そうでした。実際、多忙な人で、スティーブンのおみやげの植物標本を二人で整理している間にも、陸軍の使いが来て「中国市場でもめごとが起こっていて、総督が顔を出していただければすぐに解決するのですが」と呼ばれて行きました。

スティーブン、ラッフルズを訪ねて来た植物学者サワビーと会う。サワビー、アイルランドを侮辱する

総督と入れ違いに、「総督府付き博物学者」の候補者が面接に来ました。それはサワビーという植物学者で、スティーブンは彼に挨拶して自己紹介しました。「あなたは植物学者ですか?」彼はスティーブンに聞きました。「いいえ。アイルランドの顕花植物について、論文を書いたことはありますが。」「博物学者ですか?」「まあ、そうです。」サワビーは彼を面接のライバルだと思い込み、黙ってしまいました。彼の態度が失礼だったので、スティーブンもあえて誤解を解きませんでした。

しばらく黙っていた後、サワビーはライバルを牽制するつもりか、「アイルランドの顕花植物についての本なら、ほんの短い本で済むでしょう。」と言い出しました。「アイルランドに行った事はありますが、ごく貧しい自然しかありませんから…植物相も、動物相も、人間も。」

それからサワビーは、アイルランドは人間も自然もいかに貧しいか、ダブリンのトリニティカレッジはイングランドの大学にくらべていかにお粗末か、1798年にまったく不当な要求をかかげて反逆を起こした無法者どもに、牧師である彼の伯父が牛を何頭盗まれたか、アイルランド人が今までも、ローマカトリックの迷信を捨てない限りこれからも永遠に、いかに貧しく無知であるか…などなど、延々と喋り続ける彼を、スティーブンは怒りを表に出さず、黙って聞いていました。

そこへラッフルズが帰って来たので、スティーブンは総督に言いました−「戻っていらしてよかった。ちょうど今、この方に反論する所です。このサワビー氏は、アイルランド人は歴史上常に貧しく無知であったと主張していらっしゃいます。私はそうではないと主張し、その論拠として、アイルランドの歴史書では偏っていると言われるかもしれませんので、純粋にイングランド人の権威、聖ベーダ(※)の教会史を引用したいと思います。『664年、ペストの大流行で英国の人口が激減し、アイルランドも被害を受けた。当時アイルランドでは、多くのイングランド人が神学を学び、修道生活をしていた…アイルランド人が彼らに食料と書物と教育を無料で提供していた。』」

ジャックは(<実はそばにいたのです)、スティーブンが静かに激怒しているのが分かっていました。彼の性格を知っているジャックは、はらはらしながら見守っていたのですが…スティーブンがいきなり決闘を申し込んだりせず、この反論でとりあえず怒りを収め、手の震えも止まっているのでほっとしました。ジャックと総督は「見事な引用だ」と賞賛し、サワビーは焦った様子で「お国の悪口を言うつもりはありませんでした、あなたがアイルランドの方だとは存じませんで…」と言って、早々に帰って行きました。

スティーブンと二人になると、ラッフルズは言いました。「君は普段、君の出身と人柄をよく知っている人たちとつき合っているが…そうでない世間一般では、ああいったアイルランドへの偏見は広くはびこっている。1798年の暴動にかかわることへの反感は強い。特に、あなた方がこれから行くニューサウスウェールズ(オーストラリア東部の流刑地・植民地)の支配階級の人間はひどい。覚悟しておいた方がいい。」「そうですね。…しかし、アメリカが独立した時はイングランド人の中にも支持する人は大勢いたのに、アイルランドに対しては一人もいないのは何故なのでしょうね…」

※聖ベーダ (Venerable Bede) 672〜735 英国の学者・歴史家・神学者。イングランド北部ダーラムの大聖堂に墓がある。

スティーブン、全財産を失ったことを思い憂鬱になる。ジャックたち、艦を見に行く

総督宅から宿舎に戻る時、スティーブンはふと、スミス&クローズ銀行の破算でほとんど全財産を失ったことを思い出しました。そのニュースを聞いた当初は、あまり実感が沸かず、ショッキングな事が起こった時にはいつもそうするように、心理的に「棚上げ」していたのだが…

改めて、これからはダイアナの願いを思う存分叶えてやることはできないこと、戦争が終わったらサプライズ号で世界中を観察して回る夢も破れたことを考え、彼は憂鬱になりました。アヘンチンキをやめていなければ、ここで飲んだところだろう…それでも、疲れていたせいか、アヘンなしでもその夜はよく眠れました。

翌朝の夜明け−彼はジャックに起こされ、「ボートが借りられたから、あのオランダ艦(名前は思い出せないが)を見に行こう」と誘われました。

ボートはバタヴィアの街を縦横に走る運河を抜け、港へ向かいます。朝早く起こされたスティーブンは、ボートで眠ってしまいますが、目を覚ますと、マストのない船が視界に入りました。ジャックとボンデンは、なぜかその船体に見惚れているようです。スティーブンには「マストがない」ということしかわからないのですが…「何というかわいいライン(sweet line)だ。ボンデン、あんなにかわいいのを見たことがあるか?」「ありません、艦長。もちろん、サプライズを除いては。」

スティーブンを連れて艦を見回りながらも、ジャックはニコニコと「なんて素敵な艦だ!(What a sweet ship!)」と叫びつづけていました。「最上の技術と、最上の木材が自由に使えなければ、こんな小さな傑作は作れないよ。スティーブン、フォックスがサルタンの謁見でつまずいた称号は何だった?」「ケセガラン・アウォー、バンガ・ブディ・バハサ、ヒブラン・ブアー・プア。」「いや、君の翻訳の方だ。最後のは何だった?」「慰めのナツメグ(Nutmeg of Consolation)だ。」「ぴったりの名前だ。すべての男の心の慰め。普段は『ナツメグ号』と呼び、正式書類では『慰めの』をつける。わが愛しのナツメグ!素晴らしい。」