Chapter 4 〜 君に捧げる花


ジャックとスティーブンたちの生還のニュースは、ワン=ダからプラバンに伝わり、早速ブーレン氏からお祝いの手紙が来ました。手紙の中には、「仏艦コルネリー号は17日に出航する、火薬を渡さないという策略は少なくとも部分的には成功したようだ」という情報がありました。

コルネリー号と対決する望みを捨てていないジャック。コルネリーに追いつくには、ナツメグ号の出航準備を急がせなければならないことが分かり、総督の全面的協力のもと、忙しく飛び回っています。

植物学者のサワビー、新種の植物にドクター・マチュリンの名前をつける

ジャックが多忙にしている間、スティーブンはラッフルズ総督と過ごし、コレクションを見せてもらっていました。ある日、スティーブンが総督の別邸へ行くため馬に乗ろうとしているところに、先日の植物学者サワビーが現れます。

サワビーは、ためらいながら、おずおずと彼に近づいて来ました。「ドクター・マチュリン…手紙をことづけるつもりで参ったのですが、こうしてお目にかかれた以上、直接申し上げるべきかと思いまして…あなたが総督に推薦して下さったお陰で、仕事に就けました。あなたの雅量には何とお礼を申し上げていいのか…」「とんでもない。あなたと他の候補者の論文を読んで、あなたのが抜群に優秀だったので、思った通りを言っただけです。」「それでも、感謝しております。尊敬の印に、私がこのほど発見した新種の植物に、あなたの名前をつけさせていただきました。この手紙に標本が入っています。」彼はひどく緊張した様子で、震える手で、それでも何とか落とさずに手紙を渡しました。

ラッフルズの別邸へ向う途中で大雨が降り出し、スティーブンは手紙をカツラと帽子の間に入れて、とぼとぼと馬を進めました。別邸に着いて、ラッフルズのガウンを借りて服を乾かしてもらいながら、彼は「私は『永遠の命』を手に入れるところのようです」と言い、サワビーの手紙の包装を解いて標本を取り出し、ラッフルズに見せました。「サワビーはこの植物に、私の名前をつけるそうです。」「確かに、これは初めて見る種類だが…」

「……皮肉な意味があるのでしょうか?」「まさか。サワビーは大真面目で、皮肉を言うようなセンスは一切持ち合わせない男だ。」

部屋に入ってきたラッフルズ夫人が言いました。「あなた、この臭いはいったい何ですの?羽目板の裏で何か死んだのかしら?」「これはドクター・マチュリンにちなんで命名される花だよ。」「あら。…まあ、病気やおできに名前がつくよりは、花の方がましですわね。でも、どうか部屋から出して下さいな。」

羽目板の裏で何か死んでいるような臭い、というと、死臭や腐敗臭がするってことですね。ラッフルズが発見してその名を残す世界最大の花「ラフレシア」も、臭いことで有名ですが。新種の動植物に名前がつくことは最高の名誉、と言われますが、世界最大ならともかく、「臭い花」というのはちと複雑かも。(でっかい亀の方がいいなあ。)どこかに「マチュリン草」(ラテン語ではどうなるのか知りませんが)という名の臭い花があると思うと、思わず楽しくなってしまいますが(笑)。

「友人や同僚の名を動植物につけるのはまことに美しい習慣だ。君がテストゥード・オウブレイを名づけたのはその最高の例だ。オーブリーはどうしている?」「早く艦を出航させようと走り回っていますよ。食事の暇も、食べ過ぎる暇もないほどです。いいことです。」「水兵は足りているか?」「130人残っているので大丈夫です。しかし、主計長と書記と士官候補生が数人要ると言っていました。ハーパーは死んだし、リードとベネットは怪我でまだマストに登れないので。」「主計長には当てがないが、書記にはいい若者を推薦しよう。士官候補生も二人いるが、これは推薦に価するかどうかわからない。艦長が木曜に食事に来て、面接してくれるとありがたいのだが…」

ナツメグ号に士官候補生のオークスとミラーが来る

スティーブンが艦に戻って総督の話を伝えると、ジャックは言いました。「木曜となると、出航が丸二日遅れてしまうなあ。でも、総督にはとても世話になったから失礼なことはしたくないし…書記と士官候補生たちには、直接ここへ出頭させてもらえればいい。二人はどうして前の艦をクビになったんだ?」「クビになったと言うより、置いてゆかれたんだ。売春宿で寝過ごして。」

翌日、栄養不足の体につんつるてんの軍服、かかとの取れた靴、ヒゲを一生懸命剃りすぎてニキビのつぶれた顔、という悲惨な青年が二人、艦に出頭しました。士官候補生のオークスとミラーです。

異国の地で艦を失った士官候補生ほど、悲惨なものはありません。食べ盛りの身で、金もなければ、金を稼ぐ手段もない。海尉以上になっていれば、多少蓄えはあるし、半給をかたに借金もできるし、また平水兵なら他に働き口もあるでしょうけど…士官候補生は、なんともつぶしがきかない。ラッフルズが少しは援助していやっているとはいえ、艦隊に置いてきぼりにされてからは惨めに過ごしていた二人です。「こんな格好ですみません」と恐縮している二人を見て同情したスティーブンは、これ以上悲惨なことにならないように、ジャックが二人を雇ってくれればいいが…と思いました。

ジャックが見たところ、オークスとミラーはこれといって有能そうには見えず、何の実績もなく、大した船乗りでもなさそうです。「君達には何の推薦もないし、名簿上、君たちの名前には『R』(Run=逃亡した)がついている。正式には脱走兵だ。」ジャックは二人に言いました。「君達を艦尾甲板に迎えるわけにはゆかない。しかし、望むなら、君たちを上級水兵(able seaman)として迎える。それが嫌なら帰りたまえ。」

水兵に格下げと聞いて二人はショックを受けたようですが、それでも「艦に残りたい」と言いました。「これはいい艦だから、真面目に謙虚に働けば、楽しい時間が過ごせるだろう。それに、海軍と言うものを隅々まで理解することができる。水兵からスタートしたり、士官候補生から降格された人で、末には提督になった人もたくさんいる。」

オークスとミラーは、心配を押し殺して、艦長に感謝しました。

ジャックとスティーブン、ラッフルズ総督のディナーに行く

いよいよナツメグの準備が整ったその日、二人はラッフルズ総督邸に招かれ、バタヴィアでの最後のディナーを共にしました。

ディナーにはラッフルズ夫人の他に、4人のオランダ人レディが招かれていました。この4人のレディは「みんな太めで、明るく魅力的で、大きくあいたデコルテと薄いドレスから、ルーベンスの絵を思わせる真珠のような光沢の肌がのぞいている」。スティーブンは「生まれて初めてルーベンスに共感」し、「強い欲望を覚えて困惑した」と書いてありますが…

スティーブンって、太目が好み…ではないと思うのですが。(ダイアナはルーベンスタイプとは思えないし。)単に、長い間女っ気がなかったせいかな?ルーベンスの絵の女性は、たしかに現代の基準で言うと太りすぎなのですが、強烈な魅力を湛えているのは、やっぱり「真珠色の肌」のせいかな。

ラッフルズ夫人がジャックに、「あの気の毒な少年たちは受け入れて下さいましたの?心配していましたのよ。」「水兵として雇いました。」「平水兵の中に?何てひどいことを!紳士の息子たちですのよ。」「私もそうですが、平水兵に降格されたことがあります。下層甲板の仲間は、とても親切でした。もちろん嫌な奴もいましたが、それを言うなら、士官候補生室にはもっとたくさんいますし、ガンルームはもっとひどい。ご心配なく、何週間か様子を見て、見込みがあるようならまた昇格させます。実は、有能な水兵をひとり昇格させたいと前から考えていて、その時に一緒に昇格するのが都合がいいのです。」

「あなたはどうして降格になったのですか?」オランダ人レディの一人が聞きました。ジャックはにやりとして、「私がセックスに熱中していたためと、艦長のトライプ料理を盗んだせいです。」レディたちはわけがわからず、戸惑った顔をしていました。

ナツメグ号、コルネリー号を追ってバタヴィアを出航する。

そのディナーの後、ナツメグ号は夕方の潮で急ぎ出航しました。ワン=ダからコルネリー号がとる予定のコースを聞いていたので、先回りして待ち伏せる予定。しかし、彼らがバタヴィアにいる間に吹いていた順風が、弱い逆風に変わってしまい、なかなか進みません。

「だから、原理原則に則って行動するとロクな事にならないんだ。昔ある女の子がおれに『名誉にかけて本当のことを言って、私よりキャロラインの方が美人?』と聞くから、名誉は大事だという原則に則って、『そうだな、少しだけ』と答えた。そうしたら、彼女はすごく怒って、二度と口をきいてくれなくなった。今回は、総督に対する義理と言う原則に則って木曜まで残ったら、これだ。」と愚痴るジャック。(女の子の話は、原理原則の問題ではないと思うけど…)

「神に順風を祈っていいものだろうか?」「さあ?カトリック的にはもちろん大丈夫だが、英国教会的にはどうなんだろう。マーティンに聞いてみないと。」「彼がここにいたらいいのに…というより、我々が彼らのところにいたらいいのになあ。」

二人の会話を立ち聞きしていた給仕助手のグリムショーは、「マーティンって誰だ?」とキリックに訊きました。(グリムショーはキリックたちの昔のシップメイトで、たまたまジャワにいたので昔のよしみ乗艦することになった人。)「そういや、お前は知らなかったな。ミスタ・マーティンは元牧師で、主教の女房と何かあってクビになって、今はサプライズ号の軍医をしている紳士だ。」キリックは、ディアンヌ号が東に、サプライズ号が西にそれぞれ向い、地球の反対側でランデブーすることになった経緯を説明しました。

「サプライズの連中は運がねえな。」グリムショーは言いました。「なんでだ?」「いいか?おれたちは日付変更線を西から東へ越えることになる。月曜の次は水曜で、何にもしねえで火曜の給料をもらえる。」「…ってことは、連中は東から西へ来る、つまり、月曜の次はまた月曜で、二日分働いて、給料は一日分ってことか?!そりゃすげえ!」この話はたちまち広がって、ナツメグ号の乗員たちを上機嫌にさせました。

私だったら、西から東へ越えて一日失う方が「損」をしたように感じるけど…ものは考えようってことね。まあ、何日得をしようと身体はそのぶん年をとるので、どっちにしろ同じなんですが。

ジャックは「神に順風を祈ることの妥当性」に確信が持てないまま、日曜礼拝では「各員は、順風が吹くように、神に願うというのではなく、謙虚に望むのはかまわない」という、微妙なことを言いました。

すると、案の定というか…「祈りの効きすぎ」で翌日からはすごい暴風になりました。危険な海域ゆえ、帆を取り込んだり漂駐したりで、余計に進めなくなりました。

ジャック、オークスとミラーとフォアトップマンのコンウェイを士官候補生に昇進させる

嵐がようやく止んだ頃、ジャックは副長と相談して、オークスとミラー、それに前から目をつけていた優秀な若い水兵コンウェイを士官候補生に昇進させました。ジャックがオークスとミラーを降格したのは、このためでもあったのですね。水兵と士官候補生の間には大きな壁があるので、水兵がひとりでいきなり昇進し、昨日までの仲間の上官になることはたいへんだから。三人一緒に昇進させることでソフトランディングするのですね。

ジャック、今の状況ではコルネリー号に追いつけないと言う

その夕方、スティーブンが「久しぶりに音楽でも」とジャックを誘うのですが、ジャックは落ち込んでいました。「そんな気分になれない、今弾いたら、何でも葬送曲みたいになってしまう。航海長と海図を調べたら、判断を誤ったことがわかった。モンスーンが通常通り吹いてくれることを前提に考えたコースだったが、ちっとも正常に吹いてくれなかったから…別のコースをとるべきだった。我々を足止めした嵐は、コルネリー号を進めていたはずなんだ。予定の場所に先回りして、コルネリー号を待ち伏せるのは無理だ。

「追いつけたとしても、後から追うのではとても勝ち目はい。こっちは砲の数も少ないし、…いきなりカロネードの射程距離まで近づいて奇襲をかけないと。」「向こうには火薬がないかもしれない。」「…いや。確かなことではないから、それを前提に計画を立てるわけにはいかない。とにかく、追いつけるように努力して、あとは状況に合わせて考えるしかないな。」

翌朝からナツメグ号は、コルネリー号がいると予想されるところへ向って総帆を張り上げて急ぐのですが…