Chapter 9-2 〜 パディーン


馬車が角を曲がって消えるのを見送った後、スティーブンとジェミー・ダックスは、黙ったままとぼとぼと歩いて行くのですが…ジェミーは打ちひしがれて、誰にともなく「…それも、こんな土地に!」と、つぶやいているのでした。

スティーブンはジェミーに金を渡して、「これで一杯飲んでくれ」と言ってそこで別れ、「こうするのが正しかったのだ」と自分に言い聞かせながら艦に戻るのでした。

アダムス、書記から囚人全員の消息を引き出して帰ってくる

彼が艦に戻ると、アダムスが「書記に会って来た」と報告に来ました。

「帰り道に、ジェミー・ダックスが飲みながら大泣きしているのを見かけたのですが、何かあったのですか?」「女の子たちを孤児院に連れて行った。」「こんな土地で?…いえ、もちろん、ドクターの方がこういう事はよくお分かりなのだと思いますが…余計な事を申しました。えー、書記のペインターですが、リストの囚人全員の居所をすぐに突き止めてくれました。しかし、良いニュースばかりではないのです…」サプライズ乗員の友人たちの中には、無事にやっている者、刑期を追えてここを去る許可を得ている者もいましたが、ここへ来る航海の途中で死んでしまった者、ここに来てから死んだ者、脱走して荒野をさまよい飢え死にした者、脱走に失敗して、さらに酷い懲罰植民地であるノーフォーク島という孤島に送られた者も…

「コルマン(パディーン)については、残念ながら酷い扱いを受けてきたようです。何度も脱走を試みて…最後に脱走した時は3人のアイルランド人と一緒で、連中は『北へ向かえば川があって、川を越えればそこは中国だ。人は親切だし、英国に帰る貿易船に乗れる』と聞いていたらしく…」(…涙。誰だ、そんなとんでもない大嘘をこいたのは〜)

「彼らは、飢え死に寸前で賞金目当てのアボリジニに捕まって連れ戻され、一人は鞭打ちの間に死にました。コルマンは200回の鞭打ちを2度生き延び、その後、懲罰植民地に送られる予定でしたが、ドクター・レッドファーンが『そんなことをしたら死んでしまう』と言ってとりなしてくれて、近くの農場に送られることになりました。」

「しかし、その農場はマーズデン牧師のものなのです。このあたりでは『掠奪牧師(Parson Rapine)』と呼ばれている男ですが…鞭打ちが大好きで、特にアイルランド系カトリックの囚人を憎んでいる牧師なので、ペインターの話では、そこへ送られたら彼は1年ももたないだろうと言うことです。」

「彼は今はどこに?」「ドクター・レッドファーンの病院です。」「ドクター・レッドファーンとは?」「われらがドクター・レッドファーンですよ。ノアの。海軍軍医で、反乱の時水兵たちに団結を呼びかけ、軍法会議で絞首刑を宣告されました。ここへの流刑に減刑され、後で恩赦を受けましたが、残って病院で働いていらっしゃるのです。ここでは一番の医者です。囚人たちに親切で、みんなに好かれています。」

ノアの反乱とは、1797年にノア錨地(ドーバー沖)の艦隊で起こった大規模な反乱のこと。この反乱の顛末については、J・ストックウィンの「トマス・キッド」4巻 "Mutiny"で読むのがいちばん詳しくて面白いと思うのですが…翻訳まだでしたっけ。

「ミスタ・アダムス、ありがとう。君でなければ、これほど首尾よく情報を手に入れることはできなかっただろう。それに、ここにもドクター・レッドファーンのような人がいるとわかってよかった。」

スティーブン、パディーンのことを心配する

その後、上陸していたマーティンがポールトンの原稿を持って帰ってきました。スティーブンは1ページだけ読んでみて、結構良さそうだと思いました。「落ち着いたら私も読んでみたい。しかし、今はとても落ち着いているとは言えなくて…パディーンのことが心配なんだ。」彼はマーティンに、アダムスが持ってきてくれたパディーンの書類を見せました。そこには、この流刑地に来て以来パディーンに課された残虐な刑罰の数々、鞭打ちの数や独房で過ごした日数、つけられた枷の重さなどが、まるで帳簿の数字のように事もなげに列記されていました。「何てことだ。200回の鞭打ち…なんて非人間的なんだ。」「ここは非人間的な土地なんだ。」

「彼を鞭打ち牧師のところへやるわけにはいかない。書記を買収してポールトンの農場へ送るようにしたいのだが…受け入れてくれるようにポールトンに頼んでくれないか?私自身が会いに行くかどうかは、まだ迷っている…動揺するかもしれないし、私が会いに行くと彼にいらぬ注目を集めるかもしれないので…」

サラとエミリー、孤児院を脱走する

さて、翌朝のこと。スティーブンが起きてガンルームに行くと、プリングズがいました。「ドクター、おはようございます…昨夜の騒ぎをご存知ですか?」「いや…」

「夜中に、女の子たちが戻って来たのです。(※注:サプライズ号は現在埠頭に横付けしているので、ボートなしでも出入りできる。)フォアトップに駆け上がって、捕まえに行こうとした士官候補生にものを投げつけて『私たちは絶対にお船から離れない』と叫んでいました。その後、二人は服を脱ぎ捨てて、クロスツリーまで登って行きました。暗い中で二人が見えなくなってしまったので、念のため防御ネットを張りました。それで、まだそこにいるんです−木に登ったまま降りられなくなった猫みたいに。ジェミー・ダックスは酔いつぶれているし…ボンデンを捕まえに行かせましょうか?」「いや、それには及ばないだろう。私も若い頃は、木の上の猫を降ろしてやろうと梯子を登ったりしたが…いつも、もう少しで手が届くというところで、猫は勝手に降りて来るんだ。のどが渇くか、おなかがすいたら降りてくるさ。」

サラとエミリーは、しばらくクロスツリーにしがみついたまま、「絶対マストから降りない、ずっとお船にいる、孤児院の女の子たちはみっともない間抜けばっかり」などと叫んでいたのですが、そのうち静かになったかと思うと、エミリーが叫びました。「…おーい、デッキ!ヘッドに行きたいよう!サラも!おおいそぎ!」

みんながスティーブンの顔を見て、彼は言いました−「ヘッド(トイレ)に行ったら、すぐハンモックへ行って寝なさい。もう陸へはやらないから。

この時から、サラ&エミリー・スウィーティングス姉妹(<本当は姉妹かどうかわからないけど)は、スティーブンが保護者として末永く面倒を見ることが決まったのでした。スティーブン、保護する対象がどんどん増えてますね。ま、それはある意味、幸せなことではないかと…

パディーンはポールトンの従兄弟の農場へ行くことになる

その後、早速ポールトンのところへ話に行ってくれていたマーティンが戻って来て、彼はパディーンを引き受けてくれたと言いました。しかし、ポールトンはロンドンへ帰る資金ができるまであと1年はここにいなければならず、その間にここでの立場が悪くなると非常に困るので、少なくともその間はパディーンが逃亡しないように約束して欲しい、と条件をつけているそうです。

スティーブンはしばらく考えた後、「それは約束できない」と言いました。「しかし代わりに、彼がロンドンへ帰る費用を提供しよう。」(<ひょっとして、逃がす気満々?)

さて、サプライズ号は装備のため1ヶ月以上ここに滞在することになっているので、スティーブンとマーティンは二度ほど観察旅行に出かける予定でした。その旅行のため、馬を調達しに上陸したスティーブン。商談をまとめて帰る途中、ジャックに会いました。相変わらず非協力的な工廠が資材を出し惜しむので、ジャックはお疲れ気味のようです。

スティーブンはジャックに女の子たちが戻ってきたことを話し、「乗せていてもいいか」と訊きました。「全然かまわんよ。前回ここに来た時、君が艦に乗せたものよりずっといい。おれの帽子を食べたウォンバット、覚えているかい?」ジャック、ウォンバットのことは相当根に持ってるみたい(笑)。何かって言うと引き合いに出しますね。

スティーブン、パディーンに会いに行く

スティーブンはサラとエミリーのことを謝りに、再び総督夫人を訪ねましたが、あいにく夫人は体調が悪いようでした。で、夫人を診察に来ていた、例のドクター・レッドファーンに偶然会ったスティーブン。二人は丁寧に挨拶を交わしました。「ドクター・マチュリン、お会いできて光栄です。何かお役に立てることはありますか?」「あなたの病院にいる、パトリック・コルマンという囚人に面会したいのです。」

レッドファーンはスティーブンを病院に案内してくれました。「…背中は治ってきているのですが、鬱状態に陥っていて、食事を拒否しているのが心配です。あなたの訪問が慰めになるといいのですが。」

病棟の片隅のベッドに、パディーンはうつぶせに寝ていました。レッドファーンがシーツをめくって、「ほら、皮膚は治ってきています。骨はほとんど覆われました」(骨が出るほど鞭打ちされたのか。酷い…)

スティーブンは海軍軍医として、鞭打ちはたくさん見てきましたが、これほどひどい状態を見たのは初めてでした。しかし、彼がショックを受けたのは背中より、パディーンがあまりに痩せてしまったことでした。彼は大柄でたくましく、13から14ストーン(82.5kg〜89kg)ぐらいはあったのに、今は8ストーン(50kg)あるかないかに見える…

パディーンって、映画では2メートル以上あったよね。原作ではそれほどないにしても、でも185から190ぐらいはあるはず。それで50kgって…(涙)ほとんど骨と皮、いや骨そのもので、頭なんか骸骨のよう。「動かなくていい。」スティーブンは彼の背中にやさしく手を当て、耳元で囁きました。「神と聖母が君と共にありますように。」

「あなたにも、神と聖母と聖パトリックが共にありますように、ドクター。」パディーンは夢見るようにそう言って、目を開け、微笑みました。「来てくれると思っていました。(I knew you would come.)」

「パディーン、マイディア、君はもっと親切に扱ってくれるところに移される。そこにまた会いにゆく。必ずまた会いに行くから、それまで、できるだけ食べるんだ。聞いているかい?パディーン、その時まで、神と聖母が君と共にありますように。」

……
………
…………(ぐすん)

すみません、泣いてしまいました…

ああ、パディーン…「来てくれると思っていた」なんて。「ドクターが来てくれる」って、ずっと待ってたのかなあ(泣) スティーブンも、もっと早く行ってやれよ〜。

いや、簡単には行けないというのはわかっていますが…(簡単に会いに行けたら流刑地にならない)スティーブンも、ずっと気にかけてはいたと思いますが。

スティーブンは自分でも信じられないほど心を動かされて、病院を後にしました。艦に戻っても、なかなか動揺がおさまらず…