Chapter 5-1 焼け跡


5章についてひと言。スティーブンのファンの方々は、覚悟して読んでください。…て、私自身が熱烈なスティーブンファンであることはご存知の通りなんですが…(悲)

告白すると、私は愛するキャラクターが酷い目に遭う話は、嫌いじゃないっていうか、むしろ喜んで読むほうです。(サドっ気があるというか、いやむしろマゾっ気か?…えー、それはともかく…)

とにかくそういう私でも、5章はさすがに胸が痛すぎて、ぜいぜいと息を整えながら休み休み読まなくてはならなかったほどでした。3巻3章ではスティーブンの拷問シーンをはっきりとは書かなかった奥ゆかしいオブライアン氏ですが、ここでは(肉体的でなく精神的な苦痛であるせいか)ほんと、容赦ないし。

ロンドンに着いたスティーブン、まずグレープス亭を訪ねる

スティーブンはダイアナのことがあまりに心配だったので、ハーフムーンストリートの家に直接行くに忍びず、まずグレープス亭で身支度を整え、ミセス・ブロードに様子を訊く事にします。(彼女はダイアナと仲良しなので)

余談:「グレープス亭」の正式名は「The Bunch of Grapes(ひと房の葡萄)」だそうです。地図をお持ちの方は、現在の「サボイ・ホテル」の西側あたりをご覧下さい。(架空のパブです)

彼は考えに沈み、ぼんやり歩いていたので、グレープス亭があったところに見るも無残な焼け跡しか残っていないことに気づいた時のショックは大変なものでした。彼はあたりを見回し、それが確かにグレープス亭の焼け跡であることを確認。どうしていいかわからないまま佇んでいると、ミセス・ブロードの代わりに、仲良しの近所の肉屋の犬がすり寄ってきて彼を迎えました。

犬につられて出てきた肉屋が(「こいつがあんなにじゃれているなんて、あなただと思いましたよドクター」)、状況を説明してくれます。グレープス亭は、サプライズがジブラルタルを出航する頃に全焼しました。幸い、ミセス・ブロードたちに怪我は無かったのですが、保険会社が支払いを渋っていて再建できず、ミセスはサセックスの友人のところに身を寄せているそうです。

スティーブンは長く英国を離れるときも、新婚時代さえ、グレープス亭に借りている自分の部屋は手放しませんでした。ここは、ほとんど拠点をもたない彼の拠点、彼の家のようなもの。だから、部屋に置いてあった貴重な標本や本が燃えてしまった事も痛いけど、精神的ショックはそれ以上のものがあったでしょう。

スティーブン、次にハーフムーンストリートにダイアナを訪ねる

ところが、彼のショックはこんなもんでは終わりませんでした。ハーフムーンストリートの家に行った彼は、ポーターに「ミセス・マチュリンはもうここには住んでいません」と言われます。

グレープス亭の全焼があまりにショックだったので、ダイアナがそこにいなかったという事実はかえってショックが小さかったというか、実感として理解できなかったというか、とにかく「何か理由があるのだろう」と落ち着いて受け止められた彼ですが…

スティーブン、クラブに行く。ダイアナの置き手紙がある

グレープス亭にも、ハーフムーンストリートの家にも泊まれなかった彼は、仕方なくめったに来ない所属クラブの「ブラックス」に足を運びます。するとそこに、彼の新しい制服の箱と、手紙が何通か届いていて、その中にダイアナからの手紙がありました。(この手紙については、内容を伝えるには長めに引用する以外にないので、そうします。)

「あなたは考えてみるべきだった、愛人である赤毛レディを、ごまかしもせずに堂々と、地中海中を見せびらかして歩くなんていうことをしたら、私がそれを自分に対するあからさまな、直接の侮辱とみなすだろうということを。スティーブンがこんなに下劣なことをするとは思わなかった。一時の気の迷いでそうしたとしても、弁解すらしないとは。少なくとも信じるふりのできるような言い訳すらないとは。少しでも自尊心のある女なら我慢できない。レディ・ネルソンだって、私よりずっとずっと従順な女である彼女だって、これには怒っただろう。正直に言えば、自分はスティーブンを信じていた。いろいろ欠点はあっても、絶対に絶対に下司のような真似をする人ではないと。普通の男なら、情熱が燃え尽きた後にはこういう事をするのはよく分かっていたが、スティーブンは普通の男と違うと思っていた。彼の今までの親切は決して忘れないし、いくら怒っていても、友人としての気持ちはなくならないが、今となっては、教会で結婚したのでなくてよかったと心から思う。」

その後に、少し時間を置いてから書いたらしく、ずっと落ち着いた調子で「私を冷たいと思わないでほしい」とあり、その後に追伸で「スティーブンが出発した後に制服が届いたのでクラブに届けておく、英国は寒いから暖かい下着を着るように、制服の上と下にちゃんと何か着るように」

(この手紙に対する彼の反応も、そのまま引用するしかないので…)「彼女を冷たいとは思わなかった−傷つけられたと誤解して空へ逃げてしまった隼を冷たいと思わないように。(9巻5章参照)しかし、彼の心は深く傷つき、彼は嘆いた。…彼はしばらく手を握りしめたまま、身体を前後に揺らしていた。」

ダイアナは、ヤゲロと駆落ちしてスウェーデンに行ったのです。今までにダイアナがやった様々な無茶の中でも、これは一番破滅的だ、とスティーブンは思います。ダイアナよりずっと年下のヤゲロは、前から彼女に憧れていた−というか懐いていたのですが、彼は顔が可愛いだけでのまったくのバカだし(と、スティーブンは思っている)、ダイアナがどう思おうと彼女とスティーブンが正式な夫婦であることには変わりないので、ヤゲロと結婚はできない。そんな状態で、スウェーデンの上流社会が彼女を受け入れるわけがない…

5年後の彼女の運命を考えて、彼は心配のあまり胸がむかつくほどでした。唯一の救いは、彼女は誰も頼らなくていいだけの財産を持っていることだ。しかし、それもあまり当てにはできない−彼女はちゃんと財産を残しているだろうか?後で彼女の管財人のネイサンに訊いてみよう…

スティーブン……… >_<;;;

(思わず、使ったこともない顔文字を使って私の気持ちを表現してみました)こんな状況で、むちゃくちゃ傷ついて、悲しみのどん底に沈み込んでいるのに、なんでまず相手の将来なんか心配できるのよ、このひとは〜(涙)。それも、財政状況を現実的具体的に心配してるし。おかしいよこのひとは。

「優しい」とか「強い」とかも思うけど、そんな言葉ではとても足りないので、「おかしい」が一番ぴったりくる。

それと…熱烈なスティーブンファンとしては、ダイアナに対して「スティーブンに対して何てひどいことをするんだこの女は、きぃぃ〜」となってもおかしくないと思うのに、なぜかそういう気にもならないのですよね。彼女の行動はいつも、考えた末というより単なるその場の勢いで、自分の利益にも幸せにもちっとも繋がっていないからでしょうか。

スティーブン、ダナエ号で見つかった金を身につけているのを思い出す

話は変わりますが−10巻で、サプライズ号が奪還したダナエ号から回収した真鍮の箱がありましたよね。出所の怪しい莫大な金額の紙幣が詰っている箱です。

スティーブンはこれを海軍省に返そうと、体に巻いた包帯の下に身につけて上陸したのですが、ショックの連続ですっかり忘れていました。今ふと思い出し、悲しみからの逃避としてそのことを考えはじめ、サー・ジョセフに「至急お会いしたい」とメモを書きます。彼は自分の手が震えているのに驚き、まともな字になるまで何度も書き直し、クラブのボーイに届けさせます。シェパーズ・マーケットにあるサー・ジョセフの自宅はすぐ近くなので、「6時半以降なら会える」と返事がすぐに返って来ました。

ジャックが来て、スティーブンにパルマーの情報を教える。スティーブン、ジャックにダイアナのことを話す

その時、クラブにジャックが入ってきました。「やあスティーブン、ここにいたのか。グレープス亭のことは聞いたか?ひどいことだなあ。なあ、大事な話があるから聞いてくれ。」

ジャックはスティーブンに、パルマーの株リストのことを教え、至急買うように薦めます。友達を大儲けさせてあげられるのが嬉しくてニコニコしていたジャックですが、やがてスティーブンの顔色が悪いのに気づき「何かあったのか?座れよ、ブランデーを持ってくる。」「ダイアナがスウェーデンに行ってしまった。」その意味を理解したジャックは、何と言ったらいいのかわからず、気まずい沈黙が落ちました。

「ダイアナはローラ・フィールディングが僕の愛人で、僕が地中海中を堂々と見せびらかして歩いていると思ったらしい。そう見えたか?」「だいたいそう思われていたようだな」「しかし、説明した手紙を送ったんだが…」彼女はレイに託した手紙を読んだのだろうか?読む前に出奔したのだろうか?後でレイに確かめなければ。

パルマーのリストについて、スティーブンは「情報源について調べたのか?」と聞くのですが、ジャックは「彼は大丈夫」と言います。スティーブンは「ジャックを騙しても益がないし、教えた男自身が間違えていたとしても、ジャックの手には株券が残るから値下がり分以上の損はしないだろう」と考えて、そのことは追求しないことにします。

ジャックは株を薦めただけで、「戦争が終わるから」とは言っていないので、スティーブンは彼がただ「この株が上がる」という情報をもらっただけと思ったのでしょう。他の時だったら、スティーブンはもっとちゃんと問い質して適切なアドバイスをしただろうけど、こんな時だったから…タイミングが悪かった。

スティーブン、レイとネイサンを訪ねるが留守。スリに遭う。

サー・ジョセフとの約束まで時間があったので、気になっている事を聞くため、スティーブンはレイとネイサンを訪ねます。レイには、ダイアナが出奔したのはレイに託した手紙を受け取った後だったのかどうかを、ネイサンには、ダイアナの財産状態を。

二人とも留守でした。(レイはスティーブンが借金を催促に来たと思って居留守を使っているのかもしれませんが。)ロンドンは雨が激しくなり、ネイサンの弟(やはり銀行家)は馬車を呼ぶと言い、スティーブンが強硬に辞退すると、彼の手に大きな傘を押し付けました。兄がダイアナの管財人をしている彼は、もちろん彼女の出奔を知っている。この立派な傘は同情のしるしだろう−と、スティーブンは苦い気持ちで考えるのでした。

人ごみの中で、重くてかさばる傘に悪戦苦闘していた彼は、いつのまにかスリにやられ、道を掃除している少年にチップをねだられた時にポケットに一銭もないことに気づきます。(皮肉なことに、彼は莫大な金額を身につけているのですが…それは手軽に取り出せない。)チップをもらい損ねた少年に「Whoreson old cuckold(※)」という、偶然とは言えあまりに急所をえぐる罵言を浴びたスティーブンは、精神的にボロボロ状態でサー・ジョセフ邸に到着したのですが…

※ 直訳すると「売春婦の息子(私生児)の寝取られ男」。まあ本来は「このしみったれヤロウ」という程度の、意味のない一般的な罵言なのですが…