Chapter 5-3 海軍省


スティーブン、再び海軍省を訪れる。無礼な男に迎えられ、キレる

海軍省でスティーブンを迎えたのは、最近入った事務官のリュイスという男でした。実に横柄な男で、開口一番「10分遅刻だ」言い、スティーブンが前日に何の説明もなしに1時間以上待たされたと言うと「海軍次席事務次官は訪ねてくる者に誰彼かまわず会っているわけにいかない」と言ったり。この『誰彼かまわず』で、既にかなりカチンときたスティーブン。

スティーブンが「ダナエ号の事を知っているか」と訊くと、リュイスは「何もかも承知している」というふりをするのですが、実は全然わかっていないのはスティーブンにはお見通し。リュイスはスティーブンに対して優位に立とうとしている様子で、何の話か聞きもせずに、「英国に入国していたのなら、なぜ即座にしかるべき責任者に報告しなかったのか」と訊いてきます。「それは質問と言うより、叱責ですね。私は叱責を受けに来たのではありません。」もともと機嫌が悪いところにもってきて、既にかなり危険水域に達しているスティーブン。

それでも、サー・ジョセフの警告で、無礼な態度で迎えられるだろうということは覚悟をしていたはずなのですが…彼が一気にキレたきっかけは、リュイスの「いいか、君が余分な金をせびろうと思って来たのなら…」という言葉でした。

「何ということだ、この無知無能の、生っ白いXXめ、私が雇われたスパイだと思っているのか?密告者だと?私にボスが、雇い主がいるとでも?この間抜けな小物め。(Christ's blood in heaven, you ignorant incompetent whey-faced nestlecock, do you think I am a hired spy, an informer? That I have a master, a paymaster, for God's love? You little silly man.)」(注:XXのところは、別に放送禁止用語ではなくて、単に"nestlecock"という罵言を何て訳したらいいかわからなかったので。ようわからんけど、相変わらず罵言のボキャブラリーは豊富なスティーブンです。)

そう叫ぶと同時に、彼はリュイスの鼻を強くつまみあげ、右に左に激しくぶんぶん振り、手についた鼻血をリュイスのネッククロースで拭いてから「私にご用の際はブラックスへどうぞ。」と言い残して去って行きました。

いやー、キレたスティーブンって…素敵だなあ。いやほんと、痺れました。

スティーブンがキレるなんて珍しい。いや、内心ではよくブチキレますが、外は冷静なまま内に怒りをためこんでいることが多いような気が。こんなにダイレクトに感情を爆発させたのは初めてじゃないかな。いいのです、たまには怒りを爆発させたほうが精神衛生によろしい。

スティーブンがここでキレたのは、個人的に侮辱されたこともあるけど−自分が命を危険にさらし、いろいろ犠牲にして尽くしてきた諜報組織が、こんなバカモノたちによって崩壊しようとしているのがたまらなかったのでしょう。ほんと、いろいろ犠牲にしてるから…爪とか、結婚生活とか(泣)。

ちなみに、ケンカした後に連絡先を教えるのは、「決闘を申し込みたいならそこへ連絡しろ」という意味。1巻1章でもスティーブンがジャックに宿の名前を言っていましたね。紳士のたしなみ、かな。

サー・ジョセフにこのことを話すと、やはりリュイスが嫌いな彼は快哉を叫び、彼は決闘を申し込むようなタイプではないと断言しました。スティーブンはほっとします−いえ、決闘そのものが嫌だというわけではなくて、決闘するとなるとジャックに介添えを頼まないといけないので、彼が家に帰るのが遅れるから気の毒だという理由ですが。

スティーブンはこれらのゴタゴタを一切ジャックには話さず、ただ皇太子の誕生日謁見に出なければならなくなったので先に家に帰ってくれ、と言いました。ジャックは「わかった、でも後からすぐに来てくれよ」と言って、ようやくアッシュグローブへ向うのでした。

スティーブン、皇太子の誕生日レセプションに出席する。

自己防衛手段として「ぼくには偉い友達がこんなにたくさんいるんだぞー」と誇示するため、嫌々出席したスティーブン。会場には英国中のお偉方が全員集合。サー・ジョセフも、レイも、バローも来ています。

もちろん皇太子の弟であるクラレンス公爵も来ていて、スティーブンに親しく声をかけました。王子は、病気の時に手当てしてくれたドクターを命の恩人だと思っています。第一海軍卿メルヴィルの弟、ヘニッジ・ダンダスも来ていて、スティーブンに挨拶します。

スティーブンの父方の親戚であるフィッツジェラルド家(アイルランドの名門)の面々も来ていました。彼らは『アイルランドの古い伝統に従って、彼が私生児であることをほとんど気にしていない』そうで、やはり親しく声をかけてきます。

ここを読んだ時、ちょっと嬉しかったのです。ここまで、スティーブンと父方の家族の関係がよくわからなかった。彼は幼い頃に両親を亡くしてから、母の祖国カタロニアで育っているし、主な保護者は母方の親戚である名付け親だったようなので、基本的には母の家族に属しているように思われます。でも英国では父の姓である「マチュリン」を名乗っているし、アイルランドの大学に行っているし、子供時代の一時期をアイルランドで過ごしたようなので、少なくとも何らかの形で父の親戚に「認知」されているのは確か。でも、私生児なので、どういう扱いを受けているのかな…と思っていたので、こうして従兄弟たちと仲良くしているのを見ると、なんとなくほのぼのした気分です。スティーブン、最近ろくなことなかったし…

さて、彼を観察していたバローとレイは、スティーブンが多くの重要人物と親しいのを見て感心した様子。彼はここに来た目的を果たしたわけです。レイが挨拶に来て、借金の返済が遅れいていることを謝ったので、スティーブンはレイに「内密で話したいことがある」と言い、一緒に彼の家に行くことになります。

スティーブンはレイを医者の目で観察し、彼が老け込み、顔には吹出物ができているのに気づきました。あきらかにストレス障害。彼は、借金で追い詰められているのでした。いい気味ですが…

ハート提督の死後、彼は妻が相続した莫大な財産を自由にできるはずでした。しかし、ハートはいかなる法律のマジックを駆使したのか、当時としてはまずあり得ないことに、娘の財産を彼女自身と彼女の生む子供しか使えないよう、がっちり押さえていたのでした。ハートが生前にしたことの中で、これは最も賢い行動と言えるかも。でもそれを秘密にして、財産で釣ってレイを娘婿にしたのはあんまり賢くなかったな。海軍の偉いさんであるレイの影響力を当てにしていたのでしょうけど、結局その影響力で殺されてしまったのだから。

レイ、手紙を渡しに行ったらダイアナはすでにいなくなっていたと言う。スティーブン、ショックを受ける

スティーブンがレイに訊きたかったのは、彼に託した手紙をダイアナに「いつ」渡したのか、ということでした。レイは「わからないのです。私が手紙を持ってお訪ねした時、召使に『ミセス・マチュリンは外国へ行かれました』と言われ、手紙を預けて来てしまったので」と答えました。

ということは、ダイアナは彼の手紙を待ちもせずに出奔したことになる。彼女が、彼に弁解の機会さえ与えずに去ったのを知って、改めてショックを受けるスティーブン。それは愛情のかけらも感じられないやり方で、ダイアナらしくない−「彼が考えていた」ダイアナらしくない行動でした。ダイアナに対する最後の幻想を打ち砕かれた気がして、限りない孤独を感じながら、ふらふらと帰ってゆくスティーブン。

レイが嘘をついている可能性を、スティーブンが考えもしないのがもどかしい。確かに、レイにはここで嘘をついて得になることは何もないのだけど…純粋な悪意による嘘ってのもあり得るのだけどねー。スティーブンは、そこまでレイに悪意を抱かれいていると思っていないから。こういうことに鈍感なのは、彼にしては珍しいのですが、たてつづけのショックで鈍っているのかな。

「スティーブンがもし、彼の背中に向ってレイがにやにや笑いながら頭に角を生やすまね(「寝取られ男」を示すジェスチャー)をしているのを見たら、戻って正装用の剣で彼を殺しただろう。」見なくてよかったけど、私が蹴飛ばしてやりたい。ムカムカ。

実はレイも、ひとを嘲笑っていられる立場じゃないのですけどね。(<次の章でわかります)うーん、でも彼はホモだから、知っていてもそういう意味ではあまり気にしないかも…「恥をかかされた」とは思うかもしれませんが。

スティーブン、かなり落ち込んでいる

スティーブンがクラブに帰ると、バローから謝罪の手紙が届いていました。リュイスの態度を「不幸な手違い」と丁重に詫び、明日もう一度海軍省にご足労願いたい、と。

その夜、彼はサー・ジョセフに王立科学会の集会に誘われるのですが、あまりに疲れ果てていて出席する気になりませんでした。精神的にどん底で、博物学も諜報活動も、ナポレオンが今夜船に乗って攻めてきたとしても、もうどうでもいい…

そんな最悪の気分で(勿論アヘンチンキを飲んで)眠ったスティーブン。翌朝、グリーンパークからブラックバードがスティーブンの窓辺に来て歌を聞かせてくれますが(彼が落ち込んでいるのを察知して鳥が慰めに来たみたいでかわいい)、彼は落ち込んだままでした。

クラブの老人の一人が、「もうすぐ戦争が終わるそうだな」と話しかけるのですが、彼は興味なさそうに「国を動かしている人間がこんなに無能では、さっさと止めたほうがいいでしょう。」精神的疲労のあまり、なんか、何もかもどうでもよくなっているスティーブン。

スティーブン、また金を持って海軍省に行く。今度は丁重に迎えられる

また海軍省に行くと、バローとレイが手のひらを返したような丁重な態度で彼を迎えました。彼が高貴な方の友達と知ったバローは、先日のリュイスの態度を平謝り。

スティーブンは、もはやその真鍮の箱のこともどうでもよくなっているのですが、とにかく説明し、箱を渡します。莫大な金額の紙幣を見たバローは「大変な責任を背負い込んでしまった」と困惑しますが、レイは「私とレッドワードで適切に処理できるでしょう」と言うのでした。「この金の事を他に知っている人は?」「一人もいません。」…本当は、ジャックとサー・ジョセフが知っているのですけどね。

その後、レイがスティーブンにある任務を持ちかけます−それはサー・ジョセフの警告していた、フランス行きの任務でした。「フランス人女性諜報員が脱税で逮捕された。彼女は情報の中継点になっているので、早く釈放されなければ困る。スパイと疑われているわけではないので、ベテランの諜報員が賄賂を持参して工作すればすぐに釈放されるだろう。それをあなたに頼みたい」…

ここでフランス行きを依頼されるということが、どういう意味なのか重々承知しているスティーブンは…逆に、諜報活動に対する情熱が心に戻ってくるのを感じました。今朝まで、諜報部がどうなろうと戦争がどうなろうとどうでもいい気分だったのに。

命の危険が迫ると、憂鬱がどこかへ行ってしまって力が沸いてくる−生存本能ですね。スティーブンって破滅型に見えるけど、実は生存本能高い人だと思う。サバイバーです。

スティーブンは落ち着き払った態度で「そういう事情でしたら、急ぐことはないでしょう。これから田舎に行くので、ゆっくり考えます」と答え、海軍省を後にするのでした。