Chapter 8-2 裁判


スティーブン、急いでロンドンに帰りギルドホールの裁判所に行く

無事、サプライズ号を買い取ることに成功したスティーブンは、彼女をシェルマーストンという別の港に運ぶ仕事をプリングズに任せて、急ぎロンドンに戻ります。ジャックの裁判が結審する予定で、スティーブンは法廷に出る予定はないのですが、ひょっとしたら最終日に呼ばれるかもしれないと言われていたので…

一昼夜ノンストップで馬車を飛ばし、翌朝早くロンドンに着いたスティーブン。クラブで着替えて早速シティの裁判所(ギルドホール)に行くのですが…時間の余裕を持って到着したにもかかわらず、別の裁判が行われているのでびっくり。訊いてみると、ジャックの裁判は前の日に終わってしまったそうです。

意外なことにすっかり慌ててしまった彼は、慣れないシティの街で、ベドラム(有名な精神病院)の門の前あたりをしばらく道に迷ってうろうろした後、テムズ川のボートを拾ってテンプルのローレンス弁護士の事務所を訪ねるのでした。

事務所を訪ねてみると、ローレンスはインフルエンザで寝込んでいるとのこと。しかし、ドクター・マチュリンが感染の危険を気になさらないのなら、家を訪ねて下されば詳しくお話する、と伝言がありました。

スティーブン、ローレンスを訪ね、裁判の様子を聞く

スティーブンがキングス・ベンチの家を訪ねると、彼は発熱とセキと鼻水でひどい様子でしたが、それ以上に弁護士として、人間として打ちひしがれているようでした。「結果はお聞きになりましたよね?被告全員が有罪になりました。マチュリン、私はあなたに、オーブリー艦長の法曹界に対する過大な信頼を壊すようお願いしましたね。しかし、どんな言葉を尽くすより、クインボロー卿とピアスが見事にやってくれましたよ。」

ローレンスの話によると…彼の経験でも、これほどひどい政治的裁判は初めて見た。急進派のオーブリー将軍を攻撃することが目的だったとしても、ここまでやる必要があったのかと思うほどだったということです。

以前から懸念したように、陪審員はすべてシティの商人で、金中心の価値観を持っている人々。ピアス検事はジャックが黒人女性とつきあって黒人の子供を産ませている、しかも彼はカトリックの司祭である(<ほんとはまだ司祭ではありませんが)ことを取り上げ、「ジャックは急進派で、かつカトリックの味方なのだろう」と決め付けました。

ここで、ちょっと横道にそれるような、それないような話ですが…

ピアス検事はサムのことを持ち出す時、「黒人の私生児がいる」という、まあ現代でも、スキャンダラスであるということは容易に想像がつく点ではなく、「息子がカトリックの司祭だ」という点を、より悪いこととして強調しています。実は最初に読んだ時、私はこれがあまりピンときていなかったのですね。この15年前にアイルランドで武装蜂起があったことと、この時代の英国では反カトリックの気運が強かったことは知っていたのですが、その二つが頭の中であまり結びついていなかったというか。

ところがごく最近、まつもとさんのサイト「dangerous shoals」(リンクページ参照)で当時のアイルランドの状況についていろいろ読ませていただいて、当時の英国におけるカトリックの立場とか、1798年の武装蜂起がいかに大変な悲劇であったのか、ようやくいくらかわかってきました…

クイーンボロー判事ほど極端でなくても、当時の一般の人々に反カトリック感情が高かったのは想像がつきます。「親カトリック派」だというレッテルを貼ることは、かなり強力な攻撃になったのではないでしょうか。ということは、スティーブンはどのみち証人には呼ばれなかったでしょうね…スティーブンが何を言っても、親友がアイルランド人でカトリックだということは、余計にマイナスポイントになったでしょうから…

判事のクインボロー卿、陪審員を有罪評決に導く

さて、ローレンスも予想していなかった攻撃としては、ピアスはジャックの航海日誌を入手し、そこからジャックが戦術として「ニセの旗を揚げて敵を拿捕した」ことを問題にします。彼は、そうやって財をなしたのだと。陪審員は海軍のことには素人なので、「戦闘開始までは、ニセの旗を揚げておいてもよい」という海軍のルールを知りません。それが他の艦長もやっている一般的な戦術なのを知らず、そこだけ強調されると、何かジャックが昔からずるい手を使って金を稼ぐことを常としていたような印象を受けてしまいます。後でローレンスが説明したとしても、一度受けてしまった印象と言うのはなかなか拭い難いもので…

続いてピアスは、ジャックが例の銀鉱の詐欺のせいで金に困っていたことを証明。(<これだけは、まぎれもない事実なのですが。)おまけに、父の仲間で唯一逮捕され、取引して検察側の証人になっている詐欺師のカミングズが、「オーブリー艦長は『もうすぐ戦争が終わる』と断言して株を薦めた」と、ウソの証言をします。

弁護側のローレンスは全力を尽くしますが、他ならぬ判事が公平を欠いた検察の味方なので、いろんな手で発言を妨害され、しかもインフルエンザのおかげでいまひとつ調子が出ない。(せめてローレンスが元気だったら…という気もしますが、考えてみれば、そうであったとしても結果はたいして変わらなかったかな。)

その間、被告席のジャックは、怒りより軽蔑をあらわにした目でじっとピアスを見ていました。落ち着いた、静かな様子で…どこか別の場所にいるような、冷めた表情で

判事のクインボロー卿は、陪審員を検察側に導くためにあらゆる手を使ってきました。一昨日の朝から始まった公判は、休みもなく延々と続けられ…ローレンスの弁護側証人がようやく呼ばれたのは、陪審員が疲れきってほとんど何も聞いていない夜半。証言中、陪審員はほとんど寝ていました。

「そういうことには、ルールがあるのではないですか?」「コロセウムにもルールはありました。剣闘士は、みんな剣を与えられていました。でも、戦う相手がカリギュラ皇帝なら、剣は鉛でできているのです。自分の法廷内では、判事は皇帝のようなものですよ。

結局、裁判は18時間もぶっ続けで行われ、終わったのは午前3時。翌日朝にはメルヴィル卿(第一海軍卿、ヘニッジ・ダンダスの兄)が呼ばれ、ジャックをできる限り弁護しましたが、陪審員は「第一海軍卿って誰?」という人ばかりで、あまり効果はなかったようです。クインボロー判事は、既に有罪が決まっているかのような、極めて不公平な総括で裁判を締めくくり、ローレンスはジャックに「最悪の事態を覚悟するように」と言い、ジャック静かにうなずきました。

陪審員は有罪を評決し、処罰の宣告は数日後に行われることになりました。私はごっちゃにして「判決」と呼んでいたのですが、陪審制をとっている国の裁判では、陪審員が決める「有罪か無罪か」の決定はverdict(評決)、判事が決める刑の宣告はsentence(判決、宣告)で、別々に出るのですね。

「評決が出た時、オーブリー艦長は落ち着いていて、私と握手して感謝の言葉を言ってくれました。私は何と答えていいか分かりませんでした。刑の宣告は20日に出る予定です。」「刑はどうなると思いますか?」「…罰金だけならいいと、心から望みます。」