Chapter 9-2 さらし台


さらし台(Pillory)」というのは、二つ合わせた板に三つ穴が開いていて、そこから頭と両手を出すアレです。ポール・ベタニーの出演した映画「ロック・ユー!」にも出てきましたね。あの映画でさらし台にかけられたヒース・レジャーにも、たしかに群集がなにやら投げつけていました。当時は死刑も含め、公開処罰は民衆の娯楽だったのですね。「ロック・ユー」は中世の話ですが、19世紀になってもそうだったようです。

スティーブン、マーシャルシーへジャックに会いに行く

さて、今度はジャックに会うつもりでマーシャルシー監獄に来たスティーブンですが、監獄内は騒然としています。海軍関係の囚人や仲間の船乗りたちが「勅任艦長がさらし台にかけられるなど、海軍全体に対する侮辱だ!」と抗議して集まっているので。スティーブンが、怒りに燃えた船乗りたちにあちこちで引き止められ、請願書に署名を求められながら、ジャックの監房へ行くと、キリックがぽつんと階段に座っていました。「まるで、彼の世界が崩壊したように」呆然として。

感情は言葉よりバイオリンで表す方が得意なジャックは、激しい曲調のフーガを弾いていました。スティーブンは曲が終わるのを待ってから、監房に入りました。

ジャック、サプライズ号の指揮を承諾するが、嬉しそうではない。

ジャックにひどく冷たい目で睨まれて、スティーブンは一瞬びっくりするのですが、彼だと分かるとジャックは表情をゆるめ、でもどこか堅苦しい声で−「ああ、君か。おれはてっきり…来てくれて嬉しいよ。ソフィーからサプライズ号のことを聞いた。心から感謝する。彼女を私有戦闘船として指揮できるのは、とても嬉しい。でも、スティーブン…君は本当に彼女を装備できるのか?おれは株で損をしたし、罰金を…」「不当な罰金だ。」「ああ。でも、泣き言を言っても仕方ない。罰金を払ったら、おれは一文なしだ。ほんの短い巡航でも、船を装備するにはとてつもない金がかかるんだぞ。」「遺産を相続したって言っただろう?」「ああ。でも、単なる形見分けかと…」「もっと大きな遺産だったんだ。大丈夫、僕たちはこの私営の戦争を、優雅に戦えるだろう。(We shall carry on our private war in style.)」

ジャックは表面上は落ち着いていますが、心の底は深く傷ついていて、サプライズ号のこともあまり慰めになっていないのがスティーブンにはわかり、せめてもの慰めにと思って、「それに、これは極秘だけど、まったくの『私営』というわけではないんだ。僕の仕事は知っているだろう?ちょっとした任務があって…」と言います。ジャックはその意味を理解し、礼儀正しくお礼を言いますが、心の傷には何の慰めにもなっていないのが見てとれます。

「…さらし台は、無実の人間には何の意味もない。ただ不快なだけだ−歯痛みたいに。歯痛の患者によく処方している、ぼく自身もよく使っている薬がある。これを飲んでおけば、ぼんやりした夢みたいにしか感じないだろう。」スティーブンはそう言って(多分アヘンチンキの)瓶を渡し、ジャックは「ありがとう」と言って受け取りますが、彼に飲むつもりがないことは二人とも分かっていました。

実のところジャックは、さらし台も、罰金も、名誉と財産を失うことも、あまり気にしていないのです…海軍を追い出されることに比べれば。それは彼にとって、自分の存在そのものをなくしてしまうようなもの。彼の目、彼の顔には、彼をよく知っている人にとっては、今までに見たことのない別人のような表情が浮かんでいました。

シティ(the City)について

さて、ここで「シティ」について少々。もともと曖昧な知識しかなくて、即席で調べただけの解説ですが…

一口に「ロンドン」と呼びますが、実は「ウエストミンスター市」と「ロンドン市」に分かれています。「ロンドン市(London City)」の部分は「シティ(the City)」と呼ばれ、ロンドンの発祥の地で旧市街。伝統的に商人の街で、国王の宮殿があり国の中心である「ウエストミンスター」とは一線を画した「独立都市」となっています。今では形式的なものですが、「女王といえどもロンドン市長の許可なくしてシティに立ち入れない」という伝統があるのは有名で、よくガイドブックなどにも書いてありますね。

「シティ」は中世から現代に至るまで、英国の、いやヨーロッパの金融・商業の中心として栄えて来ました。ジャックの裁判では、「陪審員はシティの人間だから、愛国心より金中心」というようにマイナスに描かれていますが、このシティの動かす経済こそが、軍隊よりずっと強い力で、大英帝国の屋台骨を支えてきたことには間違いありません。

そのシティの中心に、「王立取引所(Royal Exchange)」があります。ジャックはこの建物前の広場でさらし台にかけられることになります。ロンドンに行った時にここで撮った写真を、別ページに掲載しました。→王立取引所
残念ながらこの建物は1884年に再建されたので、当時のものとは違います。場所は同じですが。現在の取引所は別のところで、こちらの内部は2001年からショッピング・アーケードとして利用されています。

さらし刑執行の日、船乗りがシティを占拠する。

刑執行の日。宣告の後すぐに執行してしまえばいいものを、手違いで数日あいてしまったので、英国中に噂が広がっています。つまり、英国中の港に。この時たまたま、ドーバーの錨地には大艦隊が入港しており、しかもテムズ川を上って来るのにちょうどいい風と潮の加減。テムズの河岸に点在する階段から、日焼けした顔に長いピグテイルを下げた逞しい船乗りたちが、続々とロンドンに入って来ます。彼らの艦長たちが、彼らに快く休暇を与えたので。強制徴募隊まで、「脱走者を探す」という口実で集まっています。

彼らは荷車でバリケードを作り、王立取引所周辺の街路を封鎖します。株で損をした人が雇ったならず者のグループが、石を袋に詰めて集まって来ますが、ボンデンやデイビスなど、見るからに強そうな連中に「ここは船乗り専用だ。陸上者は立ち入り禁止」と凄まれ、すごすごと帰って行きました。(注:ボンデンは、映画のビリー・ボイド氏のせいで可愛いイメージができてしまいましたが、原作では海軍でも有数の腕っ節を誇る、でかくて強面の船乗りなのです。)

レイに雇われたプロの用心棒連中もやって来ますが、デイビスと彼の「さらに醜い兄弟たち」、口の利けない黒人の船乗り(懐かしい、1巻に出てきた人ですね)に追い払われ、いつものように刑を楽しむつもりで汚物を持って集まった、街の普通のチンピラたちも、水兵たちの迫力に気圧されて逃げて行きました。

デイビスは、ちょうど戦闘の前の時のように、口に細かい泡を吹いています。スティーブンがプラットに集めてもらった用心棒の拳闘士たちがさらし台の近くに集まっていたのですが、デイビスは彼らに近づいて、「あんたたちも、引っ込んでろ。あんたらをどうこうするつもりはねえが、でも、引っ込んでろ。」スティーブンは護衛は不要と判断し、合図して彼らを帰らせました。

ジャック、さらし台に向う

街全体の異様な雰囲気にすっかりびびっている看守たちは、妙に丁重な態度で彼を広場まで連れて行きました。

ジャックの目が光に慣れ、広場や道に集まった船乗りたちを見渡すと、水兵だけでなく、士官も集まっていました。スティーブン、バビントン、プリングズ、モゥエット、ダンダスはもちろん、パーカー(2巻)、ローアン(8巻〜)、ウィリアムソン(8巻〜)、ハーヴェイ(3巻)…勅任艦長、海尉艦長、海尉、准士官、候補生。かつての同艦仲間、ほとんど名前を覚えていないような昔々の知り合いまで。水兵と違って彼らは、ここに来ることで、次の仕事が危うくなる可能性が大いにある。彼らは、自分たちのこれからの海軍でのキャリアを棒に振る覚悟で来ているのです。

この章の最後の文章だけは、そのまま引用させて下さい…

…そして木枠の上半分が降ろされ、彼の無防備な顔を拘束した。彼はボルトが音を立てるのを聞き、水を打ったような静寂の中、力強い声が叫んだ。「脱帽。」ひとつの動作で、何百というつば広の防水帽が一斉に取られ、声援が始まった。彼が戦闘のときに、数え切れないほど何度も聞いた、猛々しい、朗々たる声援が。
(...and the upper half of the wooden frame came down, imprisoning his defenceless face. He heard the click of the bolt, then in the dead silence a strong voice cry "Off Hats." With one movement hundreds of broad-brimmed tarpaulin-covered hats flew off and the cheering began, the fierce full-throated cheering he so often heard in battle.)